2016年09月29日

自分が好きなもの。

雨が降っている。今年の紅葉はいまいち枯れている。それでも、まあ、やっぱり綺麗なんだけれど。

一応11月の頭まで山小屋の勤務だが、忙しい時期はもう終わっている。
あとはのんびりと小屋を越冬させるための準備をしていく。食料云々のアレコレやら、トイレのうんたらかんたら、雪で小屋が潰れないように支えを入れたり、窓にベニヤ板を打ち付けたり。
シーズンが終わる。

アフリカにするのか、スペインの巡礼にするんだか。
まあ、そんなことは考えてみても仕方がない。
なるようになる。
あれこれ考えるのは面倒くさい。
面倒くさいだけなら良いけれど、その先に何もない。

それでも、改めて考えていくと、アフリカを辞めるのも悪くない。
大事な友人を元気付けられるかもしれないということもあるし、それ以上に、二十代の間にヨーロッパを巡ってみるというのは悪くない。
アフリカは三ヶ月ちょっとで六十万円という予算だった。ざっくり言えば、航空券15万円、宿や食事などの生活費が月に7万円、キリマンジャロ10〜20万円という内訳だ。
これがスペインの場合、一ヶ月半程度だし、航空券も10万円しなくて、宿、食事も先進国と言えど十万円みていれば良かろうからトータルで20万円と半額以下である。友人にいくらか金を貸すとしたって、仮に全額貸したとしても、元の予算から考えればまだ20万円残る。
20万円あればヨーロッパを巡ることも出来る。
或いはスペインからネパールに向かってみても良い。航空券がいくらか高くなるにせよ、トレッキングをするには足りない金額でもカトマンズなどの町を歩いて、ポカラからちょっとしたハイキングをする程度の予算は組めるだろう。或いは、陸路でインドの方に向かってみるなんかも良いのかもしれない。

そういう普通のバックパッカーのような旅はしたことがないし、正直、そこまでの興味もなかったが、スペインのついでと言うなら楽しかろう。
単純にバックパッカーとチャリ、同じくらいの時間と金を使ってどっちをするかと聞かれれば、そりゃ、チャリがしたいというだけのことなので、チャリがないなら、バックパッカーだって楽しいと思う。
或いはカトマンズで安いチャリを買ってインドまでのんびり走ってみても良いかもしれない。割と人間力の求められるハードなルートだろうけれど、アフリカやパタゴニアみたいに砂漠だとか長い区間の無人地帯は少ないので、装備なんかにはそこまで気を使わなくても良かろう。

改めて枠を外してみると、自由な気はしてくる。
やりたいことはあるにせよ、それにあまりにこだわり過ぎるのも良くない。それ以外には意味がないなんて考え方をするのは危険だ。

多分、そういうのは旅に限らず人生なんかでもそうで、枠を外してみると、結構何でも自由なのかもしれない。
たとえば、チャリで旅をする日々と普通の仕事をする日々。
枠を外してみれば、どちらもとても自由で面白いのかもしれない。

山小屋で思うのは、楽しいことをひねり出せる力ってのは大事だということだ。
山小屋ってのは何もない。
コンビニは歩いて三から五時間、そこからバスで一時間と、実に長い、新幹線なら東京大阪を往復できるだけの時間をかけて初めてコンビニに行ける。
不便な場所ではある。
実際、先日のヘリ番の時にふもとの町の寮に携帯の充電器を忘れてきてしまった。仲間から借りられたから良かったものの、もし余っているものがなかったら、次、ふもとに下りるまでは買うこともどうにも出来なかった。
不便は不便だ。

そういう中で何をするか。
僕のやり方は歩く、ウクレレ、読書、筋トレ、少し昼寝みたいな感じだ。
でも、中には歩くのも同じ景色は飽きたし、楽器は弾かない、本も読まない、筋トレもしない、だから眠り続ける、そんな人もいる。
もちろん、それはそれで良い。

ただ、あくまで僕の考え方だけれども。
半年間の生活の中の余暇の時間を全て眠って過ごすってのは、何とももったいない。
別に散歩してウクレレ弾いたって何がどうなるなんてわけでもない。それでも、眠り続けているよりは楽しいことが多かろう。
眠っていると疲れは取れるけれども、楽しいことは起きない。

何もない環境の中で、遊びをひねり出していると、本当に自分の好きなものっていうものを感じられる。
町でいろいろある中だと、つい目移りしてしまうし、売る側も商売なので魅力的にいろいろなものを提案してくれる。おもしろそうなもので溢れている。でも、それは本当に自分の方から能動的に欲しいものかと言えば微妙だ。
何もないところでは人間力がものを言う。

それでも、最近は山でもスマホが使えてしまう。
スマホは便利だ。
音楽も聴けるし、本もいくらでも持ち運べる。映画だって。
スマホが一つあれば暇つぶしに困らない。
でも、それだと、自分が本当に好きなことってのは分からないと思う。

ま、そんなこんな。
posted by ちょろり at 06:57| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月28日

アフリカなのか。

はてさて、悩んでいる。
アフリカ問題。
アフリカはやめて友人とスペインのサンティアゴデコンポステーラの巡礼にするか。

そりゃ、悩む。
好きだった仕事である自転車屋を辞めて山小屋に来ているのは給料の悪さなんかもあるにせよ、やはりアフリカのためだ。
なぜ、そんなにアフリカなのか。単に面白そうだからというだけだ。
自転車でやってみたいルートと言えば、あとは厳冬期北海道くらいだろう。雪景色の地平線を延々と途方もなく自転車で行く。これは抜群だろう。
それに対してアフリカというと、まあ、馬鹿みたいに暑くて、病気のリスクもあって、謎の民族の村なんかで寝たりして、象とか歩いてたりして。まあ、想像するだけでもウキウキする。

サンティアゴデコンポステーラの場合は多分一人だと、まあ、どちらでも良い。それなりに楽しそうだけれど、巡礼路、すでに確立されてしまっているルートだ。安い宿なども充実しているようだ。千キロを一ヶ月半ほどで歩く。まあ、面白いは面白いのだが、いかんせんチャリでパタゴニアを走ったときの興奮と比較してしまうと、やっぱりイージー過ぎる。
アフリカはパタゴニアの興奮以上の日々があるだろう。

やはり好きだった仕事を辞めるだけのこだわりをアフリカには持っている。
生きるか死ぬか。闘いでもあるし、偉大なる世界に受け入れてもらえるかどうかでもある。

不思議と登山にはそういう感情は抱かない。登山は単に最高に景色の素晴らしいお散歩なのだ。
多分、登山には生活がないからなのかもしれない。生活とはまったく離れた遊び。旅チャリって言うのは、生活がある。生活を丸ごと自転車に積んで走る。
サンティアゴデコンポステーラの場合も、生活を背負って歩くっていうところがある。

それでも、ウン十万円という金と一ヶ月以上の時間を突っ込んで友達と遊ぶ、これは多分、人生でそう何回も出来るタイミングはなかろう。
そりゃ、間違いなく面白いだろう。

何とも悩みどころではある。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 12:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月26日

アフリカは辞めるかもしれません。

今日は読者の方に謝らないといけなくなってしまいました。

今年のアフリカは辞めることにするかもしれません。
アフリカをやるかもしれないけれど、しない線が強い。アフリカをしないとなると自転車じゃなくて歩きの旅をすることになります。
サンティアゴデコンポステーラっていうインターナショナルお遍路みたいなやつなんですけど、それを一人じゃなくて、友人と二人で。
一人で出来るアフリカよりも、今しか出来ない、その友人とじゃないとやる意味の無い旅を。

まだ、一週間程度しか考え込んでいないので、確定ではなく、しかも、その決定は友人に任せることにしたので、もしかするとアフリカの方をやることになるかもしれません。
ただ、人に話しても良いなと思う程度には僕の中で心に決まったことなので。
いろんな人の期待を裏切ることになる中で、僕の中ではこの日記の読者というのはとても大事にしていますし、真面目で勤勉に僕の文を好いてくれている人たちだと思うので、山の親友と、平地の親友、それぞれ一人ずつに話した後にこれを書きます。

昔からの友人が窮地に立ってしまっていたことに、先日の帰省で気付くことになりました。
僕の思っている以上に過酷な環境の中にいる、そう僕には感じられました。
その辺りのことは先日の日記にも書いたのですが、当然、だれも悪意はないし、むしろ周囲の人々は懸命に生きた中で偶然生まれてしまったエアポケット、つらいエアポケットの中に彼はいると僕には思いました。タイミングや掛け合わせによっては、そのエアポケットは何ともつらくはないものでしょうが、彼にはひどくつらいエアポケット、彼に限らず、きっと僕がその中にいればつらいと感じるかもしれない、いや、僕の場合は根っこの部分が阿呆なので都合の悪いところも良いところも程良く忘れて上手いことやれるかもしれないのですが、それでも、僕も心が弱っているときなら間違いなく抜け出せないエアポケット、本当のところ彼はどう思っているのか、僕には分かりませんし、恐らく彼自身にも自分の思っているところが分からない、そんな複雑なエアポケットというのは、人間がみな善意で正しいと思うことをやろうとしたときに生まれてしまう、戦争なんかが分かりやすいのですが、ゲバラの活動なんかもそう、強い正しい気持ちが生んでしまう悲しいエアポケットというのはどうしたってあるんじゃないかなと僕は考えています。

僕には昔、一人の女の友人がいて、その人はやっぱりうつ病、それもかなりきついものを抱えてしまっていたんですが、僕は最善を尽くしたつもりでしたが、結果はその女の子にも僕にも、そして周囲の誰にも上手くいかなかったと映るものになってしまった、そんな過去があります。
その時のことを考えると、最善を尽くしたつもりになっていた自分と、もっとああすればと思う自分、そして、そんな風に考えることはその人に対して失礼、あたかも自分が神になったように自分なら何とか出来たんじゃないかなんてとんでもない勘違いをしていたんじゃないか、いろんな気持ちが回ります。
それが、多分、先日の夢だったのでしょうか、その女の子が山から下りた僕の前に立って交際を申し込んでくれたのですが、ひどく自分は混乱する、その人の夢なんて、かつては何度か見ることもあったにせよ、今では全く縁もないところだったが急に沸いてきた。

冷酷なようですが、そういう反省を抱きながら、自分はその女の子にはそれで良かったとも思います。大事には考えていたものの、後悔をすることがあれど、年月が経てば仕方がなかったことなのだと納得できる、言い方は悪いですが、結果としてはその人は僕にとってその程度の縁だったんじゃないかな、あくまで結果論にせよ、そう思えるところもあります。

今、問題になってる友人について、十年後にその女の子と同じような事を考えたら、多分、僕はもうどうにもならない、死ぬとか生きるとかは分からないですが、死ぬかもしれないし、死んだように生きるようになってしまうかもしれないし、今の自分とは縁を切った自分にならざるを得ないかもしれない、そう感じたんです。

しかしながら、アフリカ。
アフリカは大したことのないように話すこともありますが、僕の夢のひとつでした。正確に言うなら20代のまだ心を叩いて強く作れる間に、自分の判断で、自分の努力で到達出来たら自分は何とか上手く生きてこれてたんだなと思えるだろう、そんな人間になりたいな、そういう対象でした。
そして、そういう自分の考え方を賛同して応援してくれた人が多くいる、これは支えです。人のためにアフリカに行くんじゃない、でも、その人たちの期待に応えられる人間になりたいというのはやはりあって、ただ、人の期待を裏切れなくてアフリカなんてのは一番みっともないし、自転車にも失礼だから、そういう風には考えないようにしようと思っていたところがあったのかもしれません。そこのところの真偽は深層心理なのではっきりとは分かりません。
それでも、やはりこの夏、山で考えているうちにそういうみっともない気持ちも少なからずあると認めざるをえない気持ちになりました。山といえのは不思議なもので、我々にはコントロール出来ない大きなものがやはり住んでいるのかもしれません。

そう言った背景は順に説明してきたものの、なんとも言い訳がましい。

単純なところとしては、アフリカをやめてまで、一緒に行きたい、しかも今しかタイミングはない、そういう旅は間違いなく素晴らしい、面白い。

それで、アフリカは辞めるかもしれない。
そういう次第なのです。

ただ、これは僕の判断では決められないところです。
その男が心から行きたいとあらば、行きます。
そんなにでもないというなら、行きません。アフリカに行きます。
判断をその男に譲る、卑怯なやり方かもしれませんが、僕の方ではとても良い旅のプランだと思うにせよ、その前提はその男が良いと感じて行きたいと本当に思えているというのがあります。

やっぱり旅は時間も金も掛かります。
ひとつの旅をするにはそれ相応のリスクがあると思います。
別段、旅は難しいものではないにせよ、旅の行き先、いや、旅をするかどうかの選択はとても命を使う事だと思います。もちろん、失敗、いや、旅の失敗などは厳密にはないのかもしれませんが、それでもベストの旅か、そうじゃない旅かというのはあるでしょう。
それは当然、その友人にとってもそうだし、僕にとってもそうです。
ですから、僕の気持ちも当然大事ながら、彼の気持ちも大事になるんです。
別段、難しい旅ではないでしょう、アフリカと比べれば随分と整った旅、ある視点から見ればぬるい旅なのかもしれません。
同時に健脚の僕にはそういうものでも、一か月で約千キロを歩くというのは普通の人には尋常ではなくしんどいでしょう。

偽善の心というよりは、彼が元気でかっこよく生き続けてくれるというのは、僕がこれから先も上手くやっていけるかのとても大事なポイント、言うなれば利己的なものなのかもしれません。
単なる僕のワガママ、彼に対して勝手に尊敬、期待を抱いているから、彼がかっこよくタフに生きてくれていれば、僕の方も間違いない。
彼が元気をなくした元々の原因もやはりそういう周囲の勝手な期待なのかもしれません。
それでも、僕の方は相変わらず、その男はやっぱり抜群のセンスと優しさを持っている、だからアイツはかっこよくあってもらわないと困る、正直、そんな旅なんて小さなことでアイツがかっこよく生きられるんだか分からない、でも、どうしたって僕はそっちの方向でやりたい。

まあ、分かりません。
山でもうしばらく考えてみようと思いますし、彼も考えて答えを出してもらわないと分かりません。

それでも、アフリカはやめる可能性が高いと思います。
僕が良いなと思うものは、そいつも良いなと感じるものなんじゃないかなと思いますから、今年の冬は二人でのんびりスペインを巡礼して遊んでいるんじゃないかなと思います。

別にアフリカは来年でも良い。
いや、死ぬまでに行けば良い。
20代のうちという夢は果たせないかもしれない、それでも年齢などやっぱり深く考える必要のないもの、時計とカレンダーがなければはっきりとは分からなくなってしまうような概念。それより生きている人間、生きている現在の感覚。

アフリカを支えにやってきた一年だったので、それをころりと変えるのは、何とも気が引ける以上に自分を信じられなくなってしまうところもあります。

でも、風の吹くままに、そっちに自分の脚で進む。そういった僕の哲学にしっくり来るのは、友人との巡礼だと思います。そっちの方がよほど自分らしい。

これからしようとする旅の結果などは分からない方が良いというのも僕の考えではありますが、友人との巡礼の旅はおそらく僕の考えている通りの間違いなく素晴らしいものになるんじゃないかなと思います。
多分、それはつまらないきっかけでズレてしまった時計を合わせることが出来る、今選択出来る中での唯一の方法じゃないかな、と。

アフリカを期待して下さっていた人たちには本当に申し訳なく思いますが、そういう風に、この今、下山一ヶ月前のところで強く感じてしまったら、僕の性格の上では、もうどうにも出来ないでしょう。

楽しさ、面白さ、義の立ち方、今しか出来ないという有限性、ほとんどのところでアフリカ以上の魅力を感じてしまっている。
いや、そんなことはないか。
比較すべきものではない。
やはりアフリカにある楽しさは、その巡礼の中にはありません。義の立ち方だって、ある点ではずれている。有限性にしたって、いずれ行けるかもしれないと行きたい旅を先延ばしにしてしまっている。偶然ながら、スペインの言葉はある程度出来る。道や文化だってアフリカほどの未知なところはない。想像外のものは圧倒的に少ない。
それでも、やっぱり巡礼の方になるかな、と。

そうやって書いていくと、やっぱり人間として生きている限り、人間との接点にこそ人間は多くを感じるのかもしれない、そして、そういう相手になれる人間との出会いは人生の中でもとても限られていて、それを最大限に引き出せるタイミングというのはさらに少ない。
自然は偉大だけれど、やっぱり人間ってのは偉大なのかもしれない。
そう思います。

あくまで、まだ分からない話です。
アフリカに行くかもしれません。
アフリカに行くとなれば、これまでの迷いも全て断ち切って行けるでしょうし、巡礼に行くとなっても、やはり全ての迷いを断ち切って改めてアフリカに行ける。来年にするか、いつにするか、もしかすると老人になってからかもしれない、今のところからは縁の掛け合わせのタイミングは分からないにせよ、とても良い形で行けるようになると思います。

自分の中ではとても良いひらめき、良い旅のプランかと思っているにせよ、やはりアフリカの方を、自転車の方を期待して下さっていた人たちには謝ります。本当に申し訳ないです。

まあ、そんなこんなです。
posted by ちょろり at 23:20| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月23日

故郷とは遠くにありて?

たったの三年ほど故郷を離れていたはずがひどく長い時間が過ぎたようにいろんなことが変わっているように感じられた。
仕事が見付からず鬱になりかけている友人がいて心配で、それは帰省する理由としては何となく都合が良かった。別段、帰省するのに理由など必要もないのだが、用事のないのに帰るほど近くもなかった。かと言って、遠いわけでもないのだが、一つ何か用事がないと帰りたいとは思えなかった。

友人の鬱は会ってみれば、さほどにひどいものでもなかった。
ただ、自分も故郷に帰れば、同じように鬱になるかもしれないと思った。
周りが立派すぎた。
立派と言っても特別立派なわけでもない。普通にサラリーマンをして、奥さんを取ったというだけのことである。
ただ、それが随分と立派なことに自分には見えた。
自分の場合、今年の春に家を引き払い、所有品を一通り処分した。
所有が鬱陶しくなった。
自分の所有品など、そう大したものは多くないにせよ、本やCDといった愛着のあったものも全て捨てた。
ーーそんなものは実家にでも送っておけば良かろう。
そうも言われたが捨てた。
自転車だけはいずれ困るかもしれない気がして実家に送った。

全て処分してみると、やはり本には困った。
たえず何か次に読む本が無いのは生活すべてがそわそわして良くなかった。持っていても、さほど読むわけでもなく、気が向いたときに少しぱらぱらとはぐるくらいなのだが、いざ持っていないと生活全部が浮ついているような感じがして随分困った。

それ以外は全て捨てて良かったと概ね満足している。読み物をするために電子書籍リーダーと、書き物をするのに小さいパソコンとウクレレを一本買うと概ね生活が落ち着いた。
何もない山の暮らしにも不便は思わなかった。

そういう自分には故郷の友人たちは随分と立派に見えた。
奥さんとの新生活のために全ての家具を新調し、車もみんなそれなりに良いものに乗っていた。
立派な所有物に身を固めていたし、それがしっくりと落ち着いている、似合っていた。

鬱の友人は仕事もなかったし、立派な所有物もなかった。彼の持ち物はどれも古くなっていた。別段みすぼらしいことなどないが、他の立派な友人たちと比べると、鬱の友人には立派さみたいなものは感じられなかった。
かくいう自分はペンキに汚れたズボンに、少しだぼだぼの登山シャツ、レインハット、無精ヒゲなので、はっきり言って全くのルンペン、金に少し余裕があって風呂に入って洗濯をしただけのルンペンのような格好だったので、立派さなどほど遠い。

故郷に帰れば自分も立派に振る舞いたいだろうと思う。
親も心配する。
一緒に友人とどこかに行くにしても毎回一人だけルンペン服を着ているのはどこか申し訳ない。

ーーオレはね、彼に申し訳がないんだ。彼はオレにとって特別な人間、友達の中でも彼は特別なんだ。彼が困っている中で、オレの方は結婚をしてサラリーマンをしている。彼に何かしてあげたいけれど、もう今のオレの立場では何も出来ない。彼がつらいことはオレにはとても理解できる。彼はオレには特別な人間だから。でも、そんなことを申し訳なく思う必要がないことは分かるし、最終的には当人の問題っていうことも分かる。でも、オレはどうしたって彼に申し訳ないという気持ちになってしまうんだ。
そんな風に話す友人もいた。
ーーそんなこと気にする必要はなかろうて。別に僕は彼はアレで何も問題ないと思うけどな。仕事なんかしたってしなくたって、飯が食えて眠って生きてりゃ、まあ、何だって良いじゃないの。
ーーまったくその通りだけどね。でも、オレには気になってしまうのさ。
その友人も故郷を離れて暮らしている。偶然仕事の出張で帰ってきていたそうだ。

自分の場合、仕事が見付かるか考えてみた。まあ、探せば何か見付かるだろうが、あの立派な友人たちと同等には立てない気がする。そんなことは気にする必要はないのだが。
まあ、それでも、何とかやっていける気はする。ただ、故郷に帰りたくなるような生活かと言えば、そうでもないというのが本音だろう。

故郷とは遠くにありて思うもの。
故郷の土は二度とは踏まぬ。
まあ、そんなフレーズにもどこか納得してしまうような年頃なんだろう。

それでも、やはり故郷に帰ってきて、話をしておきたいと思った友人とあっておけたのは良かったと思う。

正直、苦い思いも少なからずあった。
町のいろんなものが変わっていて、友人たちの生活も変わっていた。
それは正直苦い気持ちがした。
もちろん、友人たち自身は変わってはいない。やっぱり良いやつらだなと思う。町も同様にいろんな部分が変わってはいたけれど、町の本質みたいな部分、町自身は変わってはいなかった。

変化を悲しんでもどうにもならない。
時間が経てば何かが変わる。
良い方、悪い方ということはなかろう。
時間が進むのに応じて、その時間にあるべき形に変わっていく。
自分が愛した故郷の町は、あくまでその昔の時の形の町であって、変わってしまった町には戸惑いも出る。好きだったものが変わってしまっている、変化した結果もっと好きな形になることもあるにせよ、それでも、かつて愛した故郷とは変わった町だ。

鬱の友人は徐々に良くなりつつあるそうだが、何ともツラい日々だろうと思う。

僕の考えの一つに、町にはいくらかホームレスが必要だし、知り合いにはいくらかニートが必要だというのがある。
人間の集団があれば、いろんな人間が現れる、その中には集団全体の利益に反するように見える人間も必ず発生する、それはとても自然なことだ。
ニートやホームレスがいるというのは本来自然なことなのだ。
それを排除しよう、なくしてしまうとバランスが悪くなる。

故郷の友はみんな帰省を喜んでくれた。
会って楽しくもあったし、ありがたいと思った。
どうともやり切れないような気持ちもあった。

それでも、やはりこの町は自分の故郷なんだと思った。
故郷は遠くにありて思うものなのかもしれない。
けれど、故郷に帰ってきて良かったと思う。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 03:22| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月22日

ら抜き言葉。

ら抜き言葉うんぬんの問題をニュースで眺める。
年寄りは揚げ足を取るのが好きだ。

ら抜き言葉の成立は文法的なものではない。西日本の方言で仕方がないことをしゃーないなどと言うように日常生活で口頭で使う言葉は、便利なように変わっていく。
口語と文語の線は絶えず口語に押されていく。
口語の方が圧倒的に使う頻度が高い。
文を書くのと喋るのでは喋る方が圧倒的に早い。
正しいか正しくないかの問題は使用する割合で、ある一定値より使用率が低くなれば、それは今はもう使いませんよ、となる。今の時代にフォーマルな場でゴザルなどと語尾に付けたらまずい。もちろん、ござるも意味は通じる。

それに何よりも口語で使う言葉の方が現代のニュアンスを表現しやすいのもある。
ヤバいなんていう言葉が分かりやすいけれど、ヤバいのニュアンスは現代を生きる人間には非常に多くの情報を伝える。良くないというフレーズでは伝わらない以上の情報だ。
もちろん、ヤバいという言葉のニュアンスがよく分からないという高齢の人も中にはいるかもしれない。
ただ、それは一種の勉強不足と言っても良いのかもしれない。言葉はいつだって変化し続けている。

問題は口語に押されて新しく正しい言葉になるラインはどこかという問題だろう。
ら抜き言葉はラインを越えているか。
全ての人に意味が伝わるという点で考えればラインは越えているんだろう。
でも、それじゃ関西弁も全ての人に意味が伝わるから正しい正式な文語としての日本語なのかって話になると怪しい。関西弁はやはり関西弁、あくまで一地方の方言という地位であり、公式の文書には使えない。

ら抜き言葉はどこまで許容されるべきか。
一口に正しいか間違っているかじゃなく、もう少し厳密に「日常会話としては」「文章の上では」「フォーマルな場でのスピーチで話す言葉としては」などの場合分けが必要なんだけれど。
やたらめったらと、一口に正しいか間違っているか、聞いていて気持ち悪いとか、まあ、雑だ。
何かと雑だ。
日本人は場合分けが下手くそだ。

まあ、別にどうでも良いんだけど。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 10:52| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月21日

人間の常識についてのこと。

暑いのが苦手になる。
冷静に考えれば、当然なんだけれど、朝が10度ほどになる土地から残暑のまだある、瀬戸内の凪で湿気た土地に来れば。

故郷は二年ぶりくらいになると思っていたんだけれど、本当のところはもう少し最近に来た気もする。調べればいつ来たのか分かるんだけれど、別段、
明確にする必要もないことなので、そのままに分からない。

大事な友人が元気が無いと言う、いや、本人はそうは言わないにせよ、長い付き合いで、そろそろ会っておいた方がお互いに良い頃合いかもしれないと思って、
本来は故郷には下山の後に帰るだけのつもりが予定を早めることになった。
やっぱり友人は思っていた以上にくたびれていた。
話でも表情でも何ら問題はないのだけれども、その男とはギターを二人で適当に鳴らすっていうのが面白いので、
いつからだか適当にギターを並べる習慣があるんだけれど、何となく音にも元気が無かったし、明らかに長く弾くのがつらそうにしていた。
こちらが勘弁してくれと思うところまで延々と弾く男が、そんな具合なのはよほど良くない。
別段、その男の生活に悪いところはないと僕は思っている。
掛け合わせが上手く行っていない時期らしく、今、男には仕事がないというのが表面的なところにせよ、そんなものは掛け合わせ、順番の問題なだけであって、
本人が人間していれば問題はないのだ、そんな風に僕は思っているが、本人は真面目な人間なので凄く気にしている。
確かにアカの他人であれば、ヤバいと呼ぶべき状況に彼はあるのかもしれないけれど、僕は勝手に彼のことは天才だと思ってきたし、
今も疑うところ無く天才だと思っているので、心配するところなど根本的には無いと考えている。

平たい話にすると。
結婚の話と変わらない。
縁がつながれば、結婚をすれば良い。結婚をしないからと言って人間として問題がある人間かと言えば、そんなことはない。
もしかすると、現在は結婚する人間として問題があるからこそ、結婚できないというのはあり得るにせよ、長い目で考えると、
別に今掛け合わせが悪いからというだけで、その人間はどうにもいけないなんてことはない。
むしろ、縁も無いのに、何かにせかされたり、事情というものに後押しされて結婚してしまう方がよほど厄介で、そんなのはみんなが迷惑する。
縁というのもいろんな形があるので、すぐ離婚するので悪いなんてこともないこともある。すぐ離婚したって、本当に縁があって結婚することもある。
離婚になるのも含めて、それは神様が降ろして下さった縁なるものだということもある。

まあ、結婚の話、男女の話は長くなるので割愛するけれども、言いたいところとしては、仕事だってしていないからと言って必ずしも悪いことはない。
GDPやらなんやらは人間としての問題じゃなく、国家としての問題なので別の話だ。前提に、人間は集団で生き物でアリ、
今の人間の大多数が所属している集団である社会の利益にならない、そんなのは、やはり、前提ありきの話だ。

前提の問題というのを考えるのが下手な人は多い。
どこにまで前提を置くべきか、まあ、難しい問題ではある。
それにしたって、自分の常識こそ世界の常識なんて人は常識なんて言うのはあくまで仮定であり前提であるということを忘れてしまっていて、
予想と定理と定義と仮定なんかをきちんと把握できていない。
本来的には自分の中での常識とは、あくまで自分が生きていくために必要に応じて構築するものであって、
社会という点ではどのように社会と自分の関係性を作っているかで個体差はあるにせよ、人間としての常識とは全く違うのが当たり前だ。
個人の常識とは必要に応じた形に作り込むのが当たり前で、問題は自分の常識を人間としての常識だと混同してしまう人が少なからずいる。

前提が長くなりつつある。
まあ、僕はそんな考え方なので、仕事をしない=まずいなんてことはないと思う。

んー、ねむい。
そんなこんな、続くのかな?
posted by ちょろり at 11:16| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

人間の常識についてのこと。

暑いのが苦手になる。
冷静に考えれば、当然なんだけれど、朝が10度ほどになる土地から残暑のまだある、瀬戸内の凪で湿気た土地に来れば。

故郷は二年ぶりくらいになると思っていたんだけれど、本当のところはもう少し最近に来た気もする。調べればいつ来たのか分かるんだけれど、別段、明確にする必要もないことなので、そのままに分からない。

大事な友人が元気が無いと言う、いや、本人はそうは言わないにせよ、長い付き合いで、そろそろ会っておいた方がお互いに良い頃合いかもしれないと思って、本来は故郷には下山の後に帰るだけのつもりが予定を早めることになった。
やっぱり友人は思っていた以上にくたびれていた。
話でも表情でも何ら問題はないのだけれども、その男とはギターを二人で適当に鳴らすっていうのが面白いので、いつからだか適当にギターを並べる習慣があるんだけれど、何となく音にも元気が無かったし、明らかに長く弾くのがつらそうにしていた。こちらが勘弁してくれと思うところまで延々と弾く男が、そんな具合なのはよほど良くない。
別段、その男の生活に悪いところはないと僕は思っている。
掛け合わせが上手く行っていない時期らしく、今、男には仕事がないというのが表面的なところにせよ、そんなものは掛け合わせ、順番の問題なだけであって、本人が人間していれば問題はないのだ、そんな風に僕は思っているが、本人は真面目な人間なので凄く気にしている。
確かにアカの他人であれば、ヤバいと呼ぶべき状況に彼はあるのかもしれないけれど、僕は勝手に彼のことは天才だと思ってきたし、今も疑うところ無く天才だと思っているので、心配するところなど根本的には無いと考えている。

平たい話にすると。
結婚の話と変わらない。
縁がつながれば、結婚をすれば良い。結婚をしないからと言って人間として問題がある人間かと言えば、そんなことはない。
もしかすると、現在は結婚する人間として問題があるからこそ、結婚できないというのはあり得るにせよ、長い目で考えると、別に今掛け合わせが悪いからというだけで、その人間はどうにもいけないなんてことはない。
むしろ、縁も無いのに、何かにせかされたり、事情というものに後押しされて結婚してしまう方がよほど厄介で、そんなのはみんなが迷惑する。
縁というのもいろんな形があるので、すぐ離婚するので悪いなんてこともないこともある。すぐ離婚したって、本当に縁があって結婚することもある。離婚になるのも含めて、それは神様が降ろして下さった縁なるものだということもある。

まあ、結婚の話、男女の話は長くなるので割愛するけれども、言いたいところとしては、仕事だってしていないからと言って必ずしも悪いことはない。
GDPやらなんやらは人間としての問題じゃなく、国家としての問題なので別の話だ。前提に、人間は集団で生き物でアリ、今の人間の大多数が所属している集団である社会の利益にならない、そんなのは、やはり、前提ありきの話だ。

前提の問題というのを考えるのが下手な人は多い。
どこにまで前提を置くべきか、まあ、難しい問題ではある。
それにしたって、自分の常識こそ世界の常識なんて人は常識なんて言うのはあくまで仮定であり前提であるということを忘れてしまっていて、予想と定理と定義と仮定なんかをきちんと把握できていない。
本来的には自分の中での常識とは、あくまで自分が生きていくために必要に応じて構築するものであって、社会という点ではどのように社会と自分の関係性を作っているかで個体差はあるにせよ、人間としての常識とは全く違うのが当たり前だ。
個人の常識とは必要に応じた形に作り込むのが当たり前で、問題は自分の常識を人間としての常識だと混同してしまう人が少なからずいる。

前提が長くなりつつある。
まあ、僕はそんな考え方なので、仕事をしない=まずいなんてことはないと思う。

んー、ねむい。
そんなこんな、続くのかな?
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2016年09月19日

心に書かれているから。

某外国人の友人に最近絶望してしまってるんだということを酒の勢いで相談した。
「大丈夫だよ、心に書いてあるから」

友人はあまり裕福な国の人間ではない。少数民族の男だ。
彼らには彼らの神がある。正確に言うと神ではなく仏教系なので仏様なのだが、君も仏教だろう、だったら同じ神だよ、大丈夫、もちろん頑張らないといけないけど、絶望しなくても良い。上手くいかないこともある。でも、君の心にはきちんと書いてある、神様が君の心に書いている、君に来たるべきものを、君にも来たるべきものがいずれ必ず来る。誰の心にもその人に来たるべきものが書かれているんだ。
でも、上手く行かないからって元気をなくしてしまっては、仕事や自分の好きなことが出来なくなる。一番悪いのはスーサイド、ハンギング、首を吊ってしまう若者なんかもいるけれど、それは絶対に駄目。
待っていれば、日々頑張っていれば、必ずあなたの元にあなたの心に書かれたものがやって来てくれる。

生まれて初めて神をここまで身近に感じたかもしれない。
内容としてはありきたりのものかもしれない。
でも、彼にそう諭されると、しみじみと神を感じた。
彼は神を語れる男だった。

ご都合主義的な神様かもしれない。
それでも、彼自身、今のような状況というのは自分がしようと思ってしたというより、ただ心に書かれているから、巡り合わせで現在、こうして生きているのだと言う。説得力があった。
彼のことはオープンに書けない。ビザの問題なんかがあるのだ。そう、彼はビザを無理してまで今日を生きている。彼の苦労は我々日本人には想像も出来ないほどのものだろう。
ただ、彼は心に書かれているから、現在の目の前のことを一生懸命に頑張る。

心配ない、誰の心にも、その人に来たるべきものが書かれているから。

まあ、そんなこんな。
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2016年09月18日

自分の義か?

何だか久し振りに絶望している。
絶望は実に厄介だ。
全ての色がなくなる。

どうも疲れを抜くのが難しい。
家がない。一人でゆっくりゴロゴロするっていうのが出来ない。
東京の部屋は引き払ってしまった。
実家はどこか帰りにくいところがある。
家族との不和かと言えばそれもそうだが、家族も含め、一部の友人たちにも言われる「そろそろ故郷に戻って落ち着いたらどうだ」という優しさに心痛む。
多分だけれど、僕に帰る場所はない。故郷には違いないが、僕の居場所はもうあの町にはない。
そういう点では、東京の方が幾分か帰る居場所はあるように思う。
でも、東京は長く住んでいると心がにごるような気持ちがする。
山小屋はその点では実に良い。山小屋はとてもクリーンだ。ただ、ずっと山小屋かと考えるとどこか躊躇うところもある。

それにしたって、今日の雨はひどく降りやがる。

そうして考えていると、久し振りに大学を辞めた頃を思い出す。
世界はどこも自分のことを受け入れてくれない。
ただ、それは実のところ勘違いで、拒絶しているのは世界の方ではなく自分の方だった。
恐らくそれは今も同じだろう。
故郷に帰るべき場所がないのではなく、自分の方が拒絶している。

昔、カラマーゾフの兄弟を読んで、その中に人生は30歳までだ、といったようなフレーズがあった気がする。カラマーゾフの次男、イワン氏のセリフだったように思う。そのフレーズを20代前半の僕は信じた。20代の終わりの僕もそのフレーズに納得している。しかし、そのフレーズを20代の後半の僕が納得してしまうと、本当にアフリカ旅行から帰ったら、じきに死なねばならないということになる。

年齢の問題なんてのは、実のところ大して考えなくて良い問題だ。
生まれてから何年経ったかしか示していない数字だ。
残り何年生きられるかという数字の方は重要だが、そっちは分からない。
死ぬ歳なんて、事故や急病なんかの突発的なものを除けば、仮に年寄りになるまで生きると仮定して、60から80くらいで死ぬ人が多いだろうから、まあ、20年の誤差だ。
死ぬまでの年数は明確に分からないにせよ、20年程度は許容誤差とも言える。
10歳程度の年齢差であれば、全く考える必要はないのだろう。20代の前半か後半かなど、これから先をどう生きるか考える上で実に些細な誤差だろう。

それでも、年齢がいくらか気になるのは、社会という集団に帰属して生きているからこそだ。
社会という集団の中で生きるには金が必要で、そのためには働かねばならない。雇ってもらう時に、重要な尺度になるのが年齢だ。

人生は30までだ、の問題は根深い。
かつてはずっと年上だったイワン氏も、今ではすっかり同年代の友となった。
年齢など気にしなくとも良いとは言えど、ずっと上の仰ぎ見た年上の人間の悩みと同年代の友の悩みは、やはり別物だ。

絶望は厄介だ。
絶望の世界ではどんなものも色を失っている。どんなに良いものでもだ。

昔、きつい鬱病になった女の子がいた。最後は自宅の二階から飛び降りてーー二階から飛び降りたって死ぬわけもなかろうにーー両足を骨折して、整形外科ならぬ精神科へと入院した。その見舞いに行ったぎり、もう会っていない。その子に関して、もう助からないと思った。死んだ方が幸福だろうと思った。根本の考えが絶望に食われてしまえば、もうどうにもならない。
生きている方が良い、生きてさえいれば何か良いことがあるという優しき人々の声は、多分、女の子にとって、生きている世界に自分の居場所がないと感じさせたんじゃなかろうか。

雨のせいだか、何のせいだか。
ひどく自信を失っていて、絶望が芋づる式に降ってきやがる。
家も無ければ、話せる友も減ってしまった。
だけれど、それが現実だろう。自分の力で自分の人生は何とかせねばならない。
故郷に帰って落ち着こうが、生きてさえいれば良いことがあろうが、どちらを選択するか、どちらを良しとするかは他人ではなく自分だ。
社会の義を立てるか、自分の義を立てるか。
そのくらい、そろそろ決めないといけないということなんだろう。
老人と海だな。

まあ、そんなこんな。
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2016年09月16日

ヘリ番のヤマ。

とりあえず、ヘリ番一段落。
もちろん、この先もいくらかヘリはあるけれど、荷揚げの数もグッと減る。
やっと何とかいろいろ覚えてきて、楽しさを感じる余裕も出来てきた。余裕が出来てくると本当に楽しい仕事だ。

何だかこれまでどの仕事も大変だったけれど、山小屋のヘリ番っていうのも本当に大変だった。
自転車屋もものすごく大変だった。
まず自転車屋ってのは、ものすごくマニアックな知識が必要だし、それに加え、正しい知識だけをお客に伝えていてはいけない。
お客が何を求めているかを察知して会話を展開して、なおかつ正しい知識の上に会話を構築しないといけない。
いくらかの嘘、コミュニケーションを円滑にする嘘は絶対に必要だが、事実じゃないことを言っては絶対にいけない。
それが販売面で、イジル方、メカニック方面もやはり物凄く難しかった。自分の自転車のメンテナンスと、人の自転車のメンテナンスは難しさが全く別格。
正直、まあ、かなりつらいことも多かった。
それでも、好きな仕事だったのだ、つらさよりもウキウキすることが多かった。

ヘリ番も、まあ、厄介だった。
そもそもに普通の人間はヘリ番っていうフレーズを知らない。
「ヘリ番って何する仕事なの?」
と聞かれると、端的に説明しづらい。
山小屋に荷揚げする荷物を作って、ヘリに吊るだけという仕事でもない。
非常に複合的にアレコレあって、それらをクリアして初めて荷物が円滑に飛ぶ。
朝四時に起きて2トントラックを上高地線を運転して、各小屋の代表、ヘリコプターの会社と上手くコミュニケーションを取って。自分の小屋の荷物だけ上がればいいわけじゃない、上高地のヘリポートから飛ばす全ての荷物が事故無く無事にあがって、その日のヘリ番が成功したと言える。
ヘリポートには水道もトイレもない。まあ、何せ山だから。そんなわけでフォークリフトも当然ないし、何百キロなどをはかる重量計もない。
ヘリに吊れる荷物の重量は決まっている。
さらに、ヘリコプターという繊細な乗り物は雲や風に弱い、それを気象の複雑な山岳で飛ばす。同じ3000メートルの標高の小屋でも、周辺の地形で、朝を過ぎると西の谷からガス(雲)が沸いてきて飛べなくなる小屋もあれば、逆に昼を過ぎると東の盆地からわいてくるガスで飛べなくなる小屋もある。そして、必ずしもそう決まっているかと言うとそんなわけでもない。とにかく天気は複雑だ。上の小屋は晴れているのに、ヘリポートが雲にかかって飛べないこともあれば、その逆もある。

まあ、インターネットなんかをもう少し活用して効率化する余地もある気はするけれど、でも、働いていると改めて、確かにこの昔ながらのやり方がトータルで考えると一番らしいな、と言う気もしてくる。

まあ、最初は分からない。
今も全ては分からないが、最初は特に本当に何も分からない。
ヘリコプターで荷物を上げる方法もよく分からないし、山小屋にとってのヘリであげる荷物の意味も分からない。
荷物と一口に言っても、野菜と売品のお菓子、客食で出す冷凍食品、というのでは全く意味が違う。野菜を上げ損ねると小屋で働く人間みんなが困る。お菓子は一見ただの売品、プラスで売り上げになれば良い程度のものに思えるかもしれないが、登山や自転車など、長時間の運動では補給食は必要不可欠なものだ。冷凍食品がないと、お客さんは一日歩いた疲れを癒やせない。
「え、冷凍食品なの?!ガッカリ!」
と思う人もいるかもしれないけれど、ある程度のクオリティの味をいてでも出せて、何より食中毒の心配がないというのはとても重要なのだ。

ヘリで上げる荷物には全てに意味がある。本当に必要なものしか存在しない。
余り、どっちでも良いモノは存在しない。山小屋で人間が生活をキープするために不可欠なもの。

そして、ヘリポートの荷揚げに集まるメンバー全員が、それぞれの小屋を背負って集まっている。

まあ、とにかく特殊ですごく複雑な仕事なのだ。

それも何とか今シーズンのヤマは越えられた。
ヤマを越えられた今になって、やっと、やり方が分かって来た。面白さを感じられる余裕が出来てきた。

面白い仕事をやらせてもらえるってのは楽しいし、ありがたいことだ。
なんだがんだで、面白くも何ともない仕事をせざるを得ない人間の方が世の中多い。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 00:12| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月13日

便利になりすぎる。

山小屋に骨を埋めるのかどうかなんてことを考えてみている。
冬の仕事が少しばかりあって、あとはのんびりして良いというなら山小屋も良い。ただ、そんな半年の仕事っていうのはくたびれる。山小屋にしてもそうだが、季節労働ってのは割とくたびれる。言い方は悪いが、いかんせん、人は耐えず流動的なものなので、半分使い捨てみたいなところもある。次のシーズン来るんだか分からない。
まあ、それでも、山小屋は良い。
面倒なことやらなんやらいろいろあるけれど、とにかく静かで良い。喧騒から離れている。

冬の問題は国民保険やら年金だ。
別段、その辺がなければ、贅沢さえしなければ暮らしていける程度の金は山ってのは作れる。ざっくりと金額を書けば半年で150万円くらい稼げて、なおかつ半年間は住み込みなので食費などは必要ない。そうは言っても家を借りれば、住んでなくても当然金は掛かる。年金やらなんやら考えると、日本では息をしてるだけでも月に10万円くらいは掛かる。
当然、息以外もするから、もう少し掛かる。冬の間も50万円くらいは稼ぎたい。
若い内は金に困れば少しアルバイトをするっていうのでも良いけれど、段々と雇ってくれるところもなくなってくる。
だから、冬に働くなら、毎年同じところで働くなりして、雇ってくれるところを確保しないといけない。
そうなると、結局、ほぼ一年中働くことになる。
年に二か月だけ自転車屋さんで働くなんて都合の良いことが出来れば良いけれど、なかなかそんな都合のいい話はない。
じゃあ、書き物をして金を作るかという話になると、僕の書くものは特にお金にはならない。

そうやってトータルで考えていくと一年中自転車屋さんで働いている方が良いのかもしれない。
僕としては単に年に三か月ほど休みが欲しいというだけのことなんだが、一か月でも良いけど、なかなかそういう仕事は日本にはない。

ないものは作れば良い。
年に一か月だけ休む自転車屋さん。
でも、まあ、現実問題として、一か月休んでやっていけるような呑気な自営業ってのはなかなか存在しない。

まあ、アフリカとネパールには行ってみたいので、その二つをやるまではとりあえず一年の内半分がお休みの山のお仕事が良いんだろう。
それが終われば改めてどうするか考えてみれば良い。
その中で感じるものやら、得られるものもあろうし、出来るようになることもあるかもしれない。

まあ、さほど焦らなくても人生いろいろあるので、まあ、それなりに何かが起きるんだろう。
どうしようもなくなったら、その時はその時でくたばるしかない。
問題は案外、人間、そう簡単にあっさりくたばらないってことか。
あっさりくたばるなら、さほど考えることもないのか。

便利になって、あっさりくたばらなくなって、多分、そのせいでみんな鬱になったり自殺したりするのかもしれない。
先進国に鬱病やら自殺が多いってのはそういうことかもしれない。
変に自分の命に振り回される。
便利になりすぎるのも厄介だ。

何も無くて不便で静かってのは案外気持ちいい。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 06:13| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする