2016年03月31日

本のお墓の前の場所。

自転車の準備が先に出来た。
まだいくつか修正しないといけないところもあるのだけれど。

一番進んでいないのが意外と体の準備になってしまっている。一番、時間と労力のかかるところがないがしろになってしまっている。
ただ、そこは若さのアドバンテージ、少々間に合わなくてもやってる間に適応できるだろう。

それから引っ越しというかモノの処分。
本とCDがなかなか片付かない。
図書館に持って行っても、図書館も蔵書整理して、来館者に古い傷んだ本をあげる時代。

そうやって考えると本の溢れている時代だ。
村上春樹の小説「海辺のカフカ」で、主人公が四国にふらりと出掛けて、私設図書館をしている緑のロードスターのおにいさんだかおねえさんだか忘れたが、ちょっと年上の人に世話になるような話のことがふと頭に出て来た。
素晴らしい私設図書館なのだ。

しかし、本が溢れた今、私設図書館も必要とされないのかもしれない。

図書館は美しくなったし、リクエストすればどんな本でも国会図書館から取り寄せてくれる。
或いはブックオフに行けば、その気になれば、いくらでも立ち読みが出来る。

でも、煙草と珈琲の嗜める図書館っていうのは公立では出来ないし、あまり聞かない。
私設図書館も、そういうのを作る人は本が好きなので、煙草や珈琲で本を汚されるのはやっぱり悲しいのだろう。

言い方は雑だが
本はもちろん大事にすべきだが、全てが保管用ではないのだから、読む用の本っていうのは、読むためにならもう少し粗末に扱われても良いんじゃないかななんて考える。

どうせ捨てられる本たちが最後に集まる場所、お墓に、向こうの世界に旅立つ前に集まる場所。
散々読まれたり粗末に扱われたりした本たちが最後まで本としての役割を全う出来る空間。

ただ、そういうのは確かに人間側のエゴなのかもしれない。
疲れた本たちは最後は何を考えるのだろう。
最後まで誰かに読まれたいのか、或いは最後の時は誰の手にも触れられずのんびりと一人でゆっくり過ごしたいのか。

それでも、僕は人間なので、やっぱり本は最後の最後まで人の手垢に汚れている方が良いんじゃないかななんて思っている。

次の命になった時、本になっていたら、仲間の本たちにいろいろ聞いてみようかなと思うけれど、当面は人間。
人間の話を聞くのが、今のところすべきことなんだろう。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 01:26| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「肉の話」

このようなことをこの時代で申し上げるのは恥ずかしいことですが。
我々の生まれた時代というのは人々は得体の知れない肉というものを食べていました。

おかしな話だとお思いになるかもしれません。
だって肉と言えば生き物の体に付いているものであって、地面から生えてくるモノではない。生きている動物を殺して、捌いて、初めて口に出来る、だから、この肉は何の肉だろうと考えたりもする、冷静に考えればそういうことはこの時代では至極当然のことかもしれませんが、我々の生まれた時代というのは、何て言うんでしょうね、もちろん、今の時代の人から見ればひどい時代なのかもしれませんが、実際に生まれた我々にとっては決して悪くもない時代だったんですよ。
その時代の中では肉というのは美味しいモノというのは知っているんですが、何の肉を食べているんだか、っていうのは考えすらしない、よく分からないけれど肉というのは美味しいモノ、それがどこから来て目の前に食べられる形になって現れているかなんてことは考えない、そんな時代なんですよ。

今になって考えると、恐らく何かを固めているんでしょうね。
案外、その時代の中にいると分からないというか考えすらしないんですが、今の時代から眺めると、多分、あれは何かのタンパク質を固めていたんでしょうね。

やっぱり不自然ですもの。味は今の時代の肉と比べてみて変なことはないんですよ。でも、あんなに人間が増えた世界で、動物たちは明らかに減っているのに、毎食、普通に暮らしていれば肉は必ず食べられるって、やっぱり変ですよ。
合成したタンパク質なんだか、或いは虫なんだか分からないですけどね。
味としてはあの時代の方が整っているんですよ。素直にどちらが美味しいと聞かれると、あの時代の方が完璧に近い美味しさっていうのがあるんです。でも、今の時代の方がちゃんと肉っていうのは何かの生き物の一部だったのかなって感じられるような味なんですよね。

まあ、未来なんてのは、あなたがたが思っているほど良いモノでもないですし、でも、やっぱり良いモノでもあるのかな、って僕は思いますよ。

(未来から来たと言い張る男のインタビューより)
posted by ちょろり at 00:19| Comment(0) | 短編 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月30日

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親しくしてくれた人たちが別れを告げてくれる。
今日はまさや先生だった。

まさやさんに、スーパーまさやワンダーランドの話なんかした。
昭島にもっとたくさんまさやさんがいて、まさやさんだらけだったら、多分、ずっと東京にいたかもしれませんね、その中で何々まさやみたいな感じで、いろんなスペシャリストまさやさんがいて、オレはチャリと小説担当まさやで、そんな感じでスーパーまさやワンダーランドだったらね、なんて話だ。

現実にはそんなのは難しい。
まさやさんのようなスペシャリストは、転々、ぽつんぽつんと生きている。
まさやさんが一つの場所に何人もいたら、多分、その内の何人かのまさやさんはまさやさんじゃなくなる。
あるいは全員まさやさんじゃなくなる。

ある程度、歳を食うと、スペシャルな人って一人でぽつんと過ごす。
そんな気がする。
なぜかははっきり分からないけれど。
多分、集団のパワーってすごいのだ。集団にいると、あまり頑張らなくてもいろいろなことが何とかなってしまう。
会社ってのを考えると分かりやすい。
会社に入るとさほど頑張らなくても、それなりに頑張っていれば、まあ、クビにはならないし、給料ももらえる。何かチョンボしたり、よほど怠けていると話は別だが、ぼんやり生きていれば固定給がもらえ、何年かごとにいくら昇給もある。
一人で何か事業をしていると、ぼんやりしていてお金が入ることってない。

そういうのは会社じゃなくても、いろいろなことについて言えるだろう。
集団に属すれば、集団に守られている。
逆に言えば集団にいるのが普通になれば、人間はいくらか馬鹿になる。

馬鹿になったってもちろん問題はない。
馬鹿でサラリーがもらえるのと、一匹狼気取って日々の食い扶持さえ怪しい人と。
それは価値観だろう。
別にどっちが良いと言うこともない。
使える集団は賢く使っている方が良いというのよ事実だ。

だから、スペシャルまさやたちは集まらない。
ぽつんぽつんといる。

もちろん、チームの仕事も良い。
だけれど、全てのことがチームの仕事ではない。一人きりの仕事って言うのも少なくない。

まさやさんのような人に次はいつ会えるだろうと思う。
それほどに、まさやさんは偉人だった。
賢人だった。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 01:59| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月29日

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こーへー先生を東京駅に見送りに行ったら、世話になったから何か美味いもの食おうと言うので、僕はトンカツが食べたいと言った。
トンカツっていうのは、僕の中で実に高級料理の一つなのだ。

いや、別段、家で食いたいというものではない。
昼から瓶ビールとトンカツをトンカツ屋で食うのが非常に好きなのだ。
天ぷらと蕎麦の法則みたいなものだ。
手軽に食べられる和食という意味ですこぶる好きなのだ。
そういう意味では、牛鍋なんかも好きだ。

それでも、一番好きな食べ物はお好み焼きだ。
お好み焼きは世界で一番美味しいといまだに思っている。
アンチョビとオリーブとトマトなんかの入ったピザなんかも好きだ。
ラーメンはよく食べるけれどあまり好きじゃない。
焼き肉なんかは好きだけれど、芸がない気がして、あまりご馳走と思えない。いや、もちろん、ご馳走なのだが。

オムライスやビーフシチューなんかの方がご馳走だ。
手が掛かっているモノはご馳走なのだ。
肉じゃがなんかもご馳走だ。
グラタンだとかもそうだ。
一口に言えば自分が作れない料理はご馳走だ。

それから、他に好きな食べ物と言えばカレー、クリームシチュー、もやし炒め、麻婆豆腐、ニラレバ炒め、にくじゃが、おでん、ピーマンの肉詰め、冷や奴、サンマの塩焼き。
苦手な食べ物は生ガキ。

牡蠣は焼けば美味しいけれど、生牡蠣はどうにも駄目だ。完全な食わず嫌いなのかもしれないけれど、お金をもらってもどうにも食べられない。
命を丸ごと一つ、生で食べるってのは駄目だ。

もちろん、生きている中でいくつもの命を僕は食べているんだけど。
目の前に命ドーンってやつはどうにも食べられない。
だから、魚釣りも苦手だ。
命ドーンは駄目だ。

もちろん、生卵一つ取っても、誰かが頑張ってる命をむしゃむしゃ食べることになる。普通の生卵は命は入っていないけど、元々は命のために卵は産むモノだ。子孫繁栄の手段として。
しかし、鶏の卵には苦手意識はないのだ。
不思議なモノだ。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 01:17| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月28日

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こーへー先生がまた東京に来てくれた。
大学の頃の友人たちは律儀な男が多い。東京の西の果ての何もないような町にわざわざ僕を訪ねて遊びに来てくれる。

それで自転車を一台プレゼントすることにした。
その他、部屋の中にあるものなら何でも好きなモノを持って行って良いよ、と。
本でもCDでも。
登山の道具はさすがにまずいけれど、他は何でも持って行っておくれ、なんて。

全部だれかが何かしら持って行ってくれたら、何となくいろんなことが楽なのにな、などと思ったりしつつ。
捨てるというのは何かと忍びない。
誰かに悪いような気がしてしまう。

ま、そんなこんな。
posted by ちょろり at 03:05| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月27日

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ほんの少し忙しめの土曜日。
納車が数件。

たまには女の子のことで嫉妬なんてしてみた方が良い。
そういう方が人間として健康的だ。
ちくしょー、あいつなんかが毎日あの子と話せるなんて、ちくしょー、なんて。

少々、今の僕は人間味が薄くなりつつある。
山に行って、アフリカに行けばまた濃くなれるんだろうか。

まあ、そんなそんな。
posted by ちょろり at 00:02| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月26日

人間はそんなにクリーンな生き物なのか?

自転車の記事を書いていてふと思ったのだが。
Googleアドセンスは精神の自由、言論の自由には欠けている。
もちろん、それに同意したくなければ参加しなければ良いだけのことなので、別段、憲法違反とかいうことはないにせよ。
言論の自由というモノについて考え直すきっかけになった。

文学、小説が素晴らしいのは完全に言論の自由、精神の自由が許されているという点だ。
たとえば、少し極端な話だが、小説なら差別用語を延々と連発しても構わない。
国家を転覆させる話を書いても構わない。
児童ポルノをガンガン書いたって構わない。
非人道的殺人鬼のお話だって構わない。

本当はそういう話って、どんな場合にも許されていないといけない。
もちろん、それをすることで発生するデメリットはある。書いた人は書いたものに責任を持たねばならない。

Googleアドセンスの場合、煙草、酒、暴力的な記述は駄目だ。
そういう記述があるとアカウント停止になる。アカウント停止になると、別のアカウントでも、もうアドセンス出来なくなる。

ただ、精神の自由というのは、公共の福祉には負ける。
公共の福祉とぶつかる場合には、精神の自由は制限される。

酒や煙草を勧めるというのは、確かに人々の健康を害することを広めるということでもある。
これは公共の福祉に反する。
病院代が掛かるとみんなの大事な医療費を圧迫する。

しかし、思うのだが。
人間ってそんなにクリアな生き物だったろうか?

だいたいに生きている上で何か娯楽をする。
しかし、娯楽なんてのは多かれ少なかれ、何かを失うという側面があるはずなのだ。
スポーツをすれば心拍が上がる。
生物は一生のうちに心臓が拍動出来る最大回数というのがおおよそ決まっている。
拍動を高めるのは、早く死ぬことでもある。
単純計算だが、僕の安静時心拍は85くらいで、ヒルクライムなんかすると二倍の170程度にはなる。
自転車でヒルクライムをしていると僕の人生は二倍の速さで消えていくことになる。

ただ、適度な運動というのは、体に良い。
拍動こそ速くなるが、運動せずに過ごすことで体が被る害の方が大きい。

じゃあ、ベストは体を整える程度の運動になるギリギリの心拍数の運動だけするのが良いと言うことになるが、現実はそうはいかない。
運動をすれば興奮もするし、ガーッと動きたくもなってくる。

でも、現実問題、人間とはそんなクリアな生き物じゃないから、ガーッと動きたくなれば、ガーッと動く。

他にも浪費や、ちょっとした犯罪など。
人間は生きる上でマイナスにさえなるようなことも結構好きなのだ。

命を賭けるアルピニストや冒険家というのは、そういう意味で最も人間らしい人間なのかもしれない。
そして人々は冒険家やアルピニストのことを応援する。別に植村直己がエベレストの頂上についたって、人間の文明がどうこうなったわけじゃない。しかし、人々は冒険家なんかを応援するし、彼らの冒険の成功を心から喜ぶことが出来る。

ねむい。
まあ、そんなこんな
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2016年03月25日

自転車業界は革命を迫られている。

カリエンテ・ペンギン号の修理が続く。
仕事後の二時間。
ショッピングセンターなので最後までいてもそれだけしかいられない。仕事時間はお客さんの自転車だ。

自転車が素晴らしいことの一つに、自分自身でねじ一本までバラバラにして、磨いて、自分自身の力だけで、道の大地を走れるということがあるだろう。

もちろん、一番最高なのはフレーム作りから全部自分で作り上げた一台で走れたら最高だ。

自転車屋をして良かったと思えるのはそんなことだ。フレーム作りからまでは出来ないにせよ、ネジ一本、ベアリング一つのレベルまでバラして整備できるようになった。

ぎりぎりになって、やっとルートの確定が進んでいる。
タンザニア、キリマンジャロ、マラウィ、ザンビア、ボツワナ、ナミビアというルートだ。
まだ、もう少し詳細のルートを詰めないといけないけれど、これでほぼ決まりだ。
ケープタウンは無し。
大都会はなし。
疲れるから。

こうして、出発が近付くにつれ、やっぱり自転車屋の世界にいずれ戻りたいと思うようになってきた。
初めてかもしれない。一生やりたいかもしれないと思える仕事は。自転車屋を一生してみたいかもしれないと思うのも初めてだ。

そういう中で、戻るからには生活もあるので、日本の自転車業界の欠点を考えてみたりもした。
改善しないといけないものは改善しないといけない。
特に一生やるとしたら、何としても。

まず、思うのが梱包の問題だ。
自転車業界がいつまでも貧乏な理由の一つに梱包の問題だ。
梱包の問題がクリア出来れば、価格の見直しが出来る。
現在の自転車業界の値段設定では、どうしても小売店がつらい思いをしてしまう。

まず、体積を最小に出来る輸送方法であること。
そして、小売店での組み立て時間の省略のため、組み立て、検品の見直し、それに適した梱包方法でなくてはいけない。

梱包方法が改善されれば、劇的に値段を変えられるだろう。

次に売る側と買う側の価格に対する考え方の不一致の是正だ。
クロスバイクが小売りされるとき、小売店側は薄利多売というイメージがどうしても浮かぶ。
というのも、クロスバイクも組み立てるのに同程度の時間がかかるので、組み立ての手間、人件費を考えるとどうしてもクロスバイクは粗利が薄くなってしまう。

しかし、消費者としてはクロスバイクを安いモノと思って買ってはいない。
そりゃそうだ、五万円以上する買い物を安いとは感じられないだろう。

この溝が初心者を増やしたり、自転車がポップで身近なものになることを阻害してしまっている。

値段を安くするのはいけない。
クロスバイクを販売しても、きちんと小売店に粗利が入り、クロスバイクが売れることをありがたいと感じられるようにしないといけない。

現在の業界の考え方は、売る側、流通させる側が変わるのじゃなく、消費者の考え方の方を変えようという流れだが。
消費者をコントロールすることは難しい。
消費者はやはり生き物で素直に感じたように考える。
消費者の考えは、実際に流通している製品の品質と値段、付加価値で決まる。それらを見て素直に感じたことが消費者の考え方というものなのだ。

ユニクロという企業はあまり好きではないが、服というものへの消費者の考え方を明確に変えたメーカーだ。
一着の服を長く着るじゃなく、服は毎年買い換えてファッションを毎年楽しむという考え方に消費者の考え方は変わった。
その提案は当時の消費者にとって、とても魅力的だった。

ただ、多分、徐々にカウンターも起きている。
環境問題が深刻化する中で、大量のゴミを作ることになるようなユニクロの服の考え方をおかしいと思う人が増えつつある。良いものを長く着る方が、人間としてのステータスが高いと。
また、単に消費者はより安いモノを求めて、もっと大量消費的なモノを作って欲しいと考える人も増える中、これ以上安く出来ないというのがユニクロに突きつけられている。

この二つは相反するようだが、実は同一直線上の考えだ。
中途半端な値段のものであれば、もう少し値段を出して長く愛せるシッカリしたものが欲しいし、安さで行くならもっと安くしてくれないと嫌だ、と言うわけだ。

そういう意味では昔の方がユニクロは良かった。今の時代に即している。今より安いコストで作れた時代に、手頃な価格でしっかりした服を作っていた頃だ。
ユニクロ自身、そういうことには気付いているので、先日値上げを敢行したようだが、裏目に出て失敗している。
ユニクロは自分の作った自分のイメージ、ファストファッションのメーカーというイメージに苦戦している。

巨大企業がよく直面する問題だ。
ソニーは売り上げのために、安易なコピー製品を作るということは許されない。ソニーというブランドは少々高くてもしっかりした品質のものを、しかも独自の理念に従って作ってくるメーカーなのだ。それが安易に安い電気ストーブなんかを作るようになるわけにはいかない。

それでも、時代が変われば、メーカーは変わらなければいけない。変われなければ次の時代には一緒に進めない。一つの時代に起き残されて潰れるか、寂しく過去の栄光にすがって細々とマニア相手に製品を作るという道をたどることになる。

自転車は一つのメーカーがどうとかじゃなく、業界全体が変わらないといけないのだ。
そして、案外、難しいことではないのだ。
カーボンの技術を新開発するなどということではなく、物流の最適化をするために組み立て梱包を製造の工場に投げるのではなく。革新的な方法の組み立て梱包専門の工場を製造工場の近くに一つ立ち上げれば、それだけで解決するのだ。

具体的に言えば、適正なトルク管理の出来る工具を用いたライン。ミスを減らすための適切な分業と指導。
とにかく素人仕事のようなレベルでの組み付けでなく、小売店に届いた時点ではほんの少し手を加えるだけで、そのまますぐにでもレースに使えるような状態の車体の組み立て。
配送中の傷を減らすこと。

検品、組み立てを台湾ですべきか、或いは、流通する国で行うべきか。
とにかく組み立ては店でやると一人で全てするので時間もかかるが、ライン作業で完全分業制にすれば、ミスも減り、熟練工の育成も容易で、時間短縮、人件費削減が狙える。

今、自転車業界に必要なのは、自転車の技術、知識じゃなく、物流システムのスペシャリストだろう。

流通が改善され、小売店の粗利も是正されれば、必然的に狙う消費者の層も変えられるし、時代が変わる。

メーカー直売では、そういったことは決して解決しない。
メーカー直売は小売店の首をしめる。
メーカー直売の自転車は小売店は嫌がる。金にならないし、自分たちの飯を脅かす敵になってしまうからだ。
小売店を介さないことで安くなっても、一時的に安さに飛びつく消費者はいても、やはりメンテナンスの問題がある。
自分で直すにも専用工具や、特殊知識などが必要だ。

やはりアフターサポートを大事にしてくれないメーカーは結局消費者は離れてしまう。
アフターサポートを大事にしようと思えば、それぞれの地域の前線基地である小売店がやはり大事になる。良いアフターサポートを提供するには、小売店をメーカーが大事にしないといけない。

メーカー直売は小売店をすっとばす、つまり殺そうとすることなので、正に真逆の行動になってしまう。
もちろん、かつての日本みたいに、自転車を趣味とする人は、かなりの修理を自分である程度できるという地盤の上の話なら良いのだが。
どうしたって、広がり続ける市場は初心者の恩恵ありきだ。初心者に自分で修理させようというのは無理がある。

ただ、そういうことは現実的には一個人では難しい。
それでも何かしらのアプローチがあるはずだ。
好きな仕事をずっとやり続けるには頭と体と時間、全部使わないといけない。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 02:54| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月24日

読まれることに本質がある。

風邪もよくなったので、仕事の方の自転車の記事を少し書いた。
今年に入ってから実に膨大な量の文章を書いた。例の自転車の記事と、あとは馬鹿だから先日から始めた自転車と本というページのアクセスをある程度作るためにそれなりの量の文を書いた。

空虚なものかと思っていたが、案外、誰か読む人もいるのだろうと思うと、書いて良かったと思う。
特に自転車の文だったので良かった。

自転車の世界では今でも間違った知識や認識が蔓延している。
強くなるには毎日ローラーに乗らないといけないとか、ロードバイクに乗ってるなら速くなることを目指さないといけないとか。

まあ、実際にはそういうのも正しいのかもしれない。
でも、各自好きなやり方もあるわけだから、どんなやり方でも本当は良いはずなのだ。

自転車の専門家である自転車屋さんは自分の店の利益のことを考えねばいけないから、全てをオープンに語るわけにはいかない。
例えば、ジャイアントって安いのと聞かれても、まあ、値段相応ですよ、と少し的外れな答えをしないといけない。
実際、値段相応というのは事実ではあるが、消費者が知りたいのは、本当に同じ製品を作ったらどっちが安い、というシンプルな疑問だ。現実には全く同じ製品を作ることなどありえないのだが、仮に同じ製品を作ったらジャイアントの方が安いのは事実だ。

やっぱりそういうことは自転車屋さんは口には出せない。
ジャイアント以外のメーカーは、付加価値的なものを何とか付けることでやりくりしている。

そういうことを口に出して言えるっていうのは、別に雑誌屋から雇われているわけでもない、フリーなライターというものだ。
三年働いて得た知識と、それまでの乗ってきた経験とを合わせて、初心者からベテランまで読んで面白い記事が書けたなら、これはとても良い仕事が出来たんじゃないかなと思う。

自転車屋を辞めると、一年も離れれば自転車の記事は仕事としては、もうあまり書けなくなると思う。やはり最新の機材には触れなくなるし、情報にも疎くなる。旅に関する方の記事は書けるが、そっちは小説のネタでもあるし、一度の旅で、売るタイプの記事として形に出来る本数なんてのは知れている。

それでも、インターネットの良いところは、そうして書いた記事でも有用なものであれば、何年かした後でも人がアクセス出来る。
サイトさえ閉鎖しなければだけれど。

やっぱりそういう点で、自分の文は自分で管理して流通させるというのはとても大事なことだ。

少し前までは、文章土方などと感じていたが、やはりそんな単純なモノでもない。
僕の考察があり、伝えたいものを狙って構築されているものがある。

読む人がいて、必要だと思う人がいれば。
それはやはりとても素晴らしいものだ。
書くために書くのではなく、読まれるために書く。
ウケ狙いとかではなく。
やはり文章の本質とは読み手だ。
文章とは書かれるものではなく読まれるものだ。
いかに好き勝手書いて発表しても、やはり本質は読まれるだ。

本当に誰にも読まれる必要がないなら、推敲や構成など一切必要ない。
誰かの目に触れるからこそ、文は美しくなる。
人の目に何かしらの意味を持って飛び込んでいくから、文なのだろう。

それは別に多くの人に読まれるとか、お金がたくさんもらえるとかは関係ない。
ただ、文そのものが人間の目に飛び込めるように姿勢を正しているか、そんなとこじゃないかな。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 01:55| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月23日

カリエンテ・ペンギン号

年明けに買ってまだ残っている松本のお酒を飲みつつ。美味しい。

実家からカリエンテ・ペンギン号が届いた。
毎回名前がころころ変わるけれど、カリエンテ・ペンギン号で確定することにした。
カリエンテはスペイン語でホット。
熱きペンギン号。
ペンギン見てないけど。
多分、今回もケープタウンに辿り着く前にお金が尽きるから見れないけど。

愛車とは、やはり良い。
今乗っているロードもそうだけど、カリエンテ・ペンギン号はやはり僕の人生だ。

正直なところ、カリエンテ・ペンギン号に乗ることは、もう僕の人生ではないと思っていた。
もう、僕は大人になった。
ペンギンがいなくても、僕はなんとかやっていける。
そう思っていた。

しかし、現実はあまり上手くは行かなかった。

僕の人生はあまり上手く行くことが少ない。
医者を目指して勉強に励んだけれど駄目だった辺りから、大学に入っても全くしっくり来ず辞めてしまい、旅の日々も中途半端に終わった。就職したけれど、いろいろと難しいことが多く、やはり辞める。
何一つとして実を結んでいない。

いや、むしろ上手く行っているのだろうか。
そういう流れの中で、また改めてアフリカに向かおうと思えているというのは、大きい目で見れば正しい良い流れの上に乗れているって事なんだろうか。

そういえば、残念だったなと思うのが東京の小説はやはりどうしても完成しなかった。
東京を離れて数年経って初めて書けるモノかもしれないけれど。

ペンギン号を箱から出すと随分汚れていて、まだ何も自転車のことを専門的に分かってなかった頃の純粋にただただ自転車が好きだった頃の自分を思い出した。
アルゼンチンから気付くと五年が経ったのだ。
いろんなことが変わった。
それでも、もう一度走ろうと思うのは何かしら得られるものを感じるからだろう。
何かが待っているんだろう。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 22:51| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月22日

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風邪が治りきらず、家でのんびりと春の甲子園を眺めたりしながら、自転車のホームページの整備を進めている。
http://jitenshatohon.seesaa.net

当初はアクセスを集めていくらか広告収入なんかにもなれば良いなと考えもしたが、段々と、そんな小さい金どっちでもいいじゃない、なんて雑な考えになり、結局、普通に自転車と本の事を書く普通のサイトになりつつある。

ちなみに、ちょろり草はそういう固いことはしない。
無意味であり続けることにこそ、ちょろり草の意味はあるのだ。
そもそもちょろり草なんていうタイトルからして無意味な感じしか漂ってこない。

本当は引っ越しの準備などを進めないといけないのだが、立ち上がって動くと頭がふらふらするので、全く進まず。
まあ、いざとなれば全て捨てれば、それで全て解決するので問題ないのだが。

それにしても、ふと、
「おー、30歳手前にして、仕事辞めちまうなんて、やべーことしちまったなぁ、おい」
なんて思ったりもする。

まあ、別段、そんなにヤバいこともないのだが。
というか、そういうことでヤバいと感じていたら、大学なんか中退した時点で、もうドウニモナラナイってやつなのだ。
でも、実際、ドウニモナラナイなんてことはないのだ。

別に人間生きていて、
「はい、一生懸命頑張ります」
という真面目さがあれば、何とかなる。

そりゃ、美味いもの食って贅沢な暮らしをしようと思うと、何かと難しいことはある。
もう、そういうことをしようと思うやつは、大学中退なんかしちゃいけない。
大学なんか卒業してたって、ゴールデンレトリバーにフリスビーぶん投げて芝生でコーラを飲んで、毎月ホームパーティーなんか開くような贅沢ってのは難しい。
ああ、嘘か。そのくらいの贅沢は頑張れば出来るかもしれない。
ただ、やたら美味いもの食って、セレブだか何だかするってのは、まあ、難しい。
生まれた時点で土地が無いっていうところで、もう金持ちには金の面では勝てないのだ。生まれた時点ですでに親が都心にマンションをいくつか持っているという人間が世の中いるのだ。

そうは言っても、せめて人並みに、ねぇ。
と言い始めると、いよいよキリがない。

そうは言えど、やはり、
あーあー、30手前で馬鹿やっちまってるなぁー、そこからどうすんだよ、
なんてのは一応それなりには考えることもある。
どうするって、どうするもこうするもなく、なるようになることを何とか頑張るしかないだけなのだが。

それにしても、逆にあの会社の人たちはこれからどうやって暮らしていくんだろう。
案外、質素に何とかやってくんだろうか。
いやいや、質素に何とかって言ったって、高卒で工場に就職するより遙かに悪い給料、休日で、何だったら東京の場合、アルバイトをしてる方が福利厚生なんか全部差し引きしても良いかもしれない、そんな中で、さすがにやりくりも出来ないだろう。

でも、そんなことを考えると、いつも会社なんて嫌だと言って、三ヶ月に一回痴漢にあいながらも都心に通勤する友人の女の子も、始発で出発して終電近くで帰って、残業もロクにもらえない友人も、みんな一体どうやって生きていくつもりなんだろう、とは思う。

ふと、僕が思うのは、むしろ辞めずに続ける方がよほど危険なんじゃ無いかということ。
昔はまだ会社にも良心があった。
大きい企業であれ何であれ。
最近は法律に引っかからない、訴えられなければ何でもOKというところが増えつつあると言う。

それは消費者サイドにも言えることで、ほんの少しの傷だろうが、些細なことだろうが即クレーム、値引き、返品、消費者センターと騒ぐ。

仁義なき戦いだ。

同じ日本人同士なんだから。
そんなピリピリせず。
お互いに良いようにすれば上手く行くのにと思うけれど。

まあ、不況も長い。

人員を減らして、出来る限りロボットを導入して。

そういうとき労働者は、ただ仕事をなくしたらどうしようと怯えているだけじゃなく、堂々と、
「そんなやり方は間違っている。オレはそういう会社にはいられない」
といって、きちんと自分で自分の働く場所を探せないといけないはずなのだ。

そうしないと実質、絞られてしまう一方になってしまう。
会社に残った奴が得をするかと言えば、残った人間だけで仕事をこなさなくてはいけないのでますます大変になる。

まあ、そうは言っても、
「30手前でやっちまったなー」
はどうしてもある。

仕事が無くて困ってる人には、安楽死できるようにガス室を国が作るべきじゃないだろうか。国の方も割り振れる仕事があるわけじゃなし、社会にも仕事が余っていない。歳を取るほどに仕事は無くなる。
その他、介護の問題だとかあれやこれや。
時間が経っても解決しない問題を抱えて困った人が溢れている。
行政サービスとしてのガス室。
合法的に安楽死出来ます。死後の人権、保証します。なんて看板立てて。
多分、結構、どこの地域でも大人気満員御礼になるかもしれない。
今の日本は病的だ。

そう考えると、
「良い仕事ないかなー。ないなー。それより、楽しいこと無いかなー。自転車でアフリカでも行こうかなー」
なんてアイデアってのは、なかなか悪くない。
そんなのいつまでも続かないと言われたって。
まあ、続く間はそれで良いだろう。
その後のことは、そこで考えれば、まあ、何か思い付いてるかもしれないし、別に思い付いてないかもしれないし。
どちらにせよ、まあ、何かするしかないので、何かするだけのことだ。
もしかするとガス室のスイッチを押す仕事をする日が来るかもしれない。
そうなった時には、いよいよ日本もお終いだが。

まあ、そんなこんな。
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風邪。

インフルエンザのような病気に体を蝕まれていた。
まあ、もう治ったのでただの風邪だったのだろう。
幼い頃から、数年に一度、そんな風邪をひく。高い熱が出て、とにかく全身が痛くて、意識が朦朧として、眠り続け、二時間ごとに目を覚ましてはトイレでおしっこする。吐くタイプの風邪には掛かりにくい。
多分、物凄いうわごとを言っているのだろう。録音してたら何か書けるんじゃないかと思うのだが、本当に死ぬほどしんどく、本当に救急車を呼ぼうか悩むほどだ。
とにかく全身が痛く、眠ろうに頭が熱く痛く、何かが延々と流れている。僕の場合は何かの文が延々と流れていることが多い。何の文だか治った後ではさっぱり分からないのだが。
しかし、救急車を呼ぼうか考えるほどしんどい時っていうのは、逆に言えばピークなので、あとは下がってしまえば何とでもなる。

病院に行かないとヤバい病気ってのもあるけど、基本的には病院に行ったっているのは医者だ。外科手術が必要であれば出来るだろうが、インフルエンザなんかは診断書書いて薬出すだけしか出来ない。
薬もらうだけでも良いじゃないかなんて言われると、まあ、その通りなんだけど。
でも、まあ、医者に行かないと治らないなんて病気はよっぽどなのだ。
基本的にはご飯食べて眠って。
要は人間の体が備えている免疫力っていうやつで敵をやっつけて治すしかない。

幼い頃からちょこちょこ全く同じような症状に掛かり、慣れてしまっているので、まあ、インフルエンザじゃないだろう、くらいに考えているのだが、インフルエンザだったら周りに申し訳ないなと思いながら普通に仕事に行く。途中で帰らされることが多いのだが。
多分、実際にインフルエンザじゃないとは思う。
症状は似ているがそんなにしょっちゅうなるものでもないだろう。
もしかすると、先天的な免疫不全みたいなものを持ってるのかもしれないけれど、まあ、その割には健康ではある。
気にしても治る物でもないので、放置するしかない。

しかし、毎回、不思議と同じような夢を見る。
熱のあるときにしか見ない夢だ。
何だかとても良い世界だ。
病気なのでとてもしんどいのだが、その世界に関してだけはとても良い。

それにしたって今回のは本当にキツい。ヤマは越えたので、あとは大丈夫だろうが。
早く全快すると良いなと思いつつ。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 02:18| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月19日

もぐらの熱。

非常に高い熱が出ているのか。
関節が本当に痛い。
体中がいたい。
横になっていてもずっと痛い。
びりびり痛い。
体温計など持っているわけがないので、熱など分からない。

それでも、あまりによく起きる症状だ。
今年は二回目。去年、一昨年とならなかったのに。

これが本当に痛い。
頭がふらふらする。
頭は痛いというよりふらふらする。
痛いのは関節だ。
関節がびりびり痛む。
ずきずきとは来ないので、まだ良いのだが、全身がびりびり痛いというのは、やっぱり困る。
ずきずき痛くなくとも。
ビリビリ。

ピークの時は、死にたいと一瞬思うほどに全身が痛い。一瞬なので、まあ、大丈夫なのだが。
横になってもビリビリしている。
ただ、布団に入って暖めると、ビリビリぽかぽかしてくる。
頭がぽわーんとする。
冷たい空気が入ってくるのは本当に困る。
そこはすっかり病の町なのだ。

ああ、誰だろう。
何かがいる。
まあ、だいたいそんな具合だ。
物理的だか何だか分からないが、何者かに出会う。
彼らは僕の記憶の誰かなのだろうか。
或いは、全く外部の人たちなんだろうか。
記憶の中の人々だとしたら、なぜ、彼らは記憶の中で死んでいたんだろう。何年も経って現れる。自分の名前など名乗らない。

寒い寒い、石炭をどんどん入れろ。
乞食たちが乗っているぞ。
クソ乞食どもが。
じゅーじゅうと何か皿が音を立てている。
このクソ乞食は、いつも特等列車乗る。
もらい物なのだ。
いや、半分もぎとったような話だ。
ーー人聞きの悪いことを言うもんじゃ無いよ。おれはきちんとあすこの町に貢献しているさ。貢献するため、実地に向かわねばならないだろう。それで、列車のチケットをもらったというわけさ。

それから、いくつかの丘がいている。
大きなクモには気を付けた方が良い。熱を素早く吸い取ってしまう。潜水艦の充電が切れてしまう。

船は、ずっと海のそこなんだけど。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 21:34| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

数学屋さんは働かなくても良いと思うこと。

山中君が数学の論文発表だかなんだかで東京に来ていたので会いに出掛けた。

昔の友人で会って飲むのは少なくなった。気を使わないといけない相手、肩が凝る相手、会ってもさほど楽しい話のない相手とは僕はもう会わなくなってしまった。少なくとも一人で飲んでいるより気安く楽しい人間としか会わない。

あとは引け目みたいなものもあるのかもしれない。
カッチリしたサラリーマンをしているやつと会うのはどこか引け目がある。
あるいは、結婚して子供を持って、努力して日々を生きている人間。

もちろん、自分も努力はしている。
それにしたって、やはり種類は違うように思う。
社会から大手を振って賛成されるような種類の努力を自分はしていない。

なので、年に二回ほどしか古い友人と会わない。
単に時間、タイミング的に会えないというのもある。みんなが休みの時は僕は仕事で、みんなが働いている日に休み。

そうやって古い友人を少し避けるように生きるのは、普通と言えば普通なのか、それとも偏屈なのか。

山中君は気楽に会える数少ない友人だ。
山中君は立派な数学のドクトルだ。僕と違って実に努力している。しかし、気楽さがある。

新宿で飲んで、まだ話も積もるからと山中君の宿の近くで飲むことにした。
聞くと三ノ輪の駅の近くに宿を取っているという。
ーーそりゃ、君、吉原とか山谷地区って場所だよ。それ、ホテルじゃなくてドヤじゃないのか?
吉原は昔の遊郭、現在も高級風俗店が並ぶ。
山谷地区とは西の西成東の山谷。
路上生活者のメッカである。

終電に乗って行ってみると本当に吉原の中にある小汚いビジネスホテルというかビジネス旅館みたいなものだった。一泊五千円だそうで、一応ドヤではない。

せっかくだから深夜の山谷を散歩しようと出掛けた。
深夜の山谷というのは別段何と言うことも無い。路上生活者たちが時々路上で眠っている静かな街だ。
大阪の西成は深夜歩くのはなかなか難しいものがある。
山谷は西成ほど特別なことはない。

東京という街が田舎者の集まるという性格からか、みんな周囲に無関心だし、街は大抵のものを許容する。
山谷地区の南には浅草が隣接している。
路上生活者たち御用達の商店街からはスカイツリーが見える。
みんな路上生活者の割には、こぎれいな布団を使っていた。暗くてそう見えただけなのか。

山中君はまだしばらく大学で数学を研究するという。
大学にいて研究をしていれば、働かなくても問題ないという免罪符のように自分は思っているのかもしれない、そんなことを以前、言っていた。

実際に免罪符だと僕は思う。
大学の博士課程での超高等数学というのは、努力しても全ての人間が出来るものではない。ちょっと数学が得意くらいじゃ無理だ。少し病的なまでに数学が好きという人間じゃないと無理だ。
大学で博士をしているなら、働かなくて良いというのは真実だと僕は思う。
国家はそういう人間には、金銭的補助をしていくべきだ。

確かに数学というのは、すぐにはあまり役に立たないという人もいるかもしれない。
ただ、実際には分からないのだ。
現在役に立っていることでも、案外、見付かった当時は全く役に立たなかったことっていうのはたくさんある。
あるいは、直接役に立たなくとも、その理論がなければ現在役に立っている理論は見付からなかったということもあるだろう。
そういうのばかりは、どうしても分からないのだ。

合理的なことをするのが正しい、効率が良いとされる時代だけれど。
合理的なことを狙うって言うのは実は効率が悪いという場合も少なくない。
小説や映画の中、机上の空論のビジネス書のなかでは、合理的なことというのも正しいのかもしれないが。

実際には、いろいろやってみないことには分からない事という方が多いはずなのだ。
逆に最短ルートで走れば一番良いというなら、意味の無いことは一切しない方が良いというなら。
多分、みんな同じ事をしているし、みんなが大成功しているはずだ。
現実には、大きな成功とは小さな経験の積み重ねの上にある。
合理的に不必要に見える物をサクサク切り落としていると、一見無駄に見えるけれど、とても重要なことっていうのも気付かず通り過ぎてしまうこともあろう。

一見、何ともつながりがないようなことでも、すごく大事なことはある。
すごく役に立つと言うことも、たまにある。

そういうのは分からない。
分からないが、そういうことを継続してやってくれる人間がいるというのはとても大事なことなのだ。
数学博士は仕事なんか気にする必要は本来ないと僕は思う。

しばらく山谷を散歩しながらビールを飲んで、深夜にわかれて始発で帰宅。
山中君と次会うのはいつになるんだろう。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 03:11| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月17日

万引き犯

万引きが出た。
三年働いて初めて捕まった。
前からちょこちょこ来ていた青年だった。二十歳ちょっとくらいだろう。
どうりで在庫がよく合わなかったわけだ。
ユニクロやら何やらいろんな店のものがてんこ盛りだった。

お肉とか洗剤とかまで入っていた。
日用品を盗るのは常習犯だ。

そんなわけで彼はパトカーにドナドナされてしまっていた。
何度か店内で声を掛けたこともある青年だっただけに、少々可哀想な気がした。
未成年じゃないので書類送検までされたとのことだ。
まあ、ユニクロとか無印なんかでやると、もうどうにもならない。そういう大きいところは絶対に許さない。

万引きっていうのは、もうどうしても店員には見付けられない。
お店って言うのはどうしても死角を作るようにレイアウトする。
お客さんがゆっくり買い物できるように、店員からバッチリ監視されているようなレイアウトにはしないのだ。
特に入店してすぐに店員と真向かいで目が合う店というのは非常に入りにくい。
とにかく店内の滞在時間が長くなるようにする。
滞在時間と商品購入の確率は比例する。
なので、入店と同時に店の奥の商品まで一目で見渡せるようなレイアウトは良くない。
入ってすぐに欲しい商品のところにまっすぐ行くより、商品を探して店内を少し迷ってもらいたい。
そうすると、これ、今度欲しいな、と今回の目当ての商品以外のものがあるものだ。

だから、死角というのがどうしても出来てしまう。

さらに、カバンに隠す瞬間を見ても、それを店の外まで持ち出すところまで確認しないと検挙できない。
そして、勘違い、見間違いだった場合にはお客さんに対して非常に失礼なことでもある。

だから、万引き犯というのはなかなか捕まらない。
逆に万引きで捕まるるというのは相当な下手くそか運が悪いかのどちらかなのだ。

書類送検とのことなので、警察であれこれ聴取されたらおうちに帰れる。おうちに帰ったら検察からの連絡を待つ。公判請求か略式請求かのどちらかだが、万引きは基本的に略式、つまり裁判無しで罰金刑だ。

万引きの場合、相当、何回も繰り返していない限りは書類送検で略式。
つまり、少し警察署であれこれ叱られたら、おうちに帰って、しばらくした頃に罰金を払って前科一犯もらってお終いだ。
罰金を払うというのは、刑を受けたという立派な前科になる。
ちなみに、実は交通違反なんかも、実は十度のものは反則金じゃなく罰金、つまり刑事罰になり、書類送検され、罰金刑を出されると、ちゃんと刑事罰を受けた前科になる。

ただ、前科というのは実は一般人には調べることが出来ない。
就職などでは基本的に一般企業などでは調べることが出来ないのだ。
司法試験を通った弁護士でさえ前科に関する資料を手に入れるのは難しい。
検察か警察の請求があったときにくらいしか前科に関する公的資料には手を出せない。

そんなわけで、万引きは見付かりにくい上に捕まっても非常に軽い刑罰なのだ。

それでも、ドナドナされる彼は実に可哀想なものだった。

うちの店から一万円以上盗んでいたのだが、それでも可哀想に思った。
可哀想だと人に思われるほど悲しいことはない。

恐らく彼はまた万引きをするだろう。
刑罰とはその人の心に法を犯す恐怖を刻み込まねばならない。

残念ながら、万引きに付随する刑罰は万引きを抑制できない。
万引きというのは一種の手癖だ。
あるいは考え癖。
多くの人は物を盗むときに罪悪を感じるが万引き常習者は実際に盗んでいる瞬間には罪悪感を感じられない。後から罪悪感を感じることがあっても、実行する瞬間には癖なのだ。

アルコール依存症を思う。アルコール依存症も治らない。僕も一時落ちそうになったが、何だかんだで筋の良い酒飲みらしく、なんとか健全に飲み続けている。
アルコールは合法の依存性の高い薬物だ。

彼はとても悲しい顔をして警官に連れて行かれる。
社会は彼を矯正してくれない。
彼はまた万引きをする。

それはどうにも悲しいことだった。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 22:17| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ヤクザ者。

祖母はよくやくざ者になるなと言っていた。
権太ロウだったろうか。
ごんたくれだったろうか。
ごんぞうだったかもしれない。
とにかくそういうようなことをいっていた。

しかし、考えると祖母の時代にはやくざとは今とは少し違う言葉だったはずだ。

そもそもにやくざの形成とは戦後だ。
戦後の混乱の中で腕っ節が立ったり度胸のある連中、あるいは単なる無鉄砲で何が出来るでもなく活動力ばかりあまった連中がヤクザの前身である、見回り隊のようなものをしていたはずだ。
MPも日本の警察も手の届かない厄介な問題の秩序を彼らが保っていたはずなのだ。

問題は、彼らの力が大きくなりすぎたところだ。
力が大きくなれば金の問題も出てくる。
ちょろり草が良い文章書きを数人抱えるようになって、人気サイトなどになってしまうと、これは困ったことになるのだ。
金をくれ、おまえは金を稼いでいるだろう、と。
そこで貧乏なくせに金に無頓着な編集長なら良いのだが、そういうメディアを作れる人間とは金に汚い人間なのだ。
それで抗争が生まれる。
そんなわけで、ちょろり草というのはずっと下火のまま、静かにやっている場所なのだ。

まあ、ちょろり草の下火問題はどうでも良い。
とにもかくにも現在のヤクザとなったのは暴対法や覚醒剤取り締まり強化などの経緯があって現在の形になっているはずなのだ。

なぜ祖母はヤクザ者にならないように僕に言ったか。

祖母の生まれ育ったのは鳥取の中でも特に過疎化の深刻な山間の土地だ。
そこでヤクザがどうのこうのという話というのはイマイチ考えにくい。
その上時代背景も考えると、さらにヤクザが云々という話は謎なのだ。

ヤクザ者にならないようにと言うことと合わせて、祖母がよく言っていたのはいつまでも優しい人間であるようにいった。
賢くなれとか、立派になれとかいうことは恐らく一切言われなかった気がする。
それは祖母に限らず母もそうだったが。

祖母の住む山間の村とは米に関しては実に美味しい。下手なブランド米よりも遙かに美味しい。
なんせ鳥取の中でも過疎の深刻な地域、人のほとんどいない素晴らしい水質の川の水で育つ米だ。もちろん山間の村なので棚田だ。品種はコシヒカリ。
世界で最も美味い米は日本の米。その中でも格別に素晴らしい環境で育った米だ。
ただ、全然、金にはならない。
そんなに美味しかろうと、JAに売ればただの鳥取県産コシヒカリだ。
その他のいろいろな野菜にしてもそうだ。
特別な美味しい野菜としては買い取られない。

それは単に祖母が知らないだけだ。
祖母にとってはそれらの美味しい農作物とは普通の日々の食事だった。
週に一度、町に出たときに魚や肉をいくらか買ってくるが、主食は自分たちが作った野菜と米。それらは何ら特別ものではない。

そして、それらの野菜や米は都市では育たないという事実くらいは知っていたにせよ、とても希少で素晴らしいということには気付いていなかったのだ。
ちょうど日本人が飲料水をありがたいということに気付かないようなものかもしれない。

祖母に限らず、その村の人々はみんなそう思っていたし、多分、今もそうなのだろう。

そんな具合の祖母の日々の中でヤクザというものは、やはり出現しようがないもののように思える。

あるいは、祖母たちの世界では全く違うヤクザという名詞の悪い何者かがいたのだろうか。

放蕩者にだけはならないようにという意味だったのだろうか。
だとしたら、あまり守れていないようなところもある。

ふとそんなことを考えた。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 01:16| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月16日

エンパナーダ

文章をカリコリ書いて、スーパーに引っ越し用のダンボールをもらいに行き、何となくエンパナーダを作ってみた。

エンパナーダと言うと、アルゼンチンでよく食べた餃子パンのことだ。
皮が少し厚くて大きい餃子みたいなパンだ。中に肉なんかの具材が入っていて、油で揚げる。揚げ肉まんとかの方がイメージは近いか。

適当に小麦粉に水を入れてこねて外のパンみたいなものを作る。面倒なので本当に水と小麦粉だけだ。中の具の挽肉とタマネギを適当に炒めて塩胡椒なんか適当にかけておく。パンに具を包んで、フライパンに油を少し張って片面ずつ揚げる。
水が多すぎたのか、こねるのが足りなかったのか、いまいち苦戦もしたが、油で揚げてしまうとそれなりに美味しく出来上がった。
エンパナーダはまさに油パンだ。
しかも、中には肉まで入っている。
お腹がいっぱいになる。

そんなことをしつつ、記事を書きためていく。
どうもアクセス解析の方にGoogleのクローラーというロボットはが入ってしまったようで数字がヘンテコな数値になってしまっているが。
やはり戦略的に狙ってる記事だけあって物凄い速さでアクセスが伸びている。
或いは、この日記の読者が一回ずつ開いてくれたからだろうか。
このペースでアクセスが伸びればちょろり草なんてすぐに追い抜かれてしまう。
とりあえず、店のブログが月に一万アクセスなので、それを目標に頑張る。店のブログの方が面白い気もするけど。

あくまで最初の一ヶ月だけだ。
その後は普通に書くだろう。
ちょろり草こそ真の日記だけれど、良い歳こいたから世間に顔向け出来るような文も一つはやっとかないとまずい。

エンパナーダって、本当、響きが良い。
明日も残りのエンパナーダ。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 03:05| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月15日

画像テストです。

ちょっとしたテストなんです。



posted by ちょろり at 12:38| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月14日

アクセス解析。ライフワーク。

最近、Google Adsenceでちょっとした固定収入、こづかい程度のものを作ろうというわけで、久々にパソコンであれこれやっている。当然ながら、出発するとパソコンも家もなくなるので、今のうちにしておかないといけないのだ。
オープンに自転車のことを書く表のちょろり草みたいなものを一つ用意しておこうということも兼ねている。

アクセス解析というのは意外と面白い。
人間が文を読む動機なんかの考察ができる。
ちょろり草と言う文はどういう人が読んでいるのか、どういう記事が読まれているのか。
自分の文はいったいどういう点が評価されているのかというのが、ぼんやりだが見える。
あるいは、世の人々が調べたい事というのが見えて来る。

例えば、このちょろり草の場合。
3/12(土)には、合計で609のアクセスがある。
トップページが60で、あとはぽろぽろといろいろな記事がある。
一人の人が複数のページを見ることもある。
一応184個の機械からのアクセスがあるようだ。同じ人がスマホとPCで見てくれているかもしれないが、だいたいそのくらいの人数が一日にちょろり草に訪れている。

アクセスが一番多いのはトップページだ。
最新の日記をチェックする人はトップページを開いて読んでくれている。
これは実にありがたい。
この人たちは、まさに「ちょろり草」を読みたくて読んでくれている。

次に多いのが「ジャイアントは安くて優秀?」という記事だ。
この記事は2013年3月30日に書いている。結構古い文だ。
単発の記事、特に古い記事というのは、必要があって調べて辿り着いた人が多い。
この記事は昔からアクセス数が多い。

古い記事でアクセスがあるのは、
・四次元坂の記事
(2007/8/27)
BD-1という小径車のドロップハンドル化の記事2013年08月15日
SMPというサドルの記事2014年04月19日
などがある。

実際、このブログに辿り着くのに使われている検索ワードは、「ジャイアントストア」「「GIANT」「安い」「値引き」などがあるらしく、なるほど、と思う。それ以外もやはり自転車関連のワードが多い。

どうも小説家よりも、自転車屋の方が適正があるのかもしれない(笑)

人間はどうして文を読むのかという核心にはいまいち迫れないが。
とりあえず、ちょろり草っていうのは、ちょろり草を読みたいという固定ファンが日本全国に100人ほどいるっていうのは、何だか元気が出る。ありがたい。
100人ってすごい。
3クラスくらい作れる。
鳥取の僕が一時期、震災で避難していた学校は全校生徒50人くらいだったから、それより多い。

文章の良いところってそういうところかもしれない。
東京で暮らしていて実際に会える友人、知人って全部で100人もいないと思う。
でも、毎日、100人が僕の言葉を聞いてくれている。
100人もの人と毎日交流をしている。
全然、気付いてなかったけれど。

寂しがりの人間にとってはそういう事実っていうのは、何とも嬉しい。
目の前にはあまり具体的な良いことがないような時でも、明日も頑張って生きて行こうかなと思える。

インターネットの海の向こうに、人間がいる。
意外とみんな口に出さないだけで50人くらいはお店のお客さんだったりするのかな。
何にせよ、その人たちはちょろり草を何かしらの形で日々の中に求めてくれている。

僕の書いているお店のブログは月に1万アクセスが出る。他の店舗と比べても倍近い数字が出る。
もちろん、僕の文章力うんぬんじゃなく、自転車への興味がその数字を作っているのだが。
それでも、月に1万アクセスを超える記事を書いてこれたっていうのは、自信というか、ああ、いい仕事が出来たんだなという満足感がある。

それらは僕には一円も入ってこない仕事だった。
でも、多分そういうのをライフワークって言うのかもしれない。

まあ、そんなこんな。続きを読む
posted by ちょろり at 20:02| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月13日

将来の遊び道具を。

今日もカリコリと原稿を書く。
会社の方の原稿は、もう百本渡して義理は果たしたので、スローペース。
あとは自分の方で独自に立ち上げたサイトで使う用の原稿を貯めている。美味しいキーワードは分かっているので、あとはこちらでSEOをきちんとして文を焼き直してしまえば良い。もちろん、焼き直すと言っても、完全に別の新しい文にすれば良い。あとは、時間をバラして予約投稿の機能を使えば、それなりに検索に引っかかって、そこそこのアクセスが取れるだろうと見込んでいる。

インターネットの海でアクセスを取るにはテクニックがある。
毎日文字数があって更新していれば良いというわけでもない。

例えば、
ーー自転車を安めに買う方法
というフレーズは駄目だ。
検索するときには、
自転車 安い
と検索するのが一般的だろうから、安めという単語じゃなくて安いという単語を明確に意識しながら使ってやる。

だから、アクセスがとれるサイトっていうのが良い文章を載せているというわけではないのだ。
むしろ、良い文章というのはデジタルには引っかかりにくい。
アナログな人間には引っ掛かるかもしれないが、アナログな人間のところまで到達するまでにはデジタルな検索エンジンの網がある。
検索で上位に出るか出ないかというのが凄く重要なのだ。
上位に出たサイトはアクセスが増えるので、さらに上位に出やすくなる。

まあ、何だかヘンテコな世の中だ。
良い物が、わけの分からないものにせっせと埋められるどころか、せっせと砂を掛けて埋めるような作業ばかりお金につながる。

まあ、そうは言ってもアクセスの取れるサイトを運営できれば、発表できることも増える。何かするときにもあれこれやりやすい。
将来使える遊び道具の一つとして、アクセスの取れるサイトを一つ保有しとくというのは美味しいだろう。

ネットとパソコンが使える今のうちに作っておいてしまうのがとても大事だろう。もう来月には旅の空だ。
一ヶ月でどこまで構築できるかの問題もあるが。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 06:01| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする