2019年03月11日

五月一日に日本人は日の丸の旗を掲げるのだろうか?

もうじき平成が終わるらしいが、果たして新しい天皇陛下が即位される五月一日に日本人は家の前に日の丸の旗を掲げるのだろうか?
ふとそんな事が気になった。

かくいう僕はそもそもに日の丸の国旗を持っていないので、掲げようもない。
買うべきだろうかと思うのだが、国旗って何屋で売っているのだろう。白い布に赤い丸を書けば良い気もするが、白い旗なんかどこで売ってるのやら。何で日の丸を染めれば良いのやら。
まあ、Amazonで売ってるのだろうが。

普通の祝日にまで国旗を掲揚すべきとは思わないが、やはり元号が変わり天皇陛下が変わる日くらいは国旗は掲げるべきじゃなかろうか。
とは、思うものの、今のご時世、祝日に国旗を掲げている家ってまったく見なくなったし、うちだけ国旗を掲げるのも妙な気はする。

何だかその時点で妙な話ではある。
日本なんだから、天皇陛下の代替わりに国旗を掲げて敬意を表するのが少数派で、気まずさみたいなものを感じるなんて。
まあ、妙な話である。
ここは日本であり、日の丸は国旗である。

何だか昔は運動会なんかでも国歌って流れていたし、国旗掲揚ってあった気はするのだが、随分と長いこと国歌を聞かない。

南米を自転車で走っていた頃はやたらと君が代を歌っていた。暇があれば君が代を歌っていた。
アフリカの時は歌わなかった。
アフリカの時は2回目の旅行なので少々旅慣れていたから怖さも減ったということもあろうし、アフリカって割とどこでも人がいたので大声で何か歌うわけにもいかなかった。
南米はもう正に明日死ぬかもしれないって割と毎日思った。実際パタゴニアって無人地域を三日間かけて野宿しながら移動するのが普通だったから、なんかもう毎日が大冒険だった。
そういう意味ではやっぱりパタゴニアが一番楽しかった。

孤独になって君が代を歌う。
そんなの僕くらいのもので、他の人はそうじゃないのかもしれないが。
それでも、異国で一人きりになったとき、祖国を想ったものだ。
パタゴニアの暴風の荒野の中で君が代を歌うと、何とも美しいメロディーだと感じた。

最近の僕は割と孤独している。
一緒に暮らす人は出来たが、職場で友人と言えるほどの人はいない。別の店舗にはいるけれど。
人間関係ゼロってことはないが、今月末引越しをするのに、冷蔵庫を運ぶのを手伝ってもらう友人がいなくて困っている。引越し屋も三月末の引越しなんて、もう間に合わない。家具は少ないので問題はないのだが、少し難儀ではある。

パタゴニアの孤独は割と心地良いものだった。
死にたくはないけれど、何というか潔さみたあなものがあった。テントで眠る時、「ピューマが出て食い殺されませんように」なんて考えた。
高緯度なので夜は短かった。
暴風の中を延々と自転車をこぐ。
本当にそれ以外ない。街も人もいない。一時間に一台車が通るかどうか。ただ前に進み、疲れたら水を飲み、ビスケットなんかをかじった。
死にたくはないけれど、死んだって悔いがないような綺麗な孤独だった。
それで僕は日の丸を歌っていた。

今の孤独ははっきり言って随分と不快だ。
人間は腐るほど周りにいる。
しかし、僕は徹底的に孤独だ。
仮に明日重い病気になったら、妻以外で助けてくれる人は誰かいるだろうか。
気付いていないだけでいるのだろうか。
こんなに言葉も通じる、同じ国の人間が周りにいるはずなのに。

母国にいて、母国が遠い。
帰るべき、帰属すべき集団を感じられない、分からない。
日本最高とかっていうナショナリズム的な話じゃなく、単純に人間、生きている限り何かの集団に帰属しないとやっていけないし、日本、国歌ってのはやはり帰属すべき器であるべきだと思うのだ。
家族、血縁については故郷を離れるとやはり遠い。いずれ帰るべき場所かもしれないが、当面予定もない。何より故郷が姿を変えていくのが、どうも最近忍びない。故郷の町や景色もそうだが、友人、知人、すべてのものが変わってしまう。もちろん、自分も変わっているだろうから、変わってしまったものに対して文句など言えるわけもないし、不満などもない。ただ、変わってしまうと、僕の胸の中にある故郷、僕はどこに帰るべきなのだろうと思うのだ。

天皇陛下は毎日国民のためにお祈りをしてくれているそうな。
実は世界でも一番偉いらしい。神話の時代からの正当な血族って、世界で天皇陛下くらいらしい。
そんなに偉いのに我々国民のために毎日お祈りをしてくれている。
まあ、それが生まれついての仕事だからということもあるにせよ、それでも毎日、国民の安寧を願って生きている。
天皇陛下は日本のシンボルであり、政治的な実務はしないとはいえど、やはり天皇陛下は日本なのだ。

まあ、天皇陛下を敬愛しましょう、国旗を掲げましょうとは言わないし、実際、僕も国旗を買うかも未定ではあるのだが。
五月一日が何事もなくやってきて何事もなく過ぎてしまうってのは、歴史に対する敬意がないような気はする。

ま、そんなこんな。


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2019年02月20日

残りの人生と飛べない鳥のこと。

あくまで単なる順序の問題だと考えていた。
二十代でふらふらと山にこもり、自転車で異国を旅した。
そのことを人に誉められたり、すごいと言ってもらえることもあったが、言うなればそれは前借りで、知人には定年してから異国を自転車で旅する人もいる。
私の両親も定年を迎え、登山や旅行など娯楽を始めた。
先に苦労したからこそ、老後の貯蓄もあり余裕もある。
だから、自分の経験とは単なる順番の問題なのだ、と。

最近、残りの人生を考える。
ーー次はいつ旅に行くんだい?
私を知る人は聞く。
次に行くとしたら今度こそペンギンを見たい。
南米もアフリカもずいぶん南に行ったのにペンギンを見ることがなかった。ペンギンの生息地の近くも通り過ぎたのだが、過ぎてからペンギンがいることを知った。
そんなにペンギンが好きなのかと問われると、まあ、それなりには好きだ。ペンギンの小説も書いたことがある。
すこぶる好きかと問われると、それほどのものでもないとは思うが、動物園でも水族館でも必ずペンギンは見る。そうは言っても大抵の人がペンギンは必ず見るだろう。ゾウ、ライオン、キリン、ペンギンだろう。
そう考えればペンギンは大したものだ。ゾウ、ライオン、キリンと体が大きい。飼育費も随分かかる。ペンギンは小さい。たくさん魚は食べるので飼育費はそれなりにかかるらしいが。

残りの人生を考える話からどんどん脱線するが。
飛べない鳥と言えば、ペンギンだけじゃない。
ニワトリもこれまた実に立派な鳥だ。とにかく食べられる。美味い。安い。なんと残酷な話だろうとも思う。
ニワトリの祖先は東南アジアなんかに住むセキショクヤケイという鳥だそうだ。元々そんなに飛ばない鳥だったようだが、猫と同様人間に飼われることで種の保存を選択したのが現在のニワトリだそうな。

余談ついでに最近知ったのが、私がパタゴニアで見た鳥、やたらと速く走る大きな鳥はダチョウではなくパタゴニアに住む絶滅危惧種のダーウィンレアという鳥だったようだ。
少し離れたところを並走するように走ってきたのだがとにかく速くて大きかった。

飛ばない鳥というのは非常に素敵だ。

ーーー

さて、動物の肉というとアフリカだ。
アフリカの牛肉は実にまずい。品種改良されていない野生種に近いし、育て方もしっかり歩かせる。それで筋肉質で美味くないのだ。
まずいなどと言うと命に対して不敬ではあるが。少なくとも我々人間が食して美味いのは、やはり品種改良を重ねて牛小屋で育てられた牛の肉だ。
しかし、面白いのはアルゼンチンの肉は美味いということだ。アルゼンチンの牛も基本的に放牧なので固い。僕ら日本人が初めて食うと安い肉のように感じる。
しかし、アルゼンチンの肉はステーキで食べると非常に美味しい。日本人は霜降りが好きなので最初好みに合わないが、慣れてくると肉を噛む美味さがある。塩コショウをすりこんでやって波の付いたフライパンで焼くと実に美味い。

食とは理解だ。
大抵のものが最初は不味いと感じる。
例えば魚だろう。私は今も魚が得意ではないが、以前と比べると美味いと感じることが増えた。どうにも魚臭さというのがダメなのだ。それでも、食べている内に美味さというのをいくらかは理解してくる。海に近い町に行って新鮮なものを食うと臭くない。生の魚とは美味いものなんだなと、日本人のくせに大人になってから理解してきた次第である。
アルゼンチンの肉もそうで、初めは歯が折れるかと思ったものだが、食っていると良さが分かってくるのだ。
山の食べられる草にしてもそうだ。アザミの天ぷらなど、最初はただの草を食っているような感じなのだが、次第に美味く感じてくる。

ただ、アフリカの牛肉は最後まで美味いと思えなかった。
アフリカ、特にマサイ族にとっては牛は非常に大事なものだ。今でこそお金の方が大事かもしれないが、牛こそ彼らにとって最も大事なものだったらしいし、今も牛を大事にしている。アフリカを走っていると、マサイの子供が牛を連れて歩いていたりする。棒切れを持って牛の群の後を歩く。マサイ族の牛の扱い方は何も知らない我々が見ても非常に上手く、牛たちは従順にマサイの子供の思うように歩く。少し進んでマサイじゃない土地に行くと牛はよくはぐれそうになり、牛追いの人はよく牛をたたく。マサイが牛を叩いている姿は私は目にしなかった。それでもマサイの牛はとても従順に動くのだ。
でも、肉は美味くない。
牛肉はスワヒリ語でニャマと言う。米はワリ。アンドはナ。だから、牛肉と米を食いたければ、ニャマ、ナ、ワリと言えば通じる。
それにしても、ニャマは実に美味くなかった。
とにかく固い。味もしない。彼らの料理の仕方、大抵のものは油で素揚げというスタイルのせいもあろうが、固いばかりで味がしない。

ニャマに対してクク、ニワトリはそこまで不味くなかった。
日本で食べるニワトリよりはいくらか固いし、旨味もどこか素っ気ないのだが、それでもニャマと牛肉ほどの違いはなかった。
ニャマは美味くない。少なくとも日本人の味覚からすると。

しかし、牛たちは非常に大事にされていた。

美味い不味いの話で、バックパッカーたちの間であるのが、文明が発展している国は飯が美味いというものがあった。ただし、イギリスを除くとのことだ。イギリスは美味しくないのに発展している珍しい国だそうな。
まあ、笑い話、冗談程度の話なのだが、たしかにいくらか的を射ている。

それでも、アフリカの肉っていうのは命なのだろうなと私は思うのだ。
命をつなぐために命を食う。
美味い不味いではなく、命を繋いでくれる牛たちへの感謝、尊敬。

倫理的に考えるとアフリカの牛への扱いは日本より遥かに正しい。
正か悪かで論理を展開するのは危険ではあるが。
それでも、食べるために小屋に閉じ込め、近隣住民も匂いがするからといって近くに住みたがらない。はっきり言って日本人は食への命への尊敬に欠けている。米一粒に感謝する人は今の日本にはかなり少なくなりつつある。
それに対して強く逞しい牛を育てるために、一緒に一日中人が歩いているアフリカっていうのは命に対して非常に倫理が高いと私は思うのだ。

ーーほかに仕事がないからだろう。
まあ、それも間違ってはいない。
しかし、我々の命をつないでくれる命への尊敬というのは、やはり大事だろう。
日本人は高齢者の問題に直面しているのもあるが、人に長く生きて欲しいと願わなくなりつつある。もちろん、元気に長生きして欲しいが、元気じゃない長生きも、若い人を邪魔するような長生きもどうかと思う。
命は生きるべきだけ生きて、死すべき時に死ぬべきだろう。
誰しも死にたくはないが、キリストもブッダも死んだのだ。
キリストとブッダが偉いのは、死すべき時に死んだということも大きいように思う。
二人とも生きている間でも、それなりに偉くはなったが、死後の現在尊敬されているほど偉くなる前に死んでいる。もちろん、偉かったのだが。
人間、偉くなって怖いのは傲慢になることだ。

あくまで私の考えだが。
人間、それぞれに偉くなれる範囲が決まっている。
それを越すと偉そうに振る舞うようになる。
だから、ある程度の歳になると偉そうになる。
それ以上偉くなれなくなっても、人間ってのは向上心がある。だから、実は伴わなくても、偉くなりたいもんだから、態度ばかり偉くなってしまう。
実際、上限まで偉くなっているのだから偉いのではあるが。
それでも、自分はもう偉くなれないと悟るのは大事なのだ。
ブッダは布教の旅の最後に沙羅双樹の間に最期の寝床を弟子に頼んでいる。
私の考えではあるが、ブッダほどの人となれば、80歳程度で死なずにもっと長生きする方法も知っていただろうと思う。
何せ科学が進んだと言えど、現代では普通の人でも100歳近くまで生きるようになっている。ブッダほどの超越した人であれば、ただ生きるだけならばいくらでも生きられたんじゃなかろうかと思うのだ。
しかし、ブッダは弟子に言って北枕で永眠する。

キリストは弟子の裏切りを知っていながら死ぬ。ブッダよりもキリストの方がその気になればまだまだ長生き出来た。裏切りを知っていたし、知っていてあえて死ぬわけだ。

キリストとブッダも生きるだけ生きて、死すべき時に死んだのだろうと私は思うのだ。
二人とも半分神様、空想上の人かもしれない。
神様として、永遠に生きることも出来ただろう存在だ。
しかし、死んでいる。

ーーー

はて、残りの人生に関してだ。

30歳では正直残りの人生も見えない。
体力についても、私の場合、トレーニングもしているからか、かげりも見えない。
いくらか二日酔いが残るのが増えたくらいか。

しかし、以前は無限だと感じた伸び代に有限を感じる。別段、まだ限界が見えはしない。まだまだいくらでもやれるようにも思うが、しかし、限度がいずれ来るのだろうという感覚はある。
単純に有限だと理解しただけのことだ。

有限を感じると誰かに引っ張ってもらって生きることに疑問を感じる。
自分で何事かを出来る自信はない。
しかし、自信はなくとも、人生の引き算を考えるとそろそろ何事かを自分でやり始めないといけないのではないかと感じるのだ。

ま、そんなこんな。


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2019年02月11日

貧すりゃ鈍。

お金について考えることがあった。
最近、安定した仕事に就けだの何だの言われることがあったからだ。
確かにもうじき31歳になるし、転職するとしたらラストチャンスではある。

これまでも僕は事ある毎にお金について考えてきた。
貧すりゃ鈍する。貧乏になると日々お金のことばかり考えなくちゃいけなくて思考まで鈍って来ますよ、なんて言葉だが、まあ、この言葉は的を射てはいる。

昨今の日本の悲しみとは、貧乏なことがイコール悲しいこと、悪いことなんて考えが当たり前になっていることだ。
成功者にはお金が手に入る。
社会で価値ある人にはお金が手に入る。
そういうのが当たり前になっている。

とにかく危険なのは即イコールでつなぐことだ。
確かに資本主義の理想としては、社会的に価値ある人にお金が入る、というのはある。
ただ、現実問題としてはそれは違う。
非常に危険なのが、価値のある人=成功者=価値ある人っていう即イコールだ。
現実にはそのイコールが成立することもあるけど、しないことも多いのが本来なのだ。
しかし、即イコールの世界ではお金がない人は成功者ではなく、社会的に価値があるわけではない、人類に貢献しているわけではないというヘンテコなことになる。

このイコール問題が顕著なのは芸術だとかそっちの方面で、例えば太宰治もチャーリーパーカーも少なくともお金持ちではなかった。
まあ、お酒や麻薬に溶かしてしまったからというのもあるだろうが。
ただ、彼らは価値がなかったかといえば、絶対にそういうことはありえない。

経済なんかでもユニクロは大成功を収めて巨大な企業でお金持ちだが、ユニクロがやったのは自分たちだけ儲かれば良いという価格破壊で、人々は服を大事に長く着なくなり、労働者は安い賃金でたくさんの服を作らなければいけなくなった。

今、流行りつつあるPayPayも便利なようだが、お金ってのは国が出来るだけ全員に公平になるよう管理しないといけないのに、営利企業がお金の代わりになるものを作って管理してしまうっていうのは非常に危険なことなのだ。
仮にPayPayがスマホ決済を独占したら、PayPayの都合の良いようにお金を自由に発行できるようになってしまうし、決済手数料という名目にはなっているが、その実、消費税と変わらず、それをPayPayが自由に吸い上げることが出来てしまう。
もっと平たく言ってしまえば、勝手に日本国内で日本円以外のお金を印刷して流通させたら犯罪だが、お金と同じ機能を持つものを紙じゃなくデジタルでやるのは犯罪にならないということだ。
後の利益を考えると100億円還元キャンペーンなど安いものなのだ。
セキュリティの危険とかではなく、営利企業が手を出してはいけない領域であり、ほとんどの人がそのことを気付いていない、はたまた気付いていてもどうにもお金に勝てなくて使ってしまう。
かくいう僕もPayPayを使う。やはり便利ではあるし、集客も出来る。
最近の僕の悩みの一つではある。モラルに反することに加担して日銭を稼いでいるってことはある。

ーーー

じゃあ、お金を稼ぐのは悪いことかと言えば、当然そういうわけでもない。

ただ、お金がないのは悪いこと、お金があるのは良いことってのはおかしいというだけのことだ。
だから、その逆、お金があるのは悪いことで、お金がないのは良いことってのもおかしい。

これも、イコール理論で考えるとマイナスの反対はプラスということになってしまう。

基本的に絶対的に良い悪いということはない。
お金を持っていても良い人はいるし、悪い人もいる。その逆も然り。
当然のことのようだが、イコール理論では良いの反対は悪い、だから良くないものは悪いになってしまう。

ーーー

先日、退職金のある仕事をした方が良いという話をされたのと対照的に、世界はおかしい、お金にばかり走っているという話を別のところでされた。
別にそちらは押し付けではなかったし、むしろ、僕の考えと近いものはあったのだが。

ただ、聞いていて、ぼんやりと違和感みたいなものを感じた。

ーーー

僕としては稼ぎたいだけ稼げば良いと思うのだ。
他人の生き方、働き方に文句を付けるな、と。

そう言いつつ、ぼくも文句を付けるのだが。

まあ、PayPayもユニクロもモラル違反だとは思うし、あまり良いことではないと僕は思うけれど、そういうのが良いって人々も世の中いる。

ただ、やはり楽して金を稼ごうとかってのは良くないと思うわけだ。
地面からお金ははえてこない。
せめて裏山に拾いに行くくらいの労力はないとおかしいわけだ。

昨今、ふるさと納税なんかもそうだが、平気で偉い人が楽して得しましょうみたいなことをする。

別に楽したって良いのだが、基本的にお金はにょきにょき生えてこない。
何せ、お金を払えば誰かを働かせることが出来るわけだ。
にょきにょき生えて来たら、今度は自分も地面から生えて来たタダのお金で働かされることになる。

何もしなくてもお金が手にはいるとかってのは変なことだし、それをおかしいと感じないのは危ないし、偉い人が率先してそういうことをするってのはヤバイってやつなのだ。

ーーー

そうは言うのだが、敬愛する小説家の先生はFXで稼いでいたりする。
モラル云々の話で言えば株だのFXだので金を稼ぐってのは一番よろしくない。しかし、僕はこの先生は非常に好きだ。
この先生くらいになると爽やかなもので、働かなくて良いなら働きたくないと断言する。何で飯を食っているのかは定かではない。先日は渋谷だかどこだかでUFOの講演会だかをしていたらしい。それは金のための活動ではないらしい。漫画の原作をやってるとかしてないとか。とりあえずは小説家の先生なのだが小説での収入で食っていないのだけは間違いない。
ちなみに小説は良い小説を書く。まあ、当たり前なのだが、だって小説家の先生だもの。
家は実に質素なアパートに住んでいる。
酒を飲んでギターを弾いて。
ちょっとした仙人、随分俗っぽい仙人だが、何というか超越して爽やかである。爽やかさのかけらもないのだが。

ーーー

お金の話って多数派、少数派というだけのことで、多数派が圧倒的に多くなると暴力的になってしまうだけのことなのだ。
今ならお金派が多いから、お金がないことは悪い、退職金をもらえて福利厚生の良い仕事をするのが良いことなのだ、なんてのが世界の常識になっている。

僕からすれば、安定した仕事、給料の良い仕事なんてのは危険な香りしかしない。
人間、時間ってのは平等だ。そりゃ、早く死ぬ人も長く生きる人もいる。それもまた平等にランダムだ。不公平ってのは公平なことでもある。作為が働かずランダムであるっていうのはある意味で平等なのだ。
たくさんお金を稼ぐ人はたくさん時間働いているか、何かのスキルを得るために時間をかけている。そのどちらでもなければ、モラルに反することをしていたり、リスクを背負ってきているかだ。
頭がなけりゃ体を使え、体も弱ければ時間を使え、ってやつだ。何かしら使っているのだ。
産まれながらに体が二つあったり、脳みそが四つあったり、超能力が使えるとかすれば話は別かもしれないが。
基本的には何かを差し出してお金ってのは入るのだ。

昔の友人に高収入な人が多いが、まあ、大変そうではある。
中にはそんなに大変そうでもなくて収入も良くて福利厚生も良い人もいるが、まあ、それはそれだ。
逆にえらく大変そうなのに収入も福利厚生もよろしくない人もいるが、まあ、それはそれだ。

一つ言えるのは、会った時に、
「あ、やっぱりこいつの方が稼ぎが多いから幸せそうだな」
なんてことは全く感じない。
当たり前だが、幸福さと収入、福利厚生ってのはそんなに関係ないのだ。

これがアフリカとかなら、いくらかは思うのかもしれない。何せ貧乏と言ったら実に貧乏、字の通り食うに困る。しかし、アフリカのすごいところは貧乏が悪いわけではない。
まあ、アフリカと一括りにして話すのも良くないが。イメージとしてはタンザニア、マラウィ辺りだ。ザンビア辺りからはお金持ちが発生しだして、貧乏は良くないことみたいな空気がどこかにある。
村丸ごと貧乏ってのは救いがないようでいて、しかし、貧乏というのも普通のことであって別に悪ではない。

一度村で頭のパーの人がいた。
道路脇の村で、僕は言葉が分からないので最初分からなかったのだが、次第に周りが笑っているのと、彼の仕草を見ていると、なるほど、彼はパーなのだと分かった。
憐みではなく、人々は笑っているのだ。
言うなれば、パーのおっさんが旅人に絡んでるぞ、みたいな具合で。
そういうのって、日本だと小学校の道徳の教科書では絶対にしてはいけません、ということになっている。
しかし、現実に体験すると明るいのだ。
みんなパーのおっさんを馬鹿にしてはいるのだが、憐みはない。むしろ親しみみたいなものがある。
臭いものにフタをするじゃないが、タブー、かわいそう、触れてはいけないみたいなことをする方がよほど人間として良くないことで、素直に「パーのおっさん、相変わらずアホだねー」なんて笑いながら、それでもおっさんも村の一員なのだろう。

人間、ある程度の数がいれば、生まれつき頭がパーの人もいるし、育っていく途中で頭を打ち付けてパーになる人もいる。
でも、そういうのって仕方ないのだ。
アフリカの場合、大人になるまでに死んでしまう子どもも多いし、大人もふとしたことで死ぬ。祝日が危険らしく、お祭り騒ぎになるとついついアッサリ人が死んだりしてしまうことが珍しくないと言っていた。酔っ払ってトラックの荷台から落っこちるとか。
今生きていることを謳歌しているようなところがある。
なので人々は非常に力強いし、生命力に溢れていて、明るい。土と太陽の間に生きている。

生きているだけで人間ハッピー。
まあ、アフリカだって実際にはそれが全てではないのだろうが。アフリカ人でもアディーチェの小説のような苦悩はある。当たり前だが同じ人間なので。
ただ、アディーチェみたいに国際的に活躍している人は欧米に住む経験があるのも事実だが。

ーーー

あれこれと話はブレるが。

何だかんだで強いのはお金が少なくても幸せを感じる方法を知っている人間だ。
お金がないと幸せになれないと思っている人は大変だ。たくそんお金を稼ぐには疲れる。ほどよく働いても疲れるは疲れるが、そりゃ適度な疲れだ。

服を一つ買うにしたって、今年の新作、トレンド、あのブランドが良いと振り回されて、毎年、毎月高い服を買わないと満足出来ない人は大変だ。

昔から着続けているボロボロの服を着ていたって、どこか風流でスタイルがあってかっこいい。
そういう方が素敵だし、生きていて楽だ。

貧すりゃ鈍するとは言うが、いくらか貧乏していても頭の中がお金のことばかり考えなくても幸福に満たされていれば鈍さない。

逆にお金があってもお金のことばかり考えていないといけない人は鈍する。
いくらお金があってもお腹が出てしまって、健康を害しているのでは、何の意味もないのに、その事に気付かずいつもお金のことばかり考えている。
生きる事に対して頭が鈍してしまっている。

まあ、そうは言うけれど僕もお金は欲しいのだ。
今のところ何も困ってはいないけれど。

何十年も先の老後のお金のことなんか考えて、今の頭が鈍していたら、そりゃ馬鹿ではある。
ただ、今だけじゃなくいくらか先まで鈍することがないよう、やはり先々のお金の工面もいくらかは必要ではある。

ま、そんなこんな。


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2019年02月09日

祖母に三年ぶりに会ったら涙が出てしまった。

祖母に三年ぶりに会ったら涙が出てしまった。
少しボケているとは聞いていた。
しかし、現実はどうにも悲しかった。

祖母の状態は悪くない。
90歳だが自分で歩ける。
ボケているとはいえど、数年ぶりに見る僕のことを僕と分かってくれていた。

ただ、老人ホームの中で見つけた祖母は迷子になってしまっていた。
広い老人ホームではない。
どこかに行こうとしていたらしいのだが、道に迷ってしまい分からなくて困っていたと言っていた。
ボケてしまっているのだ。

人間90にもなればボケる。
それは頭の中では分かる。
壁に向かってクソを投げる人もいる。ひどく敵対的になる人もいる。
そういうことは知っている。
しかし、祖母が小さな老人ホームの中で迷子になったと言っている現実っていうのはひどくショックだった。

仕方がないのだ。
むしろ、歳を考えれば軽い方なのだ。迷子になっていると思い込んでいたり、僕のことをだれの子どもたったかな、と言ったり。母は一人っ子なので母の子ども以外ないのだが。
それでも、名前と顔が分かってくれたのは嬉しかった。
そう考えると祖母のボケは軽度のものだろう。

しかし、祖母はひどく残酷な生き延び方をしてしまっているように思えた。
祖父が死んでから、早く迎えに来て欲しいと言っていた。馬鹿なことを言うもんじゃないよ、元気に長生きしてよ、なんて言っていた。
ただ、今日の祖母を見ると、おじいちゃん、早く迎えに来てあげて下さいと思ってしまった。
今のうちに。

その年齢で三年も会わなければそういうことになるってのは普通なのだろうとは分かる。

ただ、祖母には悲しみがなかった。
早くおじいさんに迎えに来て欲しいとも言わなかった。
ただ、生きるって難しいねと言っていた。

神よ、なぜ一生懸命生きてきた人の最後にこんなひどいことをするのだ、と。
なんと酷い仕打ちをするのだ、と。

ーーー

それからエルグレコの受胎告知を眺めに行った。
大原美術館は遠くない。千三百円で入れる。
大原美術館は実家から歩いて十分のところにあり、学生時代は全館ゼロ円で入れたのでよく行った。
この美術館、非常に美しいのだ。
日本で最も美しい美術館はどこなんだか知らないが、少なくとも上野の国立西洋美術館よりは美しいと思う。国立西洋美術館も素敵な建物だし、世界遺産にも登録されているが、大原美術館の方が美しいと感じる人の方が多いと思う。
中庭の日本庭園には誰でも無料で入れて、そこで煙草を吸うと非常に美味いのだ。
収蔵作品も素晴らしい。ピカソも何枚かある。モネの睡蓮もある。あとは忘れた。でも、有名な画家の絵が何枚もある。収蔵点数自体は国立西洋美術館ほどではないが、どの絵もかなり知名度があり見応えがある。
美術館に詳しいわけじゃないが、いくつか美術館には行ったが、大原美術館みたいな絵のチョイス、有名作品がこんなに多い地方美術館ってほとんどないと思う。

受胎告知は大原美術館に何度か行っている人なら知っている。
何せ大原美術館の中で最も高額な絵だからだ。最も大切に展示されている。
大原美術館とは大原さんが自腹で作った美術館なので、基本的には全て同時ヨーロッパに直接買い付けに行っている。児島虎次郎さんという画家さんに買いに行かせたらしいのだが。
多分、普通の美術館では絵の値段って言わないし、国の所蔵のものが多いので買う買わないではなかろう。その辺は大原美術館っていうのは少し変わっている。

日本国内にエルグレコの絵があるのは、国立西洋美術館と大原美術館の二枚だけだそうだ。日本国内にエルグレコの受胎告知が存在しているのは奇跡だとも言われているそうな。

まあ、そんなわけで、倉敷の人でちょっと美術館に行く人と言えばエルグレコの受胎告知は有名なのだ。

受胎告知は聖母マリアの元に天使が降りてきて、キリストが産まれるよ、ってことを伝えに来ているワンシーンだ。

ーーー

実際には行っている時にはエルグレコを目当てに行ったわけではないのだ。
単純に大原美術館を散歩したかったのだ。

まあ、建物が良い。
祖母のことで混乱した心を落ち着けたかった。
だが、そういう心境で絵など見ると心がささくれて大変だろうとは分かってはいたのだが。

ーーー

一時間ばかりエルグレコを眺めていた。

どうして神は祖母にあんな酷い仕打ちをするのだろう。
人間はなぜ生まれてくるのだろう。
生きるってこと自体は残酷ではないが、人間生きている限りは生きねばならぬ。
生きねばならないから生きているとなるのは、ひどく残酷だと思うのだ。

それから裏の神社に登ると藤の木が枯れかけていた。
延々と高校をサボり続けて通い詰めた神社だ。境内の裏にある藤はとても立派だった。しかし、裏なので人はほとんど来ない。
たった10年ほどで随分と元気をなくし、枯れかけていた。
祖母の三年はどこか納得もある。
しかし、藤がたったの10年ほどでこんなに元気がなくなるとは思いもよらなかった。


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2019年02月07日

アフリカ2

ユーフォーの話から始めるとしよう。

僕がアフリカに着くときに考えたのは、やべーな、今度ばかりは死ぬかもなー、ってことだった。
窓の下に広がるのは冗談抜きで動物奇想天外って番組でやってたサバンナだもの。
すごいよ。
テレビって本当に。
そのまま動物奇想天外。
所ジョージとか黒柳徹子とか出てた。
この木何の木木になる木って。
そりゃ、上からじゃライオンなんか見えない。
でも、まあ、こりゃ人間の住むところじゃないってね。
集落を探すけど分からない。
ぽつぽつと生えた草原と木。
へー、世界にもまだこんなところってあるんだなって。
自転車で走るつもりがない人なら、呑気に眺めるんだろう。
でも、僕はそこを自転車で走るんだ。
ちょっとじゃなくて全部ね。

ちょっと骨が折れるなじゃなくて。
今回ばかりは死んでしまうかもなって。

いろんな冒険家が世界にはいるけど。
誰しも今回はやばいなって思うんじゃないかな。
絶対安全なところなんて言ったって冒険家にとっては退屈しのぎか、スポンサー集めだ。

僕の眺めたアフリカって、本当に動物奇想天外だった。
冗談みたいなアフリカ。
本物のアフリカ。

いや、アフリカって本当はもう少し都市なんだろ。バックパッカーなんかでも歩いてるんだし。

少なくとも、きっとそのサバンナを歩くバックパッカーなんていないだろう。

ああ、冗談みたいな本物のアフリカ。
絶望。

それが僕のファーストアフリカだった。


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アフリカ1

その頃の僕にとって世界はどうだったのか。

それってずっと続く疑問だ。
NATOのユーゴスラビア爆撃。
それはきつと小学生の頃で、悪い国にアメリカが爆弾を落としている、そんな感じだった。

結果としては爆弾を落とされる国ってのは悪い国なのかな。
そんな風に考えたけど。

本当の良し悪しなんて僕に分かるわけもなく。

また、僕は出かけることにした。
アフリカ。


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2019年01月20日

飯を作るとレシピを見ろと言われる。

飯を作るとレシピを見ろと言われる。
美味けりゃ何でも良いんじゃないかと思うが、美味いものより不味くて良いからインターネット上で評判の良いものを食べたいのだと言う。

書き物をしてると不思議に思うのが、生身の人間より文の情報を人間って信じる。
何ともヘンテコな話だなと思うのだが、ペンは剣よりも強し、という言葉もある。

元々は暴力で圧するより、言葉の方が人間は納得して自発的に動く、つまりは北風と太陽というような意味だ。
しかし、今はすっかり逆転してしまっている。
ペンの方が遥かに暴力になりつつある。

ここ数年、調べ物をするのにインターネットというのは昔より役に立たなくなったと感じることが多い。
広告収入、まあ、私もそれでいくらか収入を得ているのも事実なので全否定もできない立場なのだが、検索キーワードに引っかかるように文を作れば、検索の上位に出てしまう。
その方法というのが実にチープなもので、
・更新頻度
・写真の有無
・キーワードの現れる頻度
・ロボットじゃなく人間の手書きによるもの
なんて辺りで、情報のディープさ、詳しさというのは関係ないのだ。

だから、そのルールに則ったページばかり出て来て、肝心の欲しい情報にいつまでも行きあたらない。

昔は広告収入とかって基本的になかったので、好きな人が好きな情報を作る。調べる人は気に入れば直接にその製作者に連絡を取って感謝を伝えた。
お金って基本的に入らなかった。
それでも、自分の好きなことを文や写真にして発信して、それを感謝してくれる人がいて。
純粋に好きな人が好きなことを発信して、好きな人が調べて読んだ。

はっきり言って、インターネットは死んでいる。
インターネットほど秀逸なメディアはなかなかない。
しかし、一口に言えば愚民がインターネットを殺してしまった。
コーヒーの入れ方一つにしても、調べてみたって大手企業のマジョリティ向けの宣伝や、キーワードだけたくさん散りばめたウィキペディアを書き換えただけのようなページにしか当たらない。

図書館にしてもそうだ。
情報を求めて行っても、入門書ばかりが書棚に並ぶ。
図書館にいる人だって、本当の本好きもいくらからいるけれど、何となく図書館に休日行くのがオシャレみたいな人々が増えた。

ーーー

すこぶる悪い言い方をするのだが。
生計に関すること以外のことって、余裕のある人の特権なのだと思う。
お金持ちの特権とかじゃない。
人生、等しく時間ってのはある。
それを何に割り振るかってのが人生だ。
何でもかしこでも知ってて素敵なんてわけにはいかないし、それを出来るのはそれこそ貴族であるべきなのだ。
庶民は時間が限られていてしかるべきなのだ。

一つのことをするって時間もかかるし、お金もかかる。
それが本来なのだ。

でも、どの業界もそうだけど、マニアじゃなくてビギナーを取り込もうとする。
そうしないと儲からない。
ノースフェースみたいなものだ。
本当の登山好きじゃなくて、タウンユースでも着たくなる服を作るメーカーが人気が出る。
人気のないメーカーはマニアにはうけたって、結局資金繰りが詰まって、何年かすると消えてしまったりする。

お金の上に立って生きていて良いことってあまりない気がする。
それでも、人間お金の上に立って生きている。
ずいぶん時間をかけた結果、お金の上に立つことに決めている。

ヘンテコな話だ。
ほんの数年でインターネットが死んでしまったりするなんて。

ま、そんなこんな。


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2019年01月06日

時々、ケータイのゲームにハマることがある。

時々、ケータイのゲームにハマることがある。
元はペンキ塗りのアルバイトをしていた頃だ。
なぜかドカタの人たちってケータイゲームが好きだ。お金もかからないし休憩時間にぼんやりとタバコを吸いながらやるのにちょうど良いのだろう。話題にもなる。
ハイエースの中をタバコの煙で充満させながら協力プレイが何とかと話をする。
それぞれ一人親方でやってたり別の親方のところで働いているのを忙しさで人を貸し借りするのだが、共通の話題としてゲームがあるっていうのは良いのだ。
どうでも良い会話というのは大事で、サバサバしていると、誰それの現場の時は誰それがやる気がないとか、どこそこの親方の仕事の取り方がえぐいだのと、まあ仕事、日々の生活のかかった金を稼ぐための営みをしているとあれこれ揉め事が起きたりすることもあるらしいのだが、どっちでも良い時間潰しのようなゲームで協力プレイをしてたりすると、
「え、そのキャラどうやって取ったん?」
「今日何時からイベントだっけ?」
だの、まあ、実にどうでも良い会話で和気あいあいして良いのだ。
まあ、何かと程よいのだ。

そんなわけで僕もゲームを始めると、
「ふくちゃん、最初はこのキャラからやっていけばええんよ!オレをフレンド申請しとけば序盤は楽勝よ!」
なんて具合で優しく教えてくれたりする。
基本的に優しくて兄貴肌な人が多かったというのもあるかもしれない。
実際、僕はパチンコもやらないし、ナンパもしない、キャバクラも行かないし、若い頃にケンカもしなかったし、良い車も持っていないから、ペンキ屋さんでの話題ってゲームがあるとすごく助かった。

ペンキ屋を卒業しても、まあ、卒業といっても何も覚えていないのだが、基本的に塗料の缶を運んだり、塗料をまぜたり、簡単な下塗りだけやったりくらいだったのだが、何にせよペンキ屋をしなくなっても、僕はケータイのゲームを時々するようになった。
別に大して面白いわけでもないし、生産的でもない。
ただ、何となく心の癒しがあるのだ。
特に頭を使わずぼんやりとスマホをいじる。
そんなことが心の癒しになるのは不思議なことのようにも思うが、何にも頭を使わずぼんやりと時間を過ごせることって癒しになるのだ。

スマホのゲームなどしなくても、ぼんやり空を眺めれば良い気もする。
案外、これが出来ない。
旅の日々の中では簡単だったのだが、普通の日々だとアレコレ考え事があったりする。
何もせずぼんやり過ごす時間って案外難しい。

友人でスマホゲームの達人が二人ほどいるのだが、一人は世界ランクでも上位に行ったりする。課金なしでそのくらいは行けるとのことだが、確かにいつでもゲームをしている。
ちなみに彼も仕事がなかった頃はドカタをしていた。
もう一人は配送の運転手をしているのだが、運転中に延々とやっているらしい。

まあ、大人になるってのは多かれ少なかれそういうところがあるんだろう。
昔なら英単語の一つでも覚えるか、とかだったが、英単語を覚えたところで使う場面がない。仕事で使う機会があれば、必然的に勉強するし、勉強する必要がない場合は使う場面がないということでもある。
日々の生活、仕事の中で即戦力になるようなことしかしなくなっていく。或いは全く無意味なこと、してもしなくても良いこと。した方が良いことってのは、しないと罪悪感もある。してもしなくても良いことは、しなくたって良いので、気が向いた時だけぼんやりとすれば良い。気楽なのだ。

まあ、人生、そういう要素も必要なのだろう。
いや、必要じゃないからこそ気分転換に良いのかもしれないが。

ま、そんなこんな。


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2019年01月04日

アフリカの話をそろそろ文にしようかと目論みつつ、すぐつまづく。

アフリカの話をそろそろ文にしようかと目論みつつ。
そうは言っても昔みたいに小説にするのはどうも難しい気がしている。
昔のは何だかんだで小説だった。
今回は写真集にしようかなと思いつつ。

そうは言っても、はっきり言って個人の旅日記なんかほとんどの人が興味ない。
それに対して芸能人や著名人の文章ってのは興味がある。村上春樹がトライアスロン日記なんて出したら、まあ、それなりに売れるような気がする。内容はどうあれ。
無名の個人の文章ってのは実に難しい。

手に取る人がいなければ、文とは寂しい。
一冊の本を作るときに難しいのはそこだ。
それでも、文とは寂しかろうと無意味だろうと存在しさえすれば存在しているのだ。

ーーー

小説とノンフィクションの境目って難しいとは思う。
以前の南米の話はノンフィクションではあったが、小説だったように思う。

ノンフィクションとは何ぞや。
これは難しい。
難しいので考えない。

ーーー

これまではBCCKSという出版サービスを使っていたのだが、今度はNEXT publishingなるサービスを試してみようかと考えている。

このNEXT publishingというサービスはAmazonのオンデマンドプリント、要は注文が入ってから印刷して製本して販売するというシステムを使ったサービスらしい。
PDFで入稿したら、あとは売れたら、その都度仲介手数料がかかるが基本的には作家の方は出費ゼロで出版が出来るというわけだ。
紙の本を発信するには良いサービスだ。

BCCKSは小説なんかには良い。
電子書籍でAmazonや楽天など様々な電子書籍ストアに配信してくれる。
電子書籍での発信のメリットは、とにかく購入者が安く手に入れられるということだ。
広く読んでもらいやすい。
出版社なんかの目に止まるチャンスも高い。

ただ、BCCKSはPDFなどでの入稿が出来ない。有料オプションでMacを使ってePUBファイルというのを作れば出来ないこともないのだが。貧乏人なのでWindowsしか持っていないので無理だ。
基本的にはブログのような形式で入力していくことになる。
写真をメインに本を作るとなると、BCCKSのやり方だと厄介だ。何より我が家のインターネットは遅い。オンラインでの原稿作成ツールを使うのはかなり無理がある。
オフラインでPDFで作って、紙の本に印刷してくれるってのは良い。
しかも、アマゾンで販売してくれる。
別に無料で良いのだが、現実問題として、
・紙に印刷するにはお金がかかる。
・電子書籍は現実的に普及していない
・Webページとして作っても良いが、Webページって流し読みになって最初から最後までを読んでもらえない。
なんていうことから、やっぱり紙で発信するというのは重要なのだ。

ーーー

はて、そんなわけで写真を整理してみたのだが。
どうも去年くらいに同じ作業をしてつまづいた覚えがある。

やはり僕は元が写真メインではないので、写真を基軸に本を作るってのがイマイチ分からないのだ。
起承転結を付けて、最後に向けて物語を進行させてテーマを展開していくというやり方しかして来ていない。

ふむ。
いきなりつまづいた。

結局、今回もアフリカ編は完成ならずか。
まあ、そうは言っても一応最後まで作ってみようかなと思いつつ。

どうもアフリカ編は以前に小説も書こうとして十万字近く書いてみたが、全ボツになったりと上手くまとまらない。
実際、アフリカでのことって何をどう文にすれば良いんだか分からないってのが本音ではある。

まあ、のんびりやっていくさ。
辞めてしまわなければ、いずれは完成する。
人生を通してゆったり長く執筆はしていけば良い。

まあ、そんなこんな。


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posted by ちょろり at 23:58| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月03日

青年くんはFXで勝負すべきか。

今日は自転車でぶらぶらと秩父の方へ出掛けた。

今年はちょろり草を出来るだけ毎日書いていこうと考えてはみたのだが、やはり自転車の方のブログと両方書いていて毎日ってのは難しい気がする。

それでも、毎日ちょっとでも何か書いてみて、何日か合わせて一本書くってのでも良いかって気はしている。

基本的には日記には鮮度が大事だと考えていたので、その日の日記はその日の内に書ききってアップロードしないといけない、続きを別の日にまたがるって微妙だと考えていた。
何より書きにくい。
日記なんて、そんな大したことを書くわけでもないので、一日経てば、なんでそんな話題を書いていたのかも思い出せなくなってしまう。
そうは言っても、そういう書き方も必要であれば、やはり覚えないといけないだろう。

ーーー

今日はお金と仕事のことなんか考えたりした。
知人の若者がFXで一儲けしてやろうと考えているのだ。そのことについて一緒に自転車で出掛けていたKさんなる人と、「どうなんでしょうね、心配ですね」などと話したわけだ。

実際、僕も株なんかはやっている。
FXも手を出そうか考えてもいる。
別に必勝法はない。
むしろ、先日、株の方で大敗してしまっている。僕の買った株が突然大暴落してしまっている。まあ、大暴落と言っても1年か、長くても三年ほど待てば元の値段くらいまでは戻るのだが。
株は長期的な目で見れば、その会社が上場停止なんかにならない限りは元の値段までは戻ってくる。

FXも基本的には放置していればいずれは元のポジションまでは戻る日は来る。
問題はFXはレバレッジ、つまり自分の持っている金額の何倍という商品を買えてしまう。10倍にしていれば、勝ちも負けも10倍になる。
これがFXで一発当てる人がいる理由だ。
逆に財産をなくしてしまう人も出てくる。

基本的には当たり前と言えば当たり前なのだが、勝ちだけ見込みの高い博打など存在しない。
FXは博打じゃなく投資だという人もいるが、噛み砕いて考えれば上がるか下がるかの丁半博打である。

基本的には丁半博打については倍プッシュし続ければいずれは勝てる。倍プッシュとは負けたら次は掛け金を倍にして賭けるというわけだ。
勝てば前に負けた金額を回収できる。
負けてもまた倍プッシュで良い。
問題は掛け金がそんなに続くかという問題ではある。
あとは倍プッシュして買ったという時に勝ち幅が小さくても意味がない。

投資と投機と博打の違いとは、負けた時の幅だ。
博打は負けたらゼロになる。
投機は負けるとゼロまでは言わずとも大きく負ける。
投資は負けても減るのは一部のみだ。
要は用意する資産を長期的に運用出来るかどうかだ。博打は負ければ一瞬で終わってしまう。
FXはレバレッジのかけ方によっては投資だし、大きくかけると博打以上にリスキーになる。
また選ぶ通貨にもよる。円、ユーロ、ドルの三代通貨はリスクは低いがマイナー通貨は暴落したりがある。

ーーー

Kさんは割と心配していたが、僕としてはFXでも何でも興味があることは試してみるのは良いことのように思う。
その若い子、青年くんとでも呼ぶことにしようか、青年くんは自動でコンピュータが運用してくれるシステムを30万円で買って一儲けしてやろうという魂胆らしい。

「そんな上手い話あるわけないだろ。やっぱり汗水垂らして働かないといけないんだよ」
というのがKさんの考えである。

Kさんの言う理屈は正しい。
実際のところ、FXはコンピュータでかなり勝てるというのも事実ではあるが、そこまで勝率の高いシステムが30万円程度で買えるとは思えない。
何せそんなに勝てるシステムなら30万円で売らずにそのシステムで儲けた方が早い。
何せ一万本売れたとしても30億円である。
30億円と言えば大きい金額のようでもあるが、放置しているだけで楽して勝てるなんて、そこまで勝率の高いシステムなら元の資金が100万円もあればすぐに稼げそうな金額である。

現実一万本も売れるかっていうと微妙な気はする。
何だかんだで一万人くらいは甘い話に飛び付く人も存在するかもしれない。
ただ、仮に一万人買ったとして、そのコンピュータが同じように投資するとしたら、一万人が投資する未来が製作者には分かるということでもある。ただ、一万人程度の投資で相場がどの程度動くのかってどうなんだろう。
世の中、もはや天文学的数字のような財産を持ってるような人もいるわけだし。

何にせよ、順当に考えればやはりK氏の理屈、「世の中そんなに甘くないって」
というのが正しい。

ーーー

ただ、実際に投資で大儲けしたことのある人を僕は二人ほど直接見たこともあるので、存外、可能性はゼロじゃないと思ったりはする。

ただ、青年くんは仮に勝ったとしても、結局上手く使えないような気がする。
博打で買った金とは湯水のように消えるものなのだ。
もちろん、一生をプロの相場師として生きていきたいと強く考えていれば話は別だろうが、単純に仕事が嫌で働きたくない、お金が欲しいってのは上手く行かない場合が多いのだ。

実際、僕の知る投資で大儲けした人は、勝ったは勝ったが、段々と数字の感覚がおかしくなってゲームみたいになって、結局最後は必要な分だけ残して、あとは全部賭けてなくしてしまったと言っていた。そして、焼き物職人として生きていた。今はどうしてるかは知らない。
もう一人の人はやはり膨大な金額を持っているが、どうもお金というものの感覚がよく分からなくなるらしく、高いもの、良いものと呼ばれるものを買っても全く嬉しくなくなって、世界を旅して、自分自身が価値があると感じたものにだけ使うようにしているとのことだった。なので、生活は意外なまでに質素だ。意図的にそうやって質素にしておかないと、喜びや面白みがなくなってしまうらしい。その気になれば、お金で買えるものは何でも手に入るってのも案外大変なのだそうだ。

青年くんも仮に勝ったところで、中途半端な価値なら湯水のように使ってしまって、むしろその後負けて借金になったりするかもしれない。大勝ちしたとしても、明確にお金を使ってどうしたいということもない。車が欲しいとかはあるみたいだが。

ーーー

根本的な問題としては、仕事をしたくないってところだろう。
まあ、僕もくたびれるので仕事なんかしなくて良いならしたくない。たまに気が向いた時だけちょっと働くなんてのが嬉しいは嬉しい。
でも、そうなると誇りってのは持てない。
サラリーマンだろうが何だろうが、やはり仕事には誇りってものがある。

というのも、仕事って意外と難しい。
子どもの頃は大人になればみんな何かしら仕事を出来るようになるものだと思っていたが、実際にはみんなそれなりの苦労をして今の自分の仕事が出来るようになっている。
苦労して出来るようになったことって、やはり誇りがある。

僕の場合、好きなことを仕事にしているけれど、やはり仕事は仕事である。それなりの苦労はある、というか好きなことを仕事にするのは苦労が多い。
縁があって結局自転車屋なんて形で働き続けているが、給料も休みも悪いし全くオススメはしない。
それこそ日が変わって一月三日となったが、今日も勤務だった。三が日くらいゆっくりしたいというか、年末年始は二週間くらいはぼんやりしていたい。
そんなわけで人にはオススメしないが自分としては誇りを持って働ける仕事なので良い仕事だと思っている。

ーーー

青年くんはFXで一儲けしたいというが、その実、一儲けなどしなくとも働きがいのある仕事がしたいという方が正しいのだろう。
「まあ、たしかに複雑になりましたよね。昔って働いていればそれで良かったけど。なんか最近ってテレビなんか見てると、年収は500万円とか、年間休日百三十日とかが普通って言いますしね。青年くんみたいに派遣で働いていると、仕事なんか馬鹿馬鹿しくも感じるし、FXで一発当てるって夢を見る方がよほど現実的かもしれないですよね」
「まあ、そうなんですけどね」
「そう、そんなんですけどね、ですよね」

ーーー

K氏とアレコレ言っては見るものの、青年くんは興味があるならFXで一発狙ってみるのが良いような気もする。

他人事だからってのもあるが、どかーんと二百万くらい借金してみるのと良かろう。二百万くらいなら10年もすれば笑って話せる借金だろう。
はたまたドカーンと大投資家になれるかもしれない。
はたまた案外どっちにもならず、単に30万円損するだけかもしれない。

ただ、モヤモヤとFXしてみたら大儲け出来るかもしれないと思い悩んでいるよりは、人生は経験だ。
200万の借金で買える経験なら安いものだと思う。
一千万円負けるとちょっと話は変わるけど。

実際、僕自身、海外に自転車で旅するということで何だかんだでトータルで二百万くらいは沈めてきた。実際に使ったのは百万くらいだが、その無職の期間に普通にサラリーマンしていたら入っていただろう収入なんか考えれば200万くらいは堅い。
それどころか、まともに大学を卒業してサラリーマンしていたら、今頃年収も百万くらい違って、ゴールデンウィークなんか十連休だったろう。
そう考えると20代の頃にほんの少し異国を自転車で放浪したことでの損失って500万円くらいに登るかもしれない。

でも、お金持ちが一億円出したって、自転車で異国を旅する経験は買えないのだ。
経験ってのはやはり偉大だと今も思う。
それでいくら得するか損するか、何かに役立ってるかなんかは知らないが。

人は思い出を積み重ねて生きるものだ。
目の前の札束はいくら積み上げても思い出にはならない。

ーーー

欲に駆られてFXしてみて、何が手に入るか。
それは分かりはしないが、青年くんくらいの年齢で30万円使ってやる遊びって決して安いものじゃないはずだ。
やってみるのは大事だと僕は思う。

少なくとも僕やK氏はしなかった体験だ。

体験なら何でもしとくべきかと言えば答えはノーだが。
本人が本気でしてみたいと感じることについては、やはり体験してみるべきだろう。
やるからには全力で勝ちに行く、全力で楽しみに行く。

そういう体験の積み重ねの先に仕事ってあるべきだろう。

まあ、そんなこんな。


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