2019年01月06日

時々、ケータイのゲームにハマることがある。

時々、ケータイのゲームにハマることがある。
元はペンキ塗りのアルバイトをしていた頃だ。
なぜかドカタの人たちってケータイゲームが好きだ。お金もかからないし休憩時間にぼんやりとタバコを吸いながらやるのにちょうど良いのだろう。話題にもなる。
ハイエースの中をタバコの煙で充満させながら協力プレイが何とかと話をする。
それぞれ一人親方でやってたり別の親方のところで働いているのを忙しさで人を貸し借りするのだが、共通の話題としてゲームがあるっていうのは良いのだ。
どうでも良い会話というのは大事で、サバサバしていると、誰それの現場の時は誰それがやる気がないとか、どこそこの親方の仕事の取り方がえぐいだのと、まあ仕事、日々の生活のかかった金を稼ぐための営みをしているとあれこれ揉め事が起きたりすることもあるらしいのだが、どっちでも良い時間潰しのようなゲームで協力プレイをしてたりすると、
「え、そのキャラどうやって取ったん?」
「今日何時からイベントだっけ?」
だの、まあ、実にどうでも良い会話で和気あいあいして良いのだ。
まあ、何かと程よいのだ。

そんなわけで僕もゲームを始めると、
「ふくちゃん、最初はこのキャラからやっていけばええんよ!オレをフレンド申請しとけば序盤は楽勝よ!」
なんて具合で優しく教えてくれたりする。
基本的に優しくて兄貴肌な人が多かったというのもあるかもしれない。
実際、僕はパチンコもやらないし、ナンパもしない、キャバクラも行かないし、若い頃にケンカもしなかったし、良い車も持っていないから、ペンキ屋さんでの話題ってゲームがあるとすごく助かった。

ペンキ屋を卒業しても、まあ、卒業といっても何も覚えていないのだが、基本的に塗料の缶を運んだり、塗料をまぜたり、簡単な下塗りだけやったりくらいだったのだが、何にせよペンキ屋をしなくなっても、僕はケータイのゲームを時々するようになった。
別に大して面白いわけでもないし、生産的でもない。
ただ、何となく心の癒しがあるのだ。
特に頭を使わずぼんやりとスマホをいじる。
そんなことが心の癒しになるのは不思議なことのようにも思うが、何にも頭を使わずぼんやりと時間を過ごせることって癒しになるのだ。

スマホのゲームなどしなくても、ぼんやり空を眺めれば良い気もする。
案外、これが出来ない。
旅の日々の中では簡単だったのだが、普通の日々だとアレコレ考え事があったりする。
何もせずぼんやり過ごす時間って案外難しい。

友人でスマホゲームの達人が二人ほどいるのだが、一人は世界ランクでも上位に行ったりする。課金なしでそのくらいは行けるとのことだが、確かにいつでもゲームをしている。
ちなみに彼も仕事がなかった頃はドカタをしていた。
もう一人は配送の運転手をしているのだが、運転中に延々とやっているらしい。

まあ、大人になるってのは多かれ少なかれそういうところがあるんだろう。
昔なら英単語の一つでも覚えるか、とかだったが、英単語を覚えたところで使う場面がない。仕事で使う機会があれば、必然的に勉強するし、勉強する必要がない場合は使う場面がないということでもある。
日々の生活、仕事の中で即戦力になるようなことしかしなくなっていく。或いは全く無意味なこと、してもしなくても良いこと。した方が良いことってのは、しないと罪悪感もある。してもしなくても良いことは、しなくたって良いので、気が向いた時だけぼんやりとすれば良い。気楽なのだ。

まあ、人生、そういう要素も必要なのだろう。
いや、必要じゃないからこそ気分転換に良いのかもしれないが。

ま、そんなこんな。


iPhoneから送信
posted by ちょろり at 22:24| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月04日

アフリカの話をそろそろ文にしようかと目論みつつ、すぐつまづく。

アフリカの話をそろそろ文にしようかと目論みつつ。
そうは言っても昔みたいに小説にするのはどうも難しい気がしている。
昔のは何だかんだで小説だった。
今回は写真集にしようかなと思いつつ。

そうは言っても、はっきり言って個人の旅日記なんかほとんどの人が興味ない。
それに対して芸能人や著名人の文章ってのは興味がある。村上春樹がトライアスロン日記なんて出したら、まあ、それなりに売れるような気がする。内容はどうあれ。
無名の個人の文章ってのは実に難しい。

手に取る人がいなければ、文とは寂しい。
一冊の本を作るときに難しいのはそこだ。
それでも、文とは寂しかろうと無意味だろうと存在しさえすれば存在しているのだ。

ーーー

小説とノンフィクションの境目って難しいとは思う。
以前の南米の話はノンフィクションではあったが、小説だったように思う。

ノンフィクションとは何ぞや。
これは難しい。
難しいので考えない。

ーーー

これまではBCCKSという出版サービスを使っていたのだが、今度はNEXT publishingなるサービスを試してみようかと考えている。

このNEXT publishingというサービスはAmazonのオンデマンドプリント、要は注文が入ってから印刷して製本して販売するというシステムを使ったサービスらしい。
PDFで入稿したら、あとは売れたら、その都度仲介手数料がかかるが基本的には作家の方は出費ゼロで出版が出来るというわけだ。
紙の本を発信するには良いサービスだ。

BCCKSは小説なんかには良い。
電子書籍でAmazonや楽天など様々な電子書籍ストアに配信してくれる。
電子書籍での発信のメリットは、とにかく購入者が安く手に入れられるということだ。
広く読んでもらいやすい。
出版社なんかの目に止まるチャンスも高い。

ただ、BCCKSはPDFなどでの入稿が出来ない。有料オプションでMacを使ってePUBファイルというのを作れば出来ないこともないのだが。貧乏人なのでWindowsしか持っていないので無理だ。
基本的にはブログのような形式で入力していくことになる。
写真をメインに本を作るとなると、BCCKSのやり方だと厄介だ。何より我が家のインターネットは遅い。オンラインでの原稿作成ツールを使うのはかなり無理がある。
オフラインでPDFで作って、紙の本に印刷してくれるってのは良い。
しかも、アマゾンで販売してくれる。
別に無料で良いのだが、現実問題として、
・紙に印刷するにはお金がかかる。
・電子書籍は現実的に普及していない
・Webページとして作っても良いが、Webページって流し読みになって最初から最後までを読んでもらえない。
なんていうことから、やっぱり紙で発信するというのは重要なのだ。

ーーー

はて、そんなわけで写真を整理してみたのだが。
どうも去年くらいに同じ作業をしてつまづいた覚えがある。

やはり僕は元が写真メインではないので、写真を基軸に本を作るってのがイマイチ分からないのだ。
起承転結を付けて、最後に向けて物語を進行させてテーマを展開していくというやり方しかして来ていない。

ふむ。
いきなりつまづいた。

結局、今回もアフリカ編は完成ならずか。
まあ、そうは言っても一応最後まで作ってみようかなと思いつつ。

どうもアフリカ編は以前に小説も書こうとして十万字近く書いてみたが、全ボツになったりと上手くまとまらない。
実際、アフリカでのことって何をどう文にすれば良いんだか分からないってのが本音ではある。

まあ、のんびりやっていくさ。
辞めてしまわなければ、いずれは完成する。
人生を通してゆったり長く執筆はしていけば良い。

まあ、そんなこんな。


iPhoneから送信
posted by ちょろり at 23:58| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月03日

青年くんはFXで勝負すべきか。

今日は自転車でぶらぶらと秩父の方へ出掛けた。

今年はちょろり草を出来るだけ毎日書いていこうと考えてはみたのだが、やはり自転車の方のブログと両方書いていて毎日ってのは難しい気がする。

それでも、毎日ちょっとでも何か書いてみて、何日か合わせて一本書くってのでも良いかって気はしている。

基本的には日記には鮮度が大事だと考えていたので、その日の日記はその日の内に書ききってアップロードしないといけない、続きを別の日にまたがるって微妙だと考えていた。
何より書きにくい。
日記なんて、そんな大したことを書くわけでもないので、一日経てば、なんでそんな話題を書いていたのかも思い出せなくなってしまう。
そうは言っても、そういう書き方も必要であれば、やはり覚えないといけないだろう。

ーーー

今日はお金と仕事のことなんか考えたりした。
知人の若者がFXで一儲けしてやろうと考えているのだ。そのことについて一緒に自転車で出掛けていたKさんなる人と、「どうなんでしょうね、心配ですね」などと話したわけだ。

実際、僕も株なんかはやっている。
FXも手を出そうか考えてもいる。
別に必勝法はない。
むしろ、先日、株の方で大敗してしまっている。僕の買った株が突然大暴落してしまっている。まあ、大暴落と言っても1年か、長くても三年ほど待てば元の値段くらいまでは戻るのだが。
株は長期的な目で見れば、その会社が上場停止なんかにならない限りは元の値段までは戻ってくる。

FXも基本的には放置していればいずれは元のポジションまでは戻る日は来る。
問題はFXはレバレッジ、つまり自分の持っている金額の何倍という商品を買えてしまう。10倍にしていれば、勝ちも負けも10倍になる。
これがFXで一発当てる人がいる理由だ。
逆に財産をなくしてしまう人も出てくる。

基本的には当たり前と言えば当たり前なのだが、勝ちだけ見込みの高い博打など存在しない。
FXは博打じゃなく投資だという人もいるが、噛み砕いて考えれば上がるか下がるかの丁半博打である。

基本的には丁半博打については倍プッシュし続ければいずれは勝てる。倍プッシュとは負けたら次は掛け金を倍にして賭けるというわけだ。
勝てば前に負けた金額を回収できる。
負けてもまた倍プッシュで良い。
問題は掛け金がそんなに続くかという問題ではある。
あとは倍プッシュして買ったという時に勝ち幅が小さくても意味がない。

投資と投機と博打の違いとは、負けた時の幅だ。
博打は負けたらゼロになる。
投機は負けるとゼロまでは言わずとも大きく負ける。
投資は負けても減るのは一部のみだ。
要は用意する資産を長期的に運用出来るかどうかだ。博打は負ければ一瞬で終わってしまう。
FXはレバレッジのかけ方によっては投資だし、大きくかけると博打以上にリスキーになる。
また選ぶ通貨にもよる。円、ユーロ、ドルの三代通貨はリスクは低いがマイナー通貨は暴落したりがある。

ーーー

Kさんは割と心配していたが、僕としてはFXでも何でも興味があることは試してみるのは良いことのように思う。
その若い子、青年くんとでも呼ぶことにしようか、青年くんは自動でコンピュータが運用してくれるシステムを30万円で買って一儲けしてやろうという魂胆らしい。

「そんな上手い話あるわけないだろ。やっぱり汗水垂らして働かないといけないんだよ」
というのがKさんの考えである。

Kさんの言う理屈は正しい。
実際のところ、FXはコンピュータでかなり勝てるというのも事実ではあるが、そこまで勝率の高いシステムが30万円程度で買えるとは思えない。
何せそんなに勝てるシステムなら30万円で売らずにそのシステムで儲けた方が早い。
何せ一万本売れたとしても30億円である。
30億円と言えば大きい金額のようでもあるが、放置しているだけで楽して勝てるなんて、そこまで勝率の高いシステムなら元の資金が100万円もあればすぐに稼げそうな金額である。

現実一万本も売れるかっていうと微妙な気はする。
何だかんだで一万人くらいは甘い話に飛び付く人も存在するかもしれない。
ただ、仮に一万人買ったとして、そのコンピュータが同じように投資するとしたら、一万人が投資する未来が製作者には分かるということでもある。ただ、一万人程度の投資で相場がどの程度動くのかってどうなんだろう。
世の中、もはや天文学的数字のような財産を持ってるような人もいるわけだし。

何にせよ、順当に考えればやはりK氏の理屈、「世の中そんなに甘くないって」
というのが正しい。

ーーー

ただ、実際に投資で大儲けしたことのある人を僕は二人ほど直接見たこともあるので、存外、可能性はゼロじゃないと思ったりはする。

ただ、青年くんは仮に勝ったとしても、結局上手く使えないような気がする。
博打で買った金とは湯水のように消えるものなのだ。
もちろん、一生をプロの相場師として生きていきたいと強く考えていれば話は別だろうが、単純に仕事が嫌で働きたくない、お金が欲しいってのは上手く行かない場合が多いのだ。

実際、僕の知る投資で大儲けした人は、勝ったは勝ったが、段々と数字の感覚がおかしくなってゲームみたいになって、結局最後は必要な分だけ残して、あとは全部賭けてなくしてしまったと言っていた。そして、焼き物職人として生きていた。今はどうしてるかは知らない。
もう一人の人はやはり膨大な金額を持っているが、どうもお金というものの感覚がよく分からなくなるらしく、高いもの、良いものと呼ばれるものを買っても全く嬉しくなくなって、世界を旅して、自分自身が価値があると感じたものにだけ使うようにしているとのことだった。なので、生活は意外なまでに質素だ。意図的にそうやって質素にしておかないと、喜びや面白みがなくなってしまうらしい。その気になれば、お金で買えるものは何でも手に入るってのも案外大変なのだそうだ。

青年くんも仮に勝ったところで、中途半端な価値なら湯水のように使ってしまって、むしろその後負けて借金になったりするかもしれない。大勝ちしたとしても、明確にお金を使ってどうしたいということもない。車が欲しいとかはあるみたいだが。

ーーー

根本的な問題としては、仕事をしたくないってところだろう。
まあ、僕もくたびれるので仕事なんかしなくて良いならしたくない。たまに気が向いた時だけちょっと働くなんてのが嬉しいは嬉しい。
でも、そうなると誇りってのは持てない。
サラリーマンだろうが何だろうが、やはり仕事には誇りってものがある。

というのも、仕事って意外と難しい。
子どもの頃は大人になればみんな何かしら仕事を出来るようになるものだと思っていたが、実際にはみんなそれなりの苦労をして今の自分の仕事が出来るようになっている。
苦労して出来るようになったことって、やはり誇りがある。

僕の場合、好きなことを仕事にしているけれど、やはり仕事は仕事である。それなりの苦労はある、というか好きなことを仕事にするのは苦労が多い。
縁があって結局自転車屋なんて形で働き続けているが、給料も休みも悪いし全くオススメはしない。
それこそ日が変わって一月三日となったが、今日も勤務だった。三が日くらいゆっくりしたいというか、年末年始は二週間くらいはぼんやりしていたい。
そんなわけで人にはオススメしないが自分としては誇りを持って働ける仕事なので良い仕事だと思っている。

ーーー

青年くんはFXで一儲けしたいというが、その実、一儲けなどしなくとも働きがいのある仕事がしたいという方が正しいのだろう。
「まあ、たしかに複雑になりましたよね。昔って働いていればそれで良かったけど。なんか最近ってテレビなんか見てると、年収は500万円とか、年間休日百三十日とかが普通って言いますしね。青年くんみたいに派遣で働いていると、仕事なんか馬鹿馬鹿しくも感じるし、FXで一発当てるって夢を見る方がよほど現実的かもしれないですよね」
「まあ、そうなんですけどね」
「そう、そんなんですけどね、ですよね」

ーーー

K氏とアレコレ言っては見るものの、青年くんは興味があるならFXで一発狙ってみるのが良いような気もする。

他人事だからってのもあるが、どかーんと二百万くらい借金してみるのと良かろう。二百万くらいなら10年もすれば笑って話せる借金だろう。
はたまたドカーンと大投資家になれるかもしれない。
はたまた案外どっちにもならず、単に30万円損するだけかもしれない。

ただ、モヤモヤとFXしてみたら大儲け出来るかもしれないと思い悩んでいるよりは、人生は経験だ。
200万の借金で買える経験なら安いものだと思う。
一千万円負けるとちょっと話は変わるけど。

実際、僕自身、海外に自転車で旅するということで何だかんだでトータルで二百万くらいは沈めてきた。実際に使ったのは百万くらいだが、その無職の期間に普通にサラリーマンしていたら入っていただろう収入なんか考えれば200万くらいは堅い。
それどころか、まともに大学を卒業してサラリーマンしていたら、今頃年収も百万くらい違って、ゴールデンウィークなんか十連休だったろう。
そう考えると20代の頃にほんの少し異国を自転車で放浪したことでの損失って500万円くらいに登るかもしれない。

でも、お金持ちが一億円出したって、自転車で異国を旅する経験は買えないのだ。
経験ってのはやはり偉大だと今も思う。
それでいくら得するか損するか、何かに役立ってるかなんかは知らないが。

人は思い出を積み重ねて生きるものだ。
目の前の札束はいくら積み上げても思い出にはならない。

ーーー

欲に駆られてFXしてみて、何が手に入るか。
それは分かりはしないが、青年くんくらいの年齢で30万円使ってやる遊びって決して安いものじゃないはずだ。
やってみるのは大事だと僕は思う。

少なくとも僕やK氏はしなかった体験だ。

体験なら何でもしとくべきかと言えば答えはノーだが。
本人が本気でしてみたいと感じることについては、やはり体験してみるべきだろう。
やるからには全力で勝ちに行く、全力で楽しみに行く。

そういう体験の積み重ねの先に仕事ってあるべきだろう。

まあ、そんなこんな。


iPhoneから送信
posted by ちょろり at 20:05| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月01日

ちょろり草は終わるのか、毎日になるのか。

平成が本当に終わるということを大晦日に知る。そろそろ終わるということは知っていたが四月までで終わるなんて具体的に決まっているなどとは知らなかった。
ニュースも見ないと。

別に狙ったわけじゃないけれど、ちょろり草も平成の終わりと一緒に終わるのかもしれない。
実質2018年はほとんど書かなかった。

ブログも長く書くと愛着が湧く。
かれこれ10年以上日記を書いた。
ちょろり草の前にも書いていて、最初は確か高校生の頃だった。ちょろり草の最初の記事はスマートフォンからの過去ログからは開けないほど古いが、その前から日々書いていた。

何のために日記を書くか。
一口に言えば王様の耳はロバの耳だろう。
別に悪口を書くとかいうわけではない。
日々生きていると思うことがある。しかし、それを全て口に出して人に話すことは出来ない。誰かに話すべきことじゃないってのもあるし、単純に物理的に不可能だということだ。
歩きながら考えついたことを延々と書いてみるという実験をしたこともあった。その頃はツイッターなんかも流行り始めた頃だった。

元々は小説の練習のため、ネタ帳的なものだった。
小説も書かなくなった。
最近は仕事の自転車関係の文についてはほぼ毎日書いてはいるものの、何とも無味乾燥でつまらない気がする。自転車に関する情報という意味ではある程度の意味はあるのだろうが、文章として面白かったり美しさがあったり、思想があるかっていうとないだろう。
数年もすればAIでも書けるようになるかもしれない文章とも言える。
その点、ちょろり草は未来永劫AIには書けない文章だろう。

王様の耳はロバの耳。
この話は元々は、神様の呪いでロバの耳にされた王様。王様の耳のことをしるのは行きつけの床屋のオヤジだけ、必ず秘密を守るよう約束するが、床屋は心にしまった秘密を我慢出来ず井戸に向かって叫ぶようになるのだが、井戸を通じてみんながそれを知ってしまう。耳の秘密を知っていたのは床屋一人だけなので王様は床屋を殺してしまおうかと考えるが、許してあげることにした。みんなの意見が聞けるよう大きなロバの耳になっているのだと打ち明けた。すると、その寛容の精神を神が認めて呪いを解いてもらえてめでたし、という話だ。
井戸じゃなくて穴を掘って叫んだが、その近くの葦が「王様の耳はロバの耳」と歌うようになって知れ渡るなどのバリエーションがあるようだ。

本来は寛容の精神のお話みたいなところだ。
ただ、このロバの耳の話っていうのに関して僕はしみじみ思うところある。

大人になるにつれて僕らは言葉を発さなくなる、そんな風に僕は思うのだ。
子どもなら王様の耳はロバの耳なんて気にせず叫ぶか、別に誰かに言いたいとも思わずコロリと忘れてしまうだろう。
大人になるほどにロバの耳のような問題が増えてくる。
正しいことを正しいと言えなくなったりする。
童話つながりだと裸の王様だろう。王様は裸だって叫ぶのには勇気がいる。
口にしてはいけない秘密や、言葉にしてはいけない考えみたいなのが増えてくる。

そういった言葉にしない方が良いことを口に出さず、言葉にせず、考えず。
そうやって生きる方が人生は楽チンだ。

でも、それをやってると世界は滅んでしまうだろう。
暗黙の多数決ってのがある。
基本的に今の世界は多数決だ。多数の単位は何人かじゃなく、権力やお金なんかも含めた力の強さだ。
少数派が声を上げてもいかんともしがたい。
昔はデモとか学生運動なんかがあったそうだが。

平成がいつ終わるかも知らなかったくらいなので、最近は本当にニュース、政治などさっぱりなのだが、安倍首相がトランプ大統領と仲良さそうに映っているのを見ると、詳しいことは分からないが、なんかこりゃヤバイんじゃないかなって思う。
中国がスーパーパワーを持ち始めて、世界に不穏な空気が出ている中で、原発も吹き飛んだし、アメリカさんに助けてもらうために、これまで以上に媚びないといけないとかの理屈は分かるが、それって本当に大丈夫なのかって話だ。
多分、多くの人がそういうのって思っているだろう。もちろん、政治に関する考え方って人によって違うから、安倍首相が好きって人も中にはいるだろうし、トランプさんが好きって人もいるだろう。

こんなこと言うとアホかって思われるかもしれないが、トランプ氏と安倍氏はとにかく顔が悪い。トランプ氏なんか赤いネクタイなんか付けるからますます際立つ。
テレビでもインターネットでも、その二人が握手したり仲良さそうに立っている絵が、もう何とも駄目なのだ。
それが何と我が国の代表なのだ。

顔や見た目で人のことを判断しちゃいけないとはいうが、北の将軍様もやはりビジュアルは良くない。一目見て、「あ、なんかヤバイやつだな」ってなる。
ヨーロッパの国の代表なんかって割とみんなキリッとしている気がする。そりゃ、ブサイクも中にはいるかもしれないが。
昔ドイツが暴走していた頃、ヒトラーも写真をちょっと見ただけで、「あ、このおっさん目がなんかヤバイな」って感じだ。

顔で政治をするわけでもないが。
それでも、学者なんかと違って政治家って人の心を掴めないといけない。
やっぱりブサイクとかヤバイ顔って駄目なんじゃないかと、個人的には思うわけだ。

そりゃ、顔、風貌だけで選挙を決めるわけにもいかない。
ただ、やはり首相なんかは国の代表、それこそ顔なわけだ。
安倍氏とトランプ氏の並んでる絵なんか見ると、「ああ、あそこの国とはあまり関わりたくないな」って思うんじゃないだろうか。
北の将軍と三人揃ったら、絵だけ見れば何だか気が合いそうではないか。

首相以外なら良いが、首相に関しては容姿ってもう少し小綺麗な紳士がなって欲しいと思う。
もちろん、きちんとした政治ができる人が一番ではあるが。
少なくともアホみたいな似合わない赤いネクタイをしめるような男が僕らの代表にはならないで欲しいとは思う。
別にアメリカが嫌いとか、アメリカに媚びるのがどうとかは思わない。大抵の国はアメリカさんと良い関係で世界を渡り歩きたいのだから。

それでも、仮にの話だが。
北の将軍様が物凄い渋いイケメン紳士で国民が植えていなかったら、世論ももう少し違ったようにも思う。

もちろん、政治は顔でするものではないのだけれど。

ーーー

そんな政治の話は置いといて。
そういう話って日記ではダラダラ書けたって、誰かに対して話すってのもはばかられる。

当時高校生だったり、大学生だったり、プー太郎だったり、旅人だったりした僕は思ったものだ。
大人になるにつれてみんなが言葉にしなくなることを、正しいと感じる正しいことを自分は考えていこう、と。
マジョリティー、マイノリティー関係なく、自分が思うことを大事にしよう、と。

ーーー

はて、じゃあ、平成が終わるのと同時にちょろり草が終わるってのはどうなんだ?という話でもある。

本音を言えばよろしくないと思う。
ちょろり草とは不滅であるべきだ。
読む人がいようが、いなかろうが。

しかし、日記とは日々書いてこそだろう。

はれときどきぶた、という童話があるのだが、この主人公も日記を書く。未来のことを日記に書く。でたらめなことを書くとそれが現実になってしまう。
小さい頃に母が買ってくれた本だが、非常によく出来た作品だったと思う。

多分、僕の勘違いだろうが、その中で日記とは毎日書くものだみたいな記述があったような気がしている。多分記憶違いだろうが。

何にせよ、最近は全く書かなくなったが、日記とは毎日書くべきだというのは僕の中では大事なのだ。

対照的に糸井重里氏のほぼ日、ほぼ日刊糸井新聞は、これ、まあ実に上手いタイトルである。
ほぼ日刊。
実に甘美な良いタイトルだと思う。
現実として毎日ってのは無理なこともあるが、ほぼ日刊というのは実に良い。

日記絡みで言えば、森博嗣氏のモリログアカデミーというブログも良かった。書籍でも出ている。
森博嗣氏はスカイクロラが映画化されたのが有名だろう。どのシリーズも結構ハマる。当時は名古屋大学の工学の教授をしながら小説家もしていた。
モリログアカデミーの素晴らしい点は本当にただの日記なのだ。最初に最近の原稿の執筆の進捗の話で、あとは大抵は愛犬と鉄道模型なんかの話が多かった。その後、その日考えたことなんかを書いている。はっきり言って僕は犬なんかどうでも良いし、鉄道模型もさっぱり分からないのだが、淡々とした日記が何だか心癒された。
淡々とした日記ってのは良い。

ーーー

最近の僕はどうも文を書いたり読んだりする時間を上手く作れない。
店長さんになって一年目だったということもあろう。
ただ、書斎に1時間こもって机に向かうという時間がうまく作れないのだ。よろしくない。

2019年はちょろり草が終わるのか。
はたまた書斎に1時間こもれるようになって、再び毎日書けるようになるのか。

誰かと暮らすとは難しいものだ。
それでも、朝少し早く起きれば1時間くらいは作れるだろう。
僕は朝起きるのが嫌いなので難しいだろうが。

それでも、30代になっても一日の中で自分の時間を作れるかってとても大きな課題だと思う。別にその時間の中で他の人から見れば特に大したことをしていなくたってだ。自分にとって大事な時間というのを1時間は難しくとも30分で良いから作る。
人と暮らすようになろうが、旅に出ていようが、子供が生まれようが。
どんなときにでも一日の中に自分の時間を作る。
もちろん、家族は大事にしながら。
今年の課題である。

ま、そんなこんな。


iPhoneから送信
posted by ちょろり at 23:38| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月27日

自分だけのための人生の墓場。

アフリカに行ってからどことなく老けたような気がする。単純に燃え尽き症候群だろうか。それでも、とにかくあまり物を考えなくなった。仕事が忙しくなったというのもあろう。人と一緒に暮らすようになったからということもあろう。

一つ大きいのは人目を気にして文を書かなくなったということだ。
仕事関連の無感情な文、自分にとって不利になるような文を書かなくなった。つまりは思想的な文や批判する文だ。

利害的なものもあるが、批判できなくなったということもある。
かつて自分が批判していたような人間に自分もなった。まるきり全てではないにせよ、まずあまり戦わなくなった。かつては戦ってナンボみたいなところがあったが、今はそういうのがなくなった。

みんなそれぞれ色々ある。
そう思うようになった。

日本は良くないとか、今の社会は良くないとかって素直に思わなくなった。
じゃあ、良いと思うようになったかと言えばそうでもない。
でも、みんなそれぞれ色々ある。
あと、僕も何だか忙しくなった。

忙しくなったとは言っても、実際何か大したことをしているかと言えば、昔の方がよほど大したことをしていた気はする。
どちらかと言えば雑事に追われている。
例えば飯を食うにしても、昔は自分一人の飯だったのでモヤシを炒めるか、カレーを作るか、チルドの餃子を焼くかくらいだった。自分は今もそれで構わないのだが、一緒に暮らす人もそれで良いというわけにはいかない。料理は半々くらいなのだが、相手が作ってくれれば、きちんと食べねばならない。
パソコンで調べ物しながら、タバコ片手にメモを取りながら食事するというわけにもいかない。掃除、洗濯にしてもそうだ。休日にせよ何にせよ、自分のためだけに全てを使うとはいかない。
特に調べ物、書き物という点では人と暮らす、誰かと生きるってのはデメリットが多い。
書くっていうのは膨大な時間が必要だ。今夜のように寝付けなくて深夜まで一人で起きているという日でもなければのんびり文も書けない。一緒に暮らしているのに毎晩そういうわけにもいかない。
当然、飲みにも行きにくい。飲みにいかないといろんな人と話したり眺めたり出来ない。

じゃあ、今の暮らしが良くないのかと言えば、そうでもない。

結婚は人生の墓場とは言うが、たしかにそうかもしれない。一つ目の墓場だろうと思う。自分のためだけの自分だけの人生が終わる。
誰かと生きる人生が始まる。

誰かと生きていて何か良いことがあるのかと言うと、寂しくない。
少なくとも文を延々と書かないとやりきれないような寂しさはない。
そうは言っても、それで何か生産になっているかと言えばそうでもない。
子どもを作れば未来を作ることにはなるが、とりあえずのところはまだ予定はない。

子どもを作るっていうのは、ある意味便利なことだなと思う。
もちろん大変なことだけれど、とにかく子どもを産んで育てる、これだけで人間として価値がある。生き物として価値がある。
非常にシンプルだけれど、生き物としては一番意義のある行動だ。

しかし、誰かと生きる人生、子どもを育てる人生となっても、自分のための人生ってのは完全に消失しない。結婚は人生の一つ目の墓場ではあるが、結婚しようと何をしようと死ぬまでは自分ってのは自分なのだ。自分のために自分が何かをしてやらないといけない。
やはり自分のための時間、活動ってのは何かしら確保しないといけないだろう。

アフリカで価値観が広がり過ぎたのかもしれない。
人間とは人間なのだ。
生きていれば生きた人間なのだ。
何も理解できていない気はするが。

ま、そんなこんな。


iPhoneから送信
posted by ちょろり at 02:02| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月23日

時々、なぜこんなところにいるのだろう、という気持ちになることがある。

時々、なぜこんなところにいるのだろう、という気持ちになることがある。
群馬県だとかの土地の話ではない。人生の場所という意味でだ。
じゃあ、どこにいれば良いのか、いたい場所なんかがあるのか。

ひどくつまらないような気持ちになる。
昔はもっと楽しいことがあったような気がする。
実際には多分昔もそんなに楽しいことなんてなかった。
或いは今もそんなにつまらないわけでもないのかもしれない。
そう、別に何も悪くはない。

ベルリンの友人のことを考える。
別に立派なことをしてるわけでもない。ヒッピーみたいな具合で転々と生きているだけ。今は偶然ベルリンにいる。もしかすると、ずっとベルリンにいるのかもしれない。
異邦人として生きる。
多分、大変なことだろう。彼は大学も出ていない、本当のフーテンだ。アメリカに住む友人もいるが、そちらは大学を出て日本企業の現地駐在員としてアメリカに暮らしている。賢いのはきっとアメリカの方の友人だろう。
少なくとも僕よりは賢いし立派だ。

それでも、不思議とベルリンの男ってのは心捉えるものがある。
何をして生きてるんだか。異国には焼き鳥族ってのがいるのだが、要は留学なんかで行ったは良いが勉強についていけなかったり、夜遊びばかりに走って、結局日本料理店で焼き鳥を焼くアルバイトをして、言うなれば海外でフリーターしてるような人だ。ベルリンの彼は言うなればそういう焼き鳥族の一種なのかもしれないが、かと言って単純に学生時代の焼き鳥族でも、ワーホリ焼き鳥族でもない。クリーンさがないのだ。
もしかすると、お酒やマリファナだとかのやり過ぎで頭がラリってしまっているだけなのかもしれないが、なぜかベルリンの男は心に掛かる。
ミュージシャンでもアーティストでもない。
フーテンとは言っても別段放浪し続けてるわけでもない。

なんていうか彼は本当に一人きりで異国で遊び続けているのだ。
ただ、楽しいことを求めて。

いや、実際には近年、彼が何をしてるんだか分からない。
案外、言わないだけで大きなビジネスなんかしてるのかもしれない。実はすこぶるカタギな生き方をしているのかもしれない。
可能性はゼロではない。
僕も歳を取ったみたいに、彼も歳を取っているかもしれない。
僕がどうしてこんなところにいるんだろうと感じるようになったように彼もそんな状況にいるのかもしれない。

昔は友人で誰かすこぶる売れる映画でも発表して有名人にならないかな、なんて思ったり、スーパーミュージシャンやすごい画家になるやつが現れないかななんて思ったりした。
でも、最近はあまり思わない。
映画監督を目指していた男がいて、彼の場合、今もプロで映像屋をしているので、ふとヒット映画を出したりする可能性もゼロではないが。
もちろんそうなれば嬉しいは嬉しいのだが。

何というか。昔と違って、社長になるやつがいても不思議じゃない年齢になった。年収一千万円オーバーのやつがいても別に不思議じゃない歳になった。
何千万円だかの住宅ローンを組んで家を建てるやつがいるのも普通の年齢。
誰かが不意に大ヒット映画を作ったって、まあ、すこぶるすごいことだし、とても嬉しいことだけれど、なんというか有り得ることのように思えてしまうのだ。

なんて言うか出来ることが増えてしまって逆に夢がない年齢になってしまったのかもしれない。
自転車世界一周だって、やってやれないことはない。別に僕に限った話じゃなくて、自転車なんて全くの素人でも出来ないことはない。資金を集めて、年月を費やす覚悟とヤル気があれば誰にでも出来る。それこそ、先日、世界一周した人は今は再び南米を走っているが、元々は自転車なんて全くの未経験の人だったという。
南極点だって、本当の本当にヤル気になれば誰でもチャレンジは出来る。
大人ってそういうものだ。時間もお金もある。何よりも自分のことを自分で責任を取る。子どもと大人の違いはそこだろう。だれかに責任を取ってもらうとかってない。だからこそ、出来ることは増える。

でも、出来ることは増えたのに、やれることは随分と減った。
例えば明け方まで納得が行くまで文を書き続けるということ。昔はいくらでもやったけれど、今はやれない。もちろん、出来なくはないはずなのだ。
しなくなったとも言えなくもないが、やれなくなったっていう方が正しい気がする。

さらに歳をとれば家族が出来たりとかってのも出て、またやれなくなることは増えるだろう。
家族が出来るのは素敵なことだけどね。

どうしてこんなところに来ちまったのか。
じゃあ、どこに行けば良かったのか。
そんなにそこは良くないところか。
別に悪いところじゃないさ。
でも、どうしてこんなところに自分はいるのだろう。
そもそもここは一体どこなのだろう。
別にそんなことを知らなくても明日は生きていけるし、きっと知らない方が良いのかもしれないし、知ろうともしないのかもしれないけど。
どこだか、どんな場所だか知らないけど、どうして僕はここにいるんだろう。

昔は自転車で旅に出れば全てが解決したけど、多分、しばらくはそういうことでは何も解決しないんだろうな。

まあ、そんなこんな。


iPhoneから送信
posted by ちょろり at 01:20| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月11日

野球の夢。

悪い夢に目を覚ます。
野球の夢など見るのはいつ以来だろう。
なぜか甲子園出場していて、僕は控えの捕手なのだが、突然、代打で出ることになり、そのまま捕手として守備に出ることになった。捕手として出る公式戦としては初試合らしかった。
しかし、プロテクターが見付からない。
「オーケー、オレが少し行って時間を稼ぐよ」
と言って友人が肩慣らしの間だけ代わりに出てくれた。しかし、僕のプロテクターは見つからなかった。

高校生の頃に野球を辞めた。小学校一年生からしていたのだが、高校一年の頃、勉強を理由に辞めた。実際、その頃の僕は医者になりたくて熱心に勉強していた。医者を目指すとなると、野球部の朝練、毎日の午後練をして七時半に帰宅してから3時間程度の勉強は必要だった。そして、また六時過ぎに起きて朝練に行く。12時に寝るとしたら、本当に休む暇なく野球をしているか勉強しているかになる。
これだけ強靭なメンタルで練習しないといけないのに野球部は弱かった。進学校の野球部とはそんなものだ。
一年の夏に辞めた。

一口に言えば、その野球部は練習時間が長過ぎか、或いは学校の出す課題が多過ぎだった。
僕のクラスは三年になると、いつも何人かが勉強のし過ぎか、勉強のプレッシャーでメンタル的な理由で休んでいた。ちょっと病的に勉強を詰め込み過ぎだった。

そう考えると合理的な理由で辞めたと今でも思うし、納得もする。
ただ、現実問題としては、僕は医学部には入れなかったし、大学も卒業しなかった。

夢から覚めた時に、ひどく心が痛んだ。
野球をしていると、ひどく緊張することがあった。チームスポーツに共通のことかもしれないが、プレーが回ってくると緊張する。失敗すると負けてしまう。
でも、試合で活躍したい、良いプレイをしたいからこそ練習もするので、試合でプレーが回ってくるっていうのは本来的にはゴール、目指すべきポイントの一つのはずなのだ。
多分、性格が出るのだろう。先頭打者ってのは気楽だ。みんなの期待がある。ノーアウトからランナーが出ると有利だ。でも、ノーアウトからランナーが出る確率ってそこまで高くはない。打率三割のバッターなら、フォアボールを入れても出塁率五割となればかなりの良いバッターになる。そもそも打率三割ってのはかなり良い。
良くて五割。期待はされるが、出れなくたって、ああ、残念で終わる。
リスクのない活躍のチャンスだ。
対して三番、四番は厄介だ。ランナーがいればホームに返す仕事になる。ツーアウトランナーなしでもホームランが狙えるバッターなら期待は掛かる。特に四番は後がない。三番は後ろに四番がいる。
バッティングはまだ良い。成功率の方が低いという前提だ。
守備はそうはいかない。ヒットの当たりは仕方ないにせよ、普通の打球はアウトにして当たり前なのだ。
そして、バッティングは自分が失敗しても誰かが入れてくれる。即負けにつながるわけじゃない。
しかし、守備は自分が失敗すると点になる。これは負けにつながる。特に外野手はミスが許されない。一発で点につながる。

野球では投手と捕手っていうのはとても特殊で、圧倒的に長時間ボールを持つことになる。
基本的に痛い。
投手は肩が痛くなるし、捕手はキャッチングを失敗すると指が痛い。
どちらかでも悪いと試合は負ける。

まあ、どこの守備位置も緊張感がある。
チームスポーツってそうだ。自分のミスでチームが負ける。
逆はない。自分の活躍だけでチームが勝つってことはないのだ。チームがつながって初めて勝ちがある。

起きた時の不快感はそういう緊張感のせいもあったろう。久々に味わう緊張。
そして辞めてしまったということ。
そのことにいまだに罪悪感を持っている、まさか10年以上たって夢に見るとは。

たらればを話したって仕方はないが、野球を続けていれば僕の人生は違ったんじゃないかと思うことはある。
医者にはなれなかったにせよ、大学は出れたと思うのだ。野球という集団に属して、人からはみ出ることなく生きていけたんじゃないかと。
多分、こうして文は書かなかったろう。
書く時間などなかったろう。
書く時間を取ろうとも思わなかったろう。
でも、多分、それなりの大学に行って、それなりの企業に勤めて、それなりの生活をしていたんじゃないかと思う。

逆に野球をしていたら、あの頃辞めていれば良かったと思っただろうか。辞めていれば医者になれたかもしれないのに、と。
結果論ではあるが、野球を続けていた方が勉強はしたような気がするし、医者にもなれたかもしれないとは思う。

たらればを言っても仕方ないが、結果は今の通りだ。
少なくとも野球を続けていたら今みたいな暮らしは無かったろう、良くも悪くも。

ただ、夢の中でもう少し良いプレーは出来たかもしれない。
あまり意味はないかもしれないが。それでも、僕は夢の中だけでも良いプレーをしたかった。

ふと一度だけ出た高校の公式戦を考えた。一年生大会というやつだ。
一回戦から強い高校とぶつかって負けた。
その時、相手のランナーにやたらと盗塁された。足も速かったし、投手が牽制、クイックモーションがロクに出来なかったせいもある。ただ、その事を考えると、タイムを一度取って、投手や野手に牽制の練習をさせれば良かった気がする。高校野球の弱小チームと強豪チームの差は残酷なまでに厳しい。だからこそ、勝ち負けは仕方ないと思い切って、今後の試合のために思い切って牽制の練習を投手と野手全員に実践の中でさせるべきだったんじゃなかろうか。
そうやって開き直ってしまえば、どこかに勝ちを掴むための糸口が出来たんじゃなかろうか。勝てなくたって投手を実践の中で成長させる何かがあったんじゃなかろうか。
勝ちを諦めるのは良くないとは言えど、試合の中で何かを掴むっていうのは大きい。
捕手っていうのはタイムをかけてそういう指示を出せる。
本来は監督が出すべきなのだろうが、監督が生徒に勝ちを諦めさせるわけにもいかない。

少なくともチームの次の試合のための何かを出来れば、僕は野球を辞めずに最後まで続けられたんじゃなかろうか。

続けたところで何があったというのか。
そもそも、今の暮らしだって気に入っている。
楽しい。
嫌なことも少なくないし、給料も休みも少ないけど、好きな事を仕事にするのは生き甲斐みたいなものを感じる瞬間がある。

それでも、夢の中でもう少し良いプレーが出来たんじゃないだろうか。
少なくともプロテクターを付けて、グラウンドに立って試合に入れたんじゃなかろうか。

ひどく寂しい、悲しい夢だった。
posted by ちょろり at 00:45| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月02日

ダメな人間ってのがいるものか考えたりする。

ダメな人間ってのがいるものか考えたりする。
どうも自分にはリーダーシップがないらしく、部下がどんどんと仕事をサボるようになっていく。当人たちはサボっている自覚はないのだろう。
基本的には、「それは私の仕事じゃないですから」「○○さんはしてないのに私だけしないといけないんですか」みたいなフレーズになってしまう。こうなると僕はもう諦めてしまう。
すぐ諦めるのは悪い癖なのだろうが、昔、勉強していた時に分かったことがあるのだが、出来ない人間はどうあっても出来ないのだということだ。別に勉強が出来ないからって駄目ってことはない。
ただ、出来ないものは出来ないのだ。なぜ出来ないってマインドセットが出来ないからだ。

僕は芸能人の顔と名前が全く分からない。目の前に明石家さんまがいても分からない。特に今はテレビ自体見ないので、誰が有名なんだから名前すら分からない。一口に言えば興味がないのと、必要性を感じないからだ。
芸能人の顔と名前は分からなくても今のところ困ってはいない。
興味と必要性を感じるのに出来ないことと言えばジャズギターの演奏だ。これに関しては僕は興味もあるし、必要性も感じている。ジャズが出来ればやはり人生楽しかろう。
なので勉強してみたし練習もしてみたのだが、ジャズギターはさっぱり分からない。
要は出来ないものは出来ないのだ。

恐らくジャズギターを出来るようになるためには、まずバンドを組む必要がある。ジャズじゃなくて普通のバンドでも良い。そして、楽曲をいくつかこなさないといけない。そうして誰かと合わせる、一曲を誰かと演奏しきるっていうやり方を知らないといけないのだろう。恐らくそのためにはコードをつまずかず弾けたり、ちょっとしたソロを取れたりしないといけないのだろう。そこからジャズバンドとかに入って自分に必要なスキルみたいなものを感じて練習していくのだろう。
要は環境が作れないから出来るようにならないのだ。

重要なのは環境を作れる能力があるかどうかだ。

最近は珍しくロードバイクのレースのトレーニングなんかをしている。
これは環境があるのだ。
以前いた店よりもお客さんがレースに興味があり、高額な車体にも興味があるし、早く走れるようになる方法を知りたいと思っている。
こうなると自分もいくらか速く走れた方が良い。最速まで言わずとも、ある程度、少なくとも一般人には程遠いレベル、実業団レーサーにヤバイと思わせられるレベル、自転車屋の店長ってのも大変なのだ。
何にせよ、そういう環境にいると、日々トレーニングをする必要性、興味、そして速くなるための環境みたいなものがある。
次の春くらいまでにワンランク速くなるだろうと思う。
別に速くて偉いわけでも何でもないが、やはり職業上、遅いよりは速い方がいくらか良いことはあるだろう。

小説に関してはどうだろう。
出来ない人間なのだろうか。
小説が書けるか書けないかって、読みたいものを理解する力だと思う。自分はこういうものを読んでみたい。こんな小説があれば良いのに。
自分自身の読みたいものに限らず、多分こういうのを読みたいって感じる人々が世界にいるんじゃないだろうか、っていうところまで拡張出来れば良いのだろう。はたまた、世界にこんな小説があれば良いのにと思う力だろう。
最近の僕にはそういうのがめっきりない。
偶然、当たる面白い読み物、作品というのはあるにしたって、どうも声が聞こえない。人の心が見えない。

昔はもっと人の心が見えた気がする。こういうことをすればどう思われかみたいなことを考えていた気がする。
歳を取ると、特に男の人って横柄な態度を取るようになる。接客業をしているとよく思う。仕事なんかでは謙虚なのかもしれないがプライベートに関しては男の人は歳を取ると横柄になる。特にサラリーマンの人はそうだろう。経営者の人とかって意外とそうでもない。まあ、いついかなる時も会社の看板を背負って生きているわけだ。どこそこの会社の社長が非人道的な振る舞いをした、などとなれば会社の評判が下がるし、それはイコール自分の財産が危うくなることだ。それに経営者とは人を動かしてナンボだから、やはり人に対する接し方みたいなものは洗練されたものがあるのだろう。

はて、ダメな人間。
別に成功者と呼ばれる人が良い人間というわけでもなかろう。それにしたってダメな人間とは何ぞや。
生きてればいろんな人からいろんな評価をもらう。
良い評価ばかりじゃないし、悪い評価ばかりでもなかろう。
悪い評価が多いからダメな人間かと言えばそうでもなかろう。

最近、僕にはエリキムエンダというアフリカ人からお金かしてとよくメールが来る。エリキは非常に良い人だった。なんと親切で素晴らしい人間だろうと思った。アフリカの小さな村のオートバイのメカニックなのだが、当然と言っては失礼だがお金はないだろう。彼はその村で非常に僕に親切にしてくれた。僕は感謝の気持ちに彼に何か礼がしたかったし、その頃、毎日ギブミーマネーと人々に言われていたこともあって、彼に少しチップをあげたいと思ったのだ。しかし、彼は断った。それどころか朝ごはんやジュースなんかをご馳走してくれた。村のジュース屋さんには冷蔵庫によく冷えたマンゴージュースがあった。その辺で拾ったマンゴーをしぼっただけのものだろうが、これがすこぶる美味しかった。アフリカの村ではコーラを買うにしても冷蔵庫がないことも珍しくない。エリキは村を案内してあげようと言い、一周することになった。普通の民家のようなところに入る。土を固めたような壁の立方体の空間の中にプラスチックの椅子が三脚ほど、そして冷蔵庫があった。エリキは女の人を呼び、そして冷蔵庫からマンゴージュースを出してくれたというわけだ。エリキの知人の家なんだか、それとも村のジュース屋さんだったのか。恐らくジュース屋さんなのだろう。エリキの知人、普通の人が家に自前のプライベートな冷蔵庫を持っているとは考えにくい。
エリキに何があったんだか分からないが、僕が日本に帰ってしばらくして、エリキはダルエスサラーム、タンザニア最大の都市に住むようになったらしい。ダルエスサラームはアフリカの中では巨大な都市だ。中心部にはなんのビルだから詳しいことはよく分からないが、ドカンと明らかにアフリカらしくないビルが建っている。先進国のビルと変わりない。そのエリア以外にもビルはあるが、ビルというよりは日本だとボロい団地みたいな建物だ。アフリカらしくない綺麗なビルには国連の何だかが入っているとか何とか言ってた気がする。
それでも、道路の真ん中に謎の穴、僕は初日からその穴に片足落ちて大怪我しかけたりしたのだが、そんなのがあったり、少し離れれば、ああ、アフリカではある。そうは言ってもダルエスサラームは飛び抜けて大都市である。アフリカとは僕ら日本人の想像を越えてアフリカである。

さて、エリキ君は冷蔵庫がないのも当たり前な感じの村、実際、その村に泊まった夜は停電で電気がつかなかったのだが、それがなぜだかダルエスサラームに行った。
かつてはチップどころか朝飯代すら受け取るのを拒否した男がなぜかギブミーマネーになった。プリーズヘルプミー、アイスタートスモールビジネス、アイニードヘルプ。みたいな具合である。ちなみにこれはエリキに限らずアフリカで知り合って連絡先を交換した人からはぽろぽろ来る。基本的にみんなスモールビジネスを始めたいから少しお金支援してと言ってくる。1000ドルからスタートして500ドル、ほんの少しで良いからとお願いしてくる。じゃあ30ドルくらいなら良いよ、で、どうやってお金を送れば良いの?となったところで基本は終わる。ウェスタンユニオンの海外送金を使ってくれと言ってくるがやり方もよく分からないので、分からないと言って終わる。
実際50ドル程度なら支援したって良いと思っている。世話になった。50ドルというと僕ら日本人には、まあ、少ない金額だ。世話になった人が困ってるならあげたって構わないと思う金額だ。
ただ、タンザニアの地方の人にとっては半月から一月の稼ぎに近かったりする。少なくとも50日毎日ビールを一本ずつ飲める。僕ら日本人にはビール一本じゃ物足りないが、彼らの収入だと1日に何本もビールを飲むって簡単じゃないように思う。まあ、人によるのだろう。実際、村でビールをご馳走してもらったこともある。
そう、お金があるときには人にご馳走するのも、お金がないときに人にご馳走してもらうのも彼らには自然なことなのかもしれない。
僕はタンザニアのことを深くは知らない。せいぜい一月くらいだ。それもたいていは自転車こいで、飯食って、ビール飲んで寝てただけだ。ちなみにタンザニアのビールは結構美味しい。アフリカの走った国の中ではタンザニアがビールは一位だった。あとはナミビアか。でも、ナミビアと違ってタンザニアのビールは大きかった。バリディ、サーナと言わないとぬるい常温のビールが出て来る。意外と慣れてくるとそれも結構美味いのだが。
その程度しかタンザニアのことは知らない。でも、ダルエスサラームは好きじゃなかった。
何だかスラムって感じがした。もちろん、タンザニアの中では最も大きくて洗練された都市なのかもしれないが。アフリカの首都はどこもそうだったが、貧富の差みたいなものが明確に見えた。村なんかは貧しいのだが明るい。貧乏は身近なものであり、忌み嫌うものでも不幸なものでもなく、普通のことみたいな。貧しさに親しみみたいなものが感じられた。もちろん、大変なのだろうが、悲壮感みたいなのがなかった。
エリキはなぜダルエスサラームに行ったのだろう。

エリキはお金持ちになろうとしたのかもしれない。
裕福な暮らしを夢見たのかもしれない。
それは責められることではない。

お金が欲しい。
でも、働きたくない。

人間ってそんなもんなんだろうか。

ダメな人間とは何だろうか。

ま、そんなこんな。


iPhoneから送信
posted by ちょろり at 23:21| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月14日

致命的に腑抜けたような日々。

あまり日記を書かない日々。
日記とは日記であり、雑記であるべきだ。
自転車に関するコラムなんかはあれはコラムであり、やはりぶつぶつと日々のことを綴るのが日記なのだ。

リトルミスサンシャインなんて映画を観た。
特に山場もなく、ドンデン返しもない平和な映画だ。サザエさんみたいな映画だ。
エルトポなんかも観た。こちらは何ともアートな映画。基本的に絵が美しいし、面白い。フランツカフカの城を読んでいるような感覚のする不思議な映画だ。
エルトポと比べるとリトルミスサンシャインは実に平和でサザエさんで面白みみたいなものってないのだが、ここまでサザエさん、平凡を重ねられると、これはこれで一周して良い映画というか。こういう良い映画、サザエさん的良さの作品があればこそ、エルトポみたいなアート映画みたいなのは引き立つのだ。
偶然ながら良い組み合わせになった。

ーーー

虫歯の親知らずは近所の歯医者がヤブと言っては何だが、散々苦戦されて抜き損ねたのを別の歯医者に行くと1分くらいで簡単に抜いてくれたのだが、抜いた次の日から風邪をひいた。
ヤブとは何ぞ。腕が悪いことなのだろうか。いや、腕が悪いのに無理をするってのがヤブじゃなかろうか。抜けないから別の医者に行ってくれっていうなら、コレはまあヤブとは違うような気がする。
それでも、ヤブなどと言ってはよろしくないのだろう。失敗したにせよ、僕のために一生懸命抜こうとしてくれたわけだから。

少なくとも近所の人々で利用する人もいるからこそ、その歯医者は成り立っている。
利用している人々はヤブとは知らないのか。
はたまた偶然抜けなかっただけで、決してヤブではないのか。
もしくはヤブだろうがそうじゃなかろうが、案外それで成立するものだろうか。
何にせよ老人の歯科医が今日までやってきているわけだから、成立してきたわけだ。

僕の働いてる店も、もしかするとヤブと呼ばれているのかもしれない。
ヤブ。

店の裏に公園があり、僕はよくそこでタバコを吸う。
店の中は何となく空気が吹き溜まっているような感じがして好きじゃない。今の店がどうとかじゃなく、学校にせよ、職場にせよ、長時間いる場所ってなんか空気が淀むような感じがして好きじゃないのだ。
あとは風通しの問題か。
夕方くらいにタバコを吸いにいくと老人が掃き掃除をしている。
ーーどうも、ご苦労さんです。
そんな会話をする。老人は元板前で息子はもう40を過ぎていて、孫もいるそうな。
別段、話題などない。
ただ、私の唯一の気楽な話し相手かもしれない。
毎回話題は変わらない。
お仕事お疲れ様です、寒くなってきましたね、若くていいね、いつも働いててご苦労だねといったところだ。
老人のおかげでその公園はいつも綺麗だ。自転車屋と町工場とラブホテルにアパートに囲まれた狭くも広くもない、遊具はブランコと滑り台があって藤棚がある、ゲートボールをしていることもある、少年にサッカーを教える父親がいることもある、不良がたまっているとかはない。昼には公園沿いの道に車を止めてどこかの営業らしいおじさんがぼんやりと黄昏ていたりする。何のためにあるんだかよく分からない、世界から取り残されたような公園だ。

最近の僕も同じような具合で、特に何か意味があるのかと問われると、まあ、ないでしょうね、と答えるような存在になりつつある。
お酒を飲まなくなったので、少し金銭的にゆとりが出来て株なんかを買い足したりすることもある。
何か致命的に腑抜けたような日々。

何かをするってのが偉いわけでもないのだが。

ま、そんなこんな。
posted by ちょろり at 01:38| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月04日

親知らずが悪化する。

親知らず事件が悪化している。
抜歯に失敗したところが明らかに腫れてきている。
ーー大丈夫、虫歯じゃ死なない。
それは分かっているし、大して痛みもないのだが。
果たしてオレの体はどうなってしまうんだ、というのがある。

そもそもに病気をしないので、病院などあまり行かない。
それが今年は春に目の横に粉瘤、デキモノが出来て、それを切除しなくちゃいけなくなったりもした。
どちらも命に全く関わらない、言うなれば軽い病気ではあるが、やはり病気は病気で、病気慣れしていないとそんな小さな病気でもショックを受ける。
当たり前だが、自分も生き物でいずれは全ての歯がボロボロになるだろうし、大きな病もいずれかかるかもしれない。

生きるか死ぬかなど考えていた人間が虫歯ごときで遠い未来の病気にしょんぼりするというのも実に変な話ではあるが。
親知らず同様、我慢すればすぐ抜けるというわけには行かず、ぐりぐりねじねじされながら死ぬってこともあるわけだ。

虫歯の治療を受けていると自転車のパンク修理を連想した。
自転車のパンク修理なんてのは、自転車屋さんとしては簡単なものなので、ほいほいさくさくとやってしまうのだが、医者もそうなのだろうか。
人の命を預かっているとは言えど、自転車も遅いと言えど一応は乗り物で事故になれば人の命に関わる。
極論になるが、歯医者の方は命には関わらない分、自転車のパンク修理の方がよほど慎重にやらねばならない仕事ともいえる。

何にせよやはり仕事とは何事もほいほいさくさくしてはいけないものだなと思う。

ーーー

抜歯の失敗から別の歯医者に変えようかとアレコレ調べたりすると。
まあ、歯医者ってのもいろいろある。
出来る限り無痛治療を努力していますだとか、CTを撮れますだとか。
たしかに命に関わるわけじゃないにせよ、歯医者ってのはやっぱり痛いものらしく、あれこれ工夫している。

ただ、虫歯なんぞ結果としては治るのだから痛いのくらいは子供じゃないんだから我慢しろと言われれば、まあ、それが正論ではある。
それでも、あの手この手で宣伝する。
確かに料金が少々高くとも痛みなく抜いてくれるなら迷わずその歯医者にするのだろう。
以前の僕では考えられないが、今の僕はとにかく痛くなくて早く抜いてくれるところならいくらか高くても構わないと感じる。

歯の痛みってのは実にすごいものだ。
絶対死ぬことはないのに。

ーーー

今度こそ医療保険に入ろうかななどと考えたりする。
でも、何だかそういうのってズレてる気がする。
保身に走ることをズレているとかは思わない。
人生って長い。
そりゃ、若い時の方が濃密ではある。年取ってからの百万円と若い頃の十万円なら若い頃の十万円の方が価値がある。年取ってからお金をかけて良い経験をするのも大事だが、やはり若いうちに経験するっていうのは蓄積になる。蓄積されれば一生を通して使える。老後の世界一周も悪くはないが、やはり若い時に多少無理してでもした方が世界は広がると思う。
そうは言っても人生長い。
ぽっくり明日死んでやると言ったって、現実なかなかそうはならない。

ーーー

虫歯ごときで何を考え込んでるのやら。

ま、そんなこんな。


iPhoneから送信
posted by ちょろり at 23:40| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする