2015年12月31日

今年もありがとうございました。本当に。

本年もありがとうございますなんて言うのは好きじゃないんだけどね。
やっぱり、ありがたく思います。
読んで下さってありがとうございました。
来年もふとしたお暇あれば、よろしくお願いします。
来年は僕も山に行くので更新も滞るかもしれませぬが。

ーーーー

楽しいことをしよう。
やっぱりそこに尽きる。

したいことをしよう。
したいことが何か分からないなんて、そんなことはやめよう。

やってみたら、やれるかもしれないし。
やれないこともある。
やれなかったら、ああ、これはやれないんだなって。
それで良いじゃないの。

百パーセント成功するようなことしかしない世界は好きじゃないな。
偏差値で成功率がいくつとかさ。
あれをしてるからこの人は立派だなとか。

何をしてるから立派とかじゃなくて。
あれこれしてるから立派とかじゃなくて。
良いことしてるからお金持ってるとかじゃなくて。

その人が素敵なら、その人は素敵じゃないの。

それしかないじゃない。

今年も、まあ、何とかそんな考えを通せた。
それが凄く幸せだ。
明日は8時半出勤にせよね。

小説家の真弓先生にも誉めてもらえた。
ギター職人のなごむ先生にも、ああ、ネズミねぇ、なんて言ってもらえて。
そんな人が集まるじろーさんのバーにいけば、おう、ねずみー、なんて言ってもらえて。

良い人って言ってもらいたいの?

悪い人になったらいやなの?

そうね。
やっぱりさ。
人間には好かれていたいよ。
でも、何より自分に好かれていたいね。

だから、楽しいことを。

みんなで良い年にしましょう。
そんなこんな。
posted by ちょろり at 23:43| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

断片

ぼんやりと過去をほじくり返して小説のネタを探し回っている。

今年は過ぎ去り行く年の足音も、やって来つつある年の声も聞こえない。
もしかすると、今年はこのままずっと続くのかもしれない。

ぐるぐると渦を描いている。
いろんなものがそこに吸い込まれていく。
ビート板には歯型が付いている。
あの色は何の色だろう。

変な緑色した空。
そこは時間が止まっている。
そこにはいつまでも変な形の尻尾の鼠が石の上に座っている。
綺麗な形をした頭の子供が鼠と嬉しそうに喋っている。

谷間である。
太陽はほんの数時間しか届かない。
深い森ばかりだが。細い道が縫ってある。小さな集落がある。
そこから少し離れた奥の方に灰色の直方体の建物がある。

とても深いので、水圧がキツイ。
どうしてこんな大きな水圧にこの体は耐えられているんだろうと思って見ると。
随分と長っちょろい、薄べったい、ヘンテコな体が僕の精神にくっついていた。

火事だ火事だと街が怒っている。
どんどんと地面を揺らしている。
すぐに揺れは治ったけれど、炎ばかり随分大きな態度でヘラヘラ笑っている。
バケツばかりで水がない。

大きな時計があって、それがどうにも欲しいと思った。
でも、それはおばあさんのうちで唯一時間を知らせてくれる時計だったのでもらうわけにいかなかった。

梯子をかけていた。
右から掛けたら、次は左から掛けるのが良い。
そう、順番にやっていけよ。
棟梁は機嫌良さそうにキセルをふかしていた。
随分と高いところまで梯子はつなぎ合わされた。
もう良いだろうと言って、棟梁はどんどんと梯子の上の方へと登ってしまって、結局見えなくなってしまった。

毛布の中に男女がいた。
じめりと、布団が湿っていた。
表情ばかりが布団の上を歩いていた。
めでたい、と大きな声を襖の向こうから響かせて来た。
あれは兵隊だと思った。
毛布の中の男女に知らせてやろうとしたら、やはりその男女はじめりじめりとしか答えなかった。
いよいよ兵隊が襖に手を掛けているのが分かった。

あちらの雲から順番に地面に降りていく手筈になっております。
posted by ちょろり at 00:31| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月30日

no-title

雪の音が聴こえている。
いや、雪など一欠片も降っていないのだが。
どこか雪の音が聴こえるのだ。

アフリカのルートを見直してケニアと南アフリカを外そうかなと考えている。
ケニアを外すのはほぼ確定。
やはりナイロビは治安が良くないので、入る都市としてしんどいかな、と。
黄熱病の予防接種の問題もある。
その一つ南、タンザニアスタートが良いかな、と。

飛行機代が予定していたより安いので、キリマンジャロ登山も出来るかもしれない。

まあ、コツコツお金を貯めればさほど難しい話でもないのかもしれないが、お金は出来うる限り貯めてはいけない。

というのも、お金は使う瞬間にこそ価値がある。
アフリカで使うお金にも当然価値があるように、東京で使うお金にもやはり価値がある。

例えば、先日、大道芸をさせてもらったバーにお礼を言いに行くにしても、やはりいくらかお酒は飲む。
そういうところで使うお金はケチってはいけない。

お金の切り所というのがある。

平たく言うと、人間、まあだいたいの人が得られる収入の内、実際に使える金額なんてのはさほど変わりない。
収入には差はあるが、意外と消費する金額というのは変わりない。
100の収入の人と50の収入の人では使えるお金も違うでしょう、なんて思うところではある。
でも、実際にはさほど変わらないのだ。

まず固定の支出が違う。
やはり収入の良い人はそれなりの固定支出がある。良い家に住んだりあれやこれや。
収入が悪ければ、それなりに暮らす。

それだけではトントンにならないだろう、という話になる。
そう見える。

でも、実際には、あれこれの支出とは、身の丈に合うようなところに落ち着く。

数字の上では三千円のディナーと千円のディナーは違うが、その人が感じる本質的な重さと言えば、案外同じだったりする。
裕福な人に千円のディナーなんて安っぽいものにせよ、僕にはご馳走という原理だ。

そんなわけで、使えるお金というのは、数字としては大小あれど、まあ、相対的に言えば大体に同じなのだ。
限られたお金の中で、何にどれだけ使うか。
それが、金の切り方というやつだ。

それを言うなら、東京で切るならアフリカで切るべきじゃないかというのも一理ある。合理的に言えば、それが正解だろう。
でも、現実的にはそういうわけでもない。

お金を使うには、もちろんお金は必要だが時間も必要だ。
もちろん、その気になれば一晩で十万くらいは男なら誰でも簡単に使える。
女でも抱けばすぐにそのくらいになる。
女の人は一晩十万となると、良い食事してお酒飲んでも難しい。コンサートでも行くか。服でも買うか。でも、服ってそれから先も着続けるものだから一晩で使い切るってのとは違う。

男って本当に女の人にお金を使う。
女の人に使わなければ、やっぱり一晩十万円って難しい。
良いバーでしこたま飲んでも三万が良いところ、一杯何千円とかのものを飲むにしても十杯も飲めれば良い方で。
食事にしても二万円払えば、まあ、十分良いものが食べられる。

やはり一晩で使える金額って、ある程度決まっている。

これが一ヶ月となれば、十万円くらいは今時の小学生なら簡単に使えるのかもしれない。

ある期間に使える金額というのはある程度決まっている。
そして、ある期間を過ごすのに使わねばならない最低限のお金というのもある程度は決まっている。

だからこそ、金の切り所というのが大事になる。

お金を持ち過ぎると、切り所への嗅覚が落ちる。
お金はちょっと少なめくらいが良い。
少なすぎると、切るべきところを切れなくなる。

平たく言えば風俗の女に馬鹿みたいに使っていると、これはただの馬鹿だが。
かと言って、全くそういう店にも行ったことがないというのも、やはり困りものなのだ。
男はいくらか女にお金を使うものだ。
それは商売女に限らず、全ての女に。
その中にはいくらかは商売女に使う割合もあるものだ。商売女を抱くのに、さほどの深い意味はないにせよ。
まあ、それを理解する程度のほんの少しくらいの支出もすべきだ。
人生で合計して十万円程度で良い。いや、五万円くらいか。
かく言う僕もそっち方面にはあまりお金を使わないので詳しくないが。

とにかく一見無駄なように見えるお金にもそれなりの意味はある。
しかし、度を過ぎればやはりただの浪費、金の切り所の間違いなのだ。

旅行をするのに貯金は大事だ。
貯金ができなければ、遊ぶことは出来ない。
でも、貯金のしすぎもいけない。

ぼちぼち実際にアフリカを走るための自転車のことを具体的に考え始めている。
パーツ構成だとか、割と堅いことを。
なんだかんだで6万くらいはやはり掛かるかなと。
たったの六万と言えば、それもそうなんだけど。
キリマンジャロ登るのに十万円を確保しておきたい。

でも、アフリカから帰っても、あともう少し山小屋と海外の往復見聞録して回りたいことも考えれば、やはりきちんと直しておくべきかなと思う。

もう少しだけ世界を広げないといけない。
もう少しだけ一人で遠くに歩いていかないと。

我ながら何のためと聞かれても分からないけれど。
多分、人生の最後に書く文のためじゃないかなと思う。
まだまだ先なんだろうけれど、その一文のために、今、体が元気に動く間に、自分の足で行かねばならないところがあるんじゃないかな、と。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 23:17| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

人間性の。

年末恒例のワタベさんとのマウンテンバイクの会に行ってきた。

動画も撮ってみた。無駄にそれっぽく編集もしてみた。
http://youtu.be/rww7Exotsv4
iPhoneって、こういう機能は本当に優れている。Windowsパソコンでやるより直感的に簡単に作れる。親指一つでこういうことが出来るっていうのはやはり感動だ。

ちなみに、動画はかっこよく作っているが、実際は僕はマウンテンバイクは下手くそだ。マウンテンバイクは怖がりだと駄目なのだ。

それにしてもワタベさんのマウンテンバイクのテクニックが本当に上手くなっていて驚いた。相当乗り込んでいる。
さすがに僕もチャリ屋なので、上手い下手はフォームを見ればだいたい分かる。たまに変なフォームなのに偉く速い人もいるけれど。
フォームに限らず車体の触り方や、車体を横にして立った時の雰囲気だけでも分かることもある。

やはり本来二足歩行の動物が、自転車という乗り物を乗れるようになるには、全体的にちょっとした変化みたいなものが必要なのかもしれない。

今年、ワタベさんには子供が生まれたので、もうあまり長々とは遊びにくくなった。
時間を早朝スタートにして。ちょくちょく凍った路面を走り、少し遅い昼食を食べると解散した。
山から下りて町に少し行ったところにある汚い小さな定食屋。
タンメンセット。
別に大して美味いわけでもなかろうタンメンとミニカツ丼だったが、山で友達と遊んだ後のご飯とは実に美味しいものだ。

こういう生活は悪くない。
自転車という自分の好きなものに関わり、お客さんとも交流があり、休みの日にはのんびりと自転車を楽しんだり、都心に少し散歩に出掛けることもある。
都心は人が多いのは苦手だけれど、やっぱり美しい人工物が多い。巨大なビルだって、建築と思って眺めればやはり楽しい。もう少しかっこいいフォルムになったりすればより良いんだけど。
浅草を散歩して適当にぶらりと昼からホッピーと冷や奴なんかしても楽しい。
美術館もあれば、ジャズ喫茶もある。
飲み屋だって、福生もあるし、昭島だって何だかんだ楽しい。
お金が無い時には家で文を書いたり、やっぱり自転車乗っとけば良い。
時には少し日帰り登山してもいいし、テント持って一泊のんびりしたって良い。

東京が唯一駄目なのは人が多過ぎること。
たった一点だ。

別にそれだけの理由で東京を去るわけでもない。

やっぱり仕事のことが大きいんだろう。
アフリカに行くより価値を感じられる仕事だったらきっともうどこかに出掛けることもなかったんだろう。

でも、そんな仕事って滅多にない。

仕事ってやっぱり自分で作らないといけない。
ハンドメイド仕事。

今と昔とで仕事っていくらか変わってきているのかもしれない。

うちの店に驚くほど使えないおじさんがいる。
おじさんはあまりに仕事が出来ない上に、給料は年功序列で僕よりも高いし、コミュニケーション能力もゼロどころか虫の居所が悪いと他のスタッフにぶつかるので、全員から嫌われている。
実際、本当に何も仕事が出来ないので、居てもらってもメリットがないどころか、居ると全員イライラする。
それでおじさんはビラ配りに行かされる。
でも、おじさんは分かっていない。どうしてビラ配りに行かされているのか。それどころかきちんと仕事をこなしたような気になっている。

でも、実のところ、そのおじさんには非はない。
おじさんは単に一昔前から今に変われなかっただけのことで、別段おじさんに非はない。
遅刻せず時間通りに出社して、言われたことを言われた通りにする。

チャップリンで言うところのモダンタイムスだ。
歯車のように人々が個性を喪失させて。ユタカナシャカイの為に労働スル。

時代が移ろった。
自分の仕事を作れない人間は役に立たない人間になってしまった。ただ、言うことを聞くだけでは役に立たない。自分の出来ることを提示して、自分の仕事を作る。

チャップリンのモダンタイムスの時代の次にはそんな時代が来ている。
チャップリンも分からなかったろう。
オートメーション、ルーティン化されて、人々は人間性を喪失すると思ってたろう。

でも、どうだろう。
自分の仕事を自分で作ることは本当に人間性の復興だろうか。
実のところ、人間性の喪失じゃないだろうか。

人間が進化すれば進化するほどに、人間は人間性を失っていくものじゃなかろうか。
分からないね。

山に、自然に戻るほどに、人間性を薄れさせるほどに、それは退化か、人間は喜びを感じれるんじゃないか。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 01:18| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月28日

移住の話と。

転々とする。
三年前後を周期に全ての生活を変える。
普通は大学の四年が終わると、あとは四十年前後の一つの環境。
もちろん、転勤だとかでいくらかは変わるけれど、基本的な根幹みたいなものは四十年変わらないことが多い。
あっても二回も転職すれば多い方だ。

定住と移住の問題。

割と日本では珍しい生活スタイルなのかもしれない。

なので、あまり良い暮らしは出来ないだろう。
でも、これは僕にとってすごく大事な形式だと思うので可能な限りは続けていきたい形だ。
三年ごとに全てを変えてしまう。

でも、その形で一番大事なのは変えることを前提としないことだと思う。
出来るなら、変えることなく継続させたい、ただどうしても変えざるを得なくなる。
それが重要なんだと思う。
そうしないと開き直った根無し草みたいになってしまう。

そういう点で、映画の寅さんって、本当に未来を読んでいたと思う。
或いは時代に関係なく発生する人間を描いたのかもしれないが。
寅さんは出て行く。

寅さんの良いところは、出て行くしかまとまらない人間性だ。
もしかすると、そのままそこで根を張っても上手く行くのかもしれないけれど、それでも、寅さんが出て行くことで全てが上手くまとまっている。
寅さんに出て行ってほしくないと思う人もいるし、寅さん自身、出て行きたくないと思っているところもある。
そして、寅さんってのは実にカッコ良くない。
見方によればカッコ良くも映るんだけど、基本的にはカッコ良くないから寅さんは良い。

対になるのは画家、山下清をモデルにした裸の大将だ。
あれはゴリゴリに山下清をかっこよく仕立てている。
ドラマの中では、凄い画家なのにルンペンのような暮らしぶりで、自由を求めて放浪し、行く先々で素晴らしい風景を貼り絵として残していく。
実際は、山下清は精神病院に収容されていて、その脱走として放浪していて、捕まって、病院に戻ってから、スタッフに半ば無理矢理に貼り絵を作らされ、その時に脱走の時の思い出の風景を作るわけだ。

実話との違いはいったん置いとくにして、寅さんとの違いはあくまで寅さんはかっこ悪く描くことで人間の美しさみたいなのを表現している。
裸の大将では美しく脚色することで美しさを示している。
真逆の方向性なのだ。

一見、映画を観ると寅さんの方がリアリティみたいなものがあるが、実際のリアリティは山下清なのだ。脚色されているとはいえど、実際に山下清は放浪して、その風景を絵にしている。寅さんはモデルがいそうだが実はいないそうだ。
寅さんは言ってしまえば、完全な作り物のキャラクターなのだ。

この矛盾。
作り物のキャラクター寅さんの方が、実在した人間をモデルにした裸の大将よりも、現実味があるという問題。
裸の大将なんて、絵に描いたような御都合主義のような話、まあ、話としては確かに脚色を重ねているので絵に描いてはいるのだが、あんな山下清みたいな人物はいそうにない、フィクション的だと感じるのが、普通の感覚だろう。それに対して、寅さんはいそうなのだが、実際にはいない。

でも、この矛盾は実は矛盾ではない。
というのも、お話の中での現実味というのは、実際の現実に起こりうる可能性とは違うのだ。

分かりやすい例としては、僕の日記だって、実話を書くときと、たまに小説のような作り話を書くとき、意外と現実味があるのは作り話の方だったりする。

というのも、これのタネは実はすごく簡単なもので。
実話を書く時、作る時には、事実のように見せようという技巧、工夫はしない。何せ実話なのだからそのまま書くだけだ。
これに対して、フィクションの場合、実話のように見せる技巧というのが入る。現実味の全くないストーリーというのは、共感を呼びにくい。

完全なフィクションの方が鑑賞していて現実味を感じられるというのには、そういうタネがある。

余談だが、小説の技巧指南書みたいなもので、よくディテールをしっかり書け、みたいなのがあるけれど、それこそ正にそれだ。
SFやファンタジーの方が、実話以上にディテールを書き込まないといけない。
逆に純文学には、情景の説明なんかが少ない。純文学では、無駄な記述というのを嫌う。現実を舞台に書く場合が多いので、無駄な細かいものは書く必要がないし、書かない方が強調したいフレーズが綺麗に浮き上がる。

小説の神様、志賀直哉は正にそれで。不必要なことをとにかく省く。ただ、浮き上がらせる必要のあるものだけ、言葉を増やしすぎずにきっちり書く。
この選別は志賀直哉の感性のみで行われているし、それが抜群に素晴らしいし、文体も見事にそのやり方にマッチする。
だから、彼は小説の神様なのだ。

逆にくだらない事をてんこ盛りにするという手法もあって。
井上ひさし氏の吉里吉里人なんか正にそれだ。
とにかく長い。
とにかく無駄なことをどれだけ丁寧に書くか。
本来、そんなものは少しでも書くべきじゃないものを、こいつ頭おかしいのかというレベルで細かく書く。
吉里吉里人では、東北の吉里吉里村が革命を起こす話なのだが、吉里吉里語というのが出てくる。要はただの東北弁なのだが。この作品が舌を巻くのは吉里吉里語辞典の内容をものすごくページを裂いて書いている。
吉里吉里語の発声方法、練習法など、事細かに書いている。
これが凄いのだ。

井上ひさし氏は一周まわして、あえてやることで、面白さを確立させている。
多分、井上ひさし氏みたいな作家はもう人類に出てこないだろう。
というのも、あまりに労力がいる上に、書いていて不安になる、無駄なことをしっかり書き込むという作業は本当にキツイ。
多分、ああいう変な文、もちろん超が付く名文だけど、やはり変な文、そんなのを書く変な人はもう人類に出てこないんじゃないかなと思う。

南米文学のマジックリアリズムもこの辺りのことだ。
マジックリアリズムでは、明らかに実在しないことを、あたかも普通の日常のように書いていく。言うなればファンタジーの内容を純文学の文体で書いている。
これが凄く気持ち良い。ズドンとハマるものがある。

シュルレアリスムについて言えば、そういうのを全て排除する。意図的にひっくり返すこともしなければ、意図的に順当に書くというやり方もしない。ごちゃ混ぜなのだ。とにかく意図の排除。
だから、シュルレアリスムの到達点とは、意図の排除された作品だ。
本当に意図を排除して書くわけじゃない。そういう作品もあるけれど。
意図的に意図を排除する。
音楽で言えば、めちゃくちゃに演奏するんじゃなくて、めちゃくちゃに聞こえるようにきちんと作り込むみたいな具合か。

転々とする話から形式の話になった。

さらにどうでも良いような話に飛ぶけれど。
貯金バーなんてのを考えたりした。
要はチャージの一部を積立預金にするというバーだ。
チャージ五百円としたら、二百円は積立預金になる。
飲みに行けば行くほど貯金が貯まる。
遊びながら貯金が出来る。
どうだろう、今の世相を考えるとヒットするビジネスじゃないかな。
まあ、どうでも良い思い付きなんだけれど。

はたまたどうでも良い話だけど、年を越したら300本、自転車の記事を書くっていう仕事が来かけている。まだ確定ではないけれど。
まあ、一本がさほど重量のある文でもないので半月程もらえば書けるだろうけれど。少々骨が折れそうな。

まあ、そんなこんな。
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2015年12月27日

ピエロの恐怖。

昨夜、久し振りの大道芸をしたら、精神が崩壊した。
夜道で倒れて、延々泣いていた。

大道芸人とは何ぞや。
まあ、もう大道芸はしてない僕が語るのも変なんだけど。

僕の場合はイベント盛り上げ係だと思っている。
ステージで凄いことをする必要は全くないと思っている。
凄いことは凄い人がすれば良かろう、と。

一番大事なのは人間に声をかけることだと思っている。
こんちわ、って。

意外とこれってピエロにしかできない。
ステージで何か凄い出来る人でも、ステージから降りると、こんちわ、って声が掛けられない。

人間って意外と孤独だ。

しかも、人間の孤独性はどんどん進んでいる。
僕の自論では、恐らく人間はどんどん進化している。頭が良くなっていってる。
頭が良くなる、進化すると、他人の助けが少なくて良くなる。

分かりやすい例だとインターネットだ。
昔はニュースを知るには、新聞が必要だった。新聞は印刷する人、配る人、あれこれ必要。
インターネットがあれば、記事を書いてネット上に乗せる人さえいれば、僕らはニュースを知ることが出来るようになった。

まあ、そんなわけで、どんどん進歩して、どんどん孤独になっていくわけだ。

そういう中で、ピエロっていうのは孤独を打ち破れる存在だと思っている。

だから、ピエロが大事なのは、こんちわ、って声をかけることなのだ。孤独を破ることなのだ。
それを繰り返すことで会場内が温まっていく。孤独を破られた人間同士は話しやすいのだ。

だから、単に、こんちは、と言うだけじゃなく。出来ればより孤独を破りやすいような、こんちわ、が望ましい。
その為にピエロとはハイテンションじゃないといけない。
一番馬鹿な存在でないといけない。

ただ、問題なのはピエロをする人間も、やはり衣装を外せばただの人間なのだ。

昔、ちょくちょくステージをしていた頃なら、そういうテンションの取り方なんかも慣れていた。
けれど、昨夜は久々だったから駄目だった。
それで延々と泣いていた。

正直なところ三十歳くらいまでしか生きられないと思っている。
なぜってことはないが、高校ぐらいの時から何となくそういう予感がしていて、ずっとそう思って生きて来ている。
どんな風に死ぬのか、なぜ死ぬのか、など勿論分からないが。
理由も何もないのだが、それが逆に変に信憑性みたいなものになってしまっている。
でも、もしかすると頑張ればもう少し長く生きられるかもしれない、そう思ってアレコレしてみている。

そう簡単に人間死なないってことも知っている。
同時にあっさり死ぬこともあるってことも。

何かが恐ろしくて仕方ない。
何なんだか分からないのだが。

でも、多分、人間ってそんなもんだ。誰しも何か得体の知れない恐怖みたいなものを背中に刺して生きている。みんな言わないだけなのだ。

だいたいに自分だけ特殊なんてことは滅多にない。どう言っても、やはり所詮は人間だから。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 20:51| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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ジャグリングをした。
上手くいったのか、失敗だったのかわからない。
まあ、上手く行ったのだろう。多分。

ちょっと、今回は難しかった。
僕はどこに、行かねばならない時に、来ていた。
なあ。みんな、楽しかったのかなぁ。
どこまでも。何をしても。

僕には不安がつきまとう。
きっと上手く出来たのだろう。
あるいは、まったくダメだったのか。

ああ、僕には何も分からない。

本当は明日はレースに行くつもりだったけれど、まあさすがに、無理かなぁ。

ラストレースって、言ってたくせに。


そんなこんな。
うそつきめ。
posted by ちょろり at 03:30| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月25日

英語物語はやはりすごい。

英語学習で最も大切なのは継続性。
やはりそういう点で英語物語がすごい。

あまりに素晴らしいので、今日は英語物語の宣伝を。
店のブログのような、誰でも読めて興味の出る形でご紹介。

ダウンロードはこちら。

IMG_1764.PNG
まず、問題はいくつかのジャンルに分かれるのです。
色については後ほど。
先に英語学習的な話からいたしましょう。

IMG_1770.PNG
これはセンターの問題。

センターの問題は本当にくその役にも立たない。
重箱の隅をつついたような、そんな表現をいつ使うんだ。
ネイティブ以外の英語話者には通じないようなフレーズが多い。
日本の英語教育の欠点、ひいてはセンター試験の欠点をまざまざと感じられる。

IMG_1776.PNG
優秀なのは英英問題。

英英問題に限らず、すべての英文が音声で流れてくれる。
英英問題を文面を見ずに理解できるようになれば、なかなか素敵。

英英問題は中学生の子には難しいが、
きちんとレベル設定で学年にあった難易度の単語が出題されるよう設定できるし、
問題形式も、通常の和英問題、英和問題、類語問題、文法問題。
有料だが、TOEIC対策単語集や発音問題などもある。

センター問題は作者の心意気だろう、無料だ。
日本人が英語が喋れるようになって、
世界レベルで活躍できる人、
世界の問題をきちんと考えられる人を望んでいる。
そういうのが感じられる。
この作者は本当に素晴らしい。


問題に正解すると仲間のキャラが敵のキャラを攻撃してくれる。
倒すと、一定の確率で仲間になってくれる。

IMG_1766.PNG
答えはこんな感じで出る。

IMG_1773.PNG
間違えた問題はステージ(だいたい4,5問)終了後に復習画面が出る。

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さらに、間違えた問題については蓄積してくれて、
いつでも復習したい時に復習出来るモードも。

ステージ後の復習だと、どうしても答えだけ暗記していて、
復習の意味が薄いが、過去の復讐を蓄積してくれていると、
きちんと勉強になる。

IMG_1774.PNG
復習画面で詳しい意味が分からなかった単語を押すと、英語辞書に飛んでくれる。

単語帳を自分で作って、例文やフレーズを書き留めておくと、
非常に勉強になる。

IMG_1763.PNG
時間がないときは、さくさく単語を見て、音声を聞いて、
脳の潜在的な部分の暗記範囲に刷り込むタイプのモードも。

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ゲームシステムとしては、日本を回ってキャラクターを集めていく。

ステージの頭には、キャラクターたちのちょっとおバカなくせに、
無駄に日本の地方の名物の勉強になる会話が流れる。

もちろん、音声付き。

IMG_1769.PNG
敵を倒すとキャラクターがGETできて、
5人1組のチームを組める。
キャラクターは鍛えたり、進化させたりもできるので楽しい。

よくある携帯ゲームみたいに、
課金(有料でお金を払うことを)しないとコンプリート出来ないというシステムではない。

無料のまま進めて行っても、キャラはちゃんと集められるので、
飽きが来ない。

キャラにはそれぞれ必殺技みたいなのがあって。
強い敵を倒す時には、必殺技の組み合わせなんかは割と大事だ。

でも、良いキャラを集めても、英語問題を間違えると攻撃してくれない。
やはり英語の知識ありきだ。

本当に良いシステムだ。
英語の勉強だけだと、どうにも飽きてしまう。
NHKのラジオ英語シリーズは非常にクオリティーは高いのだが、
どうしても「お勉強」という感じがして、
強い心がないと続かない。

もちろん、英語力を付けるにはNHKの方が良いんだけど、
何よりも継続が大事だから、
英語物語の方がある意味では教材としては、優れていると思う。

日本人が英語が出来ないのは、
習得しても使う場面が少ないというのが一つある。
要は、目の前のニンジンがない。
もちろん、英語が出来るほうが、いつか役に立つことは分かってはいる。
ただ、いつ役に立つか分からない。

その点、英語物語は、英語能力が上がれば、
どんどん敵を倒して、ゲームを進めていける。



基本的に、時代が進むと悲しいことが増えると僕は感じている。
人間は気付くとつい物を集めてしまう。
必要ない物だろうと関係ない。
時代が進んで多くのものが進歩し、安く手に入るようになって。
どんどんと本当に必要かどうか吟味する力みたいなものが落ちていく。

それこそ、今日はクリスマスだけれど。
クリスマスはつい十年ほど前まで子どもたちのためのものだった。
お父さんたちは三角の帽子をかぶってキャバレーに行っても、
なんとなく叱られない日だった。

それが気付くと、恋人たちのうんたらとなっている。
もちろん、それはそれで良いのだけれど。
日本で、なぜクリスマスが恋人たちのためのものになったかと言えば、
バレンタインと同じで、
性欲っていうのは、一番お金になるのだ。

昼飯に500円かけず、牛丼を毎日飽きずに食べる男だって、
女の子とのデートとなれば、ちょっと良いバーに行って、
チャージ500円払って、一杯500円以上の酒を飲み、
さらには女の子の分まで払う。

バレンタイン、クリスマス、ハロウィン。
日本人になじみのない海外の祝日を、
日本人が知らないのを良いことに、商売のために曲げている。

だから、たったの十年ほどで変わってしまった。
お金の力は絶大だ。

いつだって文化的途上国が、成金にあこがれて、
別に必要もない、あまり意味のない背伸びのための道具にお金を使って喜んで、
そのうまみを吸っている人間がいる。

キリストは偉大だけれど、
キリストよりも前からの系譜の、
天皇陛下様の誕生日さえ、クリスマスイブイブなんて言って、
女の子をデートに誘う習慣さえ芽生えつつある。
まあ、実際に、ワンナイトラブをするには、実に好都合な日ではある。
セックスの太鼓判みたいなものさえある。

もちろん、素敵なカップルもいるのは間違いないことだけれど。

別に好きな異性がいなければ、家でのんびり好きな本でも読んで過ごすか、
馴染みのバーで川島英吾でも聞いてれば良いわけだ。

でも、まあ、パートナーが欲しいと思うのが、人間の正常な欲求でもあるから。
それはそれで良いのかと言えば。

ワンナイトラブじゃ、ちょっとそれもどうかと思う。

ワンナイトラブなんかするのはお前だけだろう。
いや、ワンナイトラブなんか出来るほど異性に人気のある男でもないし、
川島英吾と古いブルースの流れるバーに行ってるようじゃ。


結局、知識が自分にとってどうして重要かというのを、
体感しにくい時代というのもある。

良い大学に行って、一生懸命勉強しても、
あまり社会じゃ役に立たない。

そりゃ、勉強だけじゃいけない、
きちんと相手の目を見て話すとか、
必要な嘘を適度に付くだとか、
人間と人間の潤滑油的なものを理解していないといけない。

でも、やはり知識は大事なのだ。
もちろん、英語なんかできても、ほとんどの日本人にとって役に立たないというのは一つ事実ではある。
英語が出来たからって、それに関わる仕事、事象に触れるということは多くない。

それでも、英語が出来るということは、
地球上にいる人間が、どんな言語で考えを構築するかということを知る助けにはなる。

まあ、あれこれ書いたけれど。
うん、お店のブログではそういう蛇足は付けないんだけれど。

文章の役割もいくつかあるけれど。
小説みたいに美術品を作るような側面と、
雑誌の文のように工芸品を作る側面と、
こうして何かを紹介する伝達するような側面と。
まあ、どれも素敵だと思う。

まあ、そんなこんな。
ラベル:英語
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2015年12月24日

えこひーき

ぶらりぶらりと飲みに出掛けた。
あんまりお酒にお金を溶かしてばかりいてもいけないんだけど。
まあ、蓄財は罪だと大声で先日言ったので、まあ、それも悪くなかろうと。

そしたら、やっちゃんがいた。
無駄にやっちゃんが僕を誉めてくれたりした。

やっちゃんとは、僕が酒場でファンをしている女の子である。
非常に美人のくせに。
やたらとカッコよくウイスキーを飲んでいる女の子。

それは凄く楽しかった。
昔の仲間で笑っているようだった。
変に楽しかった。
自分の足元が意外と、きちんとつながっているような気がした。

そういう人間がもっと増えたら良いんだけど。

でも、僕は男なので、やっぱり綺麗な女の子にはエコヒイキしてるような気もした。

ひこーき。

そんなこんな。
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「遅すぎる晩秋」

   [近い晩秋]福田 ねずみ
   
   
   ※1
 出ることになった。
 誰の為という事は勿論ない。
  かと言って。自分の為という事も。
  やはり無い。
     やはり誰に追い出された訳でも無いんだけど。
        
 変に暖かい冬で。それなのに、自分は、震えてばかりいた。
――変な温かい冬の変な寒気とは。
   ――掛け算の法則で。正常となるのだろうか。
        
 歩けない人がある。要は、いけない方向に。
  腰がねじれた。
  散々に危険を伝えていた。
  彼は毎度、重々、頷いていた。
  
  速度があった。
  
  
  
  ※2
   
 金管楽器を削っていた。
  それから、女は木管楽器を吹いた。
  その時に、自分は、自分の平凡を知った。
  突き抜けて、美しいまでに。
  平凡に木管を吹く女。
  それが、不思議と。
  自分の心に合った。響いた。
  それで、ねじを作る仕事に移って。
  女と暮らすようになった。
  
  
  
   ※3
   
 それは、女だった。
  それは、カメレオンを集めていた。
  スチィルの棚を、私に自慢した。
  私に隠れて、カメレオンの為の熱を出す電球を買って来ていた。
  
  それが、どうしたって、僕だった頃の。私に見抜けなかった。誰か、どこか、私、いや、僕が知ることの出来ない男。
(煙を吐き出す、男の横顔、影絵)
 私になって、少ししてから、見えないことを理解した。見えていない自分。
  やはり、今でも私は気付かない。
  ただ、気付いていない自分を、もしかしたらと気付いてしまうくらいにはなってしまった。
  
  
  
   ※4
   
「空気が乾くと、透明になる。」
 女の子は言った。
「それで、僕ら、冬には。煙草ばかり吸っている。」
 風の子どもが言った。
  
  手袋を右手に、してやると。
――利き手が、なくなると言った。
 手袋を左手に、してやると。
――遊ぶ手が、なくなると言った。

  (子どもは、みんな透明で歩き回っている)
    
 においのなくなる季節に故郷に帰った。
  故郷には、のいがなかった。
  
  渡り鳥の事を、ヒマ人と言う。
「生き物にとって、最もFatalな事は。為すべき事が分からない時間を抱えることだ」
 それから、彼は、顔面からバケツ三杯の血を流してから、死んでいた。
――彼らが、渡り続けるのは、
  どうしたって埋められない暇を、
    埋め続ける必要があるの。
――君は、医者をしているクセに。

  (チクチク、と、する肺)
    
 随分、海の風が吹いたのだ。
  全ての金管が、すっかり伸びてしまっている。
  いっぱいに伸びた金管が、どんどんと空に伸びて。
  空が素晴らしき、
     赤錆の色―――
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2015年12月23日

ハンバーグレストラン、さわやか!!

木村くんが突然に静岡のハンバーグレストランさわやかに行こうと言い始めたので、御殿場へと自転車漕いで行ってきた。帰りは電車で。
冬の割に暖かな日で峠道だったが、割と快適で楽しいサイクリングだった。

御殿場に行くには厚木から行くか、或いは山中湖経由で行くかだが、自転車のルートとしては山中湖経由が楽しい。
山中湖までの道は実に美しい。
丹沢山系の隣を流れる川が実に清流。
谷あいの村の雰囲気はとても良い。
段々の田んぼだか畑だか。
ジェットコースターのように登ったり下ったりを繰り返して山中湖まで着くと、富士山がドカンと待ってくれている。
富士山の撮影スポットがあるので、そこで自転車と富士山を撮って。

まあ、ベタと言えばベタなルートだけれども。
山中湖はやはり良い圧倒的に良い。

山中湖から御殿場にも一つ峠がある。
山中湖から登るとさほど大変でもない。
さらに暖かな日で、頂上で5度あったので、下りもさほどつらくもなかった。もちろん、5度って寒いには寒いけれど、12月の富士山周辺の峠は0度は覚悟していかないといけない。
寒いとかよりは、凍結が怖いというのを心配しないといけない。
5度あれば、装備でいくらでも対策できるし、凍結もとりあえずは問題ない。

木村くんは謎のやる気に満ちていて、サクサク走っていたが、僕は割とちんたら景色を眺めながら走る。レースの時はシャキシャキ走るが、普段は割とのんびりしている。のんびりしている方があれこれ楽しい。二時間に一回たばこ休憩くらいが一番楽しい。
どこかに座り込んだり、適当なガードレールに自転車立てて写真を撮ったり。
木村くんは速くなりたいらしく頑張るが、ロードバイクは買わないし、特別に速くなるためのトレーニングはしない。
まあ、みんないろいろと拘りがあるのだ。

さわやかは静岡にしかないハンバーグレストランチェーンなのだが。
美味しいということで知る人ぞ知る。

ハンバーグの美味い不味いと言うのも難しい。
ステーキの場合、単に肉の等級が良ければ美味い。
ハンバーグとなると、もちろん良い肉を使えば美味しいのだが、ステーキに使うほどの良い肉を使うわけにもいかない。
やはりハンバーグとはステーキと比べれば安いというのも一つの魅力だ。

さわやかのハンバーグはオージービーフである。ランチタイムはハンバーグ250gでライス、スープ付きで1100円。

これがとんでもなく美味しいのだ。
ハンバーグでこんなに美味しい不味いがあるなんて知らなかったというほどに美味しいのだ。

実際、平日の昼3時、御殿場は静岡県の富士山の裾野にある町で度田舎というわけでもないが、電車の便は悪く、決して大きい町とは言えない。それにも関わらず、満席で少し待たねばならなかった。
都心でも平日の昼3時でそこまで繁盛している店は少ないだろう。

実際、本当に美味しいのだ。
まず焼き加減が実にレア。
表面はしっかり焼くのだが、カットすると中は赤い。少々赤いとかじゃなく、本当に赤い。大丈夫かと思うほどに。
これが美味いのだ。
外はしっかり焼けているので生肉くさいことはない。しかし、正に、「I am お肉!」と言わんばかりの味がする。
米が進まない。
米の味と混ぜたくないのだ。もったいないのだ。

素晴らしかったなぁとしみじみしつつ、電車に揺られて帰ってきた。

JR御殿場線、小田急と乗り継いで二時間ほどかけて登戸まで。そこから先は電車が混雑するので、自走で一時間ほど。
電車を使えば意外と御殿場、静岡方面も決して遠くはないものだなぁ、などと思ったりしつつ。
小田急、速くて、安くて、便利だなぁ、と。

どうして自転車なんかに乗るのか。
別にレースが好きなわけでもない。
たばこ休憩して、ちょっと写真撮って、何か食べて。
そんならオートバイでも良いじゃん、何ならでんしゃでも、なんて思うこともあるけれど。
やはりそこは自転車なのだ。
何で?と言われても、まあ、やはり自転車が程よいからだ、としか言えない。

ま、そんなこんな。
posted by ちょろり at 01:29| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月22日

no-title

NHK英会話パワーあなどりがたし。
圧倒的に耳が慣れてくる。
リーディングと実践ビジネスの二つ、週に五つのレッスンを進めている。
あとは、NHK英語ニュース。
とにかくリスニングが充実している。

だれと話すための言語なのか。

割とこの問題は難しい。

いつぞやだか、友人の妹の友人が非常に美人で翻訳の仕事をしていた。
いずれも美人だったが、お、これは、と思うレベルの美人だった。

翻訳を仕事にする。
言葉の海に溺れそうな日々だ。

言葉の海を泳ぐには平泳ぎよりクロールが良い。
平泳ぎで左右に水を掻き分けるには言葉っていうのは固すぎるし、重すぎる。左右にヨイショと掻き分けるのは難しい。
そんなものをクロールでするする進めるのかと言うと、イメージ的には平泳ぎよりは上手くいきそう。
一番は潜水のドルフィンキックで少し潜った辺りで、リズムを取りながら、全身をうねらせて進んでいく。

ロボフィッシュ問題なんかと同じ原理だ。
プロペラスクリューで水を掻き分けるより、魚が前に進むのと同じ原理で水の中で推進力を作る機構が出来れば、船でも何でも圧倒的に速く、省エネで走れる。
実際には魚の泳ぎ、推進力を作り出す動きを数値化するのは、難しいどころの話ではない。
さらにそれを実行する機械の構造は難解だし、それを制御するコンピューターというのもデリケートなものになるだろう。
コンピューターの問題はイージス艦がイージスシステムを載せられることを考えれば、ある程度の演算能力のコンピューターを船に積むこと自体は不可能ではないのだろう。
ただ、プロペラスクリューとエンジンとその制御装置という3点と比較して、フィッシュ式推進駆動装置本体とエンジンからの動力変換装置、その制御コンピューターと考えると、やはり予算的に合わないのだろう。

ちなみにマグロやカジキなどの回遊魚は90kmほどの速度で泳ぐらしい。
長距離飛行で有名なアホウドリ、英語で言うとアルバトロスとカッコ良い名前になる優秀な鳥も90km程度。
アホウドリはダイナミックソアリングと呼ばれる飛行方法を用いることで長距離を稼ぐ。向かい風で高度を稼ぎ、追い風時に滑空飛行して速度を作る。
つまり重力を味方に付けて速度を作っている。

しかし、魚は重力を味方に付けられない。水中では浮力がたえず働いている。

空気と水で言えば、もちろん水の方が抵抗が高い。
重力も使えない。
それにも関わらず、同程度の速度になる。

魚は偉大。

なんで魚の話になったか忘れたけど。
そんなこんな。
posted by ちょろり at 02:17| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月21日

no-title

相変わらず英語の勉強にいそしんでいる。
やはりNHKラジオと英語物語の二本立て。
とにかくリスニング力。

一応、今日はDMMのスカイプ英会話の無料体験もしてみたが、これはいまいち役に立ちそうにない。
毎日25分で月額4000円なのでかなり安い。深夜でも出来る。
でも、いまいち英語力の向上にはならないだろう。

特にフリートークに関しては駄目だ。
人間力みたいなものである程度、会話なんてのはゴリ押し出来てしまう。
人間力というか、
ーー自転車が好きでね。来年、アフリカに旅行に行こうと思うんだ、それで英語を勉強してるんだ。
なんて会話になれば、
ーー前はアルゼンチンに行ったよ。うん、三ヶ月。思い出?腹が減ったばっかりだね。町と町の距離が遠いから三日くらい掛かるとかもあって、テントで眠って。うん、腹が減った。
なんて具合で進むから、会話はある程度盛り上がるし、まあ、だいたい上手く行く。
ほぼまったくしゃべれないスペイン語でも、ゴリ押し出来たのと同じで、自転車指差して、チャリでどこそこまで行く、なんて言えば、わー、なんてクレイジーな野郎だ、サイコーだ、と会話は進むのだ。

でも、そのレベルのゴリ押し会話だともったいない。
もちろん、英語が通じるのは限られた一部の人かもしれないが、日本語よりは通じるし、他の言語を今の僕の英語レベルまで習得するのはちょっと難しい。
それなら、お受験で培ったクソの役にも立たないけれど、暗記量だけはそれなりにある英語力を、役に立つように変換してしまうのが一番手っ取り早い。

英語学習の順はリーディング、リスニング、スピーキングの順だ。
スピーキング、リスニング、リーディングの順で進むのがネイティブの赤ちゃんの覚え方だが、それは英語圏でなおかつ周りが喋り方を赤ちゃん相手レベルでゆっくり教えてくれる場合に限る。
独学ではやはりまずリーディング。
読めないものは仮に聞き取れても意味がない。
リスニングが出来るには、速読もある程度出来ないといけない。
頭の中で日本語変換を出来るだけかけずに、英語を耳にして、そのまま語順通りイメージを浮かべていくわけだ。
英語を読んだり聞いたりして話の内容のイメージが掴める程度の英語力があれば、あとはある程度スピーキングも身に付く。

英語のフリートークも25分じゃなく一日中であれば、かなり役に立つ。
一日中、英語しか通じない世界で生きれば、生きるのに必要なコミュニケーションを取れるだけの英語力が必要になる。
辞書を開いて指差しながら、何とか意味を伝えようとしたり、相手の言っていることを何とか聞き取ろうと努力して、どうしても分からなければ紙にスペルを書いてもらうなど。

ただ、現実には25分なので、効果は薄い。
自己紹介して今日あったことを少し話して終わりだ。
もちろん、スカイプ英会話では教材を使って、それについて議論するというやり方も可能だが。
それなら、日本語を完全に理解していない外人よりは、完璧にカリキュラムを立てているNHKラジオでしっかり教材を読み解いて行くという方が良いだろう。

リスニングさえできてしまえば、あとは、少々しゃべれなくても生きていくにはとりあえず困らない。
英語で意見を明確に述べるのを目指すよりは、リスニングを完璧にしてしまって、相手の話を完全に把握できるようにしてしまえば、まあ、複雑な質問は難しいにせよ、欲しい情報は何とか取れる。

まあ、徐々に。
そう思っていたが、1週ごとにNHKのラジオ英語のストリーミング配信は消えてしまうので、仕方ないので3日分をいっぺんにやる。
英語物語のレベル上げもする。

意外と、ある程度までは聞こえて来ている。いや、まだ全然だけど、勉強し始める前よりははるかに聞こえる。
あとは、聞こえた英文を即座にイメージに変換できるようにする作業なわけだが。
焦らずコツコツ。
日々英語を聞くこと。
読むこと。
単語を増やすこと。

何とか東京を出るまでにある程度使えるレベルにしてしまえば、人生でいくらかは役に立つだろう。そんなに大きく役立つまでは行かないかもしれないが。

ま、そんなこんな。
posted by ちょろり at 03:36| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月20日

ベルビル・ランデブー

 すごい映画があった。
  「ベルビル・ランデブー」
  自転車のアニメと言えばそうだし、自転車は関係ないと言えばそうでもあるし、でも、やっぱり自転車のアニメだ。
  
  本当に素晴らしい作品なので、機会があれば是非見て欲しい。

 金属の呼吸の話でも。
  
  ベルビル・ランデブーの中で、序盤におばあちゃんが自転車のホイールに音叉を付けて何かしているシーンがある。
  これは何をしているのかと言うと、自転車のホイールのゆがみを直しているのだ。
 自転車のホイールっていうのは、リムという外のわっかと、中心の回転軸であるハブ、そして、その二つをつなぐスポークという細い針金みたいな部品の三つで構成されている。
  なぜ、そういう構造なのかというと、まず、自転車のホイールの大径化のためだ。
  単純に言えば、大径化することで高速化を実現する。
  しかし、単に大径化するわけにはいかない
。例えば、単純に大径化するだけの話なら、何か金属でも木でも良いので、円盤を手に入れて来ると良い。それをホイールの代わりに使えば良い。大きい円盤をはめれば良いだけの話だ。
 しかし、単なる円盤を使うと三つの弊害が出る。まず重くなる。次に横風の影響を受ける。次に路面の凹凸がダイレクトに乗り手に伝わってしまう。
  この三つの問題を解決するのが、ハブ、リム、スポークという三つの部品によるホイールの構成だ。
  さらに、空気を入れるタイヤ、これは自動車でもなんでも採用されているので、ほぼすべての車輪と共通である。
  
  自転車のホイールがゆがむのは、それぞれ三つの部品の異常に原因がある。まず、外の輪っかであるリム、これの変形。それから、ハブの欠損。ハブが壊れれば当然軸が狂ってしまうので、まっすぐに回らない。
  しかし、それらの理由は少ない。
  最も多い理由というのがスポークのテンションバランスの問題だ。
  
  金属は伸び縮みする。
  温度と外力によって、伸び縮みする。
  スポークは、映画、ベルビル・ランデブーの時代背景の中では32本使われる場合が多い。最近では前18、後ろ20と、随分少なくなってもいるが。
  簡単に言うと、スポーク本数というのは、多いほうがホイールのゆがみ(僕ら自転車をいじる人間の間ではホイールの振れなんて呼ぶんだけど)は少なく抑えられる。
  仮に一本のスポークが伸び縮みしても、その隣のスポークが支えてくれるわけだ。
  でも、本数を少なくした方が軽いし、空気抵抗の軽減にも貢献してくれる。
  
  ツール・ド・フランス(以下、略してツール)という大会は世界で最も大きく、最も素晴らしく、最も崇められた大会であり続けている。7月にフランスを21日かけて一周するレースだ。それぞれの日ごとにレースがあり、合算したタイムで優勝を競う。
  昔は、その年のツールが終わったらすぐに、メカニックたちは来年のツールのためのホイールを組み始めたという。
  百セットほど組む。
  ハブ、リム、スポークをばらばらの状態からくみ上げていく。
  実際、百本組むくらいのことは一か月もかからない。1日3本くらいは、僕でも組める。当時の自転車選手たちは裕福ではなく、別の仕事をしていたとしても、慣れればホイール組みというのは30分も掛からない。
  
  問題はスポークの呼吸である。
  新品の金属というのは、本当によく伸び縮みする。温度と外力。そのため、組んだホイールは実際に使われる。或いは冬を越す。少しずつ狂う度に修正しないといけない。100セットのホイールの内、21日のレースに使えるホイールというのは決して多くない。
  修正するたびに金属は疲労を重ねて行く。人間のようにはいかない。金属の疲労というのは、限界が決まっている。疲労限界というものだ。その限界を超えると破断したりする。
 選ばれたホイール、それは元々のバラバラの状態でのハブ、スポーク、リムの生産過程での精度、またメカニックの最初に組んだ時の集中力、様々な要素で、当たり外れが出て来る。
  
  21日のレースを戦いきれるだけの良いホイールを持つ。これで初めてツールの土俵に立てる。
  
  そんなわけで、ホイール、特にスポークの呼吸の難しさというわけだ。
  
  はて、この映画、ベルビル・ランデブーでの音叉のシーンだ。
  実際、今、ホイールの振れ取り、つまり歪み修正をする時にはそんなやり方はしない。
  振れ取り台、Trueing Standなる台にホイールを乗せて、ゆがんでいるところを探し、スポークテンショナーでスポークの張力を測って均等にしていく。
  ただ、理屈的には同じだ。
  映画では、老婆が、エッフェル塔の上にスポークを乗せ、回して目視で歪みを探す、これが今でいう振れ取り台の上での作業だ。次に目で見えないテンション、張力の違いを探すのだが、この時に映画の中では音叉を使う。
  
  弦楽器の音を合わせる時に音叉というのは必須だ。今は電気的に合わせられるチューナーこそあるが、楽器というのはハーモニーこそ大事だ。一本の弦の音を定めてから、後の弦の音を相対的に決定していく。最後に演奏する楽曲で最もきれいに響かせたいコードを鳴らして好みに合うように微調整する。そうすることで、ハーモニーを整える。電気的に合わせるチューナーの場合、それぞれの弦を各自に電気的につまり電気という絶対的なものを基準に合わせていく。確かに音は合うのだが、ハーモニーとして合わせることは結局人間の耳じゃないと出来ない。感性じゃないと出来ない。
  
  自転車のホイールのスポークの張力を合わせる時にテンションを使うというのは、このテンションアジャストの作業である。
(まあ、実際にはテンションを合わせると今度は振れが出るということはどうしても起きる。なぜって分からないけれど、何かしらのずれ、単にスポークの長さが微妙に違う場合とか、それぞれのスポークの張力に対しての強さなんかのズレ、同じ力で引っ張ってもたくさん伸びてしまうスポークなんかもいるからだろうか。それで、テンションというのは実際にはいくらかのバラツキが出る。音叉の共鳴で合わせるにはちょっと無理がある程度の許容誤差がある。
 ちなみにスポークテンションを上げるメリットはここにある。ホイール全体の剛性を上げるというのもあるが、ハイテンションにするほど、このテンションのバラツキを抑えやすい。もちろん、スポークの寿命は縮むが)

  この映画が非常に素晴らしいというのは、まず僕はそのシーンに感動した。
  金属の呼吸を一コマで見事に表現している。
  音叉では実際には出来ない。
  これはクラシックギターを趣味で弾いているから分かるけれど、共鳴というのは本当にほんの少しの張力差があるだけで上手くいかない。楽器くらいでしか使えないし、逆に言えば、楽器ではそのレベルでの調弦をしないと不思議なまでに人間の耳は音楽に気持ち悪さを感じる。
  それでも、このワンシーンは本当に素晴らしいと思う。
  誇張であるにせよ、自転車のホイールの繊細さ、そして、老婆の子供に対する愛の細やかさを一撃で表現し、またこの映画における音楽の重要さも示している。
  
  まあ、非常に分かりにくい表現ではあるが。
  自転車に本当に詳しい人間が見てもボロが出ない演出だ。
  子の苦手とする坂の練習のために老婆は小径の三輪車で後ろについていく。笛を一定のリズムで吹き続ける。自転車においてリズムは重要だ、心臓のスポーツだから。苛酷な練習から帰って、子が突っ伏す。膨れ上がった筋肉を掃除機で吸い、マッサージをする。これは自転車のトレーニングの中でとても大事なのだ。トレーニング後に硬くなった筋肉をほぐし、血流をよくすることで、酷使した筋肉から出た老廃物を流し出し、栄養と酸素を筋肉に流し込む。この映画がすごいのはマッサージする箇所も心得ている。ふくらはぎ、腿はもちろんだが、背筋をきちんとしている。自転車は背筋のスポーツだ。
  そして、食事を摂る。
  その後、ローラー台に乗る。ローラー台はレコードプレイヤーとつながっていて、一定の速さでまわさないと曲調がおかしくなるし、速すぎてもいけないし、遅すぎてもいけない。筋肉を低強度で動かすことで、さっきのマッサージでほぐした血管にゆるやかに程よい血流が流れる。筋肉は疲労させない程度の強度。老廃物が流し出され、栄養と酸素が筋肉にめぐらされる。心地よい音楽の中で子は眠りにつく。
  
  まあ、今日話した辺りは映画のほんの序盤のワンシーンなのだが。
  とにかくディテールに凝っている。
  その後も様々なところでディテールへのこだわりは見られる。自転車のことだけじゃない。
  ただ、この最初のワンシーンが全ての骨を作り込んでいる。
  アニメなので、現実にはありえない動きをキャラクターたちがする。それでも、まったく不自然な感じはしない。
  
  また、後半のシーンで、映写機に映されたコースの前で、自転車選手がローラー台に乗せられれ賭けレースをする。
  現代へのアンチテーゼである。
  賭けにすれば、確かに儲かる、活性化する。スポーツとして人気も出やすいかもしれない。自転車ロードレースがスポーツ観戦の対象になりにくいのは、競技のフィールドが広すぎて観客が観づらいというところでもある。
  だから、合理的に映写機の前に選手を並べて、レースさせる。
  
  確かに、スポーツビジネスの波に乗れば、自転車はもっと広く普及するだろう。
  だけれど、それで本当に良いのか。
  今現在、自転車レースを面白くするために、GPSなどの機材の導入、ペダルへのパワーを数値化する機械など、多くの新しいものが現れている。チームオーダーは勝つために、スポンサーの意向に合うように、お金になるように。
  
  だけど、自転車なんて乗り物は本当にそんな風になるべきなんだろうか。
  
  効率化の話だけしてしまえば、移動手段として言えば、自動車、或いは電動自転車なんかでも良いじゃないか。
  スポーツ振興の点だけでいえば、短距離の競輪だけ、トラック競技だけで良いじゃないか。
  
  人々がロードレースに求めるものって、きっとお金じゃない。
  全力で人間が、人間の力だけで大地に立ち向かう姿に感動するのだろう。
  フランス全土を超人的な選手たちが駆け抜けて行く。
  それは、日本でいえば村の屈強な男たちがメインストリートを馬鹿みたいに重い神輿をかついで叫びながら歩いていく、天や大地への感謝を叫びながら、人々が立ち向かう姿。人間の勝利を人間が喜ぶ。
  
  そういう点でいえば、自転車ロードレースがいつまでもビジネスに乗れるスポーツ要素が薄いっていうのも仕方ないことだろう。
  もちろん、自転車がもっと広まれば良いなと僕は思っている。
  そんながちがちの選手たちだけの乗り物としてでなく、全ての人々が乗り、美しい大地、風を感じ、素晴らしい時間を過ごせればと思う。
  これまで自転車の素晴らしさを知らなかった人たちが、自転車に触れてくれれば素晴らしいと思う。
  
  でも、そのために本来の大事なこと、核心にある要素が損なわれるなら、本末転倒じゃないかなと思う。
  
  安易な例えになってしまうけれど。
  人々を幸福にするために作られた原子力発電だって、もしも人々を不幸にするものだと分かったのであれば、そのやり方はやめねばならないんじゃないか、と。
  人々の幸福のために進歩した社会が、その維持のために人々の苦しみをあまりに多く要求するようであれば、そういう社会は間違っているんじゃないか。
  大学に行って、一流企業に行って、良い暮らしをすることこそ幸福、それも一つの正しい形かもしれないけれど、全体的に人々が不幸になりつつある現状があるとするならば、正面から問題提起をして立ち向かわねばならないんじゃないか。
  
  まあ、センシティブな問題を最後に放り投げたけれど。
  
  たかが自転車、されど自転車。
  変に立派にし過ぎちゃいけないだろうし、変に効率良くし過ぎてもいけないんじゃないかなと思う。もちろん、懐古主義の中でつぶれていってもいけないけれど。
  
  多くのことがそういう問題に突き当たっている時代。前進すれば解決すると盲目的に言えなくなっている時代。
  
  自転車が素敵なのは、どんなに時代が変わって、鉄からアルミ、カーボンと材質が変わってもそういう大事なことをいつまでも失っていないことなんじゃないかって僕は思ってる。
  
  まあ、そんなこんな。

ラベル:音楽 チャリ 映画
posted by ちょろり at 01:32| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月19日

英語物語。

最近は英語物語をし続けている。
スマートフォンのゲームなのだが物凄く完成度が高い。
英単語問題に正解して敵をやっつけて、キャラクターを集めて育てるというゲームだ。四択から答えを選ぶのだが、ちゃんと発音付き。さらに敵と戦うステージごとに音声付きでストーリーが進むので会話リスニングに良いし、会話内容も子供から大人まで楽しめる楽しい展開プラス日本の各県の名所、名物をキャラクターが英語で会話しながら教えてくれるので、雑学としても楽しい。
また、単語復習の機能が素晴らしい。そのままオンラインの英和辞典に飛べるので例文などをメモするとすこぶる効果的だ。
出題レベル設定も出来るし、出題形式も英和、和英はもちろん、英英、類義語、対義語と出来る。
TOEIC単語は有料だが、追加可能。

とにかく音と英語と日本語がきちんと出るというのはとても大事だ。
目で見て、耳で聞いて、口でぶつぶつ言って、この三段階は暗記に良い。

そういう学習面での機能はもちろん、ゲームとしてもなかなか面白い。
各県に五匹ずつのキャラクターがいて、全て四段階進化する。
敵を倒すと一定の確率で仲間になる。
それを育てていくわけだ。
キャラクターたちはオリジナルのゆるキャラで、どれもなかなか可愛い。きもかわいかったり、愛嬌があったり。
裏ステージなんかもあって、ここで出る敵は強いし、問題もいつもより難易度が高い。

下手な教材を使うより英語物語は良いと思う。
NHKラジオ英会話はもちろんすごく勉強になるが、やはり勉強である。
英語物語は勉強でもあるがゲームだ。
面白いことなら人間、気軽にやれるわけだ。

ちょっとこのゲームはすごい発明だと思う。

もちろん、単にゲームとして進めるだけだといまいち効果が薄い。
四択で答えるので、何となくでも答えれるようになってしまう。
きちんと復習モードを開いて、オンラインの辞書を開いて、例文をノートに書き留めるなどの工夫は必要だ。

スマートフォンで英語を学習するというのが確立されて行けば、日本人もかなり英語を聴き取れるようになるんじゃないかと思う。
日本人の英語が苦手というのは、とにかくリスニングが出来ない。
日本語のようにのっぺりしゃべる言語っていうのは少ないらしく。抑揚が少ない言語。
どうしても抑揚ある言語というのを聞き取るというのが難しい。
音に慣れるのが一番大事だが、以前はわざわざCDをプレイヤーに入れたり、ラジオのチューニングを合わせて放送時間を待ったりしないといけなかった。

それでも、スマートフォンで英語を勉強する時代になれば、音声教材がたえずポケットに入っている。
その中でも英語物語は革命かもしれない。

もちろん、ゲーム形式じゃない英単語アプリも入れているが、そちらは少し硬いし、英単語物語の学習、復習システムの方が優れていると思う。
間違えた問題だけのステージなんかもあり、復習もしやすい。

基本的に大卒でも英単語っていうのは一万知ってたらかなり英語力が高い。
ちなみに僕は簡易テストでは五千ほどらしい。昔よりずっと抜けてしまっているにせよ、一番暗記していた時でも一万には届いていない。
ネイティブスピーカーは二万ほどの単語を覚えているのだそうな。

逆を言えば、単語量を四倍ほどに増やせば、ネイティブ並の英語力が身に付くとも言える。実際は単語力のみならず、リスニング能力だとか、文法、熟語、慣用句なども知らないといけないけれど。

とりあえず、英語くらいはペラペラで話せるようにしといた方が仕事の幅が広がる。
普通のサラリーマンしてると特に使う用事もないかもしれないが、中退でふらふらと生きる人間なら、人生のある期間を海外で働いて生きるなんてこともあり得る。
別に海外なんかに住んだって何てことはなかろう。
それでも、ふらふらした人生、どこにたどり着くか分からない。
英語の一つくらい喋れるようにしといた方が楽しいことの可能性、アンテナは広がる。

そう、何かつながるかもしれないと感じれないと言語の勉強ってなかなか出来ない。
正直、日本人にとって英語をしゃべる機会って少ない。海外にゆっくり行く時間は多くはないし、旅行者も多くない。というのも日本への航空便というのは、世界的に見ると決して多い国ではない。

ふむ、ねむい。途中だが眠い。
ま、そんなこんな。
posted by ちょろり at 03:44| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月18日

敵、ボス、奴隷の三種類しか。

久々に福生に出掛けたところ、 しみずくんがいた。
しみずくんは実に良いやつで、ゆるキャラみたいな男だ。全くゆるくないのだが。

平たく言うと、しみずくんは昔はボクシングをしていた。
なぜか東京で仲良くなる人は昔ボクシングをしていた人が多い。
しみずくんに、寿司を食べながら目の前で女の子にオナニーをさせてバッハを爆音で流すことについて話した。
もちろん、そんな夢のようなことを今のところ僕は実現していない。
でも、割と大真面目に僕の研究課題の一つだったりする。
説明するにも説明出来ないので省略するが、割と真面目に僕はそんなことについて考えたりしている。

しみずくんは良いやつだ。
唯一だ。
東京でぶらりと飲みに出掛けて、気兼ね無く喋れる。
東京は日本の首都で、その中でも福生っていうのは文化的な面では前進的な街だけれど、一人でバーに飲みに出る人間っていうのは僕の世代にはしみずくんと、あとリョースケくん、それからヤッちゃんという割と美しい女性だけで。
リョースケくんとヤッちゃんはきちんとした人なので、きちんとしてない僕はどこか遠慮する。
じゃあ、しみずくんはきちんとしてない人間なのかと言うと、きちんとしている。少なくとも僕より遥かに。

リョースケくん、ヤッちゃんもいい人だ。
しみずくんもいい人だ。
でも、不思議としみずくんは気兼ねない。

麻雀放浪記では、人間関係は敵とボスと奴隷の三種類だと言っていた。
つまり、仲間などはいない。そんなのは、小学校くらいまでの話だと。自我を表に出すようになれば、利害が出て来て、仲間などという関係はない。
誇張には違いないけれど、やはり僕らは人間と会った時にそういう判断を潜在的にしているんだろう。

まず敵かどうか。
敵であれば、それを超える方法を考えねばならない。
敵じゃなければ、自分と相手のどちらが上か。
無意識にそういう判断はしている。

ボスか奴隷か。
言葉にすればトゲはある。
でも、現実問題、敵が現れれば倒さねばならない。
倒さなくとも、倒されないようにはしないといけない。
そういう時に味方が必要だ。
全くイーブンな関係の仲間の場合、敵を倒す、あるいは敵から守らねばならない時、どちらが前に立つだろう?
ボスと奴隷の場合は、どちらが前に立つかは場合による。
ボスが前に立って味方を守るべき時と、奴隷を前に立たせて盾にすべき時と。

そりゃ、本当はボスが前に立つ方がカッコは良いし、あれこれ筋は通る。
それでも、これは昔から戦術の陣形として、輪形陣と単縦陣というものがあるように、どちらが優れているということはない。
単縦陣はボスを先頭に突撃する。昔の戦はこのスタイルが多かった。切り込み隊長が任命され、これに部下は続け、と。
一方、輪形陣は近年の海戦で言えば、空母を抱える艦隊なんかが採用する。ボスを中心にして、周りに守りの船が並ぶ。空母の周りに鉄壁の対空迎撃システムを備えたイージス艦を配備する。最悪一隻のイージス艦が倒れても他のイージス艦で空母の守りはある程度確保される。
海戦に限らず、射程距離の長い近代兵器が現れると共に、貴重でなおかつ威力のある長距離兵器を安全なところに置き、前で部下が守るという形式だ。

もちろん、古今を問わず、単縦陣が有利な戦局もあれば、ボスを後ろに置く戦法が有利な場合もある。

ただ、ボスと部下の区別が付かないと、陣形もクソもないのは古今において共通だ。
百姓一揆は訓練された軍隊の前では無力というのは、個々の戦闘力云々以上に、陣形を作れるかどうかの問題が大きい。
同じ志を持つ田吾作どんと与平どん、仲間なのでどちらを守るでもなく、どちらを犠牲にするでもなく。そういう百姓一揆と。
司令部、作戦参謀が明確に、部隊の上下関係、役割分担のもと、配置、指令し、命令通りに遂行する正規の軍隊と。
結果は歴然としている。

歴史的に見て、一揆、革命が成功、或いは健闘する場合というのは、強力な指導者を獲得している時だ。
日本で見れば、加賀の一向一揆は一向宗という宗教のもと民衆が権力に立ち向かった。天草四郎で有名な島原の乱はキリスト教を背景に天草四郎をリーダーに立ち向かった。西南戦争は武士の鏡、西郷隆盛をリーダーに。
明確に強いリーダーがいて、民衆が組織化された時に民衆の反乱は大きな力を持つ。

反乱とは少し違うが、第二次世界大戦もヒトラー、ムッソリーニ、昭和天皇という強いリーダー、求心力ある人間がいればこそ、明らかに強力な連合国に立ち向かうという構図がある。
チェ・ゲバラの革命運動も、やはりゲバラありきだ。
カリスマありきの善戦である。

はて、しかし、ここまで挙げた例では革命側が勝利したという例はない。
ここが一つ面白い点だ。

意外なまでに革命の成功例とはカリスマ不在ということがある。
日本の場合、明治維新。これは誰がリーダーか。吉田松陰か坂本龍馬か。確かに彼らは起爆剤となったし、功績は大きいが途中で死んでいる。他にも有名どころはあるにせよ。誰か一人と言われても困る。
ヨーロッパにおけるフランス革命などでも、ヒトラーのような特定の一人のカリスマというのはいない。オスカルもアンドレイも大事だ。マリー・アントワネットも素敵だ。でも、漫画のベル薔薇でさえ、革命軍の圧倒的カリスマというのは現れない。

じゃあ、民衆が現権力反対、みんなで仲良く倒そうぜ、ってことで成功したかと言えばそうでもない。
もちろん、時の運はあったにせよ、勝利に導いた戦略、戦術はあった。
その中で上位組織、下位組織というのもあった。

あ。ねむい。
途中だけど、そんなこんな。
posted by ちょろり at 04:02| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月16日

no-title

どんどん頭が狂って来てるなぁと思う。
絶望癖が悪化して行っている。
或いは寒くなるにつれて鬱っぽいのが悪化しているのか。
この調子で悪くなっていくと、30歳くらいまでしか生きられないなぁと思うが。
案外、長生きするのか。

時々、友達が欲しいなぁとしみじみ思う。
高校生くらいの頃のような。
難しい事情があまり無かった。
シンプルだった。
歳食うといろいろ難しい。
人を値踏みするようにもなる。
忙しくもなる。
明日の仕事や奥さんがどうとか。
女の子口説くにも結婚がどうたらの話が出て来たり。
かと思えば、変に趣味に走り過ぎてみたり。
何かいろいろ複雑なものが増えて。
自由な人って減るし、自分も自由じゃなくなった。

遊ぶと言えば、酒を飲んで時間を過ごすくらいしか無くなった。
高校生くらいの頃なんて、酒なんて必要なかった。

ーー酒を飲まないと割れないような腹は興味ないですよね。
某編集長さんが昔言ってた。
編集長さんは割とハードボイルドな感じで、悪いことなんかもしてきた感じだけれど、お酒は飲まないのだ。

編集長さんは変わった人だった。
今、改めて考えてみると実に変わった人だった。
どう説明すべきか分からないが。
すごく変わっている。
多分、アンテナの伸ばし方なんかが変わっているんだろうか。
とても良い人だった。
今はどうなのかは知らないが。
多分、今も良い人だろうと思う。

でも、周りの大人の評判はあまり良くなかった。
酒飲みじゃないので、酒場の仲間というのはいないらしかった。
その他、いろんな面で一匹狼だった。
編集長さんと言えど、自分でやってる雑誌だ。一時は非常に上手く行ったが、今は当時のようには上手く行ってないようだ。
そういう編集長さんのことを大人なのにロクデモナイと呼ぶ人もいた。
編集長さんは奥さんと離婚して、詳しくは聞いていないが深刻な病気を抱えて生きている。
絵に描いたようなハードボイルド小説のキャラクターみたいな人だ。

ああ、まったくね。
生きていく意味とかってのはよく分からない。
アフリカに行くっていう問題は、確かに人生の意味みたいな問題を目の前に突き付けて来てるようなところがある。

結婚とか、安定したサラリーとかで濁さず、何のために生きるのか、それを明確に掴めと。

そんなのあるんだろうか。
生きる意味なんてものが。
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2015年12月15日

no-title

ーー金色の砂漠に旗を立てて歩こう。

そんな話を少し書いた。

福生に久々に出かけるとCDプレイヤーが壊れていた。
別段、大して世話になっているということもないが、非常に心意気も良く、何やかんやさほどの常連でもない僕に良くしてくれているマスターさんだったので、引越しで処分するかもしれないと思っていたCDプレイヤーをあげた。

音楽を鳴らす道具は出来るだけ多くの音楽を誰かの耳に届けた方が良い。

最近は、パットメセニーのジェームズとラストトレインホームをよく弾いている。
クラシックギターなので、あまりフュージョンっぽくもないが。
のんびり弾いていて楽しい。

寒くなると自転車に乗るのがどこか億劫で。
峠が寒い。
平地はいまいち行きたいと思うところもない。
それで、ギターを弾いて、英語の勉強をしたり、読みかけの本を読んで1日を過ごしている。

よくあと五歳歳食ってたら違ったかもなと思う。
五歳歳食ってたら、多分、今の血を離れることは無かっただろう。
この地は程よく故郷から離れている。
福生という飲むに良い場所もある。
仕事も楽しい。
給料だって文句こそ言えど、大学中退、つまり高卒の自分には十分過ぎるほどの額をもらっている。
何一つ不自由のない暮らし。

少し前に書いたけれど。
何の役にも立たない人間に僕はなりたいと思っている。
誰の役にも何の役にも。
そのくせ、何かを一生懸命している。

誰かのためでも、何かのためでもなく。
自分の求めるところのためだけに目の前のこと、思い付いたことを全力でやっていける。

そういう暮らしの中では、自分には居場がないと感じることも少なくない。
ひどい鬱状態に襲われて、どうにもすぐに死のうかと思うことは珍しくない。

同級生の可愛い女の子たちが続々結婚していった。
そりゃ、かわいい女の子は、よほどの問題でも抱えてない限り、今くらいの年齢で結婚するんだろうな。

そう気付くと、ふと、自分がどんな年齢にいるのか気付く。
ここから先、歳を食って、綺麗な女を抱こうと思うと、同年代の綺麗な女はたいてい結婚していて。抱くとしたら20そこらの子供なのだ。
もう、自分とイーブンな目線で、同じ時代を生きた人間と体を交わせることはめっきり減る。
そう。、まともな人間とそうでない人間。
僕の愛した女の子たちは結婚していく。
素敵な人たちだったから。

オレはどこに行くのか。
CDプレイヤーみたいに必要としてる誰かに拾われると良い。
拾われるというかなんというか。

ま、そんなこんな。
posted by ちょろり at 04:45| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月13日

認識と世界と。

フランス語は南部アフリカでは使わないということでNHKラジオ英語を始めた。
インターネットで一週間以内なら何回でも再放送が聴けるので便利だ。
以前は村上春樹のやつを聞いていた。英語でたしなむ村上春樹みたいな。それも非常に良いクラスだった。翻訳の際にニュアンスを維持しながら移すための単語の選び方なんかまで掘っていて、15分の講義とは思えない濃密さだった。

今回はリスニング、スピーキングという実用性が必要なので普通のやつを。
平日のクラスのやつを買ったつもりが土日のクラスのやつだった。どうせ五百円くらいなので平日のやつも買っても良いんだけど、まあ、週に二日気が向いた時くらいでやる方が長続きするかな。
それにしても、このクラスも非常に濃密で素晴らしい。
なるほど、こういう風に英語って勉強するんだなって思う。高校の時にやってれば、ダントツで一位が取り続けられたかもしれないと思う。
いや、実際にはうちの学校は勉強キチガイみたいな人がいっぱいいたので無理だろう。
それにしても、NHK語学は、まあ、よく出来てる。五百円で受けられるなんて、ちょっと信じがたい。一年続ければ、まあ、たいてい何とでもなるんじゃないかと思う。駅前留学どころか、家の中留学。

In north-Africa , people don't speak french. So I start to learn English with NHK radio English.
It costs only 500 yen a month. But it has very high quality.
If I've studied such way in my high school, l could get top.

そんな感じで、まあ、中三くらいまでの英語でとりあえずは、簡単な日記、意思疎通はだいたい出来るんだろうけど。
知識は財産だ。

ほんとかな。

ぼんやりと何かを勉強していると、ジャグリングのことなんかを考えることが多い。
ジャグリングっていうのは手先の器用さじゃない。
反復練習だ。
三つのボールだって、ただ100回練習しても出来る人とできない人がいる。
運動神経ではない。
一回の失敗に何を学ぶかだ。

一回練習して一回失敗するのは、100回動画を見て研究するほどの価値がある。
でも、100回動画を見てからする一回の練習というのは非常に濃密な意味を持つ。
一つの失敗には、いくつものファクターがある。

最近の英語の勉強だと、やっとrとlの違いが何となく分かってきた。アールは、アーと伸ばし気味に読むことはある。プロフェッサーの最後の伸びはアールだ。エルは割とクリアにエルだ。プロフェッショナルのルははっきりとラ行のルだ。
アールは割とぼんやりと巻いて、エルははっきりラ行。
英語のリスニングで、子音を意識するというのは大事だ。
そんなことを英語学習のゲームをしているうちに学ぶ。(語学系のスマホアプリは音に関して非常に優秀なのだ)
子音を意識することで、クリアできなかった面をクリア出来た。
どこの中学生の子供だよ、みたいなことだが。

そういうのを漠然と何回も聴いているだけでは、いつまでもアールもエルも分からない。
クリアしたいと思い、何が原因で進めないか頭を使う。
それを意識して繰り返すと出来るようになるのだ。

ジャグリングの練習もそういうことの繰り返しだ。

余談だが、その点、高校数学なんかは肝だけ掴んでおけば、反復練習はほぼ不必要で、肝を引っ張り回していれば勝手に答えに辿り着く。
でも、世の中だいたいのことは、反復を必要とする。

三つのボールを宙に浮かせる。
ただ、それだけのことをするために必要なファクターを考えねば、三つのボールはなかなか宙に浮かない。
ちなみにコツは、右手、左手、それぞれが正しい軌道で投げられる。高すぎてもいけない。コントロールが悪くなる。低過ぎてもいけない。サイクルが早くなり過ぎる。
それを良いタイミングで投げる。早過ぎると宙でぶつかる。一度に宙に浮いているのは原則一つ、それが入れ替わる瞬間だけ二つが宙に浮いていれば良い。二つが宙に浮いていると不安定なのでその時間は短い方が良い。だから、キャッチするギリギリまで投げ出さない。
三つのボールを投げるってのはそれだけのことだ。

これが自分で考えられるかどうかだ。
何回も動画を見て、失敗して、考えてを繰り返す。
そうしていると要素が段々と抽出される。
しらみ潰しに悪い点を探して潰して試してみる。

はて、そういう風にして得られたものを能力だとか知識と呼ぶとしよう。

はて、三つのボールが投げられたら、一体何の良いことがあるのだろう。
一体世界はどうなるんだろう。
世界の中で僕はどうなるのだろう。

答えはシンプルで三つのボールが投げられるようになるだけだ。

「ステージが出来るようになって、誰かに笑ってもらえて、そして自分も幸福を感じることが出来るようになる」
っていうのは、嘘だ。
三つのボールが投げられなくてもステージには立てるし、逆に投げれてもステージを出来るとは限らない。
そういうのはトゲのある言葉で言えば、嘘、詐欺、アメリカ的ビジネスにおける精神ドラッグ的幻想だ。
厳然たる事実として、三つのボールが投げれるようになったら、三つのボールが投げられるようになるだけのことだ。

ただし、三つのボールが投げられるようになれば、三つのボールは投げられる。
五つのボールを投げたいと思った時に、すでに三つのボールを投げられるという事実を持っている。三つのボールを投げる練習はしなくて良い。

何事でも同じ話で、自転車の変速の調整が出来るようになったら、自転車の変則を調整出来るようになるどけのことで。
英語が喋れるようになれば、英語が喋れるだけだ。

ただ、世界から自分が出来ないことが一つ減ったという事実は間違いない。

世界は有限か無限か。
そもそも、世界とは何か。
世界地図に書いたあの平面が世界なのか。
或いは、祖母にとって鳥取県の外は異国のような感性であれば、鳥取県こそ世界の全てかもしれないし。
或いは、通勤して帰るいつもの道と、休日にたまに出掛ける都心への列車こそが世界のすべての人もあろうし。
宇宙まではみ出て、宇宙人が毎日部屋にやって来ては会話している小説家の先生の世界は世界地図の平面より広いかもしれない。

世界とはある人間が意識出来ている空間こそが、その人にとっての世界だ。

でも、認識ってどこまでのことを言うのだろう。
女を知るっていう言葉があるけれど、セックスをしないと女を知らないのか、或いはセックスすれば女を知ったことになるのか。
ただ、新幹線で通過した土地を行ったことのある土地と呼んで差し支えないのか、それはその土地を認識したのか。

認識というのは、あるもののアイデンティティの理解ともいえる。
福田が福田であり中田ではないのは、福田が福田たる所以を含んでいるからだ。中田たる所以の要素を一つでも含んでいなければ中田ではない。福田が福田たる所以を理解したとき、福田を認識している。
福田を認識するには福田を舐めたりまでしないといけないのか。

人間が顔を認識するというのは物凄く高度なことだ。
でも、だいたいの人が恋人の顔を忘れはしないだろう。他の人と間違えはしないだろう。
もちろん、そういうのが出来ない人間もいる。僕も割とそういうのが出来ない人間だ。あまりおおっぴらに言うと道徳的に非常にまずいが、恋人の顔が分からなくなることがある。全く違う服を着て、違う化粧をして、声を出さずにただ立っていたら僕は恋人でさえ気付けない自信がある。父、母、弟は認識出来る。友人の顔も比較的問題ない。ただ、女性の顔というのがどうしても記憶できないのだ。
あまりオープンにこのことを話していると、死ぬまで異性がお付き合いしてくれなくなるかもしれないが。ものすごい美人の顔も30分と記憶出来ない。分からなくなってしまう。
ただし、声を聞けばたいてい分かる。あとは所有物など、雰囲気。
男の人の顔は女性の顔よりは覚えられるが、やはりこれもかなり厳しい。
その人の所有物、した行動というのは覚えられるのだが、その人間自身の外見的特徴というのが驚くほどに覚えられない。
その代わり、この人はこういうことをしたら、こんなことを考えるだろうから、こういうことになるだろう、なんてのは覚えられる。
なので、お客さんの顔を見ても分からないが、自転車を見ると、ああ、あの人だとすぐに思い出せる。

実際、人の顔を認識するというのは難しい行動のはずだ。はっきり言って人間の顔なんて、丸くて目と鼻の穴と眉毛が二つついていて、真ん中に鼻という名前の丘があり、その下に口と言う裂け目がある。
それだけのことだ。
どんなに美人も不細工も。
少々の位置の違い、大小はあるが。
ただ、さほど大きな違いではないはずなのだ。
でも、普通の人は見知っている顔なら、千人の人を並べて順に見て行けば、知ってる顔の人がきちんと当てられる。その人の顔の所以というのを理解している。認識しているのだ。

まあ、顔の見分け方は置いといて、認識しているものこそ世界だ。
同じアパートの反対の端の人は日々自分の半径50mの中にいても、その人の事は知らない、認識していなければ、世界の中には入らない。
世界に入るとすれば、顔も知らない人が住んでいるという表面的事象だ。

ああ、ねむい。とちゅうだけど。
明日も仕事頑張ろ。

ま、そんなこんな。
posted by ちょろり at 02:58| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月12日

えいご。

フランス語を勉強し始めてから気付いたが。
南部アフリカはフランス語圏ではないらしい。英語圏らしい。
仕方ないので英語を勉強している。

しかし、まあ、日本人というのは何故だか驚くほど英語が出来ない。
僕も驚くほど英語が出来ない。
いや、一応、大学受験英語の貯金があるので、今、トーイクなんかを受けてもそれなりのスコアは出るだろうとは思う。
でも、全然喋れない。
非実用的な英語しか、日本人は習得できない。

大学受験に関しては実によく勉強した。いや、大してしてないけれど。なぜか大学受験辺りの勉強はしなくても出来た。
三ヶ月ほど勉強すれば、何とか国立大学に今でも合格できるかもしれない。さすがに難しいか。

日本の不思議なところは、大学に入って意味があるのは二十歳までというところだ。
医学部なんかは別だけれど、たいていの学部の場合、今から僕が大学に入って卒業したところでロクな会社には入れない。キャリアにならない。

年齢なんざ大人になれば大して関係もなかろうに。
不思議と日本って国は年齢っていうのをすごく大事にする。

ちなみに英語も頑張ったところで良い仕事に就けるわけでもない。
英語なんか喋れる人はいくらでもいる。

語学っていうのは苦労の割には大したメリットがない。もちろん。良いこともあるのだが。

ふむ、ねむい。
そんなこんな。
posted by ちょろり at 04:03| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする