2018年01月27日

一日十分を積み立てるのは危ないんじゃないか。

呑気に日記を書く。
多分、そんな風に生きるべき人間なんだろうか。

一日十分サボると、一ヶ月に24日出勤したら240分、つまり四時間、つまりは半日分ロスしている。
そんな話があった。

そんな話ってすごくナンセンスだと僕は思う。
そりゃ、掛け算すればそうなんだろうけど、逆を言えば、その理屈の上で出来たのがベルトコンベア、分業、流れ作業っていうスタイルだけど、そのスタイルってもう随分昔から、人間としてどうなの?って言われている。

そりゃ、ベルトコンベアスタイルは大きな恩恵をもたらした。専門の知識や技術を持たない人でも仕事が手に入るようになったっていうのが一番だろう。
商売に向く人は商売をすれば良い。
職人に向く人は職人をすれば良い。
サービスに向く人はサービスをすれば良い。
何かしら生きるために必要なお金を得るために自分の向く仕事を探して、それを努力すれば良い。
そうは言っても、現実問題として、お金を稼ぐということに向かない人もいる。
そういう人が存在して、そういう人も食って行かねばならないという現実がある以上、ベルトコンベアシステムというのは本当に必要不可欠で大事なシステムではある。

ただ、やはり批判はあるのだ。
お金をベースに動く世界のために、人が人間らしさを失ってまで働かないといけないってのはどうなんだろう、って。
有名どころだとチャップリンのモダンタイムっていう映画なんかがそういう風刺をしている。
多くの人々がこれまで声を上げてきた。

でも、背に腹はかえられぬ。
じゃあ、人間性の尊重という意味で、ベルトコンベアを廃止して、職人、商人などみんな何かしら特殊技能、長所を持たないと生きていけない時代に戻すのか。そうなると、今、ベルトコンベアで働いている人々は明日からどうやって食っていけば良いんだ。
背に腹は変えられないだろう。
そう言って時代が進んで来て、誰かが深夜も働いているのが当たり前の世界がやってきている。

そうして、一日十分のサボりは月に半日、一年にすれば6日の休暇に相当するっていう論法に辿り着いてしまっている。
「どうやってあいつが一日十分サボるのを防ごうか」
そんなことを何十分もかけて相談する。

サボりって大事なんじゃないかなって僕は思っている。
人によってサボる時間って違うし、サボり方も違う。
あまりにもサボっていると、サボらないでねと言わないといけないにせよ、やっぱり誰しもいくらかはサボって生きている。
人間に限らず動物だってそうだろう。
絶えず何かを食べるため、食料を確保するためだけに動き続けている生物っていない。
人間以外の生き物の声なんか聞くのは無理にしたって、どんな生物、植物も観察していれば、「これって何のためにしてるの?」っていう謎の行動って出てくる。
言うなればサボりだ。
同時に、論理付ければ、それも実はその生命にとってものすごく重要な活動とも言えたりする。
なぜサボる働きアリが存在するのかだとか、どうして鳩は首を振って無駄に歩き続けるのかとか。マグロはどうして泳ぎ続けないといけないのとか。
その生き物にとって必要な動きだけれど、一見サボりのようにも見えることってたくさんある。

人間だってそうだろうと思う。
ベルトコンベアシステムがあまりに普通になり過ぎて、無駄を省くことこそ正しいっていう常識が構築されてしまいつつあるし、それを利用して労働者を馬車馬の如く定額時間内働かせ放題みたいな、どこかの企業の商品のキャッチコピーみたいなことがまかり通る。

料理なんかって割とそういうのに関してまともだと思う。
レシピはある。ただ、そのレシピを数字通りにしているだけじゃプロの料理人とは言えない。もちろん、レシピって基本ではある。ただ、食材の鮮度や使う調理器具なんかの相性、提供するお客さんの嗜好の傾向などから、時間や味付けっていくらかは感覚的に変えないといけない。数字通りじゃ上手く行かない。
最近は数字通りにするのが一番間違いないってところもある。湿度温度、食材の鮮度なんかがコントロールしやすい機械、環境が増えたってのもある。
寿司職人になるのに、無駄な修行期間など必要ないっていう時代でもある。

ただ、どんなに環境をコントロール出来るようになっても食材は生き物だし、それを調理する人も生きた人間である以上バラツキは必ずある。
数字でコントロールされたマニュアルの限界ってのはある。

料理に限らず何事もそうだろう。

数字が偉くなりすぎた。
たぶん、今って人間より数字が偉い時代になりつつある。
だれかの感想よりも、統計で出されたグラフと数字の方が信頼できるっていう。

別にどっちが正しいとも思わないけど、やっぱり違和感ってのは忘れちゃまずいと思う。
違和感のあるものってやっぱり違和感があるものなのだ。理由が不明だろうと、人間が違和感を覚えるものって、やはり人間が違和感を覚えるものなのだ。
A=Aなんてシンプルな話だけど。
違和感が鈍くなるってすごく機嫌だと思う。

八時間働いてりゃ十分くらいサボると時間はあるし、それに文句を言うのなら八時間以上働かせるってどうなの?って売り言葉に買い言葉になってしまう。

お互いを思いやって、お互いに感謝出来て、お互いに許しあえる。
そういうのって数字じゃないだろう。人間の感覚とか感情だろう。
働かせてもらえてありがたい、働いてもらってありがたい。

ま、そんなこんな。


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posted by ちょろり at 00:05| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月22日

全てが決まっている。

三十にして立つ。
孔子の論語だ。

さて、僕は三十にして立つのだろうか。
そもそも論語だと十五にして学に志さねばならないのだが、それすらした覚えはない。

文章を書くのは悲しい。
文章を書くのは読む人の心を読むことで、それを繰り返すたびに心が痛む。

どうしてだか、ここ最近、ひどく心が痛む。
三十にして立つのか分からない。十五にして何かを志したのか分からない。
ただ、ひどい罪悪感に心が痛む。
文章は書いていないけれど、ひどく心痛む。

悲しいわけではない。
怒っているわけでもない。
ただ、ひどく心が痛む。
罪悪感だとか恐怖だとか、何か怒られそうな、ひどく何かに怯えている。
一歩踏み間違えれば何かとんでもない地雷を踏んでしまうような。
その原因は分からない。

アフリカと違って、今夜の寝床に困ることはない。得体の知れない病に掛かるかもしれないということはない。119番を押せばすぐに救急車が来る。暴力の危機にさらされれば警察を呼べば無料で助けてくれる。
お金で何か大きな失敗をおかしたとしたって、食べるものに困ることはない。生活保護なり何かしらの保護のある平和な国。
何も危険などない。

それでも、ひどく心が痛む。何かを恐れている。

きっと人間なんだろう。
旅の暮らしの良いところは同じ人間とずっと付き合わなくて良いことってのも一つある。
景色の美しさはもちろん素敵だけど、日々呑気に暮らす。誰かの都合など気にせず、起きて走りたいだけ一人きりで走って、飯を食って走る。

ネパール人の友人がいる。かれこれ五年以上の付き合いで親友だ。
彼が近年時々言うようになったことの一つに、「日本語を覚えすぎなければ良かったよ」というのがある。
言葉が分からなければ、難しい話はしない。人の悪口も分からない。誰かの愚痴を聞くこともなければ、誰かに愚痴をこぼすこともない。
厄介な問題に巻き込まれることない。
人間関係ほど面倒なことはない。
最低限のコミュニケーションを取れる程度に言葉は通じる方が気楽なのだ。
言葉が通じなければ、とりあえず酒を飲んで笑ってりゃ良い。

まあ、日本人ってのは心が平和じゃないなと思う。
全部決めたがる。
決めたことをきちんと守ろうってなる。
何かを決めるには争いが起きる。
決めたことを全て守ろうってのも、やっぱり争いが起きる。
会社の出社時刻ひとつとってもそうだ。
例えばだけど、自転車屋が1時間早く開けようが、閉めようが一体誰にとって損なんだろう。来てみて開いてなけりゃ、開いてないで良いんじゃないだろうか。1時間のずれって何か問題になるんだろうか。

あくまで僕の考えだけれど、受験生はテストで点が取れれば良いし、チャリ屋はチャリが売れてりゃ良いし、医者は患者が治れば良い。そういうシンプルなことを複雑にする必要ってない気がする。

いろんなことを決めて、シンプルで良いものを複雑にして、みんな息ができなくなっちまってる。

まあ、合わないんだろうな。

生きるのがバカバカしく感じることが少なくない。
だが、こちらが生きやすい環境は自分で作るしかない。

ま、そんなこんな。
posted by ちょろり at 20:49| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月06日

リテラシー。

人間ってのはリテラシーなんだ。

そんな会話をする。

リテラシー。
辞書的なきちんとした意味は忘れた。
識字力とか読解力くらいだった気がする。

人間と人間が会話をする。
その時に、当然ながらどちらかが話して、どちらかは聞く。もちろん、一方的に話し続けるとか、聞き続けるってのはない。明確に話す側聞く側が分かれているわけでもない。話している側も話しながらにして相手の話を聞いている。
ただ、ある瞬間だけを取れば、情報は発信する側と受信する側になっている。
時々、双方発信になって、お互い聞いていないということもあるにせよ、ある程度の長さ会話をしていれば、基本的にはどちらかが発信でどちらかが受信、これがランダムに入れ替わっている状態になる。

人間、話す時に面白い人と面白くない人ってのがいる。
ただ、それは話題の内容ではない。
「あの人、いつも面白いことしてる」
そんな人も時々いるにせよ、基本的には普通に生きてりゃ、そんなに面白いことって起きない。だからこそ、人間、テレビを眺めたり、映画や小説を楽しむ。普通じゃない世界を時々触れる。その世界では必ず面白いことが起きている。
ただ、現実には生きていてそんなに面白いことって起きない。

面白くない内容の会話、パッと聞くと面白くなさそうな会話だ。
それでも、究極だが、話が面白いってのは内容の面白さってのはあまり関係ない気がする。

最終的にはリテラシー。
聞く側の上手さと、話す側が相手にどう聞こえて、どんな気持ちになるかを想像できるか。
会話の上手さなのだ。

声を使っての会話は人間のベースにある。
文字入力で事足りそうなことでも、昨今の流行りというのもあるにせよ、音声入力ってのをやりたがる。
音声で言葉を出すってのは早い。
ワンフレーズ話すのも早いが、切り返すのも早い。
同じ時間量で言えば、音声に出しての言葉ってのが一番情報をつめこめる。

ねむい。

そんなこんな。

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posted by ちょろり at 01:43| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする