2016年10月31日

我慢の出来ない民族。

我慢が出来ない人間が圧倒的マジョリティーとなっている。
これこそが今の日本の最たる問題だろうと感じる。

なぜそうも多く子日本人が我慢が出来なくなったのか。
そもそも我慢が出来ていないってのはどういうことなのか。

一口に言えば、コンビニだ。
コンビニがないと不便と感じてしまうほどにコンビニが増えた。
深夜でも開いていて当然、店員の態度が悪いと「仕事をナメている」「接客業にあるまじき」などと平気で感じてしまう。

「しゃーない」って言わなくなった。
「しゃーない」は関西のみならず西日本では広く使われる「仕方ない」がなまった言い方だが、「仕方ない」というフレーズが持つ深刻さを緩めて、軽い感じで問題点を受け流してしまうようなニュアンスがあると思う。

なぜ「しゃーない」は減ってしまったのか。
一つに、問題の深刻化だろう。昔は「しゃーない」と言えた問題も、それで解決出来なくなった。分かりやすい具体例としては原発問題だ。もはや「しゃーない」では済ませられない。いかなる痛みを伴っても根本的解決に取り組まざるを得ない状況になった。
もちろん、元々に原発には「しゃーない」で済ませられない問題はあったにせよ、「次の代替エネルギーが見付かるまでのツナギ」という考えもあったし、具体的な大惨事はチェルノブイリがあるにせよ、チェルノブイリはソ連、謎に包まれた共産国が無理をして引き起こしてしまった問題という認識もあった。
日本がやらかすのはまずかった。
さらに言えば、インターネットによる知識の普及の速度、昔は原子力なんかほとんどの人が原理を知らなかったし、専門書を開くのは厄介だったが、今は、「原子力
仕組み」と打てば、一般人にも分かりやすくまとめられた図と文が、電車の中でも検索できてしまう。

そう、二つ目の問題はそれだ。
人々が便利なことにつかりすぎた。
ある意味で文明が進みすぎた。

この現象は古今東西どこにでも発生する現象なのだが。
急速に豊かになると、どこかしらでツケが回ってくる。
相変わらず「ローマ人の物語」をのんびり遅読でぱらぱら進めているが、ローマの場合には紀元前2世紀にこの問題が起きている。
この時期にローマは一気に強い軍事力を得ることに成功し、地中海沿岸の国の多くを属州にしている。それまでのローマはイタリアの中だけだったのが、それが急に地中海沿岸のほとんどの国を従えてしまった。
ここで、貧富の差が大きく出てしまったのだ。なぜ貧富の差が出たかとかは、長くなるので、「ローマ人の物語」をゆっくり読んで頂くとする。

貧富の差が大きくなると、道徳的に悪いだけじゃなく、実質的に国家、社会は困るのだ。
一口に言えば、貧困層は富裕層を憎む。
今、国が進めているTPPなんかで考えると分かりやすいかもしれない。アジア圏の貿易の自由化を進めると、国内の農家は間違いなく困る。しかし、当然ながら人間の食べる量は変わらない。誰かが、農作物を売って儲けている。
もちろん、アジアの農産物輸出強国も儲かることになるが、実のところ、一番うまみを取るのは貿易屋、商社だ。
間違いなく貧富の差を広めることになる。
当然だが、農家は困る。一生懸命に野菜を作っているのに、ヒドく損を喰わされるからだ。
国内の農業従事者の数はきちんと調べていないからどの程度かは知らないけれど、彼らがTPPのあおりで失業などすると、国家にとって深刻な打撃になる。

しかし、TPPは早かれ遅かれ批准するだろう。
馬鹿な議員が国会だかで、「ホームセンターで安くものが買えて便利なのはなぜか、自由競争があるからで、農業も本来、そういう競争の中で進化すべきなんだ」みたいなことを言っていて、こんなに頭の悪いやつが国政をやっているなんて実にカスみたいな国だと思った。
安くものが買えて便利なのは、あくまで消費者だけだ。
高すぎる値で売れてありがたいのは流通、販売側だけだ。
モノは適正な価格で売られるべきだ。
仮に安くするにしたって段階を踏まないと多くのビジネスが潰れてしまう。

急に値段が大きく変わるのは危険すぎる。
そんなことも分からないやつは阿呆だ。

でも、その感覚、安くなるほどみんなハッピーなんて考えは実にマジョリティーになってしまっている。
確かに。
全てのモノが得体が知れなくても気にならない時代だ。身の回りの半分以上のモノが石油製品だ。
石油製品はものすごく安価に水漏れしない容器が作れる。
とにかく加工の楽さ、値段の安さ。
そういう物質がなんの疑問もなく使われている世界では、安い方が正義なのだ。

ねむい。
そんなこんな。
posted by ちょろり at 07:06| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月30日

孤高の天才。

昼過ぎにまさやさんから電話があって、話している内に、これから東京に行くから飲もうという話になった。

まさやさんは孤高の天才だ。
僕も、自分で言うのも何だけれど、まあまあそれなりに物覚えが良い。多分、今でも半年勉強すれば国立大学には入れると思う。もちろん、昔の知識がどの程度残ってるかなんて問題はあるだろうけれど。
まあ、普通の人よりは物覚えはいくらか良かろうと思う。自分で言うのも何だけど。

それでも、まさやさんの圧倒的天才さには遙かに及ばない。
多分、ほとんどの人があの手の天才に会ったことはないと思う。
想像を絶する天才だ。

天才の要素っていうのはいくつかある。
僕の高校にもポロポロ天才系の危ない人間がいたけれど、それはまたまさやさんとは違う方向だ。よくいる天才だ。
よくいる天才は、例えば、もらった教科書の中身を本当に30分で一通り全て覚える。完全に覚えるとなると見たことはないけれど、だいたいのことは一通り覚えてしまうやつくらいならいる。
そういうやつは次には理解するために読む。
高校くらいまでの勉強をする上で先に一通りを広く俯瞰しておけるのは非常に有利だ。
大学の学問となると、さすがに難しいにせよ。
よくいる天才は短時間で効率よくやる。

まさやさんの天才は、もはや驚異だ。
まず時間を五倍に引き延ばす。本当に眠らない。眠らなくても人間死なないとは言えど、やっぱりよほどのことがないと普通はそういうことは出来ない。生きていると人生に一回二回くらいすることはあるにせよ。まさやさんはそれをいつでも何回でもやる。
しかも、それをやり慣れているもんだから、かなりの集中力をキープしながらやる。

単純に五倍の時間を二倍の集中力と考えれば十倍だ。
ただ、何事も習得するときには同時に忘れる。短期間で覚えられる方が忘れるロスは少ない。
もちろん、長期間で覚えることの方が長く残りやすいのだけれども。
それでも、一つのことを一回習得するという点で言えば短期間でやってしまった方が、実際に必要な時間数は短くて済む。

単純計算でも常人の十倍以上なのだ。

にわかには信じられないだろうが、そういう天才が実在する。

そういう天才は孤高になってしまう。
彼の中ではあくまで普通なことは、普通の人には全く理解出来ない。
孤高というと良いイメージだけれど、正確には孤独だ。
まさやさんはひどく孤独だと思う。
僕は文章を書くので、言葉が分かることが多い。文を書くためにアレコレ雑学も備えている。多分、まさやさんにとって僕は物凄く珍しい、言葉を理解してくれる人間なのかのしれない。

別に僕の場合は天才ってコトはないにせよ、そういう孤独っていうのは分かる。
簡単にいってしまえば、世の中にはドストエフスキーを読んでない人の方が多いのだ。
別にドストエフスキーを読んでるから素晴らしい人間なんてことは言わないにしたって、事実としてドストエフスキーを面白いと思って読んでいる人間っていうのは決して多くない。昔はどうだか知らないけれど、少なくとも僕の世代ではドストエフスキーを読んで面白いとか衝撃を受けている人間って言うのは少ない。

ドストエフスキーより良い小説って言うのは本当に少ないと思う。
どちらが良いかどうかなんて競うものじゃないし、かくいう僕もそんなにたくさん読んでるわけでもないのだけれど、トルストイにいたってはあっさり折れているくらいなので、それでも、ドストエフスキー、あるいはそれに類する名著を読んでいない人っていうのは物凄く多い。

まあ、本って言うのは、読む人読まない人がいるのは理解するにしたって、千円ほどで誰でも手に入るもので読まない、やっぱりそういう人の価値観っていうのは少々理解しにくい。

もちろん、本くらいのことなら、まあ、別に気にせずともやっていける。
ただ、生きていく上で、全く理解できないことっていうのは驚くほど多い。
結婚や異性の話にしたって、ちょっと僕には分かりにくい世界の話だ。もちろん、結婚の良さなんかは分かるにせよ、それで本当に他の全てを投げる、まあ、正直理解出来ない。まあ、結婚する人間の方がノーマルといえばそうなのかもしれないけれど、単に僕には理解しがたい。

どっちが良いか悪いかではなく、少数の感性を持つ人間はどうしても孤独になってしまう。

孤独の困るところは、何かを人と話したいと思っても話すに話せない。
もう、理解できない遠くの世界に行ってしまっている。話す気になれば話せるけれど、理解してもらえない。
まあ、僕の方も、子供の話なんかされても理解出来ない。
ふーん、よく分からないけれど、まあ、たしかにかわいいねー、としか思えない。何万円も出してスタジオアリスに行く気持ちなど全く分からない。スタジオアリスで写真を撮るなら、その値段でどこか景色の良い場所でも連れて行ってやるとか、何かおもちゃの楽器でも買ってやって一緒に遊ぶとか。
まあ、理解できないことなんていくらでもある。

でも、僕の方が理解できなくても、世の中にはスタジオアリスの話を心から共有できる人なんてのはいっぱいいる。ポケモンゴーの話だって然り。
ただ、ドストエフスキーの話を出来る人間は少ない。

まさやさんの孤独は、ドストエフスキーどころではない。
ドストエフスキーはたとえ話で出ているだけで、ドストエフスキーを読んでいる人が全くいなくとも僕は全く困らず生きてはいける。

一人きりで宇宙人の中に放り込まれたら、これはつらい。
孤独だ。

ああ、嘘だ。
案外、言語の通じない、どうしても仕方ない場所ってのは孤独は孤独でも、割り切れるし、まあ、それはそれで楽しい。
しかし、同じ日本人、歳もさほど変わらない、そんな人たちに話し掛けてもサッパリ何も伝わらない世界。
これは孤独だ。

まあ、そんな孤独は別に慣れている。
なんとでも上手くやっていける。
でも、やはり孤独ってのは心に積み重なる。

まさやさんの孤独ってのは言いようがない。
もちろん、まさやさんは上手くやっている。
だけれど、やはりあの人は孤独だ。
天才の孤独だ。

東京に戻りたいと思うことがある。
ひとつに自転車屋という仕事はやはり好きだということ、
そして、まさやさんがいるということだ。

ひどい言い方になるけれど、僕は馬鹿やセンスの悪い人間とは同じ空気を吸いたくない。
なぜってこともない。
単に嫌なのだ。
馬鹿とセンスの悪い人は嫌だ。

アフリカをやったらその後はどうだろう。
面白いセンスの良い人間たちと過ごせるだろうか。
まさやさんみたいな凄い人間、天才と過ごしたい。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 18:02| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月27日

やっぱり女の子は。

僕は女の子が好きらしい。

風俗なんて言ったりすれば、心に泥も付いて、女の人で心を惑うようなこともなくなるかと思ったけれど、やっぱり性欲と女の子が好きってのは全くの別物らしい。

今年は久々に鬱病だった女の子のことを思い出すことが多かった。いくらかは大人になったのか、昔のようにまでは傷付かなかったにせよ、やっぱりつらかった。
やはりその女の子は、あれこれつらくとも思い出してかなしくなってしまう程度には僕の人生の中で大事な女の人だったのだろう。

女の子を好きってのはよく分からない。
どこから先が好きってのも分からないし、全くそっちの方向にないはずなのに変に思い出してしばらくその子のことを考え込んでしまう、そんな人もある。

理屈で言えば、僕の生き方だと、女の人とは縁を遠くした方が良いと思う。
でも、やっぱり好きになってしまうし、そして、好きになると頑張れる。

今シーズン最後のヘリが終わった。
小屋を閉めるために少しだけ山に戻って。
いよいよ、自転車の人に戻れる。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 21:49| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月26日

愛と金。

「鬱病なんてのは、特定の都合の良い女が出来れば治る。自分の気持ちを汲んでくれて、それなりに都合良くセックスもさせてくれて、話も出来て。金なんかも心配しなくて良いような。そういう相手が出来ればOK。これは女でも同じ。だから、鬱のやつには紹介できる女がいれば何とかしてやれるけど、そうじゃなかったら駄目、無理」
そんな話もまさや先生とした。
なんとも雑な話だなとは思ったが、改めて考えると実に納得する。

この話でミソなのはやはり異性だ。
しかも、友達ではいけない。
セックスありきだ。
そして、金もだ。

セックスと金。
何とも下品な話だが、愛と金は大事だ。
生きていく上で自分を愛してくれる人間がいて、金もそれなりにあれば、とりあえずはほとんどのことがOKだろう。
金があれば仕事だってしなくたって良いわけだし、それでも愛してくれて、金を稼いで来てくれる女がいれば、確かに専業主夫でやって行ける。

でも、本当にそうなのか、って話もある。
僕が以前結婚云々と騒いだ相手は看護婦で稼ぎも良かったし、当時は僕を愛してもくれた。
でも、案外、僕は元気じゃなかった。
やっぱり相手に稼いで来てもらうっていうのは、どこか引っ掛かるものがあったし、向こうもそういうのは嫌だった。
いろいろな問題はあったけれど、そういう僕の収入の問題や、セックスがいまいち相性が悪かったという愛の問題やら。
やっぱり愛と金の問題は難しいのだ。

でも、その女だけで考えれば金も愛もそれなりにある女だった。僕と二人で合わせると相性が悪くて、金も裏目に出たし、愛も上手くつながらなかった。

女に愛と金があっても何とかならないこともある。

逆を言えば、愛も金もいまいちでも上手く行くこともある。
結婚している知人でも、セックスはマンネリ化していて、金も割と給料が安いってやつは少なからずいる。
でも、それなりに上手く行く。

まあ、いったん結婚まで行ってしまえば、案外何とかなるものかもしれない。

いや、でも、セックスが良くなくて離婚したやつも知っている。
もちろん、セックス以外にも離婚の理由はあるんだろうけれど、彼はセックスに関してはしょっちゅう文句を言っていた。

たしかに。
セックスが上手く行っていれば、それなりの理由がない限り男女ってのは上手く行く。
やはり人間も動物なんだなと。

さて、鬱のやつには愛と金が必要問題だ。

結婚に関しては分からないけれど、確かに鬱のやつには女が良いのかもしれない。
鬱の時には性欲なんかも落ちるけれど、逆を言えば性欲の方から復活すればそれなりに全体的な元気も出て来るかもしれない。

昔、鬱病だった女の子は、出会い系で手当たり次第に男に抱かれるようになったのも改めて考えるとなるほどと思う。
その女の子は、「満たされないことは分かっているけれど、どうしても寂しくて誰かに抱かれたくなるの」と言っていた。「僕じゃ駄目なのかい?」と聞くと、「だって君は大事な友達だから」と。
まあ、愛の問題とは実に難しい。

それでも、確かにその女の子にも優しくしてくれる都合の良い男がいれば元気になったのかもしれない。
しかし、それなら僕を都合の良い男にしてしまえば良かったのに、なんて思う。その女の子なら、今の僕はともかく、当時の僕なら割と簡単にそういう人形に出来たんじゃないかなと思う。
実際、3日に1回死にたい電話を延々と聞いてあげるなんていうサンドバッグ振りだった。
なぜ性に関してだけは僕をサンドバッグにしなかったのだろう。
良き友人として僕を大事にしてくれたとか、いくつかの事情もあるにしたって、考えるほどに不思議な気がする。
単に僕には男としての価値はなかっただけなのかもしれないが。それにしたって謎だ。

そう考えると愛と金という問題ではないのか。
でも、愛と金でそれなりのことは解決する気もするんだけど。
なかなかに難しい。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 22:37| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

孤高の天才。

昼過ぎにまさやさんから電話があって、話している内に、これから東京に行くから飲もうという話になった。

まさやさんは孤高の天才だ。
僕も、自分で言うのも何だけれど、まあまあそれなりに物覚えが良い。多分、今でも半年勉強すれば国立大学には入れると思う。もちろん、昔の知識がどの程度残ってるかなんて問題はあるだろうけれど。
まあ、普通の人よりは物覚えはいくらか良かろうと思う。自分で言うのも何だけど。

それでも、まさやさんの圧倒的天才さには遙かに及ばない。
多分、ほとんどの人があの手の天才に会ったことはないと思う。
想像を絶する天才だ。

天才の要素っていうのはいくつかある。
僕の高校にもポロポロ天才系の危ない人間がいたけれど、それはまたまさやさんとは違う方向だ。よくいる天才だ。
よくいる天才は、例えば、もらった教科書の中身を本当に30分で一通り全て覚える。完全に覚えるとなると見たことはないけれど、だいたいのことは一通り覚えてしまうやつくらいならいる。
そういうやつは次には理解するために読む。
高校くらいまでの勉強をする上で先に一通りを広く俯瞰しておけるのは非常に有利だ。
大学の学問となると、さすがに難しいにせよ。
よくいる天才は短時間で効率よくやる。

まさやさんの天才は、もはや驚異だ。
まず時間を五倍に引き延ばす。本当に眠らない。眠らなくても人間死なないとは言えど、やっぱりよほどのことがないと普通はそういうことは出来ない。生きていると人生に一回二回くらいすることはあるにせよ。まさやさんはそれをいつでも何回でもやる。
しかも、それをやり慣れているもんだから、かなりの集中力をキープしながらやる。

単純に五倍の時間を二倍の集中力と考えれば十倍だ。
ただ、何事も習得するときには同時に忘れる。短期間で覚えられる方が忘れるロスは少ない。
もちろん、長期間で覚えることの方が長く残りやすいのだけれども。
それでも、一つのことを一回習得するという点で言えば短期間でやってしまった方が、実際に必要な時間数は短くて済む。

単純計算でも常人の十倍以上なのだ。

にわかには信じられないだろうが、そういう天才が実在する。

そういう天才は孤高になってしまう。
彼の中ではあくまで普通なことは、普通の人には全く理解出来ない。
孤高というと良いイメージだけれど、正確には孤独だ。
まさやさんはひどく孤独だと思う。
僕は文章を書くので、言葉が分かることが多い。文を書くためにアレコレ雑学も備えている。多分、まさやさんにとって僕は物凄く珍しい、言葉を理解してくれる人間なのかのしれない。

別に僕の場合は天才ってコトはないにせよ、そういう孤独っていうのは分かる。
簡単にいってしまえば、世の中にはドストエフスキーを読んでない人の方が多いのだ。
別にドストエフスキーを読んでるから素晴らしい人間なんてことは言わないにしたって、事実としてドストエフスキーを面白いと思って読んでいる人間っていうのは決して多くない。昔はどうだか知らないけれど、少なくとも僕の世代ではドストエフスキーを読んで面白いとか衝撃を受けている人間って言うのは少ない。

ドストエフスキーより良い小説って言うのは本当に少ないと思う。
どちらが良いかどうかなんて競うものじゃないし、かくいう僕もそんなにたくさん読んでるわけでもないのだけれど、トルストイにいたってはあっさり折れているくらいなので、それでも、ドストエフスキー、あるいはそれに類する名著を読んでいない人っていうのは物凄く多い。

まあ、本って言うのは、読む人読まない人がいるのは理解するにしたって、千円ほどで誰でも手に入るもので読まない、やっぱりそういう人の価値観っていうのは少々理解しにくい。

もちろん、本くらいのことなら、まあ、別に気にせずともやっていける。
ただ、生きていく上で、全く理解できないことっていうのは驚くほど多い。
結婚や異性の話にしたって、ちょっと僕には分かりにくい世界の話だ。もちろん、結婚の良さなんかは分かるにせよ、それで本当に他の全てを投げる、まあ、正直理解出来ない。まあ、結婚する人間の方がノーマルといえばそうなのかもしれないけれど、単に僕には理解しがたい。

どっちが良いか悪いかではなく、少数の感性を持つ人間はどうしても孤独になってしまう。

孤独の困るところは、何かを人と話したいと思っても話すに話せない。
もう、理解できない遠くの世界に行ってしまっている。話す気になれば話せるけれど、理解してもらえない。
まあ、僕の方も、子供の話なんかされても理解出来ない。
ふーん、よく分からないけれど、まあ、たしかにかわいいねー、としか思えない。何万円も出してスタジオアリスに行く気持ちなど全く分からない。スタジオアリスで写真を撮るなら、その値段でどこか景色の良い場所でも連れて行ってやるとか、何かおもちゃの楽器でも買ってやって一緒に遊ぶとか。
まあ、理解できないことなんていくらでもある。

でも、僕の方が理解できなくても、世の中にはスタジオアリスの話を心から共有できる人なんてのはいっぱいいる。ポケモンゴーの話だって然り。
ただ、ドストエフスキーの話を出来る人間は少ない。

まさやさんの孤独は、ドストエフスキーどころではない。
ドストエフスキーはたとえ話で出ているだけで、ドストエフスキーを読んでいる人が全くいなくとも僕は全く困らず生きてはいける。

一人きりで宇宙人の中に放り込まれたら、これはつらい。
孤独だ。

ああ、嘘だ。
案外、言語の通じない、どうしても仕方ない場所ってのは孤独は孤独でも、割り切れるし、まあ、それはそれで楽しい。
しかし、同じ日本人、歳もさほど変わらない、そんな人たちに話し掛けてもサッパリ何も伝わらない世界。
これは孤独だ。

まあ、そんな孤独は別に慣れている。
なんとでも上手くやっていける。
でも、やはり孤独ってのは心に積み重なる。

まさやさんの孤独ってのは言いようがない。
もちろん、まさやさんは上手くやっている。
だけれど、やはりあの人は孤独だ。
天才の孤独だ。

東京に戻りたいと思うことがある。
ひとつに自転車屋という仕事はやはり好きだということ、
そして、まさやさんがいるということだ。

ひどい言い方になるけれど、僕は馬鹿やセンスの悪い人間とは同じ空気を吸いたくない。
なぜってこともない。
単に嫌なのだ。
馬鹿とセンスの悪い人は嫌だ。

アフリカをやったらその後はどうだろう。
面白いセンスの良い人間たちと過ごせるだろうか。
まさやさんみたいな凄い人間、天才と過ごしたい。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 02:48| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月25日

臆病で卑怯な下心。

臆病で卑怯な下心。
実に的確なことを言うもんだなぁ、などと思いつつ。
現実世界でそういうことを言われたら多分ノータイムで外に引きずり出すことになるんだろうな、などと思いつつ。
昔と比べて血の気が多くなったというか、乱暴になったというか。
そんなの殴ったって何の解決にも得にもならない。解決も得も求めず殴る。

まあ、そんなに思い詰めず。
正しいも悪いもなく、殴りたけりゃ殴れば良い。アフリカに行きたけりゃ行けば良い。
臆病で卑怯な下心など考え出すとキリがない。
アフリカに行ったって、やっぱりそれは臆病で卑怯な下心、逃亡だろう。
スペインもまたそうだ。
恋人が出来て結婚して生活を作るもやはりそうだ。
臆病で卑怯な下心、案外、一番離れているのはオムツをはいて潔く死ぬってことかもしれない。
多分、それは誰にとってもそうだ。生きていれば、それだけで臆病で卑怯なのだ。

出発前って、案外、爽やかな気持ちってのはほとんどない。
不安もそうだし、仕事を辞めて海外にふらふらしに行くなんてのはリスクしかない。
行ってしまえば、楽しいことでいっぱいになる。しんどいこともいっぱいになるけれど、いざそこに直面してしまえば、それをクリアする苦労も楽しみになる。
その辺は自転車で峠を登るのと同じか。
峠もやっぱり登る前には楽しみもあるにせよ、いくらかゲンナリするような気持ちっていうのはある。そこで感じられる気持ち良さを知っているので行くのだが。

休暇最終日。自転車は昨日も一昨日も乗ったし、ジャズも十分に聴いた。珈琲、酒ももう十分だ。
のんびりと部屋で小説を書こうかと考えつつ。
前回、ボツにしたやつに手を付ける気も起きない。
それもまた臆病で卑怯な下心か。
文を書くと、だいたいのことが臆病で卑怯な下心にまみれる。

臆病で卑怯な下心。
確かに的確で響きも良いけれど。
センスがない。
意外と広がりが出ないフレーズ。
そこから何にもつながらない。
元も子もない。
臆病で卑怯な下心のない人間などいるのか。
もちろん、そんなフレーズを人に向けて言う人間は臆病で卑怯だろう。
しかし、改めて見回してみると、そうでない人間など誰かいるのだろうか。

臆病で卑怯ながらも、とりあえず動いてみる。
部屋でぼんやりしているのが楽で良いし、失敗も起きなくて良いんだけど。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 09:10| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月24日

底を抜ける。

ここのところ、ひどく心が痛んでいたけれど、やっと完全回復した。
ひとつ前の日記、「オムツと死」は非常に心の整理を付けてくれた。

心が痛むと、とにかく日記が書けない。
あるいは日記を書かないから心が痛むのかもしれない。
それでも、ひどく傷むとやはり書けない。
正しく言えば、書いてはいるのだ。ただ、それを消す。一応は最後まで書けても、ブログになどアップロードは出来ない。

心が痛むと自信が持てないのだ。「オムツと死」の中でも少し出て来たけれど、心が痛むと自分が正しいのか、世界の中で自分はひどくズレてしまっている気がしてきて、自分の存在は許されるのだろうかと考え始める。
そうなると書いたものだって全く自信がなくなる。書いても消す。

ただ、そういう自分に対する懐疑心というのは重要ではある。
懐疑心をなくしてしまって傲慢になってしまっては、踏み外す。踏み外しても気付かず進んでしまう。

そういう意味では懐疑心でどん底まで落ちるというのは重要なのだ。
そこまで落ちてから、回復して得られる自信っていうのは、とことんまで自分と対話して得られた自分の選択なのだ。

たとえば、ここのところ僕が悩んでいたことと言えば、一口に言えば、山小屋とぶらぶらを交互にする生活で本当に良いのかという問題だ。
山小屋って言うのは素晴らしい面も多いが、失うものも多い。
結婚、世間の人並みの生活というのが、物凄く難しいのだ。
何せ半年間山にこもる。残りの半年を働くにしても、スキー場では、また雪山にこもることになる。そうなると、やはり家庭を持つのは難しい。

また、小説を書くなどというのは、まったくこれまで売れていないのに、ずっと続けるのいうのはどうなのか。

ある日、ふと、愛する人が現れるかもしれない。
そうなった時に、山小屋を続けていたことを後悔する日が来る可能性は高い。歳を取るほどに山小屋から普通の生活に戻るのは難しくなる。

小屋の中での人間関係のもつれから、人間嫌いみたいなのがまた芽生えてしまってもいた。

人間として異性と結婚するしないってのは大きな問題だが、どうも、自分は異性を愛せないところがある。

住む家、部屋を持っていないという問題もあった。別に部屋を借りられる程度の金はある。しかし、部屋を借りてしまうのはすごくもったいない。
そうは言っても、日本で生きている限り、住む家、部屋を持っていないのはまずい。
さらに良い歳こいた男が実家に荷物を置かせてもらっていて、自分の部屋を所有していないというのは物凄く心にひっかかる。

簡単に言えばそういう悩みを持っていた。
そういう悩みが底を打ったのが、今回の友人の鬱問題であり、その一番底を打ったのが「オムツと死」だった。

結論としては、良いのだ。
投げやりな意味ではなく、どうしたって生きていれば取捨選択はある。
山小屋と旅との生活を今しているのは間違っていないのだ。
部屋を持っていないのも間違っていないのだ。
異性と距離を置いて生きるのも間違っていない。
社会的にどうかは知らない。
ただ、自分には間違っていない。
そこで失うものを受け容れる、諦めてしまうのは決して間違っていない。

普通の人が手にしている結婚などの幸せを犠牲にしたって何ら問題ないほどに、自分はそういった山小屋と旅の生活の中で文を書いたり色々なものを見ていく、そういうのがやはり好きなのだ。
女の子とデートするよりも、自転車で静かな林道を淡々と登りに行きたいと思ってしまう。
それだけ好きなことは、いろんなことを全部博打のごとく掛けてしまったってやる価値がある。人間として正しい。

やっぱりアフリカに行こう。
まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 01:19| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月23日

オムツと死3

一つに僕は冷たくなったのかもしれない。
厭世的なところが強くなってしまった。人間がどうにも苦手と感じることが増えた。

人間はエグいことをする。
僕にしても風俗の事情などを分かっていながらも、自分の都合のために利用する。

自転車屋では、売り上げのためにいろいろなものを売った。もちろん、後ろめたさなどない売り方の方が多かった。
しかし、販売というのは、人が欲しいと思うものを提供するだけでは今の時代ではビジネスにならない。
売って利益になるものを人々に欲しいと感じさせるのが販売の仕事の一つでもある。
どんな販売業でも在庫は捌かないといけない。
また、自転車を売るときには、
「この人にはこれは絶対に必要ないな、この人が思ってるような使い方はこの自転車では出来ないのにな」
と思うこともある。
言うなれば、三ヶ月で間違いなく飽きる人にクロスバイクを販売するなんていう時だ。
でも、それは当人が買いたいと勝手に思っているものなので、勝手に買ってもらえば良い。当人は物欲を満たせる。こちらは金になる。
しかし、本来の自転車プロショップというのは、自転車の専門家としてアドバイスしてあげないといけない。
ましてや、
「自転車通勤で健康にも経済的にもより良いライフスタイルを」
というスローガンもあるが。
もちろん、嘘ではないにせよ、ものの好みなんて人それぞれだし、極論すれば全ての物に良いところはある、楽器だって人生に潤いをもたらす、良い車に乗ることも、良い食器でごはんを食べること、良いバーで酒を飲むこと、山に登ること。全てをしているわけにはいかない。
個人の自由で好きな物、欲しいものを感じてやるのが良い。
ゴリゴリとものを売る、広告をするというのは何とも言えない。
特に通勤のために百万円の自転車を売るなどということは、何とも言えない。そういうこともしてきた。

客の方だって安く物を買うための努力をする。当然だが安く売れば僕の会社の利益は落ちる。そんなことは分かっていても安く買いたい。

小さな山小屋でも、人が自分の生活に都合の良いように派閥のようなものを組み、気に入らない人間を孤立させるようなことが起きる。
山小屋の人間関係とは、結構、難しいものなのだ。何せ他に娯楽がない、プライベートな時間は月に一度だけ、あとはずっと共同生活。仕事のやり方一つにしても人っていうのはいろいろな考え方がある。
十人前後でさえ人間は衝突する。
自分の都合、利益というものがある。

都合、利益の中で仕事を見付けられないところに落ちてしまったのが僕の友人だ。

でも、そういうのが人間だ。
気に入らなければ、オムツはどこにでも売っている。
いつだって自由に人間をやめることは出来る。

ごまかしながら何とかやっていくしかない。
ごまかす方法はいくつかある。
ポジティブになる方法とでも言おうか。
人は無意識にそういうことをしながら生きている。
たとえば、自分をかっこいいと思うこと。
女の人は化粧をして鏡を見る。綺麗になっている自分が映る。
僕は自転車に乗り、写真と文にまとめてみたりする。とても良い時間を過ごしたと思える。
自分を肯定できる。自分は生きていて良いと思える。より良くなりたいと思える。
そういうのは生きる力になる。ポジティブになれる。

正当化も大事だ。
たいていの物事はメリット、デメリット、犠牲がある。
犠牲を仕方ない、必要なことだ、そのおかげでより大きなメリットが発生している、そう考えるのは大事だ。
客観的に見ると悲しいことでも、角度を決めて主観的に眺めれば素晴らしいことにも見える。
人間は悲劇の物語を愛することが出来る。悲しいことさえも素晴らしいと捉えることが出来る。

何も考えないようにするというのも大事だ。
それこそ風俗で働く女の子たちは考えないという技術を使っているのかもしれない。
排泄物を処理する仕事なんかでも、深く考えないようにすることで何とかやりくりしないと続けるのは難しい仕事だろう。

生きるための技術というのを、生きている限りは無意識のうちにも何かしらやっている。

まあ、どうせ同じだけ生きるのなら、楽しい方が良い。
オムツの世話になるのも自由だけれど、
「生きてさえいれば良い」
という太宰治のフレーズは万人に感動をもたらす。
なぜということもなく、多分、そのフレーズは世界の真実みたいなものだからだろう。

友人と会話を重ね、自分に出来ることを考えた。
しかし、失敗した。
また、失敗したのだ。
昔と同じだ。届かない。何をすれどもどこにも届かない。
鬱病の女の子が壊れていき、一線を越えたところで僕は諦めて、逃げた。もう、その女の子には届かない。自分は一緒にはその線を越えるわけにはいかない。
自分にも都合がある。
自分のところから声も何も届かない。
それから僕は大学を辞めた。
それでも、その女の子は何とかかんとか今も生きているらしい。
多分、僕は失敗したことを気にする必要はない。
そして、今回、失敗になりつつある問題も気にしない方が良い。友人は友人で何とかするだろう。出来ないかもしれない。今度はスマホゲームのガチャは大当たりは出ないかもしれない。
それでも、ここらが潮時だ。ここより先は高波にさらわれてしまう。ここでも、もう危ない。
いや、思い切って先に進んでしまえば良いんじゃないか。高波にさらわれたところで、何ということもないかもしれない。竜宮城に辿り着けるかもしれない。
今は死だと感じているその世界もいざラインを越えてしまえば、遙かに良い生の世界かもしれない。
でも、多分、僕は今回も線は越えない。
僕は再び失敗した。

正直、アフリカに行く心境ではない。
しんどい。
今日も本当は峠を走りに出掛けようと思っていたが昼過ぎまでこうして寝転がっている。
オムツを買いたいと思うほどではないにせよ、体が重たい。

それでも、自分の人生を本当の意味で応援してやれるのは自分だけだ。
必要であれば風俗に行ってでも何をしてでも、ほんの僅かな薄い期待しか持てないようなことでも可能性のあることをしていかないといけない。
オレはオレの人生を他人任せにはしたくない。自分の背中は自分で押してやらないといけない。
無理は必要だ。
人生は長くはないし、短くもない。
現れたタイミングを逃してしまうこともある。
それでも、可能な限りはタイミングは逃さない努力が必要だ。
たとえ、そのせいで大きな失敗、とりかえしの付かない失敗になる可能性があるとしても。

人生は情熱と想像力だ。
良い姿を想像して、それに向かってゆっくりでも良いから歩き続ける情熱。
良い想像力がないと目指すところがない。
情熱がなければ、ただの夢見るだけの少女のままだ。

いつだってオムツは買える。
オムツが必要になりそうな時ほど追い込めば良い。
追い込めばオムツを買いに行くのさえ、しんどくて出来なくなる。
オムツがないとコトは起こせないのだ。
不思議なことだけれど、僕にはどうしてもコトを起こすにはオムツが必要なのだ。
オムツさえ手に入らなければ、何とかやっていける。

まったく、アフリカはさすがだ。
出発を確定させるだけでも、ひどく疲れる。
やっぱりアフリカに行かないといけない。

友人がスペインに行きたいと言ってくれれば、それが一番なのだが。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 13:05| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

オムツと死2

僕の方はオムツに、彼の方はスマホゲームのガチャで死との縁は一度離れた。
そんな馬鹿みたいなもので案外に自殺など避けられるのか。

ただ、考えてみると、僕と友人の場合は決して死にたかったわけではなかった。
言うなれば、生きている恥に耐えられなかった。僕にせよ、友人にせよ、あまり順風満帆の人生ではない。僕は大学をやめているし、彼は仕事が見付からないでいる。
冷静に考えればどちらも大した問題ではない。生きてさえいれば、とりあえずの問題はない。ロックンロールスターや宇宙飛行士になる必要はないのと同じで、共同体の中での一般常識とされているサラリーマンで家庭を持つというライフスタイルから外れていたって。もちろん、社会共同体としては税収や治安管理の面でノーマルなサラリーマンをしてくれる方が助かるけれど、それは共同体の方の都合だ。
ーーそうは言ってもあなたも共同体の中で生きているんだよ、共同体のメリットを享受している、世界はギブアンドテイクでフェアなのが原則だよ、
原則から外れる人間も少数はいたって構いやしない。

生きてさえいれば良い、太宰治もヴィヨンの妻で書いていた。
そんな風に言ってくれる女がいれば良いのになとも思うけれど、現実にそんな女にそんな風に言われたら逆に生きていくのがつらくなる気もするけれど。

自分は風俗店などに行くことがたまにある。
年に一回あるかないかくらいだ。もっと少ないかもしれないし、多いときはもう少し行くかもしれない。別にルールなど決めているわけでもない、必要なときには行く。
生きていれば寂しさを感じる。パートナーが欲しいと思うこともある。
しかし、パートナー、恋人を持つのは性格上出来ない。住む土地さえ転々とするほどに、自分は何か一つのことに縛られて自分の好きなことに制限が掛かるというのが嫌いなのだ。
好き勝手自分の好きなことをやって、気の向いた時だけ相手できる、そんな都合の良い女の人もいるのかもしれないが、エセ道徳者の僕は「優しい人間」でもありたいらしく、恋人が出来れば大切にしていたいと思う。それはそれで良いことなのだが、やはり自分の好きなことをしていたい。
結局、パートナーがいるとそういう矛盾に落ちてしまうことが分かりきっているので、恋人は出来るだけ作らないことにしている。作れないというのも事実だが、出来るだけ女と縁がないように。もう少し歳を取れば自分がしたいことなども減って落ち着いて女の人と縁のあることもあるかもしれないが、今の段階では遠くにある方が良い。
そうは言っても、寂しいと思うことはある。
そういう異性のことで思い悩むのは人間的で良いことかもしれないが、鬱陶しい。自分も決して暇ではない。果てしなく暇なんだけれど、暇ではない。
それで、気持ちがどうにもグズグズした時には金で女を買うということをして切り替えることにしている。
そこには当然愛などないし、売り物として磨り減った体の女、肉体的快楽について考えたって、オナニーと大した差はない。
ただ、生きている人間を抱くことで自分の中での野性的な本能は満たされるものはあるらしい。
しばらく女の子とを考えず、淡々と自分の好きなことに打ち込んだり、考えを巡らせることができる。
僕の中では女の人と遊んだりするのは、あまり良いことではないという考え方があるのかもしれない。女にうつつを抜かす暇などないなんていう考えか。
頭では人を愛するというのは人間として素晴らしいことだろう、と考えてはいるのだが。

女の人にはそういうのは分かりにくいかもしれない。
男の僕にもよく分からないので、分からなくて当然だろう。

そんな風俗にどうして行くのかという言い訳は長々する必要もないのだが。

そういう商売女たちに会うと、
「どうしてこの人たちは自殺しないのだろう」
と考えさせられる。

風俗というのは行ったことのない人には分からないだろうが、本当にこの世の果て、人間が作り出した地獄みたいな雰囲気がある。
もちろん、全ての風俗がそうではない、風俗店にもいろいろある。
無許可営業の店というのが一番ひどい。
非合法の店だ。松本にはいくらかそういう店がある。

松本は条例でそういう店を禁止している。
ちなみに、そういった女の子のお店のいうのはいくつか種類がある。
キャバクラは単なる飲食店だ。
ピンサロ、口を使って性欲処理をしてくれる店、おっぱいパブもなんと飲食店のくくりになる。なので必ず最初に飲み物を聞かれる。あとは店側は知らない、働いている女の子が勝手にやっているだけというククりになる。なので、そういう店にはシャワーはついていない。シャワーを付けると警察が来たときに言い訳が立たない。
「なんで飲食店にシャワーがあるんだ?!」
ということになる。
その辺りより先のことになると、性風俗の店の範囲になる。
地方によって条例があったりなかったりする。

それでも、禁止はされていても需要はある。
それで無許可営業の店というのが発生する。
そういう店ははっきり言って何でもアリだ。
世間的には、この世に存在していない店、サービス、幽霊みたいなものだ。
存在がバレるだけでも違法なので、中でどこまでやっていようが、この際、何でもアリなのだ。
当然、看板は出ていない。細い階段を上った雑居ビルの上の階なんかにある。
場末の極みである。
吉行淳之介の小説の世界だ。
吉行淳之介が好きな人にはたまらないだろう。ある意味では非常に純文学的な空間だ。

シャワーも部屋もうらぶれている。
さらに松本という街は寒い。
しかし、何よりもうらぶれているのは、女の体だ。商売で売り続けて磨り減りきった体。年齢ははっきりとは分からない。向こうが言う年齢などあてにならない。しかし、体だけで言えば、漫画太郎のマンガに出て来るババアの体と言っても過言じゃない。
この日本にこんなうらぶれた場末を一身に背負って体現しているような人間がいるのかと思うほどだ。
しかし、そういう女なのに、話してみるときちんとしている。仕事も仕事としてきちんとする。

思うにあのキツい仕事を出来るほどの根性があれば、恐らくどんな仕事でもやっていけるだろう。
しかし、彼女たちはそこで働かざるをえないのだ。
別に人種差別などで強制連行されたわけではない。
ある程度自分の意志でそこに落ちてしまっている。

そういう女たちを見るとなぜ自殺しないのか不思議になる。

いや、実際にはそういう女たちの内、それなりの数が自殺するそうだ。
それにしても、やっぱり女はタフだ。
多分、男ならほとんどが最初の出勤の前に自殺するんじゃないだろうか。
あるいは最初の仕事から帰った夜か。
男は弱い。

彼女たちはまだその世界から脱出できる望みを持っているから我慢できるのだろうか。
そんなことは不可能だろう。その世界に落ちてしまうような人間が再び這い出るだけの力を持っていることは少ない。冷静に考えれば望みが薄い。さらに言えば、そんな時代を人生の中に持ってしまった人間がまともな生活に戻ったとしても、そんな過去を背負って生きていくのはつらいんじゃなかろうか。
女は強い。

また、もう一つの理由として、単に楽な仕事と捉える人もいるようだ。
そういう仕事は給料が高い上に、個人の自由な時間に出勤などのシフトが組めるそうだ。言うなれば、商品は大事に扱うそうだ。

また、別な話によれば、覚醒剤や睡眠薬だそうだ。
薬の中毒は恐ろしい。
薬は金が掛かったり、手に入れるにもルートが必要だ。
東京を夢見て家でした少女が、まあ、キャバクラぐらいならば、と。寮が付いているキャバクラなんかに入る。夜とアルコールの仕事というのは不眠症などの睡眠障害の病気を患いやすい。睡眠障害は本当につらい。眠いけれど眠れない。或いは眠くないのに眠い。
この睡眠薬が効くよ、試してごらん、と渡されれば試してみる。
無理矢理に人間の脳みそのスイッチをオフにできる薬は危険で強い。
薬局などでは手に入らない。
そういった薬はアヘン戦争なんかが実に有名だけれど、国家を転覆させる力があるほどに危険なのだ。

何かしらの理由で彼女たちは今日も生きていて、そこに出勤する。

もしかすると、彼女たちもオムツやスマホゲームのガチャなんかの下らない理由で何とか自殺せずに今日を生きているのかもしれない。

それにしたって、そういう背景を知っていながら、そういう店を使う僕も僕だ。
posted by ちょろり at 11:52| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

オムツと死。

休暇の度に鬱病になってしまいつつある友人と電話をする。
アフリカを辞めて、彼とスペインに行くべきかという問題の男だ。

話している限り、かなり良くない状態にあると思う。
半年ほど前、本当に良くない状態にあった時に比べればかなり良くなったのだけれど、それでも、やはり話していて、彼には全く自信がなく、何も決められなくなってしまっている。
落ち込むのが鬱病ではない。社会生活を送るのが困難な精神状況から抜け出せないのが鬱病だ。
そういう意味では僕は落ち込むことは多いが鬱病ではない。

一度、精神的に駄目になってしまうと厄介なのが、価値観が壊れてしまっているので、判断が出来なくなる。
病気じゃなく普通の精神状態でも仕事を探す時には、かなりの労力が必要で、何の仕事をするか決めるという判断力というのは、その人のそれまでの人生の積み重ねの上での価値観で決まる。
一度崩れてしまっている精神を普通の状態に積み重ねるのは難しい。
仕事が見付からないことが彼の精神状態が悪くなった一つの大きな理由なので、彼は復帰するには仕事を見付ける必要がある。

やはり僕の価値観では、彼は僕と一緒にスペインを歩き、二人でドイツの友人のレストランでしばらく働かせてもらって、それをきっかけにそこからの人生を考え直してみるのが良いと思う。
それはあくまで僕の価値観だ。
肝心の彼の価値観は崩れてしまっている。

そう、二年ほど前に僕も深刻に死ぬことを考えた。これはかなり深刻だった。
自殺の方法としてはドアノブでやろうと思った。ドアノブはかなり人気のある自殺の方法だ。確実性もあって、さほど苦しまずに死ねる。
ドアノブにタオルやヒモをかけて、首にひっかけ、ドアノブにもたれ掛かるように座ると体重でゆっくりとヒモが引っ張られ、脳が酸欠になりぼんやりと死んでいくらしい。
部屋で自殺するとそこそこ金も取られるけれど、他に手頃なやり方も思い付かなかった。

ただ、その方法をするのに、どうしても僕はオムツが欲しかった。
人間、死ぬと糞尿をたれてしまう。
なぜだか、それがとても嫌だった。死んだ後のことなど気にしなくても良かろうに。それでも死体を処理しに入った人に、死んだ後までも「こいつ糞尿たらして汚いな」と思われるのは嫌だった。迷惑をかけることに関しては、自殺なんてどうあっても迷惑がかかるものだからと諦めていた。そのくらいの迷惑は最後だし許してもらえるだろう。ただ、死んでまで汚い、みっともない、っていうのは嫌だった。
出来る限り綺麗な死体でいたいと思った。

オムツを買いに行こうと思った。
自転車屋で働いていたのだが、そこから家と反対の方角に少し行ったところにホームセンターがあったので、帰りにそこでオムツを買って、実行しようと思った。
ただ、仕事が八時ちょっとで終わるのだが、ホームセンターは八時半に閉まってしまう。間に合うには間に合うのだが、オムツの場所を探したりを考えると難しいので、今度、休みの日か暇な日の休憩時間に買いに行こうと考えた。
何より絶望しきって、疲れ切っていたので、そのホームセンターに向かうことがどうしても出来なかった。

ただ、今から冷静に考えればオムツなんてスーパーや薬局なんかでも売っているだろうし、Amazonでボタンを押せば家に届くわけだから、いくらでもオムツを手に入れる方法はあったのだ。
オムツを買ったら、いよいよ実行するしかなくなり、それが無意識に怖かったのかもしれない。

いかに深刻に死のうと考えてみたところで、やはり本能的には死ぬのは怖かったのかもしれない。
あるいは、やはり絶望と疲れ切っていて、オムツを買いに行くのがしんどかっただけかもしれない。あるいはホームセンター以外でもオムツが買えるということに気付けなかったのか。
Amazonで買うのに関しては、ボタン一つで自殺の決意、いざオムツが部屋に来てしまえば、もうさすがに自殺に抗えない、インターネットのクリックで自分の死を確定させたくはなかった。

結局、オムツを買うタイミングを先延ばしにし続けている内に、ふと気分が持ち上がってきて死なないで悪い時期は過ぎ去ってくれた。

友人は今年の五月の誕生日で死ぬつもりだったらしいのだが、死ぬ前にスマホのゲームのガチャを全部まわしきろうと思ったらしいのだが、滅多に出ない大当たりが出たらやっぱり自殺は考え直してみようかなと思ったのが、まさかの2連続で大当たりが出て、呆然としている内に気付くと眠っていて、起きたら日をまたいでいたので、やっぱり生きてみようと思ったそうだ。

生きるのは難しい。
実に難しい。
そんなこんな。
posted by ちょろり at 01:02| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月12日

文が書けない暮らし。

山小屋にいて一番困るのは、やはり文を書くのに困る。
平地にいれば、電気代さえ払えばいつでも電気はあるし、個室ならいつでもパソコンに文字を打つことも出来る。
こうしてスマートフォンにいくらか文字を書けるだけマシだが、眠る時間を遅らせて深夜までパソコンで高速で文を書くなどはどうしても出来ない。
パソコンじゃなくてノートとペンでも良い。
それでも、まとまった三時間ってのはなかなか共同生活の中では難しい。せいぜい一時間だ。

以前にここで働いていた時に辞めたのも同じ理由だった。
やはり文字を書くっていうのが、いつからか日々の生活に浸透していたらしい。
文字が書けないのは、とてもストレスになる。

しかし、昔と違うのは、山から降りたとて、サラリーマンをしたとて、意外なまでに僕は小説が書けなかった。
東京の三年で完成させられた作品は絵本の原作が一つに小説は三本だけだ。
それでも、東京の生活で最も意義あった文章は店のブログと、個人でやっている自転車のルート紹介ページ昭島じてんしゃ日和だろう。専門知識を持った人間として、そして実際にフィールドワークに出て、その集積を文に出来たと思う。

自転車屋の日々は悪くなかった。
小売りは難しい時代になってしまっているが。
それでも、自転車屋の日々は総じて見れば良い日々だった。

そして、山小屋も良い。
山小屋の仕事は仕事にプライドが持てる。誇りを抱いていける。
なので来年も多分山小屋だろうな。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 17:40| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月10日

やはりアフリカか?

事情が一変する。
アフリカ行きを辞め、元気をなくしている友人とスペインを歩こうかと考えたが、友人はやはり行けないと言う。
もちろん、それは想定していた。
やはり、異国に一ヶ月以上の滞在、それも徒歩の旅というのは、「ちょっと一緒に温泉でも行って元気出そうや」というものではない。

そうなると改めて一人きりになる。
仮に断られても一人でスペインに行こうと考えていたものの、いざ一人きりとなると、やはりアフリカに行きたいという想いが強くなってくる。
やはりアフリカなのか。
縁がないように感じられたが、やはりアフリカに呼ばれているのか。
そして、やはり一人きりなのか。

一人きりなら大自然の中にポツンと一人きりで自転車をこぐのが良い。
荒野だったり砂漠だったり、誰もいないところを一人きりが良い。
純然たる孤独を楽しみたい。

それにしても、友人のことが気懸かりである。
「やはり行けない」
と彼は言ったが、正確には、
「やはり行かない」
だろうと思った。
決して、不可能なわけではない。
いろんなことを背中の荷物から外してやれば、大抵のことは出来る。
ただ、荷物を外すのはデメリットも多い。
いろいろなことを総合して考えた結果、彼は行かない方を選んだのだろう。

確かに僕も逆の立場なら行かないかもしれない。
第一に相手に悪いと感じるだろう。
ありがたいとは思うにせよ、相手にも相手で人生があるのに、自分のために旅費や時間、体力をさいてくれるのは申し訳ない。近所の温泉旅行ではないのだ。

もちろん、彼のためだけにそれをするんじゃない。
はっきり言えば、一人きりでアフリカに行くのと、ピンチに陥っている友人を何とかせんがためにヨーロッパを二人で歩くのと、どちらが良い小説の引き出しになるかと考えると、アフリカより遙かに友人とスペインを歩くことの方が良いのだ。
紀行文としてのネタというより、30歳を前にして人生の危機に陥った友人と二人でただ歩く。

30歳も手前になると、みんなそれぞれに都合が出来る。
いかに友人が危機に陥っても一ヶ月以上の時間と金をさいてまで、一緒にいられるということはない。
実際、僕も偶然、アフリカを狙っていた時なので、時間をやりくり出来ただけで、前の自転車屋にいたらどうにも出来なかっただろう。

ただ、現実はその上を越えて来て、時間的、金銭的な問題以上に「やはり行けない」という彼の心理の方にあった。

無理をしてまで一緒に行こうとは思わない。
つまるところ、この問題は彼が彼自身のやってみたいことを自分で出来るように、動けるようになるということが大事なのだ。面白いと思うこと、楽しみだと思えることを見付けて、それを不可能かどうかではなく、実際に体を動かしてやってみる。
だから、無理に誘って連れて行っても意味がない。
彼に必要なのは単なる気分転換ではなく、自分の人生の動かす新しいやり方、考え方を身に付けるということなのだ。

鬱病の問題に関して言えば、再び僕は敗北するような気がする。
大学時代の友人にもあの手この手を尽くしてみたが、結局、病院に行って、薬漬けになってしまった。
今回の問題は結果は分からない。
ただ、昔と違って、かなり具体的な方法をしようとしてみた。
それでも、結局何も出来なかったということになる。

ただ、確かに真理ではあるのだろう。
人間は一人きりなのだ。
いかに友人と言えど、あくまで他人だ。
誰しも多かれ少なかれ自分自身に責任を持って生きている。
人からの助け、好意を気楽に受け容れてヘラヘラしてなどいられない。

アフリカにするかどうかはまた改めてゆっくり考える。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 06:55| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月08日

どう生きるかね。

ぼんやりと人生についてなんて久し振りに考えてみている。

いくつかの選択肢がある。
どれにもメリットがある。

一つ目がずっと山を続けるという選択肢。
これのメリットは半年間を自由に出来る。
贅沢をするとお金に困るが、質素にやれば特別困ることはない。
半年間はたらいて、半年間自転車で旅をしても良いし、小説を書いて暮らしていても良い。
デメリットは住居を持ちにくい。ゆえに結婚なんかは難しい。今でこそ結婚は考えないものの、一人で生きるのが寂しく感じる歳も来るかもしれない。
ただ、そんな先のことは実のところ、他のことをしていても不確定だ。
三年以内に結婚したいとかがあれば話は別だが、男は割と遅くに結婚したって何ら問題ない。

第二の選択肢は自転車屋に戻ることだ。
これは実のところあまりメリットは少ない。
ただ、休日に自転車に乗れるし、たえず自転車と関わって生きていられる。
これは案外、僕にとってはとても素晴らしいことだ。
自転車屋で過ごした日々は改めて考えると本当に素晴らしかったと思える。

第三の選択肢は、ドイツのこーめーのところに行ってみるというやつだ。
こーめーはドイツで日本料理屋で働いている。ぼちぼち独立もする可能性もあるとかないとか。独立せずともこーめーは僕一人くらいなら飯を食えるだけの仕事を分けてくれる。異国に住んで、働くという経験はやはり代え難い。

第四の選択肢はもっと全く違うことをするということだろう。
とにかく全く違うことをするのだ。
編集関係の仕事をコネコネして頼ってみてありついたり。
あるいは医学部を再び目指すとか。

もはや選択肢にはないものの、一番良いなと思うのは、大学を辞めずに、ずっと数学をしていれば良かったなと思うことがある。
もう、これは僕の人生の選択肢にはない。
数学で食っていくのは難しい。
若き日々のうちに親の金で大学を卒業して、ドクトルまで取って、研究員になったりすれば良いが、社会人になってからでは、やはり日々の食う金が必要で、それと数学を両立させるのは難しい。社会人にならずに、すぐに数学屋にならないといけない。

ただ、いろんなことを考えたとき、その数学屋の道というのはとても魅力的だと思うのだ。
全く何のメリットもない。そこには冒険もないし、暮らしの安定、裕福さなんかもない。
ただ、愛がある。
全くクソの役にも立たない学問を延々と煮詰めるという行動には愛がある。
愛するものを延々と愛し続けられるほど素晴らしいことはなかろう。

選択肢の問題ではないのかもしれない。
いずれの選択肢にしても、なぜそれがメリットなのか、なんてことを考える。
社会的なバックグラウンドを考えれば金や安定はとても良いことにも思える。ただ、社会やら何やらのためではなく、自分自身のためといえば、自分自身が敬愛するもの、営みに一生を捧げて生きられることをし続けるってことじゃないかな。
自分自身が敬愛しているものって何なのか。

好きなことだけしていてはいけないとは言うけれど、好きなことだけやって生きるのが一番素晴らしいのだ。
現実問題としては、本当に自分の好きなこと、ずっと続けられるようなことっていうのは、ほとんどの人が分かっていない。
僕もよく分かっていない。

生半可なことをしていると30大中盤になって、ああ、おれはなんてことをしちまったんだ、これからどうしよう、なんてなる。
本当に好きなことなら、ああ、馬鹿なことをしてきたな、でも、いいや、これしかできないし、これしかしたくないから、これを続けよう、食うのは何とか食っていこう、なんて思えるんだろう。

案外自分の好きなものってやつの正体は全くなかなか見えないものだ。
小銭を拾うような生き方はまずい、長い目で上手く行くようなやり方を。

さて、どう生きるか。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 19:19| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月04日

山の風邪とマザコン。

また風邪をひいている。
山は乾燥と寒さがひどくてどうにもならない。
こういう時に、やはり暖かい土地で育った人間なんだなと思う。
寒くて乾いた土地はどうにもならない。
それでも、乾いた空気の方が楽器はよく音が伸びて良い。

それにしたって、今年はよく風邪をひく。二ヶ月に一回くらいのペースで風邪をひいている。
しかも、毎回、熱が出る。

厄年なるものか。
漢方なんかの東洋医学の考え方では人間も周期的に体が弱る時期があるという。男と女で何年周期だか違ったと思う。
厄年というのは、そういう体調の弱る歳と、人生で変化の起こりやすい時期が重なったところを言うらしい。

まあ、それにしたって風邪をひきすぎだ。

煙草が良くないのだろう。
煙草を吸うと肺が黒くなるというのは、半分嘘らしい。人間普通に生きているだけでも、埃を吸い込んで肺は黒くなるらしい。喫煙者かどうかに関わらずある程度の年齢になれば、司法解剖なんかすると肺は黒いものらしい。
解剖学者の養老孟司さんがそんなことを言っていたけれど、なぜかあまり話題にならなかった。
実際に自分で肺を取り出すわけにはいかないので真偽の程は分からないけれど、それでも、解剖学者の先生がそんなことで見え透いた嘘を付くわけもなかろうから、まあ、本当なんだろう。
それでも、煙草を吸っていると、喉の毛みたいなもの、埃なんかをキャッチしてくれるガードマンみたいなやつがしなしなになって風邪はひきやすくなるってのはあるらしい。

それでも、大抵のものは煙でいぶせば強くなる。抗菌作用だってあるはずだ。
そう考えると煙草ってのが、どうしてそんなに体に悪いのかは謎だ。

まあ、その気になれば、たいていのものを体に悪いっていうことは出来るのだ。
読書だって、眼精疲労から風邪をひきやすくなるかもしれない。
読書と風邪の相関性なんてのも、上手く数字を引っ張れば、例えば、病院の待合室にいる人に読書をするかどうかアンケートを取ってから、街中でも同じアンケートを取ってみて、病院の待合室での方が読書をしている率が高ければ、「読書は体に悪い」なんて結果を引っ張り出せるかもしれない。
その結果に、「おそらく読書による眼精疲労が原因の一つにあるのかもしれない」と付け加えれば完成だ。

まあ、煙草が体に悪いというのは百歩譲って認めてみるにしたって。
それにしたって、今年は風邪をひきすぎだ。

アフリカをやめる一つの理由でもある。
今年は少し体調に自信がない。
こんなにロキソニンを服用している歳はない。
ただのちょっとした咳から、喉が痛くなり、熱にまで発展してしまう。
ロキソニンなんてのは、解熱鎮痛薬だが、まあ、そういうのはヤバい。人間の体として明らかにおかしい。痛いのにはそれなりの理由があるわけで、痛みを一時的に消しても原因解決にはならないわけだ。

そう、山で風邪をひくとちょっとヤバい。
人数もちょうどなので休めないし、元々、休日は月に一度なので、それまでは延々と風邪をひいたまま朝から晩まで働かざるを得ない。当然、治らない。
病院も薬局もない。
今持っているロキソニンが切れたら、ちょっと働けないと思う。今回の風邪はとにかく体中の関節が痛くなる。

それでも、まあ、風邪で死んだ人間は、スペイン風邪(インフルエンザ)は別として基本的にはいない。
死ななかったら良いのかと言えば、その通りだ。
そりゃ、後遺症が残るようなのは困るけれど、基本的には下山してしまえば三日で治るのが山の風邪なのだ。

しかし、体が弱いってのは困った。
堅いサラリーマンみたいなことをしていれば良いのだけれど、そんなのとは縁が無い。
堅いサラリーマンが羨ましいのは給料やら休暇もだけれど、何より風邪をひいたときに電話一本で「病院に行ってから出社するので遅れます」とか「今日は体調が悪いので休みます」ってのが出来るところだ。
チャリ屋の時も人数がギリギリだったので、なかなか風邪では休めなかった。
風邪で休める仕事っていうのは羨ましい。

風邪をひくと恋人がいると助かるのになぁなんて思う。
リポビタンDワンケースと大きいポカリスエットを買ってきてくれると嬉しい。
そんなの恋人じゃなくても良いじゃないか、と言われそうだけれど、普通の友人に「悪いけどリポDとポカリ買ってきて」なんてのも頼みにくい。
恋人ってのはその辺良い。素直にお願い出来る。
他愛もない会話を少ししてくれたりすればなおよろしい。洗濯なんかもしてくれればなおよろしい。
長話は疲れるのでいけない。

考えてみると故郷を離れてから、「悪いけどリポデーとポカリ買ってきて」なんてお願いは出来たことはない。滅多に恋人もいないから。
そう考えるとオカンってのはやっぱりありがたいなと思う。弟でも親父でも良いけれど、やっぱりそういう時はオカンだ。オカンはたいてい不必要なものまで買ってくるし、アレコレ話し掛けてきてやかましい。うざったい。弟なんかだとサクサク買ってきてくれて、無駄口叩かず、財布から金だけ持って立ち去ってくれる。
それでも、やはり男の風邪の時にはオカンだ。
普通、風邪で困ってる時に何かしてもらったら文句など出ない。オカンってのはなぜか文句を言いたくなる。ありがとうとは思うがアレコレ文句を言ってみたくなる。そして、オカンの方も文句を言われないように必要最低限で動けば良かろうものを、あれこれ無駄なことをしてくれる。もちろん、中にはありがたいものもいくらかある。どちらにせよ、良かれと思ってしてくれている。なのに男はオカンに文句を言いたくなる。
何だかんだで自分に良くしてくれて当然の人。オカンってのは偉大だ。
そういうのもアレコレ含めて、男の風邪にはオカンなのだ。
オカンってのは実に不思議なものだ。
多かれ少なかれ全ての男はマザコンなのだ。

明日起きれば、この風邪が治ってると良いな。
そう思う時には治っていない。
治る時ってのは、あれ、いつの間にか治ってるなっていうものだ。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 09:29| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月02日

最後まで書き切ること。

それにしてもこの夏は小説が失敗した。
久々に大失敗した。
下書きやプロットを結構な量を重ねた状態でポシャるのはつらい。
いくらか救い上げようかと思ったけれど、まあ、どの部分も使い物にならない。
ほんと何を書いてたんだか、っていう。

何か新しいのを書き始めたいなとは思うのだけれど、どれもなかなかポシャる。
良くない。
総じて想像力の低下なのか。
昔は割と全く自分の経験には関係ない全くゼロからの話って言うのを構築出来たのが、どんどんと私小説の方に傾いてしまう。
本音としては私小説なんかはあまり書きたくない。結果として私小説になってしまったんなら仕方ないにせよ、やっぱり小説とは物語を夢見ることだと思う。
いかに良い哲学を面白い話に乗せて、美しい文体で書けるか。
良い哲学も面白い話も美しい文体もどれも絶対不可欠だ。
偶然、私小説的なストーリーが最良の面白い話になっているなら良いにせよ、あるいは面白いストーリーを追求した結果として私小説的なものになるでも良いにせよ、私小説的なものしか書けなくなったらこれは問題だ。
最近はそれが多すぎる。

まあ、ボツの箱の中に入れておいて、逆に昔書いてボツにしたけど、気になってるのを直して行こうかななんて考えたりしつつ。

まあ、良かろうが悪かろうがとにかくその時に書けるものをどんどん書いて溜め込んでいくのが大事だと思う。後になってから掘り返すのを期待してはいけないにせよ、その時に書けるものは熱心に書き続けていないと、後になってからじゃ書けなくなるものも少なくない。
結局のところ、小説が書けるかどうかって、書く本人が最後まで書き切れる情熱を抱けるだけのものかどうかってところだろう。作品の善し悪し以上に筆者がどうしてもこれは最後まで完成させたいとどこまで本気で思えるかだろう。
小説の失敗というのは、最後まで書き切れないとき、あるいは最後まで書くために無理してしまったときだろう。
筆者が最後まで何かしら思うところを一つしっかり心にとどめて最後まで書ければ、それは何かしらの成功をおさめていると思う。

小説なんて書くのは、案外時間も掛かるし、体力や精神力なんかも使う。
最後まで書き切るっていうのは、それだけでも価値はあるのだろう。

でも、昔は結構どんな話も最後まで書き切れた。
一つに時間的な余裕があったのは大きい。小説を思い付いたら、大学には一切行かないで、遮光カーテンを閉め切って、昼も夜もなく、書いて、珈琲飲んで、書いて、寝て、書いて、食って、寝て、散歩して、書いて。そんな具合で全ての時間を自由に小説に注げる環境があった。
でも、それ以上に読んでくれる友達がいた。
今も読んでと頼めばいろんな人は読んでくれる。
ただ、昔と違うのは、読んでもらうからにはそれなりに上手く書けたものだけだし、そうなると、書くからにはきっちり上手に書けないといけないって思ってしまう。
上手く書けないといけないっていう思い込みは一番いけない。
面白いかどうか、良い小説かどうかは読者の方が勝手に決める。書いた方が決めることではない。読んでもらわないと分からない。だから、無理して上手く書こうなんて思ってはいけない。書いてみたいと思ったことを全力で書き切って読んでもらうのが大事だ。

そう考えると、ボツにしてしまわないで、下山してからでも良いから少し時間を取って何とか完成させてしまった方が良いんだろうな。
どうするかな。
暇は暇だけれど、案外あれこれやることもあるから、完全にポシャったと感じた作品はやっぱり手を付けにくい。
まあ、下山してから考えようか。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 07:38| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月01日

逆境をどっちにさばくか。

アフリカは完全に今年は辞めにした。
友人がスペインに行くと言おうが言うまいが。
アフリカはやめる。
にごった。
にごったらお終いだ。
アフリカの旅はそんなにイージーな旅ではない。
自分の中の全てがそこに向かって初めて達成出来る。

むしろ、夢に見てきたアフリカが、
「こっちが出来なけりゃやるか」
なんてのは正に良くない。

友人が一緒に来なくとも、今年はスペインにしてしまった方が良かろう。
一ヶ月ほど歩いて、一ヶ月ほどイタリアの地中海の方の安宿に泊まって、小説やホームページなんかの書き物をゆっくりまとめてみようかなと思う。

今年は掛け合わせが良くない。
特にここ一ヶ月は悪い。
アフリカを辞めるのも非常に良くない。かといって、今からアフリカにはもう出来ないし、改めて考えると、これまで上手く準備できていなかったのが積み重なって、アフリカ中止になったようにも思う。

逆境に強いつもりだけれども、今年は全てが逆に向く。
九月の休暇でも、小説を完成させるか、完成させる前に故郷に戻ってもう少しネタを追加して厚みを持たせるか迷って、故郷に帰ったのだけれど。
何だかこれまで書いてた方向と逆のことを感じてしまって、そこまでの話が総崩れしてしまった。

女の子の話にしても、今年は我ながら軽薄だった。もちろん、本当に好きだったけれど、手順というか礼儀というか、良くなかった。どうしても上手く出来なかった。

筋肉にしても風邪や場所の確保が上手く出来なかったり、何だか折り合いが悪かった。

パソコンなんかの執筆の道具にしても、自分が求めているのとは全く違うようなものを、なぜか買ってしまった。

もちろん、それらの折り合いの悪さって言うのは僕の努力や知恵が足りてないせいなんだろうけど。
それにしたって、今年は折り合いが悪い。
いかに頑張ろうとしても、まったく逆の方に行ってしまう。

逆境の時に悩むのが、逆らうべきか、上手く受け止めてプラスの方に転換すべきかだ。
逆境にうちひしがれるのも、まあ、それはそれで悪くない。打ちひしがれるのは大事だ。
絶望はいけないとはいうけれど、正確にはずっと絶望のままは良くない。絶望だっていずれ晴れる。絶望の真ん中にいるときは終わらない気もするけど、何だかんだで晴れる。むしろ、ずっと同じ絶望の中にいられたら多分、立派な思想書を一冊書き上げられるだろう。

何だかんだ言ったっていずれ晴れる。
いずれ晴れるだろう絶望は大事にした方が良い。もちろん、自ら好んで絶望するのは下衆というものだ。

逆境を利用するというと、今回のスペインはそうだろう。
ずっと計画して来たアフリカがポシャった。でも、そのおかげでスペインに行ける。地中海の安宿で文をまとめるなんて、文を愛する人なら大抵の人が憧れることだろう。なんかよく分からないけれど、気付いたらそんなことが出来てしまう。
災い転じてラッキーボーイ。

それは逆境を受け入れて上手く使うやり方。

逆境に逆らうというのなら、無理を通してアフリカに行くってやり方だろう。
力でねじふせる。
まあ、これも理にかなっている。
人生思い通りにいかないことも多い、それでもどうしてもいざという時になれば、力でねじふせてしまえる力を持っておくのは大事だ。

今回は逆境を受け入れてみようかなと思う。
そっちの方が上手く流れがつながりそうだ。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 06:48| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする