或る阿呆の一生ってのは、遺稿というから割一応小説なんだろう。遺書とはまた別物だろう。だが、小説としてはいまいちな気がする。むしろ、手紙だ。それも、手紙としては気取り好きなくらいの。
というか、作家の遺稿ってのはたいていの場合、小説としてはいまいちなのが多い気がする。太宰さんのロンググッドバイ、チャンドラーさんのプレイバック、いまいちだなぁと思う。その前くらいに書いた作品が面白すぎるってのがあるのかもしれないが、贔屓目無しに見てみると、実に不親切、知らない人には何も面白くない。
思うに、小説ってのは、前後のこと、つまりだよ、書いた人の境遇云々、それまで書いた作品、そういうのは別として、単品でも面白くないと駄目なのだ。
だが、遺稿ってのは実に乱暴なものが多いのだ。
多分、最後だし好き勝手してやろうってのがあるんだろう。人間死ぬ前になると身勝手になるのかもしれない。
勿論、意図はあるに違いない。文章を書くってのはつまるところ、言葉を吐きだす、心から、普段言えないことを、そういうのが最後のゴールってところがある。多分。そう考えると、さっかあげた小説としてはいまいちな遺稿たち、彼等は文章の為す仕事を見事に果たしている。素晴らしい文章と言える。
本来、小説なんてのも素晴らしい文章を目指すべきなんだけど、生きてる限り褒められたいのが人間ですし、生活もあります。小説を書きながら生きていくには、本音を吐きながらも他人から面白くなくちゃいけないのです。誰からも褒められない、生活もできない、そんなんじゃ文ってのは書き続けられないんでしょう。つまり、他人を喜ばせる為に文を書くというのは、同時に作家自身が生きる為でもあるのでしょうね。
堅苦しいことがつづいたけど、そんなわけで阿呆の一生は良い文書なんだけど、良い小説とは言い難い。じゃぁ、阿呆の一生を芥川さんを知らない人が楽しく読むにはどうするか? 思うに大事なのはここからです。とっつきにくいけど良い文章、そういうのをたしなむ方法。
まあ、話の筋から分かるかもしれんですが、芥川さんの友達になれば良いわけです。そりゃ、親友にはなれないかもしれないけど、「ああ、芥川さんね。知ってるよ。こういう人でしょ」くらいの知合いなら無理ではないでしょう。できる限り近付けばより楽しめる。たくさんその作家の作品を読む。簡単な方法ならWikipedia。Wikipediaは正確とは言い難いですけど、作品を楽しむだけなら問題無く、手軽です。作品を系統立てずに読みまくるよりはWikipediaで主要作品とその背景を知って読むってのなら、案外Wikipediaの方が遺稿を読むには便利だろうと思います。バラバラにたくさん読んでいくってのは、むしろ、単品としての良い小説を捜すっていう側面が強いとも言えるようにも思います。
遺稿と言われる作品ってのはそういう作業はどうしても必要な気がします。
それでも、読むべき遺稿ってのはあって、或る阿呆の一生は間違い無くそういう小説なわけです。
まぁ、別に意識してなくても好きな作家ってのは気付いた時にはたくさん読んでるし、親しみを持つようになっているから、無理する必要は無いんだけどね。
まあ、芥川さんはかっこいいですからね。とにかくシャキシャキサラサラなのにずっしり重たい文を書く。最近の作家の場合、村上春樹なんかはフワフワスルスルなのに重たい文章って感じです。フワフワよりもシャキシャキの方がかっこいいですし、スルスルよりもサラサラの方が潔い感じがして、僕は芥川さんみたいな文の方が好きです。まあ、最近はフワフワブームだからどうしても難しいですけど。
でも、フワフワスルスルも何年かしたら、素晴らしいなーかっこいいなー、となるのかもしれんです。
自分がかっこいいと思う人を知るってのは、別に意識しなくてもいつかやることなんだろうし、まぁ、無理に読まなくても良いのかも、そう考えると小説について誰かに紹介みたいなことをするなんてのは野暮ったいことですよ。
こうなるも身も蓋もないです。
芥川さんのかっこよさ、良い小説を書いた向こう側、そんなのがチラ見できちゃう作品なんです。
遺稿に対する文なので、日記だけど少し堅く書いたりしたよ。
そんなこんな。
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