2017年08月13日

走り続ける方法。

走りたい。
自転車で延々と。
テントも持たず、疲れたところで横になって、起きたら、また延々と走って。
ただ、ただ、走りたい。

奥さんの言うことにも一理あるのかもしれないなと思う。
深層心理として、僕は一人で走り続けたいんだろうなって。

奥さんのことを心から愛している。
死ぬまで愛し続けられると思う。

ーーー

ひどくモヤモヤした。
でも、底まで付いた。
山小屋の友人に感謝する。

もう一度きちんと小説を書いてみようと思う。
趣味で書くんじゃなく、血を持って書いてみようと。

結局のところ、走り続けるかどうかって当人次第なのだ。

ーーー

走るという営みはすごく簡単で、すごく難しい。
レースで勝つための走り、部活で優勝するための走りってのは、まあ、それにも難しさはあろうが、延々と走り続けるっていう営みはすごく簡単ですごく難しいことなんだなとしみじみ思う。
延々と走り続けるためには、明日も走り続けないといけないのだ。いや、正確には明日は休んだって構わない。明後日もね。でも、いずれまた走り始めないと、走り続けられない。
走り続けるために休みは重要だ。人間は機械じゃないから走り続けられない。
でも、休むほどに走ることから離れていく。
離れるほどに再び走り始めるのが難しくなる。

ーーー

ナミビアのウィントフックで出会ったフランク・レナガード氏の言葉に感動したのはそういうことなんだなと思う。
サムデイ、ネクストタイム。
砂漠を走らなくて気落ちしていた僕に彼は言ってくれた。

フランクは妻を亡くしている。
妻がいた10年ほどの間、自転車で走るのを辞めている。
フランクは本当にすごい。
サムデイ、ネクストタイムは本当にすごい言葉だ。

ーーー

山の仕事がしんどくて、疲れがうまくコントロール出来なくて、久々にうつ病に入っているみたいだ。

でも、これから先の人生、仕事で疲れ果てて、出口が見えないような鬱は何度でもやってくる。

芥川氏のぼんやりとした不安。
まあ、僕はまだ本当に死んじまわなけりゃいけないような不安にはぶつかっていないからこそ生きているから、本当のところは分からない。

不安は語れなくなってくる。
理解してくれる人がいないと感じるようになるのはもちろん。
不安は本当に不安なのか。
自分で自分に語りかけることさえ出来なくなってくる。
文にさえ書けなくなってくる。

どうなんだろう。
飽和なのかな。
不安の飽和。
でも、本当に不安なんだか分からない。

不安ってそもそもに何なのだか。

ーーー

努力しかない。
走り続けるにはタナボタ的な解決や期待はありえない。
ただ、努力するほかない。
努力は報われないかもしれない。
やはりタイミング、巡り合わせってのはある。どんなに努力したって、それが上手くいかないってことはある。
それでも、努力し続けるしか走り続ける方法はない。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 07:52| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月12日

失敗しないことはやらない。

先日、奥さんに叱られた。
結婚することで自由が減るとか、旅に出たいとか考えてるでしょ?
みたいな具合だ。
まあ、叱られるってほどでもなかったんだけど。

自由の話は、まあ、どうなんだろうか。
結婚しなくたって、一つ自由を失う時期だと思う。
年齢とかじゃない。
何事かをやっていると一つ自由を失う段階ってあると思う。

こういう話を考えるときに大道芸って分かりやすい。
最初はすこぶる楽しい。
スリーボールの簡単な技からフォーボール、するすると進む。
ファイブボールで少しこけて、その先にまだ難しいところがあるが、ここらも、まあ、何とか楽しめる。
セブンボールから鬼門になる。
セブンボールは一周、専門用語で言えばワンフラッシュくらいまでは何とか頑張れば出来たりする。
ただ、セブンボールをある程度投げるとなると、人間としての限界が出始める。
そこが一つ大きく自由を失う段階だろうと思う。
セブンボールを投げるには常識はずれの努力の継続が必要になる。

まあ、自転車でもそうだ。
最初は楽しい。
100キロ走れる、あの峠を登れるようになる、草レースで上位一割に入れるようになる。
旅なら隣の県まで、東京まで、鹿児島、北海道、海外のどこそこ。

まあ、やってない人から見れば十分にすごいってところくらいまでは、やれば出来るようになる。やるかやらないかの世界だ。
でも、ドカンとぶつかるところってのが出てくる。

そうやって何事もぶつかる。
自由はぶつかる。
自由は楽しい。
でも、ドカンとぶつかる。

自由がぶつかった時に、乗り越えれるかってのも大きいけど、一歩引いて、別の道を探すってのも僕は大事な気がする。
天才なら良いけど、たいていは天才じゃないし、天才だってどうにもならなくなることがある。
物事は必ずいずれ失敗する。

まあ、そうは言っても、失敗しない人生もある。
ドカンとぶつからない人生もある。
失敗しないようにやるって方法はあるにはある。

失敗はすると何かとマイナスになる。
あれこれ困る。
だから、失敗はしたくない。

人間の脳みそは何事かを想像する時に、必ず悪いイメージの方が先行するように出来ている。
明るい未来より暗い未来。
それは根暗だからじゃなく、本当に人間の脳みそってのはそう出来ている。
なぜって、失敗は危ないのだ。失敗を予期するという能力は非常に生きて行く上で大事だ。
そして、この能力は極めて重要でありながら、出来ることの幅を減らしてしまうものでもある。
子供は平気で危険なことをするが、まだ、予期する能力が成熟していない段階だからだ。しかし、子供の段階で備わっていない能力という事実は非常に面白い。

成功と失敗の二元論なんてすこぶる危険な考えかもしれないけど、やはり物事、成功か失敗かどちらでもないか。はたまた、良いことだか悪いことだかどちらでもないか、って僕らは考えることにしている。
実のところは、どんなことも成功でも失敗でも良いことでも悪いことでもあるし、そのどれでもなかったりする。
二元論ってのは、説明や理解をするには便利かもしれないが現実としては二つに割れるものでもない。
ある側面から見れば良いこととは言えるかもしれないが、その側面から見ること自体が良いことか、またその側面をどのように見るか、いくらでもつながってしまう。二元論はあくまで仮定ありきで成り立つ理屈だ。

成功と失敗ってのは人それぞれの中に成立してくるが、決して普遍的ではない。
だから、その気になれば失敗しない人生も作れる。失敗の定義をうまく作り込んで、それを避けるように生きれば良いだけだ。まあ、それはそれで、難しいに違いないが。
壁にぶつからない人生だって作れる。
バカな夢は見ないように、成功することだけやれば良い。

間違いなく失敗しないことは僕はダメだと思う。
魅力がないのだ。
もしかすると失敗するかもしれない。
でも、成功するかもしれない。
そういうのが生きてる実感になると思うのだ。
失敗オーケーってのも違う。
失敗しないように全力を尽くす。それでも、失敗する可能性は低くない。そいつを何とかかんとかやり切ってやろう、と。
そういうことが生きていて一番燃えると思うのだ。
命が燃えるってやつだと思うのだ。

偉くなっちゃいけない。
バカなので30が来るのにまだそう考えている。
偉くなっちまうも失敗が出来なくなる。
偉く振舞わなくちゃいけなくなる。
出来るか出来ないか分からないけれど、やってみたいことをやっていく。
くだらないことでも何でも良い。

自由がなくなるかもしれないし、それどころかもっと大変なことになるかもしれない。
失敗するかもしれない。
それでもやってみないと分からない。
みんながやってるから出来るなんてのはナンセンスだ。
自分がやれるかやれないか、やっぱり自分しか分からないし、自分にも分からない。
でも、やってみるのだ。
やってみればたいていのことは出来るのだ。
壁にドカンとぶつかって遠回りすることはあれど、諦めないでいればいずれたどり着くのだ。
そんなの出来っこない、やめておけ、そんなこともやってしまえば出来てしまったり、目的地に着くと案外なんてことはなかったな、最高にキツかったけどね、ってなるんだ。

失敗しないことだけやるようになったら、そりゃ煙草も全然美味くない日々だろうな。そういうのはやらないよ。

ま、そんなこんな。
posted by ちょろり at 05:03| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする