2016年02月28日

見えないひも。

ロバートキャパの本に影響され続けている。物凄く面白い。
キャパはかっこいい。

最近のマイブームはキャパとゴーギャンかもしれない。
別に詳しくはない。
ただ、二人とも祖国を後にし、絵を求めて世界をまわった。それだけしか知らない。

僕の最近行きたい土地は、アフリカ、ヒマラヤ、それからベルリンだ。
なぜと聞かれても困るが、何となく行ってみたい。
アフリカは人間の帰る場所だし、ヒマラヤは最も天空に近い場所だ。ベルリンには敬愛する孔明氏が住んでいる。

基本的に、どの土地にも人が住んでいる。
僕ら日本人にとってアフリカとは、遙か遠くの異国の地だが、その気になれば割とすぐに行ける。短期間なら30万も用意すればアフリカ散歩というのは別段難しくはない。もちろん、一口にアフリカと言ってもいろいろな場所があるから、どこでも行けるとは言えないが。
それでも、我々が思う以上にアフリカから日本はさらに遠い大地だ。

しかし、面白いことに、日本人よりもアフリカ人の方がヨーロッパで活躍していたりする。
国連職員だってアフリカ人はいっぱいいる。
かつてヨーロッパの植民地だった分、アフリカにとってヨーロッパは近い。日本にとってのアメリカの近さ以上かもしれない。

距離感という意味では、僕ら日本人にとっての異国との距離はお金ではない。
雑な言い方だけれど、海外って何かと雑だ。製品なんかについて雑というわけではない。
イメージ的に言えば、戦後の日本に旅行に行くといった感じかもしれない。
南米の首都、ブエノスアイレスなんかはとても美しい都市だが、少し裏道に行けば、しみじみ汚い。日本のように路地でも何でも綺麗なアスファルト舗装とは行かない。
ただ、自然ではある。

ここ数年の日本でも同じ事は言える。
日本の路上からホームレスが減った。野良犬も減った。ゴミも。
昔はゴミはもっとあった。犬のウンコもよく転がっていた。
でも、今の東京では花粉症が流行っている。
温室と言えば温室だ。

僕も含めて若い人は、人が死なないことに慣れてしまっている。
死ぬのは老人と病人と少数の不運な人々だけだと思っている。

じゃあ、海外ではどうなのか?
自然な状態では簡単に人は死ぬのか?

分からない。
ただ、日本よりも生きるのに緊迫感が必要な気はする。

蚊が飛んで刺されるとマラリアになる。
多くの日本人旅行者が初めは警戒して、次第に蚊に刺されるのに慣れる。
全ての蚊がマラリア持ちではない。
マラリアの予防薬は副作用もあるし、有効期間がある。
貧困による中途半端な薬の使用によって、多くの薬に耐性を持つマラリアが出来つつあるそうだ。
南アフリカでは、室内でのDDT散布を推奨することでマラリアの発病、致死者を大きく減らすことに成功した。

日本という国は不自然だ。
あるいは自然な人間の辿り着いた形だろうか。
一時期仲良くしていた女の子は年に数回電車で痴漢された。それでも、列車に乗って会社に向かう。
この話は僕に物凄く違和感を与えた。
上手く説明出来ないが、ヘンテコな話だと今でも思っている。

違和感。
そうかもしれない。
日々生きている中で積もる違和感を確かめに海外に行くのかもしれない。

いや、分からないけど。

仕事を辞めるに際して心が軽い。
仕事が嫌なんじゃなく、他人の肩書きを背負って生きるのが嫌だったのかもしれない。
自転車の話をするときでも、どんな時でも。
それ以外の何かを考えながら、それをするっていうのは嫌なのだ。
多分、誰だってそうなんだろうけど。
それでも、一人で生きるのは大変だから、どこかに所属して生きないといけない。
見えないひもがついてる。どこにつながってるんだろう。真っ直ぐにどことは分からないけれど辿れば誰かしら人につながるんじゃないかな。

そういう意味でキャパやゴーギャンのように出来る限り、独立して、一人きりでどこかに行く生き方っていうのに憧れるのかもしれない。
いや、キャパもゴーギャンも見えないひもでどこかにつながってたんだろうけれど。
出来うる限りひもから自由でいる努力をしていたように思う。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 22:38| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

あるく。

少し離れた駅で出発するよと挨拶のお酒を飲んでいたら終電が出発してしまった。
厄介な気分になったので、飲み飽きるまで飲むことにした。飲み飽きた頃に汽車が来れば良いと思ったが、案の定、夜の真ん中で、僕も女も酒に飽きた。
女と一晩過ごしても良い気もしたが、女もタクシーで帰ると言うし、僕も一時間少しほど歩けば家まで着くくらいだったので、下手にダーティな思い出にするより、女をタクシーに詰めて自分はのんびり歩いて帰ることにした。
酒代は女が出してくれた。餞別とのことだったが、毎回出してもらっている気がしたので悪い気もしたがl、これから延々と貧乏暮らしになると思うと、ありがたく出してもらうことにした。

タクシーで帰っても知れているし、適当な漫画喫茶で仮眠しても良かったけれど、10キロ程度の距離なので、走れば一時間弱、歩いても二時間と思うと、歩いたり走ったりしながらぼんやり帰ろうと思った。

自転車なら30キロ、歩きなら10キロ。
そのくらいなら自分の足で帰ってしまいたい。
一時間と少々くらいだ。
家にいてもゴロゴロしていれば気付けば過ぎる時間だ。

それより遠くなれば眠る。
いや、自分の足で帰っていても、眠くなれば一眠りする。

何にせよタクシーは疲れる。
一万円と一時間を選ぶなら、一時間を選ぶ。
単に乗り物酔いするから、というのもあるし、単に好みの問題でもある。
歩くのは良い。
乗り物に乗るなら自分が運転しないのは好きじゃない。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 04:29| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月27日

ピンボケ。

小説家の先生が貸してくれている本を少々急いで読む。
20世紀で最も偉大な戦争写真家の一人、ロバート・キャパのドキュメンタリー、血とシャンパン。
ロバートキャパに関しては、有名なのはキャパ本人の自伝、ちょっとピンボケだろう。
でも、先生は僕にノンフィクション、ドキュメンタリーの文体、手法というのを多く触れさせたいということで、血とシャンパンなわけだ。他にも四冊貸してくれている。

先生は僕にドキュメンタリーやノンフィクション向きと言うけれど、計画性もないし取材力もないから向いてないと思う。
ただ、僕の書いた小説、アルゼンチン阿呆自転車を読んでの感想なので、まあ、的外れじゃない。
阿呆自転車に関しては、沢木耕太郎の深夜特急を越える名作だと自負して発表したが、いまいち上手くいかなかった。唯一、なぜ世間に受け入れられなかったのか理解できないほどに完成された文だった。

キャパのちょっとピンボケじゃないけれど、文章も恐らくちょっとピンボケっていうのは大事な気がする。
文章の場合は後からいくらでも直せるのだから、ピンボケじゃ駄目だろうと言われそうだけれど、推敲っていうのは終わりがない。
もちろん、推敲は大事だ。
でも、推敲の中で難しいのは文体をどうするかだ。公的文書などに用いられる文体や、昔で言えば雅文体など、世間で言われるところの間違いない良い文体というのはあるのだが、それは駄目なのだ。においや味が消えてしまう。
背景がボケている美しい写真では、ちょっとピンボケのタイトルにもなっているキャパのノルマンディー上陸の写真にはならない。実際はピンボケじゃなく手ブレのようだが。
人間にはピンボケが必要だ。ピンボケしている良い写真っていうのは、逆説的だけど写真には写らない美しさや真実を写真で表現しているのだろう。

僕の読書は遅い。
急いで読むと言っても時間を掛けるだけだ。
集中力がないのと、頭の処理能力がいまいち低いので時間をかけて読まないといけない。
ある程度読むと休憩が必要になる。
大衆文学なんかは割と速く読むのだが、考える必要のある文では何回もおなじ行を読み返してしまうし、休まないと吸収できないことが多い。

そういうのは数学なんかと似ている。
数学も一つの公式を学ぶときこそが一番重要だ。練習問題を多く解けば試験で点は取れるが、その公式の意味するところを理解することは遙かに大事だ。一つの公式を理解するのに何時間かけても良い。演習問題なんかはサクサク解けば良い。時々、良い演習問題もある。公式の意味、別の側面を気付かせてくれる問題、そういうのは時間を掛けた方が良い。

時間をかけてすべきことと、そうでないそと。
ピンボケが必要なモノと、そうでないモノがある。

そんなこんな。
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2016年02月26日

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ニコンの小さいミラーレス一眼が二万円くらいなので購入しようかなと思いつつ。
画質は良くないらしいが、どうせ引き延ばしはしない。交換レンズを使えばそういう雰囲気の写真にもなる。パンケーキレンズでも一枚持っておけば、コンパクトな単焦点カメラとして使えなくもなかろう。
それで一眼レフにハマればいずれニコンの大きいやつを買えば良い。

社内で給料面だの休日面だのでの不安が持ち上がっている。
なぜか春になるとうちの会社ではよくそんな騒ぎが起きる。春闘というやつだろうか。

でも、まあ、チャリ屋でサラリーマンなんて、多分、どこに行ってもそう大して労働条件は良くないのだ。
儲かる業界でもない。

そうは言えど、春闘したくなる側の気持ちも分かる。
高い自転車を売るには、人間力みたいなモノがいくらかは必要だ。娯楽品の販売ってのは、ただ単に商品を仕入れて並べとけば良いってもんじゃない。
そう考えれば自分が販売した車体の何パーセントか歩合制で出してくれても良い気もするのだが。
まあ、リッチと言わずとも、年収は300万くらい、年間休日100日くらいは何とか欲しいと考えるのが自然ではある。
そのくらいは、まあ、それなりに使える社員には出してあげれば良いのになぁと思うのだが、そうもいかないらしい。

でも、まあ、確かに気に入らないなら自分で店を構えれば良いじゃないか、というわけだ。
それもそうだ。

ただ、チャリ屋を開くっていうのは今の時代では少々難しい。
今の時代は金で金を作る時代だ。大きい資本をどっさり投下して薄利多売でアルバイトをボロ雑巾のように使っては捨てて、そんな大企業にはなかなか勝てないのだ。

残念な話だが、どう心を尽くしてサービスを提供しても、今の時代、値引きにはなかなか勝てないのだ。
どうしてもみんな安い店に行ってしまうのだ。
インターネットなら人件費ゼロなので、送料分くらい負担したって企業は実は大して痛くないのだ。
メーカーとしては小売りなど出来る限り飛ばして直売したいのだ。
ただ、小売店というモノが存在する限り、直売のみの得体の知れないブランドというのは嫌われるから小売りにも卸すし、小売りに嫌われると客にも悪いイメージが付くかもしれないので、仕方なく小売りにも申し訳が立つ程度に直売するわけだ。
極端な話、テスターを展示しておいてセルフレジだけで売るようなメーカー直営店を何個か持てれば、あとは全て直売したいくらいだろう。

そんな中で独立してやっていける程の人間が良い歳こいてサラリーマンしてるってことは少ないのだ。
独立して自分の力で自分の責任で金借り工面して店をやる、そういう人間はもっと若い頃にすでに何か始めている。

サラリーマンして良い飯食おうと思えば、とにかく大学を出るときに良い就職に就くことだ。
これからこぼれたら、もう人生、ノーリスクのサラリーマン暮らしで良い飯、良い暮らしは諦めた方が良い。
時々、逆転もあるかもしれないが、やっぱりそういうやつは若いうちから何かしている。行動力があるか肝が据わっているか。
チャリ屋でサラリーマン暮らしで、良い飯食おうってのは現実として無理がある。

でも、別に良い飯食わなくても月々いくらかサラリーがもらえれば、それはそれで良いことなのだ。
休日はもう少し欲しいかもしれないが、それでも月に四日休めば、人間元気さ。

身の丈合わせるなり、いくらか何かを諦めたりってのが大事だ。
欲しがりません勝つまではじゃなく、欲しがりません死ぬまでは、ってところだろうか。

ネガティブな意味じゃない。
単にビルゲイツにいつまでも憧れていてもどうにもならないってだけの話だ。
ビルゲイツに憧れて、ああ、金が欲しいな、頑張ろう、金を稼ごう、でも、ビルゲイツにはなれないんだろうなぁ、と思って生きていてもツラいだろう。

でも、現実としては ビルゲイツみたいな金持ちになりたいっていうのは、日本ではあまり聞いたことがない。
ビルゲイツのような金持ちになれなくて悲しくて一家心中しますなんて聞いたことがない。

手に入らないものを欲しいなと思っていてもどうにもならない。
貧乏暮らしに入ってしまえば、なかなか脱出できない。日本という国はセカンドチャンスというものは少ない。一回レールから外れると厳しい。
でも、逆を言えば、
「もう、金、仕事に関しては仕方ねーや!もう、どーにもならねーから!遊ぼう!」
と開き直ってしまえる国だとも思う。

金がないと遊べないと思ってる人が時々いるが、時間がなければ遊べない。
金よりも時間の方がはるかに優先度が高い。
もちろん、いくらか金もある方が遊びやすい。
けれど、金はなくても工夫すれば何か遊べることはある。

どちらかと言うと、働かないと、お金がないと生きていけない、あれを持っていないと恥ずかしい。
あれやこれや積み重なって、気付くと高収入、休みが多いというのが良いという社会になっている。
そして、馬車馬のように残業したりする。

嫌なもんは嫌でいい。
遊びたけりゃ遊ぶべきだ。

ねむい。そんなこんな。
posted by ちょろり at 04:11| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月25日

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久し振りにとてもクリーンな気持ちだ。
福生に飲みに出掛ける。
病的に最近、酒を飲んでいた。いくら飲んでも、頭の奥底が冷め続けている感じだ。どんなに気持ち悪くても、延々と何かをかぶせても。
理屈の上でいくら解決してもどうにもならなかった。
それがゆっくりと溶けるいい夜だった。

そういえば誠太郎の誘いを蹴ったのは初めてかもしれない。誠太郎は親友だ。
もちろんこれまでも用事があれば断った。
ただ、何の用事もないなかで断ったのは初めてだった。
誠太郎が仕事で東に出ていた。それで誘ってくれた。東に住む古い仲間何人かが行くと言った。オレも行くつもりだった。
久しい集まりなので嬉しく思った。
ただ、時間が近付くと、おれには何も報告することがないと気付いた。
山に行って全てなくすんだ。
いや、違う。
何もなくして山に行くし、その後もおれはもう何も得られないんだ。

ここ数週間、自分は何を得られたのだろうと考えていた。
おれは信頼した人間について仕事をしたつもりだった。
それが、結局は80円だった。
おれはどこにいたのだろう。
時間をすり抜けるトンネルだったら良かったけれど、実際にはオレは歳を取った。
この三年でおれは何を得たのだろう。
人に迷惑をかけ、地球の資源をただすり減らして、何をしていたのだろう。
オレは何か得られたのだろうか。

苦い虫を磨り潰した銀のポットの底にいるような気がした。
まだ、足が時々残っているような。
甲虫たちの。

オレは、誰かを待っていた。
ケビンがそこに現れる。
しかし、ケビンは傷んでいた。
少なくともオレにはそう見えた。
ケビンにとってはそれは胸を張ったやり方かもしれない。
実際、そのケビンはケビンらしいようにも見えた。強さで弱いものを払いのける。
オレには強さが足りないように思った。

でも、何となく思った。
強くなくても良いか。
オレにはオレのスタイルがあるんだろう。
損することばかりでも良いか。
そこにオレのスタイルみたいなものがあれば、何一つ問題ない。その世界にはオレは死なずに存在している。

それはきっとケビンにも言えることだろう。
あいつと違っても構わない。
オレにはオレの生きるスタンスがある。
それを通すしかないのだ。

スタンスの話なんて当たり前過ぎることが忘れていた。

ただ、確かにね。
かっこよくいてくれよ。
それだけは間違いないなと思う。

かっこよく、スタンス立ててやってりゃ良いし、そうしかやりようがない。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 02:21| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月24日

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ケビンという男はいつでも僕のヒーローであり続けてくれた。
ケビンは僕の活動をいつも尊敬してくれたし、ケビンもまたいつでも完璧な男だった。

ケビンの話と言えば筋肉のことが多い。ケビンほど筋肉に詳しい男を僕は知らない。
キン肉マンよりもケビン肉マン。
テリーマンよりもケビンマン。
ロビンマスクよりケビンマスク。
ケビンの筋肉談義は遙かに超越していた。

少し古い考え方だが、現在でも整体の理論として続いている体癖という考え方がえる。
人間が脊椎のどの骨を使ってバランスを取るかによって、その人の性格まで把握できるというモノだ。
体癖とは後からは変えづらい。

体癖とは脊椎の骨じゃなく。実のところ、バランスの話だ。何を持ってバランスを取るか。
これで性格が変わる。

筋肉とはバランスを大きく変える。

あながち筋肉が人生を変えるってことは真実みがある気がする。
posted by ちょろり at 02:10| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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何だかすべてが壊れている。
圧倒的に全てのことだ。
瓦礫の感触の話をしている。

止まっている男がいるんだ。
その反対側に進む男がいるんだ。
どちらもホームレスなんだ。

家を失うのだ。
全ての人間が。
多かれ少なかれ世界とはそんなもんだ。

死ぬほど飯を食え。
死ぬほどな。

誰も正しさを言えないのさ。

全部が壊れ始めている。

信頼していた全てが音を立てている。

おれはどうだろう、一緒に全てとともに崩れるんだろうか。

薄情だなあ。
posted by ちょろり at 00:08| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月23日

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心が折れてしまっている。
80円事件以来どうにもいけない。
原稿用紙一枚80円って、小学生でも受けない仕事かもしれない。
全ての悪い流れが堰を切ったかのように流れ出している。

自分ときたら実に意味のない人間なのだ。
根本的に人間と眼が合わせられない。
流れが良いときには問題ないのだが、流れが悪くなるとどうにもならない。恐ろしい、人間は恐ろしい。
負け犬根性がしみついている。
殴られることに慣れてしまっている。殴られても抵抗しない。

殴られると体の痛みよりも心が痛む。
人を怒らせることに罪悪感を覚える。
体が痛いのも嫌だが、心の痛いのはいつまでも治らない。

人の眼は恐ろしい。
会話は危険だ。
分離している。ひどく世界が分離している。自分もまた。
posted by ちょろり at 02:36| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月22日

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初めてバーでキレてしまった。いや、キレる手前で帰れたけど。でも、明らかにバーの中の空気をおかしくしてしまった。

28歳のガキが入ってきた。
それまで僕は心の友、しみっくんと話していた。
僕の東京の暮らしでは、まずまさやさんがいる。全てにおいて優れている。
それから、弟子だか何だか分からんが、木村君がいる。クセのある子だが、僕の持っていないものを持っている。
そして、しみっくんだ。

しみっくんは、東京での正真正銘唯一よ酒飲み仲間だ。
しみっくんは、僕の話を静かに楽しそうに聞いてくれる。僕は、ある意味ではしみっくんには現在最も素直に心を打ち明けられる友達だ。

そこにガキが入ってきた。
28歳と言う。僕としみっくんと同級生だ。

このガキが調子に乗っていた。
酒の飲み過ぎだった。
ただ、誰も愉快になる飲み方じゃなかった。
そういうやつは許せない。
オレは楽しいことを求めて酒を飲みに出掛けている。
特に福生に飲みに出掛ける時にはストレス解消ということはゼロで、本当に楽しみにして出掛けている。
別にオレをネタにして楽しい話をする人は何も問題ない。
ただ、誰も面白くもないような話をするやつは許せなくなってしまう。

みんな我慢していたのに、なぜかどうにも我慢できなくて、ケンカをふっかけてしまった。
おめぇさぁ、黙って 座れや 、な、まず黙れや、そして座れや、なんて。

東京では、出来る限り岡山弁は使わないようにしている。
印象が悪いし、周りの人も気分を害する可能性がある。

それでバーの空気を悪くしてしまった。

しみっくんは元ボクサー志望だ。
しかし、実にニコニコしながら彼の相手を買ってくれた。
ただ、まったく目が笑っていなかった。
それでキレてしまった。

だめだ。
何もかも上手く噛み合わない。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 03:32| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月21日

神が怒る。

久し振りに心から怒っている。
原稿千書かせて、一枚 50円だとのたまった。それはさすがにと言ったら一枚80円と。
その場ではそれで良いと言った。あまりに安すぎてわけが分からなかった。

まあ、それはそれで良い。
安物買いの銭失いだ。
別にいつでもあの文を殺せる。おれが生んだ文だ。明日と言わず、今すぐでも殺せる。
文にとっての価値とは世界で一番早く世の中に出るということだ。
二時間もあれば、あの文をすべて殺すことはたやすい。
そんなことは馬鹿げているからしないにせよ、もう、オレは書かない。�

冗談でも人の仕事にそんな安い値段を言うもんじゃない。

誰にでも言えることだが、遊び半分で値切るもんじゃない。
値段が安ければラッキーなんて思うもんじゃない。
明言しとく。そういうやつは必ず窒息する。
物に対して適正な価値を理解していながら値切るやつは必ず値切られる、正当な価値はもらえない。
物に対して適正な価値を理解できない人間は、死ぬだけだ。

人間にせよ生き物にせよ、全ての物事は、流れている。
今、生きているのは、単に生きる順番が来ているというだけだ。死ぬべき時になれば死ぬ。
ただし、そういう輪に入れるのは互いに適正な価値を持っているという条件付きだ。

多くの宗教で戒律を破れば生まれ変われないと言うが、それは適正な価値を守れるかどうかの問題だ。

適正な価値を守れないやつは輪の中にいると、輪の形が崩れる。
輪はバランスを保とうとするから、そいつに圧力を与える。それで直るなら、また輪に戻れるが、直らないなら輪から消えてもらうより他ない。

どんなに金を持っていようが、どんなにこれまで良いことをしていようが。輪から外れればどうにもならない。

輪は厳格だ。
甘くない。
甘くすれば輪がほつれる。

悪事をする男でも輪の中に残る人間はいるが、それは悪事以上に輪にとって良いことをしている人間だからだ。もちろん悪事を働いた分、罰は落ちる。それでも、然るべき罰を受ければ帰ってこれる。
ただし、それは適正な価値を理解していて、踏んではならないルールは踏んでないからだ。

文は人を殺す。
人を支えもする。
文を馬鹿にした人間はもう駄目だ。
オレがどうこうするとかじゃない。
文が怒るだろう。適正じゃなければ勝手に文が怒るだろう。
オレなんかが怒っても特に何もならない。
だけど、文を怒らせてはいけない。

他の動物は知らないが、人間は文に手を掛けている。文は偉大だ。

まあ、良いさ。
下らないことに付き合う暇はない。
文が怒れば、文が怒っただけの悪いことも起きるだろうさ。オレにはそれがどういうものかまでは分からない。

オレが書いた文は確かにオレが書いた物だけれど、オレから離れれば独立した一つの文だ。
神を背負っている。
文が怒ってどうなるかは、一度離れてしまえば、もうオレには分からない。

一枚八十円で買えば良いさ。
俺自身が愚かで、実は80円が適正なのかも知れない。
あとは文の方が決める。

真面目に世界に対して問いかけたいが、本当に神は死んでいるのか。
本当にそう思っているのか。

クリスチャンでもブディストでも何たら学会でも良いが。人間を遙かに超越したものの存在を信じているやつらのほうがよほどまともな精神だと思うのだ。

もちろん、神はいくら祈っても助けてはくれない。
神とは救ってくれない。
ただ、神とは罰に関しては人に与える。

誰も戦争などしたくない。
手榴弾の炸裂する建物で、同じ国籍同士の人間がただ相手を殺すことなんてのはありえないように思う。ただ、現実にはあるのだ。
人間の誰もが望んでいないことを人間が行う。

論理的にはありえないことだ。
双方、ともに国を憂いていた。それぞれの家族や大事な人を考えていた。
だが、実際にやることは互いを殺すことだ。
敵を殺しても、自分の国は救われない、家族は守られない。

論理的に考えれば当たり前のことなのだ。

しかし、起きる。

神の問題だ。
何たら教の神が偉いとかじゃなく、巨大なエネルギー体としての神、輪の問題だ。

調整が必要なのだ。
イナゴにいかに非がなくとも、ある年に大量に増え、大量に死に行く。
遙かに巨大な物のなかで流れているエネルギーの話だ。
死に行くイナゴたちには悲しみがある。人間が感じるのとはいくらか違う悲しみかもしれないが、本質としては同じだ。
生き物である限り、死ぬのは恐ろしい。
いかに巨大なエネルギーの一部、移り変わり行く仮の姿と分かっていても、やはり一つの形態が終わる、死ぬとはどうしようもなく悲しい。理由なく悲しい。いかに悪人であれ。

おれは言葉を持たない人間だ。
なので、そういったことは伝えられない。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 00:37| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月19日

人間のハズレクジの問題。

富士通の携帯は何と無駄に防水なのだ。
風呂につかりながら日記をかけてしまうのだ。

そんなの女の子が書けば嬉しいのだが、男が風呂につかりながら書いても大して嬉しいことなどない。

まあ、風呂にケータイ電話なんて要らないという思う。
便器に暖かい便座。
朝のトーストかじりながら眺めるくだらないニュースを流すテレビ。
信憑性のない情報が流れ続けるインターネット。
男が風呂に入りながら書く日記。

酒を飲みに出掛けたら四千円も掛かった。
バーでウィスキーを飲んではいけない。
飲み慣れた酒は財布が爆発する。
そんな単純な法則が守れない。

酒を飲みながらルドルフ・シュタイナーなんて読む。
古いスピリチュアルな感じの文だ。

ところで、時たま勘違いされるので明言しとくが、別段、スピリチュアルとかは好きじゃない。宗教も好きじゃない。
美味しい米の炊き方や、魚のさばき方と同じような、ごく一般教養、あるいは単なる娯楽の読み物として読んでいる。
バーの会話と同じようなもの。

でも、そうして考えてみると、知識を得るために本を読むってしなくなった。
結果としては知識を得ているんだか分からないけど、文を読むって言うのが昔より身近になった。

読む量は昔の方が多かったけど、何というか、欲みたいなモノっていつもあった。
賢くなりたいとか、うんたらかんたら。
最近は純粋に話し相手、ある意味で猫と遊ぶように文に触れるようになった。

良いことだか、悪いことなんだか知らないけど。

高校の頃の先生とFacebookでつながったりする。
少々言葉のやりとりなどもする。
昔は知らなかったが、いい人なんだな、と。

先日話してて、生まれながらにして失敗している人間の話が出た。
子供が生まれる。
それはハズレクジなしで自分の子供に違いないはずだ。
しかし、生まれた人間は大人になる上で自分のことをハズレクジだと感じることがある。
テストで良い点が取れないとかつまらない理由だったり、大事な人が癌になって支えるのに耐えられなくなって逃げ出した自分に自己嫌悪を覚えたり。価値観の大小は問わず、人間生きていれば一度以上はそんな自分のことをハズレ、人間としてどうだろうといったことを感じることがある。

でも、大抵のことはハズレじゃない。
疲れているだけだったり、すこし悲しすぎる日の中にいるだけだ。

それでも、サカキバラセイトなんてどうだろう。
彼は致命的に失敗なんじゃないだろうか、ハズレクジなんじゃないだろうか。
いわゆるエラー、人間として生まれるべきじゃない精神を有したまま出て来てしまった人間。
そんな風に言えるのか。

人間としてエラーであることとはどういうことか。
エラーの範囲は観測者によって変わる。
堅い道徳観念を抱いていたり、自分がこれまで触れてきた中で積み上げてきた一般常識こそが世界の全てと感じる人はシビアだ。
その反対の人もいるが、そういう人に限って、世間で言う常識人が平気ですることをルール違反だと感じたりする。

駅前の喫煙なんか考えてみると分かりやすい。
もう、当然マナー違反だと言う人もいるし、そうでない人もいる。
喫煙者かどうかに関わらない。
非喫煙者の方がマナー違反と感じる人が多いと思いそうだが、案外、そうでもない。
非喫煙者でも駅前でも喫煙区画の中で吸っている分には問題ないと感じる人も少なくない。
問題は喫煙区画外のことだ。
案外喫煙者の方が喫煙区画外での喫煙に腹を立てる。
非喫煙者としては、喫煙区画内でも外でも臭いことには変わりなく、自分の隣で吸わなくて、ゴミさえ捨てなければ、まあ、どうでも良い、ああ、たばこ吸ってるやつがいるな、くらいに思ってたりする。

もちろん、例外はいる。

ただ、煙草を吸って山火事を起こす人間についてはほとんどの人が問題だと感じる。
山に住んでいてもそうでなくても。
山じゃなく住宅地となれば尚更、問題だと感じる人の数は増える。

線引きの問題ではある。

昔から思い続けているが、煙草を吸う人間と、ガソリン代と税金さえ払っていれば排気ガスいくら出しても問題があるわけがないと思っている人間で言えば、大気汚染としては排気ガスを出し続ける人間の方が良くないはずだが、車を毎日長距離乗ることでマナー違反と言われている人はみたことがない。
まあ、喫煙者がマナー違反と言われても、言われなくても、僕としてはどうでも良いのだが。

人間としてエラーであること、ハズレクジということが存在するのかという問題はその辺の話である。

サカキバラセイトは人間としてエラーなのか。

サカキバラセイトは未成年の時に連続殺人をやって少年院に行った。
少年法が適用され、様々な精神治療が行われた。
それから、退院し、本を出版したり、ホームページを開いたりしている。

社会的に由々しき問題とかそういうのは置いておくにせよ。
エラーかどうか、特に修復可能なエラーかどうかという問題については世間というのは先送りにし続けている。

仮に修復不可能なエラーであるとなれば、それをネタに売り上げを伸ばすような記事をだすマスメディアは悪者となる。
エラーとなれば、デリートされる他ない。
情報など外に出さず一方的にデリートだ。

日本国内でその男の肩を持つ男というのは基本的にいないだろう。
いるとすれば、医療関係者などだ。
彼らは、実のところ男に非がないことを知っている。
男は病気などではない。
黒髪の長身の女が好きだというのと、同じレベルでどうしても人間が死んでいる様を見たいと感じるように産まれてきてしまっただけなのだ。
これは病気とはまた違う。
どちらかと言えば、趣味嗜好だ。
趣味嗜好ばかりは当人にはどうにもできない。

そういう趣味嗜好を持って生まれてきたのか、或いは自分で選択可能なことの少ない幼年時代にそういう趣味が形成されてしまったか。
どちらにせよ男には避けられないものなのだ。
男に非があるかと言えば、そうとは言えない。仮に非があるとすれば、男が存在してしまったこと自体が問題なのだが、男は存在しようとして存在したわけではない。

これが少年法が少年を守る理由である。
法は人を憎まず、罪を裁くというやつだ。

ただ、問題は少年も大人になるということだ。
男がどの程度殺人衝動をコントロールできるようになったかは不明だが、男の根っこには人間の死への欲求がある。

社会の中では非常に困った存在だが、どうしても人間の死ぬ様を見たいと感じる人間というのはいくらか発生する。
法律では、そういう著しく社会秩序を乱す可能性のある人間とは、その社会から出て行ってもらおう、となっているが、現実問題としてそれは死刑だったり刑務所なのだが。
これが結構金も掛かるし、その費用は平和を維持された社会にいる人間が支払わねばならない。

普通、悪いことをした人間が費用を払い、良いことをした人間がそれを得るというのが当たり前と思われているが、現実は逆だ。
囚人の社会復帰と言うが、仕事のしすぎで鬱になって死ぬ人間はいっぱいいるし、社会秩序を崩さず生きてきたのに仕事にありつけない人間もいっぱいいる。

本当に人間はこの世に生まれてくる限りハズレクジはないのか。
日本社会が突き詰めるべき深刻な問題だ。

まあ、そんなこんな。
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2016年02月18日

生きる上でとても大事なこと。

キーボードを注文した。
折りたたみも考えたが、やっぱりすトレートが打鍵しやすいだろうと。
マイクロソフトの打ちやすさに定評のあるモデルを。

昨日自転車をこいでから恐ろしいまでに体調が良い。
ここ二か月ほどで一番良い。
執筆の仕事の方で休日もほとんど家にこもってパソコンに向かいか合っていたので、実に久々だったが。やはり自転車で長距離走るって言うのは人間の体にとって素晴らしく良いことらしい。

人間は道具が使えるので他の動物に比べて身体能力は低いといわれるが、実は人間ほど長時間走れる生き物というのは珍しい。
人間が世界中に住むようになったのは、道具を使って環境適応できるということもあるが、それ以上に生きるのに適した環境まで移動しきれるという能力の方が実は重要だったとかなんとか。

自転車に乗らなけりゃ、それはそれで生きていけるのだが、やっぱり僕の場合、自転車にたくさん乗るっていうのは僕が生きるためにとても大事なことなのかもしれないな、なんて思う。

そんなこんな。
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2016年02月17日

ピュアな気持ち。

結局伊豆は中止して、今週末に開催するイベントの下見へと羽田空港に行ってきた。昼過ぎに起きて三時頃出発したら普通に9時前に家に着いた。
サイクリングロードは速度を出すと歩行者とぶつかるので、久し振りにのんびりとゆっくりこいだ。
羽田までのサイクリングロードなんて初心者向けのルートなんだが、二か月くらいロクに自転車乗ってなかったので、案外、疲れたけど物凄く楽しかった。

自転車って楽しいんですね、なんてえらくピュアな気持ちになれた。
やっぱりチャリ屋は乗らないといけないな。
ピュアな気持ちがなくなってしまう。
乗らなくても良いとはいうけれど、やはりお客さんの感動を理解するには、自分も乗った方が良いのは間違いない。

それにしても。いやはや。今のスマートフオンは本当にすごい。
iPadを買おうか、或いは2in1PCを買おうか、あれこれいろいろ考えたが、bluetoothキーボードとタッチペンがあれば、あとはスマホだけで、一通り執筆のことは問題ない。
本当にすごい時代ない。
まあ、確かに3万円くらいしたのでそのくらいの事をしてもらえると助かる。

あとは使い勝手の良いBluetoothキーボーボードさえ見付かれば万事解決だ。
マイクロソフトの折りたたみのやつが良さそうだが少々高い。
実際に触って試せたら高くても良いのだが。
パンタグラフ式で、ある程度のボタンの大きさを確保してくれて鞄の中でそれなりの大きさにまとまってくれるものが見付かると良い。
ノートパソコンについても、ウィンドウズタブレットくらいで何とか出来れば便利なのだが。どうも電池持ちの良いウィンドウズタブレットはまだ値段が高いらしい。
その値段出すならノートパソコン買うよ、みたいなものが多い。

しかし、時代だ。実に時代。
データはインターネットがつながる時にクラウドに入れておけば安全でもあるし、パソコンを使えるときにゆっくり捌いても良い。

しかし、何も知らずに富士通の携帯にしたのだが。
こいつ、何かと凄い。
文字入力系がとにかく強い。
写真で撮った文書をデジタル化出来るなぞってコピーの機能もすさまじい。手書きの文字は難しいが普通の活字であれば、かなりの精度でデジタル化できる。
なぞらなくても全てコピーしてくれればいい気もするが、多分、デジタル万引き防止だろう。技術的には問題なくできそうだ。富士通、すごい。唯一の欠点はUSBホスト非対応ということだが、まあ、何かと他のことが凄すぎるので許せる。
写真の画質はiPhoneと比べればいまいち良くないが、結局iPhoneもデジカメと比べるとやはりさほど良い物でもない。

まあ、実に凄い時代だ。
ポケットの中に本当にパソコン並みの仕事をこなしてくれるものを持ち運べる時代なんて。
驚かざるを得ない。

春が近いので、良いビギナーが自転車を買って始めてくれると嬉しいななどと思いつつ。

そんなこんな。
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2016年02月16日

おそろしい。

小説を書いたりあれこれしてるといがいと時間が過ぎていた。
思ったより寒いので伊豆に行くのはやめにして、週末のイベントの下見に羽田空港でも行こうかなと考えつつ。別に急ぐ必要などないのだ。
やっぱり寒い夜を走るのはつらい。

家がなくなるので、その間の執筆の道具を iPad miniでも買おうかなと調べる。
本当は11インチのマックブックエアーが良いのだが、山にノートパソコン持って行くのも野暮だ。もう少し大きいbluetoothキーボードを代わりに買って、スマホで執筆するかなぁ、どうすかなぁ、などと考えつつ。

どうしたものかなぁ、などと。

キーボードひとつ考えるのに、数時間かかる。
それはある意味、僕のこれからの生活のような気がする。
家がないと小さいことで困る。
ソーラーパネルとバッテリーも買わないとなぁ。

それよりも部屋の片付けをした方が良い。
全てを捨てると思うと全くやる気が起こらない。困ったものだ。

それより何かすべきことがある気がする。
いや、僕にすべきことなんて何もないか。

酒なんか飲まずに伊豆に行ってれば良かったんだよ。
そうすれば気分も晴れやかにあれこれ出来ただろうに。
まあね、そんな気もするけどね。

何だかいろんな事が煩わしい。

ヘンテコな夢を見た。
学校でバーのおっさんが教師をしていた。自分は学生をしていた。よく分からないが、この先生の言うことは聞こうとおもった。
それから、山小屋でどうにもならない夢を見る。どうにも仕事が出来なくて、去らなくてはいけない夢。
別段、山小屋で心配すべきようなことなどないはずなのだが。

怖い人がいなくて、楽しいことが時々あって、そんな日々が来れば良い。
何だか僕は日々生きているのがどうしようもなく恐ろしいと感じることがある。
何も恐ろしいなんてこともないはずなんだが。
一人で生きるとは恐ろしいことなんだろう。
でも、誰しも一人で生まれて一人で死んでいくのだから、恐ろしいことに耐えないといけない。
でも、何かがすこぶる恐ろしく感じる日が少なからずある。

何がそんなに恐ろしいのだろう。

まあ、そんなこんな。
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2016年02月15日

きゅうじつまえ。

明日から久々の二連休なので伊豆に行こうと思った。
伊豆にはもう桜が咲いている。
あとは天城峠と西伊豆スカイライン。
一泊二日で400キロ、良い休日になるだろうとルートを描いた。

木村君といっぱいビールをたしなんで、早朝出発のつもりが、珍しくしみっくんから誘いがかかって、福生に飲みに出掛けることに。
運が付いているのか、向かっている途中でおならをしたら一緒にウンコが漏れて、一回引き返してパンツを洗って再出発。
バーは程良いくらいの会話の温度でまゆみ先生もボラン君もいた。
ボラン君は女が好きな男で小説を少し書く。よく僕とは対極なんて言われるけれど何ということはない。よくいる僕みたいなタイプの若者だった。何となく懐かしいにおいがする男だった。改まって会話を重ねて友達をするようなタイプの男でもない。お互いに必要なことを必要なときにやりとりするような男。そんな風に感じた。
男と男ってそんなもんだ。
フィーリングがあいそうだからって女同士みたいにべたべたするものでもない。
女の子もいたのでボラン君はサラリとした会話を交わしたら女の子の方へ行き、それで何となく会話は終わってしまった。
別にどんなものを書いてるだの、読んでるだの、そういうことを話し合うような人間じゃない、好きなものを書いて、好きなように流す、切磋琢磨し合おうとかいうものじゃない、お互いに。
おれはこれこれの文学を知っていて、あれこれをどうこうしようとして、どうのこうのとなりたい。
そんな話は大して面白くもない。
もちろん、偶然にそんな話の流れになればそんな話にもなるだろうし、それはそれで楽しかろう。
ただ、そんなもんをお互いに意図的に出し合って、ああだのこうだのするものでもない。

映画屋のとしくんでもそうだろう。
もちろん、今はとしくんはそれで食っているので昔のように僕があれこれストーリー論なんて話しても面白いこともなかろうし、としくんもあれやこれやと映画の話をしたって。
やはり偶然の流れでそんな会話になれば楽しかろう。

ただ、なんぞ作ろうなんて人間同士は口で制作物の内容をしゃべるより、制作物を互いに提示して、感じるかどうかだろう。
特に良い目をしてるやつならなおさらだ。
こいつは洒落てるなというやつならなおさらで。

それから、まゆみ先生と宇宙の話をしていると朝になってしまった。

伊豆の計画はすっかり白紙になってしまったが、白紙から計画し直せば良いだけのことだ。
起きた時間で出発の詳しい時間は決めるにせよ、二日あるなら十時出発、十時着の24時間に設定し直してしまえば、伊豆の桜を眺めにいくには十分だろう。
それよりはメンバーの良い夜の飲み屋を途中で去る方が良いこととは言い難い。

まあ、そんなこんな。
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2016年02月14日

紙の昭島じてんしゃ日和

紙の昭島じてんしゃ日和を作り始めた。
ページ数がまだイマイチ読めないが100ページくらいの本にする予定。だいたい1300円くらいに値段設定できると良い。

今回はMy ISBNというサービスを使ってみる。
My ISBNというのは、amazonで紙の本を売れる。
しかも、在庫管理をしなくて良い。
読者も送料無料でAmazon先生で扱っている本と言うのはポチッとしやすい。
My ISBNの素晴らしい点はAmazon先生で在庫を自動調整してくれて、勝手に売り続けてくれるということだ。

これは最新のオンデマンドプリントという方法を使うからこそだ。
オンデマンドプリントとは、注文が入ってからプリント、製本をして出荷するサービスだ。
単価は少し高くなってしまうが、少部数発行では現在最強の方法だ。
以前、阿呆自転車をBCCKSというサービスで紙の本を作ったが、これもオンデマンドプリントだ。

My ISBNのメリットはずばりAmazon配本だ。
はっきり言って、今の御時世、普通の本屋に配本するよりAmazon先生に流通してもらう方がはるかに間違いない。
そして、在庫リスクがないことだ。
さらに流通管理が不要だ、注文が入ってもAmazon先生たちが勝手にせっせとやってくれる。

デメリットは、まず手数料がそれなりにかかる。
まず、初期費用で一冊につき5000円かかる。
値段はページ数で最低価格が決まる。それより上なら自由に設定して良い。
著者の利益は売り上げの10%。
これはあまり高い数字ではない。
BCCKSの場合、阿呆自転車は配るのを目的にしているので5%の利益にしたが、その気になれば一冊500円上乗せした価格にも出来るし、上乗せ分は全て著者に入る。
Amazon先生の取り分と、My ISBNの取り分などを考えれば、著者収入が落ちるのはある程度仕方ない。

デメリットその2は、編集、レイアウト作業まで自分でしないといけない。
レイアウトなど全て自分でして、PDFでの入稿になる。
ただ、これはこれで楽しいので良い。
ただ、日本語の縦書きのレイアウトをするにはIn Designという有料ソフトが欲しい。
横書きの場合はScribusというフリーソフトがIn Designに迫るほどの能力を持っている。
小説を出す場合は、レイアウトは特にこだわる必要もないので、Webでテキストだけ打てば良いBCCKSの方が便利だ。
写真付きの本の場合、Scribusである程度レイアウト出来る方が楽しい。
楽しいのは良いのだが、手間がかかる。
そのクセ、手数料は安くない。

デメリットその3は、電子書籍には対応していない。
個人的には電子書籍というのは多分流行らないと思う。
というのも、紙の本か、あるいは電子の世界ならホームページの方が自由度も高いし、アクセスしやすい。
電子書籍は利権をめぐって、AmazonならAmazonのリーダーで、楽天KOBOならそのリーダー、機器本体まで買わなくても良いにせよ、専用アプリケーションなどを入れる手間がある。
実際、文字の場合、多くの人がブログなどでも長文を読んでいる事実を考えれば、ホームページでなんら問題ない。

デメリットその4はわけの分からない出版社名になってしまう。
デザインエッグ社という何ともうさんくさい(と僕は感じる)出版社名を押される。

メリットとデメリットを総合して考えると。
50冊以上売れる、長く売れ続ける見込みのある本であればMy ISBNだ。
昭島じてんしゃ日和は自転車のルート案内本であり、自転車写真集でもあり、初心者のロングライド手引書でもあるので、長い目で見て売れ続ける可能性がある。
宣伝の媒体としても、すでに昭島じてんしゃ日和もあるし、働かせてもらった自転車屋、そして、今度始まる自転車ポータルサイトBicycle Postではスタートの200本の記事を担当させてもらっている。実際に自転車で旅をしながら口コミで宣伝することも出来る。
特殊な趣味の世界に特化させるというのは、本を販売する上で、非常に宣伝がしやすい。

対して、文学作品の発表という点では、BCCKSだ。
文学作品を出版する際に一番厄介なことが、とにかく宣伝だ。
仮に宣伝費を大きくかけても、小説というのは、そもそもに読む人が少ない。
実用的な情報のためなら文を読むという人でも、物語を楽しむために文を積極的に日常的に読むという人はかなり限られる。
その上、ジャンル、好みがある。
小説は、今の時代には珍しくユーザーが能動的に調べて買う商品だ。
小説の発表の場合、大きい足がかりがない内は、とにかく初期投資を抑えて、ネットの海に出来る限り多くの作品を流して、人の目に触れ、大きい足がかりが引っかかることを祈るばかりだ。

小説を書く上で一番大切なのは粘りだろう。
それに対して、小説じゃない本を書くときに一番大事なのは、流通のゴール地点、ユーザーを明確に設定でき、それに対して宣伝を上手く出来るかだろう。

もちろん、有名になればそういった煩雑なことなど考えなくとも、大きな出版社がそういうことをしてくれる。

それでも、他人のケツをなめるのが嫌で、自分の考えたことを自分の文で表現したいのが物書きだ。
大きな出版社にあれこれ言われて書くよりは、自分の流通経路を作り、育てるということはとても大切だ。

ネコも杓子も世界に向けて文を発信できる時代だ。
Webの海には大量の文字が流れ続けている。
文とともに生きていきたい、文で自分を表現して世界に伝えたいとなれば、文以外のことも考えないといけない時代だと思う。

努力をするための一番の方法は目標を作ることだ。
スポーツには勝利という明確な目標が最初からある。
しかし、人生には明確な目標は自分で作らないといけない。
小説を書き続けることは不毛なことだ。
不毛なことを不毛なまま我慢して続けることも大事だが、不毛であることに慣れてしまうと、誰かに何かを伝えたいということを忘れてしまう。ただ、不毛に書き続ける自分に酔ってしまう。

文は自分を表現するために存在するものだ。
表現はもちろん誰にも見せなくたって良い。
しかし、表現をしていけば、誰かに見てもらいたくなる。
上手に出来たこと、自分で誇りに思えることは誰かに見てもらいたくなる。
根っこはそういう自己満足的な目標だが、それを繰り返していると、一部の人が自分の制作物を求めてくれるようになる。
一部の人から広がれば世界が自分の制作物に左右されるようにもなって行く。

一つの物事を進めて行くと、ストーリー、段階がある。
それぞれの段階に苦労がある。
しかし、それぞれの段階に、それぞれの面白さがある。

最近の僕はそんなことを思う。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 02:20| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月13日

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掘りおこしを掛けている。やり方はさほど難しくない。書く手法は、紙とペン。先にいくつかのキーワードを決める。キーワードの決め方は大事だ。出来うる限り論理を排除するようにする。しらふの時に読み返さない。いや、実際には読み返すこともあるが、冷静な頭では考ええない。
掘りおこしを掛けるときに大切なことは論理を付けないということだ。シュルレアリスムの手法に似ている。
シュルレアリスムと違うのは、物語は存在させる。連続性はある。意味自体は通っている。
物語が通る、意味が通るというのは前の言葉を受けていると言うことだ。
しかし、論理性は外す。
ハリウッドの脚本の作り方の逆だ。テンプレートを外し続ける。 感動の型を取り外し続ける。

人間は型で感動してしまう。
例えばどこかを去るとする。涙を浮かべるだけでも感動する人間はいる。握手をする。最初の日の事を語る思い出を一つ語る。あまりに出来過ぎていない思い出が良い。その人間たちだけに分かるような、はたから聞くと感動とは縁の無いような話。くだらない話が良い。それから、送り出す人は次の場所でも頑張れよと話す。そっちもな、とにかく元気でさえいてくれればそれだけで良いと言う。
これは感動になる。
他にもいくらか感動の型はある。戦争映画でペンダントを眺める男。鬼軍曹あたりが良い。家族について語る。でも、出発する前にちょっとしたことでケンカをしたことを悔いている。それを明るい馬鹿キャラの下士官が、それは実は送り出すための演技だったんじゃないか、などと鋭いことを言う。だいたいアルコール中毒の下士官あたりが言う。その伏線を作っておいて、例の下士官とその鬼軍曹が死ぬ。どちらがどちらをかばうかはストーリーによって決まるが。
どうしたって感動してしまう。
感動には型がある。

ロバートキャパの話を読んで眠る。
ロバートキャパの写真は本物だったのか。偽物だったのか。
どうして世界は熱狂したのか。
キャパはなぜ嘘を付いたのか。
或いは真実だと証明しなかったのか。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 01:17| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月12日

時流とそうちゃん。

そうちゃんはぷーである。
先日までせっせと介護のバイトをしていたが、そんな仕事は辞めろ辞めろと僕が言ったりもして、現在はぷーである。

そうちゃんのぷーについては、いろいろな説がある。そうちゃんは努力をしてないとか、積極性が足りないとか、家が金持ちだとか、悪いことばかりしてきただとか、顔がゴリゴリしているだとか。
まあ、いくらでも何とでもいろいろある。
しかし、実際には単に時流が向いていないだけだ。これまで偶然にタイミングが合ってこなかったというだけだ、と。

こういうのは分かりにくい。タイミングが合わないなんてのは言い訳だと言う人もあろう。
でも、そういう人は逆に聞くが、そんなに特別大きな努力をしてきたのか、そんなに積極的だったのか。
まあ、確かにそうちゃんの家は金持ちだし、顔はゴリゴリしているのは事実だが。

生きていく上で一生続けられる仕事、自分の生命を保ち続けることの出来る仕事を探すというのは難しい。
だから、今現在、何かの仕事が出来ている人というのは、確かに何かしらの努力もしてきたのは事実だろう。
ただ、そんなに特別大きい努力かと言えば、少なくとも僕にはそうは見えない。そりゃ、せっせと就活戦争をしたりとかはしただろう。
でも、そりゃ、単にタイミングの問題じゃないか。
一生懸命努力をしても、どんなに努力をしても全然手応えがなくて、何をどうすれば良いか分からない中で足掻く、そういうのは努力とは言わないのか。

時流の問題だ。
阿呆みたいに一円にもならない、完成するかも分からない小説に努力を注ぐか。
就活の時に努力するか。
あくまで時流の問題であって、努力量の差ではない。

もちろん、時流を捉える引き込むというのは生きていく上で非常に大事なスキルだ。
しかし、それが苦手なやつもいる。
積極性というのは、ある意味では能動的に時流を引き込もうとする行動のことかもしれない。
だが、そればかりは運だ。
時流とは運だ。
そうちゃんだって、当然ながら積極的に引き寄せようとしてきた。単に時流とかみ合わなかった。

時流に噛み合うか噛み合わないかという問題に関しては、正直仕方ないんじゃないかと思う。
ただ、努力を続けるかどうかに関しては当人に責任がある。
努力は実らないことも多い。時流を得なければ全く水泡に帰してしまうことも少なくない。

大器晩成という言葉がある。
昔は単なる言い訳、慰めかと思っていた。
しかし、最近ぼんやり感じるが、努力は実らない時期が長い方が大器につながる。努力が実らなくて、もがいてのたうち回って、何とかしないとやばいと言って努力し続ける。それは着実にその人間の器を広げて言っているはずだ。

努力するかしないかについては、当人に責任がある。
成功しているから努力したではない。現在上手くいってないから努力してないではない。
現在の成功と失敗というものと、努力というのはまた別の問題だ。
成功、失敗、勝利、敗北、正しい、間違い、そういうのはあくまてま移ろいゆく事象の今現在の偶然の形であり、努力というのはそういうのとは実は特に縁が無い。

大器晩成。
これは難しい。時流を掴めず、もがくことが長くなり、気付けばもがかなくなる。逆境の中でも努力を続けられる人間は決して多くない。
晩成するまで努力し続けるというのは難しい。

現在というのはあくまで時流に過ぎない。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 03:42| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月11日

急がなくては。

どうも肝臓か胃の方が完全におかしくなり始めているらしい。
ウイスキー二杯程度で二日酔いが起きる。
しかし、薄い酒は酒のような気がしないので飲むと言えばやはりウイスキーなんかになる。
思えば、この三年、ストレスを流すために飲むようなことをし続けた。次の三年の間にゆっくり時間をかけて治せると良い。

お酒は二杯で酔っ払うくらいが良いのだ。
美味しい不味いも大事だが。一杯でほろ酔いになって、二杯飲めば上機嫌、三杯飲めば一週間は飲まなくて良い。
そんなのがちょうど良い。

酔えば話が弾み、しらふの時には出て来ないような楽しい側面が出て来て、周りを愉快にさせる。
二杯だけで楽しく喋って、また来ますと千円ちょっと渡して帰る。
そんなのが一番良い。
多くても三杯。
でも、一杯だけで帰るような無礼はしない。

自分と自分の好きな人のために飲むようなお酒が良い。

一月の中旬から何となく気付いていたが、どうも体がおかしい。
別に病気と言うことはなかろうが、全体的な機能が落ちている。
普段、自転車に乗る休日を一日中家にこもって文を書いていた。

その文も完成してみれば、決してできの良いものとは思えない。
検索ロボットが喜ぶだけの文。
千枚と言えば良い枚数だ。
書いている間は楽しい頃もあった。
ただ、納期や完成度の兼ね合いもあれど、あの文には生きた人間の読者がどこか抜け落ちている。
検索ロボットとウェブ運営会社ばかり喜ぶような。

いや、確かにできうる限りの上質な情報は詰めた。

ただ、どこか無念な気がする。
もったいない。
あの原稿ならもっと面白いことも出来たかもしれない。
変な心残りがある。

でも、とても大事な営みだった。

昭島じてんしゃ日和を製本しようと思う。Amazonで買える形にして、僕の自転車活動への寄付金という形式でお金を出しやすいような形に。
以前はブックスというサイトで少々小説も出したが、やはり配送期間と配送料がネックだった。
Amazonで流通させる方も、問題は一冊の値段が上がってしまうという点はやはりネックだし、僕自身いくらかお金を出さないといけない。
百冊売れるなら悪くないが、ウェブでも公開しているのと似た内容が果たして売れるものか。
もちろん、ウェブの方は潰さない。

電子書籍は閉じられない。
パタンと音がしない。
余韻がない。
やはり紙の本じゃないといけない。

二月は健康を取り戻しつつ、その辺の活動を。
やることが存外多い。急がねば。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 02:09| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月10日

ロバートキャパのこと。

先生が四冊の本を貸してくれた。
「君は絶対にノンフィクションを一度書いてみるべき人間だから、この辺を読んでみると良い」
先生と言うと、UFOと宇宙人と男が大好きな小説家のおばちゃんなのだが。不思議と僕をかわいがってくれていて、文のことをあれこれと教えてくれる。
僕のほかにボラン君という青年も弟子にいるらしいのだが、どうもイケメンで実家が金持ちらしい。金持ちはどうでも良いが、イケメンというのは気になる。イケメンというのはだいたいに面白い。僕の人生経験上のカンとしては、ボラン君とは是非とも友達になっておいた方が良い。
先生やジローさんの言うところを信じれば、彼は素晴らしい才能を持っていてぎらぎらした文を書く若者だそうだ。
でも、不思議とボラン君とはなかなか出会わないのだ。
まあ、機が熟してないのだろう。

さて。
先生から借りている本にロバートキャパという戦争ジャーナリストの本があるのだが、とてつもなく面白い。
キャパはユダヤ人だ。ナチスの時代の少し前に東欧で生まれている。
四十を過ぎたキャパは古い友人と会ったときに、実は二十歳の頃から国籍がなくて困っていると言うことを話している。

我々日本人では想像の付きにくい世界かもしれないが、世界には今現在も多くの難民がいる。
戦争や紛争で故国を追われた人々というイメージが強いだろう。爆弾が落ちて家を追われたかわいそうな人々。
しかし、全ての難民が爆弾から逃れて家を求めているわけではない。
もちろん、国際情勢の中で一人間が故郷を出ざるを得なかったという理由は共通しているが、それが爆弾や餓えとは限らない。

キャパがそうだったように、危険の直前に移動した人々というのは少なからずいる。
別に爆弾が落ちなくても、危険を感じて国を離れる人間というのはいる。

国を離れた人間について。
元の国は管理するのが面倒だ。管理しようにも所在不明、当然ながら税金を払ってくれるわけもない。

故国を離れる側も、仕事があるとは限らない。
或いは、命の危険もある。

人が故国を捨てるときと言うのは深刻でもあるし、どうしても迫られている場合もある。
それを分かりやすく一口に言うと爆弾なのだ。
住む家が焼かれる。
でも、それは物理的とは限らず。
精神的なことも少なからずある。
もちろん、よほどせっぱくしていない限りは起きないのだが。

眠い。
もやすみちゃんのそんなこんな。
posted by ちょろり at 01:51| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする