2016年07月28日

自分の時間を。

突然だけれど。
どんな環境においてもいかに自分の時間と自分の空気を作れるかっていうのはとても大事なことだと思う。

山小屋なんてのは、相部屋共同生活が基本だ。朝は四時頃から仕事が始まり、夜には八時半に電気が消える。
朝に一時間ばかりと昼に二時間ばかり、夜の仕事後から消灯にも二時間ばかりの自由に出来る時間がある。

普通の人は眠る。
山小屋にいると疲れる。
普通の人間にとっては、慣れるまでは標高差はしんどい。明確に体感できるしんどさではなく、普通の仕事をしていると昼寝しないのに、なぜか山で働いていると一日に一度は昼寝をしたくなる。恐らく疲労で睡眠を欲するのだろう。

じゃあ、標高の高いところで幼い頃から育っていると体力があるのかというとそうでもない気がする。
そういう人は確かに山小屋で暮らしていても疲れにくいだろう。
ただ、平地に降りると疲れやすくなってしまうんじゃないかなと思う。

標高の高い土地での疲労の原因とは一口に言えば酸素濃度、湿度、温度の違いだろう。

酸素濃度の違いは登山してからビールを飲んだりすると分かりやすい。いつもと明らかに違う酔い方をする。
運動後だからというのもあるにせよ、平地で同等の運動をした後に飲むアルコールとは全く違う。
飲んだ直後の酔い方もそうだが、翌朝のアルコールの残り方もまったく違う。
温度、湿度でアルコールの残り方が変わるとは思えない。
酸素濃度が変われば、血の酸素を運ぶ能力を上げなければ肉体が酸欠になってしまう。あるいは、肉体のパフォーマンスを落とすかだ。
血液の能力、性格が変わるのは、アルコールの残り方が変わるのと密接に関係があるだろう。

昼寝の時間が増えるのは、おそらく標高によるものだろうと思う。

別の説では、昼寝の時間が延びるのは、山では娯楽がないので眠るしかないのだ、というものもある。
果たしてそうだろうか。
山に来る人間は大抵は本を数冊持ってくる。
急いで読む必要はないにせよ、ぼちぼちでも読もうと思うからこそ持って来ている。
あるいは、元々山が好きで来ているのだから、散歩をしたって良い。散歩もいくらかは飽きて来るけれど、天気さえ良ければ、散歩は全く害のない良い時間つぶしになる。
まあ、確かに平地にいるよりも、娯楽は少ないのは間違いないにせよ、全く何もなくて、寝るしかないということはないだろう。

まあ、何にせよ、山にいると、みんなよく眠る。
それなのに、なぜかいつも眠そうにしている。

山に限らず、何か仕事をするようになると、人間って昼寝が好きになる気はする。
小学生なんかは仕事はしていない。学問はしているにせよ、小学生の場合、学校に行くのも遊びの一部だし、逆に遊ぶのも学びの一部で、仕事と自由な時間という区別は薄い。中学生くらいから、時間に節目が出て来るのか、授業中に昼寝をするやつも出て来て、高校はたいていの人が週に一度くらいは授業中に居眠りをする。
大人になると、いよいよ自由な時間とそうでない時間の節目がはっきりして、自由でない時間には眠ってはいけない分、自由な時間にはちょくちょく昼寝の時間を作るようになる。
勝手にそんな解釈をしている。

まあ、昼寝は昼寝で大事なのだが。
やはり、自由な時間で何をするかっていうのは大事だろうと思う。
仕事の時間は、まあ、一部の例外はいるにせよ、みんな多かれ少なかれ、自分の仕事をせっせと頑張る。仕事の時間内だけで考えると、多少の効率の差はあれど、案外、活動に差は付きにくい気がする。
仕事外の時間っていうのは、非常に白黒出る。
何かする人は何かするし、何もしない人は本当に何もしない。

日々の中には誰しもいくらか自由な時間はある。人によってはとても少ない人もいるだろうが、それでも自由な時間が本当にゼロって言う人はなかなかいないだろう。
毎日のことなので、全く何もしない人と、少ししかしない人と、かなりやる人では、積もり積もれば大きな差になるだろう。
多くの事をしていれば偉いなんてことは無いけれど、単なる事実として、仕事以外のことを積み重ねて継続している人と、仕事以外はほぼ何もしない人では、やはり違いはあるだろう。
自分のための活動を自分のためにする時間、空気を確保出来ているかどうかっていうのはとても大事だろう。

何の仕事でも、どんな環境でも、いくらかある自由な時間を自分のための時間に出来ているかどうか。
まあ、眠りの中で夢を見たり、仕事のための体力をためるのも大事なんだろうけど。
それでも、積み重ねって言うのはほんのしばらく目を離すだけで随分と大きく積もることが多い。

仮に頭の上を銃弾が飛び交うような場所でも、自分の時間は作れるっていう人は才能があるし、多分、決して不可能なことではないのだ。
どんな環境でも、時間を上手くやりくりして、あれこれする人間っていうのは存在する。
自分がどうするかは自分が決めるしかない。
出来ないと信じ込んでしまえば楽だ。
自分には出来ないさ、と。
出来ると信じ込むと大変だ。
なんせ、出来ることはせっかくなのでやっておきたい。そうなれば時間や体力も使う。

まあ、そんなのは個人の自由なんだろうけれど。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 22:28| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

一万円で自転車が買える時代。

ヘリ番で降りて、少々の雑務、買い出しなんかのお使いやら、車を修理に出したりやら、ヘリ番はあれやこれやと山以外での雑務もあるのだが、そんな中に寮の自転車の修理に自転車屋さんに行くって雑用が出来た。
寮は松本市内にある。月に一度の休暇で家が遠い人や、僕のように家がない人、いや、家がない人は僕しかいないんだけど、まあ、みんなが自由に使って良い和室があるのだ。
みんなが自由に使って良い和室もあれば、みんなが自由に使っても良い自転車もあるのだが、スポークっていう部品が折れてしまっていたので、それの修理に近所の自転車屋さんへと。

絵に描いたような昔ながらの自転車屋さんでおじいさんが一人でやっている。土間のような小汚いところに五台ばかり新車のママチャリが並んでいる。どれも三万円以上する。
一万円のママチャリっていうのは、正直な話、大きいホームセンターとかじゃないとまったく商売にならないのだ。個人の店ではボランティアで自転車を仕入れて渡すだけのような具合になってしまう。

ママチャリのスポークを変えるのは、自転車屋さんとしてきちんと働いたことのある人間なら別段難しいことではない。
ただ、スポークっていうのは、車種によって長さも違うので、在庫するのが面倒くさい。難しくない作業とは言えど、いくらか面倒な作業でもある。何だかんだで早くやっても十分くらいは掛かる。じっくりやれば一時間くらい掛けても良い。そういうタイプの作業だ。
でも、工賃は部品代込みの千円だったりする。商売というか、本当にボランティアだ。

それでも、客として町の自転車屋さんに行くと、実にしみじみ良いなと思った。
幼い頃の駄菓子屋のような気分がした。
ーーああ、山の人かい。山はどうだい?飽きないかい?
などと話をしながら、椅子をすすめられ、狭い店内でのんびりと丁寧に作業してくれた。
松本市では山の人って言うのが通じる。
多分、日本では珍しい。
夏に山で働いて、スキーで働くという人は松本市ではもちろん数は少ないにせよ、存在していることはみんなに知られている。
そういう生き方もあるとみんな理解してくれている。
ーー僕も前、自転車屋さんで働いていたんですよ。
ーーそうかい、でも、今の時代、自転車屋じゃ食っていけないわなぁ。
ーーそうですねぇ。難しいですよねぇ。まあ、山もずっと食っていけるかっていうと微妙ですけどね。
ーー自転車屋よりは良いだろう。
ーーいや、冬の仕事を探さないといけないですからね。
ーーそりゃ、冬になりゃスキー場でも行けば良いじゃないの。
そんな具合で、のんびりと話をした。

僕の小さい頃は、まだそんな町の自転車屋さんって少なからずあった。自転車は近所の自転車屋さんで買って、壊れたらいつものあのお店に持って行くっていう具合で。中学生になる頃には、自転車でもなんでもイオンショッピングセンターで買うようになって、壊れたら一万円の新車を買い直すみたいになっていった。

懐古主義といえば懐古主義なのかもしれないけれど。
でも、お互いの稼ぎのことを考えると誰かが稼ぎすぎるってやっぱり良くないなんていう、ワークシェアなんていう割と新しい考え方を昔は地でやっていたのかもしれない。
その地域の自転車屋さん。

コガミヤタの古い写真がかざってあってとても良かった。

でも、ふと思ったけれど、自転車さんで珈琲とケーキなんかが楽しめるって良い気はする。
修理しながら何か少し話でもして。
珈琲だけとか、修理だけの人ももちろん良い。
海が見える方が良い。
本があって、ジャズも流れて。
スポーツバイクだけの店じゃなくて、ママチャリでも何でも気楽に寄れる。
町の自転車屋さん。

そんな都合の良いことなかなか出来ないのかもしれない。
でも、都合の良いことってのはみんなが求めるものだろう。みんながそんな風に暮らしたいっていう形だろう。本当はそんな都合の良い店が増えると良いんだろう。

もちろん、問題点はある。
質の悪い消費者の問題がまず上がる。
これは、かつてジャズ喫茶が廃れていった理由の一つでもあるだろう。
お互いに生活があるのだから、常連客として行くからにはそれなりの金か或いは店主の満足みたいなものを提供できないといけない。
そういうのって義務というより、常連客として気持ちよく店に長居しやすくするため、つまり客が自分自身のためにすることでもある。
でも、この考え方はもう随分と古くなってしまいつつある。提示された金額を払えば等しく客であり、等しくサービスを受ける権利があるという考えの方が今は主流だ。
深夜のファミレスで食事するときに、ウェイトレスのおばちゃんの生活について考える人はほとんどいないだろう。
深夜のコンビニの方が分かりやすいか。
24時間営業がコンビニくらいしかなかった頃には、深夜のコンビニで働く人は大変だなぁ、などと思った人も少なからずいただろうが、今、深夜のコンビニで働く人に何か考える人は減っただろう。
深夜に働くということもさほど変わったことじゃなくなってしまいつつあるし、何より働いている人間のとらえ方って言うのが変わってしまった。

それこそ昔の近所の自転車屋さんの場合、ご近所さんだった。自転車屋さんでもあるけれど、同時に近所に住む○○さんだった。コミュニティを共有する仲間だった。
今のホームセンターの自転車コーナーのお兄さんは、あくまでホームセンターの自転車コーナーのおにいさんでしかない。○○さんではない。個性を持たない人間の形をしたコミュニティの中で自転車を修理するという機能を持った構造物の一つだ。

居酒屋をとってみても分かる。
昔ながらの馴染みの赤提灯の居酒屋のおっかさんは、やはり店員さんでもあるが、あそこのおかあさんなのだ。○○さんと名前は呼ばれなくとも、おっかさんである。
チェーン店の居酒屋のおにいさんは、単なる居酒屋の店員さんだ。

そういうのは悪いことばかりじゃなくて、誰でもどんな仕事でも出来るチャンスを拡げたというのは事実だろう。
自転車屋さんをするなら、自転車屋さんの子供に生まれて店を継ぐしかなかったのが、当人がその気になればどこかしらの自転車店のスタッフになれる。初心者だろうがなんだろうがヤル気さえあれば歓迎するというのは良いことだ。
競争の結果、一万円出せば、取り寄せなど待たずにすぐに新しいママチャリに乗れる時代になった。

その結果、
ーー自転車屋じゃ食って行けねぇよな。
っていう時代になった。

まあ、大多数の考えで言うなら、そんな自転車屋の自己満足や、一部の懐古主義者が喜ぶおしゃべり好きの小さな自転車屋なんかより、金を払えばすぐに無駄口たたかずに修理してくれる自転車屋さんの方がありがたいのかもしれない。

一万円で自転車が買える時代って言うのは、いろんなことを象徴しているのかもしれない。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 21:46| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

馬鹿にならないように?

まったく、馬鹿な時代で、時代のせいにしやがる馬鹿な男だ。

山もいろんなことがある。
昔なら、もう少し気合いの入った人間も来たかもしれない。

でも、おれだってそうだろう。
誰も言わなくなったことを言い続けなくちゃいけない。

ちょろり草ってのは、実はその前進にちょろり天国ってのがあった。
二十歳になるまでの僕が作ったホームページだ。今はもうまったくいじっていない。ホームページビルダーなんかも今はもっていないし、パスワードなんかも忘れてしまった。
何でホームページなんて作ろうと思ったのかは忘れた。
それでも、まだちょろり天国って検索すると一番上に出て来る。

ちょろり天国のトップページには、詩がある。
全部は忘れたけれど。
とにかく、誰もが話さなくなったことがある。いろんな理由がある。大人になったりうんたらかんたら。でも、オレはずっと話し続ける。
そんな意味のことだ。

昔の自分を誉めるなんて頭の悪い人間みたいだし、実際、頭は悪いけれど。
器用に生きようなんてしたかったんだな。
まあ、あいつが言うことなら間違いないんだろって僕はちょろり天国を見ると思う。
馬鹿なやつだな、でも、良いやつだな。

現実の僕自身は良い奴から離れていっている。
いろんなことを上手にいくらかやるようになった。

でも、まあ、あいつが言うことなら多分間違いないんだろう。

少し生きるための何かを学んでしまった僕は、生きるためのことを知らなかった、でも、それでいて生きることに忠実だった僕と会話する。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 19:30| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月27日

人のせいにする人と、黒服の夢。

風邪をひいて散歩に行けない。
体を動かさないと、いろんなリズムが狂う。魂というか何というか、考えなんかの根っこみたいな部分が動かない。沈殿する。

アルバイトが一人やめてしまった。
元々に鬱病っぽい子だったが、まあ、一週間ほどで下山。
本当、ヘンテコなやつでも山に来る時代だ。

昔は山が好きか、旅が好きみたいなやつが多かったらしいけれど、最近はそういうのはむしろ少なくなりつつあるらしい。
まあ、山も旅も安定感ゼロだからな。
景気は良くなってるんだか、悪くなってるんだか分からないけれど、人々の不安ってのは増えてると思う。
ぶらぶらしてるやつってのが、どんどん抹消されていっている時代なのかもしれない。
夢は正社員、なんて冗談じゃなくて真顔で言っちゃったりするわけだ。

夢が正社員だって、個人の自由と言えばそうなんだけれど、あまり全体が大まじめに堅い仕事ばかりするようになると、ぶらぶらする人間は肩身が狭くなる。
ぶらぶらしやすい世界って大事だと思うんだけどな。

かといって、ぶらぶらしやす過ぎると、みんなブラリストになってしまう。
やはりぶらぶらってのは、選ばれし精鋭じゃないけれど、それなりに運とか何とかが必要なんだろう。

やめたアルバイトは、最後の挨拶なんかをしていった。
簡単にありがとうございましたで済ませれば良いのに、なぜかあれやこれや長々と話していた。
人が信じられないとか何とか。

そりゃ、心の底から人を信じられるなんて脳天気な馬鹿はいないだろ�、とか思ったりしながら。そもそもにかなり強い力で自分自身を信じられないと他人なんか信じられないだろう。そして、そこまで自分自身を信じれるような人間は多くはなかろう。
まあ、かといって人を疑うなんてこともよろしくない。
人は人で、自分は自分。
信じるも信じないもなく、もう少しぼんやりと生きていれば良かろうに。
現実の世界と哲学や小説なんかの世界は違う。
現実では食っていくためにある程度、あれやこれやを受け流して生きていかないといけない。
まあ、お互いに都合の良いところで、上手く落としどころを付けるしかない。

まあ、人が信じれないってのは言い訳だ。人のせいにしている。自分が信じることが出来ていないのではなくて、人が自分が思ったようになってくれない、と。
人のせいだ。

まあ、その人にもその人であれこれ事情はあるのだろうし、やめたらやめたで別のことをしなくちゃならない。何やかんやで自分で責任を取るんだから、まあ、それはそれで良いんだろうけど。
理由はどうあれ、せっかく山に行こうなんて決心をして来たのだから、何とか頑張れたら良かったのになぁ、などと思いつつ、まあ、こちらも遊びじゃなく仕事で来ているので、厄介な人と一緒に生活するのは正直困るので、まあ、良かったのかなぁ、などと思ったりしつつ。
鬱病の人と一緒にいると、昔、鬱病で社会から消えていった友人のことなど考えるのでツラい。

大人になると、あれこれ余裕がなくなるのか。
大人になったからじゃなく、僕もズルくなったのやら。
まあ、あの人にはあの人で、僕には僕でやることもあろうから、あまり深く考えないのが良かろう。
ズルくなったのだろうな。

夢で昔の友人が出た。
その夢では僕は誰か仲間と酒を飲んでいた。
僕は焼酎をボトルキープしたいと思っている。貧乏性だし、家で飲むのはあまり好きじゃないからボトルキープしてしまいたいと思うのだ。残念ながら、現実の僕の行きつけにするバーではボトルキープが出来る店はほとんどないのだけれど。
しかし、夢の中でもボトルキープしたいのだけれど、問題が出て来る。
芋焼酎をキープしたいのだが、そのメンバーは芋焼酎は飲まないのだ。僕自身、芋焼酎よりは日本酒の方が好きなのだが、日本酒は次の日に残ると困るのであまり飲まないので、気楽に飲める芋焼酎をキープしたい。赤提灯の居酒屋なのでウイスキーはキープしてくれない。
困ったなと思いながら飲んでいると、ふと、何か音楽が流れて来たので、そっちの方に向かうと、昔の友人が真っ黒な革のスーツのような上下を着込んで立っている。手袋まで分厚い黒のものだった。
昔は割とヤンチャなタイプの男だったので、絡まれると面倒だと思ったが、実に神妙な表情で立っているのだ。音楽も何かおごそかなクラシックで、ふと友人は美しいテノールで歌を歌い始め、歩き始めた。
団地のような建物の間を音楽とともに彼は真っ黒な革の服を着て歌いながら歩いた。道行く人は立ち止まって、彼に深く頭を下げながら拍手を送っていた。感謝しているような、尊敬しているような雰囲気だった。何が何だかよく分からないながら僕は後をついていった。
団地の建物はいつまでも続くようで人々は神妙に拍手を送り続けていた。
団地の端っこの自転車置き場にたどり着いた時に、人々が彼に敬意を送っていた理由が分かった。彼は自転車置き場に転がっていた老人の死体を抱えて、より高らかに歌いながら歩いた。
歌の歌詞はこんな具合だった。
何の罪もなく生きて来た人が、年老いて世にはばかられて、誰にも迎えられることなく、死後の世話をしてくれる親族もない。老人に罪はあるだろうか。子を産まなかったからだと言われればそうかもしれないが、だが、それは老人の罪だろうか。このように死体となって、誰もが触れたくないと思われるようになるほどの罪を犯しただろうか。
彼は素晴らしく美しい声で歌った。
彼の鼻の中に入ってくる老いた人間の死体の腐臭が直接に僕の鼻にも伝わってきた。大きな声で歌うものだから、大きく息を吸い込む度にひどいにおいが入ってきた。
人々は彼に敬意を送っていた。
彼は堂々とした黒の革のスーツを着ていた。威厳があった。
しかし、彼は悲しそうだった。
老人の死を悲しんでもいたが、そういうことをせざるを得なくなった自分の立場に悲しみを感じていた。
黒の革の服は死者への敬意もあったが、死体を処理する際に衛生面を守るための防護服でもあるらしかった。

実によく分からない夢だった。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 21:06| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月20日

家でも買うかい。

少し疲れている。
家がないというのはやはり疲れる。疲れを癒やす場所がない。家でも買おうか。
まあ、そうは言っても、共同生活とはいえどたいていのものはある。
むしろ、所有しないというのはとても身軽で良い。

ただ、まあ、疲れてはいる。
どちらかと言えば、人と話さず、延々と黙々一人で何かしている方が好きなのかもしれない。
人間とは週に一度会うくらいでちょうど良いっていうくらいの。

まあ、多分、たいていの人がそうだろう。
人と会えばアレコレ考える。
何か話せば相手がどう感じるだろうか、とか。
相手のために何かするというわけじゃなくとも、相手がいる限り、お互いのためにお互い気分良くいたい。そうなると、アレコレ考えることになる。

何も考えず行動しても、お互い気分良くいられる人間なんてのが一番良い。
でも、まあ、そんな人はなかなかいない。

とある女友達にアンタと私はよく似てるね、と言われたりしたが、まあ、確かにそいつといるのは気楽だ。
もう何年も会っていないけれど、時々連絡を取り合うくらいなんだけど。
じゃあ、そういう人間と結婚できれば良いのかっていうと、案外そういうわけでもないんだろう。
一緒にいて気楽だったり、気が合いすぎるやつってのは、多分、ちょっと距離があるくらいが良かったりするんだろう。
なぜってのも難しいけれど。
多分、あまり気の合うやつと暮らしたりすると、ずっと電源オフみたいな具合になってしまう。
まあ、結婚などしたこともないし、する予定もないので、本当のところは分からないけれど。
いくらか気が合わないってのは大事なんだろう。
もちろん、全く気が合わないのは困るだろうけれども。

そう、電源オフ。
人と会わないと、電源オフになる。
電源オフできる場所は欲しい。
家でも買おうか。
まあ、買うわけないんだけど。
借りることもなかろうし。

家で一人でいても、実のところ、本当に一人じゃなかったりする。
旅って言うのは一人だ。
本当に何もしがらみというか、くっついているものはない。
旅の空って言うのは良い。

眠い。
まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 22:38| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月18日

昔の友。

先週、両親が山に来てくれて、昨日、今日は大学時代の親友やまとが遊びに来てくれた。やまとは大和ではなく山登と書いてやまとだ。山で働いたらみんなに喜ばれそうな名字だ。

昔の友達は良い。
若返る。
別に今が老けているなんてわけじゃない。むしろ、僕はいつも若い。まあ、実際、まだ二十代だけれど、それでも、割と自由にあれこれ生きているから若いとは思っている。

若返るっていうと、多分、言葉として間違っているのかもしれない。
あの頃に戻れるとでも言おうか。
そりゃ、現実には戻れはしない。全てのことは流れる方角にしか流れない。液体の水は上から下に流れる。下から上に流れる気体もあろう。

すこし脱線するけれど。
ふと水は最後どうなるのか、なんて気になった。
「海に着いたら、海面から蒸発して雲になって、また雨になってくるくるまわるのさ」
なんて言われそうだけれど。
じゃあ、深海の水って言うのはどうなんだろう。ぐるぐる回るとすれば、川から海に着いた水は全てとは言わないにせよ、ある程度の割合で深海にまで降りていかないといけないし、深海の水も上に登らないといけない。
海底火山にでも触れれば、分かりやすく上に登って行きそうだけれど。
黒潮なんかの海流は平面的な流れだけれど、やっぱり垂直的な方向にも流れってのはあるんだろうか。
深海の水はいつまでも深海なんだろうか。
水に重たいとか軽いってのはあるもんなんだろうか。
深海の水ってのはどんな気分なんだろうか。水には気分なんてものはなかろうが。
それでも、万物に流れなるものは存在しているだろう。金属なんかの変遷は、非常に年月が長いのかもしれないが、水はくるくるまわっているやつと、深海で長くとどまっているやつらに分かれる気がする。
自分ばかり深海というのはどんなものなんだろう。

光が見える我々にとって、視界の情報がメインの我々にとっては、深海とはなんとも薄気味悪いところでもあるけれど、水にとっては存外良いところなんだろうか。

まあ、そんなこと考えてもどうにもならないけれど。

脱線から戻る。
まあ、何かしら流れる。
過去には戻れない。
別にどうしても戻りたいとも思わないけれど。それでも、少し目を細めて良かったなぁと思い出にふける過去だってある。

昔の友は良い。
昔できなくて、今できることも増えたけれど、やはり昔できたことで今できないことも多い。
昔の友と話していると、ふと、そんな時代に魂だけでも帰ることが出来たような気持ちがする。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 18:36| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

七月十五日。

働いていると、どうにも使えない人間ってのが一人は必ず出て来る。
働き蟻なんかの法則でも、集団があれば一割はサボる蟻になるとか言うけれど。
まあ、人間ってやっぱりヒエラルキーを作りたい生き物らしい。

それにしても、本当に使えない人間ってのは出て来る。
使えない人間ってのは、まず謙虚じゃない。
謙虚な人間は使えない人間にはなりにくい。
謙虚でもすこぶる不器用で仕事上まったく使えない人間ってのはいるけれど、基本的には謙虚な人には周りもものを教えるので、いずれは使えない人間から脱出できることもある。

コミュニケーションさえ取れれば、いくらかは何とかなる。
そうは言っても仕事の間柄だとやはり仕事が出来ない人ってのは困ってしまう。出来ない分をこちらが代わりにしないといけなくなったりする。

それでも、話をする仲の良い相手だと、かわいそうだし、何とか教えてあげて、上手くやっていけるようにもなる。

やはりコミュニケーション能力が一番大事だ。
平地の仕事でも山の仕事でも。

それにしても、コミュニケーション能力って何だろう。
案外みんな知らない。僕もよく分かっていない。
会話力、面白い話が出来るかといえば案外そんなわけでもなく、特に面白い話を持っているわけじゃなくとも、その人がその場にいるととても上手く空気が落ち着く人もいる。話は面白くとも、べらべらしゃべり続けるもんだから、避けられてしまう人もいる。

相槌力なんかは分かりやすい。
相槌力と相の手力。
あと、何か色々と話してみたくなる力。
その人に話すと安心出来るような。
ピンポイントでストンと腑に落ちるような。

でも、それは日本人の場合で、外人なんかだと延々と喋る人って言うのは好まれやすいとも聞く。博識で矢継ぎ早に色々な話を続けられる人。
そうは言っても外人なんかも、延々と一人が喋り続けるなんてのはイマイチともいう。
やはり順番に喋るものらしい。
それに外人と一括りに言っても、欧米人もいれば、ラテン、アジア、アフリカ。その中でもいろいろ。

ちなみに僕はどうなのかと言うと。
歳を重ねる毎にあまりしゃべらなくなった気もする。
日本人的なんだろうか。
そりゃ、日本人だから日本人的なんだろうけれど。

写真の入ったSDカードをどこかになくしてしまった。
一眼レフで撮った結構良い写真も多かっただけに残念。花の写真なんかは時期が過ぎたものはもう撮れないので、非常に残念だ。
まあ、チャリの写真だけでもGoogleフォトにバックアップしていたので良かった。

写真の入ったSDカードをなくすと結構へこむ。
でも、まあ、また撮れば良い。

ものをなくしたって、そんなにガッカリする必要はないと思う。
確かに二度と手に入らないものもある。
でも、それもまた運命だ。縁が薄かったのだ。それ以外の何かでまたコツコツやりなおしていけば良い。
人生は長くないけれど、なくしたものでもどうしても大事なものなら何度でもやり直せるくらいの時間はある。
たいていのことはね。
もちろん、いくらかはそうもいかないものもあるけれど。なくなったものはなくなった。悲しんでも出て来ないなら、また作り直す方法を考えるしかない。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 18:36| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月14日

まんぼうを読めた。

休暇最終日。
久々に酒を飲んでばかりいた休暇だった。
まあ、酒を飲むのは良い。一人で飲めば何事か考えているし、誰かと飲めば何事かを聞いている。
ただ、不思議と酒で過ぎる休日はどこか引っ掛かる。

昼にどくとるマンボウを読んでから、サイゼリアで次の小説の部品を作りに掛かった。掛かりは良くなかった。良くなくても書いてみる気になればいくらかまでは書いてみるしかない。
棚ぼた的に落ちて来るということはない。
やはり、良くない気がすれば、粘ってみても部品も取れないようなものしか書けない。
それでも、書いてみるしかない。
別に書いても書かなくても、誰も損はしないのだけれど。

それでも、やっぱり、書きたいと思ったときには書いてみるしかない。
駄目だなと思うときもあるけれど、ごくまれにやっぱり今だったなという時がある。
そればかりはゲームだ。
あまり、安くもない。
時間を捻出するのは安くはない。
大抵の場合にものすごく疲れる。
ヘンテコな疲れ方をする。
肉体的ではない。

泉鏡花っていうのが、どうしても読めない。
何回か読もうとして読めなかった。
今回の休暇でもふと泉鏡花を買った。

読めないというのは難しい。当然、日本語は分かる。別に数学だとか物理のように、専門的な数式の意味を理解していないといけないということもない。問題なく読めているはずなのだ。しかし、全く読めていない。頭の中にきちんと世界が構成されない。
だけれど、この文章の空気感、リズムというか空隙だろうか、配置と調和というのか。読めていないくせに、そういうのは凄く感じるものがある。
もちろん、空気だけ楽しむのも悪くない。
ただ、さすがにそろそろ、とは思う。
読みたいとは思いつつタイミングが合わなくてっていうのは良いけれど、読みたいと思っていて手にとって読んでいるのに、読めない。
でも、改めて考えると、実のところ、読めていないままに読めていたと思い込んでいた作品も多い気もしてくる。

どくとるマンボウが読めて今日は良かった。
まったくかすりもしなかったにせよ、何か書いてみて失敗できて良かった。
いくらか、お酒も飲み過ぎたけれど。

書き続けていられている。
案外、人間の根っこみたいなものってのは、当人が心配している以上に強いものなのかもしれない。
とっかかりを掴みたい。

とりあえず、明日から休暇がおわってハイシーズン突入なので。やることやって、しっかり頑張るとしましょ。
まんぼう良かったな。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 05:44| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月13日

両親と山に。

山っていうのはそんなに良いものなのか、一度見てみたいものだ。
そういうわけで両親が山に来た。

両親とも登山などしない。
母は張り切って春頃から近所の山を歩いて練習していた。
休暇を合わせて、両親の分の荷物もかついで一緒に登った。
働いていればしょっちゅう歩く道だが、普通の人にとって四時間歩くなんていうのは大変だろうし、父は六十を越えている。
荷物をこちらが全て持っても、それでも大変そうだった。

登る前は、貴重な休暇の半分を使うことになるのでいくらか難儀な気もしていたが、いざ、登ると悪くなかった。
初めての北アルプスは非常に感動があったらしい。
僕の働く小屋は、谷間にあり、頂上に行く途中で宿泊したり休憩する、いわば通過点なのだが、それでも初めてだった両親は実に感動していた。
改めて日々囲まれている環境の良さに気付かされた。

二十代の前半にふらふらと山小屋へとやってきて、チャリ屋をして、また山小屋と戻ってきて。
あれこれしている内に普通の人が綺麗だと思うはずの景色が日常のような生活になっていた。

綺麗な環境の中で過ごす時代を持つということは、恐らく人間として生きていく上でとても良いことだろう。
ただ、美しいものに慣れすぎて鈍感になってしまうのは悲しい。

自分は一度、チャリ屋という平地の仕事も経験しているので、普通の仕事をしていると北アルプスに行くのはとても大変なことだと分かっている。
休みを合わせて、交通費なんかを用意して、装備を揃えて。それでも、天候に恵まれないこともある。
ただ、ずっと山でしか働いていない人はそういうことは忘れてしまっていたりすることもあろう。

まあ、それはそれで幸福なことではある。
美しいものに囲まれていることを忘れてしまうほどに、たえず美しいものがある生活。

それでも、やはり、ありがたみっていうのを忘れずいるのは大事だろう。
美しいものにせよ、健康だとか、友情や家族だったり。
きちんと自分の脚で立って歩ける両親はありがたい。
きちんと自分の脚で歩けるというのはありがたいことだ。

あれこれしている内にどんどんと時間が過ぎ行った。
農家で腕っ節の強かったおじいさんももう随分前に死んでしまった。
父も母も以前より小さくなったように見える。
特に父は癌を患ってから、今はほぼ回復しているにせよ、その前よりもいくらか元気がなくなった気もする。
時間は進む。
高校時代に母とよく衝突したものだが、あの頃が懐かしい。母は今も元気だが、やはりあの頃と比較すればいくらか小さくなった気がする。

そんなに早く老化で背が縮むことはなかろうが、久々にあった両親はどこか小さく見えた。
いくらか切なくも見えたが、子供が手を離れ、昔ほど面倒や責任など多くのことを背負わず、二人で老後に入りゆく夫婦のほほえましさのようなものもあった。
ありがたく思った。

このまま僕は結婚せずに一人で生きていけば、時間が過ぎて体が弱って、いずれ死にゆく時にはアレコレ世話してくれる子供もいない。
そんな未来のことを考えても仕方ない。
ふと結婚することもあるかもしれないし、結婚しなくとも線香の一本くらいはだれか立ててくれるだろう。葬式を開く人がいない問題もあろうが、葬式を開けないなら、それはそれで誰の手も煩わせなくて良いかもしれない。
心配したからといって突然結婚するわけでもないし、結婚すれば、それはそれで難儀なこともある。

両親が帰るのを駅まで見送ってから、久し振りに本を買って珈琲屋に入った。
山小屋で働いていると、一人で室内の椅子に座って珈琲と煙草と本をたしなむというのがなかなか出来ない。
一人でのんびりと時間を気にせず本を読むのは貴重だ。
途中まどろんで少し居眠りをした。
起きて、両親がすでに出発したことをふと思い出した。久し振りに三日も行動をともにすると、急にいなくなると何とも寂しい気がした。今でこそ元気だが、やはりどんどんと時間は過ぎていく。
やはり元気で生きている間は、帰省できる時には帰省して顔を出すべきなのかもしれない。

まあ、そんなこんな。
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2016年07月07日

車酔い。

七月七日。

本日もヘリ番。
簡単に言えば、ヘリ番とは、一日目に山のふもとの町の事務所に行って、荷物をピックアップして、二日目に登山口近くのヘリポートまで2トントラックやハイエースなんかを運転してヘリにくくりつけて飛ばす。

ヘリコプターというのも、まあ、いろんな種類があるそうだが。
山で使うのは基本的に頭にプロペラが一つと、しっぽの横っちょにプロペラが一つ付いているものを使う。垂直離着陸が出来、ホバリングも可能なので狭い場所でも荷物の受け渡しが可能というのがメリットだ。
まあ、そんなわけで山でも飛べて便利なわけだ。
他にも羽の数が多い奴なんかも世の中には存在するけれど、山ではそんなに広いヘリポートは作れないのであまり使わない。
大きいヘリが来ると屋根が吹き飛んでしまうほどの風が来るのだそうな。

デメリットは航続距離が短いことと不安定さだ。
飛行機というのは割と安定している。というのも、左右に対に羽が付いているので、どちらかにすべって傾いたりしても上手く元の体勢に戻ろうとするような復元力が働くそうだ。
しかし、ヘリコプターは羽が左右に対になっているどころか、ぐるんぐるん回転し続けているので復元力などはない。基本的に不安定なまま飛び続けるという構造なのだ。

ちなみに、ヘリコプターの原理は巨大扇風機を回して風を下に押し出して飛んでいるのではない。飛行機の羽を頭に付けて回しているイメージだ。
飛行機は前進することで羽に空気を受けて揚力を得て飛ぶ。
ヘリコプターは羽を回して空気を当てて、揚力を作って飛ぶ。
空気が高速で移動すると、真空状態みたいな具合になってその方向に引っ張られる。上側に引っ張られれば空を飛ぶ。
羽の形や角度で、風を受けたときの羽の上側の空気が下側よりも十分に速く流れれば機体は浮くわけだ。

まあ、細かい原理まではうろ覚えなので忘れたけど。

とりあえず、ヘリコプターは基本的に不安定な飛行物体なのだ。
そして、山の天気とは実に不安定なので、下界が晴れていても、稜線は暴風や真っ白な霧の中なんてのはよくある話だ。
霧は視界がなくなるので飛べない。
強風は機体の制御が出来ないので飛べない。

ちなみに、山小屋の人々は普通の平地のことを下界とよく呼ぶ。
日本の三千メートル級の山というと実に天上世界のような雰囲気なので、まあ、そんな風に呼ぶのだろう。まあ、山の暮らしなんてのは実に何もない。僕なんかは本とウクレレなんてオモチャもあるので、割と何とも思わないのだけれど。それでも、一般的にはそれなりにしんどい世界なんだろう。僕の住む小屋よりさらに高いところになると七月になったでも最低気温は10度程度だったりする。もちろんセブンイレブンはない。共同生活なのでくたびれることもある。
まあ、実に異質な世界なのだ。
特に見下して下界と呼ぶわけではなく、単に違う世界みたいな意味合いだ。

まあ、何にせよ、そんな不安定な乗り物なので、飛べなければ翌日に延期となる。その日も飛ばなければまた明日、そしてまたその明日と。七月頭の梅雨の時期は毎年伸びるらしい。

ヘリポートはそこまで悪い天気でもないのに、頂上の小屋は濃霧、強風、実にヘンテコな気もする。さらに、ヘリポートから松本の町に下りてくると、実に良い天気だったりする。

さらに今日は帰り道で車酔いになったりして、実に散々な日だった。
車酔いがひどいというのは実は僕が自転車を始めた理由の一つだったりする。運転していても酔う。一度酔うと、復活するまでに30分くらいはかかる。そして、車酔いって結構しんどいのだ。車の中がちょっとした地獄みたいに思える。

山への道はものすごくくねくねなので、毎回車酔いの危険を抱えてヘリ番をしている。多分、ヘリ番をしている人で車酔いする人間は僕以外いないと思う。

ちなみにヘリ番も山小屋の生活と同様の四時くらいに起きて仕事だ。

大事な物資がびゅーんとヘリで飛んで行くのは嬉しいし、ヘリってかっこいいので良い仕事なんだが。
責任も重いし、車酔いもするし、何かと大変な仕事だ。

明日は晴れると良い。
そして、車に酔わなかったら良い。

まあ、そんなこんな。
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2016年07月05日

ああいう人に。

七月五日。

また、ヘリコプターの荷積みで松本に。
僕が世界で一番好きな人から手紙が来ていた。山小屋までは届かないので、事務所で受け取る。
もう他の人と結婚してしまったけれど、僕にも彼女にも、人間的なピッタリくる波長があるように僕は思っている。結婚や恋愛とはまた別なんだけれど、もちろん、僕の方は恋愛的にもすごく好きだ。かりにどんなにおばあさんになっても、絶対に僕にとって可愛い人で居続けてくれる。
理想的だ。
色恋の沼にならない。
絶大なる親友だ。親友という以上に素晴らしい。
男や女という枠を越えて、女としても素晴らしいし、仮に男でも、あの人なら多分僕はゲイになっていたかもしれないとさえ思う。

それでも、そういうのは、程良い距離感のせいなのかな、なんてネガティブなことを考えることもある。
僕もアレコレ汚れたところもあれば、きっと向こうも汚れたところもある。
二人ともバカじゃないので、そんなことは分かっている。

トンボ玉の店がある。
しだれ柳の古い堀沿いの町で。
僕と女の子は中学生の頃を過ごした。
当時は僕はその女の子には恋心は抱けなかった。可愛い子だとは思っていたけれど、僕が幼かったのか、向こうが幼かったのか。
高校になったときに、女の子は別の土地に引っ越すことになった。
正直、涙を流すような別れになる間柄ではなかった。いや、当時の僕には別れってのはよく分かってなかった。

ゆずちゃんっていう絵本がある。
阪神大震災で死んだ小学校高学年の女の子のことを、同級生の男の子が切々と綴っ名著だ。
僕の家はゆずちゃんの家の近くで、何度か遊びに行った覚えはある。
階段を降りる。夙川公園に向かう坂道の途中を右に折れる。
その階段にはオレンジ色の花が咲いていて、秋になると枯れて、花の根元に種をぎっしり含んだ殻みたいなのがあって、帰り道なんかによく殻を潰すーー幼稚園だった僕でも、あっさり親指と人差し指でからを潰せるようになる、夏の暖かい時期には堅くて割れないのが季節が過ぎて、具体的にいつだったのか幼かった思い出では堀だせないけれど、いくらか過ぎると花の根元が茶色く乾いてクツッとかカザッなんて具合で割れた。
階段から降りてしばらく行った角に家はあった。
広かった記憶があるけれど、それはマンション暮らししか経験したことのない幼い子供の印象で本当のところの広さは覚えていないし、確認しにも行ってないので不明だ。

ゆずちゃんとはいくらか話していたはずなのに、僕にはゆずちゃんの顔はどうしても思い出せない。雰囲気も。ただ、そこにゆずちゃんという名前までは分からなくとも、年上のお姉さん的な人がいたっていうの覚えている。

ただ、書きながら思ったけれど、本当にそんな事実があったか分からない。
確かに階段はあった。
通りの角に大きめの家はあったはずだ。
ゆずちゃんっていう絵本も間違いなく存在している。
そこまでははっきりしている。
ただ、僕は本当にその家までいって、ゆずちゃんなる人ときちんと話をしたかというと、無意識のうちに都合良く震災の経験を自分の中で捏造しているんじゃないかなと思うこともある。
多分、本当にゆすちゃんとは直接に会ったことがあると思うんだけれど。
階段と角の家。

話が少し離れたけれど、僕にとっての別れって言うのは地震なのかもしれない。
だから、地震が起きずに別れる人との別れには名残惜しさをほとんど感じない。

生きていればいずれ会える。
死んだ人とは会えないけれど、きっと多分みんな風になってる。

風って言うのが不思議なんだか、僕が風に対してわき起こる考えってのが特殊なんだか。
風が吹く日は励まされる。
歩きにくいし、自転車も進まないんだけれど。
風って言うのは好きだ。

みんなが大気の粒々になって僕を取り巻いてくれている。
そんな感情を時々いだく。

どんどん話はズレている。
女の子の話だ。

でも、またズレてしまうんだえれど、おかんってのも沸いてくる。
僕は割とおかんが好きだ。
一緒に暮らしていると、すぐにケンカになる。
僕が高校をサボりすぎて、問題児になったとき、おかんは自分のせいで僕がそんな風になってしまうと気に病んで、睡眠薬で自殺しかけたことがあった。
おやじと弟と僕の三人で、近くの病院まで、僕がおぶって行った。
医者を目指していたから、一般人が入手可能な睡眠薬で死ぬことはないと分かっていたけれど、響いたし、やはり延々涙が出続けた。
おかんがこの世からいなくなってしまうかもしれない。
その時には、別れというものを感じた。
まあ、何だかんだ後遺症も残さずおかんは今も元気にいて、別に悲しい話ではない。

その人が元気に生きてさえいてくれれば、絶対にまた会える人。会うのにいくらか難儀だなと感じることもある人。そのくせやっぱり絶対この人とは会うし、会いたいなと思える人。

おかんはもちろんながら、手紙をくれた女の子はそんな人だ。

本当、その女の子は文が上手い。
僕は文に関してはそれなりに辛口だけれど、その女の子の文は一生かかっても真似できないけれど、何とか僕の文にほんの一部で良いから取り込みたいと思える。
あいつが散文詩なんか書いたら革命的に美しい、そして軽やかで暖かい、なおかつファジーな、すごく平易なくせに、折に触れて読みたい、ポケットに入っていて、ああ、これが入っていて良かったと、安心出来るような本を書けると思うんだけどな。
本当に舌を巻く。上手い。憧れるすごく良い文体。それを僕のためだけに書いて送ってくれる。

助けられる。

ああ、早く僕もそういう人たちのたよりになる、ちょろりがいてくれて助かる、別段、何が出来るわけでもないけれど、あいつがいてくれて。
そんな人に早くなりたいと思うけれど、そんな偉人になれるのはまだ目処が立たない。

小屋の方で少し人間関係がもつれて疲れていたけれど、人間って表現の差はあれどーーたとえば、もの凄く良い文を書く日ともあれば、黙って立っているだけで暖かに出来る人もいるし、すごく良い人なんだけれど、シャイでぶっきらぼうな人も。
人間って良いなと思わせてくれる、便箋から心が浮き上がっていて、手を触れると暖かな人。

全くね。
そんな風に思わされる手紙なんて、名人芸を遙かに超えている。

ああ、僕もそんな風になりたいし、そんな人が頼りにしてくれるような男になりたい。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 22:02| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

人間は同種だから。

七月四日。

人に強くものが言えない。
自分の言いたいことをきちんと言えない。
つい、人に迎合してしまう。
これが、結局のところ、自分がいろんなコミュニティーに長くとどまれない一つの原因だ。

ーーよくあそこまで言われて平気でいられるね。オレならはっ倒してるよ。
よく言われる。
元々あまり人に対してイライラしない、いや、それは半分嘘だ、それでも相手を傷付けるようなことはしたくないのか、相手に強いことを言いたいと思えないし、出来る限りしたくない。

良い言い方をすれば、優しいと言えば優しいのかもしれない。
でも、単に嫌なのだ。
僕はあまり真実を語りたくない。
違うと思ったことを違うと人に対して断言したくない。
単純に好き嫌いの問題なんだろうけれど。
いくらかイライラもするけれど、どちらかというとイライラした自分が嫌いで、というか、人に対して怒りを簡単にぶつけたり、強い力で弱い力を抑えるなんてやり方がとても嫌いで、結局、自分の好みのやり方となると、適当に相手を受け流してヘラヘラしてしまう。それでも、いくらかイライラもするので、人に愚痴をこぼしてしまう。

ただ、仕事をする上ではそういうのって良くない。八方美人的な仕事は仲間に迷惑をかける。
仕事が出来ないやつには、きちんと強く当たるべきだ。

ーー障害物はどかせよ。道徳云々じゃなくさ。オレはオレがやりたいことを邪魔するやつは徹底的に排除するよ。そうしないと自分のやりたいことが出来ないんだからさ。
某友人は言っていた。

弱気だ。
いつも弱気だ。
人間に対して弱気だ。

システムなんかに対してはいくらでも言える。これは違うんじゃないかって。
でも、それは物言わぬモノに対して愚痴っているだけだろう。

自然は良い。
通じ合えない。
通じ合えないから互いに全力でやれる。
人間は同種だ。
強く言えば相手も傷付く。傷付けば悲しい。自分は傷付けられたくないから、相手も傷付けたくない。

山に来てまで人間に追われる。
人間してりゃ人間に追われる。
少しネガティブな考えだけれど、自転車は良い。何にも邪魔されない。

ちょっと疲れているのかもしれない。
まさやさんに会いたい。
筋肉、いや人間という存在の根源的な話をしたい。
まさやさんと話したい。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 12:12| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月04日

受けるか跳ね返すか。

七月二日。

時たま、ふと未来に不安を覚えることがある。
まあ、基本的には呑気に考えれるようにもなった。昔はだいたいいつも未来のことに不安だった。

未来のことが不安というと、残念なことにやはりお金のことを考えたりしてしまうのだ。
山小屋っていうのは半年間でだいたい百万円くらい稼げる場合が多い。一夏だけでも五十万円くらい。食費、住居費がかからないので、八割くらいは残せる。
普通の生活をしていれば月の手取りを20万円と少しくらいとしても、家賃が五万円に光熱費、携帯代、食費なんかを合わせると八〜十万円くらい、つまり半分くらいは消える。

八割残せて半分以下の年収か、通常の年収で五割しか残せないか。
単純に通常年収を100として残せる金額を計算すると。
山小屋=50×0.8=40。
通常=100×0.5=50。
通常年収を250と見積もると、通常のしている方が10%、つまり25万円ほど得をする。

現実には山小屋の方は働いていない半年の食費居住費なんかを考えないといけないのでさらに目減りするから、ざっくりだが15%ほどひくと仮定すると、35万円程は損をすることになる。

ただ、山小屋の方は半年間自由になる時間があると考えると、35万円を取るか、半年を取るか、価値観にもよるだろうが、イーブンにも見える。

まあ、年収300万になるほどの月収をもらえたことは今のところまだないんだけど、多分、30にならないくらいの人間はそんなもんだろう、年収にして250〜350万円くらいか。もちろん、友人にも一千万円稼いでいるやつもいるけれど、そんなのは例外だろう。そういうやつらは、何だかんだで寝る間も惜しんで全てを仕事に捧げている努力家だ。なかなか普通の人間だと30になる前に350万円もらえていれば十分過ぎるだろう。

少し脱線してしまうけれど、平均年収なんかはアレは個人の生活の上ではあまり参考にならない。というのも、二十台でも年収一千万プレイヤーはいくらかいるし、五百万円くらいならそれなりの数がいる。これは単に才能の差だ。でも、単純にお金が手に入りやすいかどうかという適正、才能と言うよりは天運なんて言葉の方が良かろうか。一千万プレイヤーにはそれはそれで悩みもあるし、年収二百万円の男にも悩みはある。同時に幸福もある。ただ、苦労と幸福をどちらにハイライトを当てられるかというのは人間力になる。金銭力とはまた違った能力だ。

さて、話を戻す。
自由になるお金は約25%、多く見積もっても40%ほどの差をもって、通常の仕事の方が多くなる。
対して、休日では、日数だけなら半年か100日かなので、通常の仕事は山小屋なんかの仕事の30%ほどしか休日はない。連休という観点で見るとさらに不利になる。

ここまでだけ考えると山小屋の仕事なんかは良いようにも見える。
金銭的に40%ほど損すると言っても金額に直して50万円ほど。山にいる間にはひもじい思いをすることはないので、案外金銭面のストレスは少なくも見える。

ただ、現実にはたいていの人間は40くらいまでは問題なく仕事もする。順当に行けば60までだ。
そこまでに収入も伸びる。
山の仕事に限らずとも、自由を選ぶ仕事なんていうのは伸びが少ない。
山で僕の十倍くらい仕事が出来る先輩の給料も僕の二倍もない。
それに対して通常の仕事だと、半年間の不労期間を考えない月収だけ考えても、年がそれなりになれば、僕の二倍以上の収入はある。

やはりいくらか先のことを考えると、今の暮らしというのは不安を覚えることもある。

まあ、そうは言っても、僕もかつて山の仕事をして、それから通常の仕事をして、改めての山の仕事に戻っているので、そのくらいのメリット、デメリットは分かっている。それでも、山の仕事をする方が人生全体を通せば魅力が深くなると感じたからこそ山に戻った。
それでも、やはり欲がわくのか、時々、平地の普通の仕事のことを考えることもある。

モンちゃんはかつて山にいたときの先輩だ。
モンちゃんは山で出会った女性と結婚して平地に戻って仕事を見付けた。結構条件の良い仕事らしく、先日会ったところ幸せそうにしていた。
モンちゃんは僕にはとても良くしてくれていたし、今もとても良くしてくれる。その上で、やはりずっとは山にはいられない。焦る必要はないにせよ、まだ若いうちに、出来るだけ早い良いきっかけがあれば平地の仕事についた方が良いとアドバイスをくれた。
モンちゃんは良かれと思って言ってくれたのだが、少々しこりの残るアドバイスだった。
ちなみにモンちゃんはモンちゃんなんていうかわいい字面に反して単なるおっさんである。

今年はアフリカに行くにせよ、その後のことはあまり考えていない。
もちろん、問題なく生還するつもりではいるけれど、仮に万が一で死んだとしても、文句は言うつもりもない。もちろん、死にたくないと叫んで何とかかんとか生還するのだろうが。生きるにせよ、死ぬにせよ、アフリカから帰った後の生活のことを案ずる余裕などない。やはり自転車でのアフリカっていうのは難しい。調べるほどに難しい。シミュレーションでは、何とか生還だけはできるところまでは目処は付くものの、シミュレーションなんてあてにならない。アフリカは恐らくいくら調べても未知のものがいつまでも残り続ける。山なんかもある意味ではそうだろう。どんなに花や鳥のこと、石の組成、天気の傾向などを勉強しても、最後のところには予測など圧倒的に飲み込む自然がある。
アフリカの自然の強さはどうあっても我々人間には計り知れない。

いや、正確には、地球上のどの地域にも自然はあり、実のところ自然には強弱はない。
人間の方がどの程度のベクトルの向きで自然と向かうかの差だと思う。
分かりやすく言えば、ヨーロッパの石造りの家は自然を押さえ込もうとしたのに対して、日本の家屋は自然を受けて流すように作っている。ヨーロッパ家屋ではいかに壊れない家を作るかが肝になる。日本の家屋は風を受け流し、壊れるところは壊れてしまっても定期的に補修をしやすいように作っている。

広島県の厳島神社が典型的だ。
厳島には波が来る。海に面した社は、たえず波に破壊されるリスクを持つ。
波の驚異に対して、恐らくヨーロッパ人は強固な堤防を幾重にも作り、その内側に本殿を作っただろう。
一方、日本の厳島神社の実際は、波に壊される木を海の上に浮かべた。それも単なる木ではなく、波が穏やかな通常時には回廊として上を歩ける。通常の回廊ならば、基礎を作ってそれに回廊を固定する。しかし、厳島神社の回廊は単に基礎の上に乗せているので波が来れば動く。流されないようにだけひもみたいなものでくくっているだけだ。
ただし、このひものたるませ方が芸術だ。波動を効率的に減衰させられるように回廊の板同士にひもをつけている。

ああ、嘘だ。
ひもじゃない。
上下にだけ動くように回廊を置いているのだ。
丁度音楽プレイヤーなんかに出て来るニョキニョキ動く棒グラフみたい具合に動くようにして、波動の減衰を狙っている。
上下の動き幅の限界以上の波に対しては、回廊が破壊されてエネルギーを分散するようになっている。
なので回廊は台風の度に海に近い方から大きく壊れるのだが、本殿に近付くにつれて破壊が少なく、本殿の直近についてはほぼ無傷、本殿は全くの無傷となる。
ヨーロッパ式に強固に作った堤防の場合には一度想定外の強さの波にさらされて一部が欠損すれば蟻の穴から堤の崩れになる。
厳島神社の防波回廊は、最初から想定外の強さにさらされることを想定しているとも言える。
厳密なところは忘れてしまったのだが、厳島神社の防波システムは現代の科学さえも越えるほどに精密に幾重にも巡らされている。

日本人なので、日本の建築に贔屓したような書き方になってしまったが、ヨーロッパにも自然を受け入れる建築もある。むしろ、ヨーロッパの方が、受け入れざるを得なくなったときには潔い気もする。
モンサンミシェルだかなんだか名前をど忘れしたが、海の上の城だ。海面が高くなるとそこに続く道は沈んでしまって、海面が下がったときにのみ道が現れる。
まあ、駄目なときは駄目で良いか、なんてのは案外、日本よりもヨーロッパの方が潔い。
大陸的だと僕は思う。駄目になったら、しばらく居を移せば良い。
島国ではそうもいかない。

自然を受けようとするか、跳ね返そうとするか。
自然の強弱というイメージの問題は実のところ、受けか跳ね返すかの人間の構え方の度合いなんじゃなかろうか。
ただ、現在の人間では、受けるよりも跳ね返す方にトレンドはあるように見える。
先進国と途上国を比べれば、やはり先進国の方が優れている、何せ先に進んでい国と書くくらいなので、そういう認識なんだろう。先進国では自然を跳ね返す力が強い。途上国では受ける能力が高い。しかしながら、途上国が自然を受け流すのは、単に跳ね返せるだけの余裕がないから、やむを得ず受けているというのが、現在の人間の大多数の認識だ。

山小屋でも、冷凍技術やヘリコプターの進化、物資の軽量化などで、どんどんと自然を受けるよりも跳ね返すという傾向にある気がする。
それでも、そんな傾向は別段最近のことではなく、山小屋は山の中での人間にとっての貴重なオアシス、そのスポットだけでも自然を退けるゾーンというのは昔からのことなんだろうが。

受け流すか跳 ね返すかっていうのは、仕事や生活思想にも通ずるように思う。

まあ、長い目で見ればどちらが本当に良いんだか分からないけれど、人間全体のトレンドとしては跳ね返すの方だけれど、求められつつあるのは受け流すの方の気もする。

とある問題が生じたときに、力でねじ伏せるか、力を受け流すか。
どちらで対処するか。
どちらかだけでも駄目なんてのは、案外、スポーツなんかがよく示している。
代表的なのは柔道や合気道のように相手の力をいかに上手く使って、自分は出来る限り力を遣わず対処するかなんてものだろう。
ただ、だいたいのスポーツ、僕なんかは自転車が専門だけれど、人間の道具の中でも最も動力効率を進化させた自転車にしたって、昨今ではいかに重力や空力をうまく使って、前進を妨害する力を受け流して速く走るかという方に向いている。
野球にしても、いかに効率よく遠くに打球を飛ばすか、人力で無理くりぶっ飛ばすのではなく、地面の力を上手く体を介してバットへ伝達させて打つのか。なおかつ最も効率よく力を乗せやすい向きに向けて球を弾くかの技術なんかが進められているだろう。イチローなんかはそういう野球の仕方の先駆けだろう。
それでも、古い野球ファン的には、中村のりみたいにいかに強引にボールをぶっ叩いてひっぱってホームランに出来るか、伊良部なんかみたいにいかに高速で重い球で打者をねじ伏せられるかの力対力なんてやり方がやっぱり興奮するんだけれど。
他のスポーツについてはそこまで詳しくないけれど、恐らくほとんどのスポーツでそんな具合だろう。

人生に対していかに受け流すか、そしていかに美しく正面切ってぶったたけるか、そういうバランスってのは難しい。

不安になることもある。
でも、困った時にはどんどん世界を広げてしまうのが良いと思う。
困ったことが小さく見えるところまで。
小さくして、砂をかけるんじゃない。
小さく見えるところまで、ビジョンを広げて、長期的な大きな力になる方法で問題をさばくのが大事なんだろう。

昨日の続きになるけれど、そういう意味でもローマ人の物語は良い。
なんせ二千年以上なんていうスパンにまで人間の世界を引き延ばせる。
二千年先についてはぼんやり見るのさえ絶対に不可能にせよ、二千年前についてはある程度までなら見ることが出来る。もちろん、全てを正確にみることは難しいにせよ。
出来ないことに絶望するのではなく、出来ることを多く見付けると、出来なかったことで出来るようになることも増える。でも、気付いていなかった出来ないことも見えてくるから結局悩み自体はさほど減らないのだけれど。
でも、絶望すれば気付いていなかったことにさえ気付かない。

無知の知とは実によく出来た言葉だな、なんて思いつつ。

まあ、そんなこんな。

---------- 転送メッセージ ----------
From:
日付: 2016/07/02 21:51
件名: 受けるか跳ね返すか。
To: "にっき"
Cc:

時たま、ふと未来に不安を覚えることがある。
まあ、基本的には呑気に考えれるようにもなった。昔はだいたいいつも未来のことに不安だった。

未来のことが不安というと、残念なことにやはりお金のことを考えたりしてしまうのだ。
山小屋っていうのは半年間でだいたい百万円くらい稼げる場合が多い。一夏だけでも五十万円くらい。食費、住居費がかからないので、八割くらいは残せる。
普通の生活をしていれば月の手取りを20万円と少しくらいとしても、家賃が五万円に光熱費、携帯代、食費なんかを合わせると八〜十万円くらい、つまり半分くらいは消える。

八割残せて半分以下の年収か、通常の年収で五割しか残せないか。
単純に通常年収を100として残せる金額を計算すると。
山小屋=50×0.8=40。
通常=100×0.5=50。
通常年収を250と見積もると、通常のしている方が10%、つまり25万円ほど得をする。

現実には山小屋の方は働いていない半年の食費居住費なんかを考えないといけないのでさらに目減りするから、ざっくりだが15%ほどひくと仮定すると、35万円程は損をすることになる。

ただ、山小屋の方は半年間自由になる時間があると考えると、35万円を取るか、半年を取るか、価値観にもよるだろうが、イーブンにも見える。

まあ、年収300万になるほどの月収をもらえたことは今のところまだないんだけど、多分、30にならないくらいの人間はそんなもんだろう、年収にして250〜350万円くらいか。もちろん、友人にも一千万円稼いでいるやつもいるけれど、そんなのは例外だろう。そういうやつらは、何だかんだで寝る間も惜しんで全てを仕事に捧げている努力家だ。なかなか普通の人間だと30になる前に350万円もらえていれば十分過ぎるだろう。

少し脱線してしまうけれど、平均年収なんかはアレは個人の生活の上ではあまり参考にならない。というのも、二十台でも年収一千万プレイヤーはいくらかいるし、五百万円くらいならそれなりの数がいる。これは単に才能の差だ。でも、単純にお金が手に入りやすいかどうかという適正、才能と言うよりは天運なんて言葉の方が良かろうか。一千万プレイヤーにはそれはそれで悩みもあるし、年収二百万円の男にも悩みはある。同時に幸福もある。ただ、苦労と幸福をどちらにハイライトを当てられるかというのは人間力になる。金銭力とはまた違った能力だ。

さて、話を戻す。
自由になるお金は約25%、多く見積もっても40%ほどの差をもって、通常の仕事の方が多くなる。
対して、休日では、日数だけなら半年か100日かなので、通常の仕事は山小屋なんかの仕事の30%ほどしか休日はない。連休という観点で見るとさらに不利になる。

ここまでだけ考えると山小屋の仕事なんかは良いようにも見える。
金銭的に40%ほど損すると言っても金額に直して50万円ほど。山にいる間にはひもじい思いをすることはないので、案外金銭面のストレスは少なくも見える。

ただ、現実にはたいていの人間は40くらいまでは問題なく仕事もする。順当に行けば60までだ。
そこまでに収入も伸びる。
山の仕事に限らずとも、自由を選ぶ仕事なんていうのは伸びが少ない。
山で僕の十倍くらい仕事が出来る先輩の給料も僕の二倍もない。
それに対して通常の仕事だと、半年間の不労期間を考えない月収だけ考えても、年がそれなりになれば、僕の二倍以上の収入はある。

やはりいくらか先のことを考えると、今の暮らしというのは不安を覚えることもある。

まあ、そうは言っても、僕もかつて山の仕事をして、それから通常の仕事をして、改めての山の仕事に戻っているので、そのくらいのメリット、デメリットは分かっている。それでも、山の仕事をする方が人生全体を通せば魅力が深くなると感じたからこそ山に戻った。
それでも、やはり欲がわくのか、時々、平地の普通の仕事のことを考えることもある。

モンちゃんはかつて山にいたときの先輩だ。
モンちゃんは山で出会った女性と結婚して平地に戻って仕事を見付けた。結構条件の良い仕事らしく、先日会ったところ幸せそうにしていた。
モンちゃんは僕にはとても良くしてくれていたし、今もとても良くしてくれる。その上で、やはりずっとは山にはいられない。焦る必要はないにせよ、まだ若いうちに、出来るだけ早い良いきっかけがあれば平地の仕事についた方が良いとアドバイスをくれた。
モンちゃんは良かれと思って言ってくれたのだが、少々しこりの残るアドバイスだった。
ちなみにモンちゃんはモンちゃんなんていうかわいい字面に反して単なるおっさんである。

今年はアフリカに行くにせよ、その後のことはあまり考えていない。
もちろん、問題なく生還するつもりではいるけれど、仮に万が一で死んだとしても、文句は言うつもりもない。もちろん、死にたくないと叫んで何とかかんとか生還するのだろうが。生きるにせよ、死ぬにせよ、アフリカから帰った後の生活のことを案ずる余裕などない。やはり自転車でのアフリカっていうのは難しい。調べるほどに難しい。シミュレーションでは、何とか生還だけはできるところまでは目処は付くものの、シミュレーションなんてあてにならない。アフリカは恐らくいくら調べても未知のものがいつまでも残り続ける。山なんかもある意味ではそうだろう。どんなに花や鳥のこと、石の組成、天気の傾向などを勉強しても、最後のところには予測など圧倒的に飲み込む自然がある。
アフリカの自然の強さはどうあっても我々人間には計り知れない。

いや、正確には、地球上のどの地域にも自然はあり、実のところ自然には強弱はない。
人間の方がどの程度のベクトルの向きで自然と向かうかの差だと思う。
分かりやすく言えば、ヨーロッパの石造りの家は自然を押さえ込もうとしたのに対して、日本の家屋は自然を受けて流すように作っている。ヨーロッパ家屋ではいかに壊れない家を作るかが肝になる。日本の家屋は風を受け流し、壊れるところは壊れてしまっても定期的に補修をしやすいように作っている。

広島県の厳島神社が典型的だ。
厳島には波が来る。海に面した社は、たえず波に破壊されるリスクを持つ。
波の驚異に対して、恐らくヨーロッパ人は強固な堤防を幾重にも作り、その内側に本殿を作っただろう。
一方、日本の厳島神社の実際は、波に壊される木を海の上に浮かべた。それも単なる木ではなく、波が穏やかな通常時には回廊として上を歩ける。通常の回廊ならば、基礎を作ってそれに回廊を固定する。しかし、厳島神社の回廊は単に基礎の上に乗せているので波が来れば動く。流されないようにだけひもみたいなものでくくっているだけだ。
ただし、このひものたるませ方が芸術だ。波動を効率的に減衰させられるように回廊の板同士にひもをつけている。

ああ、嘘だ。
ひもじゃない。
上下にだけ動くように回廊を置いているのだ。
丁度音楽プレイヤーなんかに出て来るニョキニョキ動く棒グラフみたい具合に動くようにして、波動の減衰を狙っている。
上下の動き幅の限界以上の波に対しては、回廊が破壊されてエネルギーを分散するようになっている。
なので回廊は台風の度に海に近い方から大きく壊れるのだが、本殿に近付くにつれて破壊が少なく、本殿の直近についてはほぼ無傷、本殿は全くの無傷となる。
ヨーロッパ式に強固に作った堤防の場合には一度想定外の強さの波にさらされて一部が欠損すれば蟻の穴から堤の崩れになる。
厳島神社の防波回廊は、最初から想定外の強さにさらされることを想定しているとも言える。
厳密なところは忘れてしまったのだが、厳島神社の防波システムは現代の科学さえも越えるほどに精密に幾重にも巡らされている。

日本人なので、日本の建築に贔屓したような書き方になってしまったが、ヨーロッパにも自然を受け入れる建築もある。むしろ、ヨーロッパの方が、受け入れざるを得なくなったときには潔い気もする。
モンサンミシェルだかなんだか名前をど忘れしたが、海の上の城だ。海面が高くなるとそこに続く道は沈んでしまって、海面が下がったときにのみ道が現れる。
まあ、駄目なときは駄目で良いか、なんてのは案外、日本よりもヨーロッパの方が潔い。
大陸的だと僕は思う。駄目になったら、しばらく居を移せば良い。
島国ではそうもいかない。

自然を受けようとするか、跳ね返そうとするか。
自然の強弱というイメージの問題は実のところ、受けか跳ね返すかの人間の構え方の度合いなんじゃなかろうか。
ただ、現在の人間では、受けるよりも跳ね返す方にトレンドはあるように見える。
先進国と途上国を比べれば、やはり先進国の方が優れている、何せ先に進んでい国と書くくらいなので、そういう認識なんだろう。先進国では自然を跳ね返す力が強い。途上国では受ける能力が高い。しかしながら、途上国が自然を受け流すのは、単に跳ね返せるだけの余裕がないから、やむを得ず受けているというのが、現在の人間の大多数の認識だ。

山小屋でも、冷凍技術やヘリコプターの進化、物資の軽量化などで、どんどんと自然を受けるよりも跳ね返すという傾向にある気がする。
それでも、そんな傾向は別段最近のことではなく、山小屋は山の中での人間にとっての貴重なオアシス、そのスポットだけでも自然を退けるゾーンというのは昔からのことなんだろうが。

受け流すか跳 ね返すかっていうのは、仕事や生活思想にも通ずるように思う。

まあ、長い目で見ればどちらが本当に良いんだか分からないけれど、人間全体のトレンドとしては跳ね返すの方だけれど、求められつつあるのは受け流すの方の気もする。

とある問題が生じたときに、力でねじ伏せるか、力を受け流すか。
どちらで対処するか。
どちらかだけでも駄目なんてのは、案外、スポーツなんかがよく示している。
代表的なのは柔道や合気道のように相手の力をいかに上手く使って、自分は出来る限り力を遣わず対処するかなんてものだろう。
ただ、だいたいのスポーツ、僕なんかは自転車が専門だけれど、人間の道具の中でも最も動力効率を進化させた自転車にしたって、昨今ではいかに重力や空力をうまく使って、前進を妨害する力を受け流して速く走るかという方に向いている。
野球にしても、いかに効率よく遠くに打球を飛ばすか、人力で無理くりぶっ飛ばすのではなく、地面の力を上手く体を介してバットへ伝達させて打つのか。なおかつ最も効率よく力を乗せやすい向きに向けて球を弾くかの技術なんかが進められているだろう。イチローなんかはそういう野球の仕方の先駆けだろう。
それでも、古い野球ファン的には、中村のりみたいにいかに強引にボールをぶっ叩いてひっぱってホームランに出来るか、伊良部なんかみたいにいかに高速で重い球で打者をねじ伏せられるかの力対力なんてやり方がやっぱり興奮するんだけれど。
他のスポーツについてはそこまで詳しくないけれど、恐らくほとんどのスポーツでそんな具合だろう。

人生に対していかに受け流すか、そしていかに美しく正面切ってぶったたけるか、そういうバランスってのは難しい。

不安になることもある。
でも、困った時にはどんどん世界を広げてしまうのが良いと思う。
困ったことが小さく見えるところまで。
小さくして、砂をかけるんじゃない。
小さく見えるところまで、ビジョンを広げて、長期的な大きな力になる方法で問題をさばくのが大事なんだろう。

昨日の続きになるけれど、そういう意味でもローマ人の物語は良い。
なんせ二千年以上なんていうスパンにまで人間の世界を引き延ばせる。
二千年先についてはぼんやり見るのさえ絶対に不可能にせよ、二千年前についてはある程度までなら見ることが出来る。もちろん、全てを正確にみることは難しいにせよ。
出来ないことに絶望するのではなく、出来ることを多く見付けると、出来なかったことで出来るようになることも増える。でも、気付いていなかった出来ないことも見えてくるから結局悩み自体はさほど減らないのだけれど。
でも、絶望すれば気付いていなかったことにさえ気付かない。

無知の知とは実によく出来た言葉だな、なんて思いつつ。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 18:58| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月02日

大人の勉強。

七月一日。

今日は登山道の雪の整備をしたり、草刈りしたり。天気もよく楽しかった。

塩野七生のローマ人の物語は長い。
やっと紀元前300年頃に辿り着いた。ローマがイタリア半島を統一して、アフリカのカルタゴとポエニ戦役を始めた辺りだ。

歴史物というと、あとは吉川英治の三国志と司馬遼太郎をいくつかしか読んでないのだが、それと比べてみてもローマ人の物語は実に面白い。

三国志や坂の上の雲なんかもすさまじく面白いのだが、ストーリー性がありすぎる。ストーリー性というか、肉付けが多い。特に司馬遼太郎のものは司馬遼太郎の歴史観もあるし、あれこれ盛ってしまう。もちろん嘘を盛っているわけじゃないにせよ、エンタテイメントがありすぎる。それはそれで楽しいのだが。
三国志はそもそもに盛り盛りてんこ盛り、そんなインチキみたいに強すぎる武将いるわけないだろ、みたいな具合だけれど、司馬遼太郎のものよりは淡々としている。

ローマ人の物語は実に淡々としている。
誰かの武勇伝を語るわけではない。
単にローマ人の歴史をつづって、なぜローマが栄えたのか、ということを淡々と追っていくだけだ。
どういった点がその時代の他の国と違ったのか。史実から分かることのみを淡々とつづる。

そう聞くと面白くなさそうな気もするのだけれど、これがどうしてだか実に面白い。

一つにシヴィライゼーション的面白さなんだろう。
シヴィライゼーションというと、パソコンのゲームで、文明の発端から始めて文明を進歩させていくゲームだ。他の国と戦争もするし、鉄器などの技術や政治思想なども順に開発していく。

ローマという国はギリシャなんかと比べると発生が遅い。
しかし、どんどん成長して最終的には地中海の覇者になるらしい。その間に王政や共和政、帝政と政治形態も変わるらしい。まだ、カルタゴとの闘いの辺りだから帝政にはたどりついていないのだが。

ローマ人たちはその時代の中では少し変わった人々だった。人が変わっているというよりは、国が変わっているというのが正しいのかも知れないけれど。

淡々と。
二千年以上前の話を。
時々、はっとする。
現代の人々以上に賢いローマの人々の国の運営を感じさせられることがある。

軍事力が強いだけのスパルタが衰退したり、商業で栄えお金持ちのターラントも敗北したり。
アルキメデスやソクラテスなどもひょいと出て来たり。

なぜ面白いのか。
分からない。
多分、ローマという文明自体がとても魅力的なものだったのだろう。
それを変にあれこれ盛り付けずに、誰にでも分かりやすいように上手く整理して構成してつづっている塩野七生が上手いんだろう。

並行してルドルフ・シュタイナーも読んでいる。
シュタイナーは人智学だとか神秘主義なんかの昔のドイツ人のおじさんなのだが、超感覚的認識を手に入れるための悟りやらなんやらが書いてある。通常の物質を見るのではなく、それを超越した真実を見るためのうんたらかんたら。
別に物質的感覚を超越した認識を手に入れたいわけでもないのだけれど、まあ、面白そうなものは読んでみる。

シュタイナーの本は多分、平地で読んでいても、あまり面白くなかった。
山で読むと楽しい。
というのも、超感覚的認識を手に入れるには、いくつかの段階があるらしいのだが、生命が生まれたり死んだりする瞬間に触れるというのが大事らしい。植物なんかは良いそうな。石なんかも良いらしい。石は生命じゃないけれど。
とにかく何かのものに対して、正面からじっくり観察して考えるのが大事だそうな。
種が一つあるにしても、単に物質的に眺めるのでなく、それがいずれ芽を出し、花開くという力を蓄えている存在であることを意識してみると良いそうな。
そういうのは山の生活では実に良い。

あとは川端康成の山の音なんて読んでいるけれど。まあ、これはぼちぼち。
別に悪いわけでもない。さすがに川端康成だけあって文は上手い。描写なんかがちょくちょく素晴らしい。
でも、山の音は川端康成の作品の中では特別良いわけでもない。でも、まあ、さすが川端康成。特別良いわけじゃなくても、やはり文が上手いのでぼんやり読んでいて心が洗われる。

本というのはなかなか不思議なもので。
自分が知りたいと潜在的に考えている本を自動的に人間は選ぶようなところがあるらしい。
読んでいて、ふと、ああ、そういう考え方に触れたかったのだ、その世界観を欲しかったのだ、とか言った具合に。

そういうのは読んでみないことには分からない。本の要約だけでは分からない。人から聞いた感想だけでは分からない。
一冊の本を通して感じられることは、一冊の本を読み切らないと感じられない。

だから、読む前から自分の欲していることと、本の内容が合致しているかというのは分からない。
そもそも、自分が欲している何かっていうのは分からないものだ。
むしろ、読書し終わってから、なるほどこんなことを自分は求めていたのか、なんて具合で自分の欲求に気付いたりする。

ローマ人の物語は一度は読んでおいた方が良い本だろう。
ただ、長いし、少々退屈なところもあるので、なかなか読むタイミングっていうのは難しい。
若い頃に無理して読まなくても良い。
ローマ人の物語は、別段テストも何もない大人が読む、大人の歴史の勉強なのだ。
大人の勉強はテストもなければ、別に何に使うということもない。大人になってからの勉強って言うのは遊びだ。旅なんかにしたって、知らない世界をもっと知りたいという意味では大人の勉強だ。
大人の勉強は贅沢だ。
学生と違って、何かに矯正されてするわけではなく、純粋に何かを知りたいという知識欲求を満たすためにする。
そういう本をこれぞというタイミングで読めている。

不思議とシュタイナーなんかとマッチする。
シュタイナーの書く事は、ヘンテコなこともちょくちょくあるけれど、ローマ人の物語に出て来ること、歴史から学んで、こうあるべきだなんていう考え方なんかとマッチすることが多いのだ。

眠い。
まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 13:25| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする