2015年10月31日

女々しいオレンジランプ。

まさや先生から木箱に入った日本酒を頂いた。
教授の誕生日。教授がもらった誕生日プレゼントをまさや先生がもらって、それを僕がぐびぐび飲んでいる。

ふと、夜を歩いていて気付いた。
女々しいランプが街から消えている。

女々しいランプというのは、あれだ。
蛍光灯をカチカチして消える前のオレンジのやつだ。
子どもの頃、おばけが怖い頃には必ず寝るときも付けていたあのランプ。
女々しい。

眠るときに部屋を真っ暗にするかどうかっていう好みって一昔前はあった気がする。
それとも、夜を異常なまでに怖がる僕のために両親が点けてくれていただけなんだろうか。
いや、そんなことないと思う。
大人でもあのオレンジランプを点けて寝ている人は少なからずいたはずだ。

自分は真っ暗にして眠るようになった。いつからだろう。覚えていないけれど、高校くらいだったんじゃないかな。隠れガリ勉君だったので、夜は毎晩明け方まで眠らずに勉強しつつ、深夜ラジオを聞き流したりしていたから、その辺くらいで軽い不眠症になって、そのくらいの頃じゃないかな。

単純な推測としては、僕が大人になるまでの20年ほどの間で人間の睡眠時間はかなり減ったのかもしれない。
軽い不眠症みたいなものを患う人の数も増えた。

不眠症の原因とは様々あるが、ダイレクトな原因としては眠るのが怖くなったり、罪悪感を覚えることだろう。その原因としては仕事のストレスなり、この時間から眠って翌朝何時までに起きれるかなという不安だったり、自己啓発やライフハックの流行で睡眠時間を削って何かをするのが人間として優れているとする社会全体で勝手に抱いている共同幻想なんかだろう。

或いは遮光カーテンを買える人々が増えたというのもあるのかもしれない。
いや、これは女々しいオレンジランプが減っているじゃなくて、女々しいランプ自体は実は昔と同数なのだが、外から見えていないだけかもしれないということだ。
しかし、それにしては、もう少し早い時間には明るい光がカーテン越しに見える家というのは少なくない。遮光カーテンじゃないだろう家はやはりある程度存在している。しかし、オレンジランプの家というのは本当にほとんど見たことがない。

そういう中、ずっとオレンジランプのアパートの一室がある。
いつも洗濯物が干してあって、窓を開けている。
昼は意識して覗いてはいないのだが。
日没直後くらいの時間でもオレンジランプ。真っ暗にしているのも見たことはないが、そりゃ、仕事に出ている間は真っ暗にしているだろうから、そこは単に自分が気付いてないだけだろう。真っ暗だと意識しない。オレンジランプという違和感が存在するときに意識して見るからだろうか。
違和感で見るから絶えずオレンジランプに気付くとしたら、明るく白い光の蛍光灯を点けているときには気付けていないだけなのかもしれないが。
しかし、そこはちょうど見通しの悪い交差点でいつも一時停止するから、白い灯りがいかに自然に埋もれるにせよ、一回くらいは見ていてもおかしくないはずなのだ。
思うに、本当に一日中オレンジランプなんじゃないかなと。

まあ、単に夜を歩いていて、そんなことが気になったというだけの話なんだが。

ま、そんなこんな。
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2015年10月30日

心の中に暖かさを感じられるもの。

久々にリズムが戻ってきている。
やはり、自分のリズムの中で生活が成り立つというのは良い。
リズムキープのコツとは自分をいかに認められるかだろう。
自分ができていることはきちんと誉めて。
できていないことは受け入れる。
まあ、言葉にすれば単純なことだけれど、存外自分一人じゃなかなか出来ない。
自分の姿は自分で見えない。
鏡を見ても映るのは外見のみ。

だから、人間は人間に会う、話す。

僕の人間理論はざっくり今のところそんな感じ。

昭島のバーで、ビール片手に月と六ペンスのページをめくって過ごしていたら、きむらくんから連絡が来た。
それで、家に戻ってビールを飲んだ。

少々、最近あった良いことを報告した。
宇宙人の会、シェルパを送る会、孔明と二人でぼったくられたこと。
きむらくんの近況も聞いた。
少々人生の話もした。
ーー時期というのも大事にせよ、時期をこちらから作れる人間になれないといけないと思うんです。
ーーでも、謙虚さ、つまりどうにも僕らじゃ、動かせない流れというものを認めるのも大事さ。いや、でも、人間はイメージの生き物だから、動かすべき、動かせるだろうと感じたことは努力してみると上手く動かせるかもしれないね。確かにね。
要約すればそんなようなことを話した。

僕の考えとしては。
簡単な話だ。
いや、難しいに違いないけれど、単にリズムキープの問題だ。生きていく上でのリズム。別にエイトビートである必要はない。ジャズみたいなシャッフルもなくても良い。当人の根っこから出ているリズムを、当人が愛していられるか。

愛し続けるためには努力が必要だ。
結果も必要だ。
自分が自分を良いと思えるだけの実績や後押し。別に権威主義的なものじゃなくて。当人が心の中に抱えていて暖かいと感じられるもの。

そんなこんな。
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2015年10月28日

自分の好きなことに関わって。

今週も仕事が始まった。

ひとつに僕は、
「自分の好きなことを仕事にして生きている」
っていう誇りを持って生きようと最近思った。
なんで?って聞かれても分からない。
別に何があったわけでもないんだけど。

昔と違って、人生が難しい、つらいものだと考えることが減った。
何でかな、なんて思うんだけれど。
まあ、夏が暑くて冬は寒いのと同じ程度の理由なのかなって思う。
深く考えなくなったということはない。まあ、あれやこれや考えることは多い。
それでも、アルコールの海から少し脱出して、心安らかではある。

年末に昭島のバーでのイベントで久々の大道芸が決まった。
5分ほどちょろっと手伝う予定だったんだけれど、15分ほどしないといけなさそうなので、少し道具が必要なので、帰省しようかなと思った。
家に道具はまだ捨ててないかと聞くと、アルゼンチンの自転車以外は捨てたと言う。まあ、そんなことだろうとは思った。

それで、倉敷行きは中止にして、旅費で新品の道具を買おうかなと考えたのだが、話してみると、父の体にまた新規の癌の疑いがあるという。
父は先日の結婚云々の騒ぎの際に、平静では考えられないほどに嬉しそうに電話してきて、新生活に必要だろうから、結婚が本格的に決まれば金銭的援助はするから言えよ、と言ってくれた。
残念ながら話は流れたが。
父の真意は分からないが、僕がガッカリした以上に父はガッカリしたのかもしれない。
父は昔から過度なまでに僕の肩を持ってくれた。
普通の家だと父が厳しく、母が優しいのだろうが、うちの家では逆だった。
父は過度には僕を評価はしなかったけれど、僕のやり方、考え方というのをとても認めてくれ、応援してくれていたように僕は感じている。
口数少ない人なので真意は分からない。

「まあ、そんなこともあるよ」
父は何事もそう言う。
自分の癌のことでもそうだった。
ドライな人間ということはない。
優しい人だ。

酒もタバコもしない父の体にそんなに癌が生えて来るというなら、そりゃ、神様よ、父のことを優しい人間だからってナメているんじゃないか?

母は持ち前のヒステリーを起こしかけて、心配し過ぎている。

大丈夫だよ。
別に騒ぐことじゃない。
父がいつもと同じように、そんなこともあるさ、って言ってるんだから。

人生にはいろんなことがある。
でも、難しくもないし、つらくもない。
大丈夫だ。

ただ、自分は自分の好きなことに関わる仕事をして生きている。
そういうのは大事だと思う。
それで、金になるとか、幸福度が増すとか安易なものじゃなく。
生きていると何かが削れていく。時間だったり命だったり、いろんな言葉があるけど、もっと本質的な持ち物、すべての生き物が、この世界の裏側とくっついた平面、あるいは何次元かは分からないけれど、こちらから形も色もにおいも説明も出来ない世界、そういうところにきちんと何かを持っている何か、それが生きていれば削れていく。
良いことでも悪いことでもない。
ただ、そういう事実が存在している。
そういう何かのために、自分は自分の好きなことに関わる仕事をして生きている。
それはとても大事だと思う。
仕事も頑張らなくてはいけないけれど、それ以上に、そのことを好きでい続けられるための努力をし続けないといけない。

そういうのはとても大事だ。

そんなこんな。
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フォースカインドを観る。

二連休。
てくてくと山に走りに出掛ける。
今住んでいる場所は立地が良い。山まで電車で30分だ。
あまりエキサイティングな良い山とも言えないけれど、ふらりと走りに出掛けるには丁度手頃。

山で一人で食べるおにぎりは美味しい。
一人がどうしようもなく楽しい。

先日の結婚うんたらの騒動以来、めっきり一人が気楽になってしまった。
何だか、現代の人間って、まあ、多かれ少なかれ差異はあれどこんなもんだよ、そして君ってのはこんなもんだよ、みたいな種明かしを喰らったような。
もちろん、一人の人間を少し見たぐらいでそういう結論を出すのは安直だが。
それにしても、その種明かしに出会って、ああ、なるほど、まあ、そういうことなんだね、みたいに多くのことの謎をある程度理解することは出来た気もする。
正直、人間に対しての興味みたいなものが急速に薄れてしまった。出来れば、用事がない限りあまり関わりたくないと思ってしまうほどに。

でも、そういうのって波なのだ。
一人の時間が気楽な時もあれば、誰かが欲しい時もある。
あまり気にしない方が良い類の問題なんだ、きっと。

一口に言えば、男が勝手な幻想を抱いて、現実の女が事実を示して、男が勝手に落ち込んでいる。
まあ、それだけのこと、安いドラマなんかによくあるストーリー。

そう言いつつ、夕方からまさや先生と久々の回転寿司の会。一人30皿食べる。
だいたい15皿くらいから全く美味しくもなくなるのだが、回転寿司の良いところは胃がはちきれるほど食っても、飲みに出かけるほどの金はかからない。
安心して食いまくって良い。

そのままキネマ会。
今回はフォースカインド。

アラスカの街で起きた宇宙人事件。
なかなか面白い。
ドキュメンタリー調に撮ってはいるが、後から調べたら嘘らしい。
まあ、冷静に考えると、シュメール語辺りが怪しい。途中宇宙人の声が入るのだが、それがシュメール語ということで、シュメール語の学者が出て来るのだが。彼がいくらかの解読を行うのだが。
ここがどうも引っかかる。
シュメール語というのには、同音異義語が多く存在するそうで、音声を聞いて解読するというのはちょっと難しいんじゃなかろうか。
古典言語の研究で難しいのは発音だろう。
文法や文字の解読は手掛かりがあるにせよ、音声は残さない。
なので、現在、こうだろうと推測されている発音と実際にシュメール人が話した発音というのは違う可能性ってのは結構ある。話者が残っていない言語の研究とは難しい。

まあ、そんな風に言ってしまうとネタバレではあるが。

それでも、ブレアウィッチプロジェクトにせよ、ライフにせよ、ノンフィクションもどき映画に関して言えば、それなりに実話だと信じ込まされるクオリティっていうのがあれば名作だろうとは思う。
嘘だと分かっても、まあ、よく出来ているし、作品内の緊迫感というのも良い。

ところで、UFO研究はどうなったかと言えば、最近はいまいちUFOは見えない。
まあ、そもそもにただの少し変わった光り方をする星なのかもしれないが。
それにしても、まゆみ先生の撮影しているUFOっていうのは、あれは謎だ。
UFO研究会で見たスプーン曲げも謎だし。

やはり宇宙人はいるのかもしれない。
フォースカインドは嘘だとしても、もしかすると、本当に宇宙人がいて、宇宙人が制作協力しているとすると、
「嘘ってことにしといて下さいよ」
なんて事にもなる気はする。

宇宙人に関しては、いくつかあるが。
・宇宙人はいるかいないかは不明。
・UFOの存在も不明。
・ただし、目撃証言はかなりの数が存在しているというのは事実。
・ただし、目撃証言がどの程度の割合で嘘の証言なのかは不明。
・また、本当に見たという人がある程度いるにせよ、それが見間違いかどうか。つまり人工衛星の可能性もある。
・仮に宇宙人が存在したとしたら、おそらく彼らは存在を隠したいと考えているということは事実だろうと思う。公表したいと考えているとしたら、方法はいくらかあるだろう。
・なぜ存在を隠したいのかは諸説あるが不明。
・また、なぜかハイレベルな文明を持っているとされているが、そこも不明。
・ただし、宇宙空間を移動するテクノロジーに関しては地球より遥かに上であることは、地球まで来ていると考えればほぼ間違いない。
・ただし、宇宙空間を移動する技術=テクノロジーの高さとは限らない。
・カテゴリーとしてはオカルトにジャンル分けされる。特に霊能力なんかと近いジャンルのくくりで捉える人が多いようだ。

フォースカインドにおいて、面白いのは、催眠療法なるものを取り入れているところだ。
そして、宇宙人に拉致されても記憶を消されて戻されるので、普通に生活していると気付くことはないという設定。
この二点のみで、この映画は現実味を帯びさせている。

催眠療法は日本ではあまり受け入れられていないが、アメリカなんかでは博士号もあるほどで、それなりの効果を認められている。
簡単に言えば、半分意識を眠らせて、普段脳みそにかかっている抑制を外すというのがポイントだ。
そうなると、普段は潜在的に自分でも思い出さないようにしている記憶を掘り起こせ、精神疾患などの治療に効果があるとされている。

平たく言うと、女の子にお酒を飲ませて口説いたり、LSDを飲ませて信者に奇跡を信じさせる宗教なんかと原理としては同じだ。

退行催眠、前世まで遡らせる催眠とかになると眉唾ではあるが、事例自体はある。

催眠療法がある程度の効果があること。
宇宙人に拉致された後には記憶を消される。
この二つを組み合わせると、確かに、うむむ、となるわけだ。
その映画自体はフィクションだとしても、宇宙人が本当に存在していて、気付かぬままに拉致されているのかもしれないという目は否定できない。
その消された記憶を催眠療法で復元する。
これはかなり整合性が取れた設定だ。

ねむい。
まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 01:44| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月27日

富士には月見草がよく似合う。

自転車で一人きりで遠くに行くと不思議な多幸感を伴う時間が存在する。
とても不思議な多幸感だ。

今日は雲取山に行く予定だったが、寝過ごしたので、電車に自転車乗せて、富士山眺めに御坂峠へ。
気付くと10月も終わる。
峠を楽しく走りに行けるのも、もう長くはない。
すっかり冬が降ってくる。山の上から冬が降りてくる。

御坂峠は格別好きな峠だ。
まず富士山が美しい。
それを眺めて太宰が良い小説を書いた。
そして、富士山と反対の甲府側の登りが美しい静かな九十九折。
紅葉が日本でもっとも気持ち良い峠の一つだと思う。

峠にとって紅葉の美しさとは何か?
これはなかなか考えてみる価値のある問題だと思う。
眺望の良さっていうのも一つにあろう。
安易だが、間違いない答えの一つだ。
しかし、眺望の良さだけで峠の良し悪しは語れないだろう。

道の寂れ方というのが、峠にとってはとても大事な要素だろう。
如何に眺望が良くても大きな道路が通っていて、整えられ過ぎた展望台がある峠っていうのはどこか魅力に欠ける。
風情に欠ける。

交通の要所、世界にとって有用である場所というのは、それはそれで魅力的だが、峠の魅力とは違うだろう。

かと言って、全く誰も使わない道というのは、峠としてはやはり不自然だ。
そういうのは、どちらかと言えば登山だ。

程よい有用性というのが大事になる。
どうしても山を越えて向こうの村に行かないといけない。
そういう時に峠に道が付く。
道なんか付けるのも難しいような地形であるほど面白い道が付く。

奥多摩の周遊道路というのは、そういう点で峠としての魅力が薄い。
奥多摩の山をドライブするための観光道路なのだ。
それに対して大ダワという峠は、林業のためという明確な理由で檜原村と奥多摩町をつないでいるので峠としての魅力が高い。

そういう意味で言えば、岐阜、長野、群馬、山梨あたりの海なし県の峠というのはどれも実にハイクオリティなものが多い。
本当にあの辺は山しかない。
そして、山間に小さな集落が点々とある。
小さな集落間の峠というのは、これは実にクオリティが高い。

考えれば当たり前でもある。
そもそもに、山間の小さな集落の成り立ちというのは、都市部で住むには経済的に難しい人々が、江戸なんかを出て、燃料となる木と、狩猟の対象となる動物のいる森、魚のいる川のある山奥の狭い平らな土地に何人かで村を切り開いたというものが多い。落ち武者みたいな人たちなんかがリーダーになることが多かったとかなんとか。

もちろん、今はそういう集落だから特別貧乏なんてこともなかろうが、やはり広大な平地の町とは雰囲気が全く違う。
人間と自然の境目の線のようなものを引いてくれている。

それらの小さな集落間での交易のための道というのは、自然の中に無理に一本の道という線を付けている。
自然なのだが、その線の上だけは人間側なのだ。
しばしば自然に呑み込まれもする。

そういう場所を走っている時、格別な多幸感のようなものに包まれることがある。
高揚感。

どういうことなのか分からないけれど。
頭の中で多分何か一つ窓が開いて、とても良い風が家の中を巡っているような感じなんだろうか。

富士には月見草がよく似合う。
月見草がどれか知らないけれど。
確かに言葉の上ではよく似合っている。
もしかすると、現実の富士山と月見草の絵以上に、そのフレーズというのは美しさを補完できているのかもしれない。
やはり太宰先生っていうのはすごい。

12月に久々に大道芸をするので、そろそろ準備、練習を始めねば。

まあ、そんなこんな。
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2015年10月25日

殻とタニシと哲学。

随分と冷え込んだ。
今年の内に楽しく富士山を眺めるなら明日が最後のチャンスかもしれない。早朝に起きて富士山を眺めに自転車を走らせようと思っている。

出たり入ったりする。
殻って言うのがあって、そこから出たり入ったり。
大人ってのはどっちなんだろう。
殻を強く着ているけれど、なぜか殻の外の世界を知っていたりする。
いや、それは殻の中の幻想か。
やはり、大人は殻の中だ。
子供は殻の外が好きだ。
未知の世界。
子供には壊れる既存の哲学がない。
大人になると厄介だ。
変な哲学ばかり背負っている。
そして、お互いの哲学の不可侵を暗黙の了解に生きる。
年を取るたびに壊れては困る厄介な哲学が体にタニシのようにくっつく。

結婚が嫌だなと感じたのは、まさにそういう問題だったのかもしれない。
嫁さんだの子供が出来れば、どうしたって守らねばならない哲学の中で生きなければいけない。殻の中で安全に過ごさねばいけない。そういう中で、自分が全く好きでもないようなタニシが背中にどっさりくっついてしまって、もちろん、それを剥ぎ取ることも出来なくなる。
そんな予感がどうにも嫌だったのかもしれない。

それでも、いずれは殻の中に住まねばならない。
大人になる。
厄介な哲学をいっぱいに抱えて、それを昨日から今日に、今日から明日にせっせと運んで行く。便利な台車があれば良いのにと思いながら何往復もしながら。便利な台車を見付けると、気付くと台車から全く手が離せなくなっていて、荷物をひとつひとつ手で運んでいた頃が素晴らしかったなどと思うようになる。

若い僕からすれば、そんなものは糞食らえなんて気持ちになる。
別に自分が望みもしなかった、ヘンテコな哲学ばかり背負って、貧乏性のコジキみたいに手垢まみれの、使いもしない哲学を段ボールいっぱいにつめて、その段ボールも、もう何度も雨に濡れて腐り始めている。
もちろん、そんなのは幻覚だ。
それらには、一定の意味があるし、役にも立つ。
核弾頭が飛んできても何かを守れる殻になってくれることもある。

でも、そう。
別に必ずしも、歳を取ったらそういう生き方をしないといけないなんてことはないのた。
役に立つ哲学も、自分の不要な哲学も何も持たず、手ぶらで歩き続ける人生だって、等しく人間なのだ。
哲学が偉いなんて信じてるのは、ある世界の中だけのことで、哲学自体が偉くないとする世界もあるし、或いは偉いにせよ、多すぎる荷物を持ち運ぶのはあまり偉いこととは言えない世界も。

ロシア・フォルマリズムなんて少し。
文学研究者っていうのも真面目なもので、あれなこれやいろんな角度、切り口っていうのを探し続ける。
そんな具合で文学の入門書を読んでいるのだ。
いろんな読み方の切り口があるものだなぁ、というか、いちいちそんな読み方に全て名前なり体系立てたものを与えてみたりする人がいるものだなぁ、と。
学研の昆虫図鑑を眺める程度の気分で。

そう、何事も入門書くらいが良い。

どんなに詳しくなっても専門的知識を手に入れても、入門書くらいのことを延々とコツコツとやり続ける。
いや、僕の場合、本当にただ単に入門者だからなのだが。

外の世界の空気を吸いたいと願うこと。
外の世界の存在をいつまでも信じること。
大人になると、お金を出したらあっさり東京からアメリカへの飛行機に乗れて、そこからは世界中、ほとんどの国に飛ぶ飛行機に乗れる。
もちろん、知らない世界、見たことのない世界はあるにしたって。外の世界、誰も知らない世界の存在を信じなくなる。そんなものは存在しないよ、と。あるいは、もし仮にあったとしても、平凡な人間である自分には縁のないことなんだ、って。

それはそれで良いことだ。
パタパタと規則正しく月も太陽も運行している。
規則正しく運行し続ける人間たちは世界にとって必要不可欠だ。
或いはすべての物事が、別の軸を中心にしているとしても、何かしらの規則性を持って円運動を続けているのかもしれない。
ぱたりぱたりぱたばたぱた。

冬が来たら、誰かが僕の中から出発してしまうような不安がある。
僕の中に誰がいるということもないのだが。
僕は多分誰かを、夜遅くに、僕の眠っている間に玄関へと見送りに出掛けることになる。
気を付けて行くように。
気を付けるもクソもあるもんか。
また、いずれ戻って来てはくれないかな?
そんなもの知るもんか。でも、いつか必ず戻って来たいね。
そんな会話を交わして誰かが玄関の引き戸を鳴らして足音だけ置いて帰っていく。
帰る。
帰るのだろうか。
そうか、帰るのか。
彼は僕の中に生きている人間ではなかったのかもしれない。
彼には彼の故郷があるのかもしれない。
でも、どうしてこの街に彼が生まれてずっといたなんて思い込んでいたのだろう。
そのくらい昔から住んでいた誰かが、もう少し寒くなると出発する、そんな予感がある。
誰だか、何をする人なんだか。男なんだか女なんだかも知らないけれど。

彼は彼の哲学を背負って行くだろうか。
僕は僕の哲学をどこに運ぶつもりだろう。
それでも、気付けば不要な哲学も随分買い込んでしまっていて、タニシも少々増えてきている。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 22:47| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

人間中毒。

人間中毒のことを書こうかなと思っている。
その他、なんたら中毒。
お金中毒とか。
でも、現代人は基本的に人間中毒。

かく言う僕は人間めんどくさい病に入りつつある。
珍しくバーに出掛けない。
家でぼんやり何か食う。
例えばカレー。セブンの袋に入ったおでんも美味い。キャベツとモヤシをフライパンにてんこ盛りに放り込んでキムチとすき焼きの割り下で適当に数分火にかけて放置するのもいい。唐辛子と生姜があればよろしい。芋を適当に切って素揚げにしてマジックソルトでもかけて食っても良い。豚バラ肉と卵ともやしをウェイバーしても良いし、冷凍の餃子、コンビニの千切りキャベツにお好み焼きソースとマヨネーズをかけるのも悪くない。ひき肉にトマト缶と豆板醤。
モダンジャズカルテットなんて聞きながら缶ビールを開けるのか、あるいはウォッカでもチビチビやるのか。
本を手に取るけど何だかつまらない。
ぼんやりと文を書き付けてみる。
何も話は始まらない。
でも、そういう時間は妙に贅沢な気持ちがする。

かれこれジャズをノリノリで聴くって長いことなかった。
せっかく良いヘッドホンを去年の今頃分割払いしてまで買ったのに。
でも、不意に何だかすごく良いなと。

多分、ジャズを聴くって僕にとって一人の時間の象徴なのかもしれないな、なんて思う。

長いこと人間中毒してた。
いや、今も人間中毒には違いない。
ただ、今は少々めんどくささが先立つのだ。
一人で山に登ってみて煙草を吸ってみたり、用水路の脇で無駄に枯葉を集めてみたりしたい。
そういう中で、ふと、人生って多分そんなもんだ、なんて、秋から冬への変わり目に薄着をして、肌寒さを感じながら、何にもつながらないようなことを何の目的もなくやっている。
そういう中に一つの小さな王国を見る。
箱庭の中に小さな人間、ヘンテコな生物を想像しちゃいけないし、人間以外の生き物もいけない、小さいんだけど人間、木こりみたいな感じが良いだろうな。

多分、人間中毒の始まりっていうのは、スマートフォンなのだろうと思う。
スマートフォンほど人間を変えたアイテムってないんじゃないかなと思う。

サティアン先生なる女性学の権威の先生がいらっしゃる。
先生はエロゲーの会社で働いてらっしゃる。
この先生が神がかってナンパが上手い。

ナンパなんてのはテレビの中だけでのことかと思っていたら、存外、現実にプロフェッショナルたちがいるのだ。
ある種の度胸試しだったり、暇潰しだったり、まあ、いろんな要素があるそうだが。
何にせよ声をかけるのだ。
そして、飯でも食ってカラオケでもして、ホテルに行くのだそうだ。

世界のすべての女性がそんなわけじゃあるまいにせよ。
まあ、女の子にだって性欲もあれば、駆け引きを楽しんだり、やる時って男は誉めてくれるから気分も良い。
別にナンパで男に抱かれるということは世界においてさほど珍しいことではないのだそうだ。もちろん、多数派ではないだろうが。

サティアン先生の補佐に某教授がいる。某教授は筋肉についても詳しいが、女性についてもなかなかに詳しい。
だいたいに僕の友人というのは女にモテる。
木村少年にしても彼女がいるし、女の子の友達もいるそうだ。
僕なんかは見るも無残なもので、ぼったくりバーで中国人のおねえちゃんにぼったくられたり、自転車の調子が悪い時にだけメンテナンスに呼び出されたり、或いは彼女が出来たと思ったらチャリとメッセンジャーバッグをプレゼントしたら去って行ったり、古い話になれば、合気道をしている女の子に壁まで投げ飛ばされてみたり、うつ病の女の子の世話をしてる間に大学の単位がどんどん落ちてしまったり、そもそも初めて女の子のマンコを見た時にドブの中で腐ったチーズのようなにおいがした辺りから女性運の悪さは始まっているのだろう。
それでも、まあ、人生の中でそういった僕と何らかの関わりを持ってくれた女の子たちってのは良い人たちだなと思っている。それぞれに変なところもあったけれど、真面目な良い人が多かったし、優しさもあった。ドラマもあった。
まあ、ニヒリズムなことをいえば、女の子たちも男である僕に良いところを見せようとしていただけなのかもしれないが。
まあ、深いことは抜きにして。
思い出となった、或る意味、星になった女の子たちはみんな偉大なのだ。
空飛ぶ宇宙船の中にあの子達は帰って行っただけの話なのだ。

さて、僕の女の子の話は良いのだ。
サティアン先生の補佐である某教授によれば。
女の子とは、みんな、まずマグロなのだそうだ。どんなにブサイクも可愛い子も。すべからくマグロなのだそうだ。
もてない男の子である僕と孔明くんに言わせれば、女の子とはマグロが一番なのだ。外人のようなプロレスのようなセックスをする女がたまにいるが、スポーツじゃないんだから、眠る前のリラックスタイムなわけなので。女の子はマグロぐらいが丁度いい。こちらがサービスをして、女の子はマグロなままに少々あえいでいればセックスとは丸く収まる。
ちなみに、SMとはサービスとマグロなのだという主張は前原氏が唱える説である。

そう、すべからくマグロ。
それから、傷付けられて、彷徨えるメンヘラへと変わりゆくのだそうだ。メンヘラとはメンタルヘルスを崩した人のことを指すネットスラングである。
そう、若い男とは割と残酷なのだ。
どんなに優しい男でも三回セックスをすると、何だか面倒くさくなる。いや、面倒というか虚無感みたいなものに襲われる。でも、性欲は衰えないので、やはりヤル。
そんな中である日突然に飽きた宣言を出したりするわけだ。
もちろん、それを表に出す男もいれば、オブラートに包んだり、あるいはずっと出さずにいる男もいる。

飽きない男はいないのか。
ゼロと言うのは難しかろう。
それでも、どんな男でも若い頃には一度は三回セックスして、あー、友達とビールでも飲みに行きたいな、なんて思ったことはあるのだ。

これは背伸びヤンキー的な原理だ。
なぜか男の子ってのは悪ぶりたいのだ。
自分を強く見せたいのだ。
それが、セックスを三回すると、あー、セックスなんて楽勝っていう風になるわけだ。

ちなみに、清純なる僕はそんなこと思ったことはない。当然だ。
僕はいつでも女の子のことを愛しているし、大切に考えている。
単に家に帰ってコーヒーでも沸かして、一人で本でも読みたくなることがごく稀にあるだけだ。

まあ、男の子ってのは、なぜか不意に飽きてしまう側面があるわけだ。

そんなわけで、世の中の男の子がみんな美しい心の僕のような良い人なら問題ないのだが、現実には僕のように普通に家に帰ってしまったり、相手がいるのに周りの音を遮断して読書をし始めたり、そういう悪ぶった行動を取ってしまうわけで。
そういう中には、かなりオープンに飽きた宣言をかますやつもいるわけだ。

そういう流れでマグロガールたちは、滝を登って鯉になるはずが、メンヘラちゃんへと変わっていくわけだ。

そう、どんな女の子も一度はメンヘラちゃんなのだ。

そして、女の子たちとは割とタフなので、数年もすればあっさりメンヘラちゃんを克服したりするわけだ。

それにしてもマグロっていう比喩は面白い。

サティアン先生はマグロガールたちに散々夢を見させて、良い気分にしてあげて、勢い付けて、室伏広治よろしく、空高くぶん投げるのだ。

そう言うとサティアン先生が非常な悪人に聞こえるが、サティアン先生は女の子たちに夢を与えて、大人の階段を強く登るためのタフネスを授けているという、いわゆる一種の聖職者ならぬ性職者的労働に従事していて、心から女の子たちを愛しているのだそうだ。

人は誰にも一つや二つ悲しい過去があるっていうのは、そういうジャイアントスイングで空を飛んだ時の経験の話だったりする。
実に身も蓋もない。小説のエッセンスのかけらとない。

そんな話を聞くと、女の子にはさっぱり分からない世界だろうが、僕なんかは、ああ、なんて立派なんだろうと思う。
僕なんかはモテない上に面倒くさがりなのだ。
とてもじゃないが、夜の街に繰り出して駅前で女の子に声を掛けるなど出来ない。断られたり、ひどい言葉を返されたりしたら、ぷっつん腹が立つ。
女にせよ男にせよ、割と僕は腹が立つ。
何だお前は?
なんて気分になる。

ストレートに言えば、当然、ゲイでもないが、女の子も性的な意味では割と特別好きというわけではないのかもしれない。
性的な意味で言えば、オナニーしとけば全てオッケーくらいの淡白な人間なのかもしれない。
いや、女の子は好きだが。
「私と小説、どっちが好きなのよ?」
(んー、いざ聞かれると、別にどっちも好きでもないような気もするけど)
「あー、そういうのは比べるものではないよ」
なんて会話になってしまうわけだ。

セックスが云々、愛が云々、生活が云々、明日が云々、そういう煩わしいことをそう大きな声で叫ぶのはやめておくれ、そういうのは静かに部屋で文に書くなり、空でも眺めながら一人で考えておくれ、なんて思ったりしつつ、一応、反省などはする。

その辺が正に女が本当に好きかどうかっていうラインなのだろう。
サティアン先生とは本当に女の子が好きなのでナンパするし、マグロをメンヘラへと変換する工場で働くし、エロゲーも本気で作るわけだ。

さて、そんなサティアン先生の唱える説によれば、今の若い女の子たちがライブチャットオナニーや出会い系もどきにハマるのは必然なのだそうだ。
そして、それが現代の象徴なのだと言う。

ライブチャットオナニーとは、パソコンの画面越しにチャットで話しながらライブカメラでオナニーを男に見せてやって、小遣いを稼ぐというアルバイトだ。
出会い系もどきというのは、先日、僕も潜入調査したフェイスブック連動型の「婚活サイト」というやつだ。
ちなみに、フェイスブック連動型の婚活サイトは本当に女の子に簡単に出会える。今、一番出会えるのは、フェイスブック連動型らしい。そして、みんな紋切り型に末期の人間中毒患者の目をしているのだが、そこさえ気にならなければ好きな人には好きだろう。僕はそういう女と飲むコーヒーはあまり美味くもないので、調査が終わったら早々にやめたが。一ヶ月で五人くらい会って、デートしたりお酒を飲んだりしてみた。
まあ、確かに楽しい側面もあったけれど、どうも肌に合わなかった。
人には言わないところであれこれ下らないことをしているのだ。
ちなみに可愛い子も三人に一人はいるので、興味のある人はしてみても損はないと思う。
実際、僕の前の恋人の携帯にはそのアプリが入っているのが見えた。さらっと聞いたら、看護婦仲間の間で流行ってるんだと笑っていた。
まあ、そんなノリで今の若い女の子たちは婚活という名のマグロからのメンヘラからのメンタル女子プロレスをたしなんでいるわけだ。
女の子ってのは、恋愛的駆け引きってのがどうしようもなく好きなのだ。男の性欲以上に女の子は恋愛が好きらしい。

このデジタルな営みが現代社会の象徴というサティアン先生の説は面白い。

要は動物園の檻なのだ。
安全なところから虎の迫力を楽しめる。
それでいて、少し扉を押せば実際に出会える。
つまり虎に直接さわれる。
リスクもあるが、圧倒的迫力を楽しめる。
しかし、実際には、いざ都合が悪くなれば、またデジタルの海の中に個人情報を消して逃げ込めば良い。
そして、その幻想の中では男は女を褒め続ける。男は何とかしてヤりたいのだ。
中には結婚を真面目に考えている男もいるにせよ。
まあ、平たく言えば、現実世界で結婚相手に巡り会えない男にはそれ相応の理由がある。
全体的な比率で言えば、安全な火遊びを女性が楽しむのに今の時代の中で最も素晴らしい環境というのが、インターネット越しに性をチラつかせて男に誉めてもらうという営みなのだ。

男の方もやはり楽なのだ。
駅前にナンパに出掛ければ、怖い男の恋人の女に当たるかもしれない。そういう外れを引かなくて、上手く行っても飯代、酒代くらいの金はかかる。
女としても、駅前のナンパなんてのはリスクが高い。
そりゃ、即効性を求めれば駅前で上手いナンパ屋を待って、一晩限りで楽しめば良い。こういう女はある意味で賢い。古い表現をすれば、「わたしの火照りをあなたで鎮めて」なんていうフレーズなんだろう。

そう、冒険野郎のバックパッカーでさえ、フライトの前にきっちり行き先の宿をネットで決めて、かっちり航空券をネット予約する時代なのだ。
安全なものを予約しといて、散々調べて、気に入れば行ってみれば良い。

そんな具合でいろんなことが便利に安全になった。
特に人間の経験というのが、変に薄まってしまうほどに、いろんなことが先に檻の向こうで眺められるようになった。
何ならジープでサファリをまわるくらいの臨場感さえあるほどに前調べが出来てしまう。

そういう中で、人間中毒が発生してくる。
安全に簡単に人とつながれる。

人間が人間を求めること自体は昔からある普通の欲求だ。
異性にせよ、性別関係なく友人にせよ。
酒場というのは、人間を求める人間が人間と話すために集まる場所であり、これは結構昔から存在している。

しかし、人間が人間に会うというのは、リスキーなことで、深く相手の素性を知るというのは決して容易いものではなかった。もちろん、今でもそうだ。
そして、当時は人間を求めれば人間に会うしかなかった。

スマートフォン、インターネットの前にあった、動物園の檻的な人間関係というのは手紙の関係だ。
手紙というのは、便利とは言えなかったにせよ安全だった。自分が思うことを相手を目の前にせず記せて、自分のいないところで相手に読んでもらえる。
ちなみに、文字を読み書きするということの本質ってのは、その辺にある。
本来、人がいるところでは出てこない言葉、つまり他の人間に伝えることが不可能な言葉を人に伝えることが出来る。
しかし、そこにはやはり一定の不便さのようなものはあった。

人間を求める気持ちと、人間中毒というのは違う。
中毒とは過度の量というのがポイントだ。
月に二、三度バーに行って、気持ちよくお酒を飲むのを楽しみに生きる人間をアルコール中毒とは言わない。
アルコール中毒とは過度の量を飲んで、求めて、そこから抜けられない人間のことを言う。

人間中毒もやはり同じ理屈で。
過度な人間とのコミュニケーションから、求めて、そこから抜け出せなくなっている状態を言う。

スマホ中毒っていうのは、少々間違っている。

ねむい。
そんなこんな。
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2015年10月24日

no-title

久し振りにのんびりと文を書いて過ごす夜だった。
あまり良い小説は書けなかったけれど、楽しい夜だった。
ジャイアントの話については、友人に相談されたりしたので、まあ、ついでで書いてみた。

アルコール依存について考えてみたりしている。
ここ1年ほどそのことばかり考えているような気もするが。

ある日、ふと僕は気付く。
酒を飲む、飯を食う、オナニーをする、眠る。それ以外に何もしていないではないか、と。
まあ、たまにはチャリのトレーニングをしたり、本を読み書きもするにせよ。
週に四日以上は酒に満たされて生きている。

まあ、酒だって悪いことはないのだ。
健康には良くないにせよ、どうせ一人で飲むんだから、そう簡単に過量に落ちるということは多くはない。すこぶる悪いというほどのことはない。

それにしたって、オレは日々何をして生きているんだ。

問題はそこだ。
ただ、ぼんやり酒を飲んでいるばかり。
ふと久々に酒を飲まない夜に気付く。
あれ、おれは酒を飲む以外に何をしていただろう。

そうちゃんに相談したところ、まあ、みんなそんなもんじゃろう。
いや、みんなそんなに飲んでたら、僕にはもっとたくさん友達が出来てるよ、なんて話しつつ。
いや、酒を飲まなけりゃぼんやりテレビを見るとか、ゴロゴロするとかさ。
みんな、そんな風に生きてるん?
まあ、そんなもんじゃろ。

まあ、そう言われるとそんな気もするけれど、もし本当にそうだとしたら、明日隕石が落ちて人間がみんな死んでも、地球にとってはあまり問題ないことのような気もする。

じゃあ、何をしていれば、地球にとって人間は必要不可欠なんだろうかと考えてみると、まあ、何をしていても地球にとってはどちらでも良いことのような気がする。

地球の機嫌なんて大きい話にしなくても。

要は女が好きなら、人間、割と暇せずに済むのだ。
女が好きで恋人がいれば、夜は毎日良い夜だ。
ケンカしたって、まあ、それはそれで良い夜さ。

恋人がいなくたって、好きな女の子が出来ないかなと考えていれば、それはそれで良い日々だ。
ギターでも練習してみようかな、なんて。

まあ、女の子のパワーとは女性諸氏には少し理解出来ない程に男の子のバイタリティーにつながっているのだ。

女が好きな男は多分、何かすることがあるのだ。

いまいち女の子に苦手意識を持っている男っていうのは、バイタリティに欠けるわけだ。
悲しいかな。

いや、男と女の力の問題でもない気がする。

とにもかくにも、酒を飲む以外にすることって何だろう。
ぼんやりと何か書いてみても、全部空振りばかりする。
本を読んでみれば、楽しくはあるけれど、どうもテレビを観ているのとあまり変わらないような気分になったりする。

はて、そうちゃんの方はいよいよ働き始めた。
末期の老人介護施設で働き始めたそうで。
クソを処理したりする。
「くせぇ」
とじいさんが言うそうな。
そりゃ、おめぇがクソを垂れとるんじゃけん、くせぇに決まっとるわなぁ、と。
そんなこと口には出さず、そうちゃんはじいさんのクソの処理をする。ケツを拭いてやる。
それで給料は良いのかい、と聞けば、良くないというかラーメン屋のバイトより安い。
「それでも、やはりやってりゃ慣れて来るものなのかい?おれにはクソを拭くってのはどうも出来る気がしないんだが」
「まあ、ゴキブリを手で掴めるようなもんじゃろう」
そう。そうちゃんは素手でゴキブリを掴めるのだ。ゴキブリが一匹出るだけで鬱病状態に突入する僕には実に羨ましいスキルだ。
「まあ、大したことは出来んけどさ、ゴキブリを平気で処理できるって、ほとんどの人には出来んじゃろ。結構、ありがてぇスキルじゃが。まあ、別に大したスキルでもないけど。じじいのクソの処理が出来るってのも、多分、そういうもんなんよ」
なんてそうちゃんは言う。
もちろん、慣れることはないらしいけれど。

それでも、他に何か別の仕事でもあるんじゃねん?なんて聞いてみると、まあなぁ、と言って、ぽろぽろと話すが、まあ、ここには書けないような事情もあって、そうちゃんはじじいのクソの処理をしているのだそうだ。

「まあさ、嫌なことは嫌なんじゃけどな。でも、分かりやしぃが」
「分かりやすい?」
「公務員試験でペーパーは余裕で合格するのに、面接とかで性格が向いてないとかってよくわけ分からんじゃろ。なんでてめぇに人間否定されんといけんのんな?そんなんなら、最初からペーパーの試験なんかすんなや、って。それに比べれば、人間、年食えばジジイになるって自然じゃろ。そいで、足腰悪くなったり、ボケて来たりもする。そういう中でクソを垂れたりもする。クソが付いてりゃ誰かが処理せんといけん。家族やら身内やらがすりゃぁ一番ええんじゃろうけど、みんな事情もあるじゃろ。それでオレがする。そしたら、くせぇ。でも、そういうのって自然じゃし、分かりやしぃが」
「ああ、まあ、そう言われるとそうじゃなぁ」

そういえば、ワタベさんに子供が産まれた。
良いことだ。
ワタベさんはてくてくとタイヤを二本買いに来てくれた。
「ぼったくられたそうですね」
「ええ、アルコールの海にいたら、あっさりぼったくられて。でも、なかなかに楽しかったです」
「ほんと、いろいろしてますよね」
「そうですね。別に大して何もしてないんですけどねぇ。ぼんやりしてると、いろいろと巻き込まれますねぇ」
ワタベさんは、先日、エンパナーダを作りたいと相談したところ、エンパナーダ研究をしてくれて、日本で手に入りやすい材料でなおかつ簡単に作るならパイ生地にするのが良い、つまりミートパイみたいにしてしまえば良いと試作品を作ってくれた。
これはなかなか、実に美味しかった。
さすがにプロのパン屋さんだなぁと思った。

いろんなことがニョキニョキ生えてる世界だなぁなんて思う。

とりあえず、一人で部屋で文を書く時間を増やして。
飲みに行くのも悪くはないけれど。
今夜のような、まあ、大して良い小説も生まれないにせよ、ぼんやりと何か書いて音楽を聴いて過ごすような。

ちょっとゆっくりと自分と話し合ってみたい。ゲラゲラ笑うようなことも少なかろうけれど。

ふと、あと何年くらい僕は生きるのかななんていま思った。
時々、いずれ自分も死ぬのだ、なんていう簡単なことを忘れることがある。
それはそれで健康的で明るい良い日々なんだろうけれど。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 21:20| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月23日

ジャイアントは安くて優秀なのか?改。

昔、自転車の勉強をしていた頃。
そう、チャリ屋で働き始めの頃ぐらいだろうか、まあ、一生懸命勉強したりしてみた。

その頃にジャイアントっていう自転車は安くて優秀なのか、っていう記事を書いてみた。
その時の僕は、別に安くて優秀ということはなかろう、という結論を出した。

なんとなく、そのことについて改めて考えてみる。
クロスバイクや安い値段帯に関しては、以前と同じ考えだ。
つまり値段相応のものがついている、と。
各メーカー、エントリー層の獲得のためにあれこれ試行錯誤している。
今回はある程度の値段の自転車について考えてみる。

まず、最近、僕が欲しい自転車というと、CANYONっていうドイツの自転車だ。
これは、メーカー直販なのですこぶる安い。
特に完成車。
値段からは信じられないような良いパーツなんかがアッセンブルされている。
バラしてヤフオクでさばいてもプラスになるんじゃないかっていうほど良い部品がついている。
それこそジャイアントなんて目じゃないほどに安い。
実際に乗ってはいないので、フレームの良し悪しというのは判断しにくいが、プロも使うし、ある程度のラインナップも揃っているところを考えると、走りは悪くないのだろう。

ただ、問題は、メーカー直販なのだ。
これは、チャリをいじれる人には悪くない。
ただ、僕が見てきた中でチャリが本当にいじれる人なんていうのは、プロショップなんかを含めてもさほど多くはない。
そりゃ、今のチャリっていうのは、実によく出来ているので、ただ組み付けて走るっていうだけのことなら、素人でもある程度勉強して、工具を揃えれば出来るかもしれない。
ただ、チャリをいじるっていうのは、結構深いことだ。
良いルートを教えてもらうっていうのも含まれている。

そういうことを考えると、すべて自分で直して、自分で走って、すべてを自己完結できるタイプの人くらいしかCANYONっていう自転車を所有するのは難しいのかもしれない。
修理だけ自転車屋とは言っても、やはりチャリ屋だって飯を食わねば生きてはいけぬ。
自転車好きの仲間のために、良い仕事をしたいというのもあるけれど、やはり車体を買ってもらえるかどいうかっていうのは、売上として死活問題なのだ。
いくらかの修理はすれど、自分の店で買ってくれない人間っていうのは、どうしたって困ったお客さんではある。
ケツの穴が小さいと言われても、胃袋はでかいので、腹は減る。
霞を食って生きてはいけぬ。
(そういうことを考える時、僕は一部上場企業で働いて、趣味でロードバイクに乗る人間だったら良かったのになんて思ったりもするんだけど)

安いか高いかっていうのは、値段である程度数値化されるけれど。
優秀な自転車かどうかっていうのは、結局のところ、乗る人にかかっている。
そういう意味ではCANYONっていうのはほとんどの人にとって、優秀な自転車とは言えない。

ショップで買うというのは大事だ。
そういう点で、ジャイアントっていうのは合格だ。
そして、値段に対して、車体の性能なんかも高いと思う。

コストパフォーマンスって何なのかって、一つに、トップグレードのフレームにDura Aceを積んだ値段がいくらかっていう問題だと思う。
ホイールの値段は引き算する。
トップグレードのフレームっていうのは、プロが乗って満足できるレベルの製品という意味だ。
ミドルグレード、エントリーグレードの値段っていうのは、結局のところ、品質のばらつきも大きいので、比較対象として分かりにくい。
一番安い、アルミ、カーボンの完成車の値段っていうのを見るのも一つ手ではあるけれど。

世にいうコストパフォーマンスという点では、やはりジャイアントっていうのは良い。
特にTCRという車体に関していえば、自転車のすべてが詰まっていると言っても良いほどに素晴らしいと思う。

ジャイアントと並んで台湾メーカーのメリダもコストパフォーマンスが良い。
次にアメリカメーカー辺りが追う。
ヨーロッパメーカーに関してははっきり言って、コストパフォーマンスは駄目だろう。

でも、冷静に考えれば。
スーパーカブよりコストパフォーマンスの良い二輪車っていうのは存在しないのだ。
スーパーカブって良い。
走っていて結構楽しいし、便利さも優れているし、維持費もそんなにかからない。
ロマンという意味でも悪くない。

そう、コストパフォーマンスだけでものを考えてはいけない。
顔だけで女の子の良し悪しを判断してはいけないのと同じようなものだ。

それでも、コストパフォーマンスという点でいえば、ジャイアントとメリダっていうのは非常に優れていると思う。
台湾メーカーの地力ってやつだろう。

こういう問題っていうのは、TOYOTAを買うか、MAZDAを買うか、あるいはフォルクスワーゲンを買うかっていう問題に近いのかもしれない。
そういう中で、自転車なんていうのは趣味の道具だと考えると、
「TOYOTAを買ってもなぁ」
という心理は出てくる。
そういう意味でジャイアントっていうのは、不幸ではある。
ジャイアントっていうのは、自転車に詳しい人間から言わせれば、実に非の打ちどころのない良い自転車を作るメーカーだ。
それゆえに、面白みがない。

まあ、それでも、TOYOTAはダントツで売れる大メーカーだ。
MAZDAはちょっと車が好きだし、やっぱり日本車が安心という人には良い。
ワーゲンは、コストパフォーマンス云々じゃなく、かっこいい車に乗りたいという人だろう。

やっぱり、ジャイアントは良いプロダクトを作っているし、これからも世界のトップシェアを守るだろうし、やっぱり面白みのないメーカーとして見られ続けるだろう。

ところでTREKなんてのはどうなの?
そんな風に聞かれると困ったりもするけれど。
まあ、乗っていて思う感想としては、メンテナンス性も良いし、馬鹿高いということもない。
(最近はバカ高いラインナップもあるけれど)
安物ブランドっていうイメージもないし。
アメリカメーカーなので、保証もそれなりに悪くもないし。
まあ、販売台数世界二位ということだから、マニアの間では、少々面白みに欠けるなんて言われることもあるけれど。
「ジャイアントが嫌なら、とりあえずTREKが間違いないんじゃない」
というところか。

まあ、バリバリで走るプロでも、結局チームから支給されるバイクで戦うわけだから。
メーカーで大きく性能差が出るってこともない。
値段差はいくらかあるにせよ。

それより、むしろ性能差が出るのは、メンテナンス、メカニックの腕だろう。
きちんとした掃除の仕方を教えてくれるとか、点検をしてくれるとか。
フィッティングのアドバイスをしてくれるとか。
最近はコンピューターに頼ったフィッティングなんかも多いけれど。
体格も違えば筋肉量も違うし、乗る程度っていうのも違う。
結局、自分でフィッティングっていうのは詰めて行くしかない。

そういう点で考えれば、やっぱり気の合うチャリ屋のにいさんがいる店っていうのが一番大事だろうし。
そのにいさんが薦めてくれるものを使う、或いは相談してみるっていうのが良いんだろう。
そういうレコメンドを受け入れられない、信じられないっていうなら、多分、そのチャリ屋はその乗り手には合ってないのだろう。

その辺まで考えていくと、どのメーカーがどういうタイプの自転車屋に卸すのか。
どういう自転車屋が自転車について深く面白いことを知っているのか。
そんなことまで考えないいけないので。

僕は売る時には結局、
「自分が気に入ったものを、自分が気に入った場所で買えば良いんじゃないですか」
なんて言ってるんだけれど。
それだと本末転倒というものなのである。

まあ、作る人間も、売る人間も、修理する人間も。
やはりそれなりに自転車のことが好きだからこそ、自転車で飯を食っている人間なのだ。

本末転倒とは言えど、結局、店に行ってみてあれこれ見たり話したりするしかない。

インターネットで正しい知識を探してみても、結局、僕らが自転車を乗るのは生きた人間のいる世界なのだ。

まあ、だらだら書いてみたけれど。
ジャイアントは安くて優秀というのは、ある面では全面的に正しい。
かと言って、ジャイアントこそ最高というわけにもいかない。

世界とは複雑なのだ。

まあ、あまり細かいことを考えないし、近所にジャイアントを扱っているプロショップがあるというなら。
とりあえず、TCRを買っておけば間違いないってことは言えるんだろう。

まあ、とりあえず見た目で決めれば良い。
そうこうしてる内に詳しくもなるし、好みも出てくる。
そうなれば、自分にとって一番良い自転車っていうのにも巡り合うんだろう。

安易な正解とはないものでございます。

そんなこんな。
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2015年10月22日

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モームの月と六ペンス。
これは孔明のおすすめ。
読み始めたが、少々苦手なタイプの文。

カズオ・イシグロの、わたしたちが孤児だった頃。
これは、僕の個人的なカズオ・イシグロブーム。
僕の読書歴の中でガルシア・マルケス以来の名作家だと思う。

ぼったくられたせいでお金が無くなった。
そのくせ、不思議と腹は減る。
欲望のままに昼飯を三度食う。
今月はさすがに最後まで食えないかもしれない。
しかし、金を貯めるのは悪事だと、孔明との夜で気付いた。

もちろん、一番の悪事は面白くもないことに金を使うことだ。
見栄のために、或いは世間体のために、好きでもないことだ。
例えば、入学式のスーツとか。手書きの履歴書とか。
そういうのは最も悲しいことだ。

もちろん、社会の中で払わねばならない最低限の金ってのはある。
しかし、見栄ってのは良くない。

悪いものは悪い。
こればかりは大事なことだ。
そりゃ、事情もあるので、悪いことをしなくちゃいけないこともあろう。
しかし、悪いことを必要だから良いことと言い始めれば世界がねじれる。
悪事を働くにせよ、悪事は悪事。
仮にどんなに仕方ないにせよ、悪いことをしたときに。
悪いことは悪いことだと認められないのは。
それはただ悲しい。

事情はある。
でも、金を使わず溜め込むなんてのは。
決して良いことではない。

結婚とかいろんなことも考慮しないといけないにせよ。
蓄財とは悪であるということは、覚えておかないといけない。

人間のすべきこと。
自分が幸せになるためのことだ。
1秒でも長く自分の好きなものの隣にいられる時間を増やす。
それが正義というものだ。

事情はあれど。

そんなこんな。
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2015年10月21日

度量のある男。

中学生の頃からの友人孔明が帰国していて一晩呑んだくれて、成田に見送りに行ってきた。
彼はドイツでラーメン屋をしている。
実に三年ぶりに会った。

三年振りだが、全く三年振りという感じはなかった。
毎週でも会って遊んでいるような、変な感覚だった。

正午に錦糸町で集合して、ビールで始めて、公園でウォッカを二人で一本飲んで、楽器屋で鍵盤ハーモニカとリコーダーを買って来て遊んで、焼肉を食べて、おっぱいをもんで、カラオケスナックに入ろうとしてみたら、あまりに凄まじい雰囲気だったので、フィリピンパブでカラオケしようと、その後、今度は中国人パブに入ってカラオケしたら、そこがとんでもないぼったくりで二人で六万円払って。
二人で一晩で十万円以上飲み干した。

普段はそもそもに一人で飲むことが多いので、おっぱいのお店だとか、フィリピンパブとかに行くことはほとんどないのだが。
それにしても二人で十万円以上飲み干すってのは初めてかもしれない。

それにしても、孔明がすごいのはぼったくりバーでさえ、笑って僕の分まで払ってくれて「良い思い出じゃ。楽しかった」と言って、その直後に平気でラーメンをおごってくれるのだ。
孔明は別に金持ちなんてわけじゃない。

僕と孔明は、二人でいるとすぐにお金が消し飛ぶ。
貯金をするというのが好きじゃないのだ。
若い時代にお金を使っていろいろな経験をしとく方が良いだろう、そんな価値観を持っている。
特に誰かと会った時には、とことん。
人間と共有する時間というものは特に大事だと考えている。

そんなわけで、二人だけで遊ぶとひどいことになる。
他の誰もストップもかけてくれない。
延々と飲む、食う。
本当に湯水のように金を使い続ける。

それにしても、六万円のぼったくりバーというのはなかなか驚いた。
僕は昼から飲み続けていたので、途中から気付いたら眠ってしまっていたのだが。
世の中、本当にぼったくりってのはあるんだなと。

要はスナックのように隣に女の子が付いてくれる。
その女の子の飲み物が非常に高いのだ。一杯で二千円。グラスが小さいのはもちろん。さらに、これが中身がどうもお茶らしいので、ぐびぐび飲む。
孔明は良い具合に酔っていたこともあってか、自由に飲ませていたようだ。
そして、カラオケを歌って、最後は自分の歌に一人で勝手に感動して涙を流していた。
そして、六万円支払って、笑いながらラーメンをおごってくれる。

まあ、彼は尋常じゃない。
要は楽しいことには犠牲、コストを惜しまないのだ。
だから、彼はドイツでラーメン屋なんてしてるわけだ。
単に日本でシコシコと働くより、異国で日本料理屋をやって金を稼いで遊んでる方が楽しいのだ、と。

朝、フライトの時間を考えて起こしてやっても、眠そうにして、あと30分、なんて子供のようなことを言う。
海外へのフライトっていうのは、慣れている人でも乗り遅れが怖いので、余裕を持って空港に入るのが一般的だ。やはり、海外に身一つで行くってのは怖い。飛行機って乗り物もやはり怖い。
どうにも起きなくて仕方ないので、荒技ながら氷を肌に付けてみる。
すると怒るのだ。なんで起こすんだよ、といって。
彼は今日がフライトなんて真剣に忘れていたのだ。
そして、起きたあとも悠長にシャワーを浴びたり、部屋の掃除をする。
結局、フライト一時間前、つまり国際線のチェックイン締め切りギリギリで何とかチェックインして。
「ふくさん、蕎麦食うか」
なんて言って、悠長に蕎麦をご馳走してくれた。

ただの馬鹿ではない。
度量がある。

単に頭の中がシンプルなのではない。
彼も非常にあれこれいろんなことを考える。
たまに頭の中が断線してるようなところもあるが、基本的には論理的にきちんと筋が通っている。
でも、行動に関しては非常にシンプルに、妙な潔さみたいなものさえある。

要は、
「失敗することを考えてみてもどうにもならない。失敗したらその時に考えれば良い」
「とりあえず、のんびり、自分のペースでやって、様子を見つつ駄目なら変えていけばいい」
「.まあ、生きてる限りなんだかんだで何とかなる」
そういう先天的なポジティブな考えがある。

異国に出発する飛行機たちを眺めて、あれこれ考えつつ家に帰った。

夜にまさや先生がセブンを持ってきてくれたので久々のキネマ会も。なるほど名作。後味が悪いという評判が多いが、割と納得のラストだった。名作。でも、ファイトクラブの方が好き。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 01:27| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月19日

no-title

日記が滞る。
いや、毎晩、書いてはいるのだ。
ただ、途中で眠ってしまう。

ドイツでラーメン屋をしている男というのは、単に日本の高校でぼんやり阿呆なことに命を燃やしていたら日本の大学に入れず、アメリカの大学に流れ、一年ではみ出て、ヒスパニックとホームレスしたり、焼き鳥を焼いて、3回目の飲酒運転の罰金が払えず、日本で私とペンキを塗って、マリファナが吸える国を求めて出かけた日本人である。

マリファナなんてのは日本にいる限りは吸うもんじゃない。
海外でも吸わないほうがよろしい。
それでも、煙草、酒もやらないほうがよろしいという点では同じだ。
日本か国外か。
そういう判断で良かろう。

とりあえず、明日はそんな男に会う予定だが、そんな男なので会えるかどうかは分からない。
まあ、そんな人間が好きだ。
約束なんてのは守られるかどうか分からない。
それはとても自然だ。

来るべき確定事項などというものは世界に存在してないほうが良い。
不確定なほうが良い色をしている。

給料がある程度になると、昼ごはんを大して悩まなくて良くなる。今の僕はすき家の牛丼を食べても、まあ、心が痛まない程度には給料がもらえるようになった。
それでも、だいたいは味噌汁とおにぎりや、袋ラーメンをどんぶりに熱湯注いで作っている。
ただ、今月は久々に酒代が七万円ばかりかかりそうな具合。
家計簿など付けてはいないから分からないが。
どんぶり勘定で七万円。
ちなみに、家賃は三万八千円でインターネット込みである。

どうすれば七万円になるかと言えば二日に一回五千円飲めば三十万の4分の1で七万円ほどになる。

まあ、年に一度くらいはそんな月があるのも楽しかろう。
いや、楽しくないからアルコールの海を泳いでいるのだが。
楽しいときには、もう少しスマートにいい酒を楽しんでいる。

人間中毒なのである。

世間がまるごと人間中毒に溺れつつあるが、御多分に洩れず自分も人間中毒に脅かされている。
寂しいから飲みに出かけるのだ。

人間は人間中毒になる要素みたいなものは誰でも持っている。
寂しいと感じる生き物なのだ。
それでも、かつては中毒になる程人間に会うことはなかった。

インターネット、スマートフォンの普及が人間を人間中毒になるほどに、過剰なまでに人間を人間の前に吊るすし、自ら吊るされる。
阿片のようなものだ。

人間は人間とつながっていると楽しい、安心する。

しかし、現実にはどんな生き物には孤独がある。
孤独が全てではない。
ただ、全ての生物の命の時間の中に孤独の期間というのは少なからず存在する。

それは、生物が物体としての形を持っているからであり、形あれば壊れるし、日々の中に都合や用事みたいなものも存在する。
そういう中で孤独を享受せねばならない期間みたいなものが存在するのだ。

夏休みがずっと続けば良いのに。
そんな子供の幻想というのは、いつまでも都合も用事もない世界への憧憬を示している。

ねむい。
そんなこんな。
posted by ちょろり at 02:09| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月17日

コンピュータウイルスとアルコールの飽和に関して。

断酒をしたらコンピュータウイルスにやられて、パソコンぴこんぴこん。
やっつけたら、断酒が破れる。

人間は人間が欲しい。
人間多すぎると人間中毒になってしまう。
それは会話や表現などの視床下部あたりの脳みそを破壊してしまった。

僕が赤だと思ってる色は、もしかすると赤じゃないかもしれない。
そういう問題を誰に話そう。
誰が理解できるんだろう。

答えとしては誰も理解は出来ない。
和服の女の子が用水路の脇を歩く問題と近似している。

何をしていれば、僕は人間としての誇りや自尊心、果たしてそんな学芸会の小道具のような便利なものはこの世に存在しているのだろうか。

金を使うことに満足を覚える。
労働をすることに、じゃない。
加速した世界では、働くことではない。
消費すること。
何も手に入れない消費であるほど良い。
空虚な支払いこそが人間を満足させてくれる。
その人が満足すればそれで良いじゃないか。
満足や良い悪いなど、当人以外の誰にも決定権はないじゃないか。

電車が全てを蹴散らして走っている。
人間がいっぱいに乗った。
200パーセントの向こうの電車が。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 23:11| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月15日

川沿いの細い道の四季。

川沿いの道を着物の女の子が歩く。
僕はずっとその後ろをついて歩いている。
どんなに急いでも早く歩けない。いつまでも女の子には辿り着けない。
女の子の前から見た顔を知るはずもないが、不思議とよく分かる。とても整っているが、あまり一般的に見て男からウケの良い顔ではない。
それでも、その顔は一つの理想系のようなものを呈している。

随分と良い季節だ。
もうすぐ落ち葉も増え過ぎてしまうかもしれない。
薄い長袖が心地良い。
春のようなドギツイにおいはしない。
用水路のわきは手入れの届いてない木が、市街地のアスファルト舗装をのがれるように集まって、無造作に伸びている。
用水路のくせに随分と深い。
細い道に面した家たちは、みんな揃って何か重大な事を忘れてしまっている。
もしかすると川側じゃない、普通の道路の方に面している側では普通の家だったりアパートなのかもしれない。

追いつきたいと思うのだけれど、追いつかないのが程良いようにも感じる。
女の子は別に早足ということはない。しかし、遅くもない。

女の子も僕もあまり世界に必要とはされていない。
だから、こんな用水路のわきの誰にも忘れ去られたような道を歩き続けている。
昔、よく話したような気がする。
そんなことあるわけもないのに。
もしかすると、その事を話せば、女の子も、ああ、君かと言ってくれて、久しい偶然の再会を喜びあえるような気もする。
しかし、女の子は前を歩いていて僕はどうしても追いつけない。

女の子は歩くのに飽きて川から離れる。
或いは女の子は世界に必要とされて川沿いの細い道を離れることにしたのかもしれない。
僕はまた女の子が川沿いの道に戻ってくるような気がして、いつまでも歩く。
女の子が戻ってきても駄目だと思う。
この細い道を歩いている限りは、誰が僕にどんな風に声を掛けたとしても、僕も相手もただ虚ろな目をしているばかり。互いの虚ろな目に嫌気が差すだけだ。だから、この細い道では誰とも会わない、話さない。

女の子が後ろに歩いてくるのを感じる。
もうすっかり冬になってしまっている。女の子はドテラを着ている。
戻って来たことを歓迎するような言葉を考えてみる。
振り返って何か声を掛けてみようと。
でも、振り返って、そこに誰もいなかったらどうすれば良いのか。

いや、別に誰もいなくたって怖いことなどない。
誰もいなくて当然の道なのだ。
それにしたって随分と寒い。
僕は足を止められない振り向くことができない。
歩くのをゆっくりしてみようとしたが、どうしても歩調は緩まらない。

よく夢を見る。空気を蹴って空を歩く。空気を踏む時の感覚というのは、独特だ。でも、歩けている間にはあまり難しいとは感じない。むしろ、あまり高いところに行きすぎては危ないと思って。ある程度のところまで行くと地面に戻ってくる。
それを繰り返していると、不意に空を歩く必要性みたいなものが出てくる。欲なのかもしれない。高い空を歩きたいと。
そうなると、途端に全く空気を踏めなくなってしまう。さっきまでどうやって空気を踏んでいたのか、さっきのようにしても全く空気は僕の足をすり抜けてしまう。
それどころか、地面まで抜けて急速な落下に入っていく。
代わりに奥歯に砂を噛むような嫌な感じがする。

それとほぼ同じように僕は歩調を緩められない。
後ろの女の子の表情を覗くことはできない。

そう思っていたら急に足が止まってしまう。どうにも立っていられなくなってその場に倒れる。真っ暗になる。寒い。女の子がもうすぐ横を通り過ぎるかもしれない。淡い期待を抱く。そして、実際に女の子は僕の横をとおりすぎたらしい。でも、真っ暗なので分かりはしないのだ。

目が覚めて春が来ていた。
用水路の脇の細い道は全体に光を湛えた草が伸び始めている。暖かい。そして、においがある。何かのにおいだ。良いにおいというわけではない。ただ、そこには何かのにおいがある。もちろん、くさくはない。何かが存在している。
ぼんやりした目で着物の女の子が手を差し出してくれてそれに捕まる自分が分かる。
立ち上がると女の子はいない。幻想だった。
しかし、それが幻想だったことに不思議と僕はがっかりしない。
ゆっくりと歩き始める。
別段、何か目的が出来たわけじゃない。
川沿いの道は相変わらず世界の誰にも必要とはされていない。
しかし、不思議と歩くのが楽しいように思える。
着物の女の子は見えない。
でも、ずっと歩いていく先に女の子がいるような気がする。

楽しい気持ちで歩いていると夏がやってきていて、汗をよくかいた。すごくくたびれた。水が飲みたい。しかし、川は深い。水に手を伸ばすには深すぎる。
ほんの少しの木陰がすごく嬉しい。ありがたい。
僕は休みを取りながら歩く。ずっと休んでいたいような気持ちになる。実際、そういう気持ちに素直に目を閉じると、良い眠りを得ることが出来た。時々、蚊にも噛まれた。かゆかった。
歩けば暑くしんどかった。
それでも、いくらか休むと僕はまた歩いた。
妙な気持ちよさ、清々しさのようなものがあった。
着物の女の子はこの季節にはいない。
僕もほとんど着物の女の子のことを考えなかった。
この季節には、歩くこと自体を考えた。ただ、純粋に歩くということについて。
時々、女の子のことを考えた。
きっと今なら会えば昔のことをオープンに、お互いに素直に、それも一切の重たさを含まないように語り合えるような気がした。
夏が終わる前に海までたどり着けたら良いのになと僕は思って歩く。
いや、きっともうじき秋になるだろう。
海にはたどり着かない。
でも、全く問題ない。
ただ、純然とした歩くというのが凄く良い。

また、秋がやってくる。
何度も繰り返したように僕は秋の中にいる。前の秋のことを思い出せない。どう頑張っても分からない。秋のことを思い出せない。
避けようのない流れのことを僕は覚えていない。
また、同じように秋を過ごしていく。
もしかすると、次の季節か、あるいはこの季節のうちに僕はこの川沿いの細い道を離れるのかもしれない。
もしかすると、この季節はもちろん、次も、またその次も、ずっと僕はこの細い道、世界の誰にも必要とされない道を歩くのかもしれない。
着物の女の子はどうだろう。
ちょっと分からない。
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2015年10月14日

春画とシェルパの日。

シェルパは世界最強の山の民族である。
ネパールの山奥深く、エベレストなんかの周りに元々住み、現在はトレッキング周りの観光業を主な生業にしている。
向こうは雨季の関係で夏場には外国に出て稼ぐ。その稼ぎ場の一つとして日本の北アルプスの山小屋がある。

5年ほど前に山で働いていた。
その頃に仲良くしていたのが、アン・チリンとペンバという二人のシェルパだった。
それから、日本人の女性が一人。
ペンバ氏と日本人女性は今度結婚する。
明日、成田からカトゥマンドゥへのフライトで飛ぶ。今日は東京観光をして、その夕方に自分も呼んでもらえた。

昼前に起きて、雑司が谷だかで開催されていた春画展を眺めに。
永青文庫なるかつての貴族だか大名だかの私設の建物は明治特有の日本と西洋建築のハイブリッドの美しい建物の中で展覧会はあった。
春画とは、浮世絵のような雰囲気のものだが、描かれている内容が平たく言うと当時のポルノなのだ。

春画展はヨーロッパの方で先に開催された。
浮世絵などと同等、或いはそれ以上に、というのも日本ほど性を形にして追求する文化とは当時の世界には珍しいことと、そういったものを高度な技術での肉筆画、版画で表現したものは少なく、向こうの芸術家からは非常に高い評価を得ていた。
事実、春画展に出品された春画の多くがヨーロッパに保管された作品である。

しかし、いざ日本で展覧会をするとなると、ほとんどの美術館が自分たちがすべきものではないと断った。
そういう中で永青文庫が手を挙げて今回の春画展が開催された。

永青文庫は近くに川が流れている。
自然の川だか、堀なんだか、用水路なんだか分からないようなコンクリに固められた川だが都心の中に美しい緑地を形成するには十分な水量がある。
高田馬場から早稲田大学方面へと歩き、大通りの裏を流れる川沿いの細い遊歩道やうらぶれたような路地をぶらぶらと抜けると、坂道が現れる。ちょうど早稲田大学の手前辺りだ。
建物の隣に公園がある。日本庭園式の美しい散歩道がくっついている。
早稲田大学の学生さんは近くにそんな場所があって幸福だな、などと思いつつ。
春画を眺める。

着物を着た綺麗な女性がいて、ぼんやりと一緒に春画を眺める。一緒にと言っても別段話をするわけでもない。女性はよく目立ったし、ちょうど絵を眺めるペースが同じだった。

春画で性的な自己処理が出来るのかと不思議に思っていたが、眺めてみると、なるほど、これは二次的、三次的に脳内変換をかけてから、自己処理をするツールなのだなと。

具体的な使い方としては、ひとつに現代で言うラブホテルで流れるAVだ。
要は愛する男女なり、際どい関係なる男女が、性的な営みに入るきっかけとして二人で眺めるためのものだったという側面。
ケタケタ笑いながら他人のセックスを眺め、その内に自然と性行為に入りやすくなる。

自慰のための使い方としては、今のポルノ写真ほどの威力はないにせよ、ポルノ漫画程度の力は有していたのかもしれない。
現実との近似という意味では勿論写真ほどには上手くいかない。
やはり絵は絵だ。
しかし、絵は都合の良い妄想を伸ばすという意味では無限大だ。
写実的に描かれる側面と、現実の人間の関節としては考えられないが性的に人々が見たいと思うような部分が大きく見えるようなポージング。
初期のものには文字はほとんどないが、ストーリーらしきものがある絵の連作、この頃は肉筆画で裕福な人間がオーダーして描かせたようだが、時代が進み版画技術の習得により、多くの読者を相手するようになってから、文が添えられる作品が増える。
要はオーダーされた頃には文字によるストーリーを書かずとも、鑑賞者、つまり注文主はストーリーを分かっていたのに対し、大衆に向けるに従って、文章によるストーリーの提示が必要になっていったのだろう。

残念ながら絵としての展覧会なので、ストーリー解釈はない。展示されている見開きの1ページに添えられた文にしても、草書体だか、昔の日本語は文字はほぼ同じはずなのに、現代の我々には読解が難しい文字になっているので、分からない。
当時の人々がどういったストーリーにエロスを感じ、興奮したのか、そこらは分からない。
まあ、確かにその辺まで説明すると、展覧会の入り口と出口を男女別にしないと会場周りで性的に興奮した若者か、或いは老人なりがコトをおっ始めてしまう。いや、むしろ入り口、出口が別になっている方が危険かもしれない。

実際、通常の美術作品の展覧会とは違うような空気が出口の頃にはいくらかあった。
着物を着た美しい女性もどこか思うところがあったのか。そこまでは分からないにせよ。
やはり、いかに芸術作品として捉えても春画の骨はポルノ作品で、人間をそんな気分にさせる。
西洋のヌードデッサンなんかは元々に芸術作品だったが。春画は芸術作品的な要素はあるし、実際、凄まじいまでに細かい技法を用いた作品もあれど、やはりポルノ作品なのだ。

それでも、芸術のベクトルの中には性的な要素というのは少からず存在していて、それは人間の根源的、普遍的な求めるところでもあり、人間のニーズと共に生まれた絵画という点で非常に見応えのある作品が多かった。

最近買った村上春樹氏のエッセイでは、小説家にとって大事なものというのは、賞や権威ではなく、一つに自分にとって書き切れたという手応えと、もう一つに作品を理解して読んでくれる良き読者が世界に少数なりとも存在してくれているという手応え、なのだそうだが。
確かにそういう意味で考えれば春画も風景画も絵としての価値は遜色ないのかもしれない。

ポストカードを買い、昔からの友人に一文添えて送った。彼女はもう結婚こそしたが、年に数回ばかり絵葉書をくれる。彼女にとっても、僕にとっても今の時代にさらりと文をしたためて送れる人間というのは他にいない。
そういうのは愛の一種と言うんだか、友情の延長と言うんだか、突き詰めればよく分からないが。何にせよ、葉書に書いた限られた文字数の文は相手のもとに数日後に届く。

デジタルで送る弊害は、返事が速すぎる。
相手の返事は勿論欲しいが、そんなに速く結論を得たいような問題ではなく、ゆるりと時間の経過と共に、ああ、そういえばこちらは最近はこんな具合なのだ、そういう近況報告をしたい時には手紙や葉書は非常に有効だ。特に葉書は文字数が限られるので、とてもスリムに無駄なものをそぎ落として何事かを相手に伝えるのにとても良い。

良い絵葉書が散歩の中で見付かれば一文添える。
良い絵葉書にぶつかる散歩がなければ、机の脇の便箋に気が向いた時にでも何か書き付けて送る。

夕方にシェルパたちに会い、延々とお酒をたしなみ、せっかくだから明朝まで我々の宿に泊まっていけというので、ベッドを一つ借りて横になった。久々に長くゆっくり、たくさんの酒を飲んだ。普段の一人きりで飲む酒と違う。
そこには人間的暖かさのようなものがあった。
気付くと眠りに落ちていて、頭の痛さに目を覚まして、日記を書く。

ラムさんは一番若く、僕よりもいくつか若いが、料理が上手い。
目覚めたら、他のシェルパは眠っている中、ラムさんが一人でビールをやっていた。
若さゆえの体力の余りか、或いは明朝のフライトの緊張か。

ラムさん、朝まで起きていると言っていたが、すっかり横になって眠っている。
カトゥマンドゥまではマレーシアで乗り換えの十二時間少しだそうで。
近いようで遠いネパール、エベレスト。

ぼんやりと昨今の生活と合わせて考えていると、そろそろ今の生活に区切りを付けて、僕も出掛けるべき時期が来ているような気もする。
仕事も3年してみた。
普通の人と同じように空気を吸い、飯を食ってみた。
結婚には失敗もした。
連休がロクになく、旅にはほぼ全くと言って良いほど出掛けるチャンスはない。小旅行でさえ日帰りが精一杯、ごくまれに一泊二日の旅行に自転車で出掛ける。

また、山に戻って、半年を山で稼ぎ、半年を自由に過ごす。そんな生活を考える。
それは現代の日本では非常に外れたヘンテコな暮らしかもしれないが、世界的に見れば何ということはない。

人間は所有物で生きるのではない。自身の存在ひとつを背負って生きている。所有物とは、単に自身の存在を補佐するために存在している。
所有物がなくなれば、生きてはいけないことは確かに事実だが。
自分で持ち運べるだけの所有物で生きていくというのは一つの美しさのようなものがある。

多くを稼ぎ多くを消耗するのは、あまり美しくないように思う。
もちろん、無駄だって人間には必要なものだ。
あるいは余剰、保険。
しかし、どの程度の余剰と保険があれば、僕らは安心して生きていけるのかと考えれば。一世代前よりも収入、技術、貯蓄も増えた現代の若者は将来、未来に不安ばかり抱えて、一心に貯蓄、安定を目指して、スマートフォンの料金をせっせと払い続けている。

シェルパたちのようにとまで言えば極端かもしれないし、シェルパたちの生活にも資本主義は根深く侵入しつつあるけれど。

世界の人々の思念、思考の集合体と、個人の人間の思想にズレが生じることを細かに一つ一つ恐れていては、結局、マイノリティになったときに、マジョリティのために身を粉にして犠牲にならざるを得ない。

ネパールから出稼ぎに来る山のプロフェッショナルであるシェルパたちの日当は、日本の大学生が夏休みで山にアルバイトに来て得る金額よりも遥かに少ない。飛行機代さえ自腹を切ってやってくる。
それでも、母国でぼんやり仕事もせずに金を消費して過ごしているよりは、いくらか日本の山で働いて食費を出してもらい、いくらかの小遣い銭程度のものを本国に持ち帰れるというのは良いことらしい。

何だかヘンテコな話だ。
生まれたところや皮膚や目の色、話せる言語、文化なんかで人間が金額という分かりやすい形で判断される。
そういうのはヘンテコな話だと僕は思う。

旅への準備を、まあ、大したことはしないにせよ、そう、金は山で調達するような甘い見通しで良いにせよ、家具やら何やらの始末を筆頭に、まあ、のんびり始めて行くべきなのかもしれない。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 04:09| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月13日

サイキック研究会。

今日はサイキック研究会に出席させてもらった。
宇宙人にハマっている小説家のまゆみ先生が招いてくれたのだ。
研究会とは僕が勝手にそう呼んでるだけで、サイキッカーが数人集まって飲む会だそうで。

行ってみると、小さい頃、テレビで何回か見たことのあるサイキッカー秋山先生もいらっしゃった。
生のスプーン曲げも見せてくれて。
なるほど、サイキック。

でも、改めて世界の広さを痛感した。
宇宙人なんていてもいなくても、超能力なんてあってもなくても、まあ、ぶっちゃけどっちでも良いのだが。
何より大事なのは、そういうものもやはり何かしら存在する可能性って話なんだろう。

別に結婚して頭が狂ったとかそういうわけじゃなく。いや、そういう側面もあるのかもしれないけれど。

やはり世界というのは広いし、人間ってのは実に果てしなく深い。

テレビで華々しくスプーン曲げをしているイメージだが、現実は超能力ブームもさっくり去って、ほんじゃ、どうやって飯食ってるのかといえば、実はコンサルとか何とからしい。
社長職なんかで一番大事なのはオーラだ。心霊的な意味とかじゃなく、交渉事で物を言うのはオーラなのだ。力。パワー。ただ、その人間が座っただけで周りの空気を呑むような。
そういうのって態度とかの外見的なものもあれど、何より内から滲み出るような無言のオーラ。
つまりサイキック的なエネルギー、マインドのコントロールというのは、平凡なサラリーマンには縁のない話だけど、社長職なんかの人には必要不可欠なものなのだ。

人間の精神。
これはなかなか物質的なもの、何を着るだの、筋肉を付けるだの、その他あれやこれやどうこうのものではないのだ。
根本的にエネルギーの問題なのだ。

興味深いのは、筋肉の先生、まさや先生と同じようなことを話すのだ。
良いイメージを作れる事、そして、そのイメージの世界の中に住むという事。
これは筋肉、スポーツトレーニングでは必須のことだ。
正しいトレーニング理論と明確なるイメージ。
いかに強いイメージを強く持てるか。
筋肉はそれに応じて形成される。

スプーン曲げというのは実に似ている。
あれは単にイメージの力なのだそうだ。
まず熱を均等にするのだそうな。体熱と金属の温度を合わせてやる。スプーンをこするのはそういう目的もあるそうだ。
そして、シンクロしたらあとはスプーンとは曲がるものなのだそうな。

種も仕掛けもないのだ。

気の流れってのはそういうことだそうで。

いやはや。よく分からないが、世界はいくらでも広い。
東京はすごいというのはこういうことか。
ふらりと出掛けたサイキック研究会でスプーンが曲がるのだ。

それにしても、やはりプロってのは怖い。
秋山先生はもちろん、まゆみ先生は小説のプロ、その他の方も漫画家さんや、ブレイクダンスの凄い哲学屋の霊能力者だったり。
一つ抜き出たものを持っていて、それで地面の上に立っている。
やはりオーラというか何か凄い空気を持っている。

プロってのは怖い。
すごい。

ま、そんなこんな。
posted by ちょろり at 01:33| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月10日

八時間耐久レース。

本日はお客様を率いて八時間耐久レースに出掛けた。
八時間、リレー方式で自転車を走って何周走れるかを競う。
まあ、別に競うというより単にサーキットをみんなで走って休憩時間にだらだらして遊ぶというイベントだ。
朝の3時に家を出て、夜の10時に帰宅。
なかなかハードなスケジュール。

みんな喜んでくれていたので良かった。
僕もサーキットなので、わーいと叫びながら自由勝手走っていた。

自転車だってサーキットで集団走行すれば、簡単に時速40kmを越える。びゅーんと走れる。バンクをびゅーんと走ればペダルが地面に当たるすれすれまで身体を倒しこむ。

ぐるぐる走り続けるので、いまいち何を目指して走れば良いか分かりにくかったけれど。
お客さんが喜ぶように派手な走り方をした。
無駄に一人で先頭を走り続けてみたり。
やっぱり、一緒に来てる人、チームの人が速いと嬉しいものだ。
楽しんでくれていたので実に良かった。

そういうのが売り上げにつながるかと言えば。少し微妙なところはある。
でも、長い目で考えると、自転車が好きな人が増えるのは自転車屋さんにとって絶対に良いことだ。

また、来年も行こう。
新しいお客さんも連れて。
ふむ。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 22:46| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月09日

UFOを眺める。

明日はお客さんを連れてサーキットのレースに行くので早く眠らないとまずいのだが、当然、眠れない。三時間眠れば、まあ、良かろう。

UFOを眺めてみる。
UFOなんだか星なんだか分かりゃしない。
瞬いていて、たまにふらふら揺れる。そんなに派手には揺れないので、実のところ僕の頭が揺れてるんだか、UFOが揺れてるんだか。
なので、もしかすると星なのかもしれないのだが。逆にもしかするとUFOかもしれない。
でも、僕はあまり疑わずに、ああ、多分UFOだなと思って光を眺める。

スマホの星カメラなんて起動してみれば、何座の何たらっていう星だよなんて教えてくれるかもしれない。
あるいは、UFOカメラなんて開発して、何たら星の何たらっていうUFOだよ、って出てきても悪くない。

ちなみに、星の瞬きとUFOの瞬き問題なんてのもあるのだが。
星の瞬きというのは、大気の移動に依存するそうな。
要は、大気ってのもレンズや水みたいに光を曲げる、屈折させる。これは温度なんかが影響しているらしく。要は冷たい空気と暖かい空気が風に乗ってぶつかったりなんやらすると、ゆらゆらと光の曲がり方が変化して、瞬きになるわけだ。

星の方はそんな要因で瞬いているそうな。

UFOの方はどうかと言うと、大きさ的に考えれば地球に接近していると考えるのが自然であり、大気圏の上なのか下なのかとかも考える方が良い。
人工衛星は大気圏の上を飛んでいるので、星と同じ原理で瞬く。
そうなると、大気圏の上にいるUFOも同じ原理で瞬く。
人工衛星なのかUFOなのかは、まあ、調べれば分かるのかもしれないが、調べたところで、その真偽なんかは、実のところ、アメリカ宇宙局に問い合わせるわけにもいかないし、向こうも国防上極秘の軍事衛星なんかもあるわけなので分かりはしない。
アメリカ宇宙局でさえ、ロシア宇宙局に聞いてみるわけにもいかない。

実際、人工衛星同士の衝突事故というのは存在する。有名なのは2009年にぶつかっている。
僕ら一般人からすると、人工衛星なんてのは決まった軌道を走っているからぶつかるなんて無い気がするのだが。衝突は少ないにせよ、ぶつかりそうなほどギリギリ近くを通過するというのは、割と毎日くらい起きるらしい。

我々素人が思っている以上に、どこにどこの国のどの会社の人工衛星が飛んでるか把握するというのは難しいことらしい。

そう考えると、そういう人工衛星の中にUFOが何機か混ざっていても全く変なことなどないわけだ。
人工衛星に限らず星のように擬態するというのも、まあ、出来なくもないのだろう。

そう。
UFOじゃないかもしれないし、UFOかもしれない。
普通の星だって、実はUFOかもしれない。
そう考えて夜空を眺めるのも悪くない。

宇宙人に関して面白いことといえば。
なぜか大多数の人が宇宙人など存在しないということを信じている。
なぜか宇宙人が存在するというのを信じるのは割と少数なのだ。
まあ、どっちを信じようと自由なのだが。
ポイントは、大多数の人が何の理由も根拠もなくとも存在してないと信じているということだ。

神様の問題なんかに近いところがある。
しかし、神様については、何かしらの形で存在すると信じている人も、存在しないと信じている人も同じくらいだ。

実際には神様よりは宇宙人の存在なんかの方が何というか現実味みたいなものがある。
神様はどこから来たんだか、誰なんだか、今もって実に曖昧だが、宇宙人とは地球外から来て、地球の近く、あるいは地球上にすでにいるという仮説は割と曖昧さがない。
神様なんかよりは割と信じやすいような気がする。

でも、現実では、宇宙人は存在しないと信じている人の方が多い。
この背景には何があるのやら。

ねむい。

まあ、たまにはぼんやりとUFOを眺めてみるのも良いものです。
星だかUFOだか、まあ、どっちでも良いにしたって。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 23:33| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月08日

宇宙人のこと。

とうとうUFOを目撃してしまった。
先生とお酒を飲んでいたところ、UFOが来てると言うので見たところ。とうとう目撃してしまう。

この宇宙人問題については長いし深い。

僕の考えでは、宗教の時代は終わり、いや、終わってはいないけれど、一つの区切りみたいなものを持って人々の心から離れ、代わりにUFOが来ている。

神様か宇宙人か。

みんなはどう思うだろうか。

神様も宇宙人も断固として信じません。
まあ、それも良かろう。
そういう世界で生きるも悪くない。

でも、生きてると神様というか、何か得体の知れない巨大なものというのを感じるときが度々出て来る。

神様の方が今の世界では分かりやすい。
でも、時代としては宇宙人に移り行きつつある。
超常現象を宇宙人として片付けるためというのもあろう。

しかし、神様は論破されてしまいつつある。
それは結局のところ、人間の共同幻想なのだと。
ある一定のコミュニティにとって信じたほうが人間関係がスムーズに運ぶための偶像だと。

フラフラ揺れながら光る星なんだか。
UFOなんだか。
分かりゃしないさ。

UFOもまた共同幻想なのかもしれない。

宇宙に関して語る人々が口を揃えて言うのが、クリエイティブな人間に近寄るということだ。
せんせいにしても、まさやさんにしても。
二人の言うところのUFOとは異質だ。真逆だ。
でも、クリエイティブという点では共通している。

とりあえず、月曜にサイキックの会に参加してみることに。
高名なる先生たちも出席するそうだ。

宇宙に人々は。
どうなんだろう。

ま、そんなこんな。
posted by ちょろり at 04:02| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月07日

暗度の崩壊。

なんで僕はこんなにお酒を飲むんだろう。
別に悪いことじゃないけどなんでこんなにお酒を飲むんだろう。

2晩、秋刀魚を食べた。
日本酒はひどく残る。

レースの教訓と人間と宇宙人。

そんなところにぐるぐる回っている。

人間か。
危険だ。
酸素と同じくらいに人間は危険だ。

価値観の崩壊。
もはやどこがどう崩壊しているものか。
文字に残すことが見付からない。

人間と価値観の崩壊をもたらしたのはなんだろう。
きっかけは正直に認めればやはり結婚の失敗だ。
全てが灰色で明度を持たない。
暗度の濃淡ばかりが溢れている。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 23:22| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする