2018年09月16日

ーー書き続ければ良かったのに。僕の知り合いで、細々書いてて、この前当たってドラマになるとかで何千万だか入るって言ってたやつもいるよ…

ーー書き続ければ良かったのに。僕の知り合いで、細々書いてて、この前当たってドラマになるとかで何千万だか入るって言ってたやつもいるよ。
東京から来た陶芸家のオヤジが語る。
ーー何ででしょうね、まあ、書かなくなったんですよ。書けなくなったのかもしれないし。
一発当てるために書く、そんなことを随分前から思わなくなっている自分に気付く。書きたくなれば書く。書くべきものがあれば書く。良いものが書けたと思えば文学賞なんかにも送ってみたって良いが、文学賞云々より前に書ける原稿がない。

昔は文学賞を取って、城崎温泉に別荘を持って愛人を囲うのが夢だった。現実には文学賞を取ったとしてもそんなことが出来るわけでもないのだが。
それでも、昔は小説家はかっこいいと信じていた。今も小説家はかっこいいと思う。やはり文化人、それで飯を食えるほどの文化人というものには憧れはある。ただ、かつてのように盲目に良い小説が書ければ、いくらか金が入って、女にモテるとも思わなくなった。

二十代を酒に金を溶かすような日々を過ごしたせいだか、酒を飲みに行かなくなった最近は金が欲しいともさほど思わなくなった。
大した貯蓄はなくとも、月末に給料日を指折り数えるようなことはなくなった。

時々、飲みに出掛けてばかりいた日々を懐かしむ。
三年と経たずに職を変え、住居を変え、旧知の友に会うのは数年に一度となり。そういったライフスタイルの中では酒こそが唯一の友だった。そうは言ってもあまり飲めない体質なので、大した量を飲まずとも泥酔する。そのおかげか健康も崩さずやっていた。泥酔しては文を書こうとした。
そんな暮らしなので金もなければ異性と付き合うようなこともなく。デートする金がなかった。

気楽で楽しい日々、それを続けていればもしかすると小説家になったのかもしれない。
ほぼ全ての金を酒に溶かして、小説と音楽にふけり、なぜか自転車に乗り続けた。

アフリカを走って、何かが途切れた。
そんな気がしている。
僕は何かに追われていたんじゃなかろうか。

何千万だかの印税収入。
昔なら憧れただろうか。

福生の小説家の先生は今も変わらず飲んでるだろう。
前会った時にはFXで勝つ方法を見つけたと言っていた。
実際、小説家で小説だけで飯が食える人は少ない。あれこれ文の仕事や副収入がないと難しい。
何せ日本はサラリーがないってことにひどく厳しい。収入が低くても結構な金額の税金やら保険やらを徴収される。異国を旅していて困るのがこれだ。異国を旅していて収入ゼロの状態でも毎月保険料や年金なんかが積み重なる。無い袖振れないと言っても、実際には息をしてる限りは明日の食費、家賃くらいは持っているので、そこから出すことになるが、そうなると飯が食えない。これが不思議とどこかから出てくる。親から借りることもあれば、本当に飯を食わなかったり、住み込みで働いて家賃をなくしたり。
毎月サラリーがもらえて、保険や年金の心配をしなくて良いのは随分と気分が楽だ。
その代わりに時間と自由を切り売りしているというだけなのだが。

時間と自由を切り売りして、酒を飲みにいくのをほとんど辞めてしまって、小説を書かなくなった僕と、六十を過ぎて独り身で日々酒を飲んで24時間の区切りなく生きる小説家の先生。
やはり小説家は偉いのだ。
デカダン、頽廃主義とかではなく。
海外ではどうかは分からないが、日本でまともなサラリーマンやるってのは時間と自由を切り売りして税金、年金の心配をしなくて良くなることである。
やっぱりそうなってしまうと、小説家なんてのは難しいと思うのだ。
時間と自由を切り売りして、安心を手に入れるなんて、そりゃ、動物で言うところのサバンナを捨てて動物園に飼われるような話だ。餌も天敵も心配なく、獣医もいる。いかに動物園のオリの中で一番強くなったって、野生に投げ出されたらひとたまりもない。
自分の命を自分でつなぐってのは、やはり生き物としてのベースだろう。
動物園で長生きをしたって、そりゃ、やはり違うんだろう。
それこそ、今、久々に福生に飲みに出てみろ、一晩飲むだけでいっぱいいっぱいさ。
9時過ぎから飲み始めて12時くらいには小説家の先生に捕まって、朝の5時まで転々とチビチビと焼酎の茶割やビールなんかを飲んで、一眠りして10時には仕事に行く。毎日とは言わずとも5回に一回くらいはそうなる。週に2,3日飲んでりゃ、月に2回はそんなことがある。そんなのをスタンダードとして暮らしてるやつと一晩だけにしたって飲めば、そりゃ追い付けない。
酒を飲むのが偉いわけじゃないが、自分の意志で飲みたい時に飲みたいだけ飲んで、話したいだけ話して。
少なくとも自分の時間と自由を、自分の手に握っている人間ってのはやはり偉い。
世間がどうこうじゃなく、飲みたいから飲む。それでいて何とかして今日も生きている。
そういうのって、やっぱり偉いのだ。
偉いなんて言うと上から目線だが、それでもやっぱり人間として偉いっていうのは何なのかと問われれば、何千万円だか原稿料でもらうとか、安定したサラリーがあるとかじゃなく、自分で自分の時間と自由を手にして生きてるってことなのだ。

金になるから何たらをする。
利益になるからアレコレをする。
そりゃ、そういうのはいくらかは必要だろう。税金も年金も保険も払わなけりゃいけない。

ただ、税金も年金も保険ってのは日本の欠点だろうとは思う。
もちろん、税金っていくらかは必要だろうが、毎年、来年の予算確保のために大して荒れていない道路の工事に使ったりするような具合だから、やはり多過ぎるだろう。
年金と保険は任意で良かろう。税金からいくらか医療費を賄うのは良いだろうが。

息をするだけで消える金が高過ぎるのだ。
家賃も食料品の値段も軒並み高い。
給料も高いが。

異国で物価の違いを感じる時にふと思うのが、給料が良くなっても支出も多くなるんだから、意味がないのではなかろうかと思う。
これは国に限らず個人の生活についてもそうで、収入が増えれば支出も増える。

ケビンはニヒリストといえばニヒリストなのかもしれない。
賢ければ賢いほど生きにくくなる人間というのが世の中にはいる。
ケビンの言うことには真理がある。
時間が無限の人間。
現実には全てのものが有限なのだが、無限だと思っている、あるいはそう思っていなくてもそういう行動をする人間が世の中にはいる。
ケビンの定義によれば馬鹿かどうかというのは有限性の問題なのだ。
何事も限られていると言うことを理解して行動している人間か、そうではないか。

サラリーマンが良いか悪いかは分からない。
ただ、そんな具合でオレは良いのだろうか、と思う。
そりゃ、一口に言えば歳食ってしまったんだよ、とも言えるのかもしれない。歳食って保身に走った。

昔いろいろなことを教えてもらったフリーペーパーの編集長さんがいるのだが、彼は人生は有限だということをよく理解していたのだろうなと思う。
今でこそフリーペーパーって普通になったけど、当時はすごかった。ウィンドウズじゃレイアウトを組むにもいまいちで、マックであれこれいじって校正して、自分が書くのもあるが、取材から連載執筆の依頼、配布まで一人でやっていた。
ブログでも金がもらえる今の時代では何ということはないが、当時、ゼロ円で雑誌を配布して広告収入で飯を食うってのを地でやるって相当なことだったと思う。
その人にはそれなりの尊敬が集まり、しかし人々は離れ、変人扱いされ、病気になって離婚して死にかけて、最近、死ぬ間際の最期の頑張りということなのか再びフリーペーパーに取り掛かっている。

成功者、失敗者という区別は変だと思うけれど、小説家の先生やフリーペーパーの編集長氏はちょうど僕の親と同じくらいの年齢で、うちの親は、まあ、平和に老後を迎えて、最近登山やロードバイクなどの趣味を始めたりしている一方で、彼らはまだ苦悩している、なにかと闘っている。
きっと、世界の大半は新しい小説もフリーペーパーの新刊も待ってはいない。
刊行されたからと言って誰か喜ぶだろうか。
何人かは喜ぶだろう。
残酷な話だけれど、その小説家の先生のファンと言えば僕を含めたごく少ない人しかいないのかもしれないし、フリーペーパーが再び復活する話を聞いて嬉しく思った人は本当に少ないのかもしれない。
そう考えると何とも悲しくなってくる。
別に僕には関係ないといえば関係ないのかもしれない。でも、あの人たちの書くものがそうやって世界の片隅で無意味なもののように埋もれて行くのを想像するとひどく悲しいような気持ちがするのだ。人生の大半を文に捧げた人の最後は悲しい。
ある意味では文を仕事にできず、文を書くのをいつしかやめるっていうのは幸せなことのようにも思う。
文を書くってのはシビアだ。簡単なことじゃないし、経済的にも困る。その上、評価はシビアだ。映画や写真のように気楽に何となく眺めてくれて、縁あってファンになってくれるっていうのはない。文を読むのは疲れる。

最近の僕は子どものようなことを考える。
つまり、かっこいい大人が現れて欲しいのだ。
子どもだった僕の前に現れて、ぷかぷかタバコを吸って、フリーペーパーの編集長をしている。
そのフリーペーパーの編集長と来たら、僕らにジョイフルをおごらせるのだ。
「すみません、財布持ってくるの忘れました!」
なんて言って。
これは相当に面白い。
本当にお金がなかったのかもしれない。それでも、普通に考えて大人が人と会う約束をしていて財布を忘れるわけがない。確信犯だろう。しかし、確信犯と言っても、本当に財布を持ってこないってのは相当に勇気がいる。自分の子どもと同じくらいの人間にジョイフル、ファミレスの中でも一番安い方の飯をおごってもらうのだから。実はカバンの中に入ってるのを嘘を付いているというわけもなかろう。いくらなんでも五百円の食事くらいその気になれば出せないことはなかろう。
多分、編集長氏はこれは面白いと思ったからこそやったのだろう。
実際、僕らは編集長氏と別れた後に、
「ごめん、財布忘れました!」
というフレーズを繰り返し真似して、笑った。
このギャグは本当にハイセンスだったと思う。本当にお金がなかったのかもしれないが、本当にお金がなかったら多分五百円の飯じゃなくてもう少し何かするんじゃないかなと思うし、あるいは本当にお金がなくなると人間ジョイフルで財布忘れたと言うのだろうか。
今になっても考えるほどに深みのあるユーモアだったと思うのだ。

子どものようなことを考える僕は、そんな素敵な大人が現れてくれないかなと思うのだ。
素直に将来について相談したくなるような。
そして、子どもの僕にかっこつけて振舞ってくれるような。

僕にとっての大人は次第にもう定年退職くらいの年齢になって、深みこそあれど、なかなかカッコも付けてくれないし、僕を子ども扱いして何かを教えるってのも難しくなってしまった。
僕も、大人たちも歳を取ってしまった。

大人も友人も去った僕は、僕一人で何かを考えて決めて生きねばならない。
歳をとってしまった。時間は有限なのだ。

そんなこんな。


iPhoneから送信
posted by ちょろり at 00:29| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする