2016年11月30日

出来ないってのも意外と。

ペンキ屋さんに心洗われている。
服や体は汚れるけれど。

ペンキ屋さんでもらえるお金もきちんと旅行資金にするのが正しいあるべき姿なのだけれど、飲みに出掛けるから半分ほどしか残らない。

倉敷の飲み屋に行けるのは、僕の人生の中で限られている。
多分、松本にせよ福生にせよ。
もしかすると、そのいずれかに定住するかもしれないにせよ、定住しないだろう町の方が多い。
何せ体はひとつしか無いので定住できる町はひとつなのだ。

気に入った町ではいる間に行けるだけ飲みに行きたい。

お酒をカッコイイなどと夢見る歳でもなくなったけれども。
お酒を飲むっていうのは、面白い遊び方のひとつだろうなというのは間違いないと思う。

町が見える。
バーのある町、ない町。
安くて上手い居酒屋があるかどうか。

お酒を飲むっていうのは、お金も使うし、翌日の仕事も疲れる。
割と力を使う遊びだ。
代価が大きい。
スマホのゲームなんかはほぼ代価ゼロだ。正確に言えば代価ゼロのように感じやすい。お金を使わず暇をつぶせる、経済的なように見える。

でも、スマホのゲームは暇を失ってしまう。
暇を潰すってのは難しい。
どんなに忙しい人間にも暇って言うのは存在する。
そりゃ、自分のためだけに世界の全てがスケジュールを組んでくれているわけじゃないから。

ぽかんと浮いた暇を潰すのにスマホのゲームは便利だ。

でも、暇をそう安易に潰してしまっても良いのか。

フェスやキャンプなんかが若者の間でいくらか流行っている。
フェスについてはよく知らないけれど、キャンプなんてのはのんびりと肉でも焼きながら暇を過ごして嗜む遊びだろう。
スマホのゲームで暇を潰しておきながら、休暇とお金を使ってキャンプという暇を嗜む遊びをする。

そう、暇は暇で人間にとって大事なのだ。
ニートが悪く言われる世の中、いや、大昔から人間の共同体ではニート的な人はうとまれるものだったにせよ。
ニートの存在って言うのはものすごく社会を円滑にすると思うのだ。

ペンキ屋に行っていて同じようなことを思う。僕の主な仕事は掃除、物を運ぶことだ。職人さんの助手なわけだ。
僕はペンキなど塗れない。
でも、だからこそ便利なのだそうだ。
職人さんは掃除とか誰でも出来るようなことはしたがらない。
もちろん、それはもらっている給料に見合う専門的技術を使うことを優先するということもあるのだが、単に掃除だの何だのっていうのは、結構疲れる。
窓に散ったペンキを落とすには、カッターナイフとシンナーが必要だ。シンナーを布につけてふやかしてこするのだが、シンナーってのは冷たい。手も荒れる。

誰でも出来る仕事っていうのは意外と、人を宛てるのが難しい。塗ったり出来ない手伝いの人間っていうのは、出来ることなんて本当に掃除とちょっとした助手だけだ。
だから、面倒な掃除をたのまれても一生懸命やる。
一見、ロクにローラーもペンキもできない人間なんて役立たずに見えて、意外なまでに便利で重宝してもらっている。

出来ないってのは意外と役に立つんじゃないかなと思う。

ニート問題も案外同じで。
出来ない人間って言うのも必要なんじゃないかな。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 01:20| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月29日

ペンキシュルシュルレアリスム。

ペンキ屋さんというのは不思議なもので行くと元気になる。
ペンキ屋さんの人たちは基本的に言葉が荒い。ガラが悪い。
普通の人が何も知らずに聞くと、ケンカしてるのかと思うほどに言葉が悪い。

職人さんにもいろいろあるし、その中でもやりたいかどうかの人気ってのがある。
ペンキ屋さんっていうのはとにかく汚れるので人気がないのだ。配管工なんかも人気がない。
左官屋さん、大工さんは人気がある。何せ職人っていう感じがする。ただ、どちらも技術的にとても難しいので根性がいるし、厳しい。
足場屋さんは給料が良いし、技術というより力があれば何とかなる。ただ腰を痛めやすいとかがある。
ペンキ屋さんはイメージに反して技術がいる。ただ塗るだけじゃいけない。綺麗にムラなく的確に塗りたいところだけを早く塗るというのは物凄く難しい。塗料の性質なども様々だ。それでも、イメージとしてはただ塗るだけみたいに思われるところがある。

まあ、ペンキ屋さんは、とにかく汚れる、さらに意外に難しいというわけでいまいち人気がないらしい。

職人さん仕事に限らず、人気のある仕事には最初から良い人材が集まりやすい。たくさん人が来れば、その中から良い人材を選り好みすれば良い。
人気の無い仕事は選り好みが出来ない。

人気のない仕事はみんなしたくない。そんなわけで、若い頃ヤンチャで手が付けられなかったような人が多いわけだ。

でも、そういう元ヤンチャな人たちは、実に仕事をきちんとする。
「早く帰りてぇのぉ、わし、実は仕事って嫌いなんよ」
と毎日言っているが、仕事は実にキッチリやる。
大卒のエリートなどと違って、後ろ盾がないのだ。腕がなければ食えない。仕事が出来なけりゃ、ただのカス。本来、大卒のエリートだろうが誰でも仕事が出来なけりゃカスなのだが、そのことを骨身に滲みて分かっている。
仕事が出来ない、稼げない、これは彼らの中でカッコ悪いことなのだ。
だから、仕事は実にきちんとする。
ただ、仕事は嫌いで早く家に帰りたいのだ。

そして、パチンコとスマホのゲームをよくする。
話を聞いていると、別にどちらも好きというわけじゃないらしい。
時間を潰すためと、仲間内で盛り上がるためにやるのだ。
ブルジョアのおばさんが美術館に行くのと同じだ。別に絵など大して好きなわけでもないけれど、時間も潰れるし、おばさん仲間で話のタネになるわけだ。
「あらまあ、わたしもこの前ダリ展行きましたよ」
っていう具合で。
ブルジョアおばさんにダリのシュルレアリスムなんて全く縁も無い気がするのだが、誰でも名前を知っている有名な画家の展覧会にはおばさんたちは行くのだ。
もちろん、絵が好きなおばさんも中にはいるのだろうが、好きでもないおばさんの方が多いだろう。絵の好きなブルジョアおばさんが多ければ、もう少し画家なんかが育つ土壌も日本にあっておかしくないだろう。
スマホのゲームとパチンコとは実に全く同じ物だ。

まあ、そんなわけでペンキ屋のおじさんたちはスマホのゲームとパチンコをよくしているわけだ。
基本的にスマホのゲームってのは、パチンコが好きな人にウケるように作れば当たる。
パチンコとは実に偉大な時間つぶしだ。
僕にはまだパチンコの面白さはいまいち分からないけれど、
・一人でいつでも行けて、
・あわよくばお金が増えて、
・暇だったりしんどいとかなく、時間が程良く潰れる。
そういう遊びは人間の心を掴む。

ビジネス書にはそういう仕事を綺麗な言葉で勧めるものが多い。
「ユーザーの人生が豊かになるものを提供せよ」
と。
確かにその言葉は真実だ。
結果論としては、全ての生産物はそうなるとベストだ。
ただ、それを技巧的に工夫を凝らして狙ってしまうと、不思議なことに上手く行かないのだ。
むしろ、ユーザーの人生などどうでもよく、自分の人生が豊かになるよう、自分を愛してくれている人たちだけが理解してくれ喜んでくれるようなもの。
そんなのが不意に当たったりする。

ただ、本当にそんな傲慢なスタンスでやるものっていうのは当たっても期間が短い。一部のファンでさえずっとは継続できない。すべからくそうなのだ。例外はない。
ダリにしたってそうだが、ダリは人間の感覚の向こうのものであるシュルレアリスムをやりながら、実にいろいろな媒体に作品を出している。
伝えたい物自体は変わらないのだ。シュルレアリスムの考え方が好きなのだ。しかし、やり方はシュルレアリスムの逆でより多くの人に伝えようとした。しかも、出来うる限り分かりやすい形で。

ダリの映画「アンダルシアの犬」こそダリを語っている。
「アンダルシアの犬」は全ての芸術の中でも現在最も真理に近い完成された作品だろう。
まず心を叩く。
そのやり方はひどく乱暴でもある。
目玉をカミソリで切る。ただ切るだけだと、何でもアリのグロテスク作品なのだが、月が雲を横切るのに合わせて目玉を切る。
ひどく乱暴なやり方だ。
誰しも思う、考える前にショックを受ける。
グロテスクだ。
しかし、単なるグロテスクじゃなく、月にかかる雲の動きと合わせると、不思議なまでに美しさがある。
葛藤が起きる。ひどく残酷な描写だと思うのに、心の底では妙な美しさを感じてしまっている。
これがシュルレアリスムの極地のひとつだろう。
普通では、その二つの感情は組み合わさらない。普通の思考回路ではそういう二つの感情が交差するものというのは考えつかない。
世界を崩壊させることで初めて出現する。

シュルレアリスムのやり方というのは、徹底的に向こう側だ。
こちらの世界にももちろん素晴らしいものはたくさんある。ただ、こちらの世界ではどうしても存在できない物、それでいて人間が本能的に求めるもの。
そういうものを掘り出すだめには、徹底的に向こうの世界じゃないといけない。
それも、安い向こう側ではいけない。

「アンダルシアの犬」という作品は実にそういうった成功例だろう。
絵、メイク、音楽、構成。
全てが完璧な形だろう。

ダリの絵自体はさほど好きでもない。
ハッキリ言えばしつこい。
もちろん、いろんなことをしているにせよ、あまりに一貫性がありすぎる。
溶けた時計とアリ、これは素晴らしい発明だ。
砂漠と海と人工物、これもスゴい発明だろう。
しかし、しつこい。
好きには好きだけれど、変にしつこさのイメージが僕の中では勝手に持っている。

脱線しているけれど。
ダリとスマホのゲームを一緒にしたら叱られるのだろうか。
もちろん、ダリ自身はスマホのゲームの真逆のことをしようとした。手軽な暇つぶしの真逆。
しかし、その結果は、シュルレアリスムを越えたレアリスムだろう。

普通に考えれば、スマホのゲームなんて人間がハマるはずなどない。
それが不思議とハマるものになる。
しかし、誰もそれを愛していない。
しかしながら、それをし続ける。

本来、ありえないのだ。
あり得ない向こうにギクリとするような本当の世界があったりする。

眠い。

そんなこんな。
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2016年11月28日

生きる寂しさ。

アフリカ行きを前にして、何だか行き詰まってしまった。
絶望に沈んでしまっている。

時々、すとんと完全なウツ状態みたいになってしまう。生きているのがしんどくてたまらなくなる。

アフリカに行っても当然だが、金にもならないし、名誉も何もない。
ただ、自分の満足のためだけに行く。
自分の満足のためだけに仕事や生活を全て投げ打って行く。
普通の旅行みたいな楽しい面白いことってのはあまりない。苦労やつらいことの方が多いくらいだ。ただ、なぜか圧倒的に満たされる。人生が満たされる。生きていると感じられる。自転車の旅っていうのはそういうものだ。
そういう満足のためには全てを捨てる。
理由は簡単で気持ち良いことをして生きていたいからだ。
ほどほどにおもしろおかしく生きて、あれこれバランス良くっていうのはしない。
自分が良いと感じた物は徹底的にやりこむ。そうしないと徹底的におもしろさを味わえない。
ただ、それらは実に金にならない。
仕事にもならない。
女の子にもモテない。
リスクが多い。目に見えるリターンは少ない。ただ、気持ち良さというたったひとつのリターンのためだけだ。

ただ、時々、そういうやり方に途方もなく疲れてしまう。
それで、普通に生きてみようかなどと考えることがある。
ただ、普通に生きるってのは苦手なのだ。
南米を自転車で走ることは出来るのだが、大学は卒業出来ないのだ。
なぜそんなことが出来ないのか。

そういうのが積もってきたせいか、絶望が深くなる。
年々、絶望が深くなる。
生きていてひどく寂しさを感じる。
アフリカの後、どうすれば良いのだろう。
アフリカの後のことはアフリカの後で考えるべきだ。そんなことは分かってはいる。
ただ、未来が真っ暗だ。

精神には波があるから、そうやって気持ちが落ち込むこともある。
元気な時は悲しいことだって、それより強い面白いこと楽しいことでフタを閉められる。
多分、それを繰り返し過ぎて、もうフタが閉まらないところまで溢れてしまっているのかもしれない。

単にやりがいのある仕事をして生きていたいだけなのだ。
自転車で走るって言うのは、お金こそもらえないにせよ、僕にとっては実験、研究を続けるとても重要な僕の人生を通しての仕事だと思う。文を書くのもそうだ
それでも、それらはお金にならない。
社会的に認められることはない。
努力が足りないせいなのか何なのかは知らないけれど。

アフリカを目前にして不意にそんな絶望があふれてしまいつつある。
本当に困った。まだ準備も出来ていないのに。
生きているってのは、それだけで何とも寂しいことだ。生きる寂しさにひどく疲れてしまっている。

そんなこんか。
posted by ちょろり at 01:23| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月25日

野球のメモ。

野球なんか久々にしてみる。
故郷の飲み屋のおっつぁんたちが組んでいる草野球。
対戦相手は競艇選手軍団。

そのゲームでは9人と9人で試合をするのに、バッターという役をするのは一人きりだから、残りの17人はバッターなる人を見つめる。バッターの役は全員で回るのだが、面白いのが、このバッターというのがまず打たないことには点が入らない。
もちろん、あとの17人もゆくゆく大事にはなるのだが、まずはバッターが打たないといけない。
バッターというやつは責任重大なのだ。
もちろん、他の全ての人がゆくゆく重大になるのだが、それにしたってバッターの役割はヘンテコなまでに大きい。

バッターに点を取らせないために、敵の九人は守るのだが、ピッチャーなる人がいる。
野球というスポーツはバッターが全てを決めるという点でもヘンテコなのだが、バッターがまず打つか打たないかはピッチャーなる役の責任が著しく大きい。
極端な話だけれど、バッターが全然上手くなくて、ピッチャーが上手ければ他の守る8人というのは全員お役御免になる。
現実には8人がお役御免になるほどの力量差の試合はなかなかありえないのだけれど。それでも、実現不可能というわけではない。

そんなに重大なピッチャーなる役の人はキャッチャーなる役の人の指示に従って進めていく。
現実にはなかなか8人がお役御免ということはない。八人の中でピッチャーの次に何か動く人、しかもピッチャーに指示も出すし、それだけでなく他の7人にまで指示を出す。

バッターは交代制で全員がやるのに、ピッチャーとキャッチャーの方はずっと固定だ。

ヘンテコなスポーツだ。

順にピッチャーとキャッチャー以外の7人について話しても良いのだけれど、まあ、ここらでいったん切り上げて。

要は、野球ってスポーツは物凄くバッターに注目が集まるスポーツなのだ。
しかも、このバッターなる役は野球をするからには全員が避けられない。
どんなに少なくとも17人という人数の目が集まる。

文字にすると難儀な役のようだけれど、不思議なまでに面白い。

ねむいので。
明日はペンキの仕事も早いし。

ま、そんなこんな。
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2016年11月24日

順風満帆じゃない人生も。

じてぼんの先日の旅の記事の方に写真を貼った。
http://jitenshatohon.seesaa.net/
なんだかいまいち綺麗にならない。
もう少し綺麗にレイアウト出来ると良いんだけれど。

本日は航空券を買った。
航空券を買うと、
「さあ、遊ぶぞ。金も時間も命も全部かけて遊ぶぞ!」
と何とも言えない気持ち良さが沸いてきた。

12月21日に関空から出発することに。ソウルを経由してカタール航空に乗り換え、ドーハで乗り換えてタンザニアに着く便だ。帰りは3月22日にナミビアを出て、ドーハ、ソウルを経由して関空へと戻ってくる。
予想外に関空も結構便数があったので助かった。成田まで行くのは面倒なのだ。

南米の時と同様、片道24時間以上かかる。乗り換えが長い。日本ってのは実に金だけある国だなとしみじみ。国際線が本当に限られている。金はあれど、国際線がロクに飛ばない、それが世界の中での日本の現実だろう。
空港使用料だのあれこれ含めると19万円ちょっと。もう少し早く買っておけば15万円くらいで買えたのだが、失業手当だとかのことも考えると、まあ、仕方ない。

クレジットカードが限度額を低くしているので現金で払わないといけない。
限度額を上げたいのだが、いかんせん今はプーなので難しそうだ。30万円くらいまで上げておきたいのだが。山小屋にいる間にやっておけば、実は槍ヶ岳の小屋番はある程度社会的信頼もあるとか何とかと聞くので上手く出来たのかもしれないが。
コンビニで現金支払いで買えるところを探して購入。スカイゲートがだいたいの航空券をコンビニ支払い可能で便利だ。

あとはビザなんかの申請、自転車の準備なんかさえすれば準備は完了だ。
まあ、簡単なものだ。
海外などさほど肩肘張らずとも行けるものだ。

まあ、金と時間を作るっていうところが完了しているからこそなんだが。

改めてそう思うと、人生、順風満帆じゃないってのも良いなと思う。
順風満帆で大学を卒業して、どこぞの企業で勤めていたら、それはそれで幸せだけれど、いや、むしろ幸せだからこそ、こんな風に仕事を辞めて、山で金を貯めて、自転車抱えてアフリカなんてプロジェクトは動かせない。
特に僕なんかは小心者なので、安定した良い仕事に就いていたら、ふと立ち上がって辞めてしまうなんて無理だろう。

「ああ、安定した仕事があって奥さんがいたら良いのになぁ」
そういうことも考える時はあれど、自転車一台で海外なんて遊びは、ちょっと言葉に尽くせない楽しさがある。

順風満帆じゃない人生ってのも良いものなのだ。

ーーー

昨夜は久し振りに故郷の仲間と朝まで麻雀を。
高校の頃、麻雀牌とマットを持って神社に行ってやっていたメンバーだ。
このメンバーでの麻雀はやはり特別だ。

麻雀自体も好きだけれど、知らない人としたいと思うほどではない。パチンコをするよりはよほど面白いけれど、本を読んでる方が楽しかろう。まあ、僕の場合、本を読むより楽しいことってあまり多くはないのだけど。その割にはあまり読まないってのも不思議なことだけど。

麻雀というゲームは実によく出来たゲームで、基本的には8割くらい運なのだが、不思議と上手い下手なんかもある。運の要素が強いのでコンピューターもいつまでも強くならない。
そういうゲームは仲の良い人間と話ながらやると盛り上がる。あれこれ話ながら、勝っただの負けただの、少しの金をかけてやると嬉しい悔しいも出て来るからさらに良い。
将棋なんかは面白いゲームだけれど、実力差っていうのが明確過ぎるし、真剣になりすぎる。同じくらいの力量だと面白いけれど、なかなかそういう相手って見付からない。

友人の一人はすでに子供がいるし、もう一人もぼちぼち子供を作ろうかなとのことで、なかなか麻雀も出来なくなる。忙しくなる。
遊び仲間がいなくなるってのはつまらない。もちろん、しょうがないことなんだけれど。
時々、仲間がみんないつまでもぷらぷらしてりゃ良いのになあ、なんて考えたりすることもある。
結婚も良いけれど、ぷらぷら遊んでるのは楽しいじゃないか。もちろん、仕事は仕事でしないと金がないから困るけれど、結婚はしなくたって困ることもない。
もちろん、世の中みんながそうなると困るのだろうけれど、僕の友人に限定してみんなぷらぷらしてりゃ良いのになあ、などと思うことがある。

まあ、そうは言っても、みんなぷらぷらだと心配でもある。
身を固めるってのは、やっぱり安心だ。
みんながちゃんと順当に、まあ、順風満帆とまではなかなかいかないにせよ、それなりに順当に結婚してるってのは良いことだ。

でも、やっぱり暇する。
みんな昔みたいにぷらぷらしてりゃ楽しいのになあ、とは考える。

そういう点で、東京みたいな都会は良い。
結婚していないやつも多い。
都会と地方の違いってそこかもしれない。都会は遊ぶことも多い。人も多い。
独り身でいたって楽しい。
恋人がいるとより良いのかもしれない。
ただ、結婚すると面白そうな遊びが溢れているのに我慢しないといけないことも多く感じるかもしれない。

飲み屋なんかで特にそれは思う。
ふらりと出掛けりゃ誰か暇な人間がいる。福生なんか特にそうだ。ふらりと行けば誰かいる。
「おう、福生戻って来たの?」
なんて。
まあ、福生は東京の中でも特殊か。

みんなふらふらしてる町って良い。
福生の良さっていうのは、本当に一口に言ってしまえば、みんなふらふらしてる町ってことかもしれない。
みんな仲が良いし、面白い人も多い。
バンドマン、絵描き、ギター職人、小説家、別にバリバリの有名なプロの人ってのは少ないけれど。ちょっと変わった人が本当に多い。

なぜ福生がいつまでもそんな町なのか、背景としては米軍基地の隣だからってのもあるにせよ、多分、土地自体にそういう力があるんだろう。
理屈じゃなくて、風水とかみたいな。
単に米軍基地の隣だからだとしたら、もう少しそんな町が日本に点在していてもおかしくない。
まあ、沖縄も確かにそんな雰囲気だから、米軍基地ってのは確かに大事なのかもしれないけど。沖縄の場合、元々、日本だけど日本じゃないというところもあるから別で考えないといけないだろう。
都市部に大きな米軍基地があるのは実質横田だけなので、他のところと比較は難しい。横須賀もあるか。横須賀はどうなんだろう。住んだことがないので分からない。

たしかに米軍基地があると遊びの町になりやすいのは事実だろう。
軍人さんは独り身の人も多い。
特に日本の基地に一人で来るとなると寂しかろう。
やはり遊びにも出掛ける。
金もある。
そういう仕事、飲み屋だとか女の子の店みたいなものも増える。

ただ、福生の場合、そういう米軍基地とそのカルチャーみたいな場所とは別に面白いゾーンがある。外人は飲みに来ない。だけれど、変人は多い。
やはり福生は圧倒的に変だ。
良い悪いじゃなくて変ってのが的を射ているだろう。
理屈じゃなく、土地の力だろう。

倉敷も飲み屋は面白いけれど、福生の飲み屋の面白さってのは、全世界的に見ても類を見ないだろうなと思う。
アブなさみたいなのさえある。
外人、アル中、マリファナ、タトゥー屋さん、まあ、本当に何でも揃っている。トイレに立って戻ってくると元気になってる人、あれは完全にシャブだろ、みたいなこともある。
もちろん、何でもアリってわけじゃない。ちゃんとした普通の町だ。
何でもアリじゃないけど、何でもアル。

包容力のある町と言っても良いのかもしれない。意外にもホームレスはあまりいないけれど、ホームレスが飲み屋にいたって福生の場合別に変なことはなかろう。
もちろんホームレスが暴れ出したり、店の前に寝たりすれば怒るだろうが、普通の人と同じように普通に酒を飲みに来れば、まあ誰も拒否することもなかろう。

だけれど、福生でずっと過ごすってのは、やはりそれはそれでどこか引っ掛かるところもある。
良い町だけれど、何かが引っ掛かる。

村上龍の限りなく透明に近いブルーっていうのは、実によく福生を描いていると思う。
もちろん、今とは時代も違うけれど、根本的なところでは同じだ。
やっぱり改めて村上龍ってすごいと思う。

でも、まあ、福生だって倉敷と同じで、たいていの同年代は普通に働いて普通に結婚して、ぷらぷらしていないのだ、多分。

いざ自分にしたって、ふとしたタイミングでぷらぷらした人生が終わることもあるかもしれない。
突然に順風満帆になってるかもしれない、ふと固い仕事に就いて奥さん子供が出来るかもしれない。
或いはずっとぷらぷらしているかもしれない。

順風満帆じゃない人生も良いものだし、多分、順風満帆な人生も良いものだ。
しみじみそんな風に思う。

キリギリスの冬が訪れたって、キリギリスも一生懸命やってりゃ多分そんなに無念だとかは思わないんだろう。
多分ね。
キリギリスに聞いてみないと分からないけれど。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 01:58| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月21日

東京。

東京。山の仲間と屋形船とのことで。隅田川だかに船を浮かべて酒食を嗜むという遊びで、何とも東京的な遊びだなあ、と思う。夜景やらも綺麗だし、船の揺れも楽しい。酒を飲むのに船を浮かべる意味などあるかと言えば、船は船、飯は飯、酒は酒なんて方が船と酒とに挟まれて酔うようなこともなくよろしい気もするが、そこら辺が東京的という遊びだ。地方であれば船と酒とは別にする。大阪であれば、まず水がくさいので絶対に出来ないにせよ、仮に水が綺麗なら船は浮かべっぱなしで陸からてくてく歩く桟橋なんかかかっていて、川いっぱいにずっと船が浮かんでいそうな気がする。それに普通の船じゃなく、屋形船というような船でやるのはやっぱり東京的だ。
東京的が良いか悪いかは個人の好みによるだろうけれど、東京でしか東京的なものはたしなめないし、時々する分には楽しいと思う。

福生へと小説家の先生と遊びに出掛ける。
別段、何をするでもなく酒を飲む。小説の話は特にしない。単にだらだら飲んで、トランプ氏が大統領になっただの、宇宙人がどうだの話して過ごす。
ギター職人なごむ先生もふらりと1杯飲みに来たりと、延々だらだら大して酒量は進まずとも、酒を飲む。
夜の9時から朝の4時まで飲んでも五千円も掛からない。
最近は酒の飲み過ぎなんだか、話した内容を忘れてしまうのだが、でも、多分大した話はしていない。大した話もせずに実に七時間も酒を飲んで過ごせるわけだから、やっぱり福生はすごい。とにかく夜があっという間に過ぎていく。
そんな町は今のところ福生以外に見付けられない。

やはり福生は圧倒的に素晴らしいと思う。
単にアル中だらけとも言えるけれど。
善し悪しは個人の好みにせよ、福生的なのは福生しかない。
色のある町ってのは多くない。

先生の家に泊めてもらった。
先生は世間的には偉い小説家ではない。ただの普通のプロの小説家。ただ、プロの小説家はそれだけで偉い。
文筆業という仕事もいろいろある。フリーライター、記者、カメラマン、編集、その他あれこれ。小説家がすごいのは、小説というただの娯楽の読み物、それも世間で必要としている人間はごく少数のもの、それをたった一人でしかも自由勝手に作ってしまって良い、それがプロとして認められる。
プロの小説家とは偉い。
小説で飯を食うのは厄介だ。話のネタにも困るし、そもそもに小説とは別に役立つものではない。
だから、あれこれ細々した書き物の仕事をもらって食をつなぐ。
多くのプロの小説家がWikipediaにも名前も載らず、日々を細々とつないでいる。
小説家はとても偉い。
でも、ほとんどの小説家は世間的には別に偉くもない。

先生の部屋は家賃五万円の古い造りのアパートだ。
しかし、小説家はかくあるべしと言うようなデスクと本があり、あとはギターとちゃぶ台とテレビ、ロフトベッド。シンプルだ。
物書きは大きいデスクを使う。
特に小説はパソコンだけでは上手く書けない。必ず紙で推敲したりする必要がある。ネタ帳を広げてまとめていったりもせねばならない。本、資料を開くこともある。広いデスク、パソコン、プリンタは必要なのだ。
だけれど、それだけだ。
あとはシンプルで良い。家賃は安い方がよろしい。
小説家、かくあるべし。

でも、散らかってる紙は最近はまっているFXの勉強のメモだった。昔の小説の推敲の裏紙の。
小説の方は最近どうなのか、その辺はよく知らない。

それしても、自分の部屋も改めて考えるとそんなだった。いくらかこだわりもあったのかもしれないが、自然とそんなレイアウトになる。大きいデスクが必要。それがどうしても部屋の中心になるし、他に必要な物ってギターと自転車くらいか。
多分、文を書くっていうのは案外大変な作業で、それ以外のことをするってのが難しくなってしまうのかもしれない。

先生は勇気をくれる。
先生ほど僕の苦悩を理解してくれて、応援してくれている人はいないと思う。
小説について何かを教えてくれるわけでもない。たいていUFOの話だ。UFOのことは正直よく分からない。
でも、小説を書き続ける人間の苦悩をよく知っている。
「何か書いてるの?」
そういう話はあまりしない。時々はするにせよ。
何か書ける時期なんてのは珍しい。小説を書くのは時間が掛かる。苦労も多い。大して体は動かさないのに、変に疲れる。タイミングも必要だ。そのくせ完成してもダメだったりすることが多い。すごく疲れる。悲しい。その割に実に金にならない。
小説家は太っている人が少ないなんて話も先生とした。座り仕事なのに不思議と太っている作家は少ないのだ。やはりカロリーを使う作業なのだろう。

先生が酒を飲み、ギターを熱心に弾いたり、UFOを熱心に追い掛けたり、FXを勉強するというのは、不思議とよく分かるのだ。
一生懸命自転車をこいだりなんかするのと同じなんだろう。
小説を書きながら生きていくために必要なバランスを取る活動なのだろう。

先生は僕の寂しさを最も理解してくれて、応援してくれる。
どうしても書いてる人間にしか分からない。寂しさ、苦労。それでいて小説を辞めるに辞められない。
そういうのばかりは実際に体験している仲間じゃないと分からない。

おかんと同じ年齢のおばさんだが、僕の最も感謝すべき大事な友人の一人だ。先生の存在は強く僕の心を支えてくれる。

前の職場に顔を出す。
給料と休みも、上司と仕事方針も合わなかった職場。そんな仕事を不思議なまでに僕はよく思い出す。
偶然、クレーマーがいる。慣れている。あの店では週に一度どころじゃない。
「自分でバラバラにしてネット通販で買ったパーツで組み直しててね、それがガタガタなのさ、それを無料で直せとゴネルのさ」
よくある困った客。懐かしき店長の不服顔。
しかし、そういう客のあしらい方もそろそろ上手くなっても良かろう気もする。無料が嫌なら値段を請求すれば良い。金さえ払えば良いとも思わないが、金さえもらえば仕事だと割り切ることも出来よう。
やはりネット通販が主流の今、パーツは売れない。
車体の販売とメカニック工賃だけで何とかしていくしかない。その二つについてはネットで買えない。
メカニック関係のクレームは少ない。あれでメカニック系についてはかなりしっかりした水準の会社だった。教育なんかもあまりしないのに、なぜかメカニックはいた。すごくマニアックな技術なんかを持っている人はいないけれど、不安無く車体を任せられる。
僕が店を去り、随分なお客さんが店を離れてしまったそうだ。

東京の日々に戻りたいと思う。
倉敷に戻りたいと思うこともあるし、山小屋をずっと続けたいと思うこともあるが、東京の日々がやはり良い。
福生には先生もいるし、先生に似たような人たちも多い。昔のゴールデン街のことは知らないが、多分、そんな空気なんだろう。
飲み屋以外で会うことはあまりないし、小説を志す同年代の仲間はいないけれど。

アフリカは最後の旅になるのか。
いや、まだだろうと思う。
アフリカだけでは多分部品は足りない。何となくそんな気がしている。
もちろん、生きる中で部品が足りる日ってのはずっと来ないとも思う。
だけれど、まだ旅は必要な気がする。
自転車の旅なのかは分からないが。

そう考えると東京に戻る日はまだ遠いのだろう。

東京はあまり好きじゃない。
まず食べ物が美味くない。食べ物は西日本の方が美味しい。
人も東京の距離感というのは難しい。嫌な気取り方の人間が多い。
風景も人口密度が高すぎる。
空気も埃っぽい。
お金がないとひどく惨めにもなるし、生きる金もかかる。

だが、不思議と東京には魅力がある。
東京に戻りたいと思う。

東京の日々は過去の思い出になるのか。
あるいは再び戻る日が来るのか。

まあ、そんなこんな。
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2016年11月19日

旅の前の金問題?

松本岡山の自転車通勤旅も終わった。
山小屋の仲間に屋形船をするからと声をかけられ東京へと。
松本岡山も金を使ってまった。食事もまわらない寿司など食ってみたり、自炊は面倒でほとんどしなかったし、町では酒も飲みに出た。飛田新地なども行ってみたりする。
これまでの自転車旅なら10日なら二万円もかからなかったのが、倍以上かかった。
それでも、普通の旅行と比較すれば安いのだけれども。

半年山にこもっていると、やはりストレスもたまるのだ。自然なんかは良いけれど、生活の不便さ、共同生活相部屋というのはストレスがたまる。
旅行での相部屋でなく、仕事仲間との相部屋なので好き勝手するわけにもいかない。

そうして金を使いすぎてしまっているのは、アフリカ行きの資金を貯めないといけないので、いくらか気の引けるところもある。
ただ、自転車旅行はいつでもいくらでもできるわけではない。
日本海で寿司を食いたいと思えば食うべきで、何も間違ってはいないのだろう。
ただ、不安が募る。
金の不安は厄介だ。
金があるからといっても、アフリカじゃ解決しないことも多いだろうが、金がないと困ることもある。
金はある方が不安は減らせる。

ただ、金がないおもしろみもある。
安宿を探すのもおもしろさの一つではある。
金があると、安宿って泊まりにくい。
野宿なんかその最たるもので、金があるなら野宿よりは宿に泊まるのだ。宿は安全で快適だ。
ただ、野宿は面白い。宿に泊まっても面白さってのはあまりない。

今回はキリマンジャロの問題もある。
キリマンジャロは高いのだ。
ただ、人生でアフリカに行く機会など滅多にないし、やはりキリマンジャロは登りたい。
ペンキ屋でどの程度稼げるかなんか次第か。

東京まで夜行バスに乗り、夜の予定まで国立新美術館でダリ展と日展を眺めた。
ダリは人が多かったけれど、さすがに面白かった。
日展も面白かった。
やはり東京とはすごい場所だなぁとしみじみ。

自転車に乗っていないと不思議と眠い。
実に眠い。
早くアフリカに出発してしまいたいところだが、あれこれ諸事情で12月15日頃に出発の予定だ。
それまではペンキ屋か。

まあ、そんなこんな。
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2016年11月17日

女の人と飛田のこと。

東京でお世話になったお客さんと偶然京都で時間があって会うことに。向こうは休日と言うことで、京都をレンタサイクルで回るとのこと。
昔の話をすると思うところ多かった。
僕が自転車屋を抜けたことで離れたお客さんも少なくない、と。

自転車屋さんは金と休みは悪かったけれど、人からプロフェッショナルとして存在を認めてもらえていた。ファンがいた。仕事をそういう風に認めてもらえるっていうのは、生きていて本当に指折りに嬉しいことだなぁと改めて思った。

京都の町も大阪の町も、実に久々の都会の自転車走行になった。
久々の都会はくたびれた。

大阪の友人が、これまた偶然、午後から休みということで飯を。
せっかく来てくれたからと焼き肉を。
そんなら、せっかくだし泊まりたい、と。

夜に飛田新地に行った。
今年は、女性関係のことに関してはかなり積極的に首を突っ込む。
性的に欲求不満ということもあれど、それ以上に仕事、定住と女っていうのと、やはり人生で結婚というのは大事でもある。しかし、やはり今は女性を愛して付き合ったり、結婚したりよりもとにかく見聞、知識を行動を通して拡げたい。

人によって考え方は様々だが。
恋人がいることで頑張れる人もいるけれど、やはり僕は恋人のことを考えるよりも、自分のことを考えたい。まだ、女の人のために生きられるほどに何も完成していない。
時間も頭もお金も女の人のためよりも、自分自身の人生のため、やりたいことをやっておくために使いたい。

それなら、すっぱり修行僧のごとく女の人を考えず生きるのが一番だろうとは思う。
しかし、悶々と女の人を考えてしまう。
それなら、女の人はお金で解決して、悶々とした気分を抑え込んで何かした方が良かろう。
それとも。

何にせよ、女の人っていうのは、今年の僕には考えるべき大きなテーマで。
その点、飛田新地は驚かされた。

一口に言えば、飛田新地は遊郭だ。
普通の風俗ではない。
値段も高い。
技術が上手とかではなく、とてもクリーンなのだ。
松本での看板の出ていない非合法の店の真逆だ。

あくまで遊郭はお客さんと女の人が二人でお茶を飲んで、その間に同意の上でそういうことが起きるだけで、本来は単なるお茶屋さんなのだ。
もちろん、アレ目的にせよ、昔は一見ではアレはダメだった。最初の何回は話に通って、女の人と店が良いとなって初めてアレも出来た。
現在では一見でも一回目からすぐに出来るものの、やはり遊郭。
他の店とは全く違う。
遊郭とは寂しい人間の心をいやしてくれる。
普通の風俗では、単にたまった性欲をはき出してくれる。

まあ、そっち系の話はあまり詳しく描写するのも気が引けるのでこれ以上は書かないにせよ。

昔ながらの日本の遊郭を守るというのは、とても凄いことだ。
気品とか美しさとかがないと遊郭は守れない。

大阪の凄いのは、そんな飛田新地の隣に日本最後のスラム、ホームレスタウン西成があり、反対側には通天閣と串カツ屋が並ぶ。
くさいものにフタをしない。
それもまた人間だし、存在していることを認めている。
人間味がある。

明日は家に帰りたいけど。大阪からじゃつらいかなー。

そんなこんな。
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2016年11月15日

独立した大人。

昨夜は参った。
本当に怖かった。
雨の夜の日本海はやっぱり怖い。
波の音がすざまじい。風も凄い。
普段の自分では考えられないほどに怖がっていた。

えらくネガティブになっていた。
女の子がどうのこうのは、僕の一番元気のない時の表れだ。

まあ、それにしても今年もまた女の子に失敗したものだ。
別に振られるのを失敗するとは言わないけれど、何ともね、良くない。
最近、女の人を見る目がちょっとない。

その女の子も良い子だったけれど、明らかに自分には合わない。また、違う世界の女の子。
好きには好きだけれど、あまり人生が高められるとかそういうのはないだろう。
その子が悪いのではなく、きちんと見極められていない僕が悪い。

とにかく直感が悪い。
昔はそういうことはあまり無かった。ただ、近年、直感が全然当たらない。
どうしてだか、自分にはあまり合わない人を好きになる。
困ったことだ。

それは自分も痛めるし、相手も痛める。
良くない。

そういえば、じてぼんの方に自転車に関するルートなんかのことは書いているけれど、何だかいまいちつまらない。笑
生きていない。
単なるレポート。
まあ、それはそれで良いし必要ではある。どこをどう走って、どんな風景があるのか。それは大事だ。
でも、いまいち。

帰宅してから写真なんか追加すれば良い感じになるとは思うんだけど、文だけで言うと、いまいちだ。

両方を一緒にすれば良いけれど、そうなると長くなりすぎるし、なかなか上手くまとまらない。

小説ってのはそういうところ良い。
やはりエッセイやレポート、ルポルタージュじゃ手の届かないところが出来る。
そう考えるとやはりアルゼンチン阿呆自転車はルポでもエッセイでもなくてきちんと小説だったと思う。

はてさて、明日は岡山に着くだろう。
失業手当の手続きをしたら、航空券やビザの準備をしてアフリカに行こう。

今回のぷち旅行ではいろいろと思うところもあった。
ただ、やはりアフリカだ。
自転車で過ごす時間には、やはり哲学がある。感動もある。ひどく悲しくなることもある。

三国志に出て来るジュンイクなる軍師は若い頃に旅をする。旅をする前も良い軍師だったが、ボスである曹操に諸国を旅し勉強してきなさいと旅に出る。
ジュンイクに限らず昔の中国の偉い人たちは諸国を遍歴する。遊説する。
もちろん、僕のようにぶらぶらするのではなく、何かしら勉強したりしながら遍歴するのだろうが。
それにしても、なぜそれほどに彼らは遊説なるものを大事にしたのだろう。
昔だから、今のように情報は早くないので、優れた知識を持つ人を直接に探して学ばないといけなかったというのはあろう。
自分に有益な知識を教えてくれる師を探し求め、同時に人々や自然を観察する。
しかし、やはり知識を探しに行くだけじゃなく、旅自体にも価値を置いているように思われる。
松尾芭蕉なんかも旅の人だが、別に良い景色などどこにでもある。
今で言うなら、カメラを持って歩きたい町などはいくらでもどこにでもある。
それでも、やはり旅は大事とされて来続けている。

旅ってのは何なのだろう。
一つに定住している時には属している集団から離れ、一人になることとも言えるだろう。
どこそこの誰々ですと名乗ることはあれど、一人きりには違いない。
自分のみで生きる。
もちろん、行く先々で助けてもらうことは多い。
しかし、助けてもらうにしても、知り合いだからとかではなく、一人の人間として助けてもらうことになる。そこには地位も金もなく、生身の自分一人だけだ。

地位や金に依存せず、自分という人間一つで戦う。それは多分とても意味のあることだろう。独立した一人の人間。

昔、大人っていうのはそういうものだと思っていた。
しかし、案外、そういう人って少ない。
経済的にこそ独立していても、それ以外は全く独立していない。
あくまでその会社やコミュニティの中だけできちんとしているだけということが多い。
それもそれで結構だけれど、あまりそういう人間が多すぎる。

何を学べば良いのか。
広く多くのことを学んでいる方が良い。
ただ、深く学べることは限られている。だから、シンプルに得意なこと、好きなことをきちんと深く掘り下げていれば良い。きちんと深く掘り下げれば他のことにも通ずるようなところまで辿り着ける。
きちんと深く掘り下げるには、犠牲や痛みも必要だろう。金銭的、時間的な投資も必要だ。
そして、やはり広さも必要だろう。
広さがないと、深さにも限界がある。
それ以上深く掘れなくなったら、別のところを拡げる。そしたら、また掘れる。

そんなことしてどうなるの?儲かるの?
どうにもならないかもしれないし、儲からないかもしれない。別段、あまり人から尊敬されたりとかもないかもしれない。
ただ、そういうのが独立した人間、大人ってやつじゃないかなと思う。

ふむ、昔、思っていた大人ってやつはなかなかハードルが高い。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 21:10| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月14日

ウミとヨル。

あれは漁り火かい。
漁り火だったらどうだっていうのさ。
漁り火じゃなかったら何だろうと思って。
海の上に揺れているんだから、漁り火なんだろうよ。
缶コーヒー。
煙草。
漁り火。

何とも寂しいと思う時があるんだ、なんとかならんもんかな?
本当に君は女の子が好きだな。
オレは女の子が好きなのか?
そうじゃないのか?
そうじゃないと思っているんだけれど。
ほら、漁り火が揺れているよ。

雨音や風の音が変に気になる。
野宿だったらいつも鳴る音じゃない。
そう、でも今日は変に気になる。
怖いのか。
うん、怖い。
どうして?
分からない。
煙草でも吸いなよ。
煙がテントにいっぱいになって目が痛くなるよ。
どうした?今日は変なことばかり気にするんだね。
雨がやんだみたいだね。

外に漁り火を見に行こうよ。
何もありゃしないよ。寒い暗い海に光が浮いてるだけさ。
煙草が吸える。
そんなら行っても良いよ。
靴が濡れている。
やっぱり辞めておく?漁り火なんて漁り火でしかないさ。テントの中でも煙草は吸える。

町の灯の方が揺れているね。
光量の問題でしょう。或いは距離か。
あんなに強い灯りを出して、漁師は熱かったりまぶしかったりしないんだろうか。
乗ったこともないし、この先乗ることもないから分からんよ。こんな暗い夜の海の上に出掛けるなんて嫌だよ。
ああ、こんな暗い夜の海なのにね。
仕事なんだよ。
仕事か。
あっちの船は点滅するみたいだ。灯台らしいアレは灯台の割には光る周期が遅いね。
仕事なんだよ。

もうすぐ煙草が終わる。
また雨も降ってきた。
眠ってしまえば朝が来るさ。
暗い夜は?
どこかに帰って行く。
どこに?
どこかの港に。
そうして、また夜になったら戻ってくるんだろ。
そうしたら、また眠ってしまえば良いさ、朝が来るさ。
posted by ちょろり at 20:55| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

予報通りの雨に打たれて。

福井県越前市の海沿い。

雨に打たれて。
目的の道の駅が一本違う国道にあって。海岸のトイレわきで雨の野宿。
足首がなぜか痛くて、ロクに走れなくて。
先日、女の子に振られたりもして。
しょんぼりしている。

元気になったり、しょんぼりしたり。
実に躁鬱患者のような文章が続く。
でも、しょんぼりし続けててもどうにもならないので、元気が出せるときは元気を出すのだ。

海沿いの雨の野宿の中、近くの自販機で珈琲を買ったら当たりが出て、もう一本もらえた。
それでちょっと元気になったのだが、なぜか2本目も勢いで缶コーヒーを買ってしまって、あ、水買っとけば良かった、なんて思い、また少ししょんぼりする。

テントでしょんぼりしつつ、今回の写真を見るが、どれもいまいち。
野麦峠のワンショットだけ良いのがあるが、あとは全ていまいち。
どうも一眼レフが使いこなせていない。コンデジの方が素早く取り出せるし、液晶で構図を取るからローアングルの構図なんかも作りやすい。一眼レフ特有の良い写真というのが全く撮れていない。これならコンデジの方が良い。とにかく枚数が少ないのが良くない。出しにくさってのは良くない。

今回は変に30歳も近いのにってことも考える。
しょうもない。
歳など関係ない。
分かっちゃいるが、なぜか気になってしまう。
良い歳こいて野宿?みたいな。
そんなことを気にするのは、実につまらん。

まさや先生が数年前に30歳が来ることを嘆いていた。
当時の僕にはよく分からなかった。
別に何歳でも関係ないじゃないか、って。
いざ、自分にその歳が近付いて来ると、なるほどなぁ、などと思ったりする。

一生懸命生きてきたつもりが、キリギリスになっていたんだろうか。

何だか自転車をこいでいるのが、ひどく惨めに感じられる。
こんな雨の中を見知らぬ土地で野宿など。

誰かオレのことを愛してくれる女はいないものだろうか。
オレの生き方を肯定してくれ、オレの味方をしてくれ、悲しいときには支え合ってくれるような。
そんな幼稚なことを考える。

幼稚だ。
自分から社会生活を捨て、放浪の時間を求め、ホームレスになった人間に愛を求める資格などあろうはずもない。
それでも、ホームレスにだって同じホームレスの仲間はいる。
それを言うなら、あんたにだって山小屋の仲間がいるじゃないか。
応援してくれている人間もいるじゃないか。
愛が欲しい?
馬鹿な幼稚なことを。他力本願なことを言うな。
第一、愛をもらっても、あんた全部踏みにじるじゃないか。

ちょっと足が痛くて雨に濡れたくらいで馬鹿な幼稚なことを言うんじゃない。
自分のケツを他人に拭いてもらいたいなんて、甘えた馬鹿なことを言うな。

ああ、ほんの少しくたびれているだけか。
足の痛いのが明日には治っていれば良い。
雨もやんでくれていたら良い。
愛についてはよく分からん。

神戸からフェリーを使うつもりなので、晴れれば明後日には倉敷に帰れる。
でも、倉敷に帰るって言ったって、倉敷に何があるってわけでもない。親の家に転がり込んで。
惨めな気がしてしまう。

アフリカ。
出発するまでさえ遠い。
なんであいつはそんなところに行きたいのだろう。
何だかオレはもうグッタリくたびれちまっていて。

予報通りの雨が降ったくらいでブツブツ言いやがって。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 19:58| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

茶色の夢を食べる魚たちのこと。

にごった気持ちがぶくぶくと泡を立てて沈んでいく中で、魚たちは夢を食べていた。
ーー夢っておいしいの?
魚たちは何も答えず一心不乱に夢を食べ続けている。彼らが食べているのは茶色いもの、マシュマロみたいな柔らかさでもないようだけれど、クッキーみたいな固さもない。
ーーねえ、それ、夢だろう、夢っておいしいの?

それで久々に寝坊して人との約束に遅刻した。
起きた時にはひどく体が重かった。指先とか体の端っこに小さな鉄の玉が入っているようだった。
なのに、変に心は軽かった。
心が軽いからすぐに体の重さは取れると思ったのだけどいつまでも鉄の玉は消えない。そのくせ心の方は変に軽くなる。
眠る前に悩んでいたこと、最近の自分の悪い点が、全くすっかり落ちてしまって、変に軽やかに、そのくせ指先の鉄の玉。
魚たちのことは思い出せなかった。

日の目を見たい、日の目を見たい、そろそろオレも日の目を見たい、久し振りに強く心の中に何度も繰り返された。
眠りの前までにそんなことを考えたら多分すごく落ち込んだに違いないなと他人のことのように思う。
心が軽くなった中では、よし、日の目を見よう、そろそろ日の目を見てやろう、やっとオレの出番が来るんだ、もうすぐ夜が終わるんだ、オレには何が出来るだろう、オレは何を作るんだろうなどと、この半年間感じることのなかった妙なポジティブさ、しかもなぜかその突然訪れたポジティブさは何の不自然さもなく自分の心にピッタリ来るように感じられた。

自分でさえ躁鬱なのかと疑わざるを得ないような心持ちだったけれど、躁も鬱もクソ喰らえで、すごく良い感触だ。

それから友人とゆっくりと良いお酒を飲んで、その子を家まで送って、痛めている脚をかばいながら歩いていて、鉄の玉もどこかに行っていて、やっと魚たちのことを思い出した。

どうして魚たちが食べていたアレを夢だと思ったのだろう。
夢といっても、眠るときに見る夢なのか、将来的な夢なのか、どっちなのだか分からないんだけれど、魚たちが食べていたのは間違いなく夢だった。

ーー夢って美味しいの?
魚たちは一心不乱に食べている。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 01:04| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月13日

とりあえずアフリカ。

山小屋の仲間の女の子と一日のんびりと過ごして、今日は自転車に乗らず。
昨晩は奥行きのない町だなぁなどと思ったが、暮らすには良い町なのかもしれない。暮らすに良い町って、確かに普通の町が良いのかもしれない。

そうして、久し振りに、「あー、なんか良い仕事ないかなー」なんて考えている。
女の子とのんびり過ごす。そんな普通の休日を過ごせるためには、やはり仕事をしていないといけない。定住。

でも、それはやっぱり良くない方向に自分が流れているようにも思う。
何を目指しているんだか分からないが、自分はそういう定住とかを求めるのは違う、と思う。

何だか悪い方にイメージが流れることが多い。
自転車屋の仕事をよく思い出す。
やはり自転車屋って良かったと思う。面白かった。あそこには僕を必要としてくれる人たちがいた。
給料や休みの面は我慢できないこともない。

だけれど、仮に給料も休みも良くなってもやはり自転車屋に戻るのは違うような気がする。
かといって、ずっと山小屋も。

一時期、ものすごく思い切りよく判断出来た時期があった。
それこそ自転車屋をやめてアフリカに行くなんて決めたときだろう。

あの時には力があった。
もちろん、単に仕事に嫌気がさしたということもあるにせよ、大きい視点、長い目で見て、どうしてもやっておくべきこと、そういうのを考えられた。
確かにデメリットも大きい選択だったにせよ、力強く決断が下せた。

女の子とは一日中神社へと行ってぼんやりしていた。
海の近くの神社と山の神社と 。
境内を歩いて、適当なベンチに座ってダラダラと話して。
僕はその女の子のことが好きなのだが、付き合おうとは思えない。付き合えるなら付き合ったで楽しかろうが、石川県の女の子と付き合ったってどうしようもない。現実的じゃない。全然会わなくたって、時々連絡して電話するだけで良いなんていう女の子なら良いけれど、そんな女の子はなかなかいないし、やはりこちらもそんなのはどうかなと思う。付き合えば付き合ったなりに暮らしたい。

賢い大人は一夜限りの関係などで最後にするのだろうけれど、そう、さっぱりしたことも出来ない。
道徳うんぬんじゃなく、勇気がないとかでもなく、単に出来ない。
まあ、出来ないなら出来ないで、それはそれで仕方が無い。

何だか小説を書くということにひどく自信がない。
どうしてこんなにも自信がなくなっていくのか。

「いやいや、普通に考えて、小説なんかで飯が食えるわけがないだろ」

力を持たないといけない。
普通に考えれば出来ないことを諦め続けていたら、自分のやりたいことは何も出来なくなってしまう。
普通じゃ考えつかないことを普通にやり切ってしまう。
力強く。

女の子の件も、そのくらいの気持ちで頑張れば良いのかもしれないけれど、そっちはどうしてなかなか全然ダメだ。
まあ、タイミングなんかがある。
女の子にしたって小説にしたって。
焦ったり、自信をなくす必要はなく、自分の出来ることをコツコツと、自分のやりたい方向に向けて進めていくしかない。

そういう中で、本当にどうしてもサラリーマンすべきだと感じればそのための努力を惜しまないだろう。
その努力をしていないということは、やっぱり今はその流れじゃないのだ。

とりあえずアフリカ。
そう、とりあえずのアフリカ。
とりあえずにしてはしんどいことのような気もするけど。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 18:01| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ハリボテみたいな町。

ハリボテみたいな町に泊まった。
次の日に少し知り合いに会う用事があって洗濯やら風呂やらのためにゲストハウスに泊まった。
清潔でサービスも悪くない宿だったが、驚くほどに面白くないゲストハウスだった。
本当にただ安いだけの相部屋の宿。

飲みに出掛けてみても驚くほどにどの店も良くなかった。
表面的には悪くないのだけれど、全然、深みがない。店も客も、大学生をそのまま引っ張って伸ばして大人にしたような。

気分を変えて、女と話でもしてみるかとスナックに入ってみた。
スナックなんかは町の特徴をつかみやすい。もちろん、全てを真に受けるわけにはいかないけれど。
でも、やっぱりスナックもよくなかった。何一つその町を愛しているとかオススメのポイントは出て来なかった。

歩いてみたり、宿や飲み屋の外見なんかは悪くない。
でも、何もかも変に奥行きがない。
ハリボテみたいなヘンテコな町。

一晩きりじゃその町の本当のところなど分からないにしたって。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 02:19| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月11日

ちょろり草って面白い。

やっぱり、ちょろり草って面白いなーと思う。
読み物として面白いのかは分からない。僕は書く側なので。書き物としては、やはり抜群に面白い。

白川郷のことなんか勉強になった。
実のところ賢い内容なんかではなく、あれはインターネットで少し調べれば分かることだ。
それにしたって、多分、普通に生きてりゃ知ることはなかっただろうし、普通に自転車乗ってるだけでも分からなかった。じてぼん、自転車の方のブログだけでもやはりそんなことは調べなかった。自転車こいでちょろり草を書くからこそ知ることが出来た。

ちょろり草は実に無差別級だ。
話題は実になんだってOK。
別に正しさなんかは実のところどちらでも良い。正しくないこともちょくちょくあるだろう。大学も途中で辞めているし、専門職で何か学んでいるわけでもないから、僕には専門知識っていうのが何も無い。それでもOKなのだ。
ちょろり草は何でもOK。

言ってしまえば王様の耳はロバの耳の穴という側面もあるのかもしれない。
しかし、案外、これが誰にも見られない日記帳だと上手くいかないものなのだ。
じゃあ、誰かに伝えたいのかというと、特別、誰にと言うこともない。
何を求めているのか、さあ、何を求めているんだか。

久し振りにまさや先生と電話したらあっさり数時間話し込んでしまった。
筋肉の話から始まって、魂のステージがうんたらかんたら。
僕とまさや先生は筋肉とメンタルのトレーニングがとても好きだ。
でも、あれこれ考えていると、驚くほどに誰とも話が合わなくなって行ってしまう。本を読んだりあれやこれや。多くのことを知るほどに人と話が合わなくなっていく。
別に難しい話がしたいわけじゃない。
それでも、白川郷を見て、「ああ、素敵だな」で終わってしまうんじゃなくて、アレコレ思いを巡らせ、考える、そんな人といろいろ話をしたいのだ。

土方仕事の人は、そんな考え事よりも、女、飯、車の三つが揃っていれば人生幸せと言う。
まあ、そうだろうと思う。いい女を嫁に取り、そのために汗水流して働く飯は美味いし、良い車に乗れば気持ちも良い。すごくシンプルで、幸せな生き方のひとつだと思う。

時々、僕とまさやさんなんかは間違っているのかなと思うこともある。
そんなわけの分からんことをボソボソ考え込んだり、一人きりでバーなんかで飲んだり。
そんなのは変人で無駄な努力。疲れるばかりで、むしろ損をする。
間違っている。
そう思うこともある。

何かを得れば何かを失う。
旅をすれば、得るものは多い。
失うものも多いのだろう。

普通でありたいと思うことは少なくない。
普通に仕事して、奥さんがいて、時々、昔の仲間と飯を食いながら何か話して。
ああ、そんなの良いなあって。

普通は生きてりゃいろいろ事情もあって、普通に生きることになる。
でも、確かに「二十代何してたかなー」と考えると、本当に冗談抜きで、自転車こいで小説読んだり書いたりして、事情もクソも全部放り投げて、よくそんなんで飯食って来られたな、遊んでるだけじゃないか、なんて。峠を登ってると、ふと思った。

じゃあ、アフリカから帰ってきて、来シーズンの山小屋が終わったら、カッチリ普通になりますか?
そう考えると、あー、どうだろうなー、山小屋はどうか分からないにせよ、かっちり普通、あー、分かんないなー、普通は無理じゃないかなー、いや、すごく普通の人間だけど。
でも、仮に自転車メーカーの仕事のツテがあったりしても、研究開発や職人みたいなことはしたいけれど、営業なんかはやりたくないなー、給料も休みも良いだろうけど、それなら、給料も休みも悪くても自分の店なんか持ちたいなー、って思う。

なんで自分の店なんか持ちたいかって、冷静に考えれば分からない。
儲からないだろうし、むしろ、リスキーだし、そんなら前の会社で頑張って店長になるとかでも良さそうな気もするんだけど。
何でだろう。
バーとチャリ屋とゲストハウスの古本屋なんかくっつけたような店が出来たら面白いのになーなんて思うのだ。
そんなの儲からないだろうし、結局、案外やってる仕事内容は大して変わらなかったりするのかもしれないし、そのくせ大変だろうに。

好きな女の子と一緒になれば、仕事が楽しくなくても、奥さん、子供のためにって頑張れるのかもしれないけれど、人生、長くはないし、自分の楽しくない、興味も無いようなことを無理して頑張るなんて、むしろそれこそゴマカシみたいな気もする。
自分の人生に無責任だ。奥さん子供に責任を投げて生きてしまっている。
それが悪いこととは思わないし、むしろ、とても良いことだろうとも思うんだけれど、あー、僕はそういうのはしたくないなー、って。

そう思ってる内にドンドン歳を取って、別段何が出来るわけでもない、社会のクソミソみたいになっちまうのかな、どうかなー、別にサボったりせず一生懸命生きてるつもりなんだけどなー、などと。
安易な幸福に流されず、こだわりを持って、アレコレしようと頑張ってるだけなのになー、って。

そういえば、マサイ族のジャンプで鬱は治るらしい。
マサイ族は悲しいことがあると、その場で思い切りジャンプするらしい。そうすると元気になるらしい。
確かにジャンプって大人になるとしなくなる。改めてしてみると、何だかすっきりする。
理屈っぽく言えば、体の中でも最も大きい筋肉である大腿の筋肉を一気に伸縮させるわけだから、ポンプみたいに体中を血がめぐる。それに筋肉を動かすと人間の脳みそは目覚める。野性に戻る、元気に強くなる。

理にはかなっている。
そして、実際、鬱に対して効果のある治療法の一つともされているそうだ。

自転車なんかも大腿の筋肉を伸縮させる運動で、それでいろいろスッキリするのかな。

ーーまあ、いろいろ不安もあろうが、やってみたいことは片っ端からやっちまうと良いし、とにかくいろんなことを色々やってみると良いさ、若い間の経験は重要さ。ヤバいことでも何でもさ、失敗だってどんどんしてさ。
そんな風に小説家の先生が昔言ってくれて、何だかとても心の支えになっている。

失敗だってなんだってOK。
どんどんやりたいようにやってみると良い。
どんなことでも糧になるから。
まあ、すごい。
先生はやはり凄い。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 23:25| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

白川郷。

白川郷の道の駅でのんびり野宿している。
親切なおじさんのおかげで人通りの少ない裏手のガレージを使わせてもらえている。渓谷と紅葉、月が美しい。
自転車について詳しいことはじてぼんの方に書いている。
http://jitenshatohon.seesaa.net/

はて、白川郷。
実に謎だ。
世界遺産だけあって物凄く良い。実に素晴らしい。
山の友人きむねーの実家が合掌造りの民宿なので少し寄ってお茶を頂いて、実に贅沢な時間だった。
泊まっていけばと誘われたが、野宿でのんびりごろごろやりたい気分なのでと道の駅へ。

しかし、なぜこんなところに人間が住んでいるのか。
自転車で来ると非常に分かりやすいが驚くほどの山奥にある。そんじょそこらの山奥じゃない。飛騨をなめてはいけない。一般的な山奥のそのまた山奥が飛騨であり、その最深部のひとつが白川郷だ。
四方を山に囲まれた渓谷沿いのわきの狭い土地に集落がある。
さらに豪雪だ。今はまだ雪はついていないけれど、冬場には大変なことになる。

白川郷の形成は諸説ある。
まず流刑説もある。
それも納得するほどの秘境ではある。

しかし、素直に考えるなら白山信仰じゃなかろうか。
白山は白川郷の西にある山だ。北には金沢がある。金沢と言えば一向宗だ。
その修行僧の子孫なり関係者と考えるのが妥当な気がする。
しかし、金沢から白川郷だと実に白山を挟んで反対になるので、また疑問は残る。

流刑の線が薄いのは、日本海には流刑地として手頃な島はいくつかある。山奥も不便ではあるが、かつての交易、(主に蚕と火薬、後に詳しく触れる)を考えると流刑地としては脱走がしやすい。

山間の村の起源にはいくつか説もあるが、流刑地としてよりは、生活費の高い都市での生活を避けて山奥に新規に集落を作るというものが多かったようだ。
主要街道では宿場街という成立もあるらしい。
都市での暮らしはアレコレ金が掛かるし、農地も限られていたり、そうなると貧困層も現れる。まあ、現代と同じ悩みは昔もあったわけだ。
下手に都市で暮らすよりは、新規に山奥に村を開いて木材を加工したり蚕を育てる方が暮らしやすいという人もいたわけだ。もちろん、リスクも高いにせよ、都市で最下層みたいな暮らしをするより良かろうと。

白川郷に住み始めた人間もそういった人間なのか。
或いはそういったお坊さんたちだったかもしれない。
その辺は定かではない。

何にせよ、白川郷での主要生産物は蚕と火薬だったことはある程度はっきりしている。
蚕は飛騨、信州などの山奥では有名だ。
火薬が白川郷の特徴の一つであり、加賀の一向宗とつながるものだ。
一向宗と言えば一向一揆。
戦いにおいて火薬は必須だ。

火薬とは硝酸カリウムだ。化学式で言えばKNO3だ。
これを蚕の糞を発酵させて作るわけだ。

しかし、火薬なんかを人目の付くところで大量に生産、保管していれば、当然幕府に目を付けられる。
そう考えると白川郷は火薬作りにはうってつけだろう。

そう考えていくと、軍事秘密を守れる人間でなくては白川郷に住ませられない。単なる流刑者や普通の貧乏な小作人では困る。
白山信仰、一向一揆などと合わせて考えると、やはり僧たちが作った集落という線が浮かび上がる。軍事秘密を守れるある程度の位の僧とその一門なんかが妥当な気がしてくる。

また、かつては狭い土地で作れる食料が限られていたので子供は一族で長男のみと決まっていたとも言う。
豪雪の山奥で軍事機密を守れて、決まりを厳格に守れる。やはり普通の人間では難しい。修行僧みたいな人でないと難しいだろう。

それにしたってやはり不思議だ。
火薬なんかを揺れる山道を越えて街に持って行くのは相当の難しさがある。揺れで火薬が暴発する可能性、濡れては使い物にならないなど問題は多い。
ましてや、加賀へと向かうには白山が横たわっている。

軍事秘密を守るには最適だとは言えど、かなりの無理がある。
そこまでして軍事基地を作る必要があったのか。

金沢の町は明日少し通過だけするが、実に迷路のような街だ。くねくねと道が曲がりくねり、行き止まりも多い。暴走族がほとんど発生しなかったのもそのおかげという話もあるほどだ。昔では守るにやすく、攻めるにかたいという城下町なのだ。

白川郷の軍事基地が一向一揆側のものであるとすれば、その相当な強さの軍から城を守るために金沢の町は防衛を強くしたとも考えられる。
そもそもに一向一揆とは、加賀を平定する際に一向宗の門徒に頼ったものの、その後の平和の中で扱いきれなくなり、弾圧にいたり、その反発としてぶつかったなんていう流れらしいのだが。

まあ、その辺はよく分からない。
日本史は詳しくない。

それでも、白川郷に実際に行くと分かるが、実に不便の極みの土地である。
合掌造りの家屋は物凄く労力も維持費もかかり、それじゃないと豪雪の冬を過ごせなかったのだ。なにせ一軒の合掌造りの屋根に積もる雪の重さは100トンを越えるという。雪が積もりにくいよう尖らせてもそれだけの雪が付く。
また、その屋根の材料なんかの加工が非常に厄介らしい。

それだけの労力をかけても存在する必要があった集落、実に謎に満ちている。

今の白川郷の南、川で言えば上流の方には御母衣ダムがあり、そこにあった多くの村が沈んだという。
現在の一番奥の合掌造り集落はダムに沈むのを逃れたということと、それゆえに助成金を得られず現代の文化住宅に建て替えられなかったという背景もあるそうな。

それが、時代変わって世界遺産になって現在では日本有数の観光地、ウハウハである。
まあ、何があるんだか分からないものだなぁと思う。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 19:27| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月09日

通過点なのか。

野麦峠にいる。
正確には野麦峠から高山へと少しくだったところ。
まあ、寒い。マイナスだ。
でも、まあ、マイナス5度くらいまでなら野宿も何とかなるのだ。
それより寒いと、まあ、それでも何とかするけれど、もう快適性は求められない。

自転車の話はじてぼんの方に。
http://jitenshatohon.seesaa.net/

昨晩はぶーさんの家で飲み会だった。
ぶーさんは60過ぎの小屋番。
実に元気な山のじいさん。
本が好きである。

ぶーさんと話していて、
「やはり山小屋っていうのはあくまで通過点。長くいるべき場所じゃない」
と言う話になった。
ぶーさんの言うところでは、ぶーさんの世代はやはり仕事は終身雇用、大人になれば60まで働くのが普通だし、そうでないと社会人として問題だ、そういうのが常識とされる世代だった。それに山小屋では何もスキルが身に付かない。こまごました雑務は出来るようになれど、プロフェッショナルになれない。大工仕事にせよ何にせよ趣味の延長程度にまでしかなれない。
どうしたって半年の仕事で、来年も来るかは分からない。そういう中ではどうしてもスキルを身に付けることが出来ない。

まあ、それもそうだと思う。

しかし、半年間休みのある仕事っていうのはとても魅力的だ。
確かに昔は休みっていうのは、あくまで休みでしかなかった。半年も休んでだらだらしてるのはまずい。
しかし、今は休みは決してタダの休みとは限らない。仕事一本のサラリーマンではどうしても限界がある。休みを使って、特にそういう長期の休みを利用して人間力を上げるというのは社会的にも重要になってきつつある。
分かりやすいのが旅行関係のビジネスだろう。他にも国際感覚を求める仕事も増えつつある。
さらには、昨今はコミュニケーション能力の低下などとさけばれる時代なので、いろいろな経験をしていて人とのコミュニケーションが上手い人というのは重宝される。
終身雇用が壊れつつある時代には、半年間休みの仕事っていうのは、結構価値があると僕は思っている。

それでも、ずっと山小屋でいるわけにはいかないというのも分かる、
でも、ずっと山小屋の人もいるし、とても魅力的な人もいる。
だから、一概に山小屋はあくまで通過点と考えるのはどうかなと思う。

合う合わないもあるけれど、どんなものにでも合うような人間もいる。
どんなものにでも調和の取れるような。懐の深さみたいなものを身に付けたいものだ。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 21:21| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月07日

良い実家。

話の流れでオキタさんの実家に来ている。
オキタさんは頂上の小屋の人で、そんなに物凄く交流があるというわけでもないのだけれど、仲良くしているコイヌマ氏が行くので良かったら一緒にと誘ってもらったので、ふらふらとくっついて来てみた。オキタさんは良い人なので嫌な顔など全くせず、すんなりと迎えてくれた。
家は昔ながらの日本の家で、新穂高温泉にある。温泉旅館というわけではないが、かつて民宿をしようかと考えていたこともあったそうで実に居心地が良い。新穂高温泉の湯を引っ張って来ているので、風呂が非常に素晴らしい。

手ぶらで良いと言われると、本当に手ぶらで行ってしまう人間なので、お土産のひとつも持たない。
勝手についてきて食事と寝床、そして風呂まで頂いて、のこのこ帰る、本当になんて野郎だ、などと自分でも思うのだが。
しかし、手土産っていうのは何を持って行けば良いものなんだろう。菓子折なんかが良いのだろうか。菓子折ってどこで買うんだろう。それに菓子ってもらっても微妙な気もする。
相手が酒飲みなら二、三千円程度で良いので何かお酒を持っていけば良かろう。しかし、そうじゃない場合、どうしたものか。
岡山から行くなら駅で売っているような名物でも買っていけば良かろう。しかし、松本から岐阜の高山に行くのに、松本土産なんてのもヘンテコだ。
むしろ、何も持たない方が相手にも気を使わせなくて良い気がする。そんなわけで、毎度、どこに行くにも本当に手ぶらで行ってしまう。

僕の実家には来客など来ることもなかった。
父は交友関係というものがほとんどないようだったし、仮にそういう人があったとしても、家族がいる自宅に呼ぶほどの仲ではなかったのか、あるいは自宅に呼ぶ必要性もなかったのだろう。
母はいくらか友人がある。
でも、そんなに改まって菓子折を持ってくるということもなかった気がする。
親戚なんかも父も母も一人っ子だったのでいない。
手ぶらじゃまずいので何かを持って行くにも、そういう文化を知らないので何を持って行けば良いんだか。
まあ、やっぱり菓子屋で何かちょっとした菓子を買って行くのが良いのだろうか。

手ぶらで行くと、コイヌマ氏は、
「庭でとれたので」
なんてユズを持ってきていた。
これは、実に素晴らしい。相手にも気を使わせない。庭でとれたものっていうのは、ちょっとした手土産としては最高だろう。
しかし、僕の家には庭がない、それどころか今は家がない。

それでも、何周かめぐりめぐって考えると、まあ、手ぶらも悪くないのかという気もせんでもない。
やっぱり気を使わせないってのは良いような気がする。
なんかよく分からないやつだったけど、まあ、得もなく、害もなく、別に気を使わなくてほっといても良いので気楽だ、そういうのは案外良いのかもしれない。
気のせいか。

古い家は、不思議と安心感がある。
良い実家があるっていうのは良いなあ、などと思いつつ。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 23:47| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

げざん。

下山した。

マリッジブルーみたいな具合で、旅に出る前にはいくらか陰鬱な気持になる。トリップブルーとでも言おうか。
僕は女じゃないので、マリッジブルーの本当の心境は分からないが、ずっと目指していたものを目前にして、その先はどうしようってそんなもんなんだろうか。
理屈にするとよく分からない。
無理に理屈にする必要もない問題なのだろう。

今年は久し振りにゆっくりと本が読めた。
下山前に沢木耕太郎を続けて二本読んで、初めて小説家兼UFO研究家のまゆみ先生が僕にルポルタージュを学べと言った意味が分かった気がする。
これまでの自分の書いた小説に対する、「おもしろいけれど、これは小説なの?」という問題も少し解けた。
そして、下山してから手塚治虫「人間ども集まれ!」を読んで、山小屋で読んだ海野十三「十八時の音楽浴」を思い出して、執筆を狙っていたエイセクシュアルの問題なんかも、すでに昔に偉人たちがやっつけてしまっていた問題だったのかと突き当たった。

読書については、非常に充実した一年になりつつあるが、執筆の方はさっぱりいけない。
読書の成功の理由はいくつかあるだろう。
まず、山小屋のライフスタイルのおかげだ。他に娯楽があまりないのだ。特に今年は人間関係が実にやっかいなことになったので、人から出来る限り遠ざかっていたのも良かった。
次に電子書籍の導入だ。海野十三は電子書籍で読んでいる。
そして、良き古本屋との出会いもあった。良い本を紹介してくれる。ジョークも分かる良いおっさんだ。
そして、長期休暇が十分すぎるほどにあった。自転車で走りたかったルートをやれた。読書以外の欲求が上手く解消できたので、その分、読書も充実した。
どちらかというと外的な環境の充実によって、読書に関してはかなりの収穫があった歳だった。

さて、下山した。
山のメンバーもそれぞれの家へと帰って行った。僕は家がないので、寮にいる。うそだ。本当はチャリで倉敷に戻るけど、三日ばかり松本に用があるので、寮でのんびりやっている。美鈴湖のわきのチャリカフェに行ってみたり。そこまでは結構坂を登るので割と楽しいのだ。
松本の街は良いジャズ喫茶もあるし、当然、近辺には良い峠もある。
でも、松本の街に住みたいかと聞かれると、答えはノー。なぜだろうか。よく分からないけれど、住みたいとは思わないのだ。

じゃあ、どこに住みたいのか?
何だかいずれもノー。
どこにも住みたくないのか?
やっぱり、それもノー。
やっぱりどこかに住みたいのだ。
放浪癖があるの?
それもノー。
別に放浪なんかしたくない。
テントの暮らしも楽しいけれど、テントは寒い。悲しい。
お金があったらホテルに泊まる?
んー、どうだろうか。やっぱり野宿は気ままで楽しい。野宿の夜ってシンプルで良い。一日中走って、ご飯食べて、眠る。
良いホテルに泊まった、良い飯食って、温泉入って、酒を飲むよりも、自転車で見知らぬ街でする野宿ははるかに楽しい。
旅をするなら野宿が良い。

自転車でふらふらする楽しさっていうのは、多分、動物としての喜びなのかなと思う。

でも、ずっとふらふらしてるのは寒い、悲しい。
そう、寒くて悲しいのだ。
夏場なら良いのかというわけじゃなく、精神的に寒くて悲しいのだ。
一人ってのは気楽で楽しいってのも事実だ。
そして、旅をしていると出会いがあるので、程良く孤独でないというのも事実だ。
でも、やっぱり放浪は寒くて悲しい。お腹が減る。

旅で良いことと言うと、絶対的他人、部外者でいられることもあるのかもしれない。
内側に入れば汚いものでも、外から見ていれば良いところばかりが見えているかもしれない。

出来れば倉敷には戻らず、どこにも寄らず、静かに日本を出発したい。
一ヶ月の期間というのは失業手当待ちだ。山小屋のような季節労働は特例で一ヶ月だけで失業手当がもらえるのだ。約一ヶ月分の給料がもらえる。働かずして飯が食えるわけだ。
そんなの良いんだろうか、という気もするけれど、もらえるものはもらう。
当然だが、みんなもらえるものはもらう。
助かる話だけれど、手当をもらうために一ヶ月意図的に働かずに待つってのも実に変な話ではある。
そんなものさっさと渡してしまって、早く働いてもらう方が国としても助かるだろうに。
そうすると、失業する方が得になってしまうと思う人もいるかもしれないが、仕事があるなら失業しない方が良い。
ただ、不思議な話なのが、ペンキ屋の手伝いに行くより、失業手当を待つ方が収入が大きくなってしまうのだ。
働かない方がお金をもらえるなんて実にヘンテコな話だ。

それにしてもアフリカ。死なないようにだけ気を付けねばならない。別に途中で自転車が盗まれたって、生きて帰って来りゃ、また来年でも行けるかもしれない。

それでも、仮に死んでしまったら。
死体は、現地で現地のやり方で処分してくれれば良いと思う。出来るだけ金のかからないやり方で。死んだ後くらいせめて日本に帰って、初めての静かな定住をしたいような気もするけれど、やっぱり自分はじっとしているとソワソワするだろう、冷たい墓石を上に乗せられて、乾いた骨になって小さなツボに入るのは嫌だ。
水葬の習慣のある地域ならそれが良い。或いは動物のエサにするとか。水に乗れば潮の向くままゆらりとどこかに行けるし、動物に喰われれば、その血肉となって、またどこかに行ける。
もちろん、死なずに帰って来るつもりでいる。手足がきちんと四本揃って、目が見え、耳が聞こえ。自分の力で、また自分の行きたいところに行けるように。
それでも、もし、死んでしまうことがあれば、死んだ後くらいせめてヘンテコなジョーシキじゃなくて、自然に生き物が地球の上で死んだのと同じようにして欲しい。

まあ、死なないように。
日本に帰って来たって、あまり良いことはないにしたって。
両手両足あれば、自分の行きたいところにまたいつか行けるだろう。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 02:43| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月04日

人生の熱源へ。

二年ほど前からだろうか。
医者をもう一度目指してみようかなんてことを、ふと考える時がある。

医者を目指すのは金が掛かる。
金は何とか工面も付く。
頭がいる。
若い頃、異常なまでにまわってた頭でも失敗したのに何年も学問から離れた頭では相当に難しいだろう。

どうして医者になりたいかを考えると、単純になりたいからというのもあるが、どんなにせっせと頑張っても同級生の半分程の年収が悲しくてひもじいというのがやっぱりある。
不純だ。

それでも、それは経験の上にくる悲しさかもしれない。
学歴も資格もないと、出来る仕事っていうのが本当に限られてくる。
もちろん、自転車屋も良い仕事だ。山小屋だって。ペンキ屋も。
それでも、実際にどんなに頑張って、明らかにつらい思いを重ねても、その見返りってのはやっぱりフェアじゃなかった。
ああ、本当にそういうものなんだな、って実感して、バカバカしいなってしみじみ。

海外に行くにしても、チャリでひいこら走るのも素敵だけれど、医師の免状ひとつあるかどうかで出来ることも変わる。

それにしても、小さい。
そういうのは小さい。

試験に受かるためにする勉強なんかを、ほんの少しのステータスのために必死こいてやるなんて小さい。
最良の勉強、読書なんてのは、つまるところ大昔のギリシャの哲学者が示している。
何の役にも立たないし、する必要もないこと、だけれどやりたいことをただ追い掛け続けてみる。一日中タルの中に居座って思索を続けてみる。自分の町が燃えて、敵の軍が走り回って市民を皆殺しにしている中で熱中している数学の問題の邪魔になるからといって、邪険にして殺される。そういう勉強ってのが人間にとって最高の贅沢だろう。

それは実用性のなさとかじゃない。
実用性のあるかないかじゃないのだ。
何の関係もないのに、ディーゼルエンジンの仕組みの本を読んで、へー、なんてため息をつきながら、じゃあ、こういうのはエンジンとして使えないのかな、とかぶつぶつ言って、自腹で無駄な試作機なんて作って、これで空なんか飛べたら面白いのに、なんて公園の芝生に引っ張り出して。
そういうのが、やっぱり一番贅沢な遊びだと思う。

その点、試験に受かるための勉強ほど貧乏くさいものはない。

それでも、おもしろさはある。
医学部を受けるには、まず戦略が必要だ。まず教科を絞る。受験の時期を決める。どの参考書を使うか。予備校はどうするか。
さらには入学金はいくらか、年間授業料と生活費はいくらか。
費用はどう捻出するか。新聞奨学生を狙うか。
その間の生活で医学だけを勉強するのか。
卒業後にどうするか。親が開業医じゃない限り、大学病院のインターンを経てその後を考えねばならない。
わざわざ十年近い年月を捨てて、その後。どう生きたいのか。

ゲームとしてみると非常に面白い。
難易度も凄く高いし、満足感もある。
クリア後の話もいくらでもある。
道徳的な満足も高い。

ただ、貧乏くさい。

貧乏人だからなのかは知らないけれど、貧乏くさいことをするのが凄く嫌いだ。
良い服なんか着なくても良いし、良いにおいのする洗剤だのシャンプーだのも必要ない。
むしろ、貧乏人があくせくそういううわっうらのブルジョワごっこみたいなのをするのこそ貧乏くささの極みだと思う。
見た目がどうあろうと、気品ある人っていうのは一つの動作、しゃべり方に違いがある。純金のネックレスなどぶらさげない。

自転車や楽器なんかでも共通のことが言えるけれど、案外本当のお金持ちってこだわらない。
もちろん、上達して高いレベルでやるのに必要な程度のものは揃えるけれど、豚に真珠みたいなものは買わない。
どこからが豚に真珠になるのか。
その辺は難しいけれど、見栄とか馬鹿な基準ではものを選ばない。
自分に必要なものを考慮して手に入れる。
金持ちってのはセンスがある。
まあ、当たり前か、センスがないとくだらないものに金を使う、金なんて使おうと思えば底なしだ。
使うべきところには惜しみなく、使わざるべきところは倹約する。
その基準はセンスだろう。頭の善し悪しとは違う。

そういう中で考えると、自分の医者を再び目指そうなんていうのは貧乏くさい、センスのない話なのかなとも思う。
センスのないことはしない方が良い。誰の目にも不愉快だし、結局自分も長い目で見れば得がない。

でも、自分のやりたいことをワガママに傲慢に自分の努力と才能だけを剣と盾に構えて押し通してしまう。
それはやっぱりカッコイイ。

アフリカから戻ってきたときに、まだ医者を目指してみたいと思ったならやってみても良い気もする。
そのときは全力だ。金も時間も体力も全部注ぎ込んで確実に仕留め切っちまうべきだ。
仕事も何もかもアフリカのために注ぐように。

人生は短くない。
でも、やっぱり長くはない。
どちらかと言えば短い、限られている。
これが良いかもしれないってのは、確信が持てるところまで突き詰めて、必要があれば全て放り込んで、出来る限りの最短でたどり着くのが良い。もちろん、焦るコジキはもらいが少ない。
単に焦らず、遅れず、然るべきコトを叱るべき時にやり切るだけのセンスが必要だ。

やっぱり今はアフリカだ。
申し訳ないが、鬱病の友人だろうが、ベルリンの友人だろうが。
今、僕が本当に求めている物は提供できないだろう。
僕が求めているのは熱だ。
人間が生きていく上で、自分自身しか触れられない一番エネルギーの高いところ、熱だ。

あとは風さえ上手く吹けば。
金もたまった。
気分も決まった。
あとは熱だ。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 11:56| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする