2019年02月20日

残りの人生と飛べない鳥のこと。

あくまで単なる順序の問題だと考えていた。
二十代でふらふらと山にこもり、自転車で異国を旅した。
そのことを人に誉められたり、すごいと言ってもらえることもあったが、言うなればそれは前借りで、知人には定年してから異国を自転車で旅する人もいる。
私の両親も定年を迎え、登山や旅行など娯楽を始めた。
先に苦労したからこそ、老後の貯蓄もあり余裕もある。
だから、自分の経験とは単なる順番の問題なのだ、と。

最近、残りの人生を考える。
ーー次はいつ旅に行くんだい?
私を知る人は聞く。
次に行くとしたら今度こそペンギンを見たい。
南米もアフリカもずいぶん南に行ったのにペンギンを見ることがなかった。ペンギンの生息地の近くも通り過ぎたのだが、過ぎてからペンギンがいることを知った。
そんなにペンギンが好きなのかと問われると、まあ、それなりには好きだ。ペンギンの小説も書いたことがある。
すこぶる好きかと問われると、それほどのものでもないとは思うが、動物園でも水族館でも必ずペンギンは見る。そうは言っても大抵の人がペンギンは必ず見るだろう。ゾウ、ライオン、キリン、ペンギンだろう。
そう考えればペンギンは大したものだ。ゾウ、ライオン、キリンと体が大きい。飼育費も随分かかる。ペンギンは小さい。たくさん魚は食べるので飼育費はそれなりにかかるらしいが。

残りの人生を考える話からどんどん脱線するが。
飛べない鳥と言えば、ペンギンだけじゃない。
ニワトリもこれまた実に立派な鳥だ。とにかく食べられる。美味い。安い。なんと残酷な話だろうとも思う。
ニワトリの祖先は東南アジアなんかに住むセキショクヤケイという鳥だそうだ。元々そんなに飛ばない鳥だったようだが、猫と同様人間に飼われることで種の保存を選択したのが現在のニワトリだそうな。

余談ついでに最近知ったのが、私がパタゴニアで見た鳥、やたらと速く走る大きな鳥はダチョウではなくパタゴニアに住む絶滅危惧種のダーウィンレアという鳥だったようだ。
少し離れたところを並走するように走ってきたのだがとにかく速くて大きかった。

飛ばない鳥というのは非常に素敵だ。

ーーー

さて、動物の肉というとアフリカだ。
アフリカの牛肉は実にまずい。品種改良されていない野生種に近いし、育て方もしっかり歩かせる。それで筋肉質で美味くないのだ。
まずいなどと言うと命に対して不敬ではあるが。少なくとも我々人間が食して美味いのは、やはり品種改良を重ねて牛小屋で育てられた牛の肉だ。
しかし、面白いのはアルゼンチンの肉は美味いということだ。アルゼンチンの牛も基本的に放牧なので固い。僕ら日本人が初めて食うと安い肉のように感じる。
しかし、アルゼンチンの肉はステーキで食べると非常に美味しい。日本人は霜降りが好きなので最初好みに合わないが、慣れてくると肉を噛む美味さがある。塩コショウをすりこんでやって波の付いたフライパンで焼くと実に美味い。

食とは理解だ。
大抵のものが最初は不味いと感じる。
例えば魚だろう。私は今も魚が得意ではないが、以前と比べると美味いと感じることが増えた。どうにも魚臭さというのがダメなのだ。それでも、食べている内に美味さというのをいくらかは理解してくる。海に近い町に行って新鮮なものを食うと臭くない。生の魚とは美味いものなんだなと、日本人のくせに大人になってから理解してきた次第である。
アルゼンチンの肉もそうで、初めは歯が折れるかと思ったものだが、食っていると良さが分かってくるのだ。
山の食べられる草にしてもそうだ。アザミの天ぷらなど、最初はただの草を食っているような感じなのだが、次第に美味く感じてくる。

ただ、アフリカの牛肉は最後まで美味いと思えなかった。
アフリカ、特にマサイ族にとっては牛は非常に大事なものだ。今でこそお金の方が大事かもしれないが、牛こそ彼らにとって最も大事なものだったらしいし、今も牛を大事にしている。アフリカを走っていると、マサイの子供が牛を連れて歩いていたりする。棒切れを持って牛の群の後を歩く。マサイ族の牛の扱い方は何も知らない我々が見ても非常に上手く、牛たちは従順にマサイの子供の思うように歩く。少し進んでマサイじゃない土地に行くと牛はよくはぐれそうになり、牛追いの人はよく牛をたたく。マサイが牛を叩いている姿は私は目にしなかった。それでもマサイの牛はとても従順に動くのだ。
でも、肉は美味くない。
牛肉はスワヒリ語でニャマと言う。米はワリ。アンドはナ。だから、牛肉と米を食いたければ、ニャマ、ナ、ワリと言えば通じる。
それにしても、ニャマは実に美味くなかった。
とにかく固い。味もしない。彼らの料理の仕方、大抵のものは油で素揚げというスタイルのせいもあろうが、固いばかりで味がしない。

ニャマに対してクク、ニワトリはそこまで不味くなかった。
日本で食べるニワトリよりはいくらか固いし、旨味もどこか素っ気ないのだが、それでもニャマと牛肉ほどの違いはなかった。
ニャマは美味くない。少なくとも日本人の味覚からすると。

しかし、牛たちは非常に大事にされていた。

美味い不味いの話で、バックパッカーたちの間であるのが、文明が発展している国は飯が美味いというものがあった。ただし、イギリスを除くとのことだ。イギリスは美味しくないのに発展している珍しい国だそうな。
まあ、笑い話、冗談程度の話なのだが、たしかにいくらか的を射ている。

それでも、アフリカの肉っていうのは命なのだろうなと私は思うのだ。
命をつなぐために命を食う。
美味い不味いではなく、命を繋いでくれる牛たちへの感謝、尊敬。

倫理的に考えるとアフリカの牛への扱いは日本より遥かに正しい。
正か悪かで論理を展開するのは危険ではあるが。
それでも、食べるために小屋に閉じ込め、近隣住民も匂いがするからといって近くに住みたがらない。はっきり言って日本人は食への命への尊敬に欠けている。米一粒に感謝する人は今の日本にはかなり少なくなりつつある。
それに対して強く逞しい牛を育てるために、一緒に一日中人が歩いているアフリカっていうのは命に対して非常に倫理が高いと私は思うのだ。

ーーほかに仕事がないからだろう。
まあ、それも間違ってはいない。
しかし、我々の命をつないでくれる命への尊敬というのは、やはり大事だろう。
日本人は高齢者の問題に直面しているのもあるが、人に長く生きて欲しいと願わなくなりつつある。もちろん、元気に長生きして欲しいが、元気じゃない長生きも、若い人を邪魔するような長生きもどうかと思う。
命は生きるべきだけ生きて、死すべき時に死ぬべきだろう。
誰しも死にたくはないが、キリストもブッダも死んだのだ。
キリストとブッダが偉いのは、死すべき時に死んだということも大きいように思う。
二人とも生きている間でも、それなりに偉くはなったが、死後の現在尊敬されているほど偉くなる前に死んでいる。もちろん、偉かったのだが。
人間、偉くなって怖いのは傲慢になることだ。

あくまで私の考えだが。
人間、それぞれに偉くなれる範囲が決まっている。
それを越すと偉そうに振る舞うようになる。
だから、ある程度の歳になると偉そうになる。
それ以上偉くなれなくなっても、人間ってのは向上心がある。だから、実は伴わなくても、偉くなりたいもんだから、態度ばかり偉くなってしまう。
実際、上限まで偉くなっているのだから偉いのではあるが。
それでも、自分はもう偉くなれないと悟るのは大事なのだ。
ブッダは布教の旅の最後に沙羅双樹の間に最期の寝床を弟子に頼んでいる。
私の考えではあるが、ブッダほどの人となれば、80歳程度で死なずにもっと長生きする方法も知っていただろうと思う。
何せ科学が進んだと言えど、現代では普通の人でも100歳近くまで生きるようになっている。ブッダほどの超越した人であれば、ただ生きるだけならばいくらでも生きられたんじゃなかろうかと思うのだ。
しかし、ブッダは弟子に言って北枕で永眠する。

キリストは弟子の裏切りを知っていながら死ぬ。ブッダよりもキリストの方がその気になればまだまだ長生き出来た。裏切りを知っていたし、知っていてあえて死ぬわけだ。

キリストとブッダも生きるだけ生きて、死すべき時に死んだのだろうと私は思うのだ。
二人とも半分神様、空想上の人かもしれない。
神様として、永遠に生きることも出来ただろう存在だ。
しかし、死んでいる。

ーーー

はて、残りの人生に関してだ。

30歳では正直残りの人生も見えない。
体力についても、私の場合、トレーニングもしているからか、かげりも見えない。
いくらか二日酔いが残るのが増えたくらいか。

しかし、以前は無限だと感じた伸び代に有限を感じる。別段、まだ限界が見えはしない。まだまだいくらでもやれるようにも思うが、しかし、限度がいずれ来るのだろうという感覚はある。
単純に有限だと理解しただけのことだ。

有限を感じると誰かに引っ張ってもらって生きることに疑問を感じる。
自分で何事かを出来る自信はない。
しかし、自信はなくとも、人生の引き算を考えるとそろそろ何事かを自分でやり始めないといけないのではないかと感じるのだ。

ま、そんなこんな。


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2019年02月11日

貧すりゃ鈍。

お金について考えることがあった。
最近、安定した仕事に就けだの何だの言われることがあったからだ。
確かにもうじき31歳になるし、転職するとしたらラストチャンスではある。

これまでも僕は事ある毎にお金について考えてきた。
貧すりゃ鈍する。貧乏になると日々お金のことばかり考えなくちゃいけなくて思考まで鈍って来ますよ、なんて言葉だが、まあ、この言葉は的を射てはいる。

昨今の日本の悲しみとは、貧乏なことがイコール悲しいこと、悪いことなんて考えが当たり前になっていることだ。
成功者にはお金が手に入る。
社会で価値ある人にはお金が手に入る。
そういうのが当たり前になっている。

とにかく危険なのは即イコールでつなぐことだ。
確かに資本主義の理想としては、社会的に価値ある人にお金が入る、というのはある。
ただ、現実問題としてはそれは違う。
非常に危険なのが、価値のある人=成功者=価値ある人っていう即イコールだ。
現実にはそのイコールが成立することもあるけど、しないことも多いのが本来なのだ。
しかし、即イコールの世界ではお金がない人は成功者ではなく、社会的に価値があるわけではない、人類に貢献しているわけではないというヘンテコなことになる。

このイコール問題が顕著なのは芸術だとかそっちの方面で、例えば太宰治もチャーリーパーカーも少なくともお金持ちではなかった。
まあ、お酒や麻薬に溶かしてしまったからというのもあるだろうが。
ただ、彼らは価値がなかったかといえば、絶対にそういうことはありえない。

経済なんかでもユニクロは大成功を収めて巨大な企業でお金持ちだが、ユニクロがやったのは自分たちだけ儲かれば良いという価格破壊で、人々は服を大事に長く着なくなり、労働者は安い賃金でたくさんの服を作らなければいけなくなった。

今、流行りつつあるPayPayも便利なようだが、お金ってのは国が出来るだけ全員に公平になるよう管理しないといけないのに、営利企業がお金の代わりになるものを作って管理してしまうっていうのは非常に危険なことなのだ。
仮にPayPayがスマホ決済を独占したら、PayPayの都合の良いようにお金を自由に発行できるようになってしまうし、決済手数料という名目にはなっているが、その実、消費税と変わらず、それをPayPayが自由に吸い上げることが出来てしまう。
もっと平たく言ってしまえば、勝手に日本国内で日本円以外のお金を印刷して流通させたら犯罪だが、お金と同じ機能を持つものを紙じゃなくデジタルでやるのは犯罪にならないということだ。
後の利益を考えると100億円還元キャンペーンなど安いものなのだ。
セキュリティの危険とかではなく、営利企業が手を出してはいけない領域であり、ほとんどの人がそのことを気付いていない、はたまた気付いていてもどうにもお金に勝てなくて使ってしまう。
かくいう僕もPayPayを使う。やはり便利ではあるし、集客も出来る。
最近の僕の悩みの一つではある。モラルに反することに加担して日銭を稼いでいるってことはある。

ーーー

じゃあ、お金を稼ぐのは悪いことかと言えば、当然そういうわけでもない。

ただ、お金がないのは悪いこと、お金があるのは良いことってのはおかしいというだけのことだ。
だから、その逆、お金があるのは悪いことで、お金がないのは良いことってのもおかしい。

これも、イコール理論で考えるとマイナスの反対はプラスということになってしまう。

基本的に絶対的に良い悪いということはない。
お金を持っていても良い人はいるし、悪い人もいる。その逆も然り。
当然のことのようだが、イコール理論では良いの反対は悪い、だから良くないものは悪いになってしまう。

ーーー

先日、退職金のある仕事をした方が良いという話をされたのと対照的に、世界はおかしい、お金にばかり走っているという話を別のところでされた。
別にそちらは押し付けではなかったし、むしろ、僕の考えと近いものはあったのだが。

ただ、聞いていて、ぼんやりと違和感みたいなものを感じた。

ーーー

僕としては稼ぎたいだけ稼げば良いと思うのだ。
他人の生き方、働き方に文句を付けるな、と。

そう言いつつ、ぼくも文句を付けるのだが。

まあ、PayPayもユニクロもモラル違反だとは思うし、あまり良いことではないと僕は思うけれど、そういうのが良いって人々も世の中いる。

ただ、やはり楽して金を稼ごうとかってのは良くないと思うわけだ。
地面からお金ははえてこない。
せめて裏山に拾いに行くくらいの労力はないとおかしいわけだ。

昨今、ふるさと納税なんかもそうだが、平気で偉い人が楽して得しましょうみたいなことをする。

別に楽したって良いのだが、基本的にお金はにょきにょき生えてこない。
何せ、お金を払えば誰かを働かせることが出来るわけだ。
にょきにょき生えて来たら、今度は自分も地面から生えて来たタダのお金で働かされることになる。

何もしなくてもお金が手にはいるとかってのは変なことだし、それをおかしいと感じないのは危ないし、偉い人が率先してそういうことをするってのはヤバイってやつなのだ。

ーーー

そうは言うのだが、敬愛する小説家の先生はFXで稼いでいたりする。
モラル云々の話で言えば株だのFXだので金を稼ぐってのは一番よろしくない。しかし、僕はこの先生は非常に好きだ。
この先生くらいになると爽やかなもので、働かなくて良いなら働きたくないと断言する。何で飯を食っているのかは定かではない。先日は渋谷だかどこだかでUFOの講演会だかをしていたらしい。それは金のための活動ではないらしい。漫画の原作をやってるとかしてないとか。とりあえずは小説家の先生なのだが小説での収入で食っていないのだけは間違いない。
ちなみに小説は良い小説を書く。まあ、当たり前なのだが、だって小説家の先生だもの。
家は実に質素なアパートに住んでいる。
酒を飲んでギターを弾いて。
ちょっとした仙人、随分俗っぽい仙人だが、何というか超越して爽やかである。爽やかさのかけらもないのだが。

ーーー

お金の話って多数派、少数派というだけのことで、多数派が圧倒的に多くなると暴力的になってしまうだけのことなのだ。
今ならお金派が多いから、お金がないことは悪い、退職金をもらえて福利厚生の良い仕事をするのが良いことなのだ、なんてのが世界の常識になっている。

僕からすれば、安定した仕事、給料の良い仕事なんてのは危険な香りしかしない。
人間、時間ってのは平等だ。そりゃ、早く死ぬ人も長く生きる人もいる。それもまた平等にランダムだ。不公平ってのは公平なことでもある。作為が働かずランダムであるっていうのはある意味で平等なのだ。
たくさんお金を稼ぐ人はたくさん時間働いているか、何かのスキルを得るために時間をかけている。そのどちらでもなければ、モラルに反することをしていたり、リスクを背負ってきているかだ。
頭がなけりゃ体を使え、体も弱ければ時間を使え、ってやつだ。何かしら使っているのだ。
産まれながらに体が二つあったり、脳みそが四つあったり、超能力が使えるとかすれば話は別かもしれないが。
基本的には何かを差し出してお金ってのは入るのだ。

昔の友人に高収入な人が多いが、まあ、大変そうではある。
中にはそんなに大変そうでもなくて収入も良くて福利厚生も良い人もいるが、まあ、それはそれだ。
逆にえらく大変そうなのに収入も福利厚生もよろしくない人もいるが、まあ、それはそれだ。

一つ言えるのは、会った時に、
「あ、やっぱりこいつの方が稼ぎが多いから幸せそうだな」
なんてことは全く感じない。
当たり前だが、幸福さと収入、福利厚生ってのはそんなに関係ないのだ。

これがアフリカとかなら、いくらかは思うのかもしれない。何せ貧乏と言ったら実に貧乏、字の通り食うに困る。しかし、アフリカのすごいところは貧乏が悪いわけではない。
まあ、アフリカと一括りにして話すのも良くないが。イメージとしてはタンザニア、マラウィ辺りだ。ザンビア辺りからはお金持ちが発生しだして、貧乏は良くないことみたいな空気がどこかにある。
村丸ごと貧乏ってのは救いがないようでいて、しかし、貧乏というのも普通のことであって別に悪ではない。

一度村で頭のパーの人がいた。
道路脇の村で、僕は言葉が分からないので最初分からなかったのだが、次第に周りが笑っているのと、彼の仕草を見ていると、なるほど、彼はパーなのだと分かった。
憐みではなく、人々は笑っているのだ。
言うなれば、パーのおっさんが旅人に絡んでるぞ、みたいな具合で。
そういうのって、日本だと小学校の道徳の教科書では絶対にしてはいけません、ということになっている。
しかし、現実に体験すると明るいのだ。
みんなパーのおっさんを馬鹿にしてはいるのだが、憐みはない。むしろ親しみみたいなものがある。
臭いものにフタをするじゃないが、タブー、かわいそう、触れてはいけないみたいなことをする方がよほど人間として良くないことで、素直に「パーのおっさん、相変わらずアホだねー」なんて笑いながら、それでもおっさんも村の一員なのだろう。

人間、ある程度の数がいれば、生まれつき頭がパーの人もいるし、育っていく途中で頭を打ち付けてパーになる人もいる。
でも、そういうのって仕方ないのだ。
アフリカの場合、大人になるまでに死んでしまう子どもも多いし、大人もふとしたことで死ぬ。祝日が危険らしく、お祭り騒ぎになるとついついアッサリ人が死んだりしてしまうことが珍しくないと言っていた。酔っ払ってトラックの荷台から落っこちるとか。
今生きていることを謳歌しているようなところがある。
なので人々は非常に力強いし、生命力に溢れていて、明るい。土と太陽の間に生きている。

生きているだけで人間ハッピー。
まあ、アフリカだって実際にはそれが全てではないのだろうが。アフリカ人でもアディーチェの小説のような苦悩はある。当たり前だが同じ人間なので。
ただ、アディーチェみたいに国際的に活躍している人は欧米に住む経験があるのも事実だが。

ーーー

あれこれと話はブレるが。

何だかんだで強いのはお金が少なくても幸せを感じる方法を知っている人間だ。
お金がないと幸せになれないと思っている人は大変だ。たくそんお金を稼ぐには疲れる。ほどよく働いても疲れるは疲れるが、そりゃ適度な疲れだ。

服を一つ買うにしたって、今年の新作、トレンド、あのブランドが良いと振り回されて、毎年、毎月高い服を買わないと満足出来ない人は大変だ。

昔から着続けているボロボロの服を着ていたって、どこか風流でスタイルがあってかっこいい。
そういう方が素敵だし、生きていて楽だ。

貧すりゃ鈍するとは言うが、いくらか貧乏していても頭の中がお金のことばかり考えなくても幸福に満たされていれば鈍さない。

逆にお金があってもお金のことばかり考えていないといけない人は鈍する。
いくらお金があってもお腹が出てしまって、健康を害しているのでは、何の意味もないのに、その事に気付かずいつもお金のことばかり考えている。
生きる事に対して頭が鈍してしまっている。

まあ、そうは言うけれど僕もお金は欲しいのだ。
今のところ何も困ってはいないけれど。

何十年も先の老後のお金のことなんか考えて、今の頭が鈍していたら、そりゃ馬鹿ではある。
ただ、今だけじゃなくいくらか先まで鈍することがないよう、やはり先々のお金の工面もいくらかは必要ではある。

ま、そんなこんな。


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2019年02月09日

祖母に三年ぶりに会ったら涙が出てしまった。

祖母に三年ぶりに会ったら涙が出てしまった。
少しボケているとは聞いていた。
しかし、現実はどうにも悲しかった。

祖母の状態は悪くない。
90歳だが自分で歩ける。
ボケているとはいえど、数年ぶりに見る僕のことを僕と分かってくれていた。

ただ、老人ホームの中で見つけた祖母は迷子になってしまっていた。
広い老人ホームではない。
どこかに行こうとしていたらしいのだが、道に迷ってしまい分からなくて困っていたと言っていた。
ボケてしまっているのだ。

人間90にもなればボケる。
それは頭の中では分かる。
壁に向かってクソを投げる人もいる。ひどく敵対的になる人もいる。
そういうことは知っている。
しかし、祖母が小さな老人ホームの中で迷子になったと言っている現実っていうのはひどくショックだった。

仕方がないのだ。
むしろ、歳を考えれば軽い方なのだ。迷子になっていると思い込んでいたり、僕のことをだれの子どもたったかな、と言ったり。母は一人っ子なので母の子ども以外ないのだが。
それでも、名前と顔が分かってくれたのは嬉しかった。
そう考えると祖母のボケは軽度のものだろう。

しかし、祖母はひどく残酷な生き延び方をしてしまっているように思えた。
祖父が死んでから、早く迎えに来て欲しいと言っていた。馬鹿なことを言うもんじゃないよ、元気に長生きしてよ、なんて言っていた。
ただ、今日の祖母を見ると、おじいちゃん、早く迎えに来てあげて下さいと思ってしまった。
今のうちに。

その年齢で三年も会わなければそういうことになるってのは普通なのだろうとは分かる。

ただ、祖母には悲しみがなかった。
早くおじいさんに迎えに来て欲しいとも言わなかった。
ただ、生きるって難しいねと言っていた。

神よ、なぜ一生懸命生きてきた人の最後にこんなひどいことをするのだ、と。
なんと酷い仕打ちをするのだ、と。

ーーー

それからエルグレコの受胎告知を眺めに行った。
大原美術館は遠くない。千三百円で入れる。
大原美術館は実家から歩いて十分のところにあり、学生時代は全館ゼロ円で入れたのでよく行った。
この美術館、非常に美しいのだ。
日本で最も美しい美術館はどこなんだか知らないが、少なくとも上野の国立西洋美術館よりは美しいと思う。国立西洋美術館も素敵な建物だし、世界遺産にも登録されているが、大原美術館の方が美しいと感じる人の方が多いと思う。
中庭の日本庭園には誰でも無料で入れて、そこで煙草を吸うと非常に美味いのだ。
収蔵作品も素晴らしい。ピカソも何枚かある。モネの睡蓮もある。あとは忘れた。でも、有名な画家の絵が何枚もある。収蔵点数自体は国立西洋美術館ほどではないが、どの絵もかなり知名度があり見応えがある。
美術館に詳しいわけじゃないが、いくつか美術館には行ったが、大原美術館みたいな絵のチョイス、有名作品がこんなに多い地方美術館ってほとんどないと思う。

受胎告知は大原美術館に何度か行っている人なら知っている。
何せ大原美術館の中で最も高額な絵だからだ。最も大切に展示されている。
大原美術館とは大原さんが自腹で作った美術館なので、基本的には全て同時ヨーロッパに直接買い付けに行っている。児島虎次郎さんという画家さんに買いに行かせたらしいのだが。
多分、普通の美術館では絵の値段って言わないし、国の所蔵のものが多いので買う買わないではなかろう。その辺は大原美術館っていうのは少し変わっている。

日本国内にエルグレコの絵があるのは、国立西洋美術館と大原美術館の二枚だけだそうだ。日本国内にエルグレコの受胎告知が存在しているのは奇跡だとも言われているそうな。

まあ、そんなわけで、倉敷の人でちょっと美術館に行く人と言えばエルグレコの受胎告知は有名なのだ。

受胎告知は聖母マリアの元に天使が降りてきて、キリストが産まれるよ、ってことを伝えに来ているワンシーンだ。

ーーー

実際には行っている時にはエルグレコを目当てに行ったわけではないのだ。
単純に大原美術館を散歩したかったのだ。

まあ、建物が良い。
祖母のことで混乱した心を落ち着けたかった。
だが、そういう心境で絵など見ると心がささくれて大変だろうとは分かってはいたのだが。

ーーー

一時間ばかりエルグレコを眺めていた。

どうして神は祖母にあんな酷い仕打ちをするのだろう。
人間はなぜ生まれてくるのだろう。
生きるってこと自体は残酷ではないが、人間生きている限りは生きねばならぬ。
生きねばならないから生きているとなるのは、ひどく残酷だと思うのだ。

それから裏の神社に登ると藤の木が枯れかけていた。
延々と高校をサボり続けて通い詰めた神社だ。境内の裏にある藤はとても立派だった。しかし、裏なので人はほとんど来ない。
たった10年ほどで随分と元気をなくし、枯れかけていた。
祖母の三年はどこか納得もある。
しかし、藤がたったの10年ほどでこんなに元気がなくなるとは思いもよらなかった。


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posted by ちょろり at 20:01| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月07日

アフリカ2

ユーフォーの話から始めるとしよう。

僕がアフリカに着くときに考えたのは、やべーな、今度ばかりは死ぬかもなー、ってことだった。
窓の下に広がるのは冗談抜きで動物奇想天外って番組でやってたサバンナだもの。
すごいよ。
テレビって本当に。
そのまま動物奇想天外。
所ジョージとか黒柳徹子とか出てた。
この木何の木木になる木って。
そりゃ、上からじゃライオンなんか見えない。
でも、まあ、こりゃ人間の住むところじゃないってね。
集落を探すけど分からない。
ぽつぽつと生えた草原と木。
へー、世界にもまだこんなところってあるんだなって。
自転車で走るつもりがない人なら、呑気に眺めるんだろう。
でも、僕はそこを自転車で走るんだ。
ちょっとじゃなくて全部ね。

ちょっと骨が折れるなじゃなくて。
今回ばかりは死んでしまうかもなって。

いろんな冒険家が世界にはいるけど。
誰しも今回はやばいなって思うんじゃないかな。
絶対安全なところなんて言ったって冒険家にとっては退屈しのぎか、スポンサー集めだ。

僕の眺めたアフリカって、本当に動物奇想天外だった。
冗談みたいなアフリカ。
本物のアフリカ。

いや、アフリカって本当はもう少し都市なんだろ。バックパッカーなんかでも歩いてるんだし。

少なくとも、きっとそのサバンナを歩くバックパッカーなんていないだろう。

ああ、冗談みたいな本物のアフリカ。
絶望。

それが僕のファーストアフリカだった。


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posted by ちょろり at 02:30| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

アフリカ1

その頃の僕にとって世界はどうだったのか。

それってずっと続く疑問だ。
NATOのユーゴスラビア爆撃。
それはきつと小学生の頃で、悪い国にアメリカが爆弾を落としている、そんな感じだった。

結果としては爆弾を落とされる国ってのは悪い国なのかな。
そんな風に考えたけど。

本当の良し悪しなんて僕に分かるわけもなく。

また、僕は出かけることにした。
アフリカ。


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posted by ちょろり at 02:19| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする