2017年07月12日

山の日々。

あの年は楽しかったねー。
そんな話をペンバ・シェルパ氏とする。
ペンバが初めて日本の山に働きに来た年、僕も初めて山で働いた。
その当時の僕と言えば、まだアルゼンチンにも行く前で、ロクに登山もしたこともなくって、テントで夜を過ごすのもまだまだ下手くそだった。

山ってのは僕にとって人生の転機だった。
山がなかったら、多分ダメだったと思う。

山の暮らしは不便は多い。
先日、電動ノコギリで失敗してザックリ指が切れた。指が落ちなかったので良かった。幸い、骨や神経は無事だった。それにしても大きく切れて、冷や汗が出た。こりゃ、もしかするとギターはもう弾けないかもしれないな。でも、左手だから自転車は何とかイジれるな、文を書くのはこれまでより難儀することになるかもしれないな。
そこまで考えつめたが、存外広く切れた割にはさほど深くもなく、5針ほど塗ったら、一週間もせずにくっついた。
そんな怪我でも近くに病院はないし、夕方に切れたから夜の暗いうちの下山は難しい、止血も問題なくできたので、翌日の朝大雨の中を下山して病院に行き、事なきを得た。

日本は大丈夫。
これは間違いでもあったし、半分正しくもある。
山は少し特殊で、日本と言っても日本的なインフラもない。そういう中で、大きい怪我をすると、やはり人間、あっさり死ぬのが本来のもの、あっさり駄目になる、どんな時にも我々が思っている以上に危険は隣にいる。
でも、やはり日本は大丈夫過ぎて、そんな当たり前のこと、自転車の日々では当然だったことを忘れてしまったりする。

日本ってのは、イージーに生きられる。
生きるのは決してイージーではない。
それでも、イージーに生きる方法や環境はいくらかはある。
でも、本当のところはいかにイージーに見えようが生きるってのは決してイージーなことではない。

イージーさってのは考えるほどに面白い。
自転車の旅をしていると、初めての頃はものすごくキツイ。毎日眠れないほど怖い。特に海外はそうだ。国や地域にもよるけど、やっぱり日本より治安の良い国なんてそうそうないし、そういう中で生きて行くのはキツイ。
それが次第にキツイよりも楽しいと感じられることが増えてくる。
水が買えて、観光客向けの宿なんかない村でもちゃんと現地民が使うような宿を探せるようになって。
村のないところでも野宿が出来るようになって。
いくらか言葉も覚えて来て。
言葉が分からなくても、何となく一緒に笑えることが増えて来て。
楽しくて楽しくてしょうがなくなってくる。
時々、しんどいと感じる日もあるけれど。
それが、帰国してしばらくすると、当時楽しさが勝っていたものの、改めて考えるとよくやったなぁ、なんて思ったりする。
どんなにキツイことでも、イージーに感じられることもあるし、イージーなことがしんどく感じる日もある。
本当に今でも思うけど、自転車で旅をするのはとても大変なことだけど、とてもイージーなことだ。

山はそういう僕の人生の入り口だった。
仕事としてはしんどい。毎日眠たい。三時台に起きて、夜九時に眠る。その間、休憩はあるものの、何かしら仕事はある。20連勤は当たり前で、今年の夏に関しては僕は40連勤くらいになってしまっている。その割には給料もそんなに良くもない。
でも、やっぱり山は楽しい。

近年、山に働きに来る若い人は減ってしまっている。
長い人生のうち、若い数年くらい山で過ごすのはとても良いことだと僕は思う。
長く働く人もいるし、そうじゃない人もいる。
合う合わないはある。
でも、山を知っておくのは良い。
ちょっとした趣味で登山をするじゃなく、山の中で一ヶ月以上暮らすってのはやはり貴重だ。

かと言って山に働きに来るのに、あんまり気楽で楽天的過ぎるのも困る。やはりしんどい環境ではある。下では真夏の猛暑でも、僕は今、フリースを来てこの文を書いている。まあ、その気になれば半袖でも問題ないんだけど、フリースを来ている方が楽だ。人間が生きるには少し大変な環境だ。

自分の人生を楽しいことで増やしたい人は少なくないはずだ。
確かに安定した仕事はありがたい。
でも、そんなに焦って安定した仕事で馬車馬みたいに生きなくても、楽しいことをいくつかやってみても良い、そういう余裕が持てる社会になれば良いのにな。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 08:53| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月04日

トゥルーマンショーはシリアスな内容を高度な技巧でまとめていて、なおかつ明るいすごい映画。

ジムキャリー続きで「トゥルーマン・ショー」を。
これも面白かった。

これはネタバレすると面白さが落ちてしまうタイプの映画なので、出来るだけネタバレしないように書くけど、ネタバレする気もするから観てない人は読まない方が安全かもしれない。

とにかく、そのネタが分かる瞬間の驚きと、そのネタ自体が面白いし、ジムキャリー演じる主人公トゥルーマンが非常に良い。

ジムキャリーといえば、前に描いた「イエスマン」もそうだし、有名な「マスク」でもそうだが、コメディーに強い。
あの笑顔の表情は非常に秀逸でパワーがある。あの笑顔じゃないと進めないストーリーもあるだろうってくらいパワーがある。普通の役者が笑ってもあれにはならない。
しかし、トゥルーマン・ショーはコメディーではない。全て見終わると分かるがかなりシリアスな内容の作品だ。

一見多少の謎がある入り方だが、始まると非常に普通な人間トゥルーマンの日常が始まる。
トゥルーマンは非常に普通のサラリーマンだ。
何かといろいろ普通。
「何?この主人公?普通だなー。この映画この主人公で何が起きるわけ?」
と疑問に思うほど普通だ。
ジムキャリーの演技が普通なサラリーマントゥルーマンをより一層気の良い平凡なサラリーマンに見せてくれる。アメリカ人にいそうな陽気な男だ。奥さんがいて、保険の営業マンみたいな普通の仕事をしている。
ちょっと変わっていることと言えば、トゥルーマンは水が怖いこと、昔、自分が原因で父親を海で死なせている。トゥルーマンにはかつて好きな人がいて、今も雑誌の女性を目の部分や鼻の部分だけ切り抜いて組み合わせて、その女性を再現しようとしている。その女性は非常に謎めいていて、出会ってすぐに消えてしまったが、トゥルーマンは今でも未練があるらしく、雑誌の切り抜きを奥さんにバレないようこっそり組み合わせ続けている。
その女性がタヒチだか何だか忘れたが、とにかくトゥルーマンの住んでいる島の外にいるかもしれないから、トゥルーマンは旅に出たいという願望を持っている。平凡なサラリーマンの日常など捨てて、とにかく島を出たい。
でも、当然だが奥さんに止められるし、トゥルーマンは水が怖いから島から出られない。
でも、まあ、基本的には普通の男、トゥルーマン。

しかし、そんな普通なトゥルーマンだが、どうも日々に妙なことが起きるようになっていく。何かと変なのだ。どうもみんなが自分を監視しているような感覚をトゥルーマンは感じていく。
スクリーンを通して観ている我々も何かはハッキリ分からないがトゥルーマンは何者かによって、何かの企みにハメられているのが分かるが、しばらくはその正体は分からない。
トゥルーマンも妙だと思っているが、我々、視聴者も妙だと思い始めるが、何かはしばらく分からない。組織か何かがトゥルーマンを監視しているということは間違いないのだが、一体何かまでは分からない。勘のいい人は分かるかもしれないが。
何にせよトゥルーマンは危険を感じて、島から逃げ出してどこかへ行きたいと強く思うようになるが、やはり世界がまるごとグルになってトゥルーマンを阻止するように動くのだ。

ーーー

ここからネタバレするのだが。
この映画はやっぱりネタバレ無しで感想を書くのは無理がある。

トゥルーマンの住む世界は実は作り物の世界で、いくつもの隠しカメラでトゥルーマンの生活を撮り続けているテレビ番組の世界なのだ。島とその周りの海を囲った巨大なドームのようなもので包まれた世界なのだ。
このことをトゥルーマンは知らない。
何せ赤ん坊の頃からずっと24時間365日、トゥルーマン・ショーという番組は全世界に流れ続けていて、大人気番組なのだ。
トゥルーマン以外の人々はみんな役者で、街などもすべてセット。トゥルーマンは水が怖いので、生まれ育った島から出られない。
言うなれば、トゥルーマンは赤ん坊の頃からダマされ続けているのだ。

違和感、奇妙な感覚の正体、トゥルーマンの世界の秘密を我々視聴者は中盤くらいで知ることになるのだが、これがなかなかショッキングだ。
なぜって納得出来てしまうからだ。
普通の人間の日常を覗き見たいという願望は多かれ少なかれ誰しも持っている。
人を一人、生まれた頃から騙し続け、隠し撮りし続けて世界に24時間流し続けるという、道徳的に許されない行動だが、もし、そういう番組が実在すれば見てしまうだろうな、と納得させられる。
これは結構ショッキングだ。
単にどんでん返しが決まったショックじゃなく、言うなれば人間の悪の心みたいなのが自分の中にもあるというショックだ。

しかし、トゥルーマンを騙している番組制作者はこのことについて罪悪感はなく、むしろ外の普通の世界以上にトゥルーマンは恵まれているのだと考えている。作り物と言えど、気付きさえしなければ、トゥルーマンは平凡なサラリーマン、言うなれば平凡な幸福の中に生きていて、そういう暮らしをトゥルーマンに提供してあげているのだから、と。
これもなかなか我々は共感出来てしまう。
現実の世界って何かと厳しい、大変というのを、現実の世界に生きる我々は知っている。
平凡なサラリーマンで、世間で言うところの面白みはないものの安定した日々が平和にやって来るっていうことが割と幸せなことだと知っている。

もちろん、そんな作り物の世界に人を閉じ込めるってのは悪いことってのは分かるし、何が起きるか分からないからこそ人生は面白いってのは分かってはいるのだけど、覗き見したいという人間の欲求、そして作り物といえど平和な世界の良さってのは理解出来てしまう。
悪いことだと分かっていながら、理解出来てしまうってのはショックだ。
この映画のミソは正にこのネタが分かった瞬間に、複雑な気持ちに我々を追い込むってところだろう。

ーーー

我々映画の視聴者が気付いた後も、トゥルーマン自身はその世界の秘密を知らない。ただ、自分は何者かに監視されていて、どこかへ逃げねば危険だとだけは分かる。
カメラの目を盗んでトゥルーマンは逃げる。水を怖いのも何のその、小さな小舟で海に逃げる。番組制作者は何とかして止めようと天気コントローラみたいなので嵐を起こす。止められなければ殺してしまっても良いと。
しかし、トゥルーマン頑張って逃げる。

これに対してトゥルーマン・ショーを見ている映画の中の視聴者たちはトゥルーマン頑張れと応援を送る。
これまでずっと覗き見して来ておきながら、頑張れなどとムシは良いが、実に絶妙だ。映画の外の視聴者である我々と同じで人間なのだ。
この複雑な構造が面白い。

嵐にも負けず、最後に船はとうとうトゥルーマンを騙し続けていた世界を囲っているドームの壁に突き当たる。水平線の絵が描かれた壁に船の先がドンと突き刺さる。
このシーンがなかなか良い。
作り物の世界の壁が絵に描いたようにバスッと穴が空く。
世界の壁に穴が空く。非常に良い絵だ。実に絵になる。誰しも心のどこかで世界の穴を多かれ少なかれ夢見ている。もちろん、我々の世界には実際には穴は開けられないが、トゥルーマンの世界では可能なのだ。
本当にこの絵は良いと思う。新しい世界を求め苦手な水どころか、嵐を乗り越えた先にある世界の壁。そこに小舟の頭が突き刺さる。
心に響くものがある。

トゥルーマンが世界の壁沿いに歩いて出口の扉の前に立つと、番組制作者が話し掛ける。
本当に良いのか?この中の世界の方が安全だし素晴らしいぞ、みたいなことを言う。
これに対してのトゥルーマンの答えが素晴らしい。
ジムキャリーじゃないと出来ない素晴らしいラストになっている。

ーーー

技巧を用いたどんでん返しというタイプのストーリーで、なおかつ映画の中の映像作品という二層構造を持たせた、非常に技巧的なストーリーだ。
複数の層の構造を持つ映画としては「インセプション」なんかも夢の中の夢、そのまた下層の夢と世界を複数構造に作り込むことで面白さを作っているが、夢の話という時点でやはりリアリティが落ちてしまう。SFにしたってやはりリアリティは大事だ。インセプションも面白いけど。
その点、トゥルーマンショーは映画の中の映像作品の中の人物であり、言うなれば実現可能、リアリティがある。
この構造をどんでん返しで一気に示して来るんだから、この映画のストーリーは物凄く高度な技巧を使っていると言える。
扱っている問題も割とシリアスだ。人間の覗き見願望みたいなところや、作り物の温室の世界というメタファーは何とでも広げられる。

そういうシリアスな内容だが、ジムキャリーの明るさで上手くまとめている。
撮り方によってはいくらでも暗くできる内容だし、バッドエンドにしてもある程度まとまるような内容だ。
むしろ、どんでん返し系のストーリーは暗くまとめる方が多い気がする。特にシリアスな内容ほど、そういう傾向はあるだろう。

ストーリーを作る上で悲しみとか暗さってのは人間の感情を煽る上で楽なのだ。何せ人間誰しも道徳感情ってある。かわいそうだとか、ひどいだとか、悲しいとか、ショッキングとかネガティヴな感情の方が心に残りやすいし、考えさせるには都合が良いからだ。
明るいホームアローンで何かを深刻に考える人って少ないと思う。
それに対してナチスのユダヤ人収容所の話、例えばライフイズビューティフルなんかで何も考えない人は稀だ。

だからこそ、明るい話は難しい。
トゥルーマンショーが優れている映画というのは、単なる高度な技巧のどんでん返しの驚きじゃなく、シリアスなテーマ、技巧的なストーリーなのに明るくまとめているところにあると思う。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 19:54| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月03日

イエスマンは秀逸な映画だった。

映画「イエスマン」を観た。

これはなかなかに良い映画だった。

ちなみに、なぜ最近は映画の感想文ばっかりなのかっていうと、今年は映画から学んでみようってのが一つコンセプトなのだ。
実際、映画はあまり観ていないから新鮮な気持ちで観れるし、勉強になる。
Netflixでダウンロードしておけば、山小屋でものんびり観れる。読書と違って、ぼんやり眺めるだけで良いから、仕事で疲れていても眺められる。
小説なんかは読書狂いという人ほどは読んでないにせよ、好みのジャンルは一通り読んでしまっているし、結局マジックリアリズム、シュルレアリスム辺りで沼にハマってしまっていたりと、どうも新鮮な気持ちで読めなかったりする。
まあ、そんなわけで映画を眺めて備忘録を書いていってるわけだ。

ーーー

イエスマンはすこぶるシンプルなストーリーの映画だ。
何事にもネガティヴだった主人公が、人生何でもイエスと言おう、そうすれば人生明るく開けるよ、なんていうセミナーに行き、半信半疑でイエスとだけ言って本当に人生が変わったように良いこと尽くしになる。全てのことにイエスと言い続け、本当に良いことばかり起きるが、ラストで問題が起きてうんたらこうたらっていう話だ。
シンプルだ。
単にポジティブにイエスって言いまくったらどうなるかっていう話なわけだから。

もうこのシンプルさだけでイエスマンは良い映画って言ってしまっても良いと思う。

シンプルな問題だが、非常に確信的なところを突いている。
仕事に追われて疲れ続けていたり、どの先進国も抱える鬱病問題。
この問題の原因はいろいろあるにせよ、心構え次第ってのは大きい。
心構えなんていうと曖昧だけど、イエスマンでは一番簡単な方法、言霊を使って心構えを変えようってやり方だ。
ポジティブな言葉を嘘でも口に出して言って、実行するってのは凄く効果がある。
まず口に出して発生する、その自分の声、ポジティブなフレーズを耳で聴く、そして実行して体験する。これを繰り返すと自己洗脳的にポジティブなイメージが心の底にできる。
そういう風に具体的な行動を通して潜在的な部分にポジティブなイメージを作るっていうのは物凄く大事で、プロのスポーツ選手なんかも多く取り入れている。最近ではラグビーのジロウマル選手のキック前の儀式的な動きなんかが有名だ。あの儀式をすればキックが上手く決まるという自己洗脳をするのだ。サッカーのフリーキックなんかにもそういう選手は多い。カッコ付けでやるんじゃなく、積み重ねた練習、試合などの経験の上で一番パフォーマンスを発揮するための方法なのだ。

全てをイエスと答えることで、ポジティブになる。
安易なようで実はとても深いテーマなのだ。

そして、これをくどくどと説明しない。
ジムキャリーという明るい演技の上手い役者によって、ゴリ押しをかける。

普通、セミナーにちょっと参加したぐらいじゃ、根暗からイエスマンにはなれない。
その変化を描くだけでも、普通にやればかなりの長さが必要だ。
しかし、そこはコメディーで押し切る。
まあ、笑う。セミナー会場のうさんくさい空気、そこに集う信者たちが声を揃えてイエスと叫ぶ。まずその空気に笑う。その中で強引にイエスと言わされるうちにジムキャリー特有の明るさみたいなところで、半ば強引にイエスマンにしてしまう。
冷静に考えるとかなり強引なんだが、そこもまた面白い。
さすがにその強引さだけじゃ、観る側も納得しないが、セミナーの帰りにホームレスにいきなり車で公園まで連れて行ってと絵に描いたような展開をぶつける。周りはセミナー帰りの信者たち、ついさっき全てにイエスと答えると誓わされたばかりなので、半ばヤケで主人公はイエスと言う。
さらに強引にホームレスは電話貸してなどと絵に描いたようなお願いを続け、こうなりゃヤケとイエス、さらには車を降りるときには2ドル貸して、イエス、2ドル渡そうと札を2枚渡すと、2ドルだけじゃなくて全部ちょーだいとホームレス、やはりイエス。
「そんなホームレスさすがにいないだろ、しかも、そんなセミナー帰りにタイミング良く!」
そんなツッコミが心に湧いてくる面白さ。
強引ではあるものの突き抜けているから面白い。

でも、それだけじゃ、イエスと無理やりいっても良いことなんかないじゃないかって話だ。
さらにホームレスに所持金全部渡して、家に帰ろうとするとガス欠。電話もホームレスがずっと通話し続けて電池ゼロ。絵に描いたような散々な目だ。
ポリタンク持って町まで歩いてガソリンを買いに行くと、女の子と出会う。
素敵な異性との出会いってのは安易だけど強い。観ている側も、
「イエスって言ってたら本当に良いこと起きた!」
と納得出来るような『良いこと』だ。

まあ、絵に描いたような展開で笑ってしまう。
とにかく強引にゴリゴリと笑いで押して、根暗がイエスマンになる。
ジムキャリーのコメディー映画と言えば「マスク」だが、マスクもかなり強引な設定だが笑いで押し切って無敵になれるマスクという存在を作り上げてしまう。
この笑いで展開を押し切ってしまうってのは手法としても、ジムキャリーの演技力も本当に見事だ。観ていて笑えるし、ストーリーをぐっと次の展開に押し込める。

基本的には、このグイグイのゴリ押しの笑いで、イエスマンにはどんどんと良いことが起きていく。
自分が気になったことには、イエスと言ってどんどんいろんなことをやって行く。それが予期せぬほどの幸福な結果に毎回つながって行く。
笑えるし、悲惨な根暗が幸せになっていくのは観ていて気持ちが良い。
ジムキャリーの表情がやっぱりどのシーンも良い。あれはすごい。
都合良く起きていく幸せの組み合わせ方も上手い。そんな都合良く行くかよって笑ってしまう。

あとはストーリーの基本通り起承転結と進む。
起で根暗の主人公を提示して、それがある日突然にイエスマンに変わる。
承でイエスマンになったことで、どんどん良いことが起きる。
転では全てにイエスと言い続けていたイエスマンに問題が起きる。
結で転の問題を収束させて終わる。

テーマもシンプルだが、話の構成も非常にシンプルで良いのだ。

名作「マスク」もどこか似ていると言えば似た話だが、イエスマンの方が一枚上手だなと感じさせられるのがイエスの力だ。
もちろん、映画のようにイエスだけでは物事上手く進まない。そうは言っても、イエスの力、言霊による自己暗示の力ってのは実際にすごいし、誰でも実践出来ることだ。
これは観客の心に響く。

マスクの面白さも、マスクを付けることで人はすごい力を発揮できるというのは、人間の思い込みの力を示してはいる。
ただ、現実には映画のような簡単に装着するだけですごい力を使えるようになるマスクっていうのは存在しない。
言うなれば、イエスと口に出して言い、実行するというのは、自分の心に強いマスクをはめるための具体的な方法なのだ。

そうは言えど、イエスだけでは空想のマスクのようにスーパーパワーはすぐには手に入らないから、観客を「すげー、本当にイエスって言い続けて、良いことが起きて行く!」と思わせるのは、かなり難しい。
「マスク」以上に「イエスマン」が優れているのは、これを上手くやり切っているというところだ。

テーマの良さ、ストーリーのシンプルさ、ジムキャリーの演技力、展開のうまさ、速度。どれをとっても秀逸で、観ていて笑えるし良い気分になれる。
実に秀逸な良い映画だと思う。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 01:12| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「凶悪」「スワロウテイル」はいまいちだった。

珍しく邦画など。
「スワロウテイル」と「凶悪」を。

まあ、個人的にはどっちも大して面白くなかった。

ーーー

凶悪については、いまいち映画でやる価値を感じられない。別に絵として迫力もないし、事件としても微妙だ。最終的に描きたいところってのがどこかってのも分かりにくい。
凶悪殺人をしても日本の法律、裁判、警察じゃきちんとした罰が下りない、殺人犯が刑務所の中で短歌作ったり、ペン習字ならったり、キリスト教なんか布教してもらってのうのうと生きる仕組みで、さらに証拠が揃わなければ死刑にならないっていうのが元々の原作の本の伝えたいメッセージだろう。
原作は読んでいないし、特に興味もないし、映画とは関係ないので、原作の本の方については何とも言えない。
個人的には日本のシステムなんてのは大いにクレイジーなのは分かりきっている。日本のクレイジーさは、仮想敵国がバンバンミサイルを打っているのに国政はアホみたいな獣医学部の話で学芸会みたいなことをしていて、国民は一通り怒っているし、おかしいと感じているのに一切反映出来ないシステムになってるのを見ればすぐ分かる。地震なんかで金もないし、今も原発の問題なども解決していないのにオリンピックを招致して、一部の経済界のブルジョアだけが儲かるようにせっせとしながら、また原発も動かそうとするし。
そういう日本のシステム的な変だということを抽象的に示している点ではシンゴジラなんかの方がまだ上手い。ゴジラ映画としては最低な出来だし、何も面白くはないが、日本のシステムがおかしいっていうのをブラックユーモア的に描いているという点ではシンゴジラは上手くやっている。
ゴジラじゃなくてミサイルが飛んできても本当に日本政府の対応ってのはあの映画と似たりよったりだろう。
でも、ゴジラってのはそういうものじゃないし、映画としては面白くないと思うけど。
日本は結構変ってのは、知識人の間ではある程度自明の事実だし、どうしようもない程度に腐ってはいる。
もちろん、そういうのに声を上げる人やメディアは必要だが、正直なところ僕にはあまり興味がないし、アフリカなんかと比較すれば随分日本は良い国という面も多いし、アフリカに限らず大抵の国と比較してそうなんだろうから、まあ、折り合い付けてやってくしかないんじゃないってところだ。

その辺は人によって考えは違うだろうけど、ストレートに言えばちょっと良い国立大学のキャンパスでも歩いてみれば、こんなのが国の中でエリート階級になって社会を牽引していくんだから、そりゃ、ロクなシステムになるわけがないと分かる。
もちろん、きちんとした人もいるにせよ。
良い大学を出た新入社員が自分の頭でものを考えれない使えない人材で溢れているってのは、よく聞く話で、一口に言えば日本はエリート階級の構成が上手くいっていないってのがシステムが腐り続けている根本だ。

話が映画「凶悪」からいくらかズレてはいるけど、何にせよ映画という媒体にしたところで大して面白くないテーマであることは間違いない。
ただ、原作の方は知らないし、読む気もないけど、そういう声をあげる存在がいるっていうのは重要なことだ。

映画の方は原作ありきなので、原作のそういうメッセージももちろんこもってはいる。
ただ、映画として一番浮き彫りになっているのは、日本のジャーナリズムに対する疑問じゃなかろうか。
販売部数を追いかけるばかりの出版社。
そして、何よりよく分からない主人公の記者。

この手の記者が社会問題を取り上げて社会に問うというタイプの映画なら圧倒的に「スポットライト」なんかの方が面白い。
スポットライトはキリスト教の牧師による児童への性犯罪をアメリカの地方の雑誌社が暴いた事件を描いた映画だ。この映画の衝撃的なところは、世界規模でキリスト教の牧師の児童への性犯罪が多い傾向にあるという衝撃的な事実っていうのが暴かれるところにある。もうこの事実だけですごく衝撃的だ。
さらにキリスト教ってのは本当に世界の組織の中で最強に属する。一つの国の警察なんかじゃ、まずどうこうできない。このスクープを暴いて世に示すのは非常に困難だ。
だから、このドキュメンタリーは映画のネタとしてもかなり面白い。

対して凶悪は、ありふれた金銭目的の殺人犯の話だ。言い方は悪いが、世界的に見れば実にどこにでも転がっている話だし、日本国内で考えたって、まあそんなに不思議な事件でもない。
さらに調査を進める中でスポットライトでのキリスト教のような強い敵対するものってのもない。あるとすれば過去の事件を掘り下げたくない警察の怠慢くらいだが、それも月末の原稿の締め切りに記事を間に合わせて発表したら、終わっている。あとは結局それでも死刑にならない日本の法律という強大な敵があるが、こちらに関しては解決していないし、それに対してのメッセージも結局映画では強く打ち出せていない。主人公が泣き寝入りしておしまいってだけだ。
映画のネタとして全くパッとしない。

あとは演技が上手いか、演出がどうか、何だのという批評に関してはよく分からない。
そういうレベルの話じゃなくて、この話をどう噛み砕いたって別に面白い映画にはならないだろう、ってのが素直なところだ。

まあ、そうは言っても最後まで観れる程度には上手く物語を引っ張ってはいるし、好きな人は好きなのかもしれない。

ただ、映画でドキュメンタリーするなら、さっきも出てきたスポットライトとか、悲惨な大量虐殺が起きたルワンダの内戦を描いたホテルルワンダみたいな、ちょっと普通に考えて信じられないような事実ってのを描写しないといまいちな気がする。

ーーー

スワロウテイルの方は、やっぱり邦画じゃそうなるよね、っていうのが面白くないポイントだった。
正確に言うと僕の個人的な好みに合わなかっただけで、面白いと感じる人も少なくないと思う。別に悪い映画ってわけじゃない。

あらすじとしては、日本に外人労働者が集まるイェンタウンという架空のスラムがあるという設定でそこでの青春な話だ。ある日、主人公たちは偶然偽札を作るためのノウハウを手に入れて、バンドを始めて、これがスターになって成功するけど、あれやこれやでもめたりなんやらみたいな話だ。

スワロウテイルはさほど悪い映画ってほどではないんだけど、個人的な好みとして、まあ、ダサいのだ。
これはある種の人種差別みたいになってしまうかもしれないが、日本人がかっこ付けると、まあ、ださい。
正しく言うと、日本人がダサく映るような撮り方で撮るからダサい。

日本人がかっこよく映っている映画ってのもある。渡辺謙なんか大抵どの洋画の中でもかっこよく映っているし、邦画でも仁義なき戦いなんかは本当に日本人じゃないとかっこよくない。麻雀放浪記の映画も日本人がかっこよく映っていて、途中に出てくる米兵さんなんか実にカッコ悪く上手く撮っている。

人種差別というか、簡単に言えば白人さんが浴衣を着たって似合わないってのと同じだ。
仁義なき戦いでは原爆スラムなんかも出てくるけど、あれは日本にあるもので、戦後日本のトタン屋根のバラックってのは、日本人にきちんとフィットしている。
あれがゴッドファーザーみたいなイタリアンマフィアみたいな建物、服装でやったって、全くかっこよくもないし、似合わない。

イェンタウンという設定は日本には厳しい。
確かに在日朝鮮人の住む区画などは実在するし、独特の雰囲気はあるにせよ、イェンタウンのように海外のスラムのようなレベルの規模のものではない。
日本のスラムをバックグラウンドにしているなら、やっぱり仁義なき戦いとかなのだ。日本に実在するヤクザだし、確かに海外のマフィアみたいな派手さはないにせよ、仁義という日本独特の思想を帯びている。リアルなのだ。

そういう海外のスラムを模倣したようなイェンタウンという設定で、海外のスラム特有のカッコつけた感じは日本人がやったってダサいばかりで、結果、バンドが売れてスターになって歌う音楽だって、日本国内のポップスシーンにはいくらかウケるレベルにしたって、世界的なレベルでウケるほどのクオリティーの音楽でもない。それが大受けしてスーパースターになっちゃうと輪をかけてダサいのだ。
まあ、その辺は個人的な好みはあるんだろうが。

音楽でガツンとスーパースターになるとかの話なら、最近ヒットしたセッションなんか面白い。ジャズも古い音楽になりつつあるとは言えど世界で最も有名なジャンルの一つだし、ジャズを産んだアメリカで、しかも音楽大学っていう背景もあるから、観ていてグッと来る。
絵としてアメリカ人がジャズをやるってのはしっくり来るし、音楽もカッコ良く聴こえるし、しっくり来る。
まあ、そうは言っても、細かいところを突けば、黒人がアドリブをガンガンやって個性がぶつかって出て来る面白さがジャズだから、音大で日々一人で個人練習し続けて上手くなるなんてどうなの、しかも、ビッグバンドかよ、みたいなツッコミ所はあるにせよ、映画としての面白さなら、音楽の使い方は抜群に良いし、テンポも面白い、絵も良いし、良い映画だと思う。

とにかく絵面がダサいと白けるのだ。
これは小説なんかでもそうだけど、文体がダサいと白ける。
もうこれは基本中の基本だと思う。

スラムなんて存在しない温室育ちの日本人がスラムの中で演技したってダサくて見てられない。
これは中国人なんかが作ればもう少し上手く行ったのかもしれないとは思う。同じような顔立ちだけど、多分、本当のスラムを知っている人間ならもう少しリアルに描写できるんじゃないかなと。

でも、そう言う風にスワロウテイルの絵がダサいと感じるのは、あくまで僕の個人的な好みだ。

それにしたって、ストーリーのラインがこの程度の時間の映画に入れるには複雑過ぎるし、何よりやっぱり嘘くさいスラム感がストーリーにも付き纏う。

イェンタウンなんて嘘くさいスラムの設定でやるくらいなら、大阪の飛田新地の遊郭の女だとか、田舎の温泉街の不法入国で働いている外国人娼婦なんかの話にすれば、リアリティも深まって、絵もカッコ良く撮れる気がする。
あるいはイェンタウンという架空の設定で押すなら、ずっと未来の話という設定にしてしまえば良い。
イスラム国やテロの問題で表面化したが、ヨーロッパなんかでは移民問題がかなり深刻な問題になっている。イスラム国の問題は宗教的なバックグラウンドもあるにせよ、先進国の人間が安い賃金で不法入国者にキツイ汚い危険といういわゆる3kの労働を投げてしまって、社会で移民が必要不可欠な存在になってしまって、ヨーロッパの先進国にはそういう移民、テロリストなども潜伏しやすい下地が出来ているってのも温床にあるはずだ。
日本も案外遠い未来の話ではなく、安い賃金で働く不法労働者に伴う問題ってのは持ち上がるだろうし、そういう設定のSF作品なら十分にリアリティがある。
スワロウテイルみたいに中途半端な今だか過去だかちょっと先の未来だか分からないような設定の架空のスラムってのはリアリティがなくて微妙なのだ。

ーーー

まあ、面白くないなら感想なんか書かなくて良い気もするけど。
面白いって感想だけじゃ、それはそれで面白くない。
どうして面白くないと感じるか考えるってのは大事だと思う。

まあ、そんなこんな。
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2017年07月01日

ゴッドファーザーすげー。

初めてゴッドファーザーをきちんと観たら、なるほどこれぞ世界が賞賛する映画だなーと。

話は複雑なようで単純なもので、マイケル・コルレオーネが親父のビト・コルレオーネから2代目ゴッドファーザーになって、最後は三代目に譲る。その中での家族愛とかなんとかの話だ。
すごく雑に説明したけど、単純に言えばそういう話だ。
時代とともにいろんなことが変わり、マフィアのやり方も変わるが、家族愛の大事さってのは時代の変化とは関係なく不変っていう。マイケル頑張るけど、あれこれ上手くいかないけど、やっぱり親父から教わったマイケルのやり方は間違ってはいないけど、やっぱりマフィアの世界の宿命。
まあ、雑な説明だけどそんな話なのだ。多分、誰にも何も伝わらない説明だけど。

やっぱりゴッドファーザーはすごい。
ゴッドファーザーの面白さって何なのかって言うと、一口で語れないが、面白さの要因は尺の長さだろう。
贅沢に尺を使って、全てのシーンが美しい。音楽、衣装、俳優、光の角度、画角など、どのシーンも非の打ち所がなく美しい。
そして、古典的だ。大抵の会話のシーンを冷静に考えてみると、普通、人間が会話をする時にああいう配置に座ることはありえない。椅子を並べて、カメラの方を向くように話す。言うなれば学芸会チックなんだけど、やっぱりあの配置で人が会話するってのは良い。
古典的というか、伝統的というか。
ドカーンバキーンでストーリーを進めるんじゃなく、人物と人物の関係の変化がストーリーを進めるというんだろうか。

おかげで退屈は退屈だ。基本的にドカーンバキーンを使わないから。ただ、パート3ではいくらかドカーンバキーンも使っているような気もする。オペラのシーンを背景に組み合わせてスリリングな殺人シーンを作り込み過ぎている気もする。パート3は1,2と比べて急に速度感も出るし、退屈感も薄い。
全てのストーリーをまとめてラストにしないといけないからどうしてもそうなるんだろうし、1,2が好きなら3、つまりラストは気もなるし、きちんとまとまっていて感動もするから3もやっぱり良いんだけど。

それでも、1の入りの退屈さが最高だ。
物凄く長いストーリーの最初なのに、全く分かりやすくない。
「え、何これ?」
って思う。娘の結婚式の裏側で初代ゴッドファーザーが殺しの依頼を受けているところから入るが、別にその殺しのシーンなどはない。
でも、全て見終わると、なるほどあの入りしかないと思う。
要は最初のシーンではゴッドファーザーの荘厳さ、これから始まる空気感が提示出来れば良い。
ドラマティックに入るなら、いきなり殺しのシーンから入った方がインパクトがある。多分、それでもゴッドファーザーの強さや威厳は示せるし、これから始まるマフィアの世界も示せて上手く行くし、むしろその方が退屈じゃない。
でも、実際には学芸会チックに人物がいて、淡々と会話をするシーンから入ることで、映画全体のテンポをスローに退屈に保てている。

1は本当に面白い。一番退屈だけど。

ドカーンバキーンのアップテンポな映画ってのも面白い。最近の映画はだいたいそうだ。邦画なんかは割と今でもスローテンポでやろうとしたりもするけど、実際にはそんなにスローテンポでもない。スローな絵に見えて、実際には伏線を張ったりするのに忙しい。面白おかしくするための仕組みがてんこ盛りに詰まっている。飽きて眠ってしまわないように、要所要所にウキウキするシーンがはめ込まれている。

ゴッドファーザーにも、もちろんそういうのはある。
2なんかはビトコルレオーネの若かりし日々とマイケルコルレオーネがゴッドファーザーとして活躍している日々という二つの時系列をクロスさせることで観る人が飽きないように技巧的な構造にもなっている。
二つの時系列を交互に出して並行させるっていうのは、観ている人間にウキウキさせる。向こうの話はどうなるんだと気になる。
技巧的にやらないなら、時系列順で良い。淡々とビトコルレオーネの若かりし日を先にやって、マイケルコルレオーネの時代をやれば良い。そっちの方が退屈だし、スローテンポな映画としてはそっちの方が良い気もする。
でも、それを言うなら1から時系列順にビトコルレオーネの若き日々から始めるべきだってことになる。
でも、やっぱり1のマイケルがゴッドファーザーになるっていう変化こそがゴッドファーザーで一番面白いし、この映画の核だろう。2は1の補足みたいなポジションだし、3はシリーズを完結させるっていうポジションだ。やはり1ありきなのだ。
そうなると2はやはり1を持ち上げるためにあるから、1でマイケルがゴッドファーザーになった後のところから始めるのが順当になるし、そのバックグラウンドとしてマイケルの父親のビトコルレオーネの若き時代も提示するには、二つの時系列を交互に出して並行させるのがベストな手になるのかもしれない。

3はマイケルコルレオーネの人生を完結させる必要があるから、完結のために必要なものを順に配置してラストシーンまでつなげる。そして、3には大作の完結に不可欠な感動が必要になるから、1のような退屈さというか、独特の時間の進み方がない。それに3は見ている側も1,2を見ているから、予備知識があるせいか、分かりやすい。言うなれば、1,2で提示した問題の解決、マフィアのドンの抱える苦悩の解決に向けて進む。最終的に解決するかどうかは別として、ストーリーに向きがある。どこか分かりやすい。

1は不思議なまでに分かりにくい。
改めて考えればマイケルがどうやってゴッドファーザーになったかっていう、割と分かりやすい話なのだが、なぜかストーリーの方向性みたいなのが分かりにくい。全てのシーンがバラバラみたいな、断片的な感じで、よく分からないまま進むような。
断片的なシーンの美しさを楽しんでいるうちに映画が進むような。のんびりと映画を眺められるような感覚。
そう感じるのは僕だけかもしれないけど。

まあ、あれこれ考えてはみるものの、結局、贅沢に尺を使うことで、映画特有の美しさを存分に提示している良い映画っていうのに尽きると思う。
でも、小津安二郎とかとは違って、娯楽映画っていうスタンスも守っている。小津安二郎は娯楽映画っていう要素は基本的にない気がする。
小津安二郎は絵と音楽さえ良ければ良い。別に話に抑揚がなくても良い。
ゴッドファーザーはスローテンポだし、絵と音楽にこだわりもあるけど、きちんと話に抑揚がある。ストーリーの構築も丁寧に消費者が一番感動するように構成している。

最近のトレンドは、いろんなことが短く端的にまとめてハイブリッドにした方が優れているって流れだ。
昔は長々と文で埋められていた新聞で情報を得ていたけれど、今はスマートフォンで写真とヘッドラインだけチェックして、記事の内容も非常にコンパクトにまとめられている。
多くのストーリーが最初にドカーンバキーンから入って消費者のウキウキを掴むか、主人公か誰かの語りから入って物語の主題、謎みたいなのを投げかけて消費者の好奇心をそそらせるところから始まる。途中に消費者の疑問を呼ぶようなナゾナゾみたいなのを仕掛けて、ラストはドカーンバキーンにするか、まさかの大どんでん返しにするか。
奇をてらっているような話でも、よくよく考えると、基本、王道の上に積み重ねたハイブリッドな奇のてらい方だ。
ハイブリッドで端的で分かりやすい。

もちろん、そういうのを作るのだってとても難しいし、そういうのも面白い。ハイブリッドってのは、やはり積み重ねだ、人間はこういうものを面白いと感じるということの積み重ね、やはり作るのは難しいし、見れば面白い。

でも、全部そうだとやっぱりつまらないのだ。
ゴッドファーザーに感動するのはゴッドファーザー自体がすごく良い映画というのはもちろんだが、ゴッドファーザーのようなスタイルの映画ってのはハイブリッドが進んだ今の時代ではもう作れないからってのもあるのかもしれない。

質の高い、スローな映画ってのはリスキーだ。
映画ってすごくお金が掛かる上に、質を高めるにはお金もかかるし、スローだと売れない可能性もある。質を高めるからにはしっかり売れてくれないと困る。

昔のことはよく知らないけど、当時はスローとは感じなかったのかもしれない。古い映画って今と比較するとスローなテンポのやつが多い。
そういう時代ならゴッドファーザーもスローな映画じゃなかったのかもしれない。
あるいはスローな映画とされていたけれど、スローな映画というのが売れないっていうことと直結していなかったのかもしれない。

いや、多分、もっと正確に言うなら、今の時代だって本当のところは同じかもしれない。
本当はゴッドファーザーは別にスローでもないし、仮にスローだとしても売れないってのとは直結していない。
ただ、そういう風に、スローな退屈な映画は良くないよ、売れないよと思い込みましょうっていう常識みたいなのがあるだけで、実際の人々が感じているのはそうじゃないのかもしれない。
だからこそ、いつまでも名作だし、ああいう映画が、また出て来れば良いのにと多くの人が感じるんだろう。

何だか長くなったけど。
ま、そんなこんな。
posted by ちょろり at 23:52| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする