2019年09月12日

人生が目まぐるしく進んで、何を目標に生きていこうか。

人生が目まぐるしく進んでいく。

子どもが出来て、転職することになって。
車を買わなくちゃいけなくなった。
工務店で働くので、いずれ自分の家も建てようと思っている。

数年前、自転車でアフリカを走っていたのが実に遠い過去のようで、改めて考えればつい三年ほど前のことだ。
マラウィのことをよく考える。その国ではマラリア対策で蚊除けになるんじゃないかと、村で3ドルで半ば押し売りされたマリファナをぷかぷかとテントで吸って野宿していたのを思い出す。
あんまりマリファナの話なんかするのもどうかとは思うけど、別にマリファナ大好きってわけでもないし、日本で吸うことはない、要は潔白なのでこうして書くのだが。
(日本国内で高い金を払って、警察に捕まるリスクを押してまでマリファナをするのは馬鹿だけだ)
そこの国ではずっと下痢もしていたので、マリファナ茶みたいに下痢の治療にならないか、なんて思ってぷかぷかやっていたわけだ。

貧乏な国だったし、ある日突然全裸の黒人に殴られたりするし。僕も珍しくよくマリファナをやっていて。
どことなく幻想のような思い出のある国だ。
四国くらいの大きさの小さな国だったから、本の数週間の滞在だったし、特に観光すべきポイントもなかったけど、不思議と印象に残っている国だ。

首都について日本大使館に電話して、駐在のドクターに相談しようとしたら、しばらくドクター不在なんです、なんて言われたりして。
実に楽しい国だった。

笑えるレベルの苦労ってのは楽しい。
これが下痢なんかじゃなくて深刻な病気だと楽しくはないが。
まあ、下痢も深刻に困ったのだが。

マラウィのヘンテコな話といえば、これは現地で知ったことではなくニュースで読んだことだが、一部の地域で大人になる通過儀礼として12歳の少女がセックスしないといけないってのがあるそうな。
しかも、それでHIVが随分広がったりする。

まあ、ヘンテコな国なのだが、どこか愛すべき国。
もう一回行くかと聞かれると、行こうとはあまり思わないのだが。

ーーー

それにしても、そこから3年ほどで急に人生目まぐるしく進む。

急にいろんなことがきちんとして、身が重くなる。
妻と子のため生命保険にも入った。
もしもの時のために毎月1万円以上払うわけだ。
もしもの時って何なんだ、って話だが。

こんなにいっぱい税金やら社会保険やら年金やら払っているのに、もしものことがあった時のために別途で生命保険に入らないといけない国って、なんだそりゃ、って気はする。

マラウィに住もうとは思わないが、ある意味では日本も随分と変な国ではある。

ーーー

何はともあれ、僕は随分と変な国日本で妻と子どもを育てて行くことになったのだ。

日本も少しマリファナ解禁でもして、イージーに生きるっていう選択肢もアリにしても良いんじゃなかろうか。
でも、きっと日本でマリファナ解禁しても、日本人は上手く遊べないだろう。
まあ、マリファナを上手に遊べている国なんて少ないんだろうけど。
でも、別にビールやウイスキーと大して変わりないんだから、解禁してリラックスして生きていっても良いんじゃないかって気はする。

根底のところで日本は少し変な国なんじゃないかと僕は思っている。
何を基準にして、どういうところが変なのか。
そんなこと日本以外の国で生きたことがないからよく分からないけど。
何となく感覚的に日本ってヘンテコな国だなと僕は思っている。
忖度、出る杭打たれる。
正しいことが正しいってならないことが多い。

ブーブーと文句ばかり言っても仕方ないが。
貧乏な自転車屋を引退して、外の世界を見渡すことになると。
何だか、随分と変な世界に僕はいるような気がした。

ーーー
ーーー

そういえば、最近、憧れの人、人生の目標の人、尊敬している人はいますか?っていうことについて考えることがあった。

ふと考えると、最近、そういう人がいない。
もう少し若かった頃って、割とそういう人っていくらでもいた。
たとえば、村上春樹みたいになりたいとか。
でも、次第に有名人なんかに憧れなくもなったし、お金持ちにも憧れなくなった。
それは実現する可能性が低くなったからってわけでもない。
誰かに憧れるというよりは、自転車屋してて、そこそこお金も困らなくて、景色の良いところでコーヒーが飲めて、家族が健康で、僕は僕で自分の好きな自転車やランニングなんかをそれなりに楽しめれば、そういうのが良いかな、って。

まあ、向上心がなくなったのかもしれないし。
はたまた、それなりに自分が何が好きで、どんな感じで生きたいかってのが見えて来たのかもしれない。
何にせよ遠い夢を見なくなった。
どこか寂しくある。

こんな風に生きたいということで。
しいて言うなら自転車仲間のSさん夫婦の暮らしっていうのは確かに憧れではある。定年後、世界の至る所を旅するという生き方も素敵だし、家が素敵だし、生活も総じて素敵だ。奥様が芸術家だからというのもあるのか、家全体はもちろん、家具や絵、彫刻など、全てが非常に美しくまとまっている。

もちろん、Sさん夫婦にもアレコレ苦労はあろう。
別に大金持ちってわけでもないだろう。
人生で何か偉業を成し遂げで何か残したかということもないのかもしれないし、僕が知らないだけで実はすごく偉い人なのかもしれない。まあ、実のところは分からない。
でも、まあ、多分、普通の人だと思う。多分ね。もしかすると、偉い人かもしれないけど。

そう、別にこれがスゴいって説明もしにくいわけだ。

それでも、Sさん夫婦は生き方に芯みたいなものがあり、それが行動、暮らしや家、趣味、所有物などに一貫して滲み出ている。
統一感があるのだ。
下衆だったり嫌味な感じがない。
何だかんだで自転車や乗馬など、結構お金のかかる趣味も多いのだが、成金趣味的なところがなく、当然ながら貧乏くささもない。好きなのでやっているだけで、必要な分はお金をかけるが、無駄なお金はかけない。

中庸というべきものかと言えば、中庸とも違う。

じゃあ、一体僕はSさん夫婦の何に、どういうところに憧れているのか。

改めて考えると難しい。

ーーー
ーーー

随分と人生が変わる。
これから何を目指して生きて行こうか。
家族の健康はもちろん。
僕は一人の人間として何を目標に生きていこうか。

ま、そんなこんな。
posted by ちょろり at 00:38| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年09月07日

欲なんかかくから性善説も性悪説も。

人間は性善説ベースなのか性悪説ベースなのか、なんてことを最近考える。

チームって、基本的に同じ目標で動かないと強くない。
小学生の野球チームなんかにしても、みんなが勝つためにやっているチームと、親に習い事に行きなさいということで何となく野球をしているチームだと差は歴然となる。

あ、嘘だ。
中学校くらいまでの野球はピッチャーで決まる。ピッチャーが一人だけ良けりゃ大抵勝てる。特に小学生の野球となるとまずストライクを普通に投げられるピッチャーがいるかどうかだ。バッターが打てない球を投げるピッチャーじゃなくて、ストライクが入るかどうか。これがないと試合にならないんだけど、小学生くらいだとストライクに投げるって難しいのだ。
フォアボール=100パーセント出塁できる=打率10割だから、こういうことになってしまう。

小学生の野球で勝つための戦略は2ストライクまではオールバントだ。もちろん、見送りもする。とにかく走らせる。最初はほとんど見送って2ストライクからのヒッティングメインにして、バントしないと向こうが思った辺りから実際にバントも混ぜていく。
これ、ピッチャーはすごく疲れる。バントの処理ってピッチャーは物凄く疲れる。

ただ、そういうことをするとバッシングが来る。
勝ててもバッシングが来る。
そして、プレイヤーである子供たちもつまらない。

野球とはホームランを狙って盛り上がる遊びでもある。

でも、基本的には勝った方がスポーツは面白い。
だから、露骨になりすぎない範囲で、なおかつ子供たちが楽しめる範囲でセーフティバントとバスターの技術、ピッチャーを疲れさせる技術っていうのは教えておいた方が良い。

何よりも大事なのは、勝つためにやろう、っていう目的を統一することだ。

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勝つために試合はする。
当たり前のようだけど、意外とチーム全員で勝つためにやろう、って意識を統一するのは難しいのだ。
もちろん、みんな勝ちたいのは勝ちたいのだが、勝てるなら勝ちたいっていう程度の話なのだ。

少年野球の場合、土日に朝起きて一生懸命やって、親に誉められれば、それでとりあえずはOKだし、そこで友達が出来て、放課後にポケモンが出来ればサイコー。
つまり、勝ちたいのは勝ちたいけど、勝てなくても、まあ、どっちでも良いのだ。

高校野球くらいになると、割と監督も厳しかったり、先輩との上下関係も厳しかったりして、勝つために頑張ろうって話にはなるのだが。
可愛いマネージャーと良い関係になれるのと、試合で勝てるのと。
そりゃ、可愛いマネージャーとウキウキする方が優先だし。
怖い先輩に怒られない、監督に罰のランニングをさせられない。
そういう方が試合の勝ち負けより大事っていう高校球児の方がよほど多いのだ。
もちろん、タテマエとしては勝つためにやっているにせよ。

ーーー

じゃあ、どうやって高校球児、あるいは野球少年たちを勝つために統一していけるか。
勝ちの味を覚えさせるというのに尽きる。
勝てばモテる。勝てば親に誉められる。
世の中、勝てば官軍ってのは当たり前のことではあるのだが、実際には勝ち続けられる人間は少ないので、負けても他のことを頑張れば良いなんてことを人間覚えるようになる。

まあ、実際、野球が全てっていう人間は少なくて、野球で勝つよりも勉強を頑張りたかったり、まあ、アレコレあるのだ。
それでも、勝てば嬉しいっていう、勝ちの味を覚えさせれば、また勝ちたくなる。
これが出来ればチームは強くなる。

だから、強豪校はずっと強いのだ。
勝って当たり前、勝てばチヤホヤされることを知っている。
だから、勝ちに向かって統一されている。
だから、強い。

ーーー

これ、仕事でも同じで、売上を伸ばそうって統一するのは難しい。

儲けるために働く。

これ、非常に当たり前なのだが、全員が儲けるために働くって統一するのは非常に難しいのだ。

例えば、僕もそうだが、たくさん売っても給料が変わらない。休みも増えない。
こうなってしまうと、頑張れにくくなる。
頑張っても意味がないっていうのはツラい。
特に頑張っている人間ほどツラい。

でも、当然だが頑張らないと会社は傾くし、そうこうしていれば、自分の給料も怪しくなってくる。

だが、これまた不思議なことに頑張らなくても、大抵の企業はそう簡単には潰れないし、給料も明確な理由なく大幅に減ることもない。

そういう構造の儲かっていない中小企業の場合、
「儲けるために働く」
っていう考えで統一していくのは難しい。

ーーー

じゃあ、給料を上げればせっせと儲けるために働くかというと、これまたそうでもない。
給料が上がれば、そのことに対してありがとうございますと感謝こそすれど、その分、余計に一生懸命働くのは数ヶ月のことで、しばらくすればその給料が普通になってしまって、以前の通りと変わらない程度にしか働かなくなる。

ーーー

保険屋のおばさんから聞いたが、お金は遺産として残すのは良いが、死ぬ前に配ってはいけないという鉄則があるそうな。

死ぬ前に贈与してしまうと、もらう前ともらってしばらくは感謝して、せっせと恩も返すが、三年も経てば過ぎ去った過去である。
贈与してから三年以内に死ぬなら良いが、現実問題、そうもいかない。

これに対して、
「世話してくれてありがとう、遺産はお前に多く残してやるからな」
と約束すると、死ぬまではせっせと世話してくれる。

もちろん、みんながみんなそうではないにせよ、生前に贈与するよりは遺産として贈与した方が間違いないっていうのは鉄則らしい。

ーーー

こうして話が進んできて、やっと最初の話題、人間は性善説なんだから性悪説なんだかって話に辿り着く。

自分で言うのもなんだが、自分は割と真面目な人間なので、少年野球をするにしたって勝つために頑張ったし、ホームランで盛り上がるためにも頑張った。
仕事にしても、やるからには会社が儲かるように、なおかつお客さんが喜ぶ仕事を目指すのが当たり前と思って努力してきた。
遺産についてはまだ親が元気なので分からないが、故郷から遠く離れているので、この点は不義理をするかもしれない。

自分で言うのもなんだが、真面目だと思う。
何事もやるからには結果を目指して頑張る。みんなが幸福になるように自分が出来る最大限の努力をする。
それが当たり前だと思って生きてきた。

もちろん、サボることもあった。高校のバレーボール部は部室に昼寝とタバコを吸いに行ってただけだ。
勝つなど一ミリも考えなかった。
そのくせキャプテンなんかしてた。

ーーー

31歳にして分かったのだが。
会社が儲かるために努力しない人っていうのは存在するのだ。
働くからには儲かるように努力するのは決して当たり前のことではない。
それこそ、バレーボール部の部室にタバコを吸いに行っていた馬鹿がいるように。タバコじゃないにせよ、会社の利益を増やすため以外の目的で仕事に行く人っていうのは決して少なくない。

本当に何も考えず、朝になったら起きて、仕事に行って、職場で何かして、叱られないように過ごして、時間が来たら帰る。

なぜ儲けようというやる気が起きないのか。
単純に実家暮らしで、近所の人なんかの目を気にして正社員という世間体のためだけに仕事に行く人もいる。
実家暮らしなので食うに困らないというわけだ。
実家暮らしじゃなくても、近くに親がいて、何かあれば助けてくれるので、そんなにお金にシビアでもないという場合もある。
はたまた、公務員や大企業の場合、個人の頑張りは仕事全体にあまり反映されないので、頑張ってもサボっても組織はそれなりに儲かっているということもある。
はたまた、頑張っても評価されないどころか、厄介な仕事や責任ばかり増えてしまう仕事というのもある。

ーーー

これ、単純にやる気の問題なのだ。
性善説、性悪説、要は生まれつきの問題なのだ。

宅建の試験勉強なんかしていても思うが、やる気次第なのだ。
もちろん、やる気があっても落ちることもあるにせよ。やる気がある人の方が受かる可能性は間違いなく高い。

ーーー

問題は善か悪かって、どっちがどっちなんだという話だ。

会社で仕事をしていて、特に仕事に関しての話の場合、儲けるために頑張るやつが善である。
会社の目的は儲けることだ。
利益を出さない団体、非営利組織でさえ運営上必要な最低限の利益は必ず作らないといけない。
もちろん、利益を上げる営みを通して、それが社会貢献になるというのも大事ではあるが。
とにもかくにも利益が出ないことには会社ってのは進まない。
少なくとも人を毎日八時間拘束して仕事をさせるためには、その人の食い扶持を確保しないといけない。

ただ、少年野球のバントの話がまた出てくるのだが。
勝つために何でもしていいってわけでもない。

やはりホームランを狙うブンブン丸が必要なのだ。

それでも、やっぱり会社は利益を出さないといけないわけで、働く人間として同僚にも儲けるための努力、お客さんに喜んでもらう努力はして欲しい。
勝つためにチームとして頑張って欲しいと思うわけだ。
いかに給料が悪かろうと、休みがなかろうと、実家暮らしだろうと。
それが、真面目というものであり。
性善説でものを考えていたいのだ。

そんなわけで、転職を前にした僕は性善説、性悪説なんてことを考えた。

ーーー

目から鱗だったのは、次の転職先の社長の書いた本にあったことだ。

次の転職先も10人程度の小さなところだ。
ただ、社長は10個くらい会社を持っていて、ビジネス書なんかも何冊か出している。
内容としてはピンキリというのが正直なところだ。そりゃ、文章家ではない実業家だからね。本として面白く仕上がるかは出版社の企画、編集の腕が問われるところだ。

その本の中に中小企業の経営者向けのものがあるのだが。
その中で如何に従業員を育てるかというのが書かれている。

中小企業では特に人が少なく余剰の人材を雇う余裕がない。
だから、個々が頭を使って会社が儲かる方法を考え行動できるようにしないといけない。
いかにしてそういう人材を育てるか。

ただ、中にはそういう風に育たない人もいる。
そういう人をどう捉えるか。
そういう人も必要だと書いているのだ。

言い方は悪いが、向上心のないサラリーマン気質の人はそれはそれで会社にとって必要なのだ。
ただ、大事なのはそれを明確に本人に認識させることなのだ。

理想は会社が儲かるように考えて行動できる社員が育つということだ。
でも、出来ない人にそれを求めるのは酷だ。
それに、逆にそういう人は与えられた作業をあまり考えずに黙々とこなしてくれる。

だから、ある程度まで教育したところで、本人に選択させるのだそうだ。
儲かるように考えて動く社員になるか。向上心も必要だし、大変だし、成長すれば責任もついてくる。それでも、儲かった分はちゃんと払う。
それか、黙々とこなす社員になるか。そういう人材も会社にとって必要なのだ。ただ、儲かる方法を考えて動く社員より収入は落ちることになるが、向上心などは求めない。

どちらが良い悪いではなく、それは価値観次第なので本人の自由な意思で選ばせてやるべきだ。選んだからには責任を持って、その方向で頑張ってくれ、と。

もちろん、やる気が全くない人を雇うわけにはいかないので、最初の教育の段階で会社に合わない人には辞めてもらうのもアリだとしている。
厳しくすると社員が辞めてしまうかもしれないと臆してしまう会社も少なくないが、厳しくしたら辞めてしまう社員をなあなあで雇い続けると会社にとっても当人にとっても良いことにならない。特に40歳くらいまでなあなあで雇い続けて、若い有能な人もある程度育ったところで不必要になって解雇などは当人にとって地獄である。
どうしても合う合わないというのはあるので、合わない人には早い段階で辞めてもらって別の会社で活躍するチャンスにしてもらう方が良いだろう、と。

こういう風に徹底するのは本当に難しい。
人をクビにすることは難しいことだし、また雇用するのも大変なことだ。

可能な限りは仕事ができない奴も雇ってやりたいっていうのは経営者の心理だろう。ある日突然、仕事ができる人間に変わってくれないかと淡い期待を抱きつつ。
そして、いくらか無理をすれば何人かくらいならそういう人間を雇うくらいは出来てしまう。
でも、それがなあなあになってしまうと、気付くと出来ない人間の方が多くなって、真面目な人間が負担を背負いこんで無理をして馬鹿を見ることになる。

そういうことは誰でも分かることなのだが、人間、自分が当事者になるとじわじわと悪くなっていく物事っていうのには対処出来ないものなのだろう。

そこをズバズバっと徹底してやっていくっていうのは本当にすごい。

ーーー

まあ、自分の会社に都合の良い理屈とも取れるが、実際、中小企業で人材を育てていくってそういうことである。

僕が自転車屋さんをしていて、会社に対してよく思ったのは、正社員の数は減らしてバイトを雇って欲しいということだった。
正社員は少数精鋭で店長として動けるレベルの人だけ、あるいはそこまで成長する見込みのある人だけにして、あとはアルバイトにして欲しい。
そうしないと、モチベーションの低いスタッフの食い扶持を稼ぐために、自分の給料が伸びなくなってしまうのだ。
正社員が少ないと売上が伸びていくと人手不足になる可能性もあるが、やる気のない正社員はどちらにせよ一人にカウントできるほどの仕事が出来ない。

そりゃ、自転車っていうのが利益率の高い商品なら良い。
あるいはママチャリのように日用品として全国民に需要のある商品でも何とかなるだろう。
でも、ロードバイクとは利益率は低いし、その上、数がたくさん売れるものでもない。
自転車操業とはよく言ったものだ。

ロードバイクを売るというのは、いかに常連を育てるかだ。
ロードバイク愛好家である限り、馴染みのショップが一件は必要だ。
だから、きちんと常連として付いてくれると長く安定して購入し続けてくれる。
さらにその人の知り合いがロードバイクを始めるときに紹介してくれる。
ロードバイクを始めようと思った時に知り合いでロードバイクが詳しい人がいたら相談するだろう。その時に店を紹介してくれるかどうかっていうのはとても大事なのだ。

常連さんが常連さんでい続けてくれるっていうのはとても難しい。
ただ、安いだけだと別の店でもっと安いところが見付かったら、そこに移ってしまう。
常連だからと値引きばかりしていると意味がない。
ただ、たくさん知り合いを紹介してくれる人にはそれ相応のサービスもすべきだ。
用事がなくてもふらりと店に立ち寄りたい、あそこの店の人と用はなくとも世間話をしたい。
そういう関係性が出来れば良い。
世間話だけでは利益にならないので、これを嫌う店も少なくないが、趣味の仕事は紹介ありきだ。ぶらりと立ち寄ってくれるほどの信頼関係が出来ていて、なおかつきちんとお店とお客さんというマナーがお互いに出来ていれば、頻繁に店に顔を出してくれるお客さんはいずれ必ず良い常連さんになってくれる。
ただ喋るだけで何も買わないっていう変わった人もいるけれど、そういう人は少数だし、そういう人はお店とお客さんっていう最低限のマナーを作れていない。

要は一人の人間の人生を通しての趣味のパートナーになれるかどうか。
これがロードバイクを売るという商売の核心だ。

もちろん、そういう常連さんじゃなくて、ぶらっときて買って行って、それきりというお客さんも売上にはなる。
ただ、そういうお客さんを狙って増やしたり、安定して減らさないようにするのも難しい。
ぶらり客は運の要素が大きい。

もちろん、ぶらり客を逃さず売上を作れるかっていうのも大事ではある。
ぶらり客だって接客が悪いと、そのままぶらりと別の店に行ってそこで買ってしまう。
売り逃がしになる。

常連さんにせよぶらり客を逃さないようにするにせよ。
どちらもきちんとした接客や会話力が必要になる。

そういうビジネスなのに社員の数ばかり多くて、モチベーションの高い社員は少ない。

ーーー

今の仕事の愚痴にもなったが。
でも、僕は心底、自転車屋さんで平和き生きていたかったのだ。
別にそんなに高い収入もいらないし、休みも多くなくて良い。
ただ、家族が困らない程度のことは欲しかった。
だから、仕事も頑張ってきたし、数字も出してきた。

だから、同僚には求めるのだ。

ーーー

でも、それは僕の間違いだったのだ。

現実世界ではいろんな人がいる。
勝てれば嬉しいけれど、勝つために一丸になってやるチームっていうのは多くはない。
みんなそれぞれに価値観がある。

ーーー

次の職場は徹底して勝ちに行く職場だ。
まだ入ってもいないが、入社前に社内チャットなどに入れてもらって会話を読んでいるがすさまじい。

全員が一丸になって勝つためには宗教が必要だ。

強豪校の野球部だって、アレは半分は宗教だ。
まず選ばれた選手ということ。
そして、勝って当たり前ということ。
野球こそ人生ということ。
そういう思想のベースがあるから、凄まじい量の練習が出来る。
その中の競争に勝った精鋭がレギュラーとして試合に出る。
野球が上手いということこそ、試合に勝つために必要な選手であるということ、それこそが至上の目的であり、それに向かって一丸となる。
これ、宗教である。

はっきり言って高校野球ですごい選手だからって人生どうこうなるわけでもない。
結果論としては、そういう体育会系でもまれて、忍耐力のある人間はたしかにその後の人生も上手くいきやすいってのはあるにせよ。
甲子園に出たからって、プロ野球選手になれるわけでもないし、野球関連の仕事で食っていけるわけでもない。野球こそが人生っていう日々は遅かれ早かれやってくる。
でも、チームにいるあいだは野球こそ全て。
疑う余地がない。
信じる信じないではない。
言うなればその思想は神であり、信じないなどという選択肢があるわけもなく、意識して信じるようなことでもない。

基本的に勝つためのチームとは何かしらそういう宗教めいたものがある。

ーーー

正直なところ、一人でのんびりと自転車屋をしつつ。コーヒーでも出していたいのだが。近所の学生のママチャリのパンク修理なんかしたりね。馴染みの常連さんと走りに行ったりね。
細々と食うに困らない程度の収入で。
でも、平和で。
空を眺めて。
文でも書いて。

何とも無気力な本音だとは我ながら思うが。

ーーー

昔よく行ってたバーも随分変わってしまったらしい。
昔は大した金にもならない呑んだくれが集まってのんびりと音楽を聴いて下らない話をしていたのが、領収書を切って経費で飲んでくれる飲み会の客をターゲットにした居酒屋みたいになってるとか聞く。

僕はいっぱいお金を手に入れて、仕事の出来る男になって。
家でも立てて、良い車でも買うんだろうか。

静かに文章を書いて、旅をして。
そんな暮らしはやってこないんだろうか。

まあ、とりあえずは子どもが元気に育ってくれれば良い。
それでも、子どもが大人になったとき、そんな父親どう思うんだろう。

静かに生きていたいなら、静かに生きていりゃ良いのに。
アレコレと欲ばっかり出すからいけないのだ。

そう、勝つために一丸になれる会社は少ないし。
自分の求めることのために全力を尽くして生きれる人は少ないってことなのだろう。
アレコレといらない欲だったり、仕方ないといって言い訳を作ってみたり。

アレコレ言っても仕方ないので、まずは次の仕事を全力で頑張って、お金をたんまり稼いでみようじゃないか。
アレコレ言っても仕方がないのだ。
仕方ないって言い訳作って生きていくんだ。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 23:20| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年09月02日

安い給料で働き続けてはいけないという話。

安い給料で働き続けてはいけないという話をしようと思う。
同時に給料が安くてもやりたい仕事は一度はしてみるべきだという話も。

ーーー

転職して年収が上がった。
そんなCMが世の中にはたくさんある。
ーーそんなに都合良く行くわけないだろ。
と前までの僕は思っていたのだが。
現実には転職をして年収が上がるということはさほど珍しいことではないらしい。
ちなみに今回の僕は年収は変わらず。
とは言っても店長=社長の次に偉いポストから、未経験の新人になるのに年収は同じで休日は30日近く増える。

ーーー

安い給料の会社で働き続けてはいけない。

これにはいくつか理由がある。

まず周囲の人だ。

安い給料の会社は、同僚も給料が安い。
給料が安いと向上心とかって低くなりやすい。

今の会社は正に典型的だ。
仕事ができる人、向上心のある人たちはみんな辞めていってしまって、残ったのは給料は安くても問題ない、今のままでも別に良い、そういう人たちばかりが残ってしまった。
なので、仕事について積極的に何か自分からしようという人はいない。仕事の指示をしても、「それは私の仕事じゃありません」「私はこれをしたので、それはしません」ということを平気で言ってしまう。
会社が潰れず、叱られるような責任を出来るだけ背負わず、とりあえず出勤して何か仕事しているような雰囲気で1日を過ごして日々を生きる。売り上げを伸ばして、仕事を評価してもらって、給料を上げてもらいたいとかっていうのはない。
とにかく無難に叱られないように生きる。

ーーー

ここで重要なのは、その人たち、仕事に向上心のない人たちに罪はないということだ。
夏目漱石の「こころ」ではKは向上心のないものは馬鹿だ、と言っているが、向上心を持たずに生きるのも、人生の選択の一つだ。

人間、失敗はしたくない。
ヒルクライムレースに出るにしても、レースの前から予防線を張る。練習が出来ていないから今回はダメだ、体調が悪い、様々な理由で失敗しても仕方ないと予防線を張る。
予防線を張っておけば失敗してもダメージは少ない。場合によっては失敗にすらならない。
別にタイムはどっちでも良いんです。
そう言っておけば、遅くても失敗にはならないし、完走しなくても別に失敗にはならない。

逆に何分を目指す、今年は練習を頑張っているなどと言うと、タイムが届かないと失敗になってしまう。

人間はなぜ失敗したときの心配をしてしまうか。
答えは成功することだけを考えていると失敗した時のダメージが大きいからだ。

向上心を持つとは、チャレンジすることであり、失敗がつきまとうことだ。

トップアスリートはとにかくメンタルが強い。成功イメージを絶えず持って練習する。勝つために練習する。
失敗に負けないハートがあり、向上心を途切れさせず挑戦し続ける。
だから、僕ら凡人はどんな競技であれトップアスリートを尊敬するのだ。

ーーー

人間、みんなトップアスリートであれ、っていうのは無理があるし、酷だ。

向上心を持たず、責任のある仕事を避けて、向上心なく無難に、ただ出社して就業時間を何か仕事らしいことをして時間を潰して毎日を過ごして月給を手に入れる。
食うために生きる。

これはある種の防衛本能だし、ある意味で無欲であり、実際問題として、こういう人たちが存在しないと世の中はケンカや戦争だらけになってしまう。

今回のテーマとは矛盾するが、安い給料で働き続ける人もいるから世界は成り立っているのも事実である。

ーーー

向上心のない人たちに囲まれて生きる。
向上心なく生きることが特に問題ないという人は安い給料で働き続けるのも良い。
ただ、そういうのが耐えられないという人は、給料はそれなりに良い会社に入るべきだ。

給料の安い会社は人材に対して安く使える人間を求める。高い賃金を払わないといけない優秀な人間は求めない。そこそこの安い賃金でそこそこの仕事をしてくれる人間。
そういう会社にいる限り、会社はあなたに期待はしていない。
優秀すぎる人間になって欲しくないとさえ思っている。

安い給料でも文句なく働く、あまり能力のない、他に応用の効かない人間であって欲しいと考えている。

そういう会社には長くいるべきではないと僕は思っている。

ーーー

従業員の方に向上心のある人間とない人間がいるように、会社も向上心のない会社がある。

個人と違って会社については基本的には売り上げ、利益を大きくしたいとはどこの会社も考えている。
ただ、違うのは何かを良くしていくこと、工夫することで成長したいと思っているかどうかだろう。

向上心のある会社は、社員の平均年収を上げて、優良企業になりたいと思っている。

平均年収が250万円のスタッフの店と400万円のスタッフの店なら、当たり前だが平均年収400万円のお店の方がきちんとした接客を期待出来るだろう。給料の安いアルバイトスタッフにきちんとした接客を期待しても無理がある。
しっかりした良い店を持つか、アルバイトばかりの店を持つか。
付く客層も変わる。

年収の低いスタッフは良い店で買い物が出来ないので、良い接客というのを知らない。
年収が低いと心もすさむ。
貧乏=必ずすさむわけではないが。
やはり、生活カツカツの余裕が全くない暮らしっていうのは、仕事の勉強のための本を買おうとかっていうことにはならない。

向上心ある会社は良い店を持ちたいと考える。
もちろん、安いお店も需要はあるので持ちたいが、高級店も構えておきたい。可能な限り自分たちのサービスの引き出しを多く持っておきたい。引き出しがある状態で意図的に事業として成績の伸びない方を縮小することはあれど、可能な限り質の高いサービスを提供して、業界内でのアドバンテージを作りたいと考える。
質の高いサービスをして良いビジネスを広げていきたいと考える。

向上心のない会社は逆で、失敗したときに痛みが少ないようにとにかく経費削減する。
特に人件費を削る。
あるいはサービスを削ろうとする。
そのくせ原価などを抑える努力や、本当に削るべき無駄な経費の削減っていうのは少なかったりする。

原価を抑える努力というと、販売戦略と予想を立てられる知識と経験などが必要になる。

極端な話だが、小売っていうのはその年の販売量が完全に予測出来れば必ず儲かる。
売り上げが少なくても、完璧に予測出来れば、ギリギリに必要な量だけ仕入れれば良い。
仕入れが少なければ掛け率が悪くなるし、掛け率を良くするためにまとめて多く仕入れすぎると在庫処分をしないといけなくなる。
必要な人件費も分かる。
予測の売り上げに必要なだけの人材を雇えば良い。

売り上げが少なくても、売り上げが完璧に予測出来れば、売れた分の粗利の利益は確実に儲かる。
大量仕入れをして原価を下げても不良在庫を抱えてしまっては意味がない。不良在庫=現金化出来ないもの=粗大ゴミだ。実際はゴミじゃなくてセール商材として使えないこともないのだが。

ーーー

一口に言えば向上心のある会社とない会社の違いは、投資するものが違う。
人材育成っていうのは時間もかかるし、失敗するリスクもある。
人間、合う合わないがある。
仕事に合う合わない。環境に合う合わない。
入社面接時は全員、頑張りますと言って入るけれど、いざ入ると頑張りたくなくなってしまう人っている。

大企業なんかは典型的だが、人材を採用しても全員が成長するとは期待していない。たくさん採った内の何人かが優秀な人材に育ってくれることを期待して採用するし教育していく。

中小企業はそれが難しい。
無駄な人材は採れない。
そこで向上心が分かれてしまう。
少々ダメな人間で良いので、安く使える人材を求めるようになってしまう会社が出てきてしまう。
これが当たり前になると負のループに入る。

ーーー

ただ、一個人と同じで会社にしても向上心のない会社が悪いわけではない。
向上心ある会社、向上心を求められる会社はしんどいという人も多い。
売り上げはそこそこで良いから、何とか細々食いつないでいきたいという会社もあるから世の中は上手くまわっていく。

ーーー

安い給料で働いてはいけない理由の一つに休日がある。

安い給料の会社っていうのは、社員に出すものを出さない。
「給料は安いけど、福利厚生が良くて休日は多い」
っていう会社も存在はする。
でも、給料をたたく会社って基本的に社員を大事にしないので、やっぱり休日も少なくて、福利厚生も良くないっていう場合の方が多い。

給料の多い少ないは金銭的な価値観もあるけれど、休日の多い少ないについては多い方が良い。
人間、体力、気力には限界がある。長時間働き続けても、仕事の質が落ちる。
休日が充実していないと何のために頑張って働いてるんだか分からなくなる。
仮に休日返上で仕事がしたければ、休日に仕事の勉強をしたって良いわけだ。

仕事の質と、仕事を頑張りたいと思えるモチベーションのために休日は多い会社の方が良い。

家庭を犠牲にして仕事をしたって、結果として後悔が残る。

ーーー

もちろん、給料と休日の良い仕事は求められるものは高い。
それが嫌っていう人はいる。

テーマとは矛盾するけれど、安い給料の会社で働くっていう選択肢も決してナシではない。

ーーー

少し脱線はするけれど、ホームレスってのも生き方としてはアリなのだ。
春先や秋の季節の良い時期に大阪の西成区のホームレスタウンに行ってみてワンカップを飲むと分かる。
西成には一泊千円のドヤという簡易宿があるのだが、そこで一泊して、昼からワンカップを道端に座り込んで飲んで、空を見上げてみると、これが実に気持ち良いのだ。

時間とお金が許すなら、自転車持ってアフリカのタンザニアなんかに行って、自転車で走った後、小さな村の売店で冷えてないビールを買って飲んでみても良い。
タバコを吸おうとすると人が寄ってきて、自分が吸うよりもたくさん吸われてしまう。
彼らには仕事がない。
ビールは何だかんだでアフリカでも百円くらいはする。
彼らの日当は三百円とか、あるいはゼロ円だったりもするのだが、ぼんやりと木陰で黄昏ているわけだが。
彼らと通じない言語でやりとりしてぼんやりとビールを飲むと、これは実に美味い。
可能ならビールではなく、ビニール袋に入った五十円しないくらいのジンを飲む方が良い。あまり美味くはないが、すぐ酔える。コーラを一緒に買って混ぜて飲んでも良い。僕はお酒は強いのをストレートやロックで飲むのが好きなので、袋のまま喉に流し込んでいたが、このスタイルは現地の酒飲みと同じなので親近感を持ってもらえる。
彼らはこれをよく飲む。安く酔えるのだ。ちなみにアル中が増えるので社会問題にもなっているらしい。

仕事をせずに昼から飲む酒は美味い。
仕事後のよく冷えたビールが美味いなんて言う人がいるが。
酒は仕事などせずに、昼間から路上に座り込んで飲むのが一番美味い。

ーーー

働きたくない、怠惰でいたいというのも人間の正直な欲求の一つなのだ。

なので、給料も休日などの待遇もいらないから、出来るだけ楽な仕事をしたい、食べる分だけもらえればそれで良い。
これもまた正しいと僕は思っている。

昨今の自己啓発本はそういうのを断固として否定するが、ホームレスの暮らしにもメリットはある。
止むを得ずホームレスをせざるを得ない人も中にはいるが、日本の場合、選ばなければ仕事はあるし、国としてはホームレスは減らしたいので安く住める公営住宅などもある。
それでも、ホームレスをする人がいるのは、ホームレスは気楽なのだ。

持たない暮らしとは気楽で気持ち良いのだ。

いつでも、全てを手放して、自分の行きたい場所に行ける暮らし。
何かを維持するために毎月多くのお金を払い続けなくても良い暮らし。
今生きていることだけを考えれば済む暮らし。

ーーー

持たない暮らし、持つ暮らしでいうと、僕は本当は持たない暮らしの方が好きだ。

でも、転職すると年収も上がるし、転職後は取らないといけない資格も増える。覚えないといけない仕事もてんこ盛りだろう。
まず車を買わないといけない。仕事で車を使わないといけない。

一人で生きるなら買うとしても軽トラかバンだったろう。
でも、今度は子どもも生まれる。
子どもを連れて家族で西日本まで帰省しないといけなくもなるので、クルーズコントロールの付いた普通車を買おうと思っている。

家を建てる会社なので、タイミングが合えば家も建ててしまおうかと考えている。
家族のためにも良いし、自分が実際に商品を購入するっていうのは一番の勉強にもなる。

そうやって、持たない暮らしから離れていく。

持たない暮らしが好きな僕には分かるけど、持たない暮らしっていうのも逆にくたびれてしまうところもある。

まあ、何よりも子どもが多数決の世の中で少数派で生きていかないといけないっていうのはかわいそうだと思うわけだ。
かと言って金持ちの家庭に育ててやりたいわけでもないが。
子どものためにも家族でいろんなところに行っていろんな遊びをしたいし、妻のためでもあるし、僕自身のためにも。
家族みんなでいろいろ遊んでみたい。

そう考えると、持たない暮らしから離れるのは寂しい気もするけど、お酒に溺れる夜には別れを告げて、収入の良い、休日の多い仕事に転職して、仕事をバリバリやって。
それが僕の次の生き方なんだろう。

ーーー

安い給料で働き続けてはいけない。
そんなタイトル、テーマにしてはみたものの、実のところ、安い給料の仕事をしてみるのだって良い。その気になれば、転機さえ来れば、そういう仕事から離れるタイミングも来る。年齢的に難しくなることもありえるけど。まあ、その辺りは運だろう。

若い頃の自分に言いたいことは、自分には決してマトモな仕事は無いなんて思い込んではいけないということだ。
安い給料の仕事でも、好きなこと、誇りを持てる仕事っていうのはとても素晴らしいことだ。
ある意味ではそういう仕事に就職するのって難しい。
多分、安い仕事から高い仕事に転職するより、逆の方が難しい。
特に家族を持ったりすればなおさらだ。

自転車屋での仕事って、して良かったと本当に思う。
これから先、ふと何かのきっかけですこぶるお金持ちになる日が来たとしても、若い時代を自転車の旅と自転車屋、山小屋で過ごせたことについてはずっと感謝し続けるだろうと思う。

でも、安い給料で働き続けてはいけない。

正確に言えば、安い給料で働きたくないと感じる日が人生突然やって来たりする。
その時にはスパッと動けないといけない。

でも、別にそういう日が来なければのんびりと生き続けるのも、それはそれで良いのだけど。

でも、のんびり生きるなら自分で会社を作るべきだろう。
誰かの会社で安い給料で働き続けていていると、段々と周囲の人間が仕事の出来ない人、仕事にやる気のない人ばかりになってしまう可能性がある。

そうは言っても自営業すると、なかなかのんびりとやってはいけないのだろうが。

まあ、人生、一度は良い給料の会社に入ってみといた方が良いんだろう。
その上でホームレスライフを選ぶのもそれは自由だけど。

ま、そんなこんな。
posted by ちょろり at 23:29| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月17日

宅建の模試を受けてみる。

宅建士の勉強を進める。
次の仕事で実際に使うか微妙なのだが、勉強し始めたからには取る。

七月に勉強を始めて、スマホでぽちぽちと練習問題を解いたり、帰宅したら参考書を眺めたりと勉強を進めて来て、やっと一通り読むのが終わった。まだ読めてないところもいくらかあるが。

この段階でとりあえず模試を買って解いてみることに。

50問中29点であっさり不合格。合格ラインは35点前後だそうな。
まあ、現段階としては悪くない。

試験勉強はとにかく答え合わせが大事だ。
まずは一通り網羅して、あとは試験を解いて出来ていないところを把握して、一度間違えた問題に類似する問題については二度と間違えないようにする。

特に模試はプロが作っている。
ヤマが当たらないところもいくらかはあるが、模試を作るプロはヤマ張りのプロだ。その中から実際に出題される問題はある程度ある。
つまり、模試で満点が取れるように理解出来れば、本番の試験もそれなりに取れるのだ。
とにかく模試の問題をきちんと理解する。

そんなの最低限のことじゃないかと言えばその通りだが、四択問題の試験について言えば、最低限の知識があればある程度は解けるというのも事実だ。

予定通り勉強が進んでいる。
本音を言えば予定よりもう少し進んでくれてれば良かったのにな、と思いつつ。
まあ、そう甘くはないのだ。

国家資格とはフェアだ。
勉強さえすれば、きちんと社会で生きていける力になる。
もちろん、使い方次第ではあるものの。

ま、そんなこんな。
posted by ちょろり at 23:49| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月16日

改めて転職を振り返るのと、これまでの仕事の反省なんかをしてみようと思う。

転職が決まって、ここで改めて転職を振り返るのと、これまでの仕事の反省をしてみようと思う。

ーーー

基本的に転職活動中は自分で自分をいかに持ち上げるかの戦いだった。
転職活動って結構心折れる。
特に僕なんかは大学中退で職歴も自転車屋と山小屋、さらに途中で自転車放浪の旅なんて具合だったから、面接=懺悔状態だった。
職を探しても、家族を養える給料の職で未経験OKっていうのは基本は家か保険の営業。残業地獄、ストレス地獄っていう仕事ばかりだった。

それでも、子どもは生まれるし、現実問題として子どもを育てていくには仕事を変えないといろいろ厳しい。会社の問題もあるが、自分にも問題はあるのだが、とにかく厳しかった。

転職活動はとにかく自分を肯定しないとやってられない。
転職すること自体に疑問を持つこともあったし、とにかく不安はあった。
今の会社を去らずに頑張る方法は無いのだろうか。
何だかんだで会社にも社長にも恩があるし、引越しの費用や給料のない期間についても貯蓄を崩さないといけない。
店長まで頑張ったのもある。
慕ってくれるお客さんもいる。
可能なら今の会社に残りたいというのはある。

でも、現実問題として前に進むしかないのだ。

おそらく転職って、子どもができるとか、結婚するとかの理由がないとなかなか難しいと思う。
何せその日までその会社で何とか飯が食えてるわけだ。贅沢を言わなければその会社でも飯を食っていける。
でも、環境の変化があるとそれまでの食い扶持じゃ家族を養えなくなる。

全力で自己肯定、転職は必要だし正しいこと。
自分はできる。
大丈夫だ。
これまでの人生で悪いことはしてきていない。
自分なりに一生懸命頑張ってきた。
世間の人に出来る仕事なら自分も努力すれば出来るはずだ。

とにかくアゲアゲで行く。
アゲアゲにしても、絶望に絶望が重なるので、とにかくアゲる。
アゲていけるかどうかが転職の鍵だ。

転職すると決めたらアゲアゲで進む。

ーーー

転職の第一歩は転職エージェントだ。
ハローワークでも良いが、ハローワークは遠いし、仕事をしていると通いにくい。
転職エージェントは無料で自分専任の担当が付く。電話などで面談もしてくれるし、メールでも対応も迅速だ。希望を聞いてくれてそれに合う求人の紹介はもちろん、履歴書の書き方や面接の対策までしてくれる。

とにかく登録する。
僕はリクルートと地方のその地域に強いという小さいエージェントを使った。
最終的には小さいエージェントの方で決まった。

リクルートのような大手はとにかくたくさん求人があるけど、正直、あまり親身じゃない。
システムでとにかくたくさん応募させて決める。
数打ちゃ当たるだ。
応募は10以上したが、面接に行けたのは1社で、そこは落ちた。

小さい方のエージェントはとても親身だった。
求人は少ないのだが、その分、そこに何とかして入れてくれようとする。なので当人がヤル気が出る求人、なおかつ合格しそうな求人を紹介してくれる。
本当に親身に丁寧にしてくれたので、そこは三社応募して一社だけ面接に行けて、そこがそのまま受かった。
球数が少ないので、打率を上げるという方法だ。

学歴や経歴が良くて転職に自信がある人は大手からいろんな企業を見て決めるのが良いだろう。
僕のような転職市場のダメ人間は小さいエージェントを頼る方が上手く行くかもしれない。
まあ、最後は運やタイミング次第なので必ずしもそうではないだろう。

どちらもメリットはあるので、何社か組み合わせて使うのが良いんだろう。

ーーー

次に僕は資格の勉強を始めた。
勉強は何よりも自信になる。
どんな仕事なのかという勉強にもなる。
もちろん、取得できれば転職に有利にもなる。

仕事を探し始めて分かったのは保険か家の営業くらいしか残された手はないということだった。
(後半で分かったが、工場勤務という手もあった。なぜか工場勤務は序盤、なかなか求人が見つからなかったのだ)

保険の営業も考えたが、保険が役に立つのは人の不幸な時で、不安を煽って契約するという側面が好きになれなかった。
その点、家は金額が高くてつらそうだが、夢のマイホーム、正に夢のある仕事だと思った。

それで家の営業をしようと、とりあえず本屋に行って役に立ちそうな資格を取ろうと思った。
何せ大学中退だし職歴もボロボロだ。
長期にわたって仕事が見つからないかもしれないので、とにかく資格を取ろうと。資格を取れば何か良い仕事があるかもしれない、と。

そんなわけで宅建士を取ることに。

最初はそういう消去法から選んだのだが、勉強していると心が安らいだ。

転職活動ってとにかく不安と絶望がたえずつきまとうし、出来る事って意外と少ない。求人を探して応募するくらいしかない。履歴書や職務経歴書を頑張って書くとかはあるにせよ、結局まな板の上のコイ、面接に呼ばれれば品定めされて、受け身に結果を待つしか出来ない。

その点、勉強は能動的だ。
少なくとも目的に向かって自分は何か努力しているという心の安らぎがある。
勉強している時間、し終わった後。
絶望と不安からほんの少しだが逃げられる。

実際に転職後に役立つかどうかは分からないにせよ。
やれることをやるっていうのは、僕の場合、救いになった。

ーーー

後は運で何とか決まった。
面接に行ったらすごく良い人で話していて面白かった。そこが取ってくれた。
正直、受けに行くまでは家の営業つらそうだな、っていうのが大きかった。今もつらそうだとは思っているが、すごく面白そうな会社だったのだ。なので正直に思うところをすべて話した。

こればかりは運だ。
僕のような人間を取ってくれる会社が世の中にあって良かったし、そういう会社がタイミングよく募集していて、それに応募出来たのも、全て運が良かったとしか言えない。

転職活動開始から2ヶ月しないくらいで決まったのだから本当に運だった。

なので、絶望してもいけない、というかあまり意味がない。
自分を取ってくれる、なおかつ入りたい会社っていうのがあるかどうかはタイミングと運だ。

タイミングと運が悪ければ長く活動を続けるしかない。
もちろん、自分に無理のない範囲で継続しないといけない。
なおかつ、なるべく早く決めないといけない。
転職活動をし始めると現在の仕事に対してのモチベーションは落ちてしまう。そうならないよう努力はするのだが、どうしてもこれまでの会社の恩や義理よりも、自分の未来の不安が強くなってしまう。
それでも、転職活動において、現在の仕事をきちんと頑張らないと当然仕事にミスが起きて、転職活動のストレスと現在の仕事の失敗のストレスの両バサミにあってツラい。
転職活動で大事なのは現在の仕事をおろそかにせず、無理なく根気強く、自分を肯定しながら進めることだろう。

ーーー

さて、転職活動についてはこの辺で。
自転車屋の仕事の反省だ。
自転車屋というより、これまでの自分の仕事に対しての反省だろう。

もちろん頑張ったところもあるが、何よりも部下への支持、教育っていうのはダメダメだった。
恐らくそこさえ出来れば売り上げももっと伸ばせただろうし、職場の空気も明るく、みんな楽しく出来ただろう。
店長という中間管理職である以上、自分がプレイヤーとして反省、修理する以上に、下の人間にもっと自由に自発的に仕事したくなるように環境を整えてやって、仕事を投げて、失敗が怖くないようフォローしてあげる。なおかつ、悪いところは鋭く指摘する。上司の指示にはテキパキ従うよう空気を作る。
最終的にそういうのがどうにも出来なかった。

原因はたくさんあるが、一番は嫌われ役に立てなかったということじゃないだろうか。
部活や仲良しサークルじゃなくて仕事なんだから、ダメなものはダメだと強く指摘しないといけなかったし、出来るようになるまで根気強く向き合わなくてはいけなかった。嫌われるとかそういうのを気にしてはいけなかった。
部下が仕事を出来るようにしてやるのが上司という立場の人間の仕事なのだ。
それが出来ないと自分も苦しいし、部下もいつまでも成長出来なくて、ダメ社員扱いを受け続けるのは苦しい。
ダメなのにダメと言わないのは、優しさではない。
ダメなことをダメとストレートに教えて、出来るように一緒に考えて努力、協力するのが優しさだろう。

もちろん、良いところを誉めて伸ばすっていうのもアリだろうけど、やはりダメなところはダメと言わないといけないんだろう。
ダメと言うことで相手のモチベーションを下げることになるかもしれないし、実際、僕の部下は仕事放棄して職場から消えてしまうというのも事実ではあるのだが、それでも、根気強く向き合わないと、ダメなままで居続けてお互いにストレスにしかならない。
良いところを誉めて伸ばすにしても、ダメなところはダメだとストレートに指摘すべきなのだろう。
理想は何かしらの解決案、提案を持ってダメと指摘すべきだろう。
解決案、提案がなければ諦めるかどうかを本人に選ばせるべきなのだろう。
ーー君はこういうところが出来ていない。こういうところは出来ている。出来ていないところを出来るようにする方法を一緒に考えて努力するか、出来ないということを受け入れて出来る分野で頑張るかどちらが良い?
とストレートに指摘して、相手に選択させるのが良いんだろう。

僕は基本的にこっちの解釈、判断で「この人には出来ないことは出来ないで仕方ない」と諦めてしまっていた。

簡単に諦めてはいけないし、ましてや本人に諦める気がなくて努力する気が少しでもあるなら、しっかり向き合ってやっていくべきだ。
本人に選ばせるというのも、少々、残酷なやり方とも思えるが、実際問題、大人になったら自分のことは自分でやるしかない。
それでも、チャンスは与えないといけないし、可能な限りチャンスをものにして、戦力になって欲しい。

そういうのが全く出来なかった。

ダメな人は諦めるか近寄らないっていうのが僕のセオリーだったが、それだけじゃダメなのだ。
ダメな人は改善のため一度は徹底して向き合わねばならない。
根っからのダメな人間など珍しい。その仕事ではダメでも、それ以外のプライベートなんかではとても優れた人間かもしれない。
ただ、上司として接する以上、仕事についてダメなまま放置してしまうのはいけないのだ。

ーーー

結局、そこは真摯さと自覚だろう。
部下をその仕事の中で有用な人、価値ある戦力に育てるということは、その人の人生を明るくすることなのだ。
部下を仕事漬けにしろということではなく、部下が仕事が得意になって、仕事に誇りを持てるようにする手伝いをする。
管理職とはそういうのこそが仕事だと自覚して、真摯に向き合わねばならない。

そういうのがあれば、教育を面倒だと感じることはないし、真摯さは相手に伝わる。
正直、教えられるほど自分にも自信がなくたって、教えないといけないのだ。教えられるように自信を持つために自分が先に努力しないといけない。
結局、自分に自信のないことは教えられない。
でも、自信がないことでも教えられるようにならないといけないり

そのためには当然、三日坊主じゃいけなくて、相手が出来るようになるまで徹底してやり続けなくてはいけない。

次に管理職になる日は多分遠いだろう。正直、そういう日が来たからと言ってきちんと管理出来る自信はあまりないのだが。
事実として管理出来なかったせいで、部下たちはこの後もしかすると失業するかもしれない。
これは自分の失敗である。

ーーー

その他の反省すべき失敗と言うのは案外思い付かない。
多分、他にもいろいろあるはずなのだが。
それでも、販売なんかについては概ね精一杯頑張ったように思う。
メカニックなんかの技術的な面についても勉強を積んだし、一通りのことは問題なくこなせる。

自分の手の届く範囲のことは頑張れたんじゃないかな、と。

可能ならもう少し機材を自腹を切って買って、勉強する機会を増やすべきだったかもしれないが、現実問題として、そんな金銭的余裕はなかった。

ーーー

自転車屋、山小屋と好き放題生きたので、大学を卒業してすぐ就職した人より、金銭面では少々苦労はしてきた。と言っても、20代はその夜飲む酒代があれば十分だったのだが。

キャリア形成とか人生設計とかいう意味でどうだったか、と考えると、まあ、悪くなかったんじゃないだろうか。

若い間に自転車で海外を放浪する。
これってやっぱり何者にも変えられない価値があると思う。
ーーじゃあ、それを通して何を身に付けましたか?
ということを面接で聞かれたりもした。
ーー人に助けてもらわないと人は生きていけないし、人に助けを求める方法、お腹が減ったらお腹が減った、何か食べられるところはないですか?と言葉が知らなくても伝える方法です。
と僕は答えた。
面接官はあまり意味がわかっていなかった。

実際問題、日本に住んでいると何の心配もない。
頭のイカれたシャブ中に突然ナイフで刺される可能性。
強盗しないと生きていけない貧困者。
人間を襲う象。
そんなのっていない。
蚊に刺されてマラリアの心配をすることもない。
国境で隣国のビザを取るためにアメリカドルが必要だが正規レートで換金してくれる銀行などないという問題もない。
コンビニに行けばおにぎりも安全な水も買える。
行き倒れたってだれかが警察に通報してくれて、とりあえずは保護してもらえる。
車にはねられてもすぐに救急車が来てくれる。
国境を越えるたびにタバコ代を毎回高くボッタクられる心配もない。
食べる肉にハエがたかっていて、それを汚い油であげて、便所の匂いがするような肉を食べる心配もない。
走っても走っても町にたどり着かなくて、ライオンやピューマのような肉食獣が出るかもしれない道端で野宿する心配もない。
子どもが死ぬことも当たり前のような世界ではない。
壊れかけた自転車を片道4時間近くこいで学校で2時間だけ勉強するような少年もいない。
日本はすごく安全だ。
安全を確保するための努力をしなくて良い。
誰かに助けて欲しいと頼む必要もない。
理不尽さが少ない。

世界は結構いろいろと理不尽なことだらけだし、そして自由だ。
安全ではないけれど、とても広いし自由だ。

助けが必要なら自分で助けてくれるようお願いしないといけない。
素直に自分が今しようとしていることを伝える。つまり、旅の目的地を伝えて必要としていることを伝える。助けて欲しいと頼む。今夜の寝る場所を提供して欲しいとか。

そういうのって本来は人間として当たり前なのだ。
大学を卒業してサラリーマンして働けば、安定したお金が入ってくるっていうのも大事だけど。根本的には人と人とのつながりがあって助けてもらいながら生きるものだから、助けてもらうスキル、人を助けるスキルっていうのは大前提として重要なことなのだ。

だから、生きるスキルの少ない若い頃に、家族も友達も誰もいない見知らぬ異国の田舎の村で誰かに助けてもらう。
そういう経験っていうのは本当に貴重だったと思う。

年を取ってから貯蓄したお金で優雅に世界をまわるのも良いけれど、若い時に体一つで、出来るだけ貧乏で制限がたくさんある中で異国を旅するというのは大事だ。

こういうのは島国である日本人はすごく弱い。
逆に途上国の人なんかは、日本国内で働いている人もたくさんいるように、母国で仕事がなければ、異国で仕事を探して稼いで生きるのは当たり前だったりする。
自分が生きるゾーンを自分で作るという営みだ。
社会が用意してくれた大学やそこを卒業した安全なゾーンではなく。自分で考えて自分が生きるためのゾーンを自分で作る。

生き抜くためには自分から動いて、人の心を動かさないといけない。

ーーー

大学を中退したことについて悩むことも多かった。
それでも、大学を中退したからこそ、僕は破れかぶれで旅をした。
真っ当なサラリーマンにはなれないと思っていた。
すごく気持ちの苦しい日々があったこともよく覚えている。

でも、改めてそういう時代が通り過ぎて、意外とすんなり転職も決まった今思う。
苦しいと思っていたあの日々こそ一番生きがいに溢れていて、どこに向かおうとしているかも分からないままもがいていた日々こそ一番充実して素敵だったんじゃないかな、と。

まあ、もちろん、これからも素敵な日々は来るんだろうけど。

ーーー

そう考えると、最後は経済的な事情で引退することにはなったものの、自転車屋で働けたのは、そういう旅の日々の自分に対して筋が通せていたと思う。ちゃんと店長までなったし、多くのお客さんに自転車の素晴らしさを伝えられたんじゃないかな、と。

自転車が好きな人、登山が好きな人たちの払ってくれたお金で今日まで生きてこれたことを感謝して。

次の人生に進もうかな、と。
次の人生って言ったって、やるのは僕なので相変わらず泥臭くやるんだろう。
そんなにスマートには生きられないだろう。
また楽しい日々が来ることを楽しみにしつつ。

子どもが高校出たらヨーロッパでものんびり旅しよう。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 23:56| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月10日

自転車屋引退。

じてぼんの筆者としては残念な話だけれど。
子どもがもうすぐ生まれる父親としては素晴らしい話で。

転職が決まった。
自転車屋は引退することになった。
一般企業で営業マンをしていく。

でも、今度は八ヶ岳のふもとなので、MTBは近くに富士見パノラマがあるし、ロードも麦草峠にビーナスラインと自転車を乗る環境としては天国だ。トライアスロンも野尻湖まで行けばある。登山ももちろん天国だ。
やはりアウトドアするなら長野は強い。

ーーー

自転車屋さんで子どもは育てられないのか。
別にそんなことはないと思う。

実際に僕の周りにもそういう人はたくさんいる。
そして、子どもが出来て自転車屋さんを辞めていく人もやはりたくさんいる。

給料面、休日面は世間一般の平均より良くないけれど、その気になれば食っていけないこともない。
単純に僕の場合は会社の考え方についていけなくなってしまったというのが大きい。
僕の中で仕事とはやったらやった分は報酬があるべきだと考えている。好きな仕事なら報酬は我慢しなさいっていうのは間違っていると思うのだ。
そうしないと、仕事に対して頑張ろうというモチベーションにならない。
ただぼんやりと出社するだけで給料がもらえる、別に頑張っても給料も良くならないし、休みも少ないから自転車イベントにも出られない。仕事だから自転車屋さんにいるだけ。
そういう職場には僕はあまりいたくないし、そういう店で自転車を売りたくない。

一口に言えば自分が自転車を買いたいと思える良い自転車屋で働いていたい。
自分がお客さんだとして、親しくしている店長さんが実は貧乏過ぎて家庭崩壊していたら嫌だ。自転車のために家庭崩壊している人から自転車を買いたくない。

何かしらの明確な目的を持って仕事を一生懸命する人たちと仕事がしたい。特に自転車屋さんなら、自転車に対して熱い想いを持ってる人と一緒に働きたいし、そういう人たちが幸せに家庭を作っていけるような会社で働きたい。

そうは言うけど、自転車の知識もロクになかった僕を拾ってくれて、プロショップの店長が出来るまでに育ててくれた今の会社には感謝している。
恩を仇で返すようなことになってしまうが、子ども最優先で生きていく。
そう、モンスターペアレントだ。
子どものこととなれば、恩も仇で返す。
でも、そりゃそうだ。まずは自分の生活が守れないと、自転車という人生の遊び道具は売れない。

そうは言っても、会社も出せない給料は出せない。

こうなると交渉決裂だ。
リスクを取ってもプロトンから逃げねばならない。

つまるところ、僕はお金が欲しかったのだ。
そして、社長はお金を払いたくなかった。
それだけのことなのだ。
はっきり言って、そこには哲学も美学もない。

ーーー

自転車屋さんに限ったことではないけれど、家族を持つことで生き方が変わる人とそうじゃない人ってのがいる。

結局は家族の理解である。
そして、家族の理解っていうのは、仕事への熱心さである。
そういう意味では僕は自転車屋さんにそこまで熱心なようには妻の目には映らなかったのかもしれない。
あるいは、熱心ではあるもののしんどそうなところが多く映ったのかもしれない。

ーーー

僕自身、自転車屋さんの仕事に未練はないかと言えば、正直、あまりない。
自転車屋さんっていう仕事はとても好きだけど。

同じように山小屋に未練はないかと言えばない。
山小屋は実に素晴らしい仕事だったと思うけど。

自転車も登山も好きだけれど、楽しいからしただけだ。
良くも悪くも単純に楽しいから自分が納得するまでトコトンやっただけ。その中で縁あって仕事としてやっていける期間があった。
もちろん、まだまだやり足りないことも多い。雪山登山もしたかったし、自転車ももっとやりたいこともある。

ーーー

そう、ふと思い出したが。
昔の僕はいつか珈琲屋さんと自転車屋さんと古本屋さんをくっ付けたような店がしたかったのだ。
珈琲と本と自転車。
あとは音楽なんかもあれば良いかもしれないけれど。
それこそが若き僕の求める全てだった。
正にじてぼんである。

今は少し変わって、自転車関連でやるなら、レンタルとサイクリングツアーとMTBコースのあるキャンプ場がやりたい。
レンタルは日本全国宅配しつつ、地域活性化の役に立つよう駅前受け渡しの予約も受けるし、市内協力店にもレンタルロードバイクを置いて、キャンプ場の脇にそれらのレンタル自転車の基地になる倉庫を建てる。

改めて考えると、昔の珈琲と自転車と古本っていうのは故郷の町に生きていた自分ペースで欲しかった場所であり。
今考えるレンタルとツアーとキャンプ場っていうのは、旅をして来た結果、旅人目線として旅先に欲しい遊び場所なのだ。
そのキャンプ場に外人が来れば、日本一周をする装備と自転車が気軽に借りられるような拠点になれば最高だ。
もちろん、外人じゃなくて日本人でも良い。
もっと気軽に日本を自転車で旅して下さいね、と。

ただ、この事業の問題点はレンタル事業だけで大して儲からないであろうキャンプ場の維持なんかをしていかないといけないことである。
星の美しいキャンプ場が良いと思っている。
キャンプ場の維持代がかからないように、フリーのキャンプサイトにしてしまって管理なんかに維持費があまりかからないようにするのも手だが。
基本的にはレンタル事業とツアー事業に何人かいて、プラスでキャンプ場の手入れもするくらいで。

レンタル事業がどの程度儲かるかというのが問題ではあるが、全国宅配レンタルサービスは全国の旅館、ホテル、ゲストハウスなどの法人向けも含めて展開していけばかなり可能性はあるだろう。
トライアスロンを開催するエリアのホテルを狙うだけでもかなり取れる。トライアスロンパックと銘打って、ロードバイク一式とウェットスーツがレンタルできるプランを展開すればトライアスロンの宿泊客が確実に取れるし、宿泊客じゃなくても前日にレンタルしてレース後に返却したいというユーザーも取れる。
その辺は営業力次第だ。

今の会社でその努力をしろと声が上がりそうだが、残念ながら僕はステキなキャンプ場がやりたいのでその運営資金のための利益を求めるのであって、単純な売り上げのためにそういう努力はしたくない。
はっきり言ってお金のためなら、是非とも別の仕事をすべきだ。
自転車はあまりお金にはならないし、だからこそ自転車はステキなのだ。

ーーー

でも、子どもが生まれるので、それはしない。
普通のサラリーマンをやる。
いや、普通より稼げるサラリーマンをやるつもりだ。
資金が作れたら、事業を立ち上げて、地域おこし協力隊なんかに投げてしまって、社長職していても良いかもしれない。

その利益で今度こそのんびりと珈琲屋さんと古本屋さんの自転車屋さんをやろうじゃないか。

そして、それも誰かに投げてしまって、日本中に支店を展開して、外人さんが気楽に日本を自転車で回れるようなシステムを作って。
もっと自転車がみんなに身近になっていて、マイカー通勤が減って、自転車通勤が普通になっていて。日本が世界でも先進的な自転車利用による環境保護の国になっていて。

その頃には子どもも大人になって。
老人になった僕は今度はどこに旅に出ようか。
その頃には南極を自転車で走るのも今より普及していたら南極点を目指したい。
世界が平和になっていて、戦争もなく、どこの国にもビザなしで入れて、自由に旅出来て。
老人になった僕でさえ見たことのない景色の道を自転車で走れたら。
それはきっととってもステキなことだろう。

もしかすると、月や火星をサイクリング出来るようになってるかもしれないし、地球滅亡の危機が来ているかもしれないけど。

まあ、そんな妄想もするわけだ。

別に自転車屋さんを辞めたって、世の中から自転車がなくなるわけじゃないし、まだ見たことのない景色がなくなるわけでもない。
のんびり妻と子どもと一緒に生きていく。

ーーー

そうは言っても一度自転車屋さんを辞めて改めて戻ったのに、また辞めるというのは正直心痛むところではある。
信頼してくれたお客さんに申し訳ない。

それでも、内心ほっとしているところもある。
今日、面接が決まってから少ししてから、海外通販の部品の持ち込みがあった。

海外通販で買ったものを正規店で取り付けてもらう。
工賃さえもらえれば良いのだろうか。
それでも、食材持ち込み自由のレストランなど聞いたこともない。
レストランに限らず、そこで販売するはずのものを非正規ルートで安く買ったものを持ち込むなんてのはどの業界でもあまり聞かない。

やはりそれはルール違反なのだろう。

そうは言っても、それも受けねば食ってはいけない。
それなら、それを受けられるシステムを作っていない側にも責任はある。

ただ、そんなシステムを作る、つまり非正規ルートで購入した部品についてはアップチャージを頂きますなどというルールを作って提示しなくてはいけないってのは、人を叩いたら相手が痛い思いをするのでいけません、という何とも幼稚なルールだ。

話を広げるけれど、ふるさと納税でAmazonポイントをあげるなどという馬鹿な地方自治体が出て来て、物議を醸したりもしたのについてもそうだ。

普通に考えてやっちゃいけないことはいけない。

その理屈で言えば、恩のある会社を裏切るなどという行為もそうなのだろう。

子どもが出来たから、家族が出来たから。
本来、そういうのは理由にならないと思うのだ。

どうにも余裕がない。僕も社会も世界も。
ーー子どもが出来て、お金がかかるね、でも、まあ、何とかやっていきますよ。ははは。
そういうのがない。
みんなカツカツで隣の人より少しでも多く儲けたいし、自分だけ貧乏でいるのは嫌だ。

アフリカでの旅は東から南西へと国境を越えるごとに経済力のある国へと変わっていった。
冷蔵庫のない村がなくなり、スーパーのある町が現れた。裕福な白人が乗った車が増えた。
そして、ギブミーマネーと笑いながら叫ぶ大人や子どもが減って、暗い顔をしたストリートチルドレンが現れた。

もちろん、それが全てではない。
あくまで僕の目から見たアフリカだ。

アフリカでは貧乏は決して憎むべき悪ではなかった。
貧乏で発生している深刻な問題もたくさんあったのも事実ではある。
それでも、貧乏が当たり前の地域では、仕事のない人々は木陰でぼんやり黄昏ていて、風に吹かれていた。
稼ぎのあったものはビールを飲んで稼ぎを溶かしてしまっていた。
時々、お金持ちもいた。
お金持ちは貧乏人とは壁があった。
それでも、それは許容されていた。
貧乏人の存在もお金持ちの存在も。
料金をチャージ出来ないので通信出来ないケータイ電話を持つ人々。
道端でバケツいっぱいのマンゴーを売るおばさん。
誰が欲しがるのか分からない手作りの木のオモチャを売るおばさんもいた。
牛を追う少年。
朝から村の前で牛を殺していたり、自転車のハンドルに鶏をぶらさげていたり。
ハエのたかった肉。汚れきった油で揚げて塩をかけて食う。硬くて獣臭い。
一夫多妻制の社会の中で、結婚した相手の父親に迫られ続けるのが嫌で離婚したゲストハウスのおばちゃん。

アフリカはずっと遠い。遥かに遠い。
僕は転職して勉強して、きっとこれまでより良い収入と休みを得るようになる。
誰かは自転車屋さんに憧れて、いずれ店長になる。

先日、31歳、僕と同じ年齢の日本人の自転車で旅する人がペルーで死んだ。交通事故だったそうだ。
旅の終わりか不意に訪れてしまった。

少し前まで転職が決まらないで苦しんでいた僕はアフリカで死んだら楽だったかもしれないと真剣に考えたことがあった。
旅は楽しい。
でも、旅は終わって、日常の日々が戻ってくる。
日本での日常の日々はとても快適だ。
ただ、みんなカツカツで、自分も気付けば一緒にカツカツになっている。
旅の日々ほど輝いている日々はない。
その輝いている日々の真ん中で突然に人生が終わる。

転職が上手くいったからというのもあるのかもしれないにせよ。
日本のカツカツの日々と旅の日々のコントラストに絶望することは少なくない。
それでも、絶望の真ん中だって旅の先に続いた道であり、そこを一緒に歩いてくれる家族が出来た。
良いことばかりじゃない。
どちらかと言えば悪いことの方が多いかもしれない。
楽しいことばかりでもない。
嘘だ、楽しいことについては結構たくさんある。
良いことも悪いことも、汗水垂らして苦労して乗り越えて、何が楽しいんだか分からないけど、新しい日がまたやってきて、何のためだか分からないままに何かを努力する。
輝いている旅の日々とは随分遠い。
これからの日々に苦労は山積みだろう。

それでも、僕は生きて帰って来れて良かったかなと思っている。
きっと死んでしまった人も日本に帰ってきたかっただろう。
はたまた異国で生きるという選択肢をしたかもしれない。
何にせよ、少なくとも自分で決めた目的地までは辿り着きたかっただろう。
どこに辿り着いて、どういう意味があるとも知れないにせよ。
自転車で旅する人は自分の進みたい方向に進んで自分が決めたところまで自分の足で進みたい。
その人の旅が途上で果ててしまったことを心から悲しく思う。
それも天命かもしれないが、やはり自転車で旅した人間としてゴールまでたどり着けなかった無念を思うと悲しく思う。
冥福を祈ります。

僕の自転車の旅は終わったけど、人生の旅はまだまだ。不運で死んでしまった人の分まで頑張って楽しんで生きていかないと。

まあ、そんなこんな。
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2019年05月08日

スーパースターとチャンピオン。

スーパースターとチャンピオン。
スーパースターは何をしたってスーパースターだ。成功しても失敗しても。その代わり、平凡なことではスーパースターではいられなくなる。
チャンピオンは失敗してはいけない。失敗したらチャンピオンではなくなる。

だれもスーパースターでは居続けられないし、だれもがチャンピオンになりたい。不思議なことだけれど、二度と失敗してはいけないチャンピオンにみんななりたいんだ。
大抵の人はチャンピオンになれない。
チャンピオンになれる人は限られているし、チャンピオンでい続けられる人はさらに限られている。

坂道をどんどんと登っていく。
止まることない。
いつもならその人は止まって、待ってくれる。
しかし、止まることなく凄いスピードで登って行ってしまう。もう追い付くどころか、これ以上進めない。でも、その人は登って行く。
上の方には黒い雲がかかっている。あの雲の中は雨じゃないだろうか。
呼んでも止まらず登り続ける。


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2019年04月20日

正しいことが正しいとは限らない世界。

正しいことが正しいとは限らない。
ただ、それってどうなんだろうか。
正しいことが正しいとは限らないのが正しい世の中って結構狂ってしまってるんじゃなかろうか。

「はじまりへの旅」という映画を観た。
主人公の一家は森の中で暮らしている。父親の教育方針なのだ。世間から離れ、学校には行かせず、父親が直接教え、肉体を鍛え、書を読み知識を蓄えて生きる。ヒッピーと一口にも言ってしまえるような暮らしをしている。
しかし、母親が精神病の末、自殺した。その葬儀に家族で行くため森を出る。
そう大した事件は起こらないのだが、ちょっとしたアレコレをする内に、やっぱり子どもは学校に行かせてまともに生きさせてやろうと父親は思うようになるという話だ。

まあ、この映画はどこか後味のよろしくない胸糞悪い映画だった。
学校に行かせず森で育てる。知識は十分にある。人間、それで良いように僕は思うのだ。
そりゃ、みんながそう生きていくとよろしくない。
ただ、いくらかはそういう人がいたって悪くないはずなのだ。
別に森じゃなくてもどこでも良い。ただ、学校でみんな等しく歩調を合わせてクローンのような考え方を持つ必要はなかろうと思うのだ。

映画の中では子供たちは何ヶ国語も習得していて、哲学や思想、自然科学などのジャンルの学問にも深い。筋肉はモリモリ。
現実には英才教育をしても、そんな風にはならない。
現実は医者の子どもでも、いくら金をかけて教育してもロクな大学に入れず、金を積めば入れる地方私立医学部っていうのが存在しているように、勉強や学問っていうのは、出来ない人間は出来ない。
ましてや六ヶ国語を喋って、全ての学問に深いなんてことが何人もいる子どもが全員出来るようになるわけはない。

まあ、あくまで映画、作り話の世界の設定なので、そこまでは良しとしよう。仮定、設定がないと物語は成り立たないので。

ただ、問題はそんな天才的な子どもたちがわざわざスクールバスに乗って学校に行く必要があるかというと、甚だ疑問ではある。
一体主人公は何に敗北したのか、これが非常に謎なのだ。

確かに社会性というのは大事ではある。
子どもを社会から隔絶してしまうのは危険であることは間違いない。
ただ、六ヶ国語やら何やら習得出来るだけの能力があるなら社会性も学ばせてやれば覚えれるだろう。
世捨て人をするというのもまた選択肢だろうし、社会に帰属して生きるもまた選択肢だろう。親がどちらかだけを強要することは良くないとも言えるが、逆を言えば基本的に世の中、親は子に社会に帰属することを強要している。

社会性というのも、そもそもに怪しいもので、国が変われば常識も違う。
最近、ベルリンの友のことを考えることが多いが、彼が偉いのは、そういう既存の社会性に依存しないというところだ。日本に生きれば日本の社会に帰属して生きるのが楽だ。未知の世界に適合して生きる、どこに行っても生きていけるってのはすごく強い。

正しいことが正しいとは限らない。
例えば、日本で客商売をしていると明らかに理不尽なことを言う客っていうのはどうしても存在する。
日本以外の国ではどうか分からないが、物を買うとなると、客は神様というのが発生する。

実際、客商売をしているとお客様は神様っていうのは正しい。神様のように思いなさいという比喩ではなく、お客様がお金を落とすからこそ我々の生活は成り立つ。お客様の求める商品こそが正しく、お客様が求めない商品は正しくない。
いかに作りが良くて素晴らしいものであっても、お客様が求めていない商品は客商売をしている限りダメなのだ。
まあ、基本的には作りの良い素晴らしいものっていうのをお客様は欲しいと感じる場合が多いんだけど。

ただ、人間として正しくないことでも、お客様が求めるものっていうのもある。
例えば安い電気だ。
これは倫理的に考えて正しくないだろう。
原子力発電所が吹き飛んでも、安い電気代は求められる。ジャブジャブ電気を使う。
でも、お客様が求めている限り、商売をしている立場からはそれをいかに提供するか、いかに魅力的に提案するかになる。
お客様は神様なのだ。

明らかに理不尽なことを言うお客さんは、現実的にはお客さんじゃなくなる。理不尽を言って利益よりも損害を出すようになると、これはお客さんじゃない。利益をもたらしてくれていればこそお客さんはお客さんなのだ。
しかし、現実はそうも行かず、ニュースなんかで店員が土下座をさせられたりする事件が起きるわけだ。

商売は三方良しが理想ではある。
売り手、買い手、世間の三方に良い商売が理想だ。
そのためには正しいことが正しいが通らないといけない。

正しいことが正しいとは限らない。
六ヶ国語を覚えて、知識を蓄えて、肉体を鍛えて、それが正しいとは限らないってのは何とも変な気がする。

主人公は一体何に負けて、子どもたちをスクールバスに乗せて学校に通わせることにするのか。
いや、この製作者は一体何に負けてこういうラストを書かねばならなくなったのか。
ヒッピーはダメだ、長いものには巻かれろ、世間に順応しなくちゃいけない。道徳の教科書に載るようなクリーンなラストじゃないといけない。

正しいことが正しいとは限らないってのが正しい世の中。
何者か分からない巨大な何かが個人の考えを否定して、無言の圧力で一つの方向に導く世界。

実際、僕も誰に遠慮してるんだか分かりゃしないが、何者かに気を使って正しいことが正しいとは限らないような、正しくないことも目を閉じてやるのが正しいような、ヘンテコなことになっていってる気はする。

変なクリーンな雰囲気でラストをしめてはいるが、何とも後味の悪い映画だった。

そんなこんな。


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posted by ちょろり at 23:43| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月18日

子どもが出来た。

子どもが出来た。
無事に産まれるんだか、まだ安定期にも入らないから分からないけれど、元気に産まれて、大きくなって欲しい。
そんなわけで結婚もすることにした。

急にいろんなことが進んだ。
アフリカは遥か遠い過去のようだ。

子どもが出来て、最初、中絶も考えた。
僕も妻、妻になるので妻で良いんだろう、どちらも当面は子どもは作らず二人で呑気にやって行くつもりだった。
結婚もどちらでも良かった。いずれ結婚するのだろうが、役場での申請なんかが難儀だろうからと折を見て入籍すれば良かろうといった程度のものだった。
そこにふと子どもが出来た。

僕も何だかんだで31歳、妻は少し年上なので世間一般で言えば子どもを持つにはちょうど良い年なのだろうが、世間の考えは世間の考えであり、僕らの考えとは関係ない。
僕の収入は相変わらず少ない。
独り身で生きるには十分だが、誰かを養えるかと言えば、まあ、養えるんだろうが。
そう、酒を辞めた。週に一度くらいは家で晩酌しているが。毎日ウイスキーを飲む暮らしから随分な変化だ。
煙草は辞めていないが、随分減った。
酒と煙草をやめるだけで、まあ、何とか養えるくらいにはなる。というのも、僕の出費の大半はその二つだったから。それ以外の娯楽といえば自転車くらいか。妻と暮らすようになってからはギターも弾かなくなったし、本もあまり読まなくなった。最後の砦が酒だったわけだが、酒は案外すんなり辞めた。
そうすると案外、生計が立ちそうな見通しが立った。
酒飲みってそんなもんだろう。
酒っていう鉄球を付けて生きている。外せば案外いろんなことが出来る。分かっちゃいるけれど、酒が好きで飲む。飲んで何か良いことがあるわけでもない。知り合いがいくらか出来るのは良いことだけれど、お金同様、夜の夢だ。飲み終われば眠りがやってきて、朝に太陽が昇る代わりに過ぎ去って行く。
だからこそ、酒の仲間は好きだった。
出来れば酒の仲間は夢であって欲しい。
日本人の常識としては昼間の仲間との交友を深めるために酒は飲むものかもしれない。
だけど、僕にとっては酒の酔いの中で夢のように揺れる友達でいて欲しかった。俗っぽい話は聞きたくなかった。仕事の愚痴など聞きたくもない。何の内容もない話をして揺らいでいる、夜の夢の仲間。
僕は一人きりで酒を飲みに出掛けるのが好きだった。

酒と煙草を辞めて、子どもを一人育てられるくらいの採算が立つ。
そう考えると酒を飲んできて良かったなと思う。
夜の夢から離れるのは寂しくもあるけれど。

昼の夢といえば自転車の旅だったんだろう。

酒に満たされた夜か、その日眠る場所も分からない昼の日々か。

ーーー

子どものためにそういったことを辞めるのかと言うと、まあ、その通りでもあるのだが、どこか肩の荷が降りたような気もする。
正直なところ、アフリカ以来、僕の心が燃えるようなやりたいことは見つからなかった。
仕事は嫌いじゃない。好きかと言われると、地方の町の自転車屋さん、どこか物足りない気もせんでもないが。それでも、悪くない仕事だと思う。それでも、心が燃えるようなことかと言えば、どうだろうと思う。
小説を書くということも、小説を読まなくなって、要は小説に心酔出来なくなったから読むことが減ったのだろうか、はたまた読まなくなって心酔出来なくなったのか、何にせよどうしても書きたいものってのがなくなったか、はたまた書きたいものは心の中に燻っていれど、手に届かなくなったのか、手を伸ばす労力、探す労力が落ちたのか、心が燃える感じがなくなってしまった。

どう生きるか。
正直、そういうのが見えなかった。

自転車屋さんという仕事に関して熱意はあるが、正直、随分走ってしまったからか、自転車に対してどこか冷めているところもある。いや、好きではあるが、世の自転車愛好家のように頑張ろうってあまり思えないところがある。休日にロードバイクで走っても、マウンテンバイクで山を走っても、一人きりで異国を走る高揚感みたいなものはない。ましてやアフリカやパタゴニアのような高揚感は縁遠い。
100km走ったって特に達成感はない。200kmほど走ればいくらか満足感はあるが。それでも、どこか冷めてしまっている。

そういう中で子どもが出来て、中絶のことも考えたが、二人で考えた結果、頑張って育てていこうと決めると、肩の荷が下りたような気がした。

ーーー

人間、誰しもすごい人でありたい。
何でも良いから、何か一つ、他の人には出来ないすごいことが出来たり、職場ですごく仕事ができるとか、他の人からすごいと思われるような要素が欲しい。
多かれ少なかれそういうのって誰にでもある。

僕の場合、自転車の旅にせよ、小説にせよ、僕に出来るかもしれないすごいことだったんだろう。

自分で言うのも何だけど、自転車に関してはちょっとすごかったと思う。
いや、自転車の旅自体もそうだけれど、その旅を文にして世界を綴ったというのもほんの少しはすごかったと思う。
まあ、よくやったんじゃないかと思っている。

だけど、すごくあり続けるって大変だ。

友人でベルリンに住んでいる男がいる。
彼は高校を卒業してから、たまに日本に帰ってくる以外はずっと異国にいる。
日本が嫌いなんだかどうだか知らない。
エリートってわけでもなく、料理なんかしながら生きている。
僕は彼のことはすごいと思っている。
別にハーバード大学を出てるわけでもなく、単にインターナショナルフリーターみたいな具合なわけだが、異国でお金を稼いで生きていくってすごいと思う。良い大学を出て駐在員として異国に住むとかじゃなく、体一つで異国で生き抜いているってのは、これはかなりすごいと思う。
彼は彼自身のことをすごいと思っているのかは知らないけれど、多分、自分の生き方を愛しているんじゃないかなと思うし、普通の日本人とは違う生き方をしているという自負はあるだろう。

すごくあり続けるって大変だ。

そういう意味で、僕は子どもが出来て、育てることを決めた時、どこか肩の荷が下りた。
子どものせいにして、いろんなことをやめるってわけじゃない。
ただ、いろんなことをやりながら出来るほど子育てって楽じゃないだろう。
ある意味では僕は子どもを言いわけにして、人生を一つ降りるのかもしれない。

実際は小説を書くなんて子どもがいたって出来るだろう。

肩の荷が降りてしまった。
僕はもうすごくあり続けなくって良い。

ベルリンの友はまだまだすごくあり続けるだろうか。

ーーー

すごくあり続けるってのは、ヒーローでい続けるってことなんだろう。

多くの人は途中で肩の荷を下ろしてしまう。
実際、僕より早く結婚した友人を見ていて、正直なところ、つまらなく感じたことが何度かある。
もちろん、それは否定したりすべきことではない。ただ、つまらないと感じた。
まあ、野球部の4番でエースだって、プロ野球に進まない限りは普通の人になっていくんだ。

基本的には普通の人で世界は成り立っている。

実際に4番でエースじゃなくたって、学生くらいまでって、何かしら4番でエースのことってある。ギターが上手でバンドで目立っていた、とかね。
それが、日々、仕事帰りに買うファミチキとビールだけが楽しみになったりする。

要は僕はそういうのが嫌だったんだろう。
自分がそうなるのも、かつてヒーローだった友人がそうなるのも。

ーーー

でも、いざ、子どもが出来て育てていこうと決め、肩の荷が下りたような感じがすると、それも人生か、僕の人生は折り返しに来て、死に向かって下り始めるのか、そんな気もするのだ。
どこか寂しくもあるが、いずれは死ぬのだ。
その中で次の命に任せるのかもしれない。
なんて無責任なことだ、と思うところもある。
でも、僕はとりあえずここまで頑張った、あとは君に頼むよ、と言ったところか。
すごいことをしてくれ、なんて思わないけど、元気で楽しく面白く生きておくれ、なんて思うわけだ。
僕は僕で随分頑張ってみたんだよ。どうも、まだまだ満足はしてないけど、いったん君に任せようかな、って。
もしかすると、子どもがいくらか育ったところで、また僕も僕で何か頑張るかもしれないけれど。
とりあえず、当面は君を育てることだけに集中して頑張ってみようかなって。
多分、それは結構楽しいことだと思うし。
少なくとも、僕の心が燃えることではある。頑張ってみようじゃないか、って。

とりあえずは元気に産まれて来てくれると良いんだけど。
父親ってのは母親ほど頑張れることが少ないから、何が出来るってわけでもないんだけどね。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 23:31| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年03月25日

山の裾野へ引っ越すことにした。

山の裾野へ引っ越すことにした。
厭世的になっても仕方はないのだが、最近は北海道の過疎の村の役場の求人などを見て、良いなと思ったりする。

子曰く(しいわく)、学びて時に之を習う、また説ばし(よろこばし)からずや。
朋遠方より来たる有り、また楽しからずや。
人知らずして慍みず(うらみず)、また君子ならずや。

ふと論語を思い出す。
高校の頃、学校に行くのが嫌いだったので、図書館で論語を読んだものだ。
授業でも習うが、学校のことは全面的に馬鹿にしていた。実際、学校で習う国語とは実につまらない。どうして名作をあんなにつまらなく感じさせる事ができるのだろうと思う。
そうは言っても、名作を知ったきっかけはやはり授業で教わるからだ。

ーーー

論語は何とも素晴らしいと感じた。
まず漢字がずらずら並んでいてカッコいいし、書き下し文を声に出して読み上げても何だかテキパキしていてカッコイイ。まあ、漢文全般に言えることだろうが。
それにしても、論語はカッコイイ。

実際のところ高校で論語を知るまで、日本の教育では学ぶとは何なのかということを教わらない。
論語はこれに対していきなり教えてくれる。
学ぶとは楽しいことではないか、と。
そして、学んだ結果として、遠くにいる友人にまで自分の話が届き会いに来てくれ話すとは実に楽しいことじゃないか。
だからといって、仮に人に知られるようにならなくたって恨んだり、くさったりしないで学び続ける、そういうのが君子ってものだよ、と。

なんと的確でコンパクトに学ぶとは何なのかを綴っている。

ーーー

まあ、実のところ、論語の内容などほとんど覚えちゃいないのだが。友あり遠方より来たるのフレーズは何故だかよく覚えている。

学校だとか集団というのは今も嫌いだ。人がたくさんいて、もちょもちょしているのが嫌いだし、学びたいために学ぶのじゃなく、みんなが学んでいるから学ぶっていうのがすごく気持ち悪かった。
生きていると何歳になっても大多数の人間は同じでみんなが働いているから働くだけで、働きたいことしたいことのために働くって少ない。

特に近年、人間を眺めているとつまらないような気持ちになることが増えた。人間に対して嫌だと思う気持ちもそうだが、つまらなくなった自分自身を映す鏡のように感じるせいかもしれない。
少なくとも、自分はかつてつまらない人間だと考えていた人間になりつつあるし、それを受け入れつつある。

30歳など若いと言う人もいるが。
はっきり言って30歳はもう全く若くない。
人間、40歳にもなれば明確に体力は落ち始める。
イチローでさえ45歳で引退だ。45歳までスポーツ選手としてプレイできるって本当にすごいことだ。
死ぬのは100歳かもしれないけれど、イチローでさえ45歳で現役終了だ。どうしたって体が衰えてくる。
ましてや、すごいわけでもない一般人の僕なんかは45歳まで体が元気なわけもなかろう。
まあ、プロのスポーツ選手じゃないんだから、体が元気じゃなくたって構わないとも言えるけど、脳みそだって45歳にはもう落ち目だろう。

現実問題として、35歳くらいだと思うのだ。
何歳からでも何でも始められるというのは事実だが、35歳を過ぎてゼロから始めるってのはやはり成長がしにくいのだろう。

50歳ともなれば、もう落ち目も良いところ。
むしろ、老害になり始める人もいる。過去の栄冠にすがりついて、下の人間を馬鹿にする。

もちろん、そうじゃない人もいる。謙虚に生きて、60歳だろうが70歳になろうが、若い人の話を聞いて素直に認めてくれることもあれば、助け船を出してくれること、率直に意見を言ってくれる人もいる。
長く生きて偉いはずの人が、年齢関係なく人間同士としてあくまで対等に、なおかつ年長者としての優しさを持って接してくれる。
そういう立派な人もいる。

ーーー

論語では、
十五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳従う。
七十にして心の欲するところに従って、矩をこえず。
とのことだ。

意味は、五十までは読んでそのまま。
六十にして何を聞いても動じなくなった。
七十にして思うように自由にやっても、道義を違えるようなことがなくなった、といった意味だ。

今よりも平均寿命の短い時代ということも考慮しなくてはいけないのはある。
今は寿命100年の時代だし、定年がない仕事なら60過ぎても現役でバリバリ仕事をする人もいる。

そうはいっても、昔の平均寿命の低さは子供のうちに死んでしまう確率が高かったせいもある。元気な人はやはりある程度までは長生きしたのだろう。

五十にして天命を知るのだ。

ーーー

そう考えていくと三十というのは、もう若くないわけだ。
もちろん、まだ五十まではしばらくある。
しかし、もう何かを始めていないといけない年齢ではあるのだ。

ーーー

最近、結婚をしたのかと聞かれることがある。
籍は入れていない。
入れても良いのだが、入れなくても構わない。どちらにせよ、今の人と死ぬまで過ごすのだろう。

結婚は男の墓場とは言うが、墓場にする人も多いし、そうじゃない人もいるだろう。
自分はどちらなのかと考えるとちょっと分からない。
それでも、墓場になるとしても、それは結婚したからではなく自分の怠慢ゆえに墓場を迎えるだけのことだろう。
一人で生きるのと違い相手を気遣わなければならないのも事実だが、相手が自分を助けてくれるのも事実だ。
助けてもらうことで出来るようになることが増えるか。助けることで自分の出来なくなることの方が増えるか。
一人で生きるのとは違うが、イコール墓場ではなかろう。一人じゃできないことが出来るようになるのだから。

ーーー

まあ、それにしても、友あり遠方より来たる、とは実に的を射たもので。

今の仕事にくたびれはてた今、旧知の友が遠方から来てくれ、手を差し伸べてくれれば良いのにと最近の僕は思う。
そうは言えど、旧知の友の多くも、やはり日々の生活に飲み込まれ、くたびれ、かつての光みたいなものは失われているだろうなどと考えると、故郷には帰りたくないし、旧知の友にも会いたくないような気持ちになってしまう。

北海道の過疎の村の役場の求人を眺める。
それで良いのかね、とも思うが。
遠方より友は来ない。

ドイツの友に会いに行きたい。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 00:03| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする