2016年06月30日

虫。鳥。

IMG_20160624_082514-1280x960.jpgIMG_20160624_114731-1280x960.jpgIMG_20160624_142649-1280x960.jpgIMG_20160624_142459-1280x960.jpg何とか今回のヘリも無事に終わって一安心。

山で暮らしていて良いことの一つがよく土を踏むということだ。
正確には、よく踏むというより基本的に外でアスファルト舗装など山には存在しないので、小屋の勝手口の土間なんかくらいが少し固い地面で基本的には土だったり、不揃いで凸凹した岩だったり木の根っこだったり。

アスファルトもないくらいだから、外で座る時には地面や岩なんかに腰を下ろすことも多い。

そうしているとアレコレと生き物なんかも目に映る。
そして、なぜだかよく分からないけれど、標高の高いところに住む虫たちっていうのは綺麗な奴が多い。

虫をぼんやり眺める余裕があるからそう感じるだけで、案外、虫の多くというのは綺麗なのかもしれない。
町で見かける虫っていうのは、確かによくよく考えると、本来虫が生きるには過酷な環境である都市部に適応しきっている虫で、虫の中ではむしろ例外的なやつらなのかもしれない。

まあ、そうは言ってもあまり虫って言うの得意じゃないからマジマジと調べようとは思わないんだけれど。

ヘリポートからの帰り道、鳥が珍しく登山道の真ん中で息絶えていた。
とても美しい鳥が雨の登山道の真ん中に落ちているっていうのは、鳥には失礼かもしれないけれど、絵としては綺麗だった。
存在感が凄かった。立ち往生した。
野鳥って言うのは、普通、警戒心が強く、茂みの中に隠れたりなどするので、チラリと見るくらいのものなのだ。
それが目の前にゴロリと雨に濡れている。
登山道なんかの真ん中にいるべきような鳥じゃない。実に綺麗な鳥なのだ。
少しの間、その存在に途方に暮れてから、登山道のわきに移してやった。

まあ、そんなこんな。
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山椒魚だった。

六月二十九日。

電波をつないでみたものの、送信は出来なかった。

夜、消灯後に酒を飲んでいたらヤモリを踏んづけた。
何だか草履に挟まっていると思ったらヤモリだった。ヤモリは踏んづけられて体液をこぼした。光で照らしてみると赤い血だった。ヤモリなんかは緑色の血のようなイメージだったけれど、人間の出す鼻血と変わらないような血だった。それでも、難儀そうにずるずると歩いて冷蔵庫の裏に身を隠した。悪いことをした。あの傷だと、多分長くはないだろう。
それから、また酒を飲んでいると、またヤモリがいた。光を当ててみると光っている。ヤモリというのは乾燥していて灯りを当てても光りはしない。イモリかと言えば、イモリはもう少し色が違う。近付いてよく見ると山椒魚だった。カメラを出して取ってみたけれどピンボケで駄目だった。
さっき踏んだのもヤモリじゃなくて山椒魚だったのだろうかと思った。
確かに昔いた頃も雨が降ると時折入って来ていたのを思い出す。今年は初めて見た。
しかし、水が好きそうな体のくせに雨になると入ってくるのは雨宿りなんだろうか。雨は苦手なんだろうか。それとも、雨のおかげで行動範囲が広がって、ついつい迷い込んでしまっているのか。

まったく話は変わるけれど、東京にいた頃は女性に対する欲っていうのが本当に減退していた。減退というか、何というか、何だか埃っぽかった。難儀だったし、疲れていた。そういう気分になれなかった。
山に来て二ヶ月ほど経って、最近はよく昔の女の子の夢を見る。夢で見て起きてしばらくしてから、ああ、あの人か、と思う。たいていの人はもう結婚してしまっている。夢に出て来る人は、現実の中では体を合わせた人もいれば、単に散歩しただけだったり、ぼんやり茶を飲んでいただけの人もある。どうしてそんな人が出て来るのだろうということもある。
ただ、不思議と自分は断る。夢に出て来る女性は都合が良い。現実にはありえないけれど、夢の中では僕に言い寄って来てくれたりする。でも、どうしてだか僕はことごとく断る。魅力的な女性が多いので、本当はすぐにでも抱きしめたいところなのだが、不思議と我慢することもなく、今は少し忙しいし、あなたにとって良いことにならないし、それは僕にとって不本意というか、魅力的と感じる人を自分が喜ばせられない、幸せに出来ない、好意はとても嬉しいが、それは気の迷いなんだ、というのが変に真面目に沸いてしまうらしい。
現実の僕なんかはそんなに品行方正でもない。出来るならやっとけば良い。そうしないとお互いに良くない。口説かないと失礼だし、ましてや相手から言い寄られて断るなど相手が恥をかくことになる。もちろん、僕にも時々は女性の体を抱けるというのは大事なことだ。冗談などではなく、男でも女でも異性の体を抱くのは大事なことだ。当たり前と言えば当たり前だけれど。そういうのは本能的な部分でもあろうし、自信にもなる。別に異性にモテれば良い人間、強い男、美しい女なんてわけではないけれど、やっぱり人間として異性と体を合わせるってのはとても大事なことなんだと思う。
子供を残すために云々とかもあるけれど、生きていくにはパワーと優しさが必要だ。知恵や勇気も大事だろうけれど、パワーと優しさってのはもっと大事だ。
パワーがないと何事も出来ない。
優しさがなければ、何事かをしても虚無だ。
知恵や勇気は補助的なものだと思う。もちろん、どちらもとても大事だけれど。

アンパンマンは愛と勇気だけが友達らしいけれど、何だかんだでアンパンマンはパワーもあるし、優しさもある。
ただ、やなせたかしが絵を描いているアンパンマンの場合、優しさに関してはどこかプログラム的だ。ロボット的優しさというか、優しくするようにプログラムされているような、ちょっと熱のない優しさみたいなものがある。

全ての人々が優しくあれば良いけれど。
やっぱりそうもいかない。山小屋何て言う小さなコミュニティーでもそういうのは起きる。
もちろん、別に誰も意地悪くはない。
ただ、何人かいれば能力に優劣が出る。優劣が出ると劣った人に苛立ちを感じることもある。優れた人が多くの仕事をしなくてはいけない。
仕事に限らず、人間同士のコミュニケーションにも優劣はある。
優劣ではなく、得意なベクトルの違いというのだろう。
比較的広く誰とでも楽しくコミュニケーションを取る人もいれば、シャイで口数少ない人もいる。

ねむい。
まあ、そんなこんな。
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書くことの本質。

六月二十八日。

小屋で電波をつなぐのが難儀でものぐさ日記になっている。

ブログについて考えてみる。
電波がつながらないと、日記をアップロード出来ないので書かない。これはなかなか不思議な話だと思う。

ちょろり草なんてのは実に単なる日記だ。思索なんてほど立派なものでもない。たまに見た夢を書いたり、あれやこれや。
そういう意味では別にアップロード可能かどうかなんてのはどっちでも良いことのはずだ。別にアップロード出来なくても日記は書いていて然るべきなのだ。
しかし、電波をつなぐのが面倒となると三日に一回ほどしか書かない。

多分、これは僕が何か文を書くということの本質なのかもしれない。
一口に言えば、僕が何か書くと言うときには絶えず読者というものを想定している、ある種の読み物ーー全くエンタテイメント性も、知識欲求を満たす情報も特に無いような日記ばかりのくせにーーということなのかもしれない。
読まれるからこそ文章であり、誰かの目に触れるための文を書いているということなんだろうか。

旅をする人はほぼ必ずと言って良いほど文を書く。
敬愛する自転車仲間ササヤマ先生も文を書く。
ササヤマ先生の文も興味深い。実に技術者的だ。
とにかく数字を徹底している。
走行距離や時間はもちろんのこと、最低気温、最高気温など事細かく記録している。時々短く考察などの描写がある。
ある種の実験記録のように旅の日々を克明に記録する。

エンタテイメント性などは本当にゼロといって良いほどなので、読んでいて少しくたびれることもあるが、実に正確で、同じルートを走ろうと考える人にとってはすごく参考になる良い資料だ。

読み物にせよ資料にせよ、やはりそこにはいずれ読まれるであろうことが想定されている。

読み物を書こうとするのは、デジタル世代なのかもしれない。
インターネットのある時代に育った人間。
インターネットの時代とは実に発信が簡単だ。
ちょろり草なんてのは、高校の頃からやっているので、実に十年以上になる。高校の頃に書いていたものは、一度引っ越ししてしまったので消えてしまっているが、それでも誰かしら読んでくれていた。
高校の頃に連載していた男と女の話なんてのがあったけれど、案外それが女性ウケが良かった。ザクザクと男目線で女とはこうあるべきで、こんな女は危険だけれど、でもこういうところが良いのだ、なんてのを延々と書いていたのだが。今考えると、よくも、まあ、そんなに女の子のことばかり考えていたものだなぁとは思う。
でも、女性読者がつくなんてのは実に予想外だったし、女性の目など考えてもいなかった。逆にそれが女性から面白い文になっていたのかもしれない。

まあ、何にせよ、だらだらと書いていた文とは言えど読者が存在していた。そして、当時は読者は日々顔を合わせる学校という共同体の中にいた。
文を書く上で楽しいのは、誰かに読まれているということと、誰かに面白いと言われることだ。
誰も読まない、喜んでくれない文を書くっていうのはちょっと変わっている。
いかに抽象的な詩だろうと、堅い実験日記だろうと、低俗な雑誌の記事だろうと、わけの分からないだらだらした日記だろうと、人に読まれる文を書いているという意識は誇りや満足感につながる。

そういのはある意味で低俗な自己満足とも言える気もするけれど、何だかんだでお堅い哲学者だって読者ありきで哲学書というのを書いている。それこそ、哲学書なんてのは賢いことを人々に伝えようなんていう、まさに低俗な自己満足の最たるものかもしれない。
自己満足なんていうと、響きは悪いにせよ、義務感とか使命感とか高尚な言葉を使ってみたって、やはり根元を掘れば自己満足なんだろう。
難しい本なんて書くとやはり気持ちいいだろう。

自己満足と縁のない金のためだけの文章って言うのは一番駄目かもしれない。
でも、現実問題として純粋なまでに金のためだけの文章って言うのは少ない。
一時期、小銭稼ぎで本当に金のためだけの文章、適当にまとめられたアンケート結果を使って、考察などの文を書き上げるなんて仕事もしていた。あれはまさに機械だと出来ない仕事を仕方なく人間が機械的にしているだけの仕事だった。でも、そういう文って案外珍しいかもしれない。
やはり普通に何か文を書けば自分の考えや主張なんかがいくらかは滲み出るものだ。

明日は電波をつなぐだろうかね。

まあ、そんなこんな。
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2016年06月23日

ヘリポートにも三年?

またヘリ番で降りている。
ヘリコプター当番、いや、当番制ではなくて一度任命されるとずっとなんだけど。
とりあえず、マニュアル車の運転にもいくらか慣れてきつつ。
何となくヘリポートの作業の流れも見えてきた。

ところで昔から思っているのだが、なぜだか短期記憶というのがどうにも苦手で困る。
大昔のことは割とよく思い出せるのだが、つい10分前のこと、いや、30秒前のことを忘れる。忘れたことは分かるのだけれども、どう頑張って思い出そうとしても思い出せない。だいたい15分後に思い出すので生きるのに支障はないのだけれど、仕事をするときに物凄く困る。自転車屋さんのときにもやはり困った。

昔、数学をしていたんだけれど、数学をしている時にもやはり困った。
数学っていうのは、独特の論理思考が必要だ。頭の中で不必要な数字は消して、適宜必要な数字だけを計算していく。
でも、完全に前の数字を消してはいけない。前の数字を消してしまうと戻れなくなる。式が長くなるほどに、途中、どこで間違えたかが分からないときに全てやり直すのは大変になる。
でも、直近で関係ない数字が頭の真ん中に来ると計算がずれる。
だから、数字の優先順位を直感的、無意識に判断するということがとても大事になる。

直感、無意識的になにかを出来るようにしようと思うと、石の上にも三年だ。それまで習慣としてなかったことを、慣れていないことを何度も繰り返しやって体にしみこませるしかない。

ああ、ねむい。
ヘリ番はきつい仕事なのだ。眠ろう。
そんなこんな。
posted by ちょろり at 22:36| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月21日

ネズミと星。

とりもちに掛かった死に行く命を眺めている。
昨今では一般家庭にはネズミを見ることも少ないが、飲食店などでは相変わらず出る。
山小屋にはゴキブリは出ないもののネズミは出る。

ネズミの人間への被害とは甚大だ。小さくてどこにでも入れる上に繁殖力も高いので、病原菌を運んでしまう。
それでも、そういうのは人間側の都合でネズミたちも日々生きるのに大変なのだ。

当然、ネズミだって病気にかかる。
生き物は誰しも病気をする。
病気にかかれば死ぬこともある。
死ぬこともある方が自然なのだ。

生き延びようと暴れるものだから、脚だけ引っ付いていたのが、顔までくっついてしまって、ますます厄介なことになる。
尻からフンがいくつか転がり出ている。

とりもちからはがしてやって、一時間ばかり歩いたところに逃がしてやっても問題はないはずだ。要は小屋の迷惑にならなければ良い。
でも、やらない。
単に歩くのが面倒なのだ。
或いは、ネズミをつまむのが嫌なのかもしれない。
彼らにとっては命の掛かった問題だが、ちょっと歩くのが面倒なだけで、死にゆく命をぼんやりと眺める。

でも、まあ、そういうのって年取ったっていうもんの一種なのかもしれない。
多分、段々と人間って自分が死ぬための準備をしていく。
もちろん、何歳になっても死ぬのは嫌だし、何者かの死っていうのは悲しい。それは変わらない。
でも、歳を取れば知人の葬式も増え、毎度涙を流して泣くことも減るそうだ。もしかすると、そういうのは歳を取ったなりの礼儀で涙を流すにしても、本当に誰にも知られないようにしているだけかもしれないが。
逆に小さい子供はどんなに小さい命でも助けようとしたり、かわいそうに思う。たとえば、今のようなネズミの死を前にすれば、子供はどうしたって助けてあげたいと感じる子の方が多いだろう。
アリを踏んでしまったらどうしようなんかもそうだろう。

子供には自分の死は遠い。
年数や時間的な問題じゃなく、魂的なレベルとして死というのは遠い。
もちろん、それは平和で幸福な国だからこそというのもあろう。
それでも、本来的に子供にとって死は遠い。

例えば僕は幼い頃に大きい地震を被災しているが、死というものは分からなかった。感覚的に怖いというのは感じるのだが、死というのがよく分からなかった。
あるいは、もう少し物心付いてくれば死というものをいくらか理解するにせよ、やはり自分が死に向かって進んでいるというのは普通は感じない。
先天的な病気を抱えていて死を実感している子供というのは、子供っぽくない、随分と大人のような考え方をするという。自分の死を具体的に感じて生き始めるというのは、人間の人生の中で、事故などの突然死じゃない限りはいずれ来る。
それは年齢にかかわらず、等しく晩年なのだろう。
自分の命が終わる前にすべき行動や考え方っていうのは、やはりまったく違うんだろう。晩年になれば人間は本能的に晩年らしい行動、考え方っていうのをするのかもしれない。

それでも、とりもちのネズミをはがして助けてやりたいとかかわいそうだなと一瞬でも考える辺り、僕はまだまだ若いのかなと思う。
いや、僕も割と自由に生きているし、もしかするとアフリカで死んでしまうリスクっていうのもゼロではないってことくらいは分かってはいる。自分に限って大丈夫だろうとは思っていない。
当たり前だけれど、やはりリスクっていうのは覚悟しないと、そういう遊びって言うのは出来ない。

とりもちの上で死ぬって言うのは餓死なんだろう。やはり、かわいそうだ。手足を伸ばしてリラックスしたポーズもとれない。

昔、アコウさんというおじいさんが、とりもちのネズミを焼却炉で焼いてしまう前に、接着面をネズミごと内側にたたんで踏みつぶしていた。
当時は残酷だと思ったものだが、確かに火の海に焼かれて苦しみながら死ぬよりも、ひと思いに踏みつけて即死させてやるほうがネズミたちは楽なのかもしれない。

せっかく山で暮らしているので、星の写真を撮ってはみるのだけれど、どうにも分からない。星って言うのは、肉眼で見るよりもカメラで撮る方がたくさん見える。こんなにも星ってあるのかと驚くほど星ってのはある。
写真に撮れると何となく嬉しい。
一眼レフじゃないと難しい。
F値っていうのをめいっぱい下げて、ISOっていうのを400〜1600くらいで8〜20秒ほどシャッターを開けて撮る。
絶対に手ブレするので、三脚を使って、シャッターを押すときには黒い布なんかをかけてから撮る。
何だかそれっぽい。

ただ、問題は多すぎて何が何だか分からないのだ。星座表というのを眺めてみるがどう使えば良いか分からない。アプリの星座何たらってのも使ってみるが、やっぱり分からない。
多分だけれど、何か基準となる星があって、それを頼りにあれが何座とか探すんじゃないかなと思うのだが、どの星が基準になるのかすら分からない。

それでも、やはり天体観測とは楽しいものだ。
ガイドがいればより楽しいのだろうけれど、まあ、ぼんやりと眺めているだけでも楽しいものだ。
夜を散歩して暗い中で空を眺めて、ぼんやりする。
夜の散歩とはウキウキするものなのだ。
小屋のすぐ近くだと、木が邪魔でいまいち撮りにくいので五分ほど歩いたところにある岩の上で撮る。

山小屋だから、夜の散歩は登山道をヘッドランプで照らして歩く。
夜の登山道はちょっぴり怖い。
最近は近くで熊も出たので、現実的な怖さもある。

山なんてのはそもそも人間の入る場所ではないし、ましてや夜となればなおさらだ。
でも、不思議な心地良さみたいなものがある。
ある意味では山登りの神髄なのかもしれない。
普通、人間が行かないような場所。
そういう場所特有の空気感。
そう考えると何となく納得出来るものがある。

星が好きな人っていうのはいかに寒い真冬だろうが何時間も星を眺めるそうだから実にすごい。

珈琲でも飲みながら昔の仲間とのんびりと星でも眺めたい。
別に誰も星など分かりはしない。

でも、なかなかそんなことも出来なくなった。
このくらいの歳になると子供も生まれるやつも多い。
いつまでも高校生みたいに缶珈琲と煙草でぼんやりするってわけにもいかない。
酒も昔のような飲み方はしないだろう。
みんなそれぞれ明日があるし、自分以外にも家族なんかの面倒もみないといけなくなった。
僕自身、故郷にはあまり帰らない。

山には山の仲間がいる。
ああ、全く人生ってのはどんどん進んでいくものだなぁと思う。
星みたいにぐるぐる回ってたら良いけれど、人生は通り過ぎたらなかなか滅多には戻らない。戻ることなどあるのかと言うと、何だかぐるりと回って同じようなところを進むということはあると思う。でも、それさえめったにない。

星を眺めるって言うのは多分そういうことなんだろう。
宇宙はとっても広い。
夜は偉大だ。
いかに時代が変わっても時々は星を眺めるのは大事ってのは変わらないんだろう。

星は何ともえらいなぁ。
何とかちょっと勉強して、黄道十二星座くらいさくさくっと分かるように出来たら良いんだけどな。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 13:34| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月18日

図書館泥棒の夢。

図書館から本を盗む夢を見る。
いや、正しくは本じゃなく新聞だ。
ーー本を盗むとみんなが困るから新聞にしよう。
しかし、新聞など盗んで何か役に立つのだろうか。新聞というのは新しいの一日限りで昨日より前になると古新聞、何かと日々の暮らしの中で便利には違いないけれど、わざんざ盗み出すほどのものだろうか。
それも、どうも自分を含めて四人ほどのチームなのだが、計画では図書館の中に睡眠ガスをまいて、みんなが眠っている間に新聞を盗んでしまおうというのだ。
ーー大丈夫。ちゃんと金に出来るルートがあるから。
普段、現実の世界の方では信頼できるタイプの友人が言うので、まあ、良いか、このメンバーでやるなら一緒にやってみるか、という具合で図書館にホースを引いて睡眠ガスをたっぷり充満させた。
しばらくしたところで、図書館に入ると、良い具合にみんな眠り込んでいる。
ーー上手く行きそうだね。
と仲間に言ったところ、自分たちもガスマスクをしていないことに気付いて、急な深い眠気が来た。しかし、ここで眠ってしまうと警察に捕まってしまう。
何とか眠らないように息を止めて新聞を集める。しかし、なぜだか新聞が思ったようにうまくたためない。適当に持つと量をあまり持って行けないから、上手くたたまないといけないのだけれど、新聞紙のくせにプラスチックのように固い。睡眠ガスで頭がバカになってしまっているせいで新聞紙が固いように感じるのだか分からないが実に参った。
改めて起きてから思うけれど、眠っている中で眠りを我慢するというのはなかなかつらいものだ。

何とか両手で持てるだけの新聞を持って外でリーダー格の男が待機させている軽のバンに新聞を積んでしばらく走って安全なところで解散した。
しかし、途中くらいから思っていたが、たかが両手に持てるほどの新聞のためだけに、図書館全体に眠りガスなどまいて盗みを働くなど大変なことをしてしまった。
昔からなぜだか犯人とは現場に戻ると言うが、やはり気付くと自分も図書館へと戻っていた。事件から一日は経っているらしい。仲間たちも図書館の近くにいた。
警察が来て、善良なる一般市民だと言ったが、全ての人に聴取を頼んでいるからと連れて行かれて、みるみるうちに自分の尻からはしっぽが出て来た。しかし、警官の方はこちらの尻に生えたしっぽには気付いていないようだ。どうしてこんなすぐにしっぽが生えてしまったのか、何とかして隠せないか、しかしそわそわしては怪しさが際立つ。盗み出した新聞ももはや今となっては一部も新聞はない、昨日のものはもはや古新聞だ、金に換えることは上手く行ったのだろうか、だれがそんなものを欲しがるのだろうか。
そう思っていると朝が来た。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 07:25| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月15日

自転車から帰ってくること。

IMGP1528.JPG二泊三日の美ヶ原、渋峠旅行から帰ってきた。
今回の良かった写真はこれじゃないかな。
詳しい紀行文と写真はじてぼん
http://jitenshatohon.seesaa.net/
の方に書いてる。

二日目の渋峠の方は霧で良い写真は無かった。

でも、渋峠には興奮があった。
軽井沢の手前からだったので、距離もあった。予定では天気と距離なんかも考えると攻略は無理だろうと思っていたが意外と脚がどんどん登ってくれた。
頂上近くでは十メートルほど先しか見えないような霧に包まれてすごく寒かったけれど、ものすごく良かった。
霧の中を淡々と登り続けるっていうのも良いものだな、と。

景色なんかすべてトータルすると美ヶ原は乗鞍を越えるほどに良かった。
登りの素晴らしさはやはり乗鞍なんだろうけれど、美ヶ原は二千メートル越えの高原、牛が歩いている。
ーー日本で二千メートルの標高にこんなとこあるのか?!
なんて驚かざるを得ない。
これまで国内で走った中でも一番良いところかもしれない。
まあ、僕の知らないだけで良いところっていっぱいあるんだろうけど。

それでも、興奮という点では渋峠だった。
感動なら美ヶ原。
多分、渋峠は、三年間東京にいた時、ずっと行けなかったっていうのもあるのかもしれない。
変なまでに興奮した。

テントを積んで走って、帰ってくる時ってのは何だか引け目というか、町の中で浮いてしまっているような感じがする。

そんなことは実に馬鹿げた問題なんだけれど。やはり感情っていうのばかりは仕方ない、そう感じてしまったことはそうなのだ。

感情の根っこをいかに作り込めるかっていうのは大事だ。
常日頃から良いイメージを持つようクセを付けておけば、ある程度は何とかなる。
不思議なことみたいだけれど、人間ってのはほっとくと悪いイメージの方を抱きやすい。悪いこと、失敗することの方が簡単に実現してしまうからだ。自分のイメージしたことと現実がズレるっていうのを人間は怖がる。
悪いイメージをしていれば、失敗して悪くなっても予測通り、仮に上手くいっても万歳と思える。
どっちに転んでも傷が少ない。

だけれど、悪いイメージばかりを持ってしまうと、どんどんと現実もそっちに傾く。

だから、知ってか知らずか、本当に頑張りたいことについては人間は良いイメージを持とうと努める。
それでも、やはりどうしようもなくコントロール出来ず湧いてくる悪いイメージっていうのはある。

でも、それはそれで真摯に受け止めれば良い。
自分はそういう不安を持ってるんだな、意図的に自分に都合の良いことに変えていかなくちゃな、と。
潜在的に根深く不安を抱いていることこそ、ふとした感情で出て来る。

じゃあ、夢ってどうなの?
夢ほどコントロールのきかないものはない。
夢をコントロールする方法というのもいろいろ言われるけれど、コントロールした夢って言うのは、本来的な夢とは違うようにも思う。
コントロール出来ない意識。

でも、夢ってのは昼間にふと沸いてしまう感情とはまた少し違うと思う。
昼間に浮かぶコントロール出来ないわいてくる感情は防衛反応的なものだろう。自分の心を痛めないように。
夢は防衛とはまた違う。
夢はランダムだ。想像できないほどに幸福な夢もあるし、悲しい夢、意味の分からない、悲しいとも嬉しいとも分からない情景。

フロイトなどの多くの偉大な心理学者たちが夢分析をしているけれども。
結局夢って言うのは夢の世界のためのもので、現実の世界の我々のためのものじゃないんだろうと思う。
偶然、現実の世界の我々の利害と一致することもあれど、あくまで偶然であって、現実の我々の本能とは連動、相関しないんじゃないだろうか。

まあ、夢とは何なのかは分からないけれど、昼間にふと沸き立つ自分でも理解不能な感情ってのに関しては明確に現実の我々のために脳が無意識下、本能で作ってよこしている考えだろう。

別に人間を怖がる必要などないにしたって、やはりどこか怖いのだろうか。
まあ、そんなこと根掘り葉掘り考えてもどうこうなるものでもないから、ふーん、そうねー、相変わらずふとそんなことを今でも思うことがあるんだねー、と。

逆に言えば、そういう風に最後感じられるようなサイクリングっていうのは成功なんだろう。
上手く自転車に乗れた、自転車の上でしか感じられない世界の中にずっぷり入れていた、そこから戻る時の反動。
ポジティブに捉えすぎか。

まあ、二枚気に入った写真がとれて良かった。
これまでの経験上、三日自転車に乗ると二枚ほど自分で納得できる良い写真が撮れる気がする。
あとは駄目だと思う写真も合わせて見て、まだ自分が撮ろうと出来ていない絵ってないかなって考えるのが楽しい。
どうしたって良くない写真ってのは出る。でも、別に良くない写真があるのは仕方ない。走りながら、これが良いんじゃないかって試行錯誤している証拠だろうから。
ただ、自分が狙えてない絵、空気ってのに気付かないと結局同じ写真にしかならないし、より面白いところにはいけない。

究極を言えば、遠くまで行かずとも近所を歩くだけでも三日に一枚くらい良い絵が撮れるようになった状態で、自分の行きたいところに行くってのが大事なんだろう。

まあ、写真なんて分からないけれど、自分が好きだと感じる写真が増えてくれるとやっぱりウキウキする。
楽しい、ウキウキってのは一番良い。

まあ、今回も良いサイクリングだった。
そんなこんな。
posted by ちょろり at 01:40| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月12日

ふらふら。

休暇なのでふらふらと走っている。
自転車の内容はじてぼん
http://jitenshatohon.seesaa.net
の方に書いている。
今日は渋峠。今日の記事はhttp://jitenshatohon.seesaa.net/article/438914984.html に書いてる。

写真を貼り付けたいのだが、パソコンとインターネットがないといろいろ不都合なので写真はまた後日。

ふらふらと走っていると、ふらふらした人と話をすることがある。
そういえば、今日はそういう話はしなかったけれど昨日はぽつぽつした。
まあ、今日は草津と渋峠っていう割とメジャーな観光スポットだったから。
ふらふらした人と遭遇するのはだいたい無料で座ってぼーっと出来るスポットだ。観光地は人が多いのでぼーっとしにくい。

ふらふらした人ってのはどうなんだろう?
まあ、僕なんてふらふらした人になりつつある。
別にふらふらしてるのが悪いなんてわけでもなかろうけれど、やっぱり日本人の大半はシャキッと生きている。

僕が時々遭遇して話をするふらふらした人なんてのは、案外若い頃はシャキッと生きて、定年してふらふらしてるってだけの人が多いんだろうけれど。

良い歳こいてるんだから、いろいろ考えないと、なんて言われても、ふらふらしているのが好きなので、ふらふら出来る仕事っていうのが僕の中では大事なのだ。
もちろん、ふらふらするために山で働いているわけじゃないけれど、山の仕事の良いところは連休が長いことと冬が自由に過ごせるってのはある。

それでも、今日、走ってると、ふと、
ーーアフリカから帰ってきたら勉強して医学部に入って医者になろうかなー
なんて思ったりした。
自分でもあまりに急に湧いてきた考えなのでビックリした。
どうしてそんなことを考えたりしたんだろう。

まあ、やっぱり何か能力を持っていたい。
それを活かした仕事をしたい。
そういうのはどこか思ってるんだろう。

でも、それを言えば、先日、知人から自転車の文を書く編集社で働く気はないかと聞かれたのに、断ってしまった。
自転車と文っていうのは、確かに僕の持ってるスキルだし、それを活かした仕事だろう。

それを断ったのは、お金をもらって文を書くと、全く書きたくないようなことを書かないといけなかったりするからだろう。
雑誌でも新聞でも、きちんとした文字媒体ってのは、スポンサーや会社の対面やアレコレわけの分からない物が多い。
じてんしゃライターふくだ、なんて言って自転車ポータルサイトに文を売ったりもしているが、やはり書く内容にはいくらか制限やら決まりやらがある。すでに何回か書いたような内容の依頼もある。
もちろん、出来るだけ良い文を書くようにはしているし、恩もあるから頼まれたらきちんとするし、何だかんだ書いていて楽しいのだが。

端的に言えば、ちょっとした小遣い程度のお金のために文が荒れるようなことはあまりしたくないんだろう。
じてんしゃライターふくだのちょっとしたお小遣い稼ぎならまだしも、社員として責任を持って書くのはやはり引っ掛かるのだろう。

じゃあ、なんで医者なら良いのさ、というと不思議ではある。よく分からない。
医者なんてしたら、休みも少なく、急患もあろうからのんびり酒を飲むのも難しい。
文が荒れるどころか、文を少し書くことさえ難しくなってしまう。

ふらふら。
ふむ。
そんなこんな。
posted by ちょろり at 21:15| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月10日

電気が消えれば。

無事にヘリコプターが飛んでくれた。
でも、ほぼ一日働いたのに、なぜか給料は半日分という憂き目に合った。
まあ、どこの会社に行っても、経営者とはいかに安く社員を使うかということを考えるものだ。

先輩は怖いし、手当も出ないのにやたらと責任のある仕事だし、ヘリポートまで物資を搬送するトラックはバックモニターもないし、上高地線はくねくねだから毎回車酔いするし、半日給料カット入るし。
ヘリの当番はつらい。
それでも、ヘリはとても大事な仕事だし、他のいろいろな小屋の人の話も聞けるし、山小屋って言う文化を深く知るにはとても良い。

山小屋では毎日は日記を書いていない。
というのも八時半には消灯になってしまう。ドコモの電波の増幅器も切れるので電波も届かない。
日記をオフラインで書いたり、バイシクルポストっていうところの記事を少し書いたりもするけれど、電気が切れて静かな山の夜、同僚にも悪いので9時過ぎには眠ってしまうのだ。
それでも、別に書く気になれば毎日でも書けるはずだ。山の朝は早いと言えども4時くらいなので、もう少し起きていても問題はない。

やっぱり電気なんだろう。
電気が消えると人間は眠たいものなのだ。
僕の働く山小屋は規模が大きいので、夜間でも水力発電なんかで小さい常夜灯は付いているものの、紙に文を書くには暗すぎる程度の灯りだ。
その程度の灯りだと人間は眠たくなるんだろう。

エネルギー問題がうんたらこうたらと言うけれど、本当は夜は夜で眠ってしまえば灯りのためのエネルギーは使わない。
でも、まあ、必要なんだろう。
夜働く人も必要だし、是非とも夜にもお金を使ってもらって経済を回してもらわくては社会が困るんだろう。

世界がまるっと山小屋みたいな感じなら何かと良いような気もするけれど、閉鎖空間での共同生活はやはり厄介なこともある。
でも、多分、山小屋的な生き方というのはとても大事なことだと思う。

まあ、分からないけれど。

明日から休暇。
天気はどうだろう。
アフリカまでにまだもう少し走り込んでおきたいところだが。

まあ、そんなこんな。
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2016年06月09日

スーパースペシャルヘリ番に。

今日はヘリ当番にて下山。
ヘリポートの仕事は何かとよく分からない。体育会系の先輩が怖い。良い人だし、いろいろ教えてくれるけど怖い。

でも、基本的に怖い人って言うのは良い人の場合が多いのだ。
かつての塗装屋の頃の先輩、ヒデさんが正にそうだ。九州出身の高校の頃は番長のバリバリで仕事が出来る、そしてイケメンのペンキ屋である。優しいけれど、まあ、実に怖い。本当、下手なヤクザなんかより怖い気がする。本物のヤクザさんを知らないからそう思うだけかもしれないけれど。
それでも、折に触れてヒデさんのことは思い出すことがある。
言葉数が少なく怖いのだけれど、優しいのだ。

まあ、日本男児って言うのは本来そうあるべきなのかもしれない。ヘラヘラ優しそうに笑っているより、言葉数少なくビシッと怖い。

怖い人、言葉がキツい人っていうのは、正に優しさだ。
僕なんかはあまり優しくないので、苦手な相手でもへらへら笑って、「へー、なるほど、ふーん、はぁ、ほぉほぉ」なんて飲み屋のはひふへほで流してしまう。
相手にあまり感情を表さない。そういうのは言うなれば利己的だし、本当は良くない。

怖い人って言うのは、相手が誰であれ、きちんとストレートにものを言う。
さらに言葉数少なく端的な人って言うのは鋭い。
「てめぇのことはてめぇで考えろ。ただ、それはまずいぞ、バカ、考え直せ」
そういうのが優しさなのだ。

かつてのチャリ屋の店長さんが、
「第一印象が良過ぎる人には気を付けた方が良いよ」
と人生訓を教えてくれた。
チャリ屋の店長さんはいろいろ折りが合わないところもあったが、本当に良い人で、良かれと思うことは何でも僕に教えてくれた。

実際、その言葉はとても的を射ている。
本当の本当に心の奥底から良い人なんてのはなかなかいない。
それも、第一印象が良すぎる人っていうのは不自然だ。少し会っただけで、そこまで良い人と感じさせられるのは、冷静に考えれば不自然なのだ。

もちろん、印象は良い方が良い。
だけど、あまりに不自然に印象が良すぎる人っていうのを意識してみると、確かに世の中にはそういう人がいる。
別にその人たちが悪人というわけではない。悪意などない。
でも、無意識に外向きの顔を作る習性のある人だ。多分、僕なんかもそういう側面はある。誰しにもある。

まあ、そうは言ってみるものの怖い人は怖い人でやっぱり困る。
怖い物は怖いのだ。

まあ、別に怖い怖いと言えども、アルゼンチンの街を散歩するより遙かに怖いことなどないし、あのヤクザ塗装屋に比べれば全く怖くもないのだが。
それでも、やはり怖い物は怖い。

それに何よりも仕事をする上で、使える人間にならないといけない。怖い人に認めてもらえるようにならないといけない。そうなるとオロオロする。
怖い人々とは、僕のような人間がオロオロするのを見るとイライラするらしい。
これは実に困ったことだ。

かと言ってストレスを感じる必要もない。
出来ることもあれば、不得手なこともある。
不得手であることを理解すれば良い。それが改善するのが難しい場合も多い。そのことも理解すれば良い。自分はどうにも不得手である、と。
結局、努力する他ない。
得意なことはもちろん努力して、人に誉められたり、喜んでもらったりすれば嬉しい。
不得手なことは頑張ってもなかなか周りに認められないし、不満を抱かれることも多い。
ただ、自分に出来ることとは頑張ることだけなのだ。

得意でも不得意でも頑張らなければ、それは人間として下らないと思われる。下らないと思われることに慣れてしまってはまずい。

もちろん、人の目が全てではないにせよ、生き物は自分以外の何者かと関わり合いながら生きている。アリはほとんど何も教えてくれないし。石も木もあまり教えてくれない。教えてくれているとしても、なかなか理解するのは難しい。
でも、人は何かを教えてくれるし、それは理解できることが多い。
人間を感じる能力というのは大事だ。

まあ、そうは言ってもヘリ番の度に使えない人間として憂鬱になるのは困ったものだ。
使える人間になれば良いのだけれど、少々苦手なタイプの仕事でしばらく時間が掛かりそうだ。

怖い人に我慢するこちらも大変だけれど、むしろ向こうの方が大変だ。上司であり、教育を施さねばならない立場だが、どうにもイライラしてしまうタイプの人間にものを教えないといけない。イライラとは言わずとも、すんなり覚えて成長してくれる人間ではない人間にものを教える。

働くって大変だ。

でも、ヘリコプターが飛ぶのは気持ち良い。
自分の小屋の生活のために必要なものを自分たちの手で飛ばすっていうのは何とも言えないうれしさがある。
もちろん、僕がヘリコプターを運転するわけではないけれど。それでも、ヘリで上げるものは野菜だったりお肉にお酒だったり、僕らの生活に絶対に必要なものだ。
それを小屋を代表して下山してトラックでヘリポートまで持って行って、まとめてヘリで飛ばす。
理屈の上でも素晴らしく気持ちいい仕事だし、ヘリポートもまと気持ちの良い場所だ。

でも、やっぱり疲れるし、ちょっと心がくじけそうな気持ちにもなる。
そんな日はジャズ屋でも行って、ウイスキーを少しなめて。

今日は稜線の天気が悪かったので明日の午前に引き続きで少しばかりヘリを飛ばす。

まあ、実に役に立たない人間になってしまっているが、こっそり徐々に覚えて、スーパースペシャルなヘリ番に進化していこう。
そういうのは何だかウキウキする。

人間って案外いろんなことが出来るようになる。自分で思っている以上に。

まあ、そんなこんな。
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2016年06月08日

北海道の夢。

六月四日と北海道の夢。

そーさんと小屋の前のベンチの下の岩を砕いたりなどしてみる。
昔の山小屋っていうのは、環境もクソもなかった。
そんなことを考えなくたって、ヘリコプターもさほど進化していなかったし、それより前には上まで上げられる荷物の量なんて決まっていたから、必然、ゴミだって知れたモノだった。
もちろん、環境云々への関心も低かったこともある。

小屋の前の謎のコンクリを砕いて捨てて、ベンチが座りやすいようにする。
まあ、ベンチが座りやすいかどうかなど大して誰も気にも留めないことなのかもしれないが。
そういう小さいことをきちんとする場所は好きだ。

北海道の夢を見た。
実に久し振りに旅先でおろおろする夢だった。

旅先でおろおろする夢っていうのを見る時期があった。
自転車での旅が多いくせに、どうしてだか旅先でおろおろする夢というのは列車に乗っていることが多い。

そこには久々にとくちんと上山君が出て来た。
いつも阿智神社で麻雀をしていた仲間だ。

今でも時々考えるけれど、阿智神社の藤棚の下に麻雀敗牌を持って行って、そのままずっと歳を取れれば良いのにと思う。
学校帰りに、家に寄って。リュックに麻雀牌とマットを入れて。リプトンのミルクティー買って。学ランしまって煙草を吸って。

夢の中では、北海道旅行に出ていた。
北海道なんて行ったこともないんだけれど、なんでだか北海道だった。別段北海道の何を見に行こうということもなく。実際に行ったこともないのでどんな景色かも分からず。でも、明確に北海道だと感じていた。
列車から降りる頃に、オンラインで僕のキャラクター、何かのゲームらしいのだが、それを上山君がやたらと攻撃している。
ーーおい、やめろよ。
なんて言ってもニヤニヤとしている。とくちんはにこにこと窓の外を眺めていた。
それに反撃するためにケータイ電話を一生懸命にいじる。何のゲームなんだか知らないし、やり方もよく分からない。
上山君はなぜか無駄にゲームが上手い。余談だが野球のバッティングも上手い。
ふとしたことがやたらと上手い。
ーーさすが上ちゃん、強すぎだろ。
なんてケータイから目を上げると二人ともいなかった。まだ列車は駅に止まっていない。
でも、不思議と僕は慌てることもなかった。
ーーなんだ二人とも先に行ってしまったのか。
そう一人で言って、次の駅での乗り換えの列車を待とうと思った。
でも、いつまでも列車は徐行のまま止まらなくって。段々とおろおろとし始めたところで目が覚めた。

まあ、そんなこんな。
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2016年06月04日

料理、ウクレレのキリギリスと時間。

六月三日。
電波をつなぐのが面倒なのでいくつかの日記がまとめて上がっているのか、案外、書いていないのか。

本日は初めての客食メインをした。
客食は食集毒の危険が無いよう冷食を使うのだけれど、時間にぴったり熱々で出せるようにするには案外アレコレ段取りが難しい。
メインを任せられたのは初めてで、うっかり翌日の弁当を用意するのを忘れていて、時間がギリギリになってしまった。
それでも、何とか従業員食には鯖の竜田揚げも作れた。
調理を覚えるのは大変だけれどすごく楽しい。

小屋の本棚から二分で弾けるウクレレなんていう本が出て来た。
簡単に弾き語れる曲集だ。

これまで楽器はクラシックギターしか弾けなかったから爪弾いてインストロメンタルしか弾けなかったんだけれど、ウクレレをさわるようになってから初めて歌うようになった。
斉藤和義の歩いて帰ろう、サザンのTSUNAMI、愛しのエリーを沢に向けて適当に歌っている。

あとはウクレレを爪弾くというのでは主よ人々の喜びよ、枯れ葉、デイドリームビリーバー、星に願いを。

意外なまでにウクレレっていうのは手軽な楽器で楽しい。
アフリカから帰ってきたら、再び山に戻るつもりだけれど、その前にナゴム先生に頼んで一本良いウクレレを作ろうかなと思っている。十万円くらいで作ってくれると嬉しい。そんなお金残るかな。

やっぱり人間って楽しいことをすべきだ。
もう少し練習して、夏場の忙しくってくたびれた日なんかにみんなで歌って楽しく過ごせたら良いなと思っている。

でも、時々、こんな風に生きている自分をとても懐疑的に感じることもある。
かつてのように人と違うから不安というのは減ったにせよ、やはり楽しく遊んでばかりで良いんだろうか、っていうのは時々ふと思う。
ありとキリギリスじゃないけれど、冬が来たら死んでしまうんじゃないかなと思う。
ありとキリギリスという話のミソは遊び人はいずれくたばるというものではなかろう。
困ったキリギリスを見捨てるアリの残虐さでもなかろう。
アリはいかに裕福に見えても、キリギリスを助けるほどの余裕はない。
そう、人間は自分のことで精一杯だということがあの話の教訓じゃないだろうか。
屁理屈か。

屁理屈にせよ、子供のころ思っていた以上に人は人を助けられないし、助けてくれない。
もちろん、支えはある。
人の支えを感じられないのは人非人だ。どんな場合でも、誰かの支えがあってこそ生きられている。
そういうのはアルゼンチンを走っているときに初めて理解できた。
それまでは、おれが凄いからこそおれは何とか出来ている。おれだけがおれを何とかしている。そんな傲慢な考えだった。
本当に困ったとき、たった一人になったとき、人間の声が聞こえる。自分に優しくしてくれた人、きつく教えてくれた人。柔らかいか硬いかは別にして深く自分に関わってくれた人たちの声がふと頭の中でする。
ーーああ、あの人だったらこんな時楽勝なのになぁ、おれと来たらダメダメだなぁ。でも、あの人がああ言ってくれてるし、駄目なりにもう少しだけ頑張ってみるか。
そういう風に思い浮かべた人たち、って、後になってから知ったけれど、僕が本当にしんどかったときに、静かに心配して応援してくれていたらしいのだ。

サトリなんていう妖怪は人の心を読んでしまう。
サトラレなんてのは昔あったドラマだかだけれど、自分の心の声が周りの人に聞こえてしまうなんて話だった気がする。

次の小説のテーマで考えているのがマザコンと地震なんかの話だ。無性愛なんか辺りまで足を伸ばせれば面白いのだけれど。
昭島と福生のゴキブリの闘いと山の生活と。
ーー毎回、君の書く小説ってやつは小説と言うよりエッセイだね。
そんなことを言われることもあるのだけれど、エッセイは書かない主義だ。
僕の書くのは日記と小説と自由研究ノートの三つだけだと思っている。

今年は花のことを勉強してみている。
山では実に多くの花が咲く。目に楽しい。
花も種類にもよるけれど、朝と夜には眠る。
ほんの少しの温度で咲く時期がズレる。少し前に下で咲いていた花が、再び少し上の標高のところで賑わうことも少なくない。

時間とは何か。
そんな問題をかつて考えたこともあったけれど。
生き物にとって時間とは温度じゃないだろうか。
温度変化に対応して体は回っていく。
そう考えると時間とは地球の自転と軸の傾きと公転なんだろう。この三つのうち、一つでも欠けてしまえば、やはり時間というのは失われるのだろう。
しかし、時間とはそうと味気ないものか。

川端康成なんて久々に読んでみているけれど、しみじみ日本文学だ。
日本文学って久し振りに読むと別格に良い。心に沁み入る。

ああ、眠い。
ま、そんなこんな。
posted by ちょろり at 07:15| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月02日

自分の面倒。

時間があっても、ついつい小銭稼ぎの自転車の記事ばかり書いてしまって日記が疎かになっている。

お金をもらうための記事を書くのはいくらかは文のためにも良いかもしれないけれど、やはり誰のためでもない自分のためだけに書く文というのが長い目で見れば最も大事だ。
それは禁煙なんかに似ていて、もちろん僕は禁煙など成功した試しもないし、そもそも禁煙とは一度しか成功できないものなのだけど。とにかく自分のためだけにやらないと禁煙など続かない。誰かに言われたり、仕事のためだったりじゃいけない。
一口に言えば、その誰かや仕事が自分の人生を一生面倒見てくれるなどありえるわけもなく、自分の面倒を見るのは結局は自分で。誰かや何かのためのことは自分の人生といずれ離れてしまう。そうなると禁煙も終わってしまう。

誰しも何もかもいずれは離れてしまうなんて言えば、少々寂しい気もする。
ただ、離れても切れないものもある。
ただ、そういう人間は辞めろっていうタイプのことはあまり言わないのだ。静かに何も言わず良いことを行動や雰囲気なんかで示してくれて、ああ、良いな、おれもそれやってみようかな、やってみたいなという具合で伝染する。
僕にとって本格的でないにせよ、日々の中にストレッチ、筋トレ、瞑想がちょくちょく入るのはまさや先生から伝染したものが残っているからなんだろう。

伝染したものも、何だかんだでいずれは消えゆくものもある。
消えてしまったものは思い出せない。何が消えてしまったのだろう。
それでも、時々、自分がどうしても思い出せない消えてしまった何かについて考えてみるのも悪くないと僕は思っている。

山にいる人は大きく分けて2種類の人に別れる。
次の仕事、あるいは次の生活を考える人。
当面ずっと山の仕事を続けるだろう人。もちろん、当面は山の仕事を続けるつもりでもふと辞めて別な仕事に移る人もある。それでも、山の仕事を辞めて次に何をしようとは考えず、ただ、今の山の生活にのみ生きる人だ。
山の生活に出口を考えているか、それを人生の一部に長く考えているかとでも言おうか。

前回、アルバイトで来た時には、僕は次の生活を考える人だった。山は通過点の一つだった。
今回は山の生活を人生の基盤の一つに生きようと考えている。

別にいろんなことを諦めて腹をくくるなんてのとは違う。
転々と移住を繰り返して生きる人をディアスポラなんて言ったりするのだが、ディアスポラだって何かしらの幹は必要だ。それは帰る家とかそういう具体的なものじゃなくて良い。ギターを弾くとか、本を読むとか、行動的なものでも良い。或いは行動は転々としていても考え方や呼吸の仕方にひとつ基盤のようなやり方があっても良い。

山小屋っていうと割と具体的な基盤かもしれない。
やはり金は金でいくらか稼がないといけないのだが、深呼吸を邪魔するような仕事は良くない。
たえず酸欠状態に近いような基盤はいけない。

それでも、酸欠の時代によく酒を飲んでいたけれど、東京の日々だ、折に触れて今もよく東京のバーのことを思い出す。
昭島のバーは仕事の疲れを癒やしに来る人が多かった。
福生のバーは飲むのが仕事のように情熱を燃やして酒を飲みに来る人が多かった。
どちらも良かった。
福生のゴキブリと昭島のゴキブリの戦争なんて話を一時期書こうとしていたけれど、改めてのんびり山で書いていってもいい気もしている。

酸欠の時代には休みもなくって友人に会えなかった。結婚の祝いも直接に伝えられていない友人も少なからずいる。
でも、休みが増えたら、今度は休みを遊ぶことに情熱を燃やしてしまって、相変わらず倉敷に帰れていない。
六月の休みに帰っても良いなとは思ったりもしたけれど、やはりアフリカに向けて自転車で走って足を作っておかないとなぁと思いつつ。

海外を自転車で走るときには、実は自転車的な技術なんかよりも会話や下調べ、空気の感じ方なんかの技術の方が大事なんだけれど。
それでも
自転車の技術、肉体があると安心できる。
自転車と自分の体っていうのだけは、自分以外のだれも面倒が見られないからなのかもしれない。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 07:27| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする