2016年05月31日

何とかやるさ。

楽天の電子書籍リーダーが非常に便利で助かっている。
と言っても延々とローマ人の物語を読んでいるだけなのだが。
楽天のスマホを契約したときのポイントバックでかなり買えたが、それでもまだ半分程度だ。全巻買うと一万円くらいになる。
ローマ人の物語はとにかく長いのだ。
これを紙の本で持ち歩こうと思うととてもじゃないが無理だ。
それにしても、これを書いた塩野七生っちゅうおばさんは実に偉い。

不意に少しネガティブな話でもしてみる。

アフリカを自転車で走るっていうのは僕の夢の一つだった。もちろん今もそうだけれど、もう山小屋に入っている時点でほぼ確定だろう。
なぜ、アフリカが夢なのか。
だってアフリカだ。
アフリカを自転車で走るなんて、想像も出来ないだろう。
僕も想像すら出来ない。
アフリカなんだ。

でも、フタを開けてしまえば、そんなのどうしてしたいのか、金と時間を使ってまでキツいことをして、しかも別にすごいことってわけでもなく、すでに他にもやっている人はいる。
そんなのは現実逃避じゃないのか、って。

まあ、確かに、アフリカを自転車で走ろうがどうでも良いことだろう。地球の二酸化炭素も減らないし、天然のメダカが増えるわけもなく、明日の天気にも何の影響もない。
実に無駄だ。
でも、大抵のことは地球の二酸化炭素や天然のメダカ、明日の天気なんかをどうこうできるわけもないのだけれど。

ぼちぼち30歳も来るのに、学生のバイトに毛が生えたような値段で住所不定、移動手段自転車。
30歳くらいなら高層マンションなんか住んじゃったり、或いは良い家建てちゃったり、ゴールデンレトリバー飼ってみちゃったり、まあ、そんな贅沢とまでは言わずとも、牛丼のトッピングをためらいなく付けられるくらいは普通なら出来てそうなもんだけれど。

まあ、実にカスではある。
一口に言うと金になる仕事が出来ないカスである。
金にならない人間、資本主義社会では存在意義のない人間、資本主義じゃなくたって何が出来るわけでもない人間。

まあ、それはそれで良い。
オレは何も出来ないカスで良かろう。
その代わり、カスはカスで何とかやるさ、っていうだけだ。

あまりそんなことは最近は考えなくなったけれど、時々ひどく叱られたりするとそんな気分になることもある。
仕事が出来ない。
基本的に要領が悪いのだ。

実際には仕事が出来ないわけではない。出来るように見せるのが下手なだけなのだ。
自転車屋さんをしていた頃には、お客さんにはバリバリで出来るという風に見せていた。それは仕事の一部だ。プロの自転車屋さんってのは、自転車に関してだけはお客さんに夢を与えないといけない。
お客さんが自転車に触れた時に夢を感じられるように、自転車に夢や希望、憧れを感じてもらえるように、そういう風に自転車を伝えるっていうのが仕事だった。

売る売らないについても、まあ、仕事ではあったけれど、金額を売るっていうだけの話なら別の企業名をでっちあげてネットショップでも立ち上げて安売りして売れば良いだけだ。
ネットショップっていうのは人件費も店舗代も掛からないので値引きしても問題なくやれる。
ただ、そういうのは別に僕の仕事ではなかった。僕の仕事は自転車を伝えるっていう仕事だった。
そういう中では、良いカッコして、夢を見てもらうというのはとても大事だった。

ただ、そういうのはくたびれてしまうからあまり好きじゃない。
カッコを付けても付けなくても、結局、内容、実の部分は変わらない。カッコを付けるのもくたびれる。
実の部分を何とかしたい。
カッコだの何だのに頭を使うのは好きじゃない。

そんなわけで要領が悪い。

ヘリポートから小屋に帰っていると、ニリンソウなんていう花の前を鳩が歩いていて和んだ。
ヘリの当番は大変だ。正直、誰か別の人がしてくれるなら頼みたい。でも、他に丁度良い人がいない。僕がやらないといけない。
そんなら僕がやるとしよう。何とかやるさ。せっせと。
小屋のためになることをしたい、っていうのはどうして思うものなんだろう。
なぜか、変に今働いている小屋には思い入れがある。
なぜだかはよく分からない。

よく分からないけれど感じることっていうのは大事にしておいた方が良い。きっとね。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 07:21| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月26日

タンポポの体育会系。

山小屋へと食料なんかを送るにはヘリコプターを使う。
ーーじゃあ、そのヘリに乗っていくんだ?
ーーいえ、人間は歩きですよ。人間を送るのは高いですからね。
街に降りると行くジャズ屋がある。お城の近くにある。先日からマスターさんと少し話もしたりするようになった。音が良いのはもちろんだが、選曲も抜群に良い。古いバップの曲からヌージャズまで。

ヘリコプター当番はなぜか体育会系だ。
普通、ヘリコプター当番なんてのは、単に荷物を作って、ヘリに吊ってあげるだけなのでさほど難しいことはないのだが、槍ヶ岳の小屋は同じ系列の五つの小屋の荷物をしないといけないので厄介なのだ。
なぜか上司が体育会系なのでやたらと怒られる。言葉が荒い。
まあ、教えてもらえているということなので良いのだが。

歳を取ると、叱られにくくなる。
まあ、良い年こいたおっさんを叱るのは何かと気まずい。
言いづらいから、言っても無駄になって、教えてもらえなくなる。
その点、僕は叱りやすい人間らしく、どこに行っても誰にでも叱られる。
そういうのはありがたいことだ。

ーーそれはナメられてるんだよ。
そんな風に誰かに言われたこともあるけれど。
まあ、ナメられてるんだかどうだか知らないけれど、あれこれ指摘してもらえるというのはありがたいことだ。

そういうのを考えると、昔は友人にもよく意見を押し付けたり、押し付けられたりもしたのを思い出す。
段々とそんなのしなくなる。
言いづらかったり、
ーーアレはアレで何か考えがあるんだろう、アレも馬鹿じゃないからね。
ーー自分で気付かないと駄目でしょ。
なんて話になったりする。

でも、多分、本当のところは改善した方がより良いと思うことがあれば押し付けるべきなのだ。

段々、歳を取ってくると何が良いとも分かりにくいようになってくるってのもあるんだろう。

怒られていると少し悲しくなったりもするが、若いうちにしか叱られないのだ。或いは初心者のうちにしか。
小説を書いてみても、もう今じゃ駄目出ししてくれる人もほとんどいない。
まあ、人に読ませられるところまで書いてないってのもあるけれど。

まあ、何事もそうだ。

でも、叱られなくなるってのも大事ではある。
その人の型みたいなのを周りが認めて、一般の型とは違ってもアレコレ言わなくなる。
或いは周りにアレコレ言われても気にせず貫く必要があるときなんかもある。

ーー人間は成功のイメージを持つことは難しいけれど、失敗のイメージを持つのは簡単なんです。人間は自分が実現しやすいものしかイメージしにくい人間なんです。成功は難しい。でも、失敗は少ししくじるだけですぐ出来てしまう。だから、人間は失敗のイメージを持ってしまいがちなんです。脳にとっては、ある意味、失敗の方が予測通り辿り着きやすい未来なんですよ。
ケビンと電話したらそんなことを言っていた。

体育会系の上司は口は悪いが良い人だ。
ただ、本当に口が悪い。
去年の新人は心に傷を負ってやめたらしい。
まあ、山の人はシャイなので、つい口が悪くなる人ってのは珍しくない。
でも、本当に良い人だ。
せっかく良い人なのに口が悪いのは損してるなぁとは思うけれど、それはそれでその人の選んだ人生のやり方だ。

ヘリコプターは山の稜線に雲がかかって途中で終わった。
平地で曇りでも、3000メートルの稜線では濃霧、強風なのだ。
まあ、僕の働いているのは2000メートル弱なので、あまり普段の生活には影響ないのだが、上に飛ぶヘリコプターの荷物もしないといけないので、大変なのだ。

タンポポがふらふら風に揺られていた。
綿毛が飛んでしまっているやつらの中に日本だけまだ綿毛があった。
少し離れて、まだ黄色い花のやつもいた。
茎にてくてくと虫が歩いて登っていた。
テントウムシはてっぺんまで登ると飛んでいくけれど、今日登っていた虫は少しおバカなのか意図的なのか、頂上を過ぎると、反対側をてくてく下ってしまっていた。
まあ、てっぺんから飛ぶからって良いってわけでもないんだけど。
とりあえず、眺めていて飽きない良い絵だった。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 23:06| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月24日

読書の山。

やはり、本には感動がある。
井上ひさしの「一週間」なる作品を読んでいるのだが、さすがのさすが、大さすが、井上ひさし先生のこの作品は小説の極地に一つ辿り着いている。

ちなみに、電子書籍の方では塩野七生「ローマ人の物語」だ。
僕は、だいたい、三冊くらい並行して読む。

最近、山でずっと生きることについて考えてみている。
別に急いで決断を下す必要などはないのだが。

人間とはどうあるべきなのか。
一つの答えとして、本を読めるゆとりを持てるということはあるんじゃないかなと思う。
年間十二冊、月に一冊で良い。出来れば年に24冊くらいは。
それは自己啓発本だとかビジネス書などではなく、ただ自分のためだけに読む本が多い方が良い気はする。
別に仕事のためでもなく、何か趣味のための勉強でもなく、別に何の役にも立たない、そういう本って言うのは一番良い。
人生勉強でもなく何でも無い。

そういう意味では中島らもとかさくらももこのエッセイなんかは良い。
エッセイってのは良い。
単にダラダラ独り言を書いているのを眺めているってのは良い。
教訓とか全くないどうでも良いような話。

そういう読書っていうのは、人間として随分と余裕の有る優雅な時間の過ごし方だろう。

人間とはどうあるべきかといえばお金の問題も出てくる。
お金の問題はなかなかに難しいけれど、一つ折り合いみたいなところが必要だ。
お金だって人生には重要なことだ。
お金を作るには基本的に時間が必要だ。
効率の善し悪しはあれど、時間=お金というのは間違いない。時間ゼロでお金を作れるとしたら、多分、ビルゲイツなんかよりもっとすごいお金持ちで、しかも、全く何の仕事もしていない人っていうのもいるはずだろう。何せ、時間ゼロでお金が作れるなら、次の瞬間には好きなだけいくらでも持つことができる。
ビルゲイツだって、一秒で一万円稼げるにしたって、やはりゼロ秒で一円を作ることは出来ない。
効率の善し悪しはあれど、お金は時間から作られる。

時間をお金に変換する効率の善し悪しっていうのは、一口に言うと、どれだけ真摯にお金を作ろうとしているかと思う。
お金を作るだけなら、多分、医師免許あたりを取って製薬会社に就職が良いのだろう。もちろん、家が開業医とかならそれを継ぐのも良いが、勤務医じゃ大して儲からないらしい。
真摯に金のことだけ考えれば医学部に入るために死ぬほど努力するだろうし、一番儲かるところに就職するだろう。
もちろん、医学部じゃなくても儲かる仕事っていうのはいくつかあるだろうから、そういう仕事目指して勉強すれば良い。或いは、大工のカシラを目指しても良いかもしれない。
仕事がなくて困っているというなら、看護学校に行って、看護師なんかでも良いだろう。

金を作る方法って言うのは存在している。
ただ、それをしないのは、つまるところ、そこまで金が欲しくないのだ。
医学部は難しいにせよ、看護なら一生懸命勉強すれば入れる。学費だって頑張れば貯まるだろうし、奨学金も上手く使えば良い。
ただ、多くの人がお金は欲しいけどそうはしないというのは、つまるところ、そこまでお金が欲しくないのだ。

看護師になるのももちろん大変だが、仕事内容も大変だ。
そこまで頑張ってまでお金が欲しいわけじゃないというのが本当のところなのだ。
確かにちょっとお金が欲しいというためだけにやるにしては過酷な仕事だ。

ただ、だいたいの仕事が何かしら大変だし、どうしてもなりたくてなったという職業は少ないだろう。
だいたい、いろいろな成り行きで仕事って就くものだ。
それでも、だいたいの人が日々大変でもせっせと頑張るのはお金が必要だからというのが一つにある。
もちろん、お金のためだけじゃない。労働を通じて社会での存在意義というのは感じられるものだ。
それでも、お金にならないボランティア活動だけし続けていては生きていけない。

それでも、お金はいくらかは必要にせよ、その人によりけりで必要な額も変わってくる。
多ければ良いとか、少なければ良いという問題でもない。
国家として考えれば、是非ともみんなお金持ちになってくれて、国民総生産を高くして欲しいけれど、一人の人間として考えれば別に収入は多くても少なくても、その人の必要とする金額以上のお金があればどちらでも問題ないのだ。
だから、看護をすればお金はたくさん稼げると分かっていてもみんながみんな看護師になるわけじゃないのだ。
その人にとって必要な金額が稼げていて、なおかついろいろなことのバランスが良ければ一番良い。

よく福利厚生だの何だのという言葉もあるけれど、やはりそれだけでは語れないだろう。
残業がないとか云々かんぬんもあろうが、やはりそれだけでもない。

本を読めるかどうかってのは、とても分かりやすい基準だと思う。
本を読むにはそれなりの余裕がないといけない。
時間的余裕もそうだが、時間は少なくても本を少し読むくらいの時間はたいていの人にある。
心のゆとりだ。

よく外人なんかは残業は一切せず、アフターファイブは自分のために過ごすというけれど、そういうのは案外日本人には合っていないと思う。
日本人はある程度の束縛じゃないが、やることが決まっている方がむしろ気楽なのだ。別に早く帰っても特に何もすることがないというのはよく聞く話だ。
掃除をしたり家事をしたりとかも多い。
五時から遊びに行って、それから帰って眠る、なんていう人は滅多に聞かない。
ホームパーティーがとうこうとかもあまり聞かない。
せいせわい帰りに酒を飲みにどこかに寄るくらいだろう。ら

そう考えると、少々仕事で残って、帰ってテレビを眺めながら飯を食って、風呂にはいって、テレビの前で少しゴロゴロしてから眠る。
そんなのが日本人なのかもしれない。
多分、本を読むというゆとりがないほどに、何かをせっせとしていないと落ち着かないのが日本人じゃなかろうか。

本を読もうと思うと、意外とあれこれ必要だ。
お金は掛からないけれど、時間が必要だ。
考え事があると読んでいても話が頭に入って来にくい。
読書って、時間と精神的ゆとりという点については結構必要だ。

多分、楽器なんかもそうだろう。

楽器も読書も、学生時代はよくしていたのに大人になってからしなくなったという人は多い。

でも、うちの母親が言っていたが、
「あんたが生まれてから、元々自分が好きで買っていた本の代わりに絵本、CDやレコードの代わりにドラえもんのビデオになっていったなぁ」
なんてのは、実に人間として素晴らしいことだと思う。

天秤に掛ける必要もないが、良い音楽や文化を知っていて趣味が良いなんかよりも、子供のために自分の娯楽をなくしてせっせと子供を育てるっていうのは、遙かに人間として素晴らしいと思う。

子供がいる方が素晴らしいなんて言うとアレコレ問題もあろうが、やはり人間も生き物として考えれば、子供がいて、それを育てるっていうのは人間としてとても素晴らしいことなんだろう。
まあ、それは分かるけれど、結婚やあるいは子供と縁の無い人もいる。
そういう人は駄目かと言えば、もちろん駄目ということはない。

まあ、物事を天秤に掛けて比較しようとするからいけないのだ。
別にどっちが良いということもない。
これはこれ、あれはあれ、それぞれに何かしら素晴らしいところがあればどちらも良い。

まあ、そもそも良いか悪いかでものを考えている時点で少々アレなのだが。

山ではぼんやり時間が過ぎて良い。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 06:51| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月20日

ジョイフルの法則。

山も寒さがやわらぎつつある。
半袖はまだ少し肌寒いが、不可能ではない。

山にいると本がよく読めるのが良い。
最近は塩野七生のローマ人の物語なんて読み始めている。これが結構おもしろいのだ。まさに、電子書籍リーダーじゃないと山に持ってこれない量の本だ。
山ではとても集中して、ゆっくりと本が読める。
多分、ジョイフルの法則だ。

ジョイフルというのは、ファミレスの名前だ。安くてだらだらと時間を過ごすには良い。東京にはほとんどないので行かなかったが、岡山にいた頃にはよく行った。
一人でジョイフルに行くのがとても好きだ。
ジョイフルはテーブルが広い。
本とノートを持っていけば、とても充実した時間を過ごせる。

そんなのは家でやれば良いじゃないか。家なら好きな音楽も聴けるし、パソコンで調べ物もタイピングも出来るじゃないか。
そう思う人もいるかもしれない。

しかし、正にそれなのだ。
ジョイフルの真価は何も無いということなのだ。
人間の集中力なんてものは結構あてにならない。
周りに何も無ければこそ、一つのことに集中できる。

周りに人がいて、話し声がする方が集中できないという人もいるかもしれないが、知った人が近くにいれば集中しにくいにせよ、見ず知らずの他人がいくらあれこれ話していても、さほど気にならないものだ。
興味関心のあるものは近くに置かない。
これは大事なのかもしれない。

一人で行くにしても誰かと行くにしても、ジョイフルには何も無い。
ジョイフルに一緒に行ける人間ってのは良い人間だ。
話が面白くない人間とジョイフルに二人きりなんてちょっと想像できない。かなりキツいものがある。

何も無いところで、向き合えるモノ、人っていうのは、自分にとって大事なものなんだろう。

山で本に集中できるのは、あとは電波のこともあるのかもしれない。
僕の働く山小屋では一部の場所でしか電波が入らない。
自転車の文を書いて送る仕事もあるので、日に一度か二度通信もするが、原則として、電波は入らない。電池ももったいないので基本的に機内モードにしている。
電波がないのは良い。

何かを手に入れるより、捨てる方が難しい。
いや、手に入れるのも難しいか。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 12:23| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月17日

散歩のたび。

休暇最終日。
暇に任せて、寮の近所のあがたの森公園でウクレレを弾いて遊ぶ。とりあえずは、デイドリームビリーバーとオータムンリーブズ。
どちらも良い曲、買ってきたソロウクレレの調べのアレンジも素敵。
ウクレレっていうのは思っていたよりも簡単に弾ける。もちろん、きちんと弾こうと思えば難しそうだ。簡単そうに弾ける楽器ほど難しかったりする。カスタネットやトライアングルなんかがまさにそれで、誰でも叩けそうでいて、叩ける人にしか出せない音っていうのがあるらしい。
多分、ウクレレもそういうタイプの楽器だろう。

ぼんやりと公園の吾妻屋のベンチに腰掛け弾いていると、老人に話し掛けられる。
四組に話し掛けられた。松本ってのは良い町だなと思う。

最初は老婆。
グランドゴルフの練習があるとおもって来たのだそうだが、どうも誰も来ない。電話すると、だれそれに急用で今回は休みとのことだそうで。
ーー私、楽器の音って好きなのよ。何か弾いてよ。
ーーすみません、昨日買ってきたばかりなもんで。
ーー良いのよ、何か弾いてよ。
それで、蛍の光と仰げば尊しなんか弾いてみた。クラシックギターを弾いていたので、簡単な曲はとりあえずは譜面を眺めてそれっぽく弾ける。
小学生のリコーダーの練習のような途切れ途切れだったが、老婆は最後に、ありがとうと言って、また散歩に出掛けた。

次には二人の老婆が来た。
一人が年上でよく喋る。昔、ピアノの先生をしていたの、と言って、
ーーあんた、楽譜読みながら弾けるなんて十分たいしたものじゃないの。
と誉めてもらえた。弾けてないのだけれど。
ーー昔、そこで北杜夫に会ってね。
と、北杜夫の話が不意に始まって驚いた。
ーーね、あの人、斎藤茂吉の子供なんだよね。
などと、博識。
ーーあそこのお母さんは、なんて言うかみっともなかったわ。しゃべると悪さが際立つというか。でもね、すごくね、良い人なんだよ。
ーーここらへんは桑畑だったんだ。
もう一人の老婆は相づちを打つ。
ーーへえ、あんたは何でもよく覚えてるねぇ。
なんて、具合だ。
山で働いていると言ったら、
ーーじゃあ、お客さんにウクレレ聞かせてあげなよ。誰にでも出来ることでもないし、静かに黙ってご飯を食べてるより、音楽がある方が素敵じゃないの。
と。
なるほど、確かにそうだなぁ。
二人の老婆も、散歩に旅立った。

次には、トテトテとせわしなく歩く老婆の手を引くお爺さんが来た。
ーーああ、おとうさん。
ーー違うよ。ああ、すみませんねぇ。
僕の顔を見ると老婆が言い始める。
老婆はボケてしまっていて、お爺さんがその手を引いて散歩に連れ歩いているらしい。
ーーほら、おとうさん、行きますよ。そうそう、お爺さんはねぇ、よくねぇ、そう、ほら、おとうさん。
と、しきりに僕のことをおとうさんと呼ぶ。
そんなに僕は老婆のおとうさんなる人に似ているのだろうか。
ーーほら、違うよ。知らない人だよ。本当にすみませんねぇ。
老婆はトテトテと歩いて、お爺さんは最後に、また、すみませんねぇ、と言って散歩の旅に出掛けた。
おとうさんっていうのは、老婆の旦那さんのことなんだろうか、それとも実の父親のことなんだろうか。

最後に一人の老婆が来た。髪を金に染めた老婆。
ーー隣、座って良いですか?
どうぞ、と言うと、ぼんやりとどこかを眺めていた。
しばらくぽろぽろウクレレしていて、煙草を吸うと、
ーーおにいさんの灰皿?
と僕の携帯灰皿を指さして言う。使って良いかと聞くので、どうぞと答えると、
ーー本当は煙草を辞めないといけない病気してるんだけどねぇ。
などと病気のことを話し始めた。
血管の病気らしく、心臓の血管を人工血管に変えているそうな。
ーーそれでも、こうして散歩に出掛けられてるんだから、良いじゃないですか。
ーーああ、そう、本当奇跡的にねぇ。でも、同じ病気で倒れたくないから、煙草は辞めないといけないんだけどねぇ。
身寄りがなくて一人暮らしなので、家にいるのが寂しくて怖いらしい。しかし、散歩に出ると、煙草を吸うのに良いベンチがある。だから、一日、五本ばかり吸ってしまうと言う。
禁煙をしたことがあるか、と言うので、まあ、まだ若いので、と。
先日、養老孟司氏が言っていたが、煙草の悪影響なんてのは、まあ、知れているらしい。
確かに、ヘビースモーカーで随分長生きして、長生きの秘訣は煙草なんていう老人にも何人にも会ったことがある。
老婆より十歳ばかり若い僕の父は酒も煙草もしないけれど、癌になっている。
煙草が長生きの秘訣と言うより、自分の好きなことを出来る限り好きなだけやるというのが大事だと誰かおじいさんが言っていた。
まあ、本当のところは分からない。
でも、老婆は辞めたいと言っているんだから辞めた方が良いのだろう。
僕は当面は吸い続けるだろう。多分、死ぬまで吸ってるんだろう。
まあ、人それぞれいろいろあるんだろうなぁ。
老婆は自転車をキコキコ、散歩の旅に出掛けた。

それから一時間ばかりぽろぽろして五時になったので、片付けて、山に戻る前にジャズ屋さんにウイスキーを飲みに行った。
松本のエオンタという店なんだけれど、実に選曲が毎回優れていて、スピーカーも音量もとても良い。
少しふらふら散歩して、今日の僕の散歩の旅もおわりにした。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 22:33| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

金遣いが荒い。

四日目はのんびりと走ってもたかが40キロで松本の寮に昼前に戻ってきた。
三泊四日、実にお手頃で楽しい自転車旅行だった。

テントの中で酔った勢いで注文した電子書籍リーダー、地味に2万円くらいする良い奴なのだが、それをコンビニで引き取って、山で遊ぶために五千円のウクレレを買って、インターネットカフェで写真の整理を。
最近はGoogleフォトの方で写真を管理しているのだが、やはり便利だ。画質もあまり小さくならない。もちろん、いくらかは小さくなるが。
じてぼんの方の記事に写真を何枚か貼り付けた。

ちょろり草は相変わらず雑。
文の方は真面目に書くが、写真なんかは面倒なので貼らない。
まあ、ちょろり草とはそんな感じで程良いのだ。

今回から書き分けをしてみている。
ちょろり草は昔ながらのちょろり草だ。毒も吐けば、文句も言う。規制無し。
じてぼんはあくまでオフィシャルな自転車と本のことを書くページ。

別にどっちが大切ということもないが、じてぼんのようなオフィシャルなページを持っておくのは何かと都合が良かろう。
別にちょろり草は隠れた裏ページというわけでもない。むしろ、多分、面白いのはちょろり草だろう。

ただ、エッセンスを分けた方が読者にも都合が良いのだ。
自転車と本のことを読みたいのに、あれこれわけの分からないこと、それこそ女の子がどうのこうのを書かれても困る人もあれば、ちょろり草が読みたいのに自転車のうんちくをアレコレ語られても困る人もいる。

いざ、書き分けてみると、確かに書く方としてもいろいろとよろしい。
自転車で旅をするという表層的な側面と、その旅の中で心に移りゆく心象を切り分けて書くのは良い。

電子書籍リーダーは以前から欲しかったのを酔った勢いで買えて良かった。
思っていた以上に使い勝手が良い。
海野十三の作品を読んでみている。
青空文庫の本はほとんど無料なので非常に良い。スマホやタブレットでは読みにくかったものでも、専用リーダーだと非常に良い。

山に本を持って行くにも五冊も持てばずいぶんな重さになるが、電子書籍リーダーなら百冊でも持てるし、インターネットですぐダウンロードも出来る。

まあ、あまり便利にし過ぎると良くないこともあるだろうが。本に関しては便利にしてしまって、いろいろ読むのがやはり良いだろう。

光文社文庫の新訳シリーズを読みたくて買ったのだが、電子書籍化されているのだろうか。楽天のものを使っているのだが、とりあえず、ボルヘスは見付からなかった。ボルヘスの伝奇集が読みたかったのだが。まあ、良い。ガルシア・マルケスの短編集は売っていたので良い。ただ、百年の孤独やコレラの時代の愛なんかはなかった。
ちょっと頑張って欲しいところだ。

最近はたしか吉川英治も著作権が切れて青空文庫に出ているはずなので、歴史物を入れておこうかなとも考えつつ。
漫画は最近は面白いのは出ているんだろうか。

それでも、やはり本を探すなら、やはり本屋が良い。
読みたい本が決まっていれば電子書籍は便利なのだが。
楽譜なんか売ってるんだろうか。
まあ、明日も休みなのでのんびり探してみよう。

少々金遣いが荒い。
まあ、美味しい食べ物も電子書籍もウクレレも必要なものなので良いか、と甘い考えで。
あとはノートパソコンも欲しいのだが、それは、別に急ぎでもないので、アフリカ出発の最後の段階で考えようと思う。
宿にWi-Fiがあれば良いが、アフリカの宿なんかにそんなことはあまり期待も出来ないし。どうしたものか。
スマホでもう少しファイル管理なんかも自由に出来れば良いのだが。それでも、まあ、実に二十歳くらいの頃から今の十年足らずで実に時代は変わったなぁ。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 00:28| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月15日

姥捨山と女の子。

なぜだか股ずれしてしまって痛い。
今夜も野宿。長野市と松本市の間の聖湖っていうところ。姥捨山のわき。ちなみに姥捨山は、案外普通の峠だった。
例のごとく自転車の詳しいことは「自転車と本」略してじてぼんの方に書いている。一応、じてんぼんで検索すれば出てくると思う。

それにしても、股ずれが痛いのは困る。
山の仕事で乾燥して困っているので、明日はワセリンを買おうと思う。ワセリンを塗っておけば股ずれは防げるのだ。でも、べたべたして気持ち悪いから、あまり使いたくないのだけど。
自転車専用のさらさらクリームもあるらしいが、値段が高いし売ってる店が少ないので却下。

昨夜、とある女の子の夢を久々に見た。
今も仲が良く連絡など取り合う子だ。
なぜか自転車で旅をしていると時々ふとそういうことを考えることがある。昔の女の子。

人生やけっぱちというと響きは悪いが、人生少し割り切ったようなところがある。大学を辞めて、せっかく就いた仕事も辞めて、山小屋に戻りアフリカに行こうとしている。
そんな人間が女の子のことを考えても不毛だ。
安定した幸せな家庭とかには辿り着けない、いや、辿り着きたくないようなところがある。

しかし、どうしてか時々無意識の時にふと考えることがある。
それにその女の子はすでに結婚している。

自分の憧れの女の子がきちんと良い人と出会って結婚して幸せな家庭を持つ。
僕は良いことだと考えるタイプの人間だ。
そりゃ、僕と結婚してくれたら良かったのにと考える部分もあるけれど。
僕と結婚しても苦労をかけるばかりだし、僕も何かを我慢しながら生きるってのはあまり得意じゃない。
自分が貧乏なのは全く構わないのだが。
憧れのあの子が貧乏で苦労してくたびれていくのは嫌だ。

でも、昔と違って、悲観的ではない。
今していることは少し時間は掛かるし、お金になるかは分からないにせよ間違っていないと確信している。
多分、僕は僕にとってすごく大事で良いことをしていると思っている。
その女の子とは難しいかもしれないにせよ、自分にとって大事だと信じることを頑張って続けていれば何かに辿り着けるだろう。それに、多分、そんな風に頑張っていれば、それを素敵だと感じてくれ、僕も惹かれるような素敵な人もいずれ現れるだろう。

一番大事なのは自分にとって重要なことを理解して努力を続けるってことだと思う。当たり前だけど。
社会的に大事とされていそうなことよりも、自分が直感的に感じる大事なこと。

まあ、好き嫌いや異性の話なんかと同じで、結局自分の頭の中のことってのは理屈じゃない。
自分にとって良いと感じることを探して実行する。
まあ、そのくらいしか自分に出来ることってない。

さて、風も強いし、姥捨山だから多分ここらの人の間ではちょっとした心霊スポットのようなところだから、さっさと眠ろう。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 21:26| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月14日

野宿をみじめに思う必要は無い。

珍しくキャンプ場にとまっている。
野尻湖。風景は良いが、設備は特に良くない。食材が買える店も遠いし。まあ、トイレと水があるので問題はないが。
自由に使えるガス台とWi-Fiやシャワーなんかが完備されていれば素敵なのに。アルゼンチンにはそんなキャンプ場もあった。
日本のキャンプ場はテントを張る区画も指示されるし、あまり広くもない場合が多い。
そのくせ、入場料と駐車料金と、さらにテント幕営寮まで取られる。今日は他に客もいなくて自転車と言うことで特別にこっそりいくらか安くしてもらえたが。正規の料金だと2000円もする。
まあ、キャンプ場の管理人の人件費なんかも考えると仕方ないのかもしれないが。
でも、そんなの自販機で券を売って、三日に一回ほどシルバー人材にでも頼んで掃除だけしておけばいい気もするのだが。

やはりキャンプの文化というのが日本にはない。
確かに狩猟なんかもあまりしない国だからか。
逆に海沿いの釣り人向けの民宿なんかは充実している。

キャンプ道具を積んで自転車でふらふらと旅をしていると、優しくしてもらえるのはありがたいのだが、時々、変にみじめな気分になってしまうことがある。

実際には別にみじめなことなどない。
外でご飯を作ったり、テントで寝るのは楽しいことだ。
確かに道の駅で眠るのは貧乏くさいかもしれないが。
それでも、キャンプだって道具の金がかかる。
僕の自転車の場合、車体は安いが、荷物を入れるカバンだけで五万ほどするし、それを積むためのラックも前後で四万くらいする。テントも五万くらいするし、寝袋も一万、調理のためのバーナーだって一万くらいする。
まあ、海外を走るために良い物を使っているというのはあるけれど、安物で揃えてもそれなりの値段する。
キャンプは決して貧乏くさい趣味などではない。
むしろ、金と時間を使って、わざわざ外で眠るのだから、ある意味ではすごく優雅な遊びだ。

でも、なぜだか時々変にみじめな気分になってしまうことがある。
なぜってのもよく分からないし、そんな気分になる必要もないとは分かってはいるのだが。
まあ、道の駅で眠るのはみじめな気分でも良いとは思うが。
それでも、日本のキャンプ場事情を考えれば、行ける距離に制限のある自転車ではどうしてもキャンプ場以外で野宿せざるを得ないことは増えてしまう。

多分、自動車でオートキャンプみたいな趣味ならそういう気分にはならないんだろう。

まあ、道の駅で眠ろうが好きでやることなんだから、みじめに思う必要なんて無いはずなんだろうけれど。
なんだろう、やっぱり人間、家に眠るってのが基本なんだろうかね。分からない。

まあ、そんなこんな。
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2016年05月13日

糸魚川にて。

今日は松本から糸魚川へと走った。
チャリのことはじてぼんの方に書いている。
http://jitenshatohon.seesaa.net/article/437842278.html

走り始めてから、一眼レフの電池を小屋に置き忘れてきたことに気付く。馬鹿だねぇ。
まあ、コンデジもスマホもあるので問題ないのだが。

糸魚川市にて酒を飲んで魚を食って、日本海わきの小さな公園で野宿している。

三泊四日のつもりだったが二泊三日くらいになりそうだ。明日は糸魚川、直江津、長野くらいまで行くのか、或いは野尻湖のキャンプ場で一人焼き肉か。

Kindleが欲しい。
ポチろうと思う。
暗いところでバックライトのあるデジタルインクはやはり便利だろう。電池持ちも良いそうだ。
それか楽天のブックリーダーか。
とりあえず、松本のコンビニで受け取ろう。

途中、爪やすりと紙やすりを買った。
あとはギターを買えば山でもギターで遊べる。

自転車でふらふらしていると自分の生活に必要なものが見える。
生きていくのに本当に必要なもの。
ギターもKindleもおもちゃには違いない。贅沢品だろう。
でも、人生には楽しいおもちゃが必要だろう。

まあ、そんなこんな。
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2016年05月12日

ヘリ番も楽しい。

今年はヘリコプターの役目を頂いた。
山小屋に上げる荷物を下で準備して、ヘリコプターにひっかけて上げるわけだ。
ヘリからぶらーんとひもが垂れて、専用の網に食材や雑貨、燃料なんかを包んで上げる。もちろん、ヘリの運転はしない。荷物を準備してヘリポートでヘリに吊り下げるっていう仕事だ。
一発で上がる量は決まっている。今日はまだ繁忙期じゃなかったので小さいヘリで650キロ。
いくつかの小屋の人が集まって、みんなで協力してやっていく。
本当はヘリの当番って言うのは小屋のエキスパートが降りる。僕はまさにぺーぺーなので、実に大変。数年ぶりにミッションの2トントラックなんか運転して。何回もエンストさせつつ。治山管理道のダートを走って、上高地ヘリポートに。
平地で天気が良くても山頂の小屋は風速15メートルなんかザラなので、ヘリは正に天気と時間との闘い。荷物の作り方も堅くてしっかりしたものを下にして、飛んでる途中に形が崩れたり、荷物が落ちないように細心の注意が必要。
実にてんやわんや。

時々、自転車屋だった時を考える。
みんなが福田さんとさん付けしてくれ、自転車のことを教えて下さいと慕ってもらい、必要な人間と言ってもらえていた。
山ではまだ僕は全くのお荷物だ。もちろん、以前働いていたとは言え、雪山もロクに登れないし、読図もほとんど出来ない。登山用品も安物ばっかり。料理は下手くそ、掃除もまだまだ丁寧さに欠ける。
時々、しょんぽりしかけることもある。

それでも、今日、初めてのヘリ番をしていると、自分の小屋に荷物が飛んで行った時にすごく嬉しかった。
小屋にとって大事な仕事を自分がまだまだとは言えど、いくらか出来ている、あの荷物が仲間の日々の食料、来てくれるお客さんのための食料、燃料、そういうのはとても嬉しい。自分が好きな小屋の役に立ててると思うと嬉しかった。
まだまだ何も出来ないんだけど。エンストしまくるし。

ヘリコプターもかっそいいし、ね。

夜に前働いていた時に仲良くなったみほちゃんと会った。
みほちゃんにもいろいろあった。
人生いろいろ。

長野の田んぼ沿いの道、リンゴ畑沿いの道。
ミッションのハイエースで戻ってきながら、本当に良い場所に来たなと思えた。

まあ、そんなこんな。
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2016年05月11日

初めてのヘリ番。

一回目の休暇がやってくる。
ヘリコプターの荷物をあれこれしたら、そのまま休暇。
今回の休暇は自転車で少し日本海の方に行ってみようかなと考えている。テントもあるし、適当なところで眠りつつ。
キャンプサイトも多いルートみたいなので、まあ、気楽に楽しもうかな、と。

と思ったら、久々に腰の爆弾が破裂してずっとストレッチしている。何とか明日のヘリの荷揚げで一つでも多くのことを覚えたい。

山小屋にいると、何だか独特な感覚になる。
あまり自由はない。
ただ、シンプルだ。
僕はそのシンプルさが好きなので山小屋にいる。
アフリカに行くためというのもあるけれど、山小屋っていうのを生活の基点にするのは良いんじゃないかなと考えている。シンプルだ。
まあ、あまりに無駄な物がない、雑味がないというのもそれはそれで少々問題なのだが。

山では、かつては、本が買えないなどの不便もあったが、今は電波もつながるから電子書籍なんかも買おうと思えば買える。いや、速度が遅いからダウンロードが難しいか。
それにしても、かつてはiPadなんて持ってる人は滅多にいなかったけれど、今は珍しくない。それどころか、小屋のiPadなんかもある。何に使うのかは謎だが。
たった数年でもいろいろ変わる。

iPadがあればいろいろ便利だろうが。
iPadがあるといろいろ複雑な気もする。
それでも、必要な書類や資料があれば、コンビニのコピー機でスキャナーかざして、タブレットに入れておけば、いくらでもデータを持ち運べる。便利だ。
何かの楽譜なんかでもいくらでもいれられる。
実に便利だ。

でも、やっぱり便利なものっていうのは、シンプルから離れてしまう。
時々、休憩時間にスマホをあれこれイジる日もあるけれど、目が疲れる。目だけじゃなく、何か頭の奥がくたびれる。
そういうのは何だかあまり良くない休憩時間だと感じる。

良い休憩時間は、晴れていて、体調も悪くなければ近くを散歩したり、ジョギングしたりする。
カメラを持って行けば何か写真も撮れる。どうしても同じような構図が多くなりがちだけれど、日々いろいろな写真を探して歩けば何かあろう。
別に何も無くとも、同じ道を歩くだけでも良い。
別に何もありゃしない。初めのうちは綺麗な景色、良い散歩道だけれど、日々暮らして、身近になれば飽きる。
いつまでも飽きずに歩き続けるなんてのは珍しい。いや、僕もいくらかは飽きてはいる。四年前とは言えど、延々と走り回っていた道だ。久々に走ってもそんなに大きく変わり映えすることもあるわけもない。

でも、歩いたり、走ったりしている。
何だかすごくシンプルになれる。
そんな気がしている。

走ったり、歩いている時間っていうのは、孤独で寂しいということもないし、雑音がうるさくもない。ただ、歩いている。
歩くって言うのは、さほど難しいことでもない。
でも、何か難しいことを考えながら出来るほど簡単な動作でもない。二足歩行というのは、普段は意識していなくても、バランス感覚、力の入れ方など実は結構複雑な動作だ。
慣れているので意識しないとはいえど、やはり複雑な動き、同時に他の何かを深く難しく考えるというのは難しいんだろう。
多分、歩きながらや、走りながらっていうのは程良いのだ。複雑になりすぎない。

東京の暮らしを思い出すと、物凄く色々な事が複雑だった。
上手くは説明できないけれど、とにかく溢れていた。
多分、出来ることが多すぎるんだろう。
スマホと一緒かもしれない。あまりに出来ることが多すぎると、休憩時間って言うのはグチャグチャしてイマイチなものになってしまう。

まさや先生との筋肉の日々っていうのは、まさにシンプルな暮らしだったのかもしれない。レース前の一定の期間をまさや先生をトレーナーに呼び筋トレをするのだ。
空いた時間には筋トレをする。
食事制限などによって、様々なことを制限する。全てが筋肉のためにある。様々なことが削り込まれていた。
まず、起きたらストレッチをして、筋トレして朝食を食べて、本を読んで仕事に行き、休憩時間に筋トレして、帰ったら筋トレして、食事して、本を読んで、筋トレして、風呂入って、ストレッチして眠る。
もちろん、レース前でも筋トレ以外にもすることはいくらかあった、ごくまれに酒を飲みにも行ったりもした。でも、トレーニングしてるとなぜか本は読むことが増える気がする。
普通の日々って起きて会社に行って、帰って飯作ったり、アレコレして眠って、起きて会社に行って、っていう感じだろう。
間の時間は何かぐだぐだしている。何をしているとも何とも言えないような。
きちんと筋トレをするっていうのは、日々の時間を制限しているようでいて、逆に時間を長くしているのかもしれない。

何かまさや先生とのトレーニングの日々と山の日々は変に似ているような感覚が多い。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 22:48| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月07日

山で何を作れるだろう。

そういえば日記をアップロードしていなかった。
書くのは書くんだけれど、部屋までは電波が入ってこないからアップロードし忘れて結局なのだ。
来週には一回目の休暇、実に三年ぶりの六連休だ。毎月六連休がある。嬉しい。それ以外は毎日働いているのだけれど。

せっせと食事を作ったりして働いている。お客さんの食事は食中毒の危険があるので冷凍食品と総菜だが。従業員は健康のために当番制で食事をきちんと作る。
今日はハンバーグを作った。この前は筑前煮。お好み焼きもやった。
案外、やれば出来るモノだなぁ、などと全く料理などしたことはなかったのだが、しみじみしている。
食材は定期的に来るヘリで上がってくるだけなので限られている。あれこれ工夫してみんなの食事を作らなければいけない。

高山植物の写真を撮って、小屋のブログなんかに書いたりしつつ。

何となくだけど、多分、ずっと山で暮らす気がする。
かつてアルバイトで来た時には、そういうことはあまり思わなかったけれど。
何だか東京ですっかり疲れてしまったのか、或いは単にこういう仕事がやはり好きなのか。

唯一、思うことがあるとするなら、まさやさんだ。
まさやさんのことを今でもよく考える。
まさやさんと何か仕事をすれば多分何かすごく面白い物が作れる。

でも、何となく山でも何か作れる気もする。山では何が作れるんだろう。とりあえず、今年は小屋の近くの植物の図鑑を自分で作ってみたいと思っている。やはりウキウキすることを絶えずしていたい。何か作るっていうのは良い。

お金を貯めやすい仕事なので、頑張って何か書いて、発表していきたい。
問題は何を書くかだなぁ。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 18:40| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月04日

山に来ると走るのだ。

今日は小屋の前で小鳥が死んでいた。
何という名前の鳥なのか詳しくないので分からないが、不思議なまでに思うところあった。
小屋の裏手の静かなところに埋めてやった。

生き物の死に直面するのは、何年ぶりだろう。
東京では、多分一度も生き物の死に触れなかったような気がする。偶然なのか土地柄なのか。

自分でもなぜなのかは分からないが、山に来ると延々と走る。今の時期は雪の中もガシガシ。
よくよく考えると、山に限らず、平地にいても延々と自転車で走っている。
どうして自分は走るんだろうか。

ちなみに、マラソンなんかは一度も出たこともないし、多分、フルマラソンは完走すら出来ない。
山を走るって言うのは、疲れたら歩く。
息が整えばいくらか走り、下りも走るがだいたい歩く。くたびれたら写真を撮りながらほんの数十秒休む。

山の生活はやはり良い。
全てがシンプルで整っている。
不要なものがない。
写真の整理をするためにノートパソコンが一台欲しいのだが、山にはAmazonも届かない。デルの11インチのノートが値段も手頃でよさそうだと目星を付けているのだが。

まあ、写真なんかはそんなに本腰を入れるほどでもない。
というのも、写真のセンスはいまいちないのだ。
ただ、最近は好きでよく写真を撮っている。
自転車のある風景の写真が一番好きだ。

本当はこの日記なんかにもアップロードしたいのだが、パソコンがない。
まあ、徐々にやっていくとしよう。

不思議と仕事のブログにはきちんと写真を添える。
前の自転車屋でもそうだったし、今の山小屋のブログでもそうだ。山小屋のブログは当番制なので時々しか書けない。自分からやりたいと言えば毎日でも書かせてもらえるのかもしれないが、山に関しては素人同然だし、槍ヶ岳という山は日本でも屈指の名山のその中でも大きな山なので、やはりでかい顔をしてあれこれ書くわけにはいかない。

槍ヶ岳という山というよりも、槍沢ロッヂという小屋に不思議なまでに愛着がある。
かつて働いていた頃のメンバーは、もうソーさんだけになってしまった。
他のみんなは今は山にはいない。

山小屋というのは人の出入りがある場所だ。古株の人も数人いるにせよ、半分くらいの人は数年身をおいて、山から離れる。そういう場所なのだ。

まあ、確かにあまりにも何もなさすぎる。
生きるに必要な物は全てそろってはいる。
ただ、何かがあまりにも何もなさすぎる。
何なのかと聞かれるとよく分からないのだが、多分、ほとんどの人間にとって必要な何かが足りない。

ただ、不思議とその何もなさというのが、人には必要なことがあるらしい。
だからこそ、みんな山に来て、そして離れていく。
自分はどうなんだろう。
何となくだけれど、ずっと山で働いて生きる気もする。
そりゃ、そんなずっと先のことなんて分かりはしないのだけれど。

ここは何かと丁度良い。
全てにおいてよく整っている。
上手くは説明できないけれど、そう感じる。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 08:05| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする