2017年12月30日

管理職と楽しいこと。

気付けば管理職になっていた。まあ、かっちりしたサラリーマンの管理職というイメージとは少々遠い自転車屋の店長。部下というほど上下もはっきりしていないし、指示を出すのはたったの三人。それでも、まあ、管理職には違いない。下も少ない代わり社長の指示を聞くことになるけれど、上は社長一人とマネージャーが一人だけだから、中間管理職としてはさほど厄介でもない。

最初は僕なんかが管理職かと思ったが、冷静に考えると、少し離れた時期はあれど三年働いているスタッフというのは確かにあまりいない。いてもメカニックなので、メカニックは職人気質に自転車を整備する、作業に集中するという性質上店全体の管理は難しい。他はみんな辞めてしまった。
そう考えると僕が管理職というのも順当なのかもしれない。

管理職とは管理する人間だが、一体何を管理するのやら。
一番はモチベーションの管理だろう。
メンバーにやる気さえあれば、その場は明るくなる。
結局のところ、人間、出来ることしか出来ない。
スタローンが言うところの、どうにも出来ないことはどうにもしない、ってやつだ。
どうにも出来ないことをどうにかしようったって、どうにもならない。
各人が出来ることを最大限やっていけるという環境ってのが、そのメンバーでのベストパフォーマンスになる。

教育というのは、出来ないことを出来るように導くということっていう考えもある。
ただ、よくよく考えれば小学校中学校なんかの教育はたしかに満遍なく教えるが、次第に高校から理系、文系、工業、商業、芸術などと枝分かれしていく。大学になると、さらに絞り込まれる。
どちらかと言えば出来ること、出来ないことを理解するために、最初は一通りの全てを経験させるという方が正確だろう。
人間、生きている時間は有限だし、考えられることも有限だ。全てをやろうってのは、正にどうにも出来ないことなんだろう。

出来ることだけやってたら現状維持にしかならないじゃないかと言うとそうでもない。
出来ることをどんどんやっていると、練度が上がる。
一つの物事の練度が上がるというのは、周辺の技術が向上することにつながる。
逆に一つの物事の練度を上げるには、周辺技術を上げないといけない場合もある。

分かりやすい例えとしては、小学校高学年の算数の文章問題だ。
「アキラ君はリンゴを三つ買いました。その後、コウタ君に二つリンゴをあげました。その後、みゆきちゃんにリンゴを一つもらいました。アキラ君はいくつリンゴを持っていますか?」
なんていう問題だ。
これの答えは本当は解なしになる。もしかするとアキラ君の家はリンゴ農家で最初からたくさんリンゴを持っているかもしれない。また、問題の核心になっているリンゴをいくつ持っているかだが、いつのアキラ君なのかが明確に示されていない。言うなればこの問題は問題自体として成立していない。
ただ、小学校の問題として考えると、前提として、アキラ君は最初はリンゴを持っていない、この問題の話の中での時系列の最後の時点でいくつ持ってるか、というのは暗黙の了解として考えて差し支えない。
よって、
3-2+1=2 答え 2つ
となる。

簡潔に言えば、日本語能力がないと、式が立てられないのだ。

この手の文章問題は段々と難しくなってくる。
数式自体も難しくなるが、日本語としても難しくなる。
3センチ、4センチ、5センチという辺の三角形がある。この三角形に内接する円の面積を求めよ。
こんな具合で数学用語が混じって来たりする。
ちなみに、この問題は今の僕には解けない。忘れた。1時間くらいカリカリ落書きすれば内接円の性質なんかをいくつか思い出して解ける気もするけれど。

ただ、どんなに問題が高度になっても、基本的には、その文章の中で、何を聞かれているかということを理解出来ないと答えの出しようがない。また、問題の中で確定していることを理解していないといけないし、解くために使う条件を選び出せないと解けない。
文章の中から必要なものを拾い上げる。
つまり、文章読解能力が必須なわけだ。

自転車を売る時に必要な能力はいくつもある。
自転車の知識も必要だ。
自転車屋の店員として好感が持てる風貌もある方が良い。
喋り方、髪型、立ち方、話の内容、語尾の選び方。そういうのが調和していると自転車は売れやすい。
もちろん、そういうのが何もなくても売れる時は売れる。
人間、欲しいものは買う。
相手の欲しいものを素早く見抜く力もある方が良い。
喋り方、目線、服装、年齢、体格など、材料はいくらでもある。

ある程度はマニュアルにも出来るものの、最終的な答えとしては、方法はどうあれ自転車が売れれば良いわけだ。
下手にマニュアル化すると遠回りになることもある。
ものすごくフォーマルに売る方法も、フランクに売る方法もある。
向き不向きがある。
向き不向きを全て網羅した場合分けの入ったマニュアルを作れば良いかというと、それはやはり無理だろう。
せいぜい、囲碁や将棋みたいに動けるマス目が決まっている世界ならまだしも。
現実世界は複雑だ。
仮に全てを網羅したマニュアルがあったとしても、人間はそれを実行できないだろう。
それこそ、コンピュータが指すような将棋は人間は出来ない。人間は人間の考え方でしか将棋を指せない。
単純に人間には時間と思考は有限なのだ。
コンピュータは時間さえあれば集中力を切らすことなく無限に計算し続けられるし、計算に要する時間も技術の発展的でどんどんと進化している。
人間は第六感、計算じゃないところで出す判断を使うことで有限性を解決する。時間と思考は有限なので、第六感ですっ飛ばすのだ。計算ではなく経験則、カンで。

ロボットが人間を越える時代は来るか。
意味を限定すれば来るだろう。
例えば囲碁は人間は随分前に勝てなくなっている。
自転車を売るということにしたって、非常に自然な動きをするロボットが出来て、音声認識、表情認識などが発展すれば、相手の求めるもの、話したいことなんかを解析出来るようになるだろう。
あるいはそこまで進化しなくとも、自動販売機みたいな形で、ユーザーがいくつかの質問に答えるだけで、ユーザーの求めるものを素早く割り出して提案するコンピュータが出来れば、それだけでも生身の販売員より成績は良いかもしれない。
自動接客マシーンはあり得る。
話し相手セラピーマシーンだってあり得る。

ただ、逆を言えば人間ってのは実に優れた生き物でもある。
生きている百年足らずどころか、三十歳くらいまでにある程度はそういう技能を一つは習得する。
コンピュータが三十年後、どこまで出来るようになっているかは分からないが、映画バックトゥーザ・フューチャーから三十年以上経った現在もコンピュータは意外なまでに人間特有の技能みたいなものを越えられてはいない。
計算を早く処理する、小型化するというのは進んだが、人間と雑談するってのはいまだに出来ていない。iPhoneのsiriなど頑張ってはみるが、ちんぷんかんぷんな答えが大半だ。
ーーこんにちは、良い天気だね。
と言ってみたところで、ひとしきりの受け答えくらいで、向こうから話題を振って来たりはない。
ーーそうね、良い天気ね、今日、何かするの?
ーーいや、別に何も考えてないけど。
ーー野球でも見に行く?チケットあるんだけど。
この程度の会話が意外と出来ない。出来そうな気はするんだけど、意外と出来ない。
三十年後にそんな会話を出来るようなロボットが存在するかは分からないけれど、とりあえずは人間は5歳になればいくらかは会話も出来る。

意外と人間ってのは優秀だ。

まあ、ロボットの話なんかはどうでも良い。
管理職の話。

そう、ある人間の出来る事、得意なことって実に優秀で、真似するのって難しい。
そんならそういう能力がフルに発揮される環境を作れば、これはなかなか素晴らしい仕事が達成されるわけだ。

そして、誰しも何かしらそういう能力って持っている。
そりゃ、その能力が仕事に直接的に役立つかって言うと分からない。
あまり役に立たない能力もあるかもしれない。
ただ、ある程度以上、練度の高い能力は何かしら役に立つものだ。

結局だけど、学生の文化祭だの体育祭だの学級委員長だのと変わらない。
楽しい場所では人間せっせと何かやる。
つまらない場所では、いかに恐怖で縛っても、機械が出来る範囲のことしかやらない。
楽しい場所を作ればエネルギーは高まる。
あとはその集団の目的みたいなものを明確にさえしていれば、エネルギーの方向もずれない。
集団の目的に賛同できない人間も時々はいる。
それでも、目的を明確にしておくのが重要だ。
賛同出来ないと自覚してもらうのも重要だ。自覚していないと、真逆の方向を一生懸命やってしまったりする。自覚さえあれば、仮に真逆のことをするにしても引け目がある。

ベストは賛同してもらうようにすることだ。
そのたまにはドラッカーのマネジメントで言うなら、真摯さだ。真摯さで人の心を動かして、目的に賛同してもらい、エネルギーを一つの方向にまとめる。
真摯さって何なのかって言えば、筋が通ってるかどうかだ。
筋が通っている目的ってのは、納得出来る。

まあ、楽しいことしていて、しかも仕事を評価してもらえるってのは、やはりほとんどの人は嬉しいと感じるところだ。
仕事は高く評価されるけど、楽しくないってのは長続きしないか、我慢して続けてもパフォーマンスが落ちる。

まあ、そうは言っても楽しいって何なのやら。
まあ、アフリカ走るとかは楽しいね。
山登ったりね。
達成感あることは楽しい。
怠惰な快楽も楽しいには違いないけどね。
何かしら活動して得られる楽しさってのは、やはり達成感とかだろう。

ま、そんなこんな。
posted by ちょろり at 02:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月04日

細々とでも長く続ける。

気付くと長いこと日記も書いていなかった。
アフリカの旅から戻ってからの山小屋の勤務が終わり、もうじき自転車屋に戻る。
自転車屋の勤務が始まる前にアフリカの話を執筆していた。とりあえず第一稿が上がった。珍しく十万字近いので削るのか、もしくは伸ばすのか。まあ、のんびりやっていこうかな、と。

以前は小説という形式にこだわっていた。
今回のアフリカの話は小説っていう感じでもないし、旅行記ってわけでもなく。ルポルタージュだとかドキュメンタリーとかになるのかというとそうでもない気もする。
とにかく形式ってのは、一切無視して心のままに書いてみた。
ここから推敲を重ねて行く内に小説風になるのかもしれないし、ドキュメンタリー風になるのかもしれないけれど。

形式って重要だ。
小説に限らず、最近のアートってわけの分からないようなものって多いけれど、あれってすごく難しい。風景画とかは人から理解される。理解されるされない以上に作り手自身が作るものをイメージしやすい。こんな感じのものを作ろうって。抽象的なアートは作る前のイメージ、こんな感じで作れば良いかなってライン取りがすごく難しいと思う。
多分、文を書くでも、テンプレート、型のある文よりも、型のない文って厄介だと思う。宮沢賢治だとか。もちろん、詩だとか童話って型はある。それでも、宮沢賢治は型破りで、実際、長い歳月が過ぎても宮沢賢治みたいな作家ってなかなか出てこない。
それでも、やはりまずは型通りにやる時期があってこそだろう。何となくの感覚だけで作って、それが何かの形になるってのは、基本の型はやったことがあればこそだろう。

あとは、いくらか投げやりということ。
いや、投げやりってのは違うけど。
まあ、何でも良いや、自分は自分の好きなようにやる、みたいな。他人なんか知ったこっちゃない。そんないくらか傲慢なところを自信を持って出せるようになるまでには時間がかかるんだろう。

だからって、今回書いたものが上手く行ってるかは分からないんだけど。

自転車屋では店長をする予定になっている。他に適切な人材が見付かれば変更はあるかもしれないと思っていたが、気付くと三十歳(厳密には次の三月で三十歳)と適切な人材として扱ってもらえる年齢になっていた。恐らく変更はないだろう。
実際には年齢など大した意味はないと思うんだけど、ある程度最低限の経験の積み重ねって重要だ。
歳食ってるからって経験を重ねられているわけじゃないにせよ、やっぱり経験って時間が必要だから、三十歳くらいってのはちょうどそんな時期なんだろう。順当に行っていれば、ある程度の経験を積んで来ていて、それなりの戦力になるっていうライン。そして、三十くらいまでに全く何もしていなかったり、いろんなことを諦めている人間は、そこから先、待っても期待出来ないっていうライン。
もちろん、人間、早い遅いはあるし、遅いのが悪いわけではない。遅くてもこれから進む兆しがあって、長く成長する見込みがあれば全く悪いことじゃない。

若気の至りじゃ片付かない年齢、そこでやってることは人間の本質に近いのかもしれない。

まあ、そうは言ったって四十歳からでも六十歳からでも何事かをする人はするから、別段、三十歳ってのは大した歳でもなく、言ってしまえばやはり歳など大して関係ないのだけど。

まあ、好きなことを細々とでも長く続けるって大事だと思う。当たり前か。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 05:03| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする