2015年11月29日

コンビニのおにぎり泥棒。

艦これ(絵にかいたような暇人、廃人のためのゲーム)しつつ、小説を書き進めている。
割と悪くない時間である。


先日、渡り鳥の話なんかしたが、どうも生き物というのは時間と戦っているらしい。
渡り鳥たちは餌のため、気候のためじゃなく、少々長すぎる時間を上手くつぶすために渡り鳥をしている。
もちろん、当人たちにはそんなネガティブな考えなどない。
ただ、生まれついた習性にしたがって渡り鳥している。

雀は渡り鳥として生まれなかったので、渡らない。
しかし、雀も長生きするようになれば、渡り出すのかもしれない。

人間がゲームをするのも生まれついての習性なのかもしれない。
電車の中で他人のケータイを盗み見するようにしているのだが。
いや、別に内容までは見ない。
だいたいに何をしてるのかな、っていう程度で見るのだ。
人気があるのはパズルゲーム。
それからツイッターなどのソーシャルなんたら。
別に何をするでもなくホーム画面を眺めている人も少なくない。
美少女ゲームは電車では人気が低い。

或いはテレビを見るのも人間は好きだ。

まさや先生が突然に小説を書きたいなどと言い始めた。
小説を書くなんて、髪を切ったり、ボクシングしたり、萌え絵を描くよりはるかに簡単な気がする。
別に文なんざザラザラッと書けば、文なのだ。
そして、どんな文でも、これは小説だと主張してしまえば一応は小説である。
ちょろり草だって、縦書きにして表紙を付けて短編集と言い張ればそれはそれだ。
エッセイだか小説だかなんて、実際はさほど厳密な区分はない。

小説を書くなんざ簡単だ。
そう言ってしまえばそうなのだが。
しかし、小説を書ける人っていうのは、不思議と少ない。

これは、何か立派なものを書いてやろうっていう気持ちがあるからなのだ。
別に何だって良いのだ。
何か適当に書いて、完結しとけば小説になる。

以前、お客さんに、
「会社でブログを書く担当になったので文章の書き方を教えて欲しい」
なんて頼まれたことがある。

ちょろり草はフリーダムきわまりないが、店のブログについては、結構計算高く売れる文章をつづっている。

一つのポイントに毎日書く。
毎日書いていれば、中毒者が勝手に現れる。
これが一番のポイントだ。

毎日書こうと思うと、立派なことを書いてはいけない。
立派なことを書こうとすると、時間もかかるし、頭も使う。
それに、立派な内容なんてのは読む方も疲れる。

商売のブログでは文章量を絞るというのが大事だ。
テーマは一回に一つだけ。
一行を長くしない。
一つのブロックは3から5行にする。
ブロックとブロックの間には写真を入れる。
2から5枚程度の写真を使うと良い。

それから、頭とおしりに定番フレーズを入れる。
どこかの日記の「まあ、そんなこんな」みたいな具合に。

無理に新しいことを書く必要はない。
以前、書いた気がするな、みたいな内容を書くのも大事だ。
書く方は毎日、すべての文を読んでいるが、読者は三日に一回読んでくれれば、まあ、良い方なのだ。

以上のことを守っていれば、まあ、それなりにビジネスのブログとしては成立する。

昔はそうではなかった。
ホームページはパソコンで見るものだった。

今はスマホが主流になりつつある。

そうなると、見るのは写真と、それに添えられた短い文章なのだ。

そんな具合で読者に何かしてもらいたいという結果を求めるなら、メソッドもある。
ただ、小説っていうのは、案外そういうのがない。
もちろん、世界に何かを伝えたい。
それはむしろ自分の中で湧き上がるようなもので、他人に何かしてもらいたい、結果を狙いたいというのとは少し違う。

とりあえず、何か書いてみれば、何かが書ける。
それ以上、何かありそうだけれど、実際、たぶん、何もない。
たぶん。

SALEで忙しい。
SALEが終わったら、退社することを会社に伝える予定。
ああ、まったく。
会社を辞めることを考えると、乞食になる自分を想像してしまう。
実際には、会社を辞めたって乞食になんざならない。

ところで、飢え死にについて考えたんだが。
コンビニで延々とおにぎりを盗んでいれば、おにぎりが食べられるか、或いは塀の向こうで何か食べさせてもらえるかする。
コンビニでおにぎりを盗む気力さえあれば日本人っていうのは、何だかんだ言って食っていける。
えらく違和感みたいなものを感じた。

でも、海外の場合、どうなんだろう。
スーパーでおにぎりを盗み続けていたら生きていけないんだろうか。
貧困地域は無理だろうが。

先進国の場合、コンビニでおにぎりを盗む気力さえあれば、人間は生きていけるんだろうか。

変な話だ。

ま、そんなこんな。
posted by ちょろり at 02:39| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月28日

no-title

まさや先生から教えてもらった日本のオタクたちがハマっているというゲーム、艦隊コレクションなどを始めてみた。
ゲームでもして煮詰まった頭を少し休ませようかと。
あと、倹約のために、飲みに出かけるのを我慢するためゲームでも。
案外楽しい。
軍艦の女の子を集めて戦う。
女の子の絵じゃなくて、旧大日本帝国海軍の実際の船の写真とかの方が面白い気はするが、資本主義の上では女の子の絵の方が良いらしい。
女の子なら女の子で恋愛ゲームみたいなもの、軍艦なら軍艦で戦争ゲームみたいなもの。
くっつかない方が面白い気はするが。

時間がよく潰れてくれて、助かっている。
いや、やることはあるんだけれど。
どうにも心がくたびれて折れて立てない日々の中では、頭をふやかして、ただ時間を潰す、それがありがたかったりする。
多分、夜9時頃のくだらないお笑い番組みたいなものだ。
別に誰も面白いなどと思っちゃいない。
面白いような気がして、時間がつぶせて眠る時間になっている。

まあ、面白いものよりも、金になるものの方が偉い世の中だ。

親から「何とか今の仕事を続けられないのか? せっかく慕ってくれるお客さんも出来ているのに」などと電話が来る。
全くね。
出来るなら僕もそうしていたい。
ゲームでもしながら、ぼんやり自転車を売って、休日にはふらふらサイクリングに出掛けて。

きっと、まあ、悪くない人生なのかもしれない。
ゲームの続きもはかどりそうだ。
だれか自転車が好きな素敵な女の子でも現れて、ちょっとした幸福な家庭でも営むのかもしれない。

でも、それで良いのだろうか。
大学を辞めて、チャリ屋でのんびり生きてます。
そりゃ、悪いってことはなかろうが。
本当に良いのだろうか。

かと言って、アフリカ大陸など自分には無理な気もする。
正直なところ。
難易度云々もあるが、単に金が貯められないような気がする。

正直、全部まとめて面倒臭いので死にたいと思うことが多い。
悲しいから死にたいというより、面倒なのだ。
もう、どう足掻いても何も上手くはいかない。
小説もダメだ。
浮浪者にでもなるより他ない。
戸籍も何もかも処分して。
でも、そんなことは不可能だ。
福田は死ぬまで福田だ。
福田は福田であることからは逃げられない。
ねずみにはなれない。

恐ろしく追跡してくる。

別に欲しくもないものを買って、毎月いくらだかの家賃と水、電気、ガス、それから酒、そして税金を納めて、そんなことの為に延々と働いている。百姓の手元に残る米はない。

まあ、一口に言えばくたびれてしまったのだ。
正月も盆もなく、代休もなければ、出勤手当もない。飲みに出掛けても空虚な酒ばかりだ。故郷に帰っても大した仕事もない。

そういう事実をアフリカという言葉が靄を外してしまった。
正直つらいことでもある。
ぼんやりと空を眺めて、知らないまま生きていれば幸せだったかもしれないことが、ふと目の前に立ちはだかってしまった。

そこから動くべきだと気付くが。
動くにも面倒なのだ。
もう、どうにもならない。
恥の上塗り。
何も上手くはいかない。
世界は良い方向には向かわない。
貧困の蟻地獄に足をすべらせてしまっている。
全部止めにして、長い眠りに行く方が良いんじゃないか。
それが一番即決じゃないか。

多分、実際、自殺するのが一番スマートな生き方かもしれない。
あまり逆転の芽はない。

眠い。
長い地下をトンネルは走っているだけだろう。

ま、そんなこんな。
posted by ちょろり at 01:14| Comment(3) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月27日

悪い夢。

昨夜、悪い夢を見る。

寝付きからして虫がいっぱいに視界に現れる。十字形で光る。蛍光色に光る。現れては消える。明滅している。虫なのだ。虫らしい特徴など一切ないが本能的にあれがみんな虫なんだと分かる。

その女の子は恐ろしい病気に罹っているので、隔離患者らしい。
トロッコが走っている世界。沼と長い手堀りのトンネル。空気は埃っぽい。沼地には緑が多い。トンネルはくだり。長いらしい。
女の子はまさに女の子だ。年齢は分からないが大人になれない。それまでに死ぬ。
女の子を見ると僕の頭の中は変な湿りを感じる。あまり良い心地の感覚ではない。

自分は女の子の保護官か或いは親族なのか。
或いは同じ病気を抱えた隔離患者なのか。
分かりはしないが、誰もが避ける女の子に不思議と平然と近付いている。

ポンコツと言うべき古い車があって、それを誰かにもらう。形はかっこいいのだが、エンジンがかからない。
女の子が私の車に乗るように言う。
それに乗って出掛ける。
女の子は僕のことをえらく気に入っているのか、くっついてくる。

例の手彫りのトンネルを歩こうとするが、線路がついていて、電車が来そうな気がする。でも、そのトンネルを越えてしまえば、我々には非常に都合が良いらしいのだ。
歩いて引き返すと、路面電車のような駅がある。

そこで列車を待つと、古い鈍行列車ばかりがやってくるのだが、どれも随分と行き先が遠い。少し金を出すと特急にも乗れるらしい。自分たちはどうも内陸の土地にいるらしいのだが、国の端の街の行き先の書いた列車ばかりだ。

どうも我々の行きたいところは次の駅で乗り換えて、その駅がまた随分地下深いところにある駅のようだが、そこで乗り換えて、二つ目の駅らしい。長い階段を上って地上に出ると、しなびた温泉地、坂とお堀としだれ柳の古い温泉街があるそうだ。

しかし、僕にはどの列車に乗れば、その乗り換え駅の方に迎えるか分からない。
なぜか、間違えて逆の方向に行く特急列車に乗ってしまうこと、特急に二人が乗れる金はない。

この夢がどうして怖い夢なのか、思い出しながら書いてみたが、分からない。
しかし、これまで見てきた夢の中でも指折りに恐ろしかった。
これから先生きていくのにさっぱり意味を感じられないとさえ本気で思った。
少し錯乱気味に、何度か目を覚ました。

一体何が怖かったのか?
女の子が怖かったのか?

一つにアルコールが抜ける途中の夢というものの特徴のような気もする。
脳が短時間ながらもアルコールに依存して、それが抜ける瞬間にごく短いながらも禁断症状のようなものを起こしたのかもしれない。
だから、得体の知れない恐怖が残ったのかもしれない。

実際、これに近い夢というのは昔から繰り返し見る。
しかし、こうも恐ろしいと感じたのは初めてだった。
何に恐れているのだろう。
あの夢の正体、意味するものとは何なのだろう。

ま、そんなこんな。
posted by ちょろり at 02:52| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月25日

暇とアル中の問題。

休日前の深酒で昼頃に目を覚ます。

洗濯して、履歴書を山に送ってから、自転車をこぐのもどこか憂鬱で千円カットに出掛ける。夕方から一杯やりたいと昼からやってるカフェバーに出掛けたがサボり。まあ、よくあることだ。
仕方ないので屋台屋でハッピーアワーの半額の酒をたしなんだら非常に眠たくなったので7時に眠り、10時に起きたところに木村君が飲みにやってきて、日をまたいだところで解散。

金がないので家でウォッカをしばらくやってから飲みに出掛けるのが最近のやり方。少々病的ではある。それでも、このやり方なら酒代は半額以下になる。

昨夜はアル中のマスターの店が閉店するという話題があった。
幻覚幻聴があるそうで、いよいよ強盗が入った幻覚から警察を呼んでしまったらしい。
アルコールでそんなことになるのか聞くと、まあ、常人では辿り着けない域だそうだ。才能が必要、とのことだ。
超絶アル中とでもいうのか。

超絶アル中への道とは。
まず、迎え酒である。
迎え酒をする人は可能性がある。
進行すると、仕事のある日でも出勤前に一杯やるようになる。
さらに進行すると仕事中でも隠れて一杯やるようになる。
起きている間は延々とアルコールが必要な体になってくる。連続飲酒状態である。
そんなわけで自由に仕事時間を調整できるような自営業者がなりやすい。隠れて一杯する必要がない。
連続飲酒に入ればアウトだ。
しかし、常人は先に体が壊れて倒れる。
しかし、才能ある人はそのまま続けられる。
そうしていくと、酒が抜けると幻聴幻覚が見えるようになる。
幻聴幻覚は倒れて病院に担ぎ込まれる人も治療の際に見えるらしいが、才能ある人はさらにそこから進んだ超絶アル中なので、これがなかなか凄まじいらしい。
そんなわけで、強盗が入ったと警察を呼んでしまうわけだ。

病院に入れないと今年は越えられない、間違いなく死んでしまうとみんな心配していたが、僕から見れば、みんな十分にアル中である。

人間、やることがなくなると、昼寝、読書、筋トレの三択になる。あとセックス。
山小屋なんてのはまさにそれだ。
みんな休憩時間は昼寝してるか、本を読んでいるか、走ったり筋トレしたりしている。もちろん、良い景色なので初めの頃は散歩してる人が多いが、同じ道なので飽きてそうなる。セックスはパートナーがいればする人もいる。

酒を飲むのはその一歩手前である。
酒を飲んでおけば何かしら話もするし、楽しい気もする。
段々、大人になってくると、友人で集まっても酒を飲むくらいしかやることがなくなってくる。
大人が集まってテレビゲームするわけにもいかない。
草野球なんかする人はいる。
あるいはチャリに乗ったり。
カメラだったり。
そういった趣味っていうのは酒の前あたりの段階だろう。

仕事っていうのはもう一つ前の段階で、やることがないからやるわけじゃないが、何かすべきことみたいな括りになるのだろうが。
研究なんかもこの括りに入るのだろう。

人間の行動ってのも妙ちくりんなものだ。

時間というものがあって、人間というのが存在すると、何かしらの行動というものが必要になる。
暇な時間という問題は実はかなり意味深な問題だ。
木のようにじっとしているわけにはいかない。

人間以外の動物に関して見てみると、だいたいの生き物が出産が終われば、そう長くない時間で死ぬ場合が多い。
人間の場合、生物として見れば18歳くらいで子供は産める。現実では20歳くらいとしても。まあ、30歳くらいまでには出産が終わっているというのが生物学的には妥当だろう。晩婚化が進んだ今でも40歳くらいには出産は終わってる場合が多い。出産しない人も今は多い。

(もちろん、出産しないといけないとかいう問題ではない。単に生き物として人間を眺めて考え事をして遊ぶというだけの視点で目安としての年齢の話だ。子供を産まないと生物として問題なんてことは無かろう)

さて、人間の寿命を見ると、昔でも50年くらいはある。この頃は二十代前半までには出産は終わらせるというのが多かったろう。
今だと70歳くらいまでは生きる。
これは哺乳類は子育てを必要とするタイプの生き物だからだ。
虫や魚は子育ては必要ない。多く産んで、その中で生き残った強いものだけ生きる。

それにしても、出産後30年以上というのは長過ぎる気がする。
現代であれば30歳くらいまでに結婚出産をしたいという人が多いようなので、寿命の70歳まで実に40年ある。
随分と長い。

暇の問題とは人間には切っても切れない問題なのだ。

はて、他の動物にはそういう生き物はいないのか。
亀やクジラがイメージしやすい。100年以上生きるものもいる。
ちなみに鶴は20〜30年程度だそうだ。鳥としては実に長寿だ。
なんたらクラゲに至っては不死である。一定まで成長すると、幼体に向けて逆行し始める。

彼らは暇じゃないのか。

亀なんかについては、動きが遅いので、ちょうどいい気もする。餌を捕るなり日向ぼっこするなり、適切な場所まで移動するだけでも結構な時間を使える。
でも、彼らも走れば実は結構速い。案外、彼らは本能的に時間調整しているのか。或いは速く動くと生きるのに支障が出る体の作りなのか。

クジラについては、実に長い距離を毎年旅している。旅こそ人生ではないが、暇はしなさそうに見える。
鶴もやはり渡り鳥なので、実に長い距離を旅する。やはり暇はしなさそうだ。

しかし、どうして旅をするのか。
寒い地域から暖かい地域に出て来るのは分かるが、どうして逆に寒い地域に向かうのか。
一説には日照時間的に有利になるからとも言われている。

キョクアジサシという鳥に至っては、北極で繁殖して南極で冬を越えるそうだ。
なぜ南極まで行く必要があるのか。謎である。暖かい地域では外敵となる生物も多いので、競争の緩い南極まで飛ぶというのも一つの仮説ではある。
ただ、地球を毎年縦断するリスク、エネルギーを考えると、どうも変な気もする。そんな凄いことが出来るように進化するより、外敵と戦う能力を進化させた方が生物として有利な気がする。
それに縦断するには、暖かい地域も通らねばならないので、やはり謎が謎を呼ぶ。

もしかすると、動物、動ける生き物として、暇というのは宿命的に抱える問題なのかもしれない。
そう考えると、旅する生き物っていうのは、その長寿命の暇な時間というのを対処するために旅をするのかもしれない。

或いは訓練かもしれない。
暖かい地域にずっといても良いのかもしれないが、体がなまってしまう。トレーニングすれば良いが、基本的にはトレーニングなんてのは一般的な動物はあまりしない。
肉食獣はするものもいる。ライオンなんかが群れの中で遊ぶのは狩りの練習でもあるそうだ。
ただ、狩られる側のトレーニングとなると、生半可ではいけない。逃げるためのトレーニング。そういうことのために渡り鳥は飛んでいるのかもしれない。
確かに、ずっと一定の場所にいると狙われやすい。

或いは暇を対処しないと、生き物っていうのは自殺してしまうのかもしれない。

いや、自殺するのは人間だけだ。
クジラの集団自殺、暗礁に乗り上げるのは、クジラ本人に確認を取っていないが、どうも事故の要素が強いらしい。ソナーの影響もあるようだが、もしかすると巨大な体に由来することなのかもしれない。
ネズミみたいな生き物、レミングの集団自殺についても、基本的にレミングは泳げる、移動のために海に飛び込むだけで、みんな死ぬわけじゃない。必要な移動のために飛び込んでいるだけだ。

不老不死のクラゲあたりが一番自殺を必要としそうなところだ。
大人になって子供に戻るを繰り返す。若返りする。
暇なことこの上ない。
でも、彼らはプランクトンだ。
特に何も考えないように最初から出来ているのかもしれない。というか、出来ることがあまり多くはないだろう。だから、何もしてなくても、むしろその方が自然で、ある意味、植物なんかに近いのかもしれない。

人間の自殺は確かに暇というのは要素が強い。
絶望で自殺する場合もあるが、意外と戦時中の日本では自殺率は低い。絶望や困難だらけの時代のはずなのに。
体を動かしていると自殺しにくいというのは一つあるそうだ。

まあ、人間以外の生き物は何だかんだで忙しくなるよう出来ているらしい。一見、暇そうに見えても、きちんと生きている時間と合うように行動ってのは設定されているらしい。

さて、人間。
人間はやはり時間が余る。
そして、時間が余ったら良いのになと考える生き物でもあるようだ。
それでも、その余った時間でお酒を飲んでアル中になったりもする。
読書、昼寝、筋トレ。

でも、余った時間を使って仕事、研究をしたりすることで、文明を強化し、種の保存という形につなげている。
ふむ、実にヘンテコないきものだ。

ところで、0.1.6.8.9って数字は数字としてよろしくない。
というのもひっくり返しても数字として読めてしまう。これは問題だ。紙が飛んで上下が分からなくなると、困ったことになる。
0〜9の10個の数字のうち半分の5個もそんな数字ってのは問題じゃなかろうか。

でも、まあ、なんら問題なくずっと使われてるのを見ると、まあ、大した問題ではないらしい。
割と結構な問題のような気がするんだけどな。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 03:44| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月23日

別に悲しむ必要なんてないさ。

梶井基次郎みたいな気分。
梶井みたいな天才だったら良かったのに。

あまりお金のことばかり考えているので、つまらない。
まあ、お金は大事ではある。
旅をすると決めたら、お金っていうのは一番に解決を付けないといけない。
旅費を用意できないことには、プランも立たない。
いかに少なくてもいくらかでも旅費が立てば、あとは工夫で旅は作れる。
もちろん、お金を作る前に熱意が先立つ。
それでも、熱意、モチベーションが上がれば、次に用立てねばならないのはお金である。

旅のこともあるが、仕事のことだとかでお金のことを考えて人生が少々つまらなくなった。
もちろん、どんなゲームにも制限は必要だ。
裏技でバグらせて、レベル99スタートのゲームはもうおしまいだ。
賞味期限切れ。
もったいない。
全クリして、飽きて、裏技をして遊ぶのは良いけれど、最初から面倒で、裏技なんて使ってしまうと、もう、買った意味さえ分からなくなってしまう。

人生の幸福を考える。
何をすれば幸福だろう。
それは具体的に言えば、明日の休日に何をしようかという問題なのだが。
自転車でもこごうか。
自転車でアフリカに行こうと言っている人間のくせに、自転車に乗るのが面倒な気分。
いや、いくらかは乗るだろう。
でも、出来れば、一時間ほどちんたら走って、ちょっとしたコーヒー屋にでも行って、ぼんやりして帰ってくるくらいが良い。
でも、それだと、物足りない。
かと言って、峠も面倒くさい。
近所の峠はだいたいすべて行き尽している。
唯一行きたいなという峠は土砂崩れで林道が埋まっているそうだ。

そういえば日展。
ああ、それも心にそぐわない。
良い絵を見ても、どこか空虚だ。

どこに行っても、何をしても、今の僕は空虚にぶつかってしまう。
少し前までは綺麗な女の子とコーヒーを飲めたりしたら幸せな気がした。
ああ、それも空虚だ。

精巧な作りのダッチワイフ、ローションを仕込んで、電源を入れれば体温程度の温かさになり、ローションが適度ににじみ出る。高品質なシリコンで出来た胸に内蔵されたボタンを押せば、膣内の動きも自由にコントロールできる。
アダルトビデオを眺めながら、そんなダッチワイフを抱くのと、女の子とコーヒーを飲みにいくこと。
へんてこな天秤は、不思議と良いバランスで釣り合っている。
生きている女の子がコーヒーだけじゃなくて、僕に対して欲情してセックスするとなると、もう天秤はダッチワイフの方に傾く。
「頼むから、そういう下卑た目でオレを見ないでくれ」
「愛しているの」
「それは違うよ。だれかに愛されたいだけだろ」
「そんなこと言ったって。あなただってそうでしょ」
「いや、そういう行為という意味では俺は単に射精したいだけだ。手っ取り早く。或いは、単に人間と向かい合ってコーヒーを飲みたいだけだ。昨日見た楽しいテレビの話や、最近読んだ本の話、先月の旅行でどこそこがきれいで何が美味かったとか、そういう話もいらない」
「だからダッチワイフを抱くの?」
「そう」
「私はダッチワイフにすらなれないの?」
「そう」
そういう会話をしながら、女が裸で縛られているアダルトビデオを眺めながらダッチワイフ。

−−変な性癖なんだね。
−−ああ、あれは全部嘘だ。
−−やっぱり普通のセックスがしたいんだね。
−−そう、まあ、普通のセックスがしたい。してくれる?
−−しないよ?
−−そう、知ってるよ。僕は短いオナニーを一日に一回していれば良い。別におかずも何も用意せずに三十秒くらいで出来るやつ。
−−それって気持ちいいの?
−−それなりに気持ちいいよ。もちろん、ゆっくりきちんと時間を掛けたり、誰か相手がいる方が気持ち良いだろうけれど。
−−でも、そのくらいが丁度いい?
−−多分ね。

「子供が出来たんだってね?」
「いや、出来てないよ。誰かそんなこと言ってた?」
「いや、僕の勘違いだと思う。まあ、結婚して一年くらい経つし、誰か別の人の話と混ざったのかもしれない」
「そう」
「でも、不思議なものだね。僕の記憶の中の君っていうのは、いまだに大学生のころのままだし、病弱で細いイメージがある」
「でも、作る気になれば、明日にでも作れてしまう。確かにね」


−−わたしはね、友達が欲しいんだよ。
−−友達なんて大人になるとなかなか出来ないものですよ。みんなそれぞれに忙しい。
−−でも、みんな遊んでて楽しそうにしてるじゃん。
−−あれはみんな嘘ですよ。そんな風に見せるのが上手になってるだけで。
−−嘘だ。バーベキューとかしてるじゃない。
−−行ってみればいいじゃないですか。僕は難儀だから行かないけれど。
−−難儀って?
−−さあ、僕にもよく分かりませんが。僕は時々、ちょっと酒を飲みに出て、そこでちょっとした知り合いと少し適当な会話、特に内容なんてない、口の体操程度の会話をして、笑っているくらいがちょうど良いので。

「まあね、分かってはいたんだよ。君みたいなタイプの人間は長く続かないって」
「どうしてですか?」
「どうしてってこともないけれど、これまで見てきた中で、旅だのなんだのふらふらするやつは、ひとところに落ち着かない」
「そうですか?自分がそういう人間と思うとちょっと悲しいですね」
「別に悲しむ必要なんてないさ。人間、いろいろ必要さ」

あんまりいいシーンも思い浮かばない。
どうしたって、感度が少し落ちて行く。
セックスの話にしたってそうだけれど、好きな女の子と手をつないだだけで興奮した高校時代とは時間も場所も、いろんなものが過ぎ去ってしまっている。
人生の感度は落ちていく。

どこに行っても空虚かもしれない。
それでも、どこにも行かないともっと空虚かもしれない。
どっちも空虚なのか。

あまりそういう考え方は良くない。
良いシーンを感じれる時だってある。
気分の波だ。
ちょっとしたことにすごく感動できることもある。

人間いろいろさ。別に悲しむ必要なんてないさ。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 23:08| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ビジネスとして成立すること。

くたびれている。
怒ろうかと思ったが怒らなかった。
まあ、自分はいつもそんな具合だ。怒るに怒れない。保身に走ってしまう。
というか、怒ろうと思ったら、ちょうどそのタイミングでその人がまともな人間に変わったりする。
あるいは、怒ることで自分が変わって、人の良い面が見えるようになるのか。

会社をやめるということを上司に切り出せないでいる。
今の店では、店長さんと僕の二人が実質的なメインメンバーで。やめるとなると、非常に困る。

店長さんは仕事上腹の立つ面も多いが、人間としては良い人で、これまでの人生には少々運が悪いことが多かった人だ。
仕事上で腹が立つことはあれど、確かに彼のようなスタンスのチャリ屋が現れないとチャリ業界っていうのは未来がないだろう。ビジネスとしてチャリを見る。
僕なんてのは言うなれば、昔ながらの良きチャリ屋のにーさんだろう。固いことも言わない、ただのチャリが好きなにーさん。商売になろうがなるまいが、まあ、少々どちらでも良い。どうせ金の稼げる仕事だと思っていない。とりあえず食って飲んでが何とかなれば良い。チャリが好きだから、チャリが好きな人のために仕事をする、それだけのことだ。

ビジネスとして成り立つかどうか。
これはとても大切な話だ。
友人に二人、若いのに一流の人がいる。三十ちょいの人たちだ。

一人はまさや先生。あの人はやはり一流だ。だてにカリスマ美容師じゃない。もう数年もするうちに自分の店を持つことは間違いないだろう。筋肉の研究も日々素晴らしい。
この日記では毎回ロクデモナイ役で登場しているが。やはりすごい人だ。ちなみに最近はエロゲーの絵を書く練習をしていて、一枚数万円とかで売れるようになったらしい。でも、数万円で受けると注文が細かいので数千円で受けるらしい。
先日はパチンコ屋の女の子をひっかけて、一回セックスして捨てたらしい。三ヶ月に一回くらい女の子に悪事を働く。
やはり基本的にはいつでもロクデモナイ。

もう一人は彫師のおにーさん、チャリ屋のお客さん、ふくだを見込んでくれたお客さんの一人。ちなみに、まさやさんもそういうお客さんからスタートしている。
この人も、まあ、すごい。
全身刺青だらけだ。
自分のアトリエ、工房を持ち、スタッフさんを養っている。
かっちょいい。
奥さんと子供が二人いる。

そういうプロフェッショナルに自転車屋として気に入ってもらい、お客さんと店員以上の付き合いをしてもらえているのは本当にありがたいことだ。
もちろん、この二人以外にもすごい人たちが僕のお客さんにはいっぱいいる。
僕の何を気に入ってもらってるんだか分からないが、本当にありがたいことだ。

さて、この二人のプロフェッショナルには共通のことがいくつかある。

まず怖い。
多分二人とも一度ならずとも鑑別所だか留置所だか、まあ、そういったところでお世話になった経験はあろう。
基本的にはロクデモナイ。

これは最終的には人間対人間の戦いになったときには、腕力と肝っ玉の勝負ってことなのかなと思う。
あと、自分の嫌なことは嫌で、きちんと主張するということ。
もちろん、単に悪いことをすれば良いわけではない。

次にイケメン。女性にモテる。

申し訳ないがブサイクなやつにすごい人ってのは少ない気がする。
恐らくイケメンっていうのは得するのだ。
美女は得するってのは間違いない。
美女は男がやってくる。しかも、デキル男がやってくる。モテる女は良い店をよく知っているやは、特に若い頃、年上の男に良い店に連れて行ってもらっているのだ。それに、良い女を口説く時には男ってのは自分の中で最高にセンスの良いところを見せようとする。
良い女は美味しい店でも変に固くならず料理を美味しそうに食べるし、バーでも良い注文の仕方をする。TPOみたいなものをわきまえた素敵な動きをするし、萎縮したりしない。
何よりも自信を持っている。
男にしても、モテる男には自信がある。
自信を背負ってやってきた行動の積み重ねに現在がある。

歳下の僕に敬語で話してくれる。
相手が上だろうが下だろうが、きちんとした態度をするということが日本語を話す人間にとって様々な面ですごく大事だということを理解している。
人間を敬うことが大事だと分かっているし、恐らく彼らには時間がない。いつも仕事で多忙だ。そういう中で会って話をする人間というのは選んでいる。敬意を抱ける人間としか会わない。だから、彼らは僕に限らず、恐らく人と話す時には必ず敬語を使うのだろう。

二人とも人間の体に刃物を向ける商売をしている。

それから、金を稼いでいる。
そして、物凄く貧乏で厳しい下積み時代を長いこと経験している。

ビジネスとして成立することの大切さとは、結局のところ金はやはりいくらか必要なのだ。
特に人間の体に刃物を向ける仕事というのは、失敗が許されない。物凄い量の練習の上に仕事がある。練習には金がかかる。
僕は全く足元にも届かないにせよ、チャリ屋としてチャリを売るからには、まずチャリに乗る。チャリをいじる。実際にいろんな道具を使ってみる。いろんなルート、乗り方、レースもすればダラダラもする。たえず、どんな商品を提案できたら、お客さんのチャリライフが楽しくなるかというのは考えている。どういう時に人間は自転車の上で幸福を感じれるか。
そういう仕事のための練習のようなことには、時間はもちろん、金もかかる。

人の体に刃物を向ける仕事。
チャリ屋どころじゃないだろう。

そういう時間と金を必要とする練習の量が仕事の質を決めているんだろう。

仮に、ベルトコンベアーのバイトの場合。
仕事以外の時間で練習に費やす時間というのは少ないだろう。
ベルトコンベアーというのは、人間に能力がなくても、安定した品質を、安定した量作るためのシステムだからだ。
能力が低ければ、作業をより細かく区切って、一人当たりの仕事をより簡単なものにすれば良い。
だから、ベルトコンベアーのバイトは、ビジネスとして成立してるかどうかというのを考える必要はあまりない。

ただ、練習を必要とする職業の場合、ビジネスとして成立してるかどうかということを考えるのは重要だ。
ビジネスとして成立しなくなると、それはただの趣味になる。
僕が小説を書くってのと同じことだ。
そうなれば、それで飯を食うことは出来なくなる。

小説が変わっているのは、0円でも作り続けることが出来るということだ。
しかし、一般的には、0円で何かを作るってのは非常に難しいか、或いは制限が大きい。
仮に刺青を掘るのに、0円で掘るわけにはいかない。道具やら何やら必要に違いない。詳しくは分からないけれど。
美容師にしても、ハサミは高いし、研ぐのも高いし、さらに消耗していくそうだ。
チャリ屋にしても、チャリや部品を仕入れなくちゃいじることもできない。
いずれもビジネスとして成立しなくなると、存続が難しい。
趣味として細々続ける分には出来るのかもしれないが、やはり細々。

それに対し小説は制作費というのはほぼ関係ない。
数年前、エリートサラリーマンが芥川賞を取ったみたいに時間も捻出すれば誰でも書ける。
コツコツ真面目に書き続けていても、ぽっと現れた若者が産まれて初めて書いた小説に全く届かないこともある。
小説とは例外の中の例外だ。
ビジネスとして成り立つかどうかは、さほど関係ない。

そういう中で、僕は自転車はビジネスとして成り立たないと感じている。
あるいは、ビジネスとしてするなら、やはりユニクロみたいなやり方が良いんだろうと思う。あるいはメガネのJINSなど。
高価な贅沢品じゃなく、日用品として使えるもの。

東京では大人もあまり車に乗らない。
電車がメインだ。
でも、満員電車は過酷だ。
そういう中で自転車も日々の足という日用品の座を取れる可能性はあるはずだ。
しかし、あまり上手くいっていない。
業界全体として、生産コストもさることながら、在庫管理、配送、組み付けなど全てのシステムが甘過ぎる。

ちなみに僕なら梱包から考える。
梱包を見直すべきだ。
自転車は大きいので配送コストが高く、在庫するにも場所を取る。
梱包を見直して、コンパクトでなおかつ運搬中に傷付かない。
現在はなぜか工場を出発して小売店に届くまで、普通の発泡スチロールなんかで保護して段ボールの中に梱包をしているのだが。
フレームを開発したら、まず専用梱包材を開発すべきだ。
まず傷付かない。そして、フレームの三角形の中に出来る限り多くのパーツが収まる。体積が半分になれば、コンテナ単位で国際輸送する船便の値段は半分になる。配送コストが落ちれば、無理な在庫量を持つ必要も減る。予測した需要より在庫が多過ぎても、少な過ぎても、別の国に送ったり受け取ったりする余力があるということだ。
可能であれば、小売店に届いた梱包資材をリサイクルできるところまでシステムが作れれば、つまり重ねやすく、メーカーに送り返せばデポジット性みたいなのがあるとか、地球にも優しい。
下がったコストは希望小売価格から引かず、卸価格の値引きにすると良い。そうなると儲かる商売になる。そうなれば、大きい小売も積極的に手を出してくるだろう。販売網が活性化される。
フロントエンドが活性化すれば、ユーザーも増える可能性が高い。
文化として浸透する。需要も増える。
そういう流れの中で初めて通勤通学の足として、生活必需品という地位を獲得できるようになるだろう。

でも、梱包の改善などもちろん、文化としての定着などは考えていない。
メーカーはただ今まで通りチャリンコきちがいの小売店オーナーに毎年一定数の車体を、これまで通りの掛け率で捌ければ問題ない。別にユーザーが増えるとかは関係ない。
極端な言い方をすれば、小売店さえ洗脳できれば、消費者には何も伝わらなくても良いわけだ。
だから、テレビCMなどは流れない。

こういうのは趣味の業界には多い。
別に現状以上に売れる必要はない。
元々好きでやってることなので、これまで通り飯が食えれば構わないというわけだ。
さらに、特殊な技術、蓄積データ量が物を言うタイプの製品を販売する場合、どこかビジネスライクなところが利益を狙って新規参入してくるという恐れも少ない。
現れてたてついてきたとしても、老舗でタッグを組んで潰せば問題ない。

時代が変わって目先が変わっても、自転車屋なんてのは、やはり町の片隅、裏通りなんかで狭い店でおじさんが一人でやっている、そういうのが望ましい姿のままなのだ。

それでも、この3年の間だけでも随分変わりつつある。
パン屋に行く初心者走行会だって、かつてはどこもしなかったが。ぽつぽつとそんなのをするところも増えつつある。
店ははるかに増えた。
街中でスーツでロードバイクにのって通勤する人も決して珍しくはなくなった。

ふむ、ねむい。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 01:29| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月21日

臨界。

自分を愛してくれる人、自分が愛したい人。
その条件が重なる人を一番大事にすべきだ。

僕が一番大事にしてるうちの一人のお客さんを困らせた。
なんで客が店にそこまで気使わんといかんの?
なんでオレはそんな店で働いてるの?

自分が濁っていたことを明確に理解した。

でも、癇癪は今夜で飲み込む。
明日に引っ張ると、オレの一番大事にしているお客さんたちの迷惑になる。
いや、結局どちらにせよ迷惑を掛けているんだけど。

どうにも許さない、許したらオレはもう生きていけないって線があって、それを完全に踏み越えてしまった。
彼らが世界の中で人間として悪いとは言わない。
ただ、オレの考え、オレの尊敬する人たちの線を踏み越えてしまった。

もしかすると、オレの考えも、オレが尊敬してる人も間違っているのかもしれない。
分からない。
でも、一回きちんと戦わないとどちらが正しいか分からない。
腹割って話さないと分からない。

自分が損なわれるところまで踏んでいる。
オレも我慢しすぎた。
嫌だなと思ったら、ここまで溜まるまえに素直に話し合うべきだった。
同じ轍を踏まないように、オレは明日きちんとケリを付けないといけない。

何であんな良い人たちがそんなことをしてしまったんだろうと思う。
店長もメカニックさんも本当にすごく良い人なのに。
どうしてそんな酷いことをするようになってしまったんだろう。
なんで酷いことをしてる自分に気付かず、酷いことをしてる自分を正当化してしまうんだろう。

どうして僕はこんなに酷いことをするのに、気付かず、今も正当化してるんだろう。

オレには良心はないのか。
ないんだろう。
悲しいまでにオレには良心がないんだろう。

良きカエルの肩を持ってるんだろうか。
悪のカエルの肩を持ってるんだろうか。

そして、良い悪いっていうのは、良きカエルが決めたものだろうか、あるいは悪のカエルが決めたものだろうか。そして、あるいはカエル以外の何者か、神と呼ばれてる存在が決めたのだろうか。

いつの間にオレは責任を他人のせいにするような人間になってしまっていたんだろう。
自分のことを自分で責任持てない人間になってしまっていたんだろう。

お願いだから考えてみて欲しい。
考えた上でどっちにしても良い。
ただ、考えてみて欲しい。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 02:21| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月20日

no-title

詐欺のことを友人と作戦会議した。
ーーもう、わしは働くのが辛いけん、詐欺がしてぇ。
ーーそうじゃなぁ、サクッと儲かると嬉しいなぁ。でも、詐欺すると、被害者は困るで。
ーーでも、東芝はえらい金額の詐欺をしたのに、ちょっと金払っただけで許してもらえたで。
ーーそうじゃなぁ、東芝を叩いて倒産すると、えらい数の失業者が出るけんなぁ。
ーーでも、東芝が倒産して出来る失業者って、経歴として黄金で。元一流企業のキャリアを持っとって、しかも、倒産っていうやむを得ん理由で転職して来とるやつらじゃけん、スーパー即戦力軍、多分、転職先も困らんで。
ーーまあなぁ。でも、大学新卒の子らが困るで。
ーーそれにしても、あんなどでかい金を詐欺して、ちょっとの金を払って許されるんじゃけん、ほんまに詐欺はええなぁ。
ーーいや、詐欺も大変じゃって。捕まるとやべぇで。
ーーそりゃ、捕まるとやべぇけどな。捕まらんかもしれん。わしはどんなに一生懸命働いても、昇給なんか雀の涙で。
ーーまあなぁ、でも、捕まると、まずい冷たい飯しか食えんで。長いこと刑務所暮らしすると、粗食しか食えん体になってしまう人もおるらしいで。
ーー金がかからんでええが。
ーーまあなぁ。でも、つれぇで。あの飯はほんまにまずいんじゃけん。
ーーそうじゃなぁ、でも、真面目に生きててもつらいで。結婚だって結局金じゃけんなぁ。恋愛は金がなくても出来るけど、結婚すりゃ子供も生まれるし、子供も産まれりゃ飯も食うし。わしら男は女が好きじゃけど、女は男が好きなやつでも、子供の方が好きになるけんなぁ。まあ、ええことなんじゃけどな。
ーーまあなあ。でも、騙された人は困るで。
ーーわしは騙されんでも、すでに金に困っとる。一千万で逮捕率5パーセントなら詐欺する?
ーー5%はキツイなぁ。
ーーじゃあ、1%は?
ーーいや、おれはせんって。するん?
ーーどうかなぁ。でも、一千万って、大きいように見えて年収250万なら4年じゃけんなぁ。そんなら、4年頑張って働くかなあ。でも、1%なら考える。5%ならせん。
ーーじゃあ、いくらならする?
ーーそうなぁ、四千万なら16年じゃけん、5%でも考えるなぁ。1%ならするな。そもそも詐欺ってどのくらいの確率で捕まるんかな?
ーー検挙率は20%切るらしいで。しかも、検挙率の母数は実際の被害件数じゃなくて、届け出のある件数じゃけんな。少額の詐欺の場合、警察に届けん場合もあるから、実際はもっと少ないなぁ。
ーーじゃあ、少額詐欺の場合、1%いかんくらいなんかな?少額っていくら?
ーーいや、知らんけど。500万くらいなら少額じゃね?でも、辞めとけって。捕まらんでも、後ろめたさ、隠し事をして生きるって辛いじゃろ。
ーーでも、今の暮らしも嫌じゃもん。将来ないんじゃもん。500万かー。たった2年分か。やっぱ、四千万がええなぁ。16年ならええよなぁ。
ーーでも、四千万だとしたら、組織的にやらんといけんけん、危ない人たちと付き合わんといけんで?
ーーでも、四千万よ?
ーーしかも、ひとり四千万だとすると三人でするとしても、一億以上やらんといけんけん、高額詐欺に入るんじゃね?
ーーじゃあ、一人で出来る詐欺か。何がええんかな? おれおれ詐欺ってどうなん?
ーーどうなん?って知らんよ。でも、お金の受け取りとかもあるから、リスク高いんじゃね?
ーー1発400万取れれば10回で四千万じゃが。
ーーいや、400万なんて大当たりの老人じゃろ。
ーーじゃあ、一発200万?
ーーそれも当たりじゃろ。でも、まあ、不可能じゃないかもなぁ。
ーー20回かー。
ーーでも、おれおれ詐欺は検挙率上がっとるで。四千万で5%とはいかんで?
ーーじゃあ、もっと小さい金額の詐欺がええんかな。クレジットカードのスキミングは?
ーーそんなベタなのすぐ捕まるじゃろ。
ーーでも、Amazon大好き人間のクレジットカードが集まれば、毎月千円くらい使ってもバレんかもしれんよ。
ーー換金の手間が大変じゃろ。そんなんすぐ足が付く。
ーーやっぱスキミングしたら金かプラチナを買うしかねぇかー。リスキーだなぁ。すぐバレそう。
ーーそうだな。だから、やめとけって。
ーーやっぱり入門はオレオレ詐欺かー。
ーーだから、お金を受け取るのが難しいって。
ーー外人使えば上手く行くんじゃね? 受け取りを外人にやらせて。報酬を20%くらい出したら、割と簡単に引き受けてくれるんじゃね?外人まで捕まっても、上手く逃げきれるじゃろ。
ーーいや、そんな甘くねぇじゃろ。
ーーでも、率としては下がるじゃろ。3%くらいまで下がらんかな。とりあえず、全部の真犯人まで捕まえなくても、ある程度まで捕まれば警察もとりあえずってことで良いんじゃね?
ーーいや、オレオレ詐欺は明確に詐欺だし、立証しやすいからな。尻尾を捕まえたらきっちり真犯人まで来るんじゃねぇかな?分からんなぁ。
ーー結婚詐欺とかは?
ーー結婚詐欺はリスクも低いし実入りもええな。だから、もうすでにプロがいるからお前にゃ無理。
ーーそうかぁ。
ーーそうよ、詐欺はやっぱり悪いことだからやめとき。
ーーでも、四千万で1%の詐欺が出来るとしたら、やる価値あると思わん?
ーーいや、オレはせんって。
ーーいや、するしないじゃなくってさ。やる価値の話よ。どうせ、ワシらどこで働いても、キャリアも学生もない二十代後半、おいしい仕事も明るい未来もないで。
ーー別に金がなくてもええじゃないの。
ーーまあな。でも、わし、貧乏ってのが怖いんじゃ。嫌なんじゃ。苦手なんじゃ。お金がないと人間として価値がないって親に育てられたけん。お金以外にも大事なものはあるけど、お金がないと人間生きていけないって。うち、貧乏じゃったけんなぁ。
ーーそうかぁ。まあなぁ、確かにそういうのって、子供の頃に時間かけて出来た価値観じゃけんなぁ。まあ、確かにお金は欲しいわなぁ。
ーーじゃろ、詐欺ってええじゃろ?
ーーでも、被害者の人が困るって。
ーーでも、詐欺せずにおったら、わしが困るもん。貧乏しとると死にたくなるんよ、怖いんよ。
ーーまあなぁ。
ーーそれに、違法じゃないけど、人を雑巾のように使って金を稼ぐなんて、会社なんかそれこそ詐欺じゃが。
ーー会社が気に入らんならやめるしかねぇわ。
ーーそうじゃろ。じゃけん、騙す側にわしもまわりたいんよ。
ーーまあなぁ。でも、お金を騙し取ってもええっていう社会になると、イスラム国みたいなのがいっぱい増えるで。あれは、欧米が延々詐欺みたいにして金稼ぎして出来た副産物じゃけんなぁ。欧米が自分らの利益のためにした湾岸戦争、イラク戦争の燃え残りをいつまでも消しきれずに、どんどん大きくなって今みたいになっとるんで。
ーーそうじゃなぁ。でも、貧乏して絶望していくと、冗談抜きで死にたくなるんじゃ。生きてても仕事をボロ雑巾みたいにして、仕事が出来ようが出来まいが、能力があろうがなかろうが、ボロ雑巾みたいな給料で生きていって、貧乏じゃけん結婚も出来ん。
ーーいや、金がなくても結婚してくれる人もおるって。
ーーいや、そんなの減っていくって。テレビでも新自由主義とか言って、競争社会を煽って、敗者を踏みにじって、パワフルに生きるみたいなのがカッコいいってことになってきとるが。女は東京の夜景をヘリの中から眺めつつバックで犯されたい時代になりつつあるんよ。
ーーなんだよ、その妄想。でも、まあ、確かにそういう側面はあるよなぁ。景気も延々と良くならんし。
ーーじゃろう。まあ、そんなの全部我慢しなさいって言われたってな。良い学歴のやつらは、楽な仕事したり、仮にきつい仕事でも、金はもらえるじゃろう。でも、おれらはどんなにきつい仕事しても、あいつらほどの金はもらえんで。
ーーまあなぁ。
ーーそう考えると死にたくなるじゃろう。絶望じゃ。
ーーまあ、そんなこと言うなって。人生、いいこともあるって。
ーーそりゃ、たまにはあるかもしれんけど。でも、基本的にはお先真っ暗じゃが。生きるなら詐欺でもしたい。
ーーそりゃ、自殺するより、詐欺してでも生きた方がええかもしれんけどさ。自殺もせず、詐欺もせずなんとか生きていけつて。
ーーでも、気持ちは分かるじゃろ。人殺ししてまで金が欲しいわけじゃないんじゃけん。
ーーまあ、分かるよ。違法性のある詐欺はよくないけどな。
ーーそれじゃあ、我慢してストレス爆発して金持ちは全員殺すって方向?
ーーだから、それじゃイスラム国だって。
ーーああ、世界が平和にならんかな。平和になれば、おれの給料も上がるかもしれん。
ーーいや、人間にそういう欲望がある限り、世界は平和にならんよ。お前から治せ。
ーー世界が平和になるならええよ。平和になって不況が終わって、オレも貧乏に困らなくなるなら。
ーーまあなぁ。難しいね。
ーーどうしたら世界は良くなるん?
ーーそうなぁ、原子力に依存すれば良いかもな。ただ、リスク高すぎるけどな。次爆発したら地球はもう完全に壊れてしまうかもしれん。
ーーじゃあ、原子力はダメじゃなぁ。
ーーそうじゃなあ。資源は限られとるけんな。それを無理やり人工的に水増しすると、やっぱりどこかでツケが来るけんな。現代的に電気の使用量を減らすとかの方が現実的よなぁ。
ーーあとは人数を減らすのも良い。特に働けない年齢の老人の医療を制限するとかな。安楽死の導入とか。戦争で数を減らしても結局負の連鎖になるからなぁ。かつて自然死とされたことをもう一度自然死として扱うっていうのは大事かもなぁ。
ーーでも、人が死ぬと悲しいからなぁ。
ーーでも、世界の平和のためなら、そういう犠牲も必要かもしれん。
ーー難しいなぁ。
ーーあとは一部原始時代の導入じゃなぁ。全部原始時代にすると困るけど。電気の使用量のかなり厳格な制約を作るとか。途上国の人がしている我慢を、先進国の人だけ我慢しないなんてバランスが悪いと、やっぱり良くないからな。でも、電気って貯めとくことができないからな。病院とか電車みたいな人間にどうしても必要なものだけ残さないといけないとしたら、結局、それなりの電気を絶えず準備しとかんといけんからな。一部だけ原始時代の生活にしてしまうくらいやった方が良いじゃろうな。まあ、利権絡みがあるから絶対無理だけどな。
ーー難しいなぁ。
ーー難しいんよ。詐欺するには、これより難しいことが思い付かないと難しいで。ほら、諦めようや。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 04:01| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月18日

人生順調じゃなくても。

生まれて初めて原始時代から現代までの小説に着手している。
どのくらいの長さの作品になるかは分からないけど、意外と短く完成するような気もする。

すべての意味で僕が生まれて初めて書くタイプの小説。
まず長い。
そして、本当の意味での完全読者無視。

長いというのは、実際の紙の本の厚さとして分厚いという意味でなくストーリーの時間軸の長さという意味では、これまで僕の書いた話というのは長くても半年、多くの場合、一週間以内のものが多かった。
原始時代から始めて、出来れば2070年辺りまでのことを書きたいと思っている。

そんなの我ながら無謀にも思うけれど。
真の意味での完全読者無視。
これは、書き手というのも読者の一人という意味だ。
書き手が書くのが楽しいっていうのは、実は自分以外の読者をどんなに無視しているようでも、自分という最も大事な読者のために書いている。
すなわち自分に宛てた手紙だ。

完全読者無視の小説で一番に思い浮かぶのが聖書、そしてフランツカフカ。

カフカの方が分かりやすい。
実際にカフカさんと話したことはないけれど、カフカさんの小説の多くは書き手の自分も含めた読者無視的な作品が多い。
ブルトンやダダたちのシュルレアリスム運動の作品というのはなんだかんだいって面白いと思ってくれる読者をいくら想定、あるいは期待しての実験でもあった。
ただ、カフカはシュルレアリスム運動より早い。
カフカさん自身、書いてて楽しかったのかは確かめようはないが。
読んでいる限り、人間の誰かに向けて書いているとは思えない。
どちらかというと神に捧げる、或いは神の声をただ書き留めねばならないという宿命のようなものに突き動かされて書いていたような。
そういう感じがする。

一方、聖書は信者に読んでもらうという明確な意思がある。
その点では読者無視とは言えないはずなのだが。
ただ、物を書くときにどうしても避けることの出来ない最も大事な読者である書き手自身、その人を楽しませるための文とは思えない。書いてて楽しいとは違うだろう。
信者という読者に読んでもらうため、教義を伝えるためということは間違いないが。それなら、どうしてもっと教義をシンプルに箇条書きのようにしなかったのか。
聖書とは本来の意味通り、神の言葉、あるいは神にまつわる歴史書。
読者のためというより、書かねばならないという使命感のみで完成されているようにも捉えられる。

今、僕の着手した作品が、聖書やカフカの作品のような偉大なものになるとは、正直なところ思えない。
ただ、書いているスタンスとしてはどこか似ている。
誰かに楽しく読んでもらうことは想定していない。もちろん、読んだ人が楽しいと感じてくれれば嬉しいが、ちょっと難しい気がする。
自分自身のためかと言うと、珍しく書いてて、全く面白くはない。楽しくもない。
ただ、どうしても書きたいという気がする。

ーーーー

南米フレンドのまこっちゃんが帰国して遊びに来てくれた。
彼は今はペルーの日本大使館で働いている。
ーーアフリカに行くことを決めたよー。
なんて話すと、非常に羨ましがってくれた。
彼は、スペイン語ぺらぺらで大の南米好きなので、南米は一通り回っている。
僕よりも若いのに、本当にすごいなぁと思う。

まこっちゃんの祖父母の家は伊豆諸島にあり、お土産に伊勢海老をくれた。
生まれて初めての伊勢海老は、食べやすい固いカニのような味がした。

また、来週にはペルーに戻る。
3年の任期なので、その後は未定だそうだが、実に元気そうにしていた。
昭島で起きたエピソードなど話すと、昭島ってそんな面白いこと起きる町でしたっけと笑っていた。

亀の甲羅ラボ理論なども話したけれど、アルコールは好きなくせに、すぐ眠くなる男なので半分くらい意識はないようだった。

息子の一時帰国を喜ぶ母親が車で迎えに来た。

最近は久し振りに会う友人が多い。
人生順調とはお世辞にも言えないやつも多いけれど、それでもみんな元気にやってる。
ふらりと僕を訪ねて来てくれる。

人生順調じゃなくても良いので、僕も元気に過ごして、仲良くしてくれる友人をぶらりと訪ねる、そんな風に生きていたいなと思った。

ま、そんなこんな。
posted by ちょろり at 00:26| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月17日

「生き方は星空が教えてくれる」

たまには読んだ本の話でも。

宇宙の話など読んでみた。


木内鶴彦先生。
臨死体験、宇宙。
現代日本人が聞くと蕁麻疹を起こしそうなワード。

酒場の友人に勧められて。
その人は変人だが、実にハイセンスだし、職人であり、無駄にいろんなことの知識が多い。
その人以外の人に勧められていたら読まなかっただろう。

何ともうさんくさい、オカルトだなと思いつつ読んでいくと、これがなかなかに良い本だった。

ざっくり要約すると。

・このおじさんは何者か?
彗星探索のおじさん。若いころに臨死体験をしている。
彗星探索家としては世界的にとてもすごいらしい。

・彗星探索ってなに?
彗星を探すこと。すこぶる難しいらしい。
肉眼で見えないような暗い星の位置、さらには地球からの距離とかも全部覚えていないと駄目らしい。
しかも、標高1800mくらいのところに行かないといけないらしい。
大変過ぎる。

・臨死体験ってなに?
死にかけて見る世界。
そんなもの実在するかどうかは知らないけれど、このおじさんは見たらしい。
おじさんの見た臨死世界は三途の川と、未来の地球と、宇宙の始まりらしい。
へんてこ。

・で、このおじさんは何が言いたいの?
地球を救おうじゃないか、って話。
彗星がぶつかるとか、光害で地球上のすべての植物が枯れるとか。
地球は危機らしい。
僕らの地球を救おうぜ。
人間がこのままお金儲けばかりしてるとどんどん地球が駄目になるぜ。
そんな感じ。

・なんで彗星と臨死からそうなるの?
一種の神様のお告げみたいなものだったんでしょう。
実際、人生ではそういうちょっと常識では理解できないような体験っていうのがあるっていうのは、いろんな人が言っているし。
そういう神様のお告げ的なものが、おじさんには彗星と臨死だったらしい。
おじさんはそれを信じて、スーパーごみ処理システムと水の浄化システムの開発を頑張ってるらしい。

・で、何が面白いの?
彗星探索にせよ、臨死体験にせよ。
そこからのおじさんの活動にせよ。
普通の僕らじゃ知らない世界だらけ。
「なるほど、こんな世界もあるんだな」
と思わされる。
文庫本になっているだけあって、文章としてのまとまりも良い。

まあ、ざっくり言うとそんな本。

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実際、環境系のことって、一昔前はちょっと話題にもなった。
いわゆる流行りみたいにもなった。
日本の大学には環境なんたら学部っていうのがたくさん出来た。
僕も環境理工学部っていうところの出身。中退だけど。
それで、世間的にも環境のことってすこぶる大切に扱われた覚えがある。

でも、最近はもうみんな諦めがちなのか。
原子力発電所が爆発して、節電なんかも流行ったけれど、最近は節電してる人っていうのもあまり聞かない。
「まあ、隕石が落ちてきても自分には当たらないでしょ。当たったら当たったで仕方ないし。それに、心配したってどうしようもないじゃん。何だかんだ言って大丈夫なんでしょ」
多分、そんな具合だ。

何で、環境問題の流行は去ってしまったのか。
もちろん、今でもみんな環境問題のことは忘れてはいない。
ただ、フタを開けてみると、環境問題っていうのは想像していた以上に困った巨大な問題だった。

まず一つに科学技術的な問題でも非常に困難だった。
そして、それ以上に、科学技術的な解決以上に、人間の心の改善が必要な問題だった。
要は、節電うんぬん、ゴミ削減なんかの問題が分かりやすいのだが。
「出来ることから始めよう」
っていうスローガンを掲げたのだが。
実際には、環境問題というのは結構深刻で、
「文明を収縮するレベルでの我慢」
が必要なことだった。

同時に人々は、自分の責任じゃないと思うようにした。
「ゴミを減らせって言われても。買った時点で梱包材は付いているし、それを捨てないわけにはいかないし。ものが壊れれば新しいものも買わないといけないし。だいたい修理して使うにも修理してくれる場所もないし」
「僕が何かしたって、国や企業が変わらないとどうにもならないじゃないか」
そんな風に合理化したわけだ。

それに、社会がどんどん進歩していく中で、みんな貧乏になってしまった。
当たり前と言えば当たり前なのだ。
身の回りのものは進化していく。
良い技術、良い材料になっていく。
当然、値段も上がる。
でも、全体のお金というのは増えない。
地下に眠るお金、石油なんかの資源は限りがある。
自分のことで精いっぱいになる。

そんなわけで、人々は環境問題のフタを閉じてしまったんじゃないかなと思う。

臭いものにはフタをするとは言えど、放っておいて良いわけもない。

木内さんの本を読んで良かったことっていうのは、「大きい視点」を得られることだ。
彗星探索、宇宙。
これは、非常に大きい。
最初はうさんくさいと思っていても、さすがに宇宙のプロの話。
宇宙のロマンみたいなものが感じられる。
そうして、宇宙規模で地球のことを考えてみると、何だか気持ちが楽になるのだ。
大きい視点を貸してもらうことで、心に余裕が出来るのかもしれない。

臨死なんて前面に大きく出すから、変なうさん臭さみたいなのが出て来てしまう。
でも、臨死もこの「大きい視点」に一役買う。

そう、大きい視点のためには。
空間的な大きさと、時間的な大きさの二点が必要だ。

読み終わってから納得したが、なるほど、彗星と臨死。
なるほど、そういう人が地球の環境問題のことを真剣に考えるっていうのは、納得できる。

そんなわけで読んで良かったと思いました。

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読書感想文。
書いてそうで、意外と書いてなかった気がする。

最近、アフリカに行くことに決めて。
いまさらになって、今の生活、普通の生活の素晴らしさ、大事さに気付いた。
一種、余命半年とか言うのに近い気がする。

アフリカに向けて山小屋に行く。
そうすると、僕はまた家を失う。
自分の作業場というのを失う。
本棚を失う。

酒を飲むのも素晴らしいことだけれど。
僕は急いだ。

この生活の中で出来ることでやり残したことを完了させねばならない。
酒を飲むのも良いことだけれど、読みたい本を読み終えねばならない。
書きたいことを形にして完成させねばならない。

それで、最近は日記も多い。
実際には、途中で眠ってしまってアップロードできていない書きかけのものも多い。
よく本を読んでいる。
音楽も。

そういう活動の中で、読書感想文も書き始めた。

放浪の日の中では、安定した机はめったにない。
灰皿が隣にあるパソコンはめったにない。
ノートPCを持ち歩いても、充電できる場所は限られている。
(実際、放浪に向けて、ノートPCは一つ準備しようか迷っている。ブログは別に良いにせよ、執筆する上でパソコンとキーボードっていうのは、やはり必須だ。速い。紙のノートだけでは、ネタ帳ばかり増えてしまう。)

まあ、ぽつぽつと読書感想文も書いて行こうと思う。

いまさらになって気付いたのだが。
ちょろり草の文章量というのは膨大なもので。
恐らく、僕はここをメインの窓口として文章を書き続けて生きていくのかと思う。

一円にもならないけれど、ライフワークなのだろう。
人生という長い夏休みの自由研究帳。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 01:39| Comment(0) | 読書感想文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月16日

仕方はなくとも秋の空。

お客さんのトムさんに会って、アフリカ行きのことを伝えた。
缶コーヒーとタバコで多摩川を眺めつつ。

福田さんがいなくなったら、店が潰れてしまうかもしれませんね、と。
いや、僕がいなくなっても何とか店は続くだろうけど。
割と店にとって重要人物になっているので、心苦しくはある。
アフリカで土人に食べられたなんてことになるかもしれませんよ。
でも、今は本当に行こうと思えばどこにでも行ける時代ですからね、行きたいと思ってタイミングも都合できそうなら是非行ってみるべきでしょう。
うん、その通りだね。

アフリカの話から、トムさんの墓の話になった。故郷の村に墓は作るべきか。
奥さんが今は生きているが、奥さんが先に亡くなったら、娘夫婦の世話になるのも心苦しい。向こうに戻ればいくらか頼れる人もある。
旅の準備はしとかねば。
そんな心配しなくてもトムさんが旅立つのはまだまだ先でしょう、と言ったが、トムさんらしくもなく、いや、このくらいの歳になるとある日ぽっくりっていうのはあり得るからね、と。珍しく弱気だった。

どうしてトムさんがあんな弱気だったのかよく分からなかったが、秋の夕方っていうのはそういうものかもしれない。

トムさんと別れて、最近、近くに出来た大きな自転車屋に行く。多分日本で一番大きいスポーツ自転車専門店かもしれない。
敵情視察というわけでもないが、把握しとかないといけない。どんな用品がどのくらいの値段で売っているか。
アフターサービスなどはどういう感じか。
僕のお客さんも使うだろうから、どういうサービスを提供しているかは把握しておかないと。

千円払って簡単なサイジングをお願いしてみた。もちろん、同業だということは黙って。
いまいちな結果が出た。
まあ、サイジング、フィッティングにはいろんなセオリーがあるので仕方がない。その会社にはその会社のやり方がある。

でも、サイジングを担当してくれた青年は本当に自転車の好きそうな良い青年だった。
あの青年には未来はあるかな、などと考えた。

自転車屋さんの未来。
独立して自分の店を持ちたい人は良いと思う。
でも、僕は三年してみて、自分の店を持ちたいとは思えなかった。
一つにビジネスとして難し過ぎるし、自転車を乗るのは好きだけど、売るのも楽しいけれど人生を捧げる程には好きにはなれなかった。

最近、サイコパスの研究などしているのだが。
ふと自分はサイコパスかもしれないと思った。
普通の生活の中で得られる喜びをサイコパスは得られない。脳みその一部がおかしいのだ。
だから、サイコパスは普通の人と共通の良心が持てない。
自分の快楽のため、刺激のために、平然と責任を逃れて、普通の人なら罪悪感を覚えることでもする。

今日の生き生きした顔で自転車を売る青年は、好きな仕事をして生きていることに満足を感じながら、普通の自転車屋さんとして生きていける。
僕には、それが出来そうにない。

そんな風にネガティヴに考えても仕方がない。
僕だってお客さんから見れば、いつも笑顔で明るく楽しい接客をしてくれる素晴らしい自転車屋のおにーさんだったろう。

仕方はなくとも秋の空。
楽しいことを考えるよう努力しよう。

ま、そんなこんな。
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良いやつばかりじゃないけど、悪いやつばかりでもない。

先日、パリのテロの話なんか書いてみた。

僕はこういうセンシティブな問題を書くのは好きじゃないけれど、時々、書く。
自分の立場を理解するため。
難しい問題って多い。
難しい問題について自分はどう考えているかって理解してる方が良い。
他人がどういう考え方か、ってのは、まあ、良いとして。

フェイスブックで気軽に自分の写真をフランス国旗バージョンにして、パリのテロへの追悼をしよう、そんなのが流行っているけど。
あまり国旗を安易に掲げると、おバカな人と思われる。
日の丸のTシャツ着て、中国に旅行に行きますか?っていう話だ。
国旗っていうのは、それなりの意味がある。

ーーー

僕は根本から言えば人間が苦手なところが多い。
人間は人間の中の話ばかりするから。
人間だって他の生き物と大して変わりはない。
木は切られても文句を言わないから、いくら切っても良い。
現代では環境問題がうんたらだからいけないと言う。
僕はそういう問題じゃないと思っている。

当然ながらカエルだって木だって生き物なのだ。
石は死んでると言うけれど、等しく地球上の物質だ。
石油や石炭は昔の生き物の死体だ。

ーーあなたが寝ているところで昔、人が死んでいます。
響きは怖いけれど、当たり前のことだ。
あなたが生きている場所っていうのは、他の人も住もうと思えば住める場所だ。
我々が生まれるまでに、とんでもない数の人が死んできているというのは当たり前のことだ。
僕が寝ている場所で昔誰か死んだかもしれない、至極当たり前のことだ。
それこそ人間に限らず命と言えば、ダンゴムシだっていっぱい死んでるかもしれない。

人間とダンゴムシを並べるのはいまいち道徳には欠けるが。
僕らが今夜眠る場所では、いくつもの命が死んでいる。

生き物が死ぬということを、僕は阪神大震災の時に実感した。
いや、目の前で誰か死んだわけではない。
いや、確かに僕の目の前で誰かが死んではいた。がれきの下で。
直接に死ぬ瞬間は見てないにせよ。

ただ、あの時っていうのはくたびれた、しんどかった。
小学一年生の男の子が延々と埃舞う、火事で空が赤く染まる、積み木みたいに現実が倒れている街を、何時間だろう。随分な時間歩いて大阪の親戚の家まで避難する。
ただ、疲れたことばかり覚えている。足が棒のようになる、そんなことは普通小さな子供は体験しないし、親もそんな目に合わせないようにする。
ただ、あの日はいろんなことが特別だった。

僕は夜にトイレに行くのが怖くて、いつもベランダでおしっこをしたかった。
それを母が許してくれた。
お向かいのお兄さんの家はぺしゃんこだった。

今考えればショックなんだけど。
こういうこともあるんだなと思った。
まあ、地震なんてものをさっぱり存在自体知らない、概念すら聞いたこともないような具合だったから。
でも、両親の目がやたらと変だった。
避難先は大阪まで歩いて、少し落ち着いてから祖父母の住む鳥取になった。

しばらくしてから、僕はこういうのは普通のことじゃないんだなと知った。
鳥取の頃の暮らしの中ではない。
鳥取の暮らしの中では、僕は弟と仲良くして、弟を守ってやらないといけなかった。
弟が暇をすれば、どこか遊びに連れ出す。それは、遠くじゃない、庭の雪の上でも良い。弟はすぐに霜焼けになって泣いた。ぐずぐず泣くなとか言ってたら、母に叱られたりもした。
それまで、おもちゃを買ってくれなかった母が、おもちゃ売り場でこれが欲しいと一言いうだけで、ドラえもんドンジャラを買ってくれた。
普段の母なら、ドンジャラなんて子供にはルールの難しい、すぐ飽きてしまうようなものを、買い与えたりはしないのに。
弟の代わりにじいちゃんばあちゃんにお願いを言ってみることもあった。
ーーほんにショウの辛い子だけん。
そのフレーズは覚えている。
祖父が真面目に言うと僕は、
ーーショウカラトンボ!!
などと笑いながら真似た。
そういうとき、親族のいるところでは弟は無口だった。

それから、岡山に引っ越した頃に、ゆずちゃんっていう本の読書感想文を書かされた。
ゆずちゃんは僕が西宮に住んでた頃、近所に住んでた女の子で地震で死んでしまった。
今考えると大人ってのもエグいことを子供にさせる。
何を書いたんだか覚えてはいない。多分、大人たちの期待していたような作文じゃなかったろう。死ぬなんて相変わらずよく分からなかったし、今もよく分からないくらい難しいものだし、ましてやどんなことを書いたら良いのかなんて小学校低学年の子供に分かるわけもない。
はて、僕は何を書いたんだろう。

僕の中での死のイメージってのはそんなところ。

何かが死ぬっていうのは、なかなかに難しい問題だ。
死ってこと自体は見えない。さわれない。
死っていうのは概念だ。
でも、死っていうのは明確に存在している。目の前に現れれば明確に分かる。

人間は人間の死の話ばかりする。
そして、自分側の人間の死の話ばかり。
パリで人が死ぬとフランス国旗を掲げた。
中東の人の死には特に触れない。
映画で主人公が何人も殺しても、まあ、よろしい。ただ、主人公が銃弾を肩に受けると大事だ。
ダンゴムシが死んでも、何とも思わない。

人間はけっこう恐ろしい。
考え方ひとつで、あいつらをぶっ殺せ、あの人たちが死んだのは悲しい。

人間は危険だ。

ーー良いやつばかりじゃないけど、悪いやつばかりでもない。ロマンチックな星空にあなたを抱きしめていたい。

そうね、まあ、そうだよ。
あまり深く考えるとくたびれてしまうよ。
良いやつを探しに行こう。

ま、そんなこんな。
posted by ちょろり at 15:08| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月15日

世界が平和なら良いのに。

ヨーロッパでドンパチ始まりつつある。
パリのテロ。

なぜパリなのか。
単純な理由でフランスってのは貧乏なのだ。それで、イスラム国の勧誘に乗る若者がいっぱいいる。
イスラム国の勧誘っていうのは、「国家はくそだ!おれたちと一緒に世界を変えよう!」という割とパンクだかロックだかそういう感じのものらしい。
そんなわけで、貧乏な社会の若者がツルツルとイスラム国に入って行ったそうな。

さらに言えば、移民問題もある。
フランスの失業率は10パーセントだか。結構深刻なのだが。
先進国の失業率の抱える問題というのは、若者が職を選ぶのだ。
いわゆる3k職業に就く人間がいない。
それで移民を受け入れて、そういう職業をさせる。

イスラム圏では、産めよ育てよなので、出生率も高い。
それに対して、資本主義先進国は個人個人が豊かな暮らしを目指すので、出生率が低い。平均して二人産まない。平均して2.2人だか産まないと文化は縮小するとか言われている。
これに対してイスラム圏では8人近く産む国もある。
一夫多妻制というのも強く後押ししているが、産めよ、増えろよを社会全体が後押ししてるのだから強い。

さらに自殺率も低い。
家族の絆も強いし、地域の絆も強い。

神を信じると良いことがあるというのは、まんざら嘘でもない。
要は神というのは、人間にとって都合の良いモデル社会へ辿り着くためのガイダンスのようなものだ。
産めよ育てよ、自殺はするな、人に優しくしたらあなたも幸せになれる、仕事を選ばず自分の出来る仕事を精一杯しなさいよ。
まあ、昔の偉い人が考えたんだろう。そうしたら国が強くなって幸せになれるだろうって。

それに対して神を殺した資本主義というのは、今になって脆さを呈している。
失業率、自殺率。
これは冷静に考えると当たり前なのだ。
自由競争、優れた者が劣った人間から搾取するのを正しいとする。
そうなると、みんな優れた人間になりたい。
それで社会は上昇する、発展する。
しかし、実際にはそんな都合の良いことは起こらない。

貴族の生活を支えるのは奴隷だ。
でも、資本主義が進み、教育が全員に施されると、みんな奴隷はしたくない、となるわけだ。
良い仕事に就きたい、と。
クソみたいな仕事をしてゴミのように扱われるくらいなら死にたい、と。

言うなれば、資本主義とは恐怖をバックグランドに発展している。
努力して成功すれば、それだけ豊かな暮らしが出来るよ、という反面、落ちこぼれたら、人間としての価値を失い、貧しい暮らしの中で生きるのも仕方なくなるんだよ、という脅しだ。

現代のうつ病の実に多くは宝クジが当たれば治るとも言われている。
仕事のストレス、経済的困窮、将来の見通しが立たない。
お金があれば解決する問題が多い。
また、人々はすっかりその考え方にどっぷり浸かっているので、綺麗な女の子と結婚したければ、給料、地位の高い仕事をすることになる。女の子たちは夢を見る男には、もう興味はないし、興味があっても数回旅行に行って、体を重ねて、若い日々の良き思い出にして、結婚は身持ちの良い男としたいと思っている。知的でハンサムな男はいずれ出世する社会に生きていることを女の子たちは無意識のうちに理解している。

でも、現実としては3kとされる仕事は存在するし、誰かしないといけない。

個人主義者はどうしても3kの仕事はしない。
神の声を信じて、どんな労働もありがたいと思って従事する人間は強い。

そんなわけで、ヨーロッパでのイスラム教徒というのはどんどん増えつつあるそうな。

テロの対策としては、テロをされたらテロを仕返せば良いのだが。
資本主義先進国では自爆テロ要員がいない。
核兵器の場合は核兵器で脅し返せば良い。
それを繰り返すと、いや、お互いやめましょう、どちらも滅んでしまいます、ということになるのだけれど。
テロの場合、先進国はテロが出来ない。
ゲリラ戦も出来ない。

多分、こういうテロリスト国家に対抗できるのは元共産系先進国だろう。
中国、ロシアは強そうだ。というか、むしろ、バリバリでテロをし返せるだろう。
ロシアなんかにテロをすると、本当にひどい目に遭わされる気がするし、多分、本当に大変な目に遭う。
アメリカなんかは割とテロしたって、どうせ映画が作られて国民が涙流して、適当に無人爆撃機が飛んできて、地上をドンパチするだけだろう、っていう感じだ。
ロシアなんかの場合、本当に草一本残らず滅ぼされそうだ。
何せロシアにも草なんてほとんど生えていない。
キツイことに慣れている民族だ。
アメリカの場合、街のマクドナルドが潰れただけで市民が大慌てで騒動になりパニックになるかもしれないが。
ロシアでは、マイナス何十度の冬の街にもホームレスがいても普通の国なのだ。
そして、中国も歴史も長いし、何か別次元のレベルの思考を持ってるようなところもある。
少子化で世界中が困る中、一人っ子政策をしている国だ。

ところで日本はどうなのかと言うと、精神的にはテロに遭いやすいのだが。
ゆすっても金以外出てこない国なのだ。
日本の東京でテロがあったと世界に流れても、「へー、ジャパンも気の毒ねー」くらいで終わってしまう。
そう日本はどんどん国際社会の中でいてもいなくても良い子みたいな位置に進んでしまっている。家電製品も、もう隣の韓国さんに頼めばサムスン君が冷蔵庫でもテレビでも何でも、そこそこの良い品質のものを作ってくれる。日本ではギャラクシーのイメージだが、外国ではサムスンは優良総合電機メーカーだ。

さらに日本の場合、何だかんだ裕福なので、国に不満のある若者はイスラム国に行くよりは、家で2ちゃんねるを眺めてまったり過ごしている。
あとは、背景として、個人主義の文化ではない。右向け右と言われれば右を向くし、左と言われれば左、隣人と違う動きをしたりして目立ちたくないという文化の国だ。
それに、いつまでも外国は海の外、国内でそれなりに完結できれば満足。
割と欲の少ないような民族。
まあ、戦争に巻き込まれにくいという意味では良いのかもしれない。お金はあるのに、国際的に影響力のない残念な国。

テロする側もやはりリスクはある。
リスクを冒すなら、効果の高いところが良い。
その点、フランスのパリなんか良い。

それじゃ、世界最強の冷酷なる国、ロシア先生に叩いてもらおうか、という話になると、それはそれで困る。
ロシア先生は昔から国際的に有利になるとヨーロッパに進出しようとしてくる。昔も今も凍らない港が欲しいのだ。
じゃあ、最強の軍事力アメリカ先生に。
ヨーロッパとしてはこれも不本意だ。
ヨーロッパとしては、アメリカなんて野蛮な開拓民の国に世界の覇権を握り続けられているのは嫌なのだ。
ドルを崩壊させて、ユーロを世界共通貨幣にしたいのだ。

イスラム国周辺のイスラム教の国としても、複雑な問題ではある。
あまり西側諸国を怒らせると、それはそれで困る。
イスラム教が広まるのは素晴らしいことかもしれないが、イスラム教もいろいろ宗派があるので、変な過激派みたいなのが強くなって、イスラム全体が偏見に晒されるのも困る。
さらに言えば、イスラムの国だって。王様とか富裕層っていうのは資本主義なのだ。石油を言い値で買い続けてくれる馬鹿な白人とは仲良くしていたい。

それにしても、ロシアは強い。
平然とアサド政権を助ける側に回ると言う。
シリアのアサド政権っていうのは、現代国家という形態でしてはいけない模範例のような独裁政権だ。
ロシア先生の言い分としては、イスラム国の世界に与える被害を考えれば、アサド政権側を援護する形になってでも、イスラム国を叩かないといけないというわけだ。

まあ、実際には、中東の陣取り合戦で西側諸国がドンパチやって活躍してるところに割って入って国際的な地位を高めたいというところだろう。

実際、アメリカが長々してきた空爆はあまり功を奏さなかったが、ロシアの爆撃はそれなりの効果を出したようだ。
欧米諸国はアサド政権打倒のために陰ながらイスラム国を支援しているんじゃないかなどという話も出てくるほどだ。

そもそも、イスラム国とか過激派というのは、欧米諸国がアサド政権をやっつけるために訓練した元傭兵だったりが組織しているという面はある。或いは、直接的にアメリカ辺りが組織させた可能性もある。
とにかく、アメリカは民主主義を輸出して、世界中でアメリカ万歳!ヘルプミーアメリカ!と言ってもらいたいわけだ。

これに対してロシアは、ロシア万歳など、どうでも良い。とにかく凍らない港が欲しいのだ。原子力砕氷船など作りたくて作ってるわけじゃなく、作らないと生きていけない国なのだ。
ロシアという国は、まあ、ある意味ではなかなか不遇な国なのだ。
それゆえ強いのだが。

さて、問題なのは、ロシアとアメリカどちらが正しいではない。
どちらも、陣取り合戦のために人を殺しまくっているという事実だ。
どちらが上手くいくにせよ、戦場はロシアでもアメリカでもない。
アサド政権が勝っても負けても、気に食わないやつがいつまでもいて、勝手に他人の土地で戦争をし続ける。

フランスの善良な市民がイスラム国に殺された。
これは一つ事実ではあるが、イスラム国のメンバーの多数が、その元善良なるフランス市民というのも事実なのだ。

世界全体として資本主義の崩壊が進み、結果として起きてる一連の事件と言える。
或いは、資本主義国家は革命をさせないためにこんな事件を起こしているのかもしれないという邪推もできる。
革命と宗教というのはかなり密接なつながりがある。
かつてのヨーロッパではキリスト教が革命を起こしたことは既知の事実。

革命とテロというのは反体制という点では共通点がある。クーデター。
国民にテロは我々文明が最も恐るべきものですよ、と信じ込ませることはとても大事だ。

イスラム国という得体の知れない団体でさえ、国家は腐っていると叫ぶことで多くの若者が入った。
もし、イスラム国がなければ、その若者たちは数年後フランス政府を打倒する革命軍になっていたとしても何らおかしくはない。

フランスに限らず、資本主義先進国全体がその問題を抱えている。
若者が未来に明るい展望を抱ける国家は少ない。
若者は困っている。
世界的に困っている。
もちろん、全ての若者ではない。
全体のうちの何割かには成功がある。
成功している若者には、明るい将来までは言わずとも、とりあえず困ることのない悪くない人生がある。
テレビドラマに出て来るキャラクターたちは、気付けばすっかり、そういう成功者たちばかりになりつつある。
頑張れば成功がある。明るい未来がある。
失敗したって小さな幸せを大事に生きて行く方法もある。
はっきり言って、それは嘘だろう。
日本の年金と同じだ。
バレるまでは国が言ってるから、本当のことだろうと信じられるが、バレてしまえば、やっぱりな、おかしいと思ったんだ、という類の嘘だ。
豊かな生活の裏には奴隷がいる。

まあ、そういう考え方をしていくと、イスラム万歳みたいなところにも辿り着けるのだが。
まあ、実際にはそういうところには辿り着かない。

というのも、資本主義も共産主義も、なんたら教も。
詰まるところ、幻想でしかなく、どんぐりの背比べ。
アメリカもロシアもイスラム国も中身を振ってしまえば、結局出て来るのは同じ生き物、人間なのだ。
どれも大して変わるところない。

基本的に戦争せずに何とかあれこれ上手く収まれば良いんだが。
残念ながら、一番の方法は奴隷制度復活みたいなところかもしれない。
各自に自由と権利を与えているとケンカばかりするし、自分の都合ばかり考えてロクに子供も産まなくなる。

でも、これはこれで現実的ではなかったりする。

案外江戸時代の社会の形というのは、理想的だったりする。
士農工商という順に身分制度を構える。
実際には侍というのは貧乏も多かったにせよ、一応貴族階級。文武両道というように、学と道徳、美学がないといけない。そういった人間が社会秩序を取る。人数はさほど多くない。
農民は一番大事だ。ご飯を作るから。えらくひもじい暮らしのイメージもあるが、実際はそうでもなかったと最近の研究ではなりつつある。
工、職人もやはり大事だ。物が無ければ売りようがない。
それから商人だ。商人がいなければ流通はない。
そして、罪人の身分があった。

ポイントは基本的に身分は世襲制だ。
転職禁止。
ーーオラも侍になるだ。
ーー拙者は土を耕す人になりたい。
これは原則として禁止。
何だか嫌な気もするが。
士農工商、いずれも重要な仕事であり、然るべき人数の割合がある。
そして、世襲制の良い点は、職にあぶれる人間が少ないということもある。

やりたくもないことをさせられていると、共産主義の崩壊みたいにみんなヤル気を無くすんじゃないか。
いや、全ての仕事に何かしらのやりがいがある。
頑張って豊作となれば、うれしいし、その一年は豊かな暮らしも出来る。
頑張るのが馬鹿馬鹿しいということはない。

農民のイメージの悪さというのは、飢饉の問題だ。飢饉が起きた時、つまり天候的な問題が数年連続して起きてしまうと、彼らは収入ゼロになってしまう。それで働いても働いてもどうにもならないとなる。
もちろん、飢饉になれば、都市部も困るが、職人も商人も一応は収入はある。
今でも農業が敬遠されるのは、そういう不作のリスクのせいだ。

飢饉の悲劇とは深刻だ。
人間、何が嫌かと言って、飢えることだ。これが一番辛い。
ちなみに、減量は意図的な我慢なので良いが、腹が減って本当に困ったのはアルゼンチンの日々だ。水が無くなって倒れたことが一度ある。あとは、三日ほど町に辿り着けずに腹が減ったのは何度もある。
冗談抜きでアルゼンチンの日々で一番よく考えたのは、早く街についてご飯が食べたい、だ。
ご飯のことしか考えてなかった。
食料の問題というのは最も恐ろしい。

現代社会で問題になっている空腹の恐ろしさとは肥満だ。
人間、空腹こそ恐ろしい。
空腹感には耐えられない。
食料が前にあれば、あるだけ食べてしまう。
そして、脂肪になる。
ちなみに、絶食をしても脂肪が落ちない理由は炭水化物を摂ってないからだ。脂肪をエネルギーに変えるには、炭水化物がいくらか必要なのだ。
肥満は空腹感の暴走と、一度付いてしまった脂肪に対して正しい知識と対策が出来ないのでなってしまう。

空腹とは恐ろしい。

じゃあ、農士工商が良いんじゃないか?
と言うと、今度は農民が言うことを聞かないと、社会が崩壊してしまう。
なぜ、下の身分の者に、我々が食料を提供してやらねばならんのだ?と。
そんなわけで侍さんが偉い必要がある。

職人さんが偉いといけないのか?
これは意外とありといえばありな気がするのだが。
職人さんとは頑固なものなのだ。
世界のバランスを取るというのには、あまり向かない性格の人が多いようだ。

商人さんは?
商人さんは、ずる賢いのでいけない。

社会を統治する上で一番大事なのは、道徳、倫理なんかだ。
そういう点で武士っていうのはピッタリだ。

ところで、僧侶は?
僧侶も世界各国で支配階級を取った例が多い。
確かに、悪くないのかもしれない。
ただ、問題は日本にはいろんな宗派があったので、何教が統治を取るのかという問題が出て来てしまう。
それに、坊さんってのは結構ガメつい。

じゃあ、武士が良いとして。
今なら軍人さんなのか。自衛隊員なのか。
まあ、一理ある。
実際、文官、武官という言葉もあるように軍人さんが政治に強く関わることも少なくない。
ただ、江戸時代というのは、面白いことに。
戦争のない世界の武士なのだ。
実にヘンテコである。
戦争がないのに軍人さんがいる。
戦う相手も予定もないのに、日々、武道に励んで、何か勉強したりして、ふらふらと歩いたり、仕事をしたりする。
仕事は、まあ、公務員だ。税金の管理をしたり、徴収に出掛けたり、治安をパトロールしたり、裁判官したり。この給料がまた低かったそうな。
武士は喰わねど高楊枝という言葉の通りだ。
内職をしたり、道場の師範、学校の先生のような副業をして何とか生きていたそうだが、逃げ出したり自殺するものも少なからずいたようだ。
まあ、言うなれば、真の公僕といったところだろう。
それでも、武士には誇りがあった。
戦争なんかないのに、武芸を磨いた。

こう見ていくと、一番人気がありそうなのは、商人さんだ。
賢くて、人脈があって、優れた思い付きの出来る人なら財産を作れる。
まあ、一番下の身分というのも納得できる。
職人さんは今も昔も大変だ。

とにかく江戸時代の考え方とは。
米ありき。
食料を確保さえ出来れば、みんな平和に楽しく暮らしていける。

どの仕事が優れているとか、羨ましいとかはあれど、転職は出来ない。
自分が人生で出来る可能性のある仕事内容を精一杯する、そういう世界だ。

しかし、人間、適材適所だとか。
天は人の上に人を作らずとか。
そういう、まあ、枠組みを全部外して冷静な目で見れば当たり前のことが、黒船で幕府が潰れてから出てくる。

身分制撤廃というのはどこの国も文化も辿って来た道だ。
全体的に俯瞰すると、身分制というのはとてもバランスの取りやすい、人間が平和に生きるのに良い方法なのだが。
人間の自然な考えとしては、やりたいことをやりたい、という考えがある。
特に近代化によって生産効率が上がり、食料の不足が減ってくると、ますます百姓以外の仕事もしてみたいという人が増える。どこの国も百姓が一番人口が多い。
だから、みんなどこの国も誰からともなく活動が始まって身分制をやめていったわけだ。

簡単に言うと、おらさ、東京ば行ぐだ。という心理だ。
みんな、華やかな生活を夢見て、オシャレな仕事を、リッチな日々を求めだしたのだ。

本来は、3kタイプの職種の給料を高く設定するべきなのだが。
この仕事は人気がない。
人気がないので、誰でもその気になれば出来る。
そうなると、社会で落ちこぼれた人たちが集まってくる。
したくもない仕事をせざるを得ない人たちだ。
こういう人たちには、高い給料をあげなくても、他に仕事のない人たちなので問題ない。
そんなわけで3kタイプのキツイ仕事は給料も低くなっていったわけだ。

人間ってのはなかなかエグい。

とある話で、医者から介護に転職した人の話がある。
その人は医者をしていたそうだが、ご両親が重い認知症になり施設に入った。そこで大切なご両親を大事に思って介護に転職したそうだ。
これは実に立派な人だ。
まあ、単なるマザコン、ファザコンとも言えるが、自分を育ててくれた親を大事にするために、自分の人生を犠牲にさえするというのは、実に素晴らしい道徳のなせる行動だろう。
でも、そういう人は少ないのだ。

親が壁にクソを塗りたくって、息子のことも分からないほどの認知症になれば、親族、兄弟間をたらい回しにするなどよく聞く話だ。
そんな世間の中で、私は息子に迷惑を掛けたくないから、と孤独に暮らす老人が出てくる。
実に馬鹿げた話だが、実際のところ、昔と違って、実に長生きしてしまう。
子供が働き盛りの頃に丁度死期が訪れてしまう。
親を大事にするのも大事だが、自分の生活を守らねば生きていけないのも事実である。

イスラム圏の強さというのはそういう社会保障の強さもある。
国のバックアップではない。
一族の世話は一族全員で見るのが当たり前、親を大事にするのは当たり前、それが神の教えなのだから。
これは産めよ育てよによって強く支えられる。
子供が多く、一族の絆、近隣住民との絆を大事にしていれば、必然的にそういうことになる。
一生懸命働き、多くの子供を育てれば、幸福な老後が待っている。

これに対し、然るべき税金を徴収し、介護人なる職を作り賃金を与えて、老人の世話を見ようというのが資本主義先進国のスタンスだ。

老後の問題に関して言えば、幸福なのはイスラム圏の考え方だろう。ちなみにイスラム以外でもヒンドゥー教なんかでもそうらしい。
賃金と引き換えの介護というのは、介護を必要とする人間は社会の邪魔者とも言える。
それに対し、親族への愛と尊敬を持っての介護というのは、やはり幸福だろう。

ざらざらと書いてきたが。
問題は個人主義の欠点というところに行き着くのかもしれない。

宗教による考え方、文化の統一というのは、一種の集団主義だ。
同じ宗教に属する人間の幸福のために生きていきましょう。そうすれば、みんな幸福になれますよ、と。

一方、資本主義だとか先進国だとかでの考え方というのは個人主義である。
国家は個人のためにあり、個人がそれぞれ自分の幸福を追求すれば、全体が幸福になれますよ、と。

どちらが本当の正解ということはないのだが。
人間は集団主義の方が向いている生き物だということは言えるのかもしれない。
というのも、ほとんどの人間には良心がある。
良心のない人間、サイコパスは実に人間の少数だ。

一見、利己主義の人間の方が得をするように見える。良心など持たず、自分の得になる事のみを考え、合理的に動く人間。
多分、無人島とかではそういう人間って強い。
でも、実際には無人島的シチュエーションっていうのは少ない。
或いは小さいコミュニティの中でも利己的な人間は有利かもしれない。

ただ、実際には、地球にはいろんな生き物がいる。
種の生存競争という点で見ると、利己的な人間だけのコミュニティというのは敗北しやすい。
モンゴルの馬族やロシアのコサックなんかが分かりやすいかもしれない。
彼らは優れた乗馬技術を持ち、非常に強い戦闘力を持っていたが、歴史の中で敗北へと進んだ。
人間の場合、個々の強さよりも、むしろ仲間を増やしてみんなで生き延びるというやり方の方が自然淘汰の中では適している。
数人の英雄的武人を抱えているだけの集団よりも、数人のそこそこ賢い軍師が作戦を練り、非戦争時の蓄えが上手い人間も擁している集団の方が長い目で見ると強いのだ。
そういう時に自分自身は損をするにせよ、集団が生き延びるための行動がとれる人間が何人いるかというのが重要になる。

個人主義というのは、健康な期間の間での幸福には良いかもしれない。
競争により全体が進歩するというのも事実かもしれない。
ただ、前提として、人間が単体で生きていける程度に強い生物というのが必要だ。
優れた武人も歳を取れば剣を持てなくなる。

そう、これは商売の原理の中でも言えるのだが、カリスマ経営者でやってる会社は、後継者探しが難しい。
これに対し、優れたブレインに頼らず、天才など一人もいないが力を合わせている企業というのは息が長い。

そんなわけで、現代まで生き残っている僕ら人間には良心や優しさみたいなものがあって、時には損することがあっても道徳的な行動なんかをするわけだ。
一見、弱い生き物のように見えるが、種の保存んという中で見ると非常に合理的な強いやり方なのだ。

じゃあ、みんなで集団主義、宗教に入ろうか。
そういう話にはならない。

宗教の欠点とはドグマ、経典が変わらないことだ。
それに対して国家の法律とは変わっていく。

農産物の製造量、食料の確保が出来たところで、集団主義から個人主義的なシステムに移行して行ったように、時代が進むのに合わせて、主義だとかドグマっていうのは変わっていくべきだ。
宗教っていうのはいつまでも教えが変わらない。

でも、イスラムがすごいのは、コーラン、経典は変わらないのだが。
解釈に関しては変わっていく。
イスラム法学者なる人々がいて、今の時代に合った経典の解釈をしていく。
まあ、それで派が分かれたりしてケンカが起きたりもするんだけれど。

淘汰が云々、どちらが優れているとかよりも。
人間が人間を殺さない。
そういう当たり前のことが当たり前の世界だったら良いのにね。

戦争の問題っていうのは、結局、そういう集団の大きさの限界値の問題なんだろう。あまり大きくなり過ぎると変なことになる。かと言って、小さいコミュニティがいっぱいあるとケンカも起きやすい。
地球全体がひとつの考え方で一つの目的に向けて良心を持てれば良いのだが、これがどうしても無理がある話だそうだ。

まったく。
世界が平和だと良いのに。
本当に。
テロなんかもちろん起きず。
自分の仕事や生き方に嫌悪を抱くこともなく働けて。
ご飯の心配を深刻にしなくて済んで。
あと住む場所の心配。
歳を取ったら、子どもに尊敬を持って体を焼いてもらえる。
楽しく生きていける。
そんな世界。

まあ、そんなこんな。
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2015年11月13日

ゆっくり。

山の先輩が来年の山小屋の社員枠を口聞きしてくれた。
今のまま故郷に帰ってもやりたい仕事もないし、少しのんびりと山小屋で考え事でもしてみる予定。
アフリカは?
まあ、行く予定だけれど、あまり大き過ぎるテーマを背負うと目の前の日々のことをおろそかにしそうなので、とりあえずゆっくりと。

まあ、ゆっくり行こう。
とりあえず、東京を離れて、静かな中で冷静な判断を下せる中で。
自分の土俵で相撲を取ろう。
他人のふんどしで生きてはいけない。

困ることもあろう。
困らない人生なんかない。
お金がなくて、悲しい思いをすることもあろう。
お金ばっかりあって、寂しい思いをすることもあるかもしれない。
誰一人として自分のことを愛してくれていないと感じて悲しい夜もあろう。
何一つ誰の役にも立ててないと感じて絶望する昼もあろう。
人生はイージーじゃない。

時には周りがみんな楽してるように見えたり、裕福に見えることもあろう。
でも、それは間違ってる。
誰しも人生はイージーじゃない。

時にはイージーな日もある。
誰かの偶然の幸福な日を羨んだり妬んではいけない。
誰しもイージーじゃない日々を抱えて生きている。

イージーじゃないことはイージーじゃなくて良い。
イージーじゃない夜も、イージーな幻も等しく夜明けを迎えて太陽が昇る。
太陽が昇らなかったらどうしよう。
どうだろう、とりあえずは今の所、太陽が昇らなかった日は無いみたいだから、何とも言えないね。
止まない雨はないっていう。
実際どうなんだろう。

でも、幸福な恋人との夜もあっさり朝が来て終わるように、やっぱりいずれは何事も終わるはずだよ。
また、イージーじゃない夜が来るかもしれないけれど。
太陽は昇る。

問題はイージーじゃない昼のことかな。
それはどうするかな。
でも、太陽は昇っているはずだから。
まあ、何とかなるよ。

どうして太陽が昇れば何とかなるのか。
どうしてだろうね。

何ともならないことはないのか。
ないみたいだよ。
上手くいかないことはあるけど、墜落すれば墜落したで。失敗の後には、また新しい何かが始まるみたい。
すこぶる長いトンネルのように思ったって、地球の反対につながるトンネルじゃないから大丈夫。
鉱山のトンネルだっていつかは鉱物をすっかり掘り切られてしまって、終わりになる。
何かになる。なんとか結果というのは出てくる。悪い結果でも悲しまないで。また、新しいトンネルを掘ろう。掘れなくなったら、それはそれでおしまいだから、心配しなくて良い。どんな夜にも太陽は昇るから。

まあ、そんなわけでゆっくりしよう。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 21:19| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

中心点。

エマーソンレイクアンドパルマーなんて聴いたりしつつ。

アフリカ自転車旅行にドイツに住んでいる孔明を誘ったら、
ーーいいぜ。
とのこと。
もちろん、金や時期などタイミングにもよるから、実際には一人で行くことになる方が可能性は高い。
それでも、
ーー面白いことには死ぬまで前向きだから。
そのフレーズは流石は孔明だと思わされた。

孔明というのは本名なのだが名前負けしない、知識を備えている。
知識とは世界に接する姿勢と度量、そこにいる様々な人間の種類を体験しているかだ。
現在の大学だとかで言うのは学問であり、知識ではない。

実際、アフリカに自転車で行こうという言葉を理解出来る日本人というのは少ない。
日本人にとって外国は遠い。
それに対して、ヨーロッパの人間にとってアフリカとはかつて占領していた土地で、今でもサファリを眺めに行く観光地のような感覚だし、かつては困ればダイヤを絞るか、無教養の労働力を好きなだけ持ってこれる、そして危険な病の巣箱、という程度の土地。
別にアフリカは彼らにとって遠くはない。

もちろん、自国を出ずに生涯を過ごす人間もいるが。
南米のスポーツ選手がヨーロッパで活躍することはとても普通なことであるように、白人、黒人圏というのは、割と移動するということ、移住に抵抗が少ない。
もちろん、すべての人がそうではないが。

今週末は孔明はモデルだかしてる日本人の恋人を連れて、アムステルダムにマリファナを楽しみに行っているらしい。アムステルダムではマリファナは合法だ。
外で吸ってはいけないが、コーヒーショップで吸ってブラブラ状態で街を歩くのはバッチリ合法、僕ら日本人からするとオランダってのも変な国だ。

ちなみに、僕はマリファナは好きではない。
よく飲みに出掛けているFUSSAシティーでは、今でも自家栽培が盛んなようだが。
一口に言えば、酒だのマリファナだの、或いは海外旅行だの、そういうものに頼らねば面白いことが出来ないなんてのはセンスがない人間だと考えているからだ。

僕はよく割とハードな鬱状態に落ちることがある。
でも、それもまた楽しいと思っている。
もちろん、出来るなら鬱状態なんて入りたくない。それなりに辛い。一歩間違えると死んでしまうこともある。
でも、そういう精神に入ることがあるのも自分の人生なのだ。そう考えると素晴らしいではないか。日々、明るい電灯の下で、みんなで笑ってダンスを踊る、そういうのも良いのかもしれないけれど。時々、世界中が停電して、星も何もかも死んで、ただ眠りたいのに、歩かなければいけない、ツラくてツラくてどうにもならない、恐ろしい真っ暗な道を歩かねばならない、そういう夜、いや、実際には二週間とかの割と長いスパンなのだが。いろんなものが混ざっている、明日が全く予期出来ない、そういう人生って素晴らしいじゃないか。

だから、マリファナとかで無理に脳みそに何か出させてハッピーと叫ぶのは好きじゃない。まあ、マリファナはいつでもハッピーなんていう危険な薬物ではないのだが。
単にマリファナでふらふらしているより、静かにアルコールと煙草で自由な物思いにふける方が僕の好みに近いというだけなんだが。

一口にその辺の話をまとめると。
ーー世界で一番良い色は赤にしましょう。次が青で、その次を黄色。悪い色は。。。
そういう馬鹿なことは好きじゃないのだ。
楽しいから人生は素晴らしいんじゃない。
悲しいから人生は悪いんじゃない。
素晴らしい人生は素晴らしいし。
悲しい人生は悲しい。

バランスが大事などと言ってしまえば、それが近いのかもしれない。
でも、別にバランスを取ろうとする必要もない。むしろ、バランスを取ろうとしてバランスを保つなんてのは本末転倒で、それこそバランスが悪い。
簡単な例えで言えば、ブレのない円はとても良い。どこかしかるべき軸を決めて回してウネウネしない円。
ただし、楕円は良い。回すとウネウネしてるようにも見えるが、ある速度以上で回すときちんと秩序が出る。ある場合には真円以上に綺麗にブレずに回る。
正方形にせよ、複雑なウネウネしてるような図形でも、回すと綺麗に回る図形というのが存在する。
味気ない言い方をすれば点対称の質量を持った図形。
紙切れの場合、たいていの図形にもそういう中心のようなものは存在するのかもしれない。
ただ、現実ではある物質とは場所によって質量のばらつきもある。
点対称となる中心を持つというのは難しい。

(ちなみに、点対称となる中心という言葉は数学的にはヘンテコな言葉で。数学的な言葉としては重心なんて考え方に近い。つまり糸で吊って、水平になる点。均一な厚さの紙で言えば、面積を2等分する線の交点で求められる。ただ、僕の言っている、点対称となる中心の点というのはまた少し違う意味になる。内心、外心、垂心、傍心など、幾何学的にはいろんな図形の真ん中を定義する言葉があるが、三角形の九点円の中心くらいが近い気もするし、そうでない気もする。ちなみに、九点円の中心は、垂心と外心の中点だそうな。全く三角形とは実に偉大な図形だなぁ)

まあ、数学的に云々というわけでもなく。
物事にはクルクル回るための中心がある時もある。うまく綺麗にくるくる。全てのものがそうとも限らないし、或いは実はくるくる綺麗に回るものでもその中心点を気付いてないだけということもあるのかもしれない。
なんにせよ上手くくるくる回るということはとても素晴らしい。

そういうのがバランスというものだ。
綺麗な図形である必要はない。
くるくる。

僕が人とちょっと変わってるとしたら。
単にアフリカに行きたいというより、むしろ、そういうくるくるをより良くするため、或いはそのためのくるくるの中心点を自分の中でどこかある程度把握するためにアフリカに行きたい。
そんな考え方なのが変なのかもしれない。

それにしても、孔明に勧められたサマセットモームの月と六ペンスは実に素晴らしかった。
良い小説っていくらでも世界にあるんだなぁ、と。

しかし、モームはどうして実際のゴーギャンの生涯とは違うことも多く書いたのだろう。
もちろん、優れた小説家だから、読者にとって有意義な読み物となるようにするためなのだろうが。

多分、ゴーギャン自身は月と六ペンスみたいな芯の通った男じゃなかったような気もする。
でも、確かに小説とは月と六ペンス的なものであるべきだ。

ねむい。
そんなこんな。
posted by ちょろり at 02:28| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月11日

アフリカを思う卑怯な男。

随分、今の僕は卑怯者。
自分のことを自分で悲しんでいる。

ーーねえ、僕はやっぱり頭がおかしいのかな。
女の子は答えずに毛糸を転がしている。
赤い毛糸は煙草で鈍い色になっている。僕はそんな赤がどうにも好きだと思う。そんな毛糸玉を転がしている女の子を素晴らしく快楽を与えてくれる絵だと思っている。
原色は嫌いだ。
濁った原色が好き。
女の子には明日はないと僕は思っている。
女の子はそれには気付いていないし、気付こうともしない。
だから、女の子はとても素敵な笑顔を見せてくれる。
僕が女の子を飼っている理由なのかもしれない。

そんな卑怯な会話を最近の僕は繰り返している。
自分を哀れんでいる。
ーー怖いならやめれば良いじゃない。
ーーそうだね。
ーーじゃあ、あなたはずっと私と一緒にいるんだね。
ーーそうではないね。
ーーでも、あなたは私をずっと愛している。
どうかな、もしかすると僕はあなたを愛してるかもしれない。
でも、それはあなたにとっては性器をいじられた人間が反射的に抱く感情を愛だと思っているだけかもしれない。
僕の方もそうかもしれない。
あるいは両人にとって違うかもしれない。

女の子は大音量のジャズを求めている。
僕はもうすっかり眠たい。
ジャズなんてよしてくれ。
もちろん、クラシックも。
ヒップホップもレゲエも。
ロックだって。
よしてくれ。
そう思いながら、僕は嬉しそうにボリュームのツマミを右にひねる。アンプが一生懸命揺れる。

その下の階にはヒステリックな女性が住んでいる。
女性はみなどこかヒステリックだ。
女性は人生の苦しみを知っていながら、それを受け流しながら飄々してるから。
馬鹿な生き物だ。
人間なんだね。
馬鹿な生き物だ。

いつも見ているワイドショーを小さな音にして、耳をそばだてて僕の部屋の音楽を盗み聞きしようとしている。
愛のあった頃の男女の暮らしなんていう映画の音声。
どんな汚い川の畔でも美しいライン川の畔だと思って。
はたから見ればみっともないような愛の言葉を平然と大真面目な顔して、大真面目な心で囁きあって、密室に消えていく二人。
ヒステリーの衝動を抑えるために、下の階の女は耳をそば立てている。
男は今日も働きに出ている。
何一つ男は知らない。
男は幸せ。

ーーだから、みんな全てを忘れることにしませんか。
国連総会でのアメリカの提案に日本は言うまでもなく、中国、ソビエトも頷いた。

全てを忘却した時代。

卑怯者の僕はそんな世界を信じて悲しい自分を楽しんで、自分の勇気を死ねと叫んでいる。

こうも論理的なまでに否定されてもアフリカはどうして死なないんだろう。
どうして僕はアフリカなんかに行きたいんだろう。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 23:27| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

誰かと走る。

アフリカ自転車旅行の同行者をツイッターなんかで募ってみている。
2016年12月頭から3、4ヶ月ほど。
ナイロビからケープタウン。
あれこれ込みで七十万円ほど。
自転車初心者歓迎。
チャリは持って行っても良いし、現地調達もオーケーって方向で。
まあ、日本で準備する方が無難だけど。
チャリなんか走ってりゃ勝手に覚える。
少々の故障は、僕の方である程度、何とかする。
ただし、命と旅費に関しては自己責任出来る人で。

それにしても珍しい。
自転車旅に同行者を募るなんて。

理由は案外シンプルで。
せっかく行くなら自分が走っている姿の写真の一枚でも欲しいなと。
三脚持っていけば解決するにせよ。
まあ、誰ぞ一緒にいれば二人で良い写真なんて撮りあったりも出来るだろうし、割とそんな日々も楽しいのかな、って。

そんなわけで、一眼レフなんか使いこなせる人ならベター。
虫の良い募集。

いや、悪い虫もいっぱい出そうな大地だけど。

それに、人間観察もかねて。
アフリカをチャリで一緒に走りたい人いない?なんて問い掛けに、ああ、行きたい、なんて言う人間ってどんな人間なんだろうなって。

そんな人間って。
ジャック・ケルアックの路上とまで言わずとも、まあ、なかなか面白い人間か、或いは驚くほど普通の人間だか。
どちらにせよ、観察するには素敵な人間だろう。

詳しい予算やらルートやらは適当に相談して決めれば良いだろう。
負んぶに抱っこみたいな人間と一緒に走るわけにもいかない。
適当に相談して、まあ、適当にある程度が決まるような。
テントは各自ソロを持って行くか、それとも二人で使えるサイズのものを持って行くのか。
ああ、話すことってそのくらいか。

小説なら素敵な女の子が応募してくる。
これはとても素敵だ。
主人公の僕は女の子との旅を通して、自分に足りていないものを理解していく。女の子もまた何かを得ていく。
ご都合主義極まりない良いストーリーだ。

ストーリーとは、ご都合主義が必要だ。
案外、現実の方がご都合主義が過ぎてることもあるけれど。
適度なご都合主義。

ふと思う。
七十万円でアフリカを自転車で走るか、百万円でピースボートでも乗って世界中回ってみるか。

七十万円って意外と安くない。
内訳としては飛行機二十五万円、一ヶ月の生活費を七万円くらいとみて二十五万円、ピザやら諸経費五万円ほど、装備に十万円前後。
実際は七十万もかからないにせよ、帰国後の余力もいくらか考えておかないと残念なことになる。住民税なんかは前年の所得から請求が来るので、収入ゼロの年に結構な金額の請求が来ても困る。
大した余力は残さないかもしれないが、最低七十万は、やはり必要なのだ。

でも、ちょっとした中古車を買えば七十万くらいはする。
チャリでも高級車を買えば七十万くらいはする。

七十万ってのは安いんだか、高いんだか分かりにくい。

でも、多分、野生のゾウを僕ら日本人が見るにはそのくらいのお金ってかかるのかもしれない。
いや、象見るだけならもっと安いか。
ケープタウンで野生のペンギンも見れる予定だから、それでトントンってところか。

七十万円あれば。
公立の看護学校なら通えるだろう。
看護の資格を取れば人生、金銭面では困らない。

アフリカに行っても、日本で役立つことなど何一つない。
断言する。
何一つない。
一円にもならない。
むしろ、マラリアなんかにかかって、一生マラリア持ちなんて厄介なことになるかもしれないくらい。

あれこれ考えると、誰かと一緒に行くなんて面倒な気もしてくる。
一人で行って、一人でぼんやり楽しんで来れば良い。
まあ、それが正論だし、順当なところだ。
気楽だ。
二人で行くからって怖くなくなるってことはない。何せ二人ともチャリなんだから、相手に助けてもらおうにも出来ることなんて多くはない。
二人なら勇気が出るなんてのも、もう少し安全な範囲でのことまでだ。
テントで眠っていて象に踏み潰されるかもしれないなんてのは、二人でも一人でも大してリスクの差はない。交代で焚き火の番をするってのも良いかもしれないけれど、まあ、二人ともぐっすり泥のように眠るだろう。

一人乗りの乗り物なのだ。

まあ、荷物を分担できるとか、二人で行く実際的なメリットというのも実際にはあるんだろうけど。

割とヨーロッパ人は何人かで国外のチャリ旅を楽しむっていうのは珍しくない。
むしろ、国外チャリ=仕事をやめて一人きりで世界一周っていう日本人の方が世界では珍しいようだ。
まあ、日本にはバカンスなんかも無いし、一度仕事を辞めると、次の仕事っていうのがとても限られてしまうなんて背景もあるんだろうけど。

誰か同行者を募ってみるっていうのは、何となくの思い付きだったにせよ、なかなか楽しそうな考えだ。

誰も来なくて一人で行くっていうのが、順当なところだけど。

何かする時に、その何かを出来うる限り面白い形に加工していくって大事なことだと思う。
前回の南米はただ生きて帰って来たかった。
同行者なんて夢にも思わなかったし、楽しいことも勿論したいけど、まあ、とにかく生還。

ビザの取り方ひとつ知らないけどね。

まあ、のんびり倹約生活して、お金を作って。
不要なまでに過度な期待など作り過ぎず。
やはり不要なまでの過度な理由など作らず。

楽しく走ってこれれば良い。
やはり今度も目標は生還。
象やカバに踏まれないように。
毒虫にさされないように。
マラリアにも掛からないよう注意すること。

ーーーーーー

旅に際して、特に世界一周に際して、二種類の人がいるらしい。
旅行後の生活に関してだ。

ひとつは、旅行を通して何かしら掴んで、その後を生きていくために実際的に役立つ何かを習得しようと考えていく種類。
この人たちを仮に向上型なんて呼ぶとしよう。

もうひとつは、そうじゃ無い人。まあ、その後の生きる糧にしたいけど何となくぼんやり考えている人だったり、全くどうでも良いやって種類。
こちらは自分探し型としよう。

前回、南米のパタゴニアをした時には多くの日本人旅行者とも仲良くなった。

向上型の人で一番最初に思い浮かぶのは、現在、フィリピンでビジネスをしている夫婦だ。フィリピンには英語学校があり、それの日本人向けの斡旋、そして宿舎を営んでいる。
実に賢い旦那さんで、奥さんも美人だった。
美人とは優れた男性を見抜く力を持っている場合が多い。実際、旦那さんはとても優れた人間だと僕には感じられた。
二人の信頼関係というのが見ているだけでよく分かった。
このご夫婦は他の旅行者にも実に感じが良く、みんなに慕われていた。

もう一人向上型の人を考えると、サブロー先生がいる。
先生は日本を何とか良くするための革命の同志を募るためにオートバイで世界一周をしていた。
現在、実際には革命はしていないけれど、別角度から日本の国を良くするための行動をしていっている。

カパック君もまたその一人だ。
彼は今はペルーの日本大使館で働いている。

旅する中で偶然にそういう良い形のきっかけと出会ったのかもしれなあ。
それでも、出発する前から何かしら、そういう良い出会いというのを狙っている。

自分探し型の人というのは、行けば何かあるだろう、みたいな人だ。
言うなれば、他力本願。
旅行の計画なんかはもちろん自分でやるにせよ、そこで何が得られるかなどに関しては、割と他力本願なのだ。

帰国後何にも繋がらなかったからと言って、自分探し型とは限らないけれど。
少なくとも、旅の中でのその人の姿というのを見たり、会話してると、ああ、この人、自分探し型ね、と何となく分かる。

余談だが、自分なんてのは日本にいようが海外にいようが見付かることもあれば、そうでないこともある。

かくいう僕も自分探し型なのだろうが。
いや、別に自分を探してはいないけど、タイプとしては、ね。

別にどっちが良いということも無いだろうなと今は思う。
少し前までは自分探し型っていうのはイマイチだなと思っていた。
それで、アフリカっていうのは死ぬまでに行ってみたいけど、まあ、行かないかもしれないし、それはそれで良かろうと思っていた。

でも、あれこれしてる内に、自分探し型ってのも悪くない気がしてきた。

一口に言えば、まあ、何となく行きたいから行こうかな、っていうのも悪くないんじゃないかな、って。
仕事を辞めるにしても、まあ、何となく自分には合わないなと思えば、するりと辞める、これは社会的には問題かもしれないけれど、当人が納得するのなら、まあ、それはそれで悪くないんだろうって。

何となく思って、何となくしちゃう。

何だかすごく楽観主義みたいだけど。

でも、フェアに考えてみれば。
何かしら思うところがあるのに、何もしないっていう方も結構問題なはずなのだ。
忍耐とかは大事にしたって。
変だなと思えば、やはり変だと思うと声を上げれた方が良いし。
より良いと思うことがあるなら、何かしら改善策を試してみるべきだろう。
もちろん、事情があるからそうはいかないにしたって。
せっかく頭が何か考えてるのに、何もしないっていうのは、やはり問題があるんじゃないかな、って。

そんなわけで、何となくの自分探し型っていうのも悪くないのかな、って肩を持ってみるようになった。

まあ、実際には良い年こいて定職離れてふらふらするっていうのは、それ自体、割と問題でもあるんだけど。

でも、まあ、一億総活躍だか言うフレーズを掲げている国もあるけど。
活躍せずにのんびりしてる人間だっていくらかは必要だろうと思う。
定職に就かずふらふらしてる人間なんてのは、だいたいどこの国にもある程度はいるものだし、国に限らず人間をある程度集めるとぽろぽろいるものだ。
別にその人が不真面目とかじゃなくて。
単にふらふらしてる人間っている。

まあ、そんなふらふらする人を温かくウェルカムモードで受け入れる必要はないけど。
ふらふらする人も、まあ、中にはいるよね、くらいの許容量っていうのは社会にあった方が良いと思う。
で、ふらふらする人が働きたいと言って、能力に問題がなければ仕事があるような。

だって、そうしないとみんなくたびれる。
たまには、みんなふらふらもしたい。
アフリカ自転車なんて危険なことはしたいと思わないにせよ。
仕事が肌に合うとか合わないとかってある。頑張っても上手くいかないこととか。
そういう時にちょっとした休憩期間なんかって簡単には取れないにしても、取ることも可能な方が良いでしょ。

ふらふらなんて絶対にしちゃダメ、そんな風に考えていると、みんな辛くて辛くてどうにもならなくなっちゃう。

まあ、ふらふらする人が増えすぎると困るから、意図的にそういう社会にしているのかもしれないけど。

社会っていうのは、理想の方を向いている。
システム化、合理化。
より多数の幸福。
人間が人間のために、お互い気持ち良く生きていけるように。

でも、残念ながら人間も動物なので、理想にはなかなか到達できない。
ふらふらしたい連中も出てくる。

自殺の問題っていうのは、社会が進むごとに増える問題かもしれない。
社会は理想に近付く。
技術の進歩もあるし、経験の蓄積もある。悪い歴史をできるだけ繰り返さないようにする。
それと一緒に禁じられるふらふらも増えて来るように思う。
それがどこにも行き場がなくなってしまって、どうにも存在が許可されていないような気持ちが強くなってしまうと、自殺してしまうのかもしれない。

まあ、生きていくには飯も食わねばならない。
誰の役にも立たない人間が食う飯などあるはずもない。余裕などないのだ。
毎日、大量の残飯が捨てられるけど、そんなにお腹が減ってない時に頼んだ五百円の定食の量が、一言の断りもなく減っていると、これは腹が立つ。減らした分を裏のホームレスにあげましたよ、なんて気楽に言えるものではない。
ーー何を勝手に僕の食事を他人にあげてしまってるんだ。
って。
もちろん、食べ切れなくて残した残飯を捨てても怒りはしない。結果としてはホームレスの人が汚れてから食べるか、綺麗な状態で食べるかの違いなのだが。
怒らない人だってもちろんいるだろうしね。

まあ、僕らには他人に何かを無償であげられる程の物質的余裕がなかったり、あっても心の余裕が意外となかったりってのが現実なのだ。

考え出すと、答えの出ないような問題。

まあ、そんなわけであまり深いことも考えず、アフリカでも自転車で走ってみるのが良かろうと。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 03:50| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月10日

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こーへー先生は火曜だか水曜の朝までいるとのこと。
東京観光と言っても、一人は会社を辞めて、もう一人もじきに会社を辞める、無職二人。
金はあまり使い過ぎたくないところ。

そんなわけで自転車をこいで温泉に出掛けた。
ロードバイクで行けばすぐのところだ。レース前の時期には夜練、朝練、ちょくちょく走りに行った。
そう、辞める今だから言うが、まあ、それなりに練習だってしていたのだ。

別に店員だからって速くないといけないってこともない。
でも、速い方が自転車屋としての誇りが持てた。
好きなことを仕事にしている。
だから、少なくともお客さんの誰よりも自転車を好きでいたい。
本気でそう思った。

まあ、三年した中で直接のお客さんには一応誰にも抜かれなかったので良かった。
スーパースターまでなれなくても、ちょっとした憧れ、ほんのりした尊敬が持てる方がお客さんは嬉しいだろうから。

趣味の道具を売るって、夢を売る商売だと思う。
趣味って何なのかって、離脱先だ。

日々生きていると息も詰まってしまう。
だから、休みの日には、息抜きが必要だ。
息抜きだって、ただ1日ソファの上に転がっていれば良いわけじゃない。
心が息を抜けないといけない。

そういうときに夢って要素は大きいと思うのだ。
100パーセント自分が出来ることを繰り返すっていうのは、確かに通常の日々の中では安心がある。
でも、息抜きの時には、出来ないかもしれないけれど、もしかすると出来ることっていう要素が大事だと思う。
これが出来るようになった自分は、きっと今の自分より素敵かもしれない。
もちろん、金銭的、社会的なメリットが云々ではない。
ただ、それが出来るようになった自分というのに憧れる。
それは一種の夢と言っても良いんじゃないかなと思う。

だから、自転車という道具を売るときにはお客さんに絶えず自転車の可能性っていうのを伝えられないといけないと思った。
そして、正直なところ、売り上げが作れる店員などというのはどうでも良く、自転車を始めた人が夢とか浪漫を感じれるように。

そういうのって、誰かの人生に影響を与えているって言っても良いと思う。
誰かの人生の中に自転車の喜びを。

実際のところ、そんな立派な仕事が出来たのかといえば分からない。
まあ、現実には、別に僕が売らなくても、自転車に出会うべき人は出会うべくして出会う。
出会わない人は、購入こそすれど、やはり離れていくだろう。

でも、まあ、漂泊の想い立ちて、だ。
漂い、泊まる。

やはり究極のところ、理由という理由などないのだ。
人間、好きなことは好きだし、嫌いなことは嫌いだ。

良い歳こいて。
そろそろ、きちんと人生を考えなさい。
そうね。

あれこれ複雑に見える。

でも、多分、割とシンプルだ。
好きなこと、やりたいことが、
ない人。
あってもやらない人。
あったらやる人。

そういうのって割と自由だろう。
本当のところは、ね。
人間してるんだから。
人間は社会的な動物には違いないけれど。
やはり、それぞれがある程度に独立して、自分の責任を自分で持ってる。
そうでしょ、そりゃ、そうですよ。
バランスだって取れると良いにしたって。
バランスを取ることばかりに固執していてはいけない。
そんな風に思う。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 01:25| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月09日

万巻の書より、風の話を。

こーへー先生が来ている。

それにしても。
友達は少ないのに、よく友達がやってくる家だ。

先生は仕事を辞めてしまった。
腕の良い整体師だ。
大阪でやっていた。
その前には鳥取だった。

偶然、僕も仕事を辞めることにしていた。

だいたいに僕は人の話を聞くと、嗚呼、僕の仕事は楽チンなのに、僕は苦しんでいる振りばかりするのだなぁ、などと考える。
今夜もそうだった。

そんなに恵まれた中にいるのに、僕は仕事を辞めるのか。
そういうのはやっぱりある。

でも、やはり夢なのだ。
アフリカを自転車で走る。
それ以上に言えない。

どうしたって、僕は今の生活を中断してアフリカに行かないといけない。
なぜって分かりはしないが。

こーへー先生はしばらくドカタをして、公務員の中途採用を目指すと言う。
僕は公務員は、今のところはする予定はない。

当面の暮らしはよく分からない。
でも、山小屋に行きたい。
採用してもらえるかは分からないけど。
そりゃ、山小屋だって、働きたいです、ああ、そうですか、そんな安易な世界ではない。
その年のその山を守ってくれる仲間を求めている。

まあ、駄目なら駄目で何とかするしかない。
そういうのは風の話だ。

馬鹿みたいに思われても。
万巻の書よりも、風の話に耳を傾けること。
やはりそういうことが大事だと僕は思っている。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 02:29| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月08日

いざ、アフリカ。

アフリカは僕の夢だったということを思い出したのかもしれない。

明確に来年の今頃アフリカの大地を走っているというビジョンが持てる。

「海外を自転車で走りに行こうっていう人間の頭の中はどうなっているの?」
南米から帰ってから、そんなことを何度か聞かれたことがあるのを思い出した。
聞かれた時には、
「うん、我ながら分からない。でも、行こうと決めて、気付いたら帰国してた。気付いたら走り終わっていた」
なんて答えていた。
実際、本当に。
自分でも、どういう経緯で南米に走りに行こうと思ったのか、よく思い出せない。

南米に行って戻った僕を見て痩せたと言った。
まったく。向こうでは本当に痩せた。
特に顔がこけた。
本当につらかった。
でも、本当に楽しかった。
相反する方向の刺激が絶えず僕の身の上、頭の中に流れ込み続けていた。

文章家を志す人間のくせに、まったくそういうことを上手く言葉にすることはできない。
自転車で大地を走るというのは、言葉にする以上に、流れ込んでくるものが膨大だ。
実はあまり難しいことはない。
多分、まったく自転車に乗ったことがないという人でも、だいたいの大地を走り抜けることが出来る。
日本一周をママチャリでするというのが、大変なことには違いなくても、実のところ誰でも出来るというのは事実だと思う。
(いや、僕はしてないけどね)
平たく言えば、毎日一時間延々と隣の町に向けて走れば、日本は一周できる。

冗談じゃなくて、自転車で遠くまで行くっていうのは、本当にそれだけのことの積み重ねだ。
ただ、自分が走れるだけの距離を、日々繰り返す。

そういう中で、距離というものと、体力というもの、食べ物というもの、睡眠、それから人間、そして、時間というものを感じる。
二十キロの距離を走るには、時間が必要だ。
ロードバイクで四十分ほど、クロスバイクで一時間と少し、ママチャリなら一時間半ほど。
もちろん、体力によって、時間と距離というのは変わるにせよ。
距離が延びれば時間は伸びる。
ある一定の時間の中で人間が出来ることっていうのは様々だ。

昔、自分の読書速度をはかったことがあるが、恐ろしく遅読の僕は、二十分で文庫本十ページという値に辿り着いた。
一ページ読むのに二分、百二十秒もかかるのだ。
最近は測ってはいないけれど、体感的には、恐らく昔と大差ない。

逆を言えば、一時間あれば三十ページが読める。
僕が休日に走りに行くときには短くて三時間ほど、のんびり流したり、何か食べたり写真を撮ったりして50kmほど。
三時間は九十ページ。これは、日本文学で言えば、中編くらいの長さに当たる。
今、適当に本棚から取った名作、横光利一「機械」は文庫で40ページ。
暇がある人は読んでみて損はない。
確かな名作だ。
本当に心底感動した覚えがある。

つまり、休日のサイクリングで横光利一「機械」は二回読める。
僕の休日は月に六日、つまり、12回読める。

残念なことに僕は人生で十回以上繰り返し読んだ作品というのを思い出せない。

それほどの時間を僕は自転車に費やすこともある。
もちろん、家でだらだらウイスキーを飲んで、眠って過ごすこともある。

尊敬する年上の人が僕の南米自転車旅行について言ってくれたことで、今でも覚えているフレーズがある。
「いいことをしたね。君は地球の定規を一つ、自分の体を持って感じて来れたんだね」
そんな感じのフレーズだった。

多くの人は、自分の住む家から職場までの距離を自分の体で測ったことがない。
エンジンの付いた乗り物で行ってしまう。
ましてや、隣の県までの距離など。

千キロという距離を自分の肉体で感じたことのある人間というのは地球上に実はさほど多くはないのだ。
(もちろん、少なくもないけど。少し気の狂った自転車乗りの場合、ほぼ不眠で60時間以内で走り切ってしまう距離なのだが、それは別の話)
世界地図を見て、ここ、と指す。次に適当に、ここ、と指す。
地図の上ではほんの数センチの長さなのだが。
実際にその上にどの程度の時間があったり、人間や集落があったり、景色があるのか。
普通の人にはそういうことはまったく分からない。

若い間に自分の体に、地球の定規を体感しておく。

かつての僕はその言葉に随分救われた覚えがある。

はて、どんなタイミングで、人は海外を走ろうという気持ちになるのか。
実のところ、今回もよくわかってはいないのだが。
とりあえず、今は、キリマンジャロは現地で十万円ほど渡せば登れると知って、ぜひ登りたいと思っていること。
ビクトリアの滝っていうのが壮大なので、ぜひ立ち寄ってみたいこと。
喜望峰。
あとは、出発までに南アフリカの作家クッツェーの作品を読んでおきたい。
そんあことを妄想しているだけでウキウキする。

でも、夜の眠りは良くない。
浅い。
やはり怖いのは怖い。
死ぬかもしれない。
別に死ぬっていうことには、さほど嫌だという気持ちは起きない。
非道徳的かもしれないが、日本の密度ぎっちしの人間の中でストレスを抱えて、わけの分からない日々の中で、ふとしたことで自殺するかもしれないという恐怖、そんなものと比較すれば、アフリカで象に踏まれて死ぬっていうのは、まったく清々しい気さえする。

もちろん、実際に象を見れば怖いだろう。あの動物は生で野生のを見るとかなり怖いらしい。
それが瞬時にして、しかも向こうの気付かぬ間に僕を踏みつけて、僕の命は火を消す。
実に恐ろしいことだ。

怖いと思う。
恐怖の毒虫にかまれたらどうしようとか、やばい病気にかかったらとか、ゲリラに遭遇したらとか。
駅前でヤンキーに絡まれるのとは次元が違う。
面倒くさいではない。
体中が痛みを訴え、穴という穴から血を噴き出して、苦しみ死ぬことは、まったくありえない話ではない。
そこまで言わずとも、これまでの人生でみたこともない、異様な姿をした生物が僕のふとももの上でガブリとやるかもしれない。
とんでもないくささの中を一日中走ることもあるかもしれないし。
黒人のボディビルダーに囲まれて、アンチアジア、いや、それを言うならアンチエイジングだ、僕を殴らないでくれ、と泣き叫びながら、人間としての形をとどめないまでに袋叩き、いや、さすがにそれはなかろうが。
自分が想像だに出来ないような苦痛が存在する可能性というのはある。

そう、一つに、本気で行こうと思っている人間は、普通の人以上に、向こうでの恐怖っていうのを考える。
普通の人以上に、恐ろしい可能性というのに怯えることもある。

そして、普通の生活の中にある素晴らしいこと、楽なことだったり、楽しいことだったり。どっちも楽か。喜び。嬉しさ。女が喜べば嬉しいのか。
なんにせよ、そういうプラスのこと、普通の生活を送っている中では気にも留めなかったことに気付いたり、妙に心を引き留められもする。

でも、どういうタイミングだかきっかけだか分かりはしないのだが。
ある時、パチン、と音がする。

その音っていうのは気付かない。
後になってから、あ、何か音がしたのだなと分かるのだけど。
その時には気付かない。
いつの間にか、異国の大地を走っている自分の姿、何が楽しいのかまで分からないにせよ、なぜか非常に心から、肉体の底から湧いてくる喜びの中で、苦労しながらも前に進んでいる自分の姿、それがはっきり見える。
そうなると、いよいよ昨日まで巨大な障壁と思っていたものが、どんどんと小さくなる。
楽しいことばかりが、どんどんと大きくなる。
楽しいことに夢中になる。
そして、気付くと、走り終わっている。

言葉の上で考えるとそういうことなんだろう。
だから、海外を自転車で旅した人々は多くの言葉を持たない。
ただ、静かに素晴らしい日々でしたとだけ語り、元の日々、或いは以前より不利な日々、時々、いくらか有利な日々をつかむ人もいるけれど。
ただ、静かに母国の生活の中に帰っていく。

理論じゃない。
自分の体を定規として、世界に向かってあてがってみるということ。

ただ、それだけの営みなんだと思う。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 01:04| Comment(3) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする