2017年04月13日

お金って良いよねー?

金を使うっていうのが好きだ。
金もないクセにね。

でも、金が無い中で使う金ってのが一番面白いんじゃないかなって僕は考えるんです。

どうしてお金を使うのが好きって、僕の作れないものが手に入って、僕の知らなかった遊びを知れるからね。
それがいちばんの理由です。

でも、それ以外の理由でもお金って使う。
例えば、僕の一番好きな食べ物はもやしです。
もやしって最高の食べ物だと僕は思うんですよね。
まず美味いじゃないですか。モヤシにペッパー、ソルト、チーズやると、あれより美味いものって世の中にあるのかなって思うほど美味しくなるじゃないですか。
しかも、安いクセにしゃきしゃきしてて、量もいっぱいあるから、目の前にすると、ウヒョーって思うじゃないですか。
てんこ盛りのモヤシってキラキラしますよ。
しかも、腹一杯食べても気持ち悪くならない。油物とかご飯って食べた後気持ち悪くなったり、眠くなったりするけど、もやしってそういうのがない。
で、栄養なんかなさそうなクセに実はある。

そんなわけで、モヤシを買う時って新しい出会いなんかの要素ってゼロなんですよね。
自分じゃ作れないにせよ、豆を買ったら育てれちゃう。
でも、モヤシってたまらない。
繰り返し繰り返し食べちゃうわけですよ。

余談だけど、山とか海外でのストレスの一つに多分モヤシってあると思ってる。モヤシなんか食べなくても何ともないとは理性では思うけど、体はモヤシ大好きで。ストレスになってるんじゃないかなって。
山小屋でモヤシ育てたら国立公園だから絶対ダメだけど、割とみんな食べた瞬間感動するんじゃないかな。

モヤシって良いんですよ。
新しい出会いとかの感動はないですけどね。

まあ、ね。
モヤシはどうでも良いんですけどね。

お金があるって良いですよ。
お金が使えますからね。

でも、お金を持つためにお金を持つと本末転倒なんですよ。
言葉にすると当たり前ですけどね。
使わないとお金って貯まるでしょ。
でも、使わないと本末転倒。

でも、貯金ってのもスキルでしょ。
まあ、それはそれで良いし、すごい。

でも、あんまり生きてる中で本末転倒ってしない方が良いなって。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 08:54| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

お金って良いよねー?

金を使うっていうのが好きだ。
金もないクセにね。

でも、金が無い中で使う金ってのが一番面白いんじゃないかなって僕は考えるんです。

どうしてお金を使うのが好きって、僕の作れないものが手に入って、僕の知らなかった遊びを知れるからね。
それがいちばんの理由です。

でも、それ以外の理由でもお金って使う。
例えば、僕の一番好きな食べ物はもやしです。
もやしって最高の食べ物だと僕は思うんですよね。
まず美味いじゃないですか。モヤシにペッパー、ソルト、チーズやると、あれより美味いものって世の中にあるのかなって思うほど美味しくなるじゃないですか。
しかも、安いクセにしゃきしゃきしてて、量もいっぱいあるから、目の前にすると、ウヒョーって思うじゃないですか。
てんこ盛りのモヤシってキラキラしますよ。
しかも、腹一杯食べても気持ち悪くならない。油物とかご飯って食べた後気持ち悪くなったり、眠くなったりするけど、もやしってそういうのがない。
で、栄養なんかなさそうなクセに実はある。

そんなわけで、モヤシを買う時って新しい出会いなんかの要素ってゼロなんですよね。
自分じゃ作れないにせよ、豆を買ったら育てれちゃう。
でも、モヤシってたまらない。
繰り返し繰り返し食べちゃうわけですよ。

余談だけど、山とか海外でのストレスの一つに多分モヤシってあると思ってる。モヤシなんか食べなくても何ともないとは理性では思うけど、体はモヤシ大好きで。ストレスになってるんじゃないかなって。
山小屋でモヤシ育てたら国立公園だから絶対ダメだけど、割とみんな食べた瞬間感動するんじゃないかな。

モヤシって良いんですよ。
新しい出会いとかの感動はないですけどね。

まあ、ね。
モヤシはどうでも良いんですけどね。

お金があるって良いですよ。
お金が使えますからね。

でも、お金を持つためにお金を持つと本末転倒なんですよ。
言葉にすると当たり前ですけどね。
使わないとお金って貯まるでしょ。
でも、使わないと本末転倒。

でも、貯金ってのもスキルでしょ。
まあ、それはそれで良いし、すごい。

でも、あんまり生きてる中で本末転倒ってしない方が良いなって。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 04:10| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月09日

幸福な日々がどこか悲しい。

日本に帰って幸福な日々が過ぎている。
出国前から仲良くしていた女の子とお付き合いをさせてもらい、のんびりと桜などを眺める。
自転車に関する文章の仕事をもらえたので、それをしながら、だいたい女の子と過ごす。

僕の人生で女の子と一緒に過ごすってのは珍しい。モテない。顔が悪いとか、性格にクセがあるとか、単に女の子が苦手とか。まあ、いろいろあるけれど。とにかく珍しい。

でも、倉敷には長くいないので女の子に申し訳ない気がしている。
来週にはまた山に入る。
その後の予定は立っていない。
以前の自転車屋さんからお誘いはもらっている。自転車の文の仕事と合わせて働けば結構良い条件の職場になるだろう。
女の子も付いて行って良いようなことを言ってくれている。
でも、それで良いんだろうか。

幸福な日々なのにどこか悲しさがある。

アフリカを走っていたのが遥か昔のように感じる。つい先月まで地平線を走っていたなど嘘のようだ。

帰国してから自転車屋さんで働いていた頃お世話になった人たちから連絡があった。

正直、僕は日本の生活に馴染めないでいる。
たった三ヶ月のアフリカが僕の心の根元みたいなところに何かを打ち込んだらしい。
何かが引っかかる。

向こうで世話になったやつらに電話しようと思ったが、クレジットカードも限度額いっぱいの借金漬け状態で、国際電話をかける余裕がない。

ボツワナでは、先日、地震があったらしい。
フェイスブックでつながっている人たちは元気らしい。あとは分からない。

アフリカの人々ってのは安心だ。
多分、何があっても変わらず元気に日々を過ごしてるだろう。
彼らにも心配や不安も時にはあるのかもしれないけれど、根の明るさというか、生きる力が桁違いに強い。
もしかすると、村で話をした人のうち何人かは何かの病気や事故で死んでしまっている人もいるかもしれない。
アフリカはフェアだ。
生きてりゃ死ぬかもしれない。
もちろん、みんな元気で生きていて欲しい。

日本はとにかく不自然で気持ちが悪い。
まあ、深く気にしないに限る。

ま、そんなこんな。

iPhoneから送信
posted by ちょろり at 23:06| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月01日

生きてるだけで楽しい日々。

日本に生きていると遠い未来の不安にくたびれてしまいやすいのかもしれない。
最近の僕はまだまだアフリカの名残で生きているから、呑気なものだ。金はなくとも、これからの予定もやりたいことも特になくても、呑気なものだ。
今日が良ければ、まあ、良いじゃん。って。

それでも、日本でカルチャーショックを受けている。

日本人は、まあ、死なない。
青信号で横断歩道を渡っているとトラックが突っ込んできて死んだなどの事故があると、トラックが全面的に悪いとなる。
日本ではそれば当たり前と言えば当たり前なのだが。
信号が青だろうと何だろうと車が突っ込んで来る可能性なんてのはあるのだ。
そして、突っ込んで来られてぶつかって死ぬのは歩行者だ。
死にたくなければ歩行者の方が注意すべきなのだ。

でも、死なないのが当たり前になっている日本では、突っ込んで来たトラックの方が悪くなる。
そりゃ、悪いのはトラックではある。
でも、トラックの方は死んでいない。
人間、死んだらそれまでなので、死なないように生きるってのはとても大事だ。
自分が生きるには、時には人を押しのける必要もある。
自分が生きている限り、自分が生きているということは最も重要だ。自分が死ぬと、自分という目や耳で感じている世界はまるごと全て終了だ。

まあ、不運というのはどんな場合にもあるから、注意していても死ぬことはあるにせよ、普通に生きていれば死ぬことはない世界。
これはやっぱり生物として異常だ。
生きてる限りは死ぬのもいつだってあり得る。

死なないのが当たり前になると、明日や明後日が心配になるのかもしれない。
今日死ぬことはない、きっと明日も明後日も。
いつかは死ぬのは知っているけれど、ずっと遥か先、日本人にとって死ぬって遠い。

100パーセントやってくる明日の心配に、100パーセントやってくる明後日の心配、そのまた翌日の心配。
いくつもドミノのように積もった心配は結構な量になるんだろう。

ーーー

その点、アフリカはあっさり死ぬ。
病気も貧困もあるから死ぬ確率が高い。
大人になるまでに死ぬ子供が圧倒的に多い。
実際、走っていて、
「ああ、ここで病気に掛かったら死ぬかもなー」
と思うことはある。
大使館の医療案内によれば、首都でさえロクにレントゲンのような高価な医療機器がなかったり、あっても途中で停電したりすることもあったり、メンテナンス不良でロクに動かないということがあり、手術などは国外搬送とのことだから、村なんかで病気になると、まあ、死ぬかもなー、ってのは思う。
黄熱病の予防接種をするにしても、エイズ蔓延国で注射を打つのが恐ろしい。

それでも、病院に行って払うお金があるだけ、遥かに僕は死の確率は低いし、大人という点で子供よりは体力だってある。

子供たちは裸足で走り回り、ガラスを踏み、土には寄生虫なども住んでいる。

僕はの感覚では死かすこぶる近い環境だ。

さらに大人になっても仕事がない。
明日のことを考えることは出来ない。とにかく今日を生きねばならない。

だからこそ、今生きていて、とりあえず安酒を何とか一杯買える金があれば、とりあえず飲んで、アルコールが喉を通り胃に落ちた瞬間の快楽が全てなのだ。
もちろん、全員がアル中ではないにせよ、来るか分からない明日より、今、正に喉を通る快感こそ命なのだろう。月に一万円の給料でも百円のビールは買える限りは買うのだ。一日働いても千円にもならないのに、酒は飲む。

その世界では驚くほどに暗さがない。
驚くほど明るい。
ヤケッパチとは違う。
ヤケッパチってのは絶望の反動で起きるものだ。
彼らは絶望していない。
来るか分からない明日の不安はない。
今、金がなければ、「チクショー、金がないぜ」で終わる。

さすがに、ほとんどの人に明日は来るにせよ、来月までに知り合いが誰も死なないというのは何とも言えない。
友人が死ぬかもしれないし、友人の親だったり、子供、隣の家の誰か、或いは自分。

我々の感覚では恐ろしさに対して何か備えるだろう。死なないように何とかする工夫だ。
しかし、今日の酒すら分からないのだ。
何かを備える余裕などないのだ。
それも、突然にデング熱だとかエボラ出血熱みたいな先進国でさえ治療の難解な病が流行したりするのだから、備える方法もない。

そして、エイズもある。
一夫多妻制が多いのもあり、娯楽も少ない環境では愛を交わす悦びは強い。歯止めが効かない。

でも、そういう側面があるんだけど、意外と死なないのも事実だ。
変な話だけど生きてりゃ生きてるのだ。
死んだら死んでるけど、死んだ時には死ぬかもしれないということはもはや思わないからだろうか。

僕自身、アフリカを走っている間は不思議と死のリスクをさほど感じなかった。
日本に帰ってから、死のリスクは常に存在していたのかもしれないとボンヤリと思った。

ーーー

麻雀に負けたら金がすっかりなくなった。
電車代もなくなったので、負け分を千円引いてもらった。
クレジットカードの支払いもあるので、マイナスだ。次の支払いの金がない。金が入るあてはない。

別に明るいビジョンはない。
明日死ぬことはないから明日の不安もあるはずなのだが、今吸うタバコを迷わず買う。
次のタバコが買えない。
30手前にして、実家に転がり込み、冷蔵庫の中を漁って食う。

「アフリカはどうだった?」
「ああ、とても楽しかった」
それ以上の話もない。
楽しかったのは間違いない。
ただ、それより先が何を話せば良いか分からない。
何か話したい気がするのだけれど、分からない。
それで小説はネタを書き上げたものの筆を止めて、正に売文稼業と呼ぶべき記事の執筆を続ける。
昼前に起きて6時間ほどで一万字ともう少し書く。
誰かに呼ばれていることが多くて出掛けて、帰って2時間ほどで三千字ほど書いて眠る。

働いてはいるが、その金がいつ入るんだかアテはない。
それでも、一日、隙間の時間に文を書けば、アフリカの友の一ヶ月分の給料になる。

でも、その文章は多分、あまり意味がない。
誰かが読むのかもしれない。
けれど、その文には秩序がない。
いくらか読み応えもあり、情報もある。
だけれど、バラバラなのだ。
インターネットの海を流れるだけなのだ。
なぜって、その文を書いていて僕の胸に流れるのはある種の虚しさみたいなものだからだ。
別に手抜きはしていない。いくらか有用性もあるはずだ。
だけれど、不思議と空虚なのだ。

きっと草むしりだ。
なかなか僕の草むしりは上手だ。
綺麗な芝が出来上がる。
それもなかなかのハイペースだ。
サッカーの試合なんかしたりするかもしれない。有用ではあるのかもしれない。
でも、やはり草むしりなのだ。

草むしりのことを僕は嫌いではない。
毎日、草をむしってきた。
今の仕事の草むしりよりも、遥かに人目に付かない。
ちょろり草という草をむしる。
ぐるぐるむしる。
一周するとまた少し違う草が生えていて、それをせっせとむしる。
でも、それが僕は好きだった。

今の仕事の草むしりも嫌いじゃない。
でも、少し微妙なのだ。
あまり好きではない。
本音は他の文を書きたいと思う。
ただ、金がないのだ。
やはり金の心配をしている。
間違いなくやってくる明日、明後日、月末のクレジットカードの支払い日の心配が積もっていて、僕の心には暗さがある。
何かを避けるために備えようとしている。

きっとちょろり草は本当に一円にもならないから好きなんだろう。
その芝では誰もサッカーもしない。
ただ、生えてきて、またぐるりとしたら草を抜く。

ーーー

そんな考えは暗いし、せっかくの良い体験の直後の時期にもったいないと思う。
でも、どうしても抜けられないのだ。

きっとカルチャーショックというのもあるのだろう。
アフリカで一番大変だったのは、最初の一ヶ月、適応するまでだった。
全てが違い過ぎた。
こんなので人間生きていけるのかと思った。
レストランという看板はない。掘っ建て小屋のような場所でハエだらけの中、メニューなどなく、その日にあるものを出してもらって食べる。
すぐにギブミーマネー、チップくれ。
言葉も分からない。
水道なんてない。
大都市に着いてもチェーンの一本も買えない。
眼鏡の予備も買えない。
全てが分からなかった。
分かる度に、「え、マジで、ここでこれ食うの?」みたいな具合だが、それを一つずつ納得していく。
納得せざるを得ないのだ。帰りの飛行機は三ヶ月後だったし、クレジットカードの限度額の問題でネットで別の帰りの航空券を買うことも出来ないし、航空券を買える航空会社のオフィスなどない。
適応して三ヶ月暮らして、帰りの飛行機が出発する空港まで辿り着くしかなかった。

それが気付けば帰りの飛行機に乗る頃には、その世界が名残惜しいほどに楽しくなっていた。

そして、帰国したら、またとんでもなく違う世界だ。
しかし、そこはほんの少し前まで自分が生きていた世界ですぐに適応できるはずの世界だ。
それが不思議と適応出来ない。

いや、もうじき適応出来るはずだ。
ただ、適応出来なくても生きていける世界ではある。適応しなくても、そう滅多に人が死なない世界だ。

価値観の崩壊だろう。
出発前の価値観を思い出せない。

この国で僕は何が出来るだろう。
何をすれば良いだろう。
何がしたいだろう。
或いはこの国以外のどこかで何か出来るだろうか、したいだろうか。

アフリカを自転車で走った日々の中では、僕はただ生きていたかった。死にたくなかった。
多分、パタゴニアの時もそうだった。
人と話すのも楽しかったし、景色を眺めるのも楽しかった。
ただ、何より生きているのが楽しかった。
その日も生きて夜眠るのが嬉しかった。

日本ではただ生きているだけでは楽しさが感じられない。
何か楽しいことが起きないと楽しさが感じられない。
テントではない、安全な壁に屋根に囲まれ、得体の知れない虫も入らない、象もライオンも心配いらない。窓を閉めれば寒さも防げる。水道をひねれば安全な水が飲める。
柔らかな清潔な布団。
でも、そこに眠る時に喜びはない。

でも、アフリカに行く前も、多分同じだった。

一口に言えば自転車旅の日々みたいに、ただ、生きているだけが楽しい日々なんてのは存在しないのだ。
ただ生きているのがありがたい日々。

でも、アフリカの連中は自転車旅なんかしてなくても生きてるだけで楽しそうに生きていた。そう見えたんじゃない。多分、本当にそうだと思う。お金が欲しいのは間違いないし、自分たちの暮らしの貧しさは嫌なのかもしれない。でも、妙に楽しそうなのだ。
すれ違うだけで見知らぬ僕に親指立ててグッドみたいなポーズをしてくる。
多分、ただ生きていて、生きている人間に会って一緒にいるだけで何かが楽しいのだ。出来れば音楽かサッカーの試合が流れていて、お酒が飲めたらより良いんだろう。
多分、人間って本当はそれが普通のはずなんだ。
多分ね。
日本での日々を考えると、何をしたとしても、ちょっとそんな日々は想像できない。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 06:27| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする