2019年05月08日

スーパースターとチャンピオン。

スーパースターとチャンピオン。
スーパースターは何をしたってスーパースターだ。成功しても失敗しても。その代わり、平凡なことではスーパースターではいられなくなる。
チャンピオンは失敗してはいけない。失敗したらチャンピオンではなくなる。

だれもスーパースターでは居続けられないし、だれもがチャンピオンになりたい。不思議なことだけれど、二度と失敗してはいけないチャンピオンにみんななりたいんだ。
大抵の人はチャンピオンになれない。
チャンピオンになれる人は限られているし、チャンピオンでい続けられる人はさらに限られている。

坂道をどんどんと登っていく。
止まることない。
いつもならその人は止まって、待ってくれる。
しかし、止まることなく凄いスピードで登って行ってしまう。もう追い付くどころか、これ以上進めない。でも、その人は登って行く。
上の方には黒い雲がかかっている。あの雲の中は雨じゃないだろうか。
呼んでも止まらず登り続ける。


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2019年04月20日

正しいことが正しいとは限らない世界。

正しいことが正しいとは限らない。
ただ、それってどうなんだろうか。
正しいことが正しいとは限らないのが正しい世の中って結構狂ってしまってるんじゃなかろうか。

「はじまりへの旅」という映画を観た。
主人公の一家は森の中で暮らしている。父親の教育方針なのだ。世間から離れ、学校には行かせず、父親が直接教え、肉体を鍛え、書を読み知識を蓄えて生きる。ヒッピーと一口にも言ってしまえるような暮らしをしている。
しかし、母親が精神病の末、自殺した。その葬儀に家族で行くため森を出る。
そう大した事件は起こらないのだが、ちょっとしたアレコレをする内に、やっぱり子どもは学校に行かせてまともに生きさせてやろうと父親は思うようになるという話だ。

まあ、この映画はどこか後味のよろしくない胸糞悪い映画だった。
学校に行かせず森で育てる。知識は十分にある。人間、それで良いように僕は思うのだ。
そりゃ、みんながそう生きていくとよろしくない。
ただ、いくらかはそういう人がいたって悪くないはずなのだ。
別に森じゃなくてもどこでも良い。ただ、学校でみんな等しく歩調を合わせてクローンのような考え方を持つ必要はなかろうと思うのだ。

映画の中では子供たちは何ヶ国語も習得していて、哲学や思想、自然科学などのジャンルの学問にも深い。筋肉はモリモリ。
現実には英才教育をしても、そんな風にはならない。
現実は医者の子どもでも、いくら金をかけて教育してもロクな大学に入れず、金を積めば入れる地方私立医学部っていうのが存在しているように、勉強や学問っていうのは、出来ない人間は出来ない。
ましてや六ヶ国語を喋って、全ての学問に深いなんてことが何人もいる子どもが全員出来るようになるわけはない。

まあ、あくまで映画、作り話の世界の設定なので、そこまでは良しとしよう。仮定、設定がないと物語は成り立たないので。

ただ、問題はそんな天才的な子どもたちがわざわざスクールバスに乗って学校に行く必要があるかというと、甚だ疑問ではある。
一体主人公は何に敗北したのか、これが非常に謎なのだ。

確かに社会性というのは大事ではある。
子どもを社会から隔絶してしまうのは危険であることは間違いない。
ただ、六ヶ国語やら何やら習得出来るだけの能力があるなら社会性も学ばせてやれば覚えれるだろう。
世捨て人をするというのもまた選択肢だろうし、社会に帰属して生きるもまた選択肢だろう。親がどちらかだけを強要することは良くないとも言えるが、逆を言えば基本的に世の中、親は子に社会に帰属することを強要している。

社会性というのも、そもそもに怪しいもので、国が変われば常識も違う。
最近、ベルリンの友のことを考えることが多いが、彼が偉いのは、そういう既存の社会性に依存しないというところだ。日本に生きれば日本の社会に帰属して生きるのが楽だ。未知の世界に適合して生きる、どこに行っても生きていけるってのはすごく強い。

正しいことが正しいとは限らない。
例えば、日本で客商売をしていると明らかに理不尽なことを言う客っていうのはどうしても存在する。
日本以外の国ではどうか分からないが、物を買うとなると、客は神様というのが発生する。

実際、客商売をしているとお客様は神様っていうのは正しい。神様のように思いなさいという比喩ではなく、お客様がお金を落とすからこそ我々の生活は成り立つ。お客様の求める商品こそが正しく、お客様が求めない商品は正しくない。
いかに作りが良くて素晴らしいものであっても、お客様が求めていない商品は客商売をしている限りダメなのだ。
まあ、基本的には作りの良い素晴らしいものっていうのをお客様は欲しいと感じる場合が多いんだけど。

ただ、人間として正しくないことでも、お客様が求めるものっていうのもある。
例えば安い電気だ。
これは倫理的に考えて正しくないだろう。
原子力発電所が吹き飛んでも、安い電気代は求められる。ジャブジャブ電気を使う。
でも、お客様が求めている限り、商売をしている立場からはそれをいかに提供するか、いかに魅力的に提案するかになる。
お客様は神様なのだ。

明らかに理不尽なことを言うお客さんは、現実的にはお客さんじゃなくなる。理不尽を言って利益よりも損害を出すようになると、これはお客さんじゃない。利益をもたらしてくれていればこそお客さんはお客さんなのだ。
しかし、現実はそうも行かず、ニュースなんかで店員が土下座をさせられたりする事件が起きるわけだ。

商売は三方良しが理想ではある。
売り手、買い手、世間の三方に良い商売が理想だ。
そのためには正しいことが正しいが通らないといけない。

正しいことが正しいとは限らない。
六ヶ国語を覚えて、知識を蓄えて、肉体を鍛えて、それが正しいとは限らないってのは何とも変な気がする。

主人公は一体何に負けて、子どもたちをスクールバスに乗せて学校に通わせることにするのか。
いや、この製作者は一体何に負けてこういうラストを書かねばならなくなったのか。
ヒッピーはダメだ、長いものには巻かれろ、世間に順応しなくちゃいけない。道徳の教科書に載るようなクリーンなラストじゃないといけない。

正しいことが正しいとは限らないってのが正しい世の中。
何者か分からない巨大な何かが個人の考えを否定して、無言の圧力で一つの方向に導く世界。

実際、僕も誰に遠慮してるんだか分かりゃしないが、何者かに気を使って正しいことが正しいとは限らないような、正しくないことも目を閉じてやるのが正しいような、ヘンテコなことになっていってる気はする。

変なクリーンな雰囲気でラストをしめてはいるが、何とも後味の悪い映画だった。

そんなこんな。


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2019年04月18日

子どもが出来た。

子どもが出来た。
無事に産まれるんだか、まだ安定期にも入らないから分からないけれど、元気に産まれて、大きくなって欲しい。
そんなわけで結婚もすることにした。

急にいろんなことが進んだ。
アフリカは遥か遠い過去のようだ。

子どもが出来て、最初、中絶も考えた。
僕も妻、妻になるので妻で良いんだろう、どちらも当面は子どもは作らず二人で呑気にやって行くつもりだった。
結婚もどちらでも良かった。いずれ結婚するのだろうが、役場での申請なんかが難儀だろうからと折を見て入籍すれば良かろうといった程度のものだった。
そこにふと子どもが出来た。

僕も何だかんだで31歳、妻は少し年上なので世間一般で言えば子どもを持つにはちょうど良い年なのだろうが、世間の考えは世間の考えであり、僕らの考えとは関係ない。
僕の収入は相変わらず少ない。
独り身で生きるには十分だが、誰かを養えるかと言えば、まあ、養えるんだろうが。
そう、酒を辞めた。週に一度くらいは家で晩酌しているが。毎日ウイスキーを飲む暮らしから随分な変化だ。
煙草は辞めていないが、随分減った。
酒と煙草をやめるだけで、まあ、何とか養えるくらいにはなる。というのも、僕の出費の大半はその二つだったから。それ以外の娯楽といえば自転車くらいか。妻と暮らすようになってからはギターも弾かなくなったし、本もあまり読まなくなった。最後の砦が酒だったわけだが、酒は案外すんなり辞めた。
そうすると案外、生計が立ちそうな見通しが立った。
酒飲みってそんなもんだろう。
酒っていう鉄球を付けて生きている。外せば案外いろんなことが出来る。分かっちゃいるけれど、酒が好きで飲む。飲んで何か良いことがあるわけでもない。知り合いがいくらか出来るのは良いことだけれど、お金同様、夜の夢だ。飲み終われば眠りがやってきて、朝に太陽が昇る代わりに過ぎ去って行く。
だからこそ、酒の仲間は好きだった。
出来れば酒の仲間は夢であって欲しい。
日本人の常識としては昼間の仲間との交友を深めるために酒は飲むものかもしれない。
だけど、僕にとっては酒の酔いの中で夢のように揺れる友達でいて欲しかった。俗っぽい話は聞きたくなかった。仕事の愚痴など聞きたくもない。何の内容もない話をして揺らいでいる、夜の夢の仲間。
僕は一人きりで酒を飲みに出掛けるのが好きだった。

酒と煙草を辞めて、子どもを一人育てられるくらいの採算が立つ。
そう考えると酒を飲んできて良かったなと思う。
夜の夢から離れるのは寂しくもあるけれど。

昼の夢といえば自転車の旅だったんだろう。

酒に満たされた夜か、その日眠る場所も分からない昼の日々か。

ーーー

子どものためにそういったことを辞めるのかと言うと、まあ、その通りでもあるのだが、どこか肩の荷が降りたような気もする。
正直なところ、アフリカ以来、僕の心が燃えるようなやりたいことは見つからなかった。
仕事は嫌いじゃない。好きかと言われると、地方の町の自転車屋さん、どこか物足りない気もせんでもないが。それでも、悪くない仕事だと思う。それでも、心が燃えるようなことかと言えば、どうだろうと思う。
小説を書くということも、小説を読まなくなって、要は小説に心酔出来なくなったから読むことが減ったのだろうか、はたまた読まなくなって心酔出来なくなったのか、何にせよどうしても書きたいものってのがなくなったか、はたまた書きたいものは心の中に燻っていれど、手に届かなくなったのか、手を伸ばす労力、探す労力が落ちたのか、心が燃える感じがなくなってしまった。

どう生きるか。
正直、そういうのが見えなかった。

自転車屋さんという仕事に関して熱意はあるが、正直、随分走ってしまったからか、自転車に対してどこか冷めているところもある。いや、好きではあるが、世の自転車愛好家のように頑張ろうってあまり思えないところがある。休日にロードバイクで走っても、マウンテンバイクで山を走っても、一人きりで異国を走る高揚感みたいなものはない。ましてやアフリカやパタゴニアのような高揚感は縁遠い。
100km走ったって特に達成感はない。200kmほど走ればいくらか満足感はあるが。それでも、どこか冷めてしまっている。

そういう中で子どもが出来て、中絶のことも考えたが、二人で考えた結果、頑張って育てていこうと決めると、肩の荷が下りたような気がした。

ーーー

人間、誰しもすごい人でありたい。
何でも良いから、何か一つ、他の人には出来ないすごいことが出来たり、職場ですごく仕事ができるとか、他の人からすごいと思われるような要素が欲しい。
多かれ少なかれそういうのって誰にでもある。

僕の場合、自転車の旅にせよ、小説にせよ、僕に出来るかもしれないすごいことだったんだろう。

自分で言うのも何だけど、自転車に関してはちょっとすごかったと思う。
いや、自転車の旅自体もそうだけれど、その旅を文にして世界を綴ったというのもほんの少しはすごかったと思う。
まあ、よくやったんじゃないかと思っている。

だけど、すごくあり続けるって大変だ。

友人でベルリンに住んでいる男がいる。
彼は高校を卒業してから、たまに日本に帰ってくる以外はずっと異国にいる。
日本が嫌いなんだかどうだか知らない。
エリートってわけでもなく、料理なんかしながら生きている。
僕は彼のことはすごいと思っている。
別にハーバード大学を出てるわけでもなく、単にインターナショナルフリーターみたいな具合なわけだが、異国でお金を稼いで生きていくってすごいと思う。良い大学を出て駐在員として異国に住むとかじゃなく、体一つで異国で生き抜いているってのは、これはかなりすごいと思う。
彼は彼自身のことをすごいと思っているのかは知らないけれど、多分、自分の生き方を愛しているんじゃないかなと思うし、普通の日本人とは違う生き方をしているという自負はあるだろう。

すごくあり続けるって大変だ。

そういう意味で、僕は子どもが出来て、育てることを決めた時、どこか肩の荷が下りた。
子どものせいにして、いろんなことをやめるってわけじゃない。
ただ、いろんなことをやりながら出来るほど子育てって楽じゃないだろう。
ある意味では僕は子どもを言いわけにして、人生を一つ降りるのかもしれない。

実際は小説を書くなんて子どもがいたって出来るだろう。

肩の荷が降りてしまった。
僕はもうすごくあり続けなくって良い。

ベルリンの友はまだまだすごくあり続けるだろうか。

ーーー

すごくあり続けるってのは、ヒーローでい続けるってことなんだろう。

多くの人は途中で肩の荷を下ろしてしまう。
実際、僕より早く結婚した友人を見ていて、正直なところ、つまらなく感じたことが何度かある。
もちろん、それは否定したりすべきことではない。ただ、つまらないと感じた。
まあ、野球部の4番でエースだって、プロ野球に進まない限りは普通の人になっていくんだ。

基本的には普通の人で世界は成り立っている。

実際に4番でエースじゃなくたって、学生くらいまでって、何かしら4番でエースのことってある。ギターが上手でバンドで目立っていた、とかね。
それが、日々、仕事帰りに買うファミチキとビールだけが楽しみになったりする。

要は僕はそういうのが嫌だったんだろう。
自分がそうなるのも、かつてヒーローだった友人がそうなるのも。

ーーー

でも、いざ、子どもが出来て育てていこうと決め、肩の荷が下りたような感じがすると、それも人生か、僕の人生は折り返しに来て、死に向かって下り始めるのか、そんな気もするのだ。
どこか寂しくもあるが、いずれは死ぬのだ。
その中で次の命に任せるのかもしれない。
なんて無責任なことだ、と思うところもある。
でも、僕はとりあえずここまで頑張った、あとは君に頼むよ、と言ったところか。
すごいことをしてくれ、なんて思わないけど、元気で楽しく面白く生きておくれ、なんて思うわけだ。
僕は僕で随分頑張ってみたんだよ。どうも、まだまだ満足はしてないけど、いったん君に任せようかな、って。
もしかすると、子どもがいくらか育ったところで、また僕も僕で何か頑張るかもしれないけれど。
とりあえず、当面は君を育てることだけに集中して頑張ってみようかなって。
多分、それは結構楽しいことだと思うし。
少なくとも、僕の心が燃えることではある。頑張ってみようじゃないか、って。

とりあえずは元気に産まれて来てくれると良いんだけど。
父親ってのは母親ほど頑張れることが少ないから、何が出来るってわけでもないんだけどね。

まあ、そんなこんな。
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2019年03月25日

山の裾野へ引っ越すことにした。

山の裾野へ引っ越すことにした。
厭世的になっても仕方はないのだが、最近は北海道の過疎の村の役場の求人などを見て、良いなと思ったりする。

子曰く(しいわく)、学びて時に之を習う、また説ばし(よろこばし)からずや。
朋遠方より来たる有り、また楽しからずや。
人知らずして慍みず(うらみず)、また君子ならずや。

ふと論語を思い出す。
高校の頃、学校に行くのが嫌いだったので、図書館で論語を読んだものだ。
授業でも習うが、学校のことは全面的に馬鹿にしていた。実際、学校で習う国語とは実につまらない。どうして名作をあんなにつまらなく感じさせる事ができるのだろうと思う。
そうは言っても、名作を知ったきっかけはやはり授業で教わるからだ。

ーーー

論語は何とも素晴らしいと感じた。
まず漢字がずらずら並んでいてカッコいいし、書き下し文を声に出して読み上げても何だかテキパキしていてカッコイイ。まあ、漢文全般に言えることだろうが。
それにしても、論語はカッコイイ。

実際のところ高校で論語を知るまで、日本の教育では学ぶとは何なのかということを教わらない。
論語はこれに対していきなり教えてくれる。
学ぶとは楽しいことではないか、と。
そして、学んだ結果として、遠くにいる友人にまで自分の話が届き会いに来てくれ話すとは実に楽しいことじゃないか。
だからといって、仮に人に知られるようにならなくたって恨んだり、くさったりしないで学び続ける、そういうのが君子ってものだよ、と。

なんと的確でコンパクトに学ぶとは何なのかを綴っている。

ーーー

まあ、実のところ、論語の内容などほとんど覚えちゃいないのだが。友あり遠方より来たるのフレーズは何故だかよく覚えている。

学校だとか集団というのは今も嫌いだ。人がたくさんいて、もちょもちょしているのが嫌いだし、学びたいために学ぶのじゃなく、みんなが学んでいるから学ぶっていうのがすごく気持ち悪かった。
生きていると何歳になっても大多数の人間は同じでみんなが働いているから働くだけで、働きたいことしたいことのために働くって少ない。

特に近年、人間を眺めているとつまらないような気持ちになることが増えた。人間に対して嫌だと思う気持ちもそうだが、つまらなくなった自分自身を映す鏡のように感じるせいかもしれない。
少なくとも、自分はかつてつまらない人間だと考えていた人間になりつつあるし、それを受け入れつつある。

30歳など若いと言う人もいるが。
はっきり言って30歳はもう全く若くない。
人間、40歳にもなれば明確に体力は落ち始める。
イチローでさえ45歳で引退だ。45歳までスポーツ選手としてプレイできるって本当にすごいことだ。
死ぬのは100歳かもしれないけれど、イチローでさえ45歳で現役終了だ。どうしたって体が衰えてくる。
ましてや、すごいわけでもない一般人の僕なんかは45歳まで体が元気なわけもなかろう。
まあ、プロのスポーツ選手じゃないんだから、体が元気じゃなくたって構わないとも言えるけど、脳みそだって45歳にはもう落ち目だろう。

現実問題として、35歳くらいだと思うのだ。
何歳からでも何でも始められるというのは事実だが、35歳を過ぎてゼロから始めるってのはやはり成長がしにくいのだろう。

50歳ともなれば、もう落ち目も良いところ。
むしろ、老害になり始める人もいる。過去の栄冠にすがりついて、下の人間を馬鹿にする。

もちろん、そうじゃない人もいる。謙虚に生きて、60歳だろうが70歳になろうが、若い人の話を聞いて素直に認めてくれることもあれば、助け船を出してくれること、率直に意見を言ってくれる人もいる。
長く生きて偉いはずの人が、年齢関係なく人間同士としてあくまで対等に、なおかつ年長者としての優しさを持って接してくれる。
そういう立派な人もいる。

ーーー

論語では、
十五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳従う。
七十にして心の欲するところに従って、矩をこえず。
とのことだ。

意味は、五十までは読んでそのまま。
六十にして何を聞いても動じなくなった。
七十にして思うように自由にやっても、道義を違えるようなことがなくなった、といった意味だ。

今よりも平均寿命の短い時代ということも考慮しなくてはいけないのはある。
今は寿命100年の時代だし、定年がない仕事なら60過ぎても現役でバリバリ仕事をする人もいる。

そうはいっても、昔の平均寿命の低さは子供のうちに死んでしまう確率が高かったせいもある。元気な人はやはりある程度までは長生きしたのだろう。

五十にして天命を知るのだ。

ーーー

そう考えていくと三十というのは、もう若くないわけだ。
もちろん、まだ五十まではしばらくある。
しかし、もう何かを始めていないといけない年齢ではあるのだ。

ーーー

最近、結婚をしたのかと聞かれることがある。
籍は入れていない。
入れても良いのだが、入れなくても構わない。どちらにせよ、今の人と死ぬまで過ごすのだろう。

結婚は男の墓場とは言うが、墓場にする人も多いし、そうじゃない人もいるだろう。
自分はどちらなのかと考えるとちょっと分からない。
それでも、墓場になるとしても、それは結婚したからではなく自分の怠慢ゆえに墓場を迎えるだけのことだろう。
一人で生きるのと違い相手を気遣わなければならないのも事実だが、相手が自分を助けてくれるのも事実だ。
助けてもらうことで出来るようになることが増えるか。助けることで自分の出来なくなることの方が増えるか。
一人で生きるのとは違うが、イコール墓場ではなかろう。一人じゃできないことが出来るようになるのだから。

ーーー

まあ、それにしても、友あり遠方より来たる、とは実に的を射たもので。

今の仕事にくたびれはてた今、旧知の友が遠方から来てくれ、手を差し伸べてくれれば良いのにと最近の僕は思う。
そうは言えど、旧知の友の多くも、やはり日々の生活に飲み込まれ、くたびれ、かつての光みたいなものは失われているだろうなどと考えると、故郷には帰りたくないし、旧知の友にも会いたくないような気持ちになってしまう。

北海道の過疎の村の役場の求人を眺める。
それで良いのかね、とも思うが。
遠方より友は来ない。

ドイツの友に会いに行きたい。

そんなこんな。
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2019年03月11日

五月一日に日本人は日の丸の旗を掲げるのだろうか?

もうじき平成が終わるらしいが、果たして新しい天皇陛下が即位される五月一日に日本人は家の前に日の丸の旗を掲げるのだろうか?
ふとそんな事が気になった。

かくいう僕はそもそもに日の丸の国旗を持っていないので、掲げようもない。
買うべきだろうかと思うのだが、国旗って何屋で売っているのだろう。白い布に赤い丸を書けば良い気もするが、白い旗なんかどこで売ってるのやら。何で日の丸を染めれば良いのやら。
まあ、Amazonで売ってるのだろうが。

普通の祝日にまで国旗を掲揚すべきとは思わないが、やはり元号が変わり天皇陛下が変わる日くらいは国旗は掲げるべきじゃなかろうか。
とは、思うものの、今のご時世、祝日に国旗を掲げている家ってまったく見なくなったし、うちだけ国旗を掲げるのも妙な気はする。

何だかその時点で妙な話ではある。
日本なんだから、天皇陛下の代替わりに国旗を掲げて敬意を表するのが少数派で、気まずさみたいなものを感じるなんて。
まあ、妙な話である。
ここは日本であり、日の丸は国旗である。

何だか昔は運動会なんかでも国歌って流れていたし、国旗掲揚ってあった気はするのだが、随分と長いこと国歌を聞かない。

南米を自転車で走っていた頃はやたらと君が代を歌っていた。暇があれば君が代を歌っていた。
アフリカの時は歌わなかった。
アフリカの時は2回目の旅行なので少々旅慣れていたから怖さも減ったということもあろうし、アフリカって割とどこでも人がいたので大声で何か歌うわけにもいかなかった。
南米はもう正に明日死ぬかもしれないって割と毎日思った。実際パタゴニアって無人地域を三日間かけて野宿しながら移動するのが普通だったから、なんかもう毎日が大冒険だった。
そういう意味ではやっぱりパタゴニアが一番楽しかった。

孤独になって君が代を歌う。
そんなの僕くらいのもので、他の人はそうじゃないのかもしれないが。
それでも、異国で一人きりになったとき、祖国を想ったものだ。
パタゴニアの暴風の荒野の中で君が代を歌うと、何とも美しいメロディーだと感じた。

最近の僕は割と孤独している。
一緒に暮らす人は出来たが、職場で友人と言えるほどの人はいない。別の店舗にはいるけれど。
人間関係ゼロってことはないが、今月末引越しをするのに、冷蔵庫を運ぶのを手伝ってもらう友人がいなくて困っている。引越し屋も三月末の引越しなんて、もう間に合わない。家具は少ないので問題はないのだが、少し難儀ではある。

パタゴニアの孤独は割と心地良いものだった。
死にたくはないけれど、何というか潔さみたあなものがあった。テントで眠る時、「ピューマが出て食い殺されませんように」なんて考えた。
高緯度なので夜は短かった。
暴風の中を延々と自転車をこぐ。
本当にそれ以外ない。街も人もいない。一時間に一台車が通るかどうか。ただ前に進み、疲れたら水を飲み、ビスケットなんかをかじった。
死にたくはないけれど、死んだって悔いがないような綺麗な孤独だった。
それで僕は日の丸を歌っていた。

今の孤独ははっきり言って随分と不快だ。
人間は腐るほど周りにいる。
しかし、僕は徹底的に孤独だ。
仮に明日重い病気になったら、妻以外で助けてくれる人は誰かいるだろうか。
気付いていないだけでいるのだろうか。
こんなに言葉も通じる、同じ国の人間が周りにいるはずなのに。

母国にいて、母国が遠い。
帰るべき、帰属すべき集団を感じられない、分からない。
日本最高とかっていうナショナリズム的な話じゃなく、単純に人間、生きている限り何かの集団に帰属しないとやっていけないし、日本、国歌ってのはやはり帰属すべき器であるべきだと思うのだ。
家族、血縁については故郷を離れるとやはり遠い。いずれ帰るべき場所かもしれないが、当面予定もない。何より故郷が姿を変えていくのが、どうも最近忍びない。故郷の町や景色もそうだが、友人、知人、すべてのものが変わってしまう。もちろん、自分も変わっているだろうから、変わってしまったものに対して文句など言えるわけもないし、不満などもない。ただ、変わってしまうと、僕の胸の中にある故郷、僕はどこに帰るべきなのだろうと思うのだ。

天皇陛下は毎日国民のためにお祈りをしてくれているそうな。
実は世界でも一番偉いらしい。神話の時代からの正当な血族って、世界で天皇陛下くらいらしい。
そんなに偉いのに我々国民のために毎日お祈りをしてくれている。
まあ、それが生まれついての仕事だからということもあるにせよ、それでも毎日、国民の安寧を願って生きている。
天皇陛下は日本のシンボルであり、政治的な実務はしないとはいえど、やはり天皇陛下は日本なのだ。

まあ、天皇陛下を敬愛しましょう、国旗を掲げましょうとは言わないし、実際、僕も国旗を買うかも未定ではあるのだが。
五月一日が何事もなくやってきて何事もなく過ぎてしまうってのは、歴史に対する敬意がないような気はする。

ま、そんなこんな。


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2019年02月20日

残りの人生と飛べない鳥のこと。

あくまで単なる順序の問題だと考えていた。
二十代でふらふらと山にこもり、自転車で異国を旅した。
そのことを人に誉められたり、すごいと言ってもらえることもあったが、言うなればそれは前借りで、知人には定年してから異国を自転車で旅する人もいる。
私の両親も定年を迎え、登山や旅行など娯楽を始めた。
先に苦労したからこそ、老後の貯蓄もあり余裕もある。
だから、自分の経験とは単なる順番の問題なのだ、と。

最近、残りの人生を考える。
ーー次はいつ旅に行くんだい?
私を知る人は聞く。
次に行くとしたら今度こそペンギンを見たい。
南米もアフリカもずいぶん南に行ったのにペンギンを見ることがなかった。ペンギンの生息地の近くも通り過ぎたのだが、過ぎてからペンギンがいることを知った。
そんなにペンギンが好きなのかと問われると、まあ、それなりには好きだ。ペンギンの小説も書いたことがある。
すこぶる好きかと問われると、それほどのものでもないとは思うが、動物園でも水族館でも必ずペンギンは見る。そうは言っても大抵の人がペンギンは必ず見るだろう。ゾウ、ライオン、キリン、ペンギンだろう。
そう考えればペンギンは大したものだ。ゾウ、ライオン、キリンと体が大きい。飼育費も随分かかる。ペンギンは小さい。たくさん魚は食べるので飼育費はそれなりにかかるらしいが。

残りの人生を考える話からどんどん脱線するが。
飛べない鳥と言えば、ペンギンだけじゃない。
ニワトリもこれまた実に立派な鳥だ。とにかく食べられる。美味い。安い。なんと残酷な話だろうとも思う。
ニワトリの祖先は東南アジアなんかに住むセキショクヤケイという鳥だそうだ。元々そんなに飛ばない鳥だったようだが、猫と同様人間に飼われることで種の保存を選択したのが現在のニワトリだそうな。

余談ついでに最近知ったのが、私がパタゴニアで見た鳥、やたらと速く走る大きな鳥はダチョウではなくパタゴニアに住む絶滅危惧種のダーウィンレアという鳥だったようだ。
少し離れたところを並走するように走ってきたのだがとにかく速くて大きかった。

飛ばない鳥というのは非常に素敵だ。

ーーー

さて、動物の肉というとアフリカだ。
アフリカの牛肉は実にまずい。品種改良されていない野生種に近いし、育て方もしっかり歩かせる。それで筋肉質で美味くないのだ。
まずいなどと言うと命に対して不敬ではあるが。少なくとも我々人間が食して美味いのは、やはり品種改良を重ねて牛小屋で育てられた牛の肉だ。
しかし、面白いのはアルゼンチンの肉は美味いということだ。アルゼンチンの牛も基本的に放牧なので固い。僕ら日本人が初めて食うと安い肉のように感じる。
しかし、アルゼンチンの肉はステーキで食べると非常に美味しい。日本人は霜降りが好きなので最初好みに合わないが、慣れてくると肉を噛む美味さがある。塩コショウをすりこんでやって波の付いたフライパンで焼くと実に美味い。

食とは理解だ。
大抵のものが最初は不味いと感じる。
例えば魚だろう。私は今も魚が得意ではないが、以前と比べると美味いと感じることが増えた。どうにも魚臭さというのがダメなのだ。それでも、食べている内に美味さというのをいくらかは理解してくる。海に近い町に行って新鮮なものを食うと臭くない。生の魚とは美味いものなんだなと、日本人のくせに大人になってから理解してきた次第である。
アルゼンチンの肉もそうで、初めは歯が折れるかと思ったものだが、食っていると良さが分かってくるのだ。
山の食べられる草にしてもそうだ。アザミの天ぷらなど、最初はただの草を食っているような感じなのだが、次第に美味く感じてくる。

ただ、アフリカの牛肉は最後まで美味いと思えなかった。
アフリカ、特にマサイ族にとっては牛は非常に大事なものだ。今でこそお金の方が大事かもしれないが、牛こそ彼らにとって最も大事なものだったらしいし、今も牛を大事にしている。アフリカを走っていると、マサイの子供が牛を連れて歩いていたりする。棒切れを持って牛の群の後を歩く。マサイ族の牛の扱い方は何も知らない我々が見ても非常に上手く、牛たちは従順にマサイの子供の思うように歩く。少し進んでマサイじゃない土地に行くと牛はよくはぐれそうになり、牛追いの人はよく牛をたたく。マサイが牛を叩いている姿は私は目にしなかった。それでもマサイの牛はとても従順に動くのだ。
でも、肉は美味くない。
牛肉はスワヒリ語でニャマと言う。米はワリ。アンドはナ。だから、牛肉と米を食いたければ、ニャマ、ナ、ワリと言えば通じる。
それにしても、ニャマは実に美味くなかった。
とにかく固い。味もしない。彼らの料理の仕方、大抵のものは油で素揚げというスタイルのせいもあろうが、固いばかりで味がしない。

ニャマに対してクク、ニワトリはそこまで不味くなかった。
日本で食べるニワトリよりはいくらか固いし、旨味もどこか素っ気ないのだが、それでもニャマと牛肉ほどの違いはなかった。
ニャマは美味くない。少なくとも日本人の味覚からすると。

しかし、牛たちは非常に大事にされていた。

美味い不味いの話で、バックパッカーたちの間であるのが、文明が発展している国は飯が美味いというものがあった。ただし、イギリスを除くとのことだ。イギリスは美味しくないのに発展している珍しい国だそうな。
まあ、笑い話、冗談程度の話なのだが、たしかにいくらか的を射ている。

それでも、アフリカの肉っていうのは命なのだろうなと私は思うのだ。
命をつなぐために命を食う。
美味い不味いではなく、命を繋いでくれる牛たちへの感謝、尊敬。

倫理的に考えるとアフリカの牛への扱いは日本より遥かに正しい。
正か悪かで論理を展開するのは危険ではあるが。
それでも、食べるために小屋に閉じ込め、近隣住民も匂いがするからといって近くに住みたがらない。はっきり言って日本人は食への命への尊敬に欠けている。米一粒に感謝する人は今の日本にはかなり少なくなりつつある。
それに対して強く逞しい牛を育てるために、一緒に一日中人が歩いているアフリカっていうのは命に対して非常に倫理が高いと私は思うのだ。

ーーほかに仕事がないからだろう。
まあ、それも間違ってはいない。
しかし、我々の命をつないでくれる命への尊敬というのは、やはり大事だろう。
日本人は高齢者の問題に直面しているのもあるが、人に長く生きて欲しいと願わなくなりつつある。もちろん、元気に長生きして欲しいが、元気じゃない長生きも、若い人を邪魔するような長生きもどうかと思う。
命は生きるべきだけ生きて、死すべき時に死ぬべきだろう。
誰しも死にたくはないが、キリストもブッダも死んだのだ。
キリストとブッダが偉いのは、死すべき時に死んだということも大きいように思う。
二人とも生きている間でも、それなりに偉くはなったが、死後の現在尊敬されているほど偉くなる前に死んでいる。もちろん、偉かったのだが。
人間、偉くなって怖いのは傲慢になることだ。

あくまで私の考えだが。
人間、それぞれに偉くなれる範囲が決まっている。
それを越すと偉そうに振る舞うようになる。
だから、ある程度の歳になると偉そうになる。
それ以上偉くなれなくなっても、人間ってのは向上心がある。だから、実は伴わなくても、偉くなりたいもんだから、態度ばかり偉くなってしまう。
実際、上限まで偉くなっているのだから偉いのではあるが。
それでも、自分はもう偉くなれないと悟るのは大事なのだ。
ブッダは布教の旅の最後に沙羅双樹の間に最期の寝床を弟子に頼んでいる。
私の考えではあるが、ブッダほどの人となれば、80歳程度で死なずにもっと長生きする方法も知っていただろうと思う。
何せ科学が進んだと言えど、現代では普通の人でも100歳近くまで生きるようになっている。ブッダほどの超越した人であれば、ただ生きるだけならばいくらでも生きられたんじゃなかろうかと思うのだ。
しかし、ブッダは弟子に言って北枕で永眠する。

キリストは弟子の裏切りを知っていながら死ぬ。ブッダよりもキリストの方がその気になればまだまだ長生き出来た。裏切りを知っていたし、知っていてあえて死ぬわけだ。

キリストとブッダも生きるだけ生きて、死すべき時に死んだのだろうと私は思うのだ。
二人とも半分神様、空想上の人かもしれない。
神様として、永遠に生きることも出来ただろう存在だ。
しかし、死んでいる。

ーーー

はて、残りの人生に関してだ。

30歳では正直残りの人生も見えない。
体力についても、私の場合、トレーニングもしているからか、かげりも見えない。
いくらか二日酔いが残るのが増えたくらいか。

しかし、以前は無限だと感じた伸び代に有限を感じる。別段、まだ限界が見えはしない。まだまだいくらでもやれるようにも思うが、しかし、限度がいずれ来るのだろうという感覚はある。
単純に有限だと理解しただけのことだ。

有限を感じると誰かに引っ張ってもらって生きることに疑問を感じる。
自分で何事かを出来る自信はない。
しかし、自信はなくとも、人生の引き算を考えるとそろそろ何事かを自分でやり始めないといけないのではないかと感じるのだ。

ま、そんなこんな。


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2019年02月11日

貧すりゃ鈍。

お金について考えることがあった。
最近、安定した仕事に就けだの何だの言われることがあったからだ。
確かにもうじき31歳になるし、転職するとしたらラストチャンスではある。

これまでも僕は事ある毎にお金について考えてきた。
貧すりゃ鈍する。貧乏になると日々お金のことばかり考えなくちゃいけなくて思考まで鈍って来ますよ、なんて言葉だが、まあ、この言葉は的を射てはいる。

昨今の日本の悲しみとは、貧乏なことがイコール悲しいこと、悪いことなんて考えが当たり前になっていることだ。
成功者にはお金が手に入る。
社会で価値ある人にはお金が手に入る。
そういうのが当たり前になっている。

とにかく危険なのは即イコールでつなぐことだ。
確かに資本主義の理想としては、社会的に価値ある人にお金が入る、というのはある。
ただ、現実問題としてはそれは違う。
非常に危険なのが、価値のある人=成功者=価値ある人っていう即イコールだ。
現実にはそのイコールが成立することもあるけど、しないことも多いのが本来なのだ。
しかし、即イコールの世界ではお金がない人は成功者ではなく、社会的に価値があるわけではない、人類に貢献しているわけではないというヘンテコなことになる。

このイコール問題が顕著なのは芸術だとかそっちの方面で、例えば太宰治もチャーリーパーカーも少なくともお金持ちではなかった。
まあ、お酒や麻薬に溶かしてしまったからというのもあるだろうが。
ただ、彼らは価値がなかったかといえば、絶対にそういうことはありえない。

経済なんかでもユニクロは大成功を収めて巨大な企業でお金持ちだが、ユニクロがやったのは自分たちだけ儲かれば良いという価格破壊で、人々は服を大事に長く着なくなり、労働者は安い賃金でたくさんの服を作らなければいけなくなった。

今、流行りつつあるPayPayも便利なようだが、お金ってのは国が出来るだけ全員に公平になるよう管理しないといけないのに、営利企業がお金の代わりになるものを作って管理してしまうっていうのは非常に危険なことなのだ。
仮にPayPayがスマホ決済を独占したら、PayPayの都合の良いようにお金を自由に発行できるようになってしまうし、決済手数料という名目にはなっているが、その実、消費税と変わらず、それをPayPayが自由に吸い上げることが出来てしまう。
もっと平たく言ってしまえば、勝手に日本国内で日本円以外のお金を印刷して流通させたら犯罪だが、お金と同じ機能を持つものを紙じゃなくデジタルでやるのは犯罪にならないということだ。
後の利益を考えると100億円還元キャンペーンなど安いものなのだ。
セキュリティの危険とかではなく、営利企業が手を出してはいけない領域であり、ほとんどの人がそのことを気付いていない、はたまた気付いていてもどうにもお金に勝てなくて使ってしまう。
かくいう僕もPayPayを使う。やはり便利ではあるし、集客も出来る。
最近の僕の悩みの一つではある。モラルに反することに加担して日銭を稼いでいるってことはある。

ーーー

じゃあ、お金を稼ぐのは悪いことかと言えば、当然そういうわけでもない。

ただ、お金がないのは悪いこと、お金があるのは良いことってのはおかしいというだけのことだ。
だから、その逆、お金があるのは悪いことで、お金がないのは良いことってのもおかしい。

これも、イコール理論で考えるとマイナスの反対はプラスということになってしまう。

基本的に絶対的に良い悪いということはない。
お金を持っていても良い人はいるし、悪い人もいる。その逆も然り。
当然のことのようだが、イコール理論では良いの反対は悪い、だから良くないものは悪いになってしまう。

ーーー

先日、退職金のある仕事をした方が良いという話をされたのと対照的に、世界はおかしい、お金にばかり走っているという話を別のところでされた。
別にそちらは押し付けではなかったし、むしろ、僕の考えと近いものはあったのだが。

ただ、聞いていて、ぼんやりと違和感みたいなものを感じた。

ーーー

僕としては稼ぎたいだけ稼げば良いと思うのだ。
他人の生き方、働き方に文句を付けるな、と。

そう言いつつ、ぼくも文句を付けるのだが。

まあ、PayPayもユニクロもモラル違反だとは思うし、あまり良いことではないと僕は思うけれど、そういうのが良いって人々も世の中いる。

ただ、やはり楽して金を稼ごうとかってのは良くないと思うわけだ。
地面からお金ははえてこない。
せめて裏山に拾いに行くくらいの労力はないとおかしいわけだ。

昨今、ふるさと納税なんかもそうだが、平気で偉い人が楽して得しましょうみたいなことをする。

別に楽したって良いのだが、基本的にお金はにょきにょき生えてこない。
何せ、お金を払えば誰かを働かせることが出来るわけだ。
にょきにょき生えて来たら、今度は自分も地面から生えて来たタダのお金で働かされることになる。

何もしなくてもお金が手にはいるとかってのは変なことだし、それをおかしいと感じないのは危ないし、偉い人が率先してそういうことをするってのはヤバイってやつなのだ。

ーーー

そうは言うのだが、敬愛する小説家の先生はFXで稼いでいたりする。
モラル云々の話で言えば株だのFXだので金を稼ぐってのは一番よろしくない。しかし、僕はこの先生は非常に好きだ。
この先生くらいになると爽やかなもので、働かなくて良いなら働きたくないと断言する。何で飯を食っているのかは定かではない。先日は渋谷だかどこだかでUFOの講演会だかをしていたらしい。それは金のための活動ではないらしい。漫画の原作をやってるとかしてないとか。とりあえずは小説家の先生なのだが小説での収入で食っていないのだけは間違いない。
ちなみに小説は良い小説を書く。まあ、当たり前なのだが、だって小説家の先生だもの。
家は実に質素なアパートに住んでいる。
酒を飲んでギターを弾いて。
ちょっとした仙人、随分俗っぽい仙人だが、何というか超越して爽やかである。爽やかさのかけらもないのだが。

ーーー

お金の話って多数派、少数派というだけのことで、多数派が圧倒的に多くなると暴力的になってしまうだけのことなのだ。
今ならお金派が多いから、お金がないことは悪い、退職金をもらえて福利厚生の良い仕事をするのが良いことなのだ、なんてのが世界の常識になっている。

僕からすれば、安定した仕事、給料の良い仕事なんてのは危険な香りしかしない。
人間、時間ってのは平等だ。そりゃ、早く死ぬ人も長く生きる人もいる。それもまた平等にランダムだ。不公平ってのは公平なことでもある。作為が働かずランダムであるっていうのはある意味で平等なのだ。
たくさんお金を稼ぐ人はたくさん時間働いているか、何かのスキルを得るために時間をかけている。そのどちらでもなければ、モラルに反することをしていたり、リスクを背負ってきているかだ。
頭がなけりゃ体を使え、体も弱ければ時間を使え、ってやつだ。何かしら使っているのだ。
産まれながらに体が二つあったり、脳みそが四つあったり、超能力が使えるとかすれば話は別かもしれないが。
基本的には何かを差し出してお金ってのは入るのだ。

昔の友人に高収入な人が多いが、まあ、大変そうではある。
中にはそんなに大変そうでもなくて収入も良くて福利厚生も良い人もいるが、まあ、それはそれだ。
逆にえらく大変そうなのに収入も福利厚生もよろしくない人もいるが、まあ、それはそれだ。

一つ言えるのは、会った時に、
「あ、やっぱりこいつの方が稼ぎが多いから幸せそうだな」
なんてことは全く感じない。
当たり前だが、幸福さと収入、福利厚生ってのはそんなに関係ないのだ。

これがアフリカとかなら、いくらかは思うのかもしれない。何せ貧乏と言ったら実に貧乏、字の通り食うに困る。しかし、アフリカのすごいところは貧乏が悪いわけではない。
まあ、アフリカと一括りにして話すのも良くないが。イメージとしてはタンザニア、マラウィ辺りだ。ザンビア辺りからはお金持ちが発生しだして、貧乏は良くないことみたいな空気がどこかにある。
村丸ごと貧乏ってのは救いがないようでいて、しかし、貧乏というのも普通のことであって別に悪ではない。

一度村で頭のパーの人がいた。
道路脇の村で、僕は言葉が分からないので最初分からなかったのだが、次第に周りが笑っているのと、彼の仕草を見ていると、なるほど、彼はパーなのだと分かった。
憐みではなく、人々は笑っているのだ。
言うなれば、パーのおっさんが旅人に絡んでるぞ、みたいな具合で。
そういうのって、日本だと小学校の道徳の教科書では絶対にしてはいけません、ということになっている。
しかし、現実に体験すると明るいのだ。
みんなパーのおっさんを馬鹿にしてはいるのだが、憐みはない。むしろ親しみみたいなものがある。
臭いものにフタをするじゃないが、タブー、かわいそう、触れてはいけないみたいなことをする方がよほど人間として良くないことで、素直に「パーのおっさん、相変わらずアホだねー」なんて笑いながら、それでもおっさんも村の一員なのだろう。

人間、ある程度の数がいれば、生まれつき頭がパーの人もいるし、育っていく途中で頭を打ち付けてパーになる人もいる。
でも、そういうのって仕方ないのだ。
アフリカの場合、大人になるまでに死んでしまう子どもも多いし、大人もふとしたことで死ぬ。祝日が危険らしく、お祭り騒ぎになるとついついアッサリ人が死んだりしてしまうことが珍しくないと言っていた。酔っ払ってトラックの荷台から落っこちるとか。
今生きていることを謳歌しているようなところがある。
なので人々は非常に力強いし、生命力に溢れていて、明るい。土と太陽の間に生きている。

生きているだけで人間ハッピー。
まあ、アフリカだって実際にはそれが全てではないのだろうが。アフリカ人でもアディーチェの小説のような苦悩はある。当たり前だが同じ人間なので。
ただ、アディーチェみたいに国際的に活躍している人は欧米に住む経験があるのも事実だが。

ーーー

あれこれと話はブレるが。

何だかんだで強いのはお金が少なくても幸せを感じる方法を知っている人間だ。
お金がないと幸せになれないと思っている人は大変だ。たくそんお金を稼ぐには疲れる。ほどよく働いても疲れるは疲れるが、そりゃ適度な疲れだ。

服を一つ買うにしたって、今年の新作、トレンド、あのブランドが良いと振り回されて、毎年、毎月高い服を買わないと満足出来ない人は大変だ。

昔から着続けているボロボロの服を着ていたって、どこか風流でスタイルがあってかっこいい。
そういう方が素敵だし、生きていて楽だ。

貧すりゃ鈍するとは言うが、いくらか貧乏していても頭の中がお金のことばかり考えなくても幸福に満たされていれば鈍さない。

逆にお金があってもお金のことばかり考えていないといけない人は鈍する。
いくらお金があってもお腹が出てしまって、健康を害しているのでは、何の意味もないのに、その事に気付かずいつもお金のことばかり考えている。
生きる事に対して頭が鈍してしまっている。

まあ、そうは言うけれど僕もお金は欲しいのだ。
今のところ何も困ってはいないけれど。

何十年も先の老後のお金のことなんか考えて、今の頭が鈍していたら、そりゃ馬鹿ではある。
ただ、今だけじゃなくいくらか先まで鈍することがないよう、やはり先々のお金の工面もいくらかは必要ではある。

ま、そんなこんな。


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2019年02月09日

祖母に三年ぶりに会ったら涙が出てしまった。

祖母に三年ぶりに会ったら涙が出てしまった。
少しボケているとは聞いていた。
しかし、現実はどうにも悲しかった。

祖母の状態は悪くない。
90歳だが自分で歩ける。
ボケているとはいえど、数年ぶりに見る僕のことを僕と分かってくれていた。

ただ、老人ホームの中で見つけた祖母は迷子になってしまっていた。
広い老人ホームではない。
どこかに行こうとしていたらしいのだが、道に迷ってしまい分からなくて困っていたと言っていた。
ボケてしまっているのだ。

人間90にもなればボケる。
それは頭の中では分かる。
壁に向かってクソを投げる人もいる。ひどく敵対的になる人もいる。
そういうことは知っている。
しかし、祖母が小さな老人ホームの中で迷子になったと言っている現実っていうのはひどくショックだった。

仕方がないのだ。
むしろ、歳を考えれば軽い方なのだ。迷子になっていると思い込んでいたり、僕のことをだれの子どもたったかな、と言ったり。母は一人っ子なので母の子ども以外ないのだが。
それでも、名前と顔が分かってくれたのは嬉しかった。
そう考えると祖母のボケは軽度のものだろう。

しかし、祖母はひどく残酷な生き延び方をしてしまっているように思えた。
祖父が死んでから、早く迎えに来て欲しいと言っていた。馬鹿なことを言うもんじゃないよ、元気に長生きしてよ、なんて言っていた。
ただ、今日の祖母を見ると、おじいちゃん、早く迎えに来てあげて下さいと思ってしまった。
今のうちに。

その年齢で三年も会わなければそういうことになるってのは普通なのだろうとは分かる。

ただ、祖母には悲しみがなかった。
早くおじいさんに迎えに来て欲しいとも言わなかった。
ただ、生きるって難しいねと言っていた。

神よ、なぜ一生懸命生きてきた人の最後にこんなひどいことをするのだ、と。
なんと酷い仕打ちをするのだ、と。

ーーー

それからエルグレコの受胎告知を眺めに行った。
大原美術館は遠くない。千三百円で入れる。
大原美術館は実家から歩いて十分のところにあり、学生時代は全館ゼロ円で入れたのでよく行った。
この美術館、非常に美しいのだ。
日本で最も美しい美術館はどこなんだか知らないが、少なくとも上野の国立西洋美術館よりは美しいと思う。国立西洋美術館も素敵な建物だし、世界遺産にも登録されているが、大原美術館の方が美しいと感じる人の方が多いと思う。
中庭の日本庭園には誰でも無料で入れて、そこで煙草を吸うと非常に美味いのだ。
収蔵作品も素晴らしい。ピカソも何枚かある。モネの睡蓮もある。あとは忘れた。でも、有名な画家の絵が何枚もある。収蔵点数自体は国立西洋美術館ほどではないが、どの絵もかなり知名度があり見応えがある。
美術館に詳しいわけじゃないが、いくつか美術館には行ったが、大原美術館みたいな絵のチョイス、有名作品がこんなに多い地方美術館ってほとんどないと思う。

受胎告知は大原美術館に何度か行っている人なら知っている。
何せ大原美術館の中で最も高額な絵だからだ。最も大切に展示されている。
大原美術館とは大原さんが自腹で作った美術館なので、基本的には全て同時ヨーロッパに直接買い付けに行っている。児島虎次郎さんという画家さんに買いに行かせたらしいのだが。
多分、普通の美術館では絵の値段って言わないし、国の所蔵のものが多いので買う買わないではなかろう。その辺は大原美術館っていうのは少し変わっている。

日本国内にエルグレコの絵があるのは、国立西洋美術館と大原美術館の二枚だけだそうだ。日本国内にエルグレコの受胎告知が存在しているのは奇跡だとも言われているそうな。

まあ、そんなわけで、倉敷の人でちょっと美術館に行く人と言えばエルグレコの受胎告知は有名なのだ。

受胎告知は聖母マリアの元に天使が降りてきて、キリストが産まれるよ、ってことを伝えに来ているワンシーンだ。

ーーー

実際には行っている時にはエルグレコを目当てに行ったわけではないのだ。
単純に大原美術館を散歩したかったのだ。

まあ、建物が良い。
祖母のことで混乱した心を落ち着けたかった。
だが、そういう心境で絵など見ると心がささくれて大変だろうとは分かってはいたのだが。

ーーー

一時間ばかりエルグレコを眺めていた。

どうして神は祖母にあんな酷い仕打ちをするのだろう。
人間はなぜ生まれてくるのだろう。
生きるってこと自体は残酷ではないが、人間生きている限りは生きねばならぬ。
生きねばならないから生きているとなるのは、ひどく残酷だと思うのだ。

それから裏の神社に登ると藤の木が枯れかけていた。
延々と高校をサボり続けて通い詰めた神社だ。境内の裏にある藤はとても立派だった。しかし、裏なので人はほとんど来ない。
たった10年ほどで随分と元気をなくし、枯れかけていた。
祖母の三年はどこか納得もある。
しかし、藤がたったの10年ほどでこんなに元気がなくなるとは思いもよらなかった。


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posted by ちょろり at 20:01| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月07日

アフリカ2

ユーフォーの話から始めるとしよう。

僕がアフリカに着くときに考えたのは、やべーな、今度ばかりは死ぬかもなー、ってことだった。
窓の下に広がるのは冗談抜きで動物奇想天外って番組でやってたサバンナだもの。
すごいよ。
テレビって本当に。
そのまま動物奇想天外。
所ジョージとか黒柳徹子とか出てた。
この木何の木木になる木って。
そりゃ、上からじゃライオンなんか見えない。
でも、まあ、こりゃ人間の住むところじゃないってね。
集落を探すけど分からない。
ぽつぽつと生えた草原と木。
へー、世界にもまだこんなところってあるんだなって。
自転車で走るつもりがない人なら、呑気に眺めるんだろう。
でも、僕はそこを自転車で走るんだ。
ちょっとじゃなくて全部ね。

ちょっと骨が折れるなじゃなくて。
今回ばかりは死んでしまうかもなって。

いろんな冒険家が世界にはいるけど。
誰しも今回はやばいなって思うんじゃないかな。
絶対安全なところなんて言ったって冒険家にとっては退屈しのぎか、スポンサー集めだ。

僕の眺めたアフリカって、本当に動物奇想天外だった。
冗談みたいなアフリカ。
本物のアフリカ。

いや、アフリカって本当はもう少し都市なんだろ。バックパッカーなんかでも歩いてるんだし。

少なくとも、きっとそのサバンナを歩くバックパッカーなんていないだろう。

ああ、冗談みたいな本物のアフリカ。
絶望。

それが僕のファーストアフリカだった。


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posted by ちょろり at 02:30| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

アフリカ1

その頃の僕にとって世界はどうだったのか。

それってずっと続く疑問だ。
NATOのユーゴスラビア爆撃。
それはきつと小学生の頃で、悪い国にアメリカが爆弾を落としている、そんな感じだった。

結果としては爆弾を落とされる国ってのは悪い国なのかな。
そんな風に考えたけど。

本当の良し悪しなんて僕に分かるわけもなく。

また、僕は出かけることにした。
アフリカ。


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posted by ちょろり at 02:19| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする