2009年07月14日

煙草を吸おう

 朝、あまりの暑さに発狂しそうになったので、1コマだけ授業をサボって喫茶店で涼んだ。高校生みたいだ。僕の部屋にはエアコンは無い。例の如く弟の部屋には付いている。彼は要領が良い。最近は女の子にモテるらしい。いつか紹介してもらおうかなと思っている。しかし、彼は要領が良いので、僕に紹介するなんていう要領の悪い事はやらないだろう。
 平日の午前中の喫茶店にはじいさんたちが集まってサロンみたいなことになっていた。涼しいし、珈琲も美味いし快適だ。僕はじいさんたちみたいな生活を望んでいるのか、なんて今更気付いた。ぼんやりとカミュの異邦人を読んでから暑い中頑張って大学に向かった。
 大学では悲惨だ。単位を取れそうな見通しは立たない。レポートのやり方がよく分かってないのだが、レポート点は全体の3割だそうだ。今期は頑張ったはずなんだが、レポートが分からないとどうにもならない。理不尽だなぁと思いつつ、工学部のような離散数学の授業を聞いた。
 理不尽だ理不尽だ、異邦人じゃないが、あたしにゃ特に罪も無いはずなのに、単位が取れないの刑を受けている。理不尽だ。そんなことを考えながら喫煙所に向かった。大学の喫煙所はどんどん端に追いやられ、狭くなっていく。しかし、人間は知らない他人とあまり近くにはいたくない。そんなわけで、喫煙所の辺りにてんてんと間隔を置いて人がいる。
 自分も適当に間隔を取って煙草をぷかぷかくわえた。ぷかぷか。すー。最近は肺の調子が良く煙草が美味い。しかし、異邦人は面白かったなー、やっぱり文学はしっかり生きた人間を描いて、世間に文句を垂れなくちゃ駄目だよなー、そろそろ戦争と平和を読んでみよーかなー。
 煙草が半分くらいまで燃えたところで、何だか納得した。僕が大学で単位を取れないことは別に不条理じゃないのだ。好きなことしかやらないんだから当然だ。文学が好きだから、小説を読むし、書くし、そのことを考える。時々気晴らしに大道芸やギターもする。嫌いなことはやらない。それでは単位が取れるはずもない。
 他の人、単位が上手に取れる人はどうだろう。好きなこともするが、嫌いなこともする。ただ、好きなことには僕ほどはのめり込めないこともある。大道芸だって僕は上達が早かった。好きになると一日中そのことばかり考えている。彼らは加減を知っている。もしくは、どちらもしっかり手を抜かずやれる。
 僕はこれまで遊び続けていた、好きなことばかりやり続けていたのか、と反省しつつ、一生直らないクセだろうな、はてどうやって生きていくかな、何かしら生きる方法はあるだろうが、難しいかもしれないな、とちょっとした絶望が混じったような考えに耽った。
 こりゃ、いよいよ卒業は難しそうだ。
 だけども、嫌いなもののために心をすり減らし要領良く生きるよりは、好きなことのために苦労し損な生活をするのも悪くないと思う。
 そうは言っても憂鬱ではある。

 大学を卒業するには性格の改造が必要だ。だが、そんなものはこの年齢になっては難しい。
 何か裏技を考えねば。大学を卒業するための裏技か、卒業できずとも何とか絶望しないための裏技を。
 とりあえずは大学を卒業するために出来うる限りの努力をしよ。

 いや、とりあえずは煙草を吸おう。煙草を吸っていれば、とりあえずは僕の心は平和だ。

 ま、そんなこんな。
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2009年07月13日

カナブンヒーローとシロテンハナムグリ

 カナブンだと思っていた虫は、シロテンハナムグリという虫らしい。
 というのもマンションの廊下にその虫さんが墜落しているのを見つけた。夏だなと思って顔を上げたら、雀がいて、僕に驚いたらしくさっと飛んで行った。僕がいなけりゃぁ、彼の虫は食われていたのかもしれない。もしかすると僕はカナブンヒーローになれたのやもしれない。
 そんな経緯から、カナブンヒーローなんて話を書こうと思ってカナブンについて調べてみたらシロテンハナムグリ。カナブンは緑か銀色で美しい虫らしいが、シロテンハナムグリはきちゃない色をしている。カナブンは冬を越せなくてどんどん減少している中、シロテンハナムグリは一年中精力絶倫、アスファルトに固められたマンション街だろうが埋立地だろうが果敢に飛び回っているそうな。
 損したような気分になった。
 しかし、同じ虫だ。それも同じハナムグリ類。別に損なんかしちゃいない。最も、彼を助けるために何の努力もしてないんだから損もクソも無い。さらに言えば、さっき死なずとも今は既に死んでいるかもしれない。
 別に、損はしなかった。しかし、カナブンヒーローにはなれなかった。
 小さな頃は純正の美しいカナブンを藤棚から取った。カミキリも取れた。かの虫達は踏んでしまうと緑のような青のようなドロリとしていて水銀みたいな光沢有る血を流した。
 電灯に集まる汚いシロテンハナムグリの群れを思ったら、やっぱり悲しくも思った。

 ま、そんなこんな。
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2009年07月12日

亡き王女とラッキーボーイ

 朝、麻雀終わりに岡山から始発にカタコト揺られて帰っていると、ぼんやりと何ぞのメロディが頭の中を流れてきた。G線上のアリアかしらんと思いながらメロディを辿るが、分からない。どこで聞いたのかしらん、はて。
 倉敷に着いてから、駅を少し離れて声に出してそれメロディを鼻唄ってみた。ぶらぶら川沿いに寝不足の頭で小さな声でふんふん歌っていたら、ミッチェル氏とムーチョさんの弾いた曲だなぁと思い出した。ミッチェル氏とムーチョさんはギターの部活の先輩である。ラウ゛ェルの亡き王女の為のパウ゛ァーヌ(以下パバーヌ)という曲だ。ジュリアン・ブリームやら村治香織やらも弾いている。そのメロディが頭を離してくれない。
 眠たい頭でカタカタパソコンをいじり、楽譜を探してみたらすぐ良い楽譜が見付かって、コーヒー片手に楽譜を読んで、最初のところだけ弾いて遊んだ。
 これは良い曲。

 どんなに良い曲でも良い本でも、気付かないと一生気付かない。それは損なことだ。作品を作るってのは非常に時間のかかることで、その上、当然ながら全ての作品が成功するとは限らない。良い作品ってのには凄く人間の時間が詰まっている。今の時代ならCD一枚買ってプレイヤーに突っ込むだけでそれをたしなめる。ぶらっと本屋に行って一食我慢するだけでその本を手に入れられる。ラッキーなのだ。
 しかし、ミチェさんとムーチョさんが弾いてなけりゃ僕はそういう曲に出会う機会すらなく、麻雀明けの電車を退屈に乗っていただけかもしれない。彼らがどういう経緯でその曲をやることにしたんだか知ったこっちゃないが、僕はボケーッとしていて気付いた時にはその曲を知っていた。やはりラッキーなのだ。

 ラッキーボーイは亡き王女を知り、或る朝頭の中にぷかぷか思い浮かべる。ラッキーボーイなのだ。

 これから小説の核の部分に必要な人に会って来て、明日は学校。ふふん。

 まあ、そんなこんな。
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暇があれば種松山に行くニート

 大学の友達が夜やって来たので、種松山のアスレチックで遊んで来た。種松山のアスレチックは結構体力を使う。
 暇があれば種松山。まあ、悪くない。

 サルトルの嘔吐を読みたいんだが、積ん読状態の本が50冊近くになってしまっているから、今年の夏は積ん読を崩すことと、2週間程バイトの休みをもらって、尾道かどこかでテント一つと万年筆だけ持って執筆しようかなとか思っている。全然知らない土地じゃなくって何となく分かっている土地が良い。祖父母の家に行くのも良いが煙草が吸えない。
 しかし、珍しく小説の中に「共産主義」とか「学生運動」って単語を出してしまっている。まあ、これまでは閉じた世界を書き続けたが、少しずつ社会に向き合ってみようと思っている現れかもしれない。
 今回は200枚近く行きそうだから出せる賞を調べてみないといけない。まあ、大抵出せるか。
 この次はメフィスト賞に出せるような作品を書きたいなんて思っている。大きい賞ばかり狙うもんだからいつまでも当たらない。

 日々の生活というと不眠がひどいので、執筆に区切りが付き次第病院に行って薬をもらおうかなと思っている。残念なことにメンヘラの仲間入りだ。学校さえなけりゃぁ、昼と夜が逆だろうが構わないんだがね。むしろ小説を書くなら逆の方が良い。
 薬の嫌なところといえば病院の先生たちは結構な金額を要求してくる。保険は聞いても薬ってのは結構高いものなのだ。
 そんなもんだから当然良い生活とは言い難い。
 良い生活、明日の希望、そんなものについて考える。小説のキャラクターにそういう性格を与えたいので唸りながら頭の中のキャラクターと話し合うんだが、まあ、なかなか良いアイディアは来ない。代わりに気分が滅入ってくる。誰か明日の希望を僕に教えてくれないか? 結局のところ素直にそういうキャラに落ち着く。
 全く分からないところを適当で書くわけには行かない。

 さて、来週はジャグリングもあるし、テストもある。小説もとりあえずはもうあと三分の一ほどだ。夏休みはゆっくり推敲して、新しいネタを探しつつ、本を読んだりぶらぶらしよ。東京にもお邪魔してみようかしらん。せっかくだし出版社に持ち込みしてみようか。

 ところで、井戸端芸術なんだが、半年に一回とかにしようかしらん。ちまちま100部やるよりは、ある程度の量のものを500部くらいがっさりやって配布するのは有りでしょう。
 国民文化祭のコネを使って岡山で小説同人誌を作りたいのです。ちゃんと探せばそういうの有るのかしらん? まあ、文学こそが人生。文学こそが人生の希望だよ。この考え方は文学を読まない人が何を考えてるか分からないってのが欠点ではあるけども。

 ま、そんなこんな。

 俳句か詩か何か短い表現方法を勉強してみよ。良い詩集やら勧めて下さい。
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2009年07月11日

一人ジョイフル

 カッとなってやった。反省はしてない。

 七月十日、深夜一時、片手にノートパソコン、肩から黒のショルダーバッグをさげた男が、ファミリーレストラン『ジョイフル倉敷店』に入っていった。彼以外に一人きりの客なんていない。周りには彼と同年代くらいの若者が気楽そうに何か話している。
 彼は店員の案内も聞かず、目深に被った黒のハットに円眼鏡という格好で奥の窓に面していない一席に素早くついた。席につくと同時に、呼び出しのベルを押す。
「これとドリンクバーで」
 店員が聞いてくるのも待たず彼は手早く注文を済ませ、珈琲とCCレモンをくみに立った。
 ドリンクバーの横の席の若者が二人いぶかしげに彼を見てきた。その視線に彼は気付き、くるりと回れ右をし、若者二人を見返した。若者二人は目を反らし、無理にでも元の話を再開した。
 席に戻ると彼はカミュの「異邦人」を取り出し、3ページ目に入ったところで注文のハンバーグが来た。御飯も何も付いていない。フォークを真ん中に付きたて、野蛮にそれを食うた。
 食い終わると彼はノートパソコンを開き、カタカタと何かを書き始めた。隣にノートを開き、時々、万年筆で何か書き付けている。
 時計の針が進み、最初にいた客たちはあらかた帰ったが、彼は、ノートパソコンを熱心に見つめ、時々煙草を吸った。
 朝日が昇り、後から入ってきた客もみんな帰ってしまった後、彼はそそくさと勘定を済ませ、ジョイフルから出て行った。勘定は他のどの客よりも安かった。

 と、まあ、長々と三人称で描写したが、生まれて始めての一人ジョイフルを楽しんで来ました。日記を三人称で書くと凄くムカつく文章になります。

 とりあえず一人ジョイフルはもの凄く圧縮した時間を楽しめます。どんなに無視しても無視しきれない視線の中、黙々と何かをするのは良いです。
 できるだけ、危ないオーラを出すのがコツかもしれません。店員も、料理を出す以外は近くにすら来ません。
 四十枚も原稿が進んで、ほっくほくです。早い話が全体の四分の一以上進んだわけですから。やっぱり大事なのは集中力なんだねえ。
 おかげで久々に機嫌が良いです。

 今日から僕のことを『文豪福田先生』と呼んでくれても良いですよ。

 いや、そのくらい久々に充実した執筆だった。
 こんなに気持ち良いのは、初めて小説を書き上げた以来かもしれない。まあ、まだ完成してないからかもしれないけど。完成するまでは駄作にはならないから。

 いや、みなさんも
Let's alone Joyful!
 です。

 この調子なら、もしかすると、昼には下書きまでは終わるかもしれない。小説書きの仲間がいたら教えてあげたいです。ま、周りには一人もいないんですけども。ファミレスは良いです。

 まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 05:22| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月10日

ドン詰まりの禿げ

 小説がドン詰まりで、友達と夜の海を見てきた。先日、大道芸に行った玉野の港だ。車で、市街地を抜け、山を越え、ぐるりと道路がねじれ、玉野の海はある。
 香川との間を行き来するフェリーが何台か止まっている。瀬戸大橋ができる前は玉野はもっとにぎわった町だったらしい。月は満月ではなかったが、十分丸い。暗くても水が綺麗ではないということが分かる。濁った波には月の光が綺麗に跳ねた。くらげが一匹揺れていた。
 海に向かっていれば何とは無く心が落ち着く。海なんて、所詮は大きな水溜りに違いない。それなのに何となく落ち着く。部屋に大きな洗面器を置いて、塩水を張ってみたら海の代わりにはならないかしらん。
 結局、小説はドン詰まりから抜けなかった。

 自分には、小説に限らず何かを考えるとき髪の毛を引っ張る癖がある。特に小説を考えるときはひどい。早く書き上げないと禿げてしまうんじゃなかろうかと最近心配している。
 それでも、最近、少しだけ書くということが分かってきた。ここにはこれを書くべき、ここにはこの文は違うだのということが分かってきた。法則は無いんだが、簡単に言うと、電車の中で裸になってはいけないとか、そういうレベルのことだ。文章にもいるべき場所なんかがあるらしい。
 そうなると、逆に筆が進んでも消すということが増えて、髪はさらに減っていく。

 まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 07:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月09日

本を読む駄目人間

 経済思想史入門たる本がなかなか意外と面白い。マルクスやらアダム・スミスやらが出てくる。意外と経済思想史は面白い。経済学は知らない。特に興味が無い。
 たまに思想をかじる。思想は一口目は甘いけど段々苦くなってくる。だから一口目だけをかじらせてもらう。難しいことはなかなか理解できないし、結局こまかいところは忘れていく。まあ、忘れるのもありだ。忘れたころにしっかり頭の裏の辺りに根付いているものがある。というか、そっちの方が大事だ。記憶力なんて、どうしても落ちて行くものなんだから、如何に頭の奥の裏側の方に何ぞひっかけられるかだと思う。
 思想をかじるのは楽で良い。
 2chのヤル夫シリーズは非常に便利だ。マルクスでも何でも結構ある。ただ、ヤル夫だけだと簡略化しすぎのので、やはり本がある方が便利ではある。

 そう駄目人間だ。地下シェルターに食料と本と高級ダッチワイフを持ち込んで引き籠れたら幸せだなんて考えてしまう。食料も本もダッチワイフも僕には何の文句も言わない。
 次回の短編の題材にしようかと思ってもいる。
 とにかく最近はそのくらい駄目ライフの、駄目人間だ。
 そういう時、綺麗な女が正しい方向に自分を導いてくれたら良いのになぁと思う。いや、不細工な女でも良い。男は駄目だ。結婚できない。結婚したいわけじゃないが、結婚にはずっと一緒にいてくれるという側面がある。男は如何なる友情もいずれは遠くに離れるか、運が悪ければ去ってしまう。逆にいつまでも近くにいられては、友人として怒らねばならない。女は男の横にずっといても良い存在だという価値観は既にある。フェミニストには否定されるかもしれないし、実際に女も一人で生きられるというのも分かる。だが、今でも将来の夢は花嫁の女性は多くいる。
 意外と男は女性に安らぎを求めている。逆に性欲の捌け口として女を扱う男はタフだとも思う。いや、多分、無意識か。その辺をいちいちぐだぐだ考えていたら女から見て魅力の無い男になっちまう。

 最近、自分がなぜこれほど女の子にモテないか考えてまたけど、そんなところにあるような気がする。女に求めるものと性を切り離して考えているせいだろうと。

 そうちゃんから電話が来ているけど、まだしばらく本を読むからほっとこう。明日にでもかけよう。

 いや、これじゃ駄目だよな。

 いや、むしろ本が好きならもっとたくさん本を読むべきなんだろう。
 何だかオレは自分の中に秩序を持っていない。それが問題だと思う。

 ま、そんなこんなで、今日は本を読んだり云々していた。ああ、女の子と図書館行ってぼーっとしたい。もうしばらくは駄目人間かしらん。
posted by ちょろり at 03:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月08日

朝になっても続く悩み

 小説の方向性が決まらないと悩みに落ちる。
 哲学屋とか思想屋ってのは悩みに落ちるもんだと思うけど、小説屋は悩みに落ちない方が良いと思う。小説なんてのは、狙いすまして書くもんじゃないと思う。小説屋は賢くなくて良いし、感覚でピシピシ文を叩き付けて行くべきだと思う。止まったら止まったで、腹をくくって降参しとくに限ると思う。
 先日、「一流のプロは最高のパフォーマンスに再現性を持たせている」ということを書いたが、あれは小説屋には違うらしい。冷静に考えれば、小説にして残す時点で勝手に「何度でも同じ文章を読める」という再現性はある。むしろ、小説屋の場合、一回書いたらさっと忘れて新しい文章に挑めるか、もしくは忘れずとも別の方法で書けるかが大事らしい。
 小説屋は賢いべきかというと、どっちだって良いってのが一つの答えだと思う。
 小説屋は良い文章を使えれば良い。その為に「広く良いと言われる文章」を知るのが必要ならばしっかりと読むべきだ。しかし、特に賢さはいらないと思う。

 小説の中に必要なのは『生きた人間』である。どうもこれは昔から思っていたことだが、それなりに的を射ているらしい。結局、人間の建前と本音みたいなのを生でじっくり触れ、そこにある事件を捉えて書けばよろしい。
 あと、文体論に関しては、その文章に持たせたい雰囲気を崩すことなく、できうる限り読みやすい方が良いというところだろう。

 文体が外身で、書くストーリーを中身とすると、たったこれだけで今までの悩みをかなり解決できたかもしれない。

 要は、しっかり周りを観察しながら、体験できることはし尽くすぐらいで、ごく普通に生きるのが大事で、分かりやすく読んでいて「ちょろりの文章」たる空気の流れるような日記を書くってのが大事らしい。

 結局、降り出しに戻って、あたしゃ小説なんぞで飯を喰う気かね、そんな気にもなる。
 書きたけりゃ書く、書きたくなけりゃ書かないっていう元の位置が大事なのかもしれない。

 しかし、分かりやすい世界だと思う。理屈はいらないから、面白ければ何でも良いって世界だ。分かりやすい。面白さを解き明かして近道したかったけど、やはり理屈の無い面白さは理屈じゃ割れないのだ。

 でも、最近思うんだけども、小説が当たったら僕は自殺するんじゃなかろうか。大半の小説家がデビュー作ってのは越えられない。特に最近の小説家は。それは、今の小説のプロって立場が問題じゃないのかな? って思うのだ。金をもらって書くと、商業的に成功した作品こそが良い本になってしまうと思うのだ。
 しかし、死ぬのも勿体無い。案外、書くべきことはいろいろありそうだ。無さそうで有るものだ。そんなら、僕はプロになるのはよしておこうと思う。
 まあ、詳しくは賞を取った後にでも考えよう。まあ、しばらく考えなくても良いような問題かだ。

 とにかくサクサクと直感で書かねばならない。それに尽きると思う。頭があんまり良くなると頭の良い人にしか分からない、妙な文章になっちまう。そういうのは学者先生たちに任せておくべきで、やはり僕はサクサクだ。

 ま、そんなこんな。
posted by ちょろり at 08:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

朝になっても続く悩み

 小説の方向性が決まらないと悩みに落ちる。
 哲学屋とか思想屋ってのは悩みに落ちるもんだと思うけど、小説屋は悩みに落ちない方が良いと思う。小説なんてのは、狙いすまして書くもんじゃないと思う。小説屋は賢くなくて良いし、感覚でピシピシ文を叩き付けて行くべきだと思う。止まったら止まったで、腹をくくって降参しとくに限ると思う。
 先日、「一流のプロは最高のパフォーマンスに再現性を持たせている」ということを書いたが、あれは小説屋には違うらしい。冷静に考えれば、小説にして残す時点で勝手に「何度でも同じ文章を読める」という再現性はある。むしろ、小説屋の場合、一回書いたらさっと忘れて新しい文章に挑めるか、もしくは忘れずとも別の方法で書けるかが大事らしい。
 小説屋は賢いべきかというと、どっちだって良いってのが一つの答えだと思う。
 小説屋は良い文章を使えれば良い。その為に「広く良いと言われる文章」を知るのが必要ならばしっかりと読むべきだ。しかし、特に賢さはいらないと思う。

 小説の中に必要なのは『生きた人間』である。どうもこれは昔から思っていたことだが、それなりに的を射ているらしい。結局、人間の建前と本音みたいなのを生でじっくり触れ、そこにある事件を捉えて書けばよろしい。
 あと、文体論に関しては、その文章に持たせたい雰囲気を崩すことなく、できうる限り読みやすい方が良いというところだろう。

 文体が外身で、書くストーリーを中身とすると、たったこれだけで今までの悩みをかなり解決できたかもしれない。

 要は、しっかり周りを観察しながら、体験できることはし尽くすぐらいで、ごく普通に生きるのが大事で、分かりやすく読んでいて「ちょろりの文章」たる空気の流れるような日記を書くってのが大事らしい。

 結局、降り出しに戻って、あたしゃ小説なんぞで飯を喰う気かね、そんな気にもなる。
 書きたけりゃ書く、書きたくなけりゃ書かないっていう元の位置が大事なのかもしれない。

 しかし、分かりやすい世界だと思う。理屈はいらないから、面白ければ何でも良いって世界だ。分かりやすい。面白さを解き明かして近道したかったけど、やはり理屈の無い面白さは理屈じゃ割れないのだ。

 でも、最近思うんだけども、小説が当たったら僕は自殺するんじゃなかろうか。大半の小説家がデビュー作ってのは越えられない。特に最近の小説家は。それは、今の小説のプロって立場が問題じゃないのかな? って思うのだ。金をもらって書くと、商業的に成功した作品こそが良い本になってしまうと思うのだ。
 しかし、死ぬのも勿体無い。案外、書くべきことはいろいろありそうだ。無さそうで有るものだ。そんなら、僕はプロになるのはよしておこうと思う。
 まあ、詳しくは賞を取った後にでも考えよう。まあ、しばらく考えなくても良いような問題かだ。

 とにかくサクサクと直感で書かねばならない。それに尽きると思う。頭があんまり良くなると頭の良い人にしか分からない、妙な文章になっちまう。そういうのは学者先生たちに任せておくべきで、やはり僕はサクサクだ。

 ま、そんなこんな。
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夜明けに悩む

 思うに、世の中のほとんどの人間にとって専門課程教養なんざ不必要だ。まず、半分の人間が大学に行かない。また、大学に行った半分以上の人間が、専門課程で学んだことを使わない職場に行く。数学を学んでε論法を今でも説明できる人って少ないだろう。まあ、大抵の専門課程のことなんざ使わない、使う機会も無い。
 これに対して、一般教養は誰しもあれば助かる。
 考えてみれば当然の話で、一部の人間が指示を出し、それに従ってみんながせっせと動いて何ぞ一つのものを作る、作ったものは指示を出した人間が売るか、使うかしてお金を得て、せっせと働いた人たちは代わりにお金をもらう、ってのが資本主義の原則だからだ。
 おかげで、誰しもがそれなりに喰いっぱくれも無いし、誰しもが社会にそこそこ貢献していることになる。
 資本主義ってのは結構便利なのだ。

 資本主義で動いている限り、専門的教養を身に付けた人間ってのは社会の一部で良いんだが、大学っての必ず専門課程を取らねばならない。学生は段々と「あ、オレの人生で百パーセントこれは使うことが無いな」と悟り、単位だけ取りに行く。
 とりあえず、大学に行ける人間が増えすぎるとそういうことになるんだろうと僕は思っている。「大学に行ったからには、ここで学んでいることを知らねば、職場で困る」という状況になれば大学も元気になる。そんなにたくさん大学卒業資格を持った人間は必要無いと思うのだ。
 むしろ、企業の方で即戦力を育てる学校みたいなことをやった方が明らかに効率が良い。そうは言ってもそんな金のある企業はそんなに多くも無い。
 大学に任せる他ない。

 みんなお金は欲しいし、豊かに暮らしたい。それで、大学に人間が溢れる。
 大学に人間があふれると、大学に行ってない人たちは困る。大学を出た所得が高い人たちが社会の基準になると、困る。一生懸命働くのに、金がもらえない。
 専門的教養を実際に使わない仕事でも大学を出た人間の方がたくさん給料を貰える。同じ仕事、いや、むしろよく働いても給料は学歴で決まる。良く働くやつがたくさん金を貰えば良い。命の危険の仕事があるやつがたくさん金を貰えば良い。
 だが、大学を出た人間の方が、「真面目」「有能」「効率が良い」という傾向があるという。別にそんなことは無いと思うんだがね。

 大学に人が増えれば、その中から出てくる有能な人間も増えるという考えだろうが、現状では質が下がるばっかりでどうにもならないように見える。

 まあ、そんなことを嘆いても仕方が無いのだが。

 要は人間は死にたくないのだ。自殺志願者も生きられるんなら死にたくないのだ。単に生きられないから死ぬしかない。
 自殺者が多いってのは問題だ。自殺ってのは、自然の流れに反した悪いことだ。
 死にたくないんなら、死なない方が良い。生きるのが難しいような社会は駄目だ。
 向上心は結構だが、学歴が無かろうと、真面目に働きさえすれば生きるのには困らない、そういう社会が必要だ。共産主義じゃないが、衣食住は国が提供すれば良かろうと思う。そこからプラスの贅沢品やら嗜好品なんかだけ自由にすれば良かろうと。
 明日の生活に困るから、子どももを産むのも、結婚するのも躊躇わねばならない。

 でも、ソビエト連邦は崩壊した。次々と共産主義は敗北していく。

 やっぱりみんな自分の好きな家に住み、良い服を着、美味いものを食いたい。自分より下の人間を笑いものにしたい。
 なんぞ画期的な社会システムって無かろうかね、なんて僕が考えたって無意味だろうことをぼんやり考えてみる。

 小説を書くにも、絶望ばっかりが見えて、そんなものを小説にするのも嫌なわけだ。書くんなら明るいものを書きたい。
 表面は楽しそうだが、ちょっと裏を覗けば厳しい生活なんてのはどうもくたびれる。そんなにキリキリと生きるか死ぬかで働かねばいけないほど人間は困っているのだろうかって思う。
 そんなわけで、ぶつぶつと社会に文句を言ったり、何ぞ良さげな考えは無かろうかと考えてみるんだが、見当たらない。

 人間に価値などない、生きているから生きる、そんなもんなのだろうか。そこが見えないと結局芯の部分が分からないから、何を書いてもスカスカした気分になる。
 宗教がやりたいわけじゃなく、良い小説が書きたいだけなんだが、まあ、さっぱりよく分からない。さっぱり分からないままに何ぞ書いていたら、何ぞ分かるようになるかしらん。

 とりあえずテレビは薄くなくても大きくなくても問題は無い。ロケットは宇宙に行かなくても問題は無い。
 食料はあまり高くなると明日が生きられぬ、両親が労働せねばならないじゃぁ、子供を育てにくい、貧乏人は何とか食ってりゃ良いじゃぁ、困ったことになる。

 ロクでも無い。
 社会がみんな平和なんざ有り得ないんだろうか。
 んー、ロクでも無い考え方であらせられるよ。

 とりあえず本をたくさん読み、人といろいろ話し、書けるだけ小説を書いてみよう。何か分かるだろう。

 そんなこんな。
posted by ちょろり at 06:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする