それで、帰宅後執筆に励んだ。下書きがやっと半分くらいまで進んだ。今回のは、これまでの中で一番長くて、一番良い作品になると思う。これを書くために二十一年間生きて来たんじゃないかとさえ思う。まあ、ここから先を上手く書ければの話だが、良い。
しかし、先日、鍛錬上に投稿した作品は相変わらず「日本語レベル」での駄目出しを頂いた。
日本語レベルでの駄目出しってのは、文体云々のことだ。
ストーリーは簡潔で面白い、世界観は良い、との感想は時々もらえる。しかし、文体については一度も褒められたことが無い。
小説家ってのは思想家じゃない。文体が良くなければ駄目だ。良い文体ってのは自分のスタイルを持っているってことだ。同じ内容の話を欠かせてもプロの文ってのは全く違う。
文体ってのは、割ってみるとシンプルなものだ。文章の順番。単語の順番。名詞の選択、組み合わせ。動詞の選択とそれに付く助詞の選択。比喩の傾向。景色描写と心情描写の比率。そういうシンプルなものに割れる。ただ、これらが実に何通りもある。
英語と違い、日本語の文は一つの文の単語の順序が何通りにも組め、ほぼ同じ意味の助詞も多い。「Nancy likes apples.」でさえ前後の文脈によっては「ナンシーはリンゴを愛していた」「彼女はりんごが好きだった」「リンゴを好いていた」「ナンシーが一等好きだったのはリンゴである」ともなりうる。英語で小説を読んではいないし、英語はそこまで詳しくはないが、日本語の方が一つの文のバリエーションは多いだろう。
難しい。
でも、僕はいろいろと試行錯誤をしてみて思ったんだが、小説を書くってのは、下書きの時点では難しいことを考えていてはいけない。だいたいの流れが頭の中に浮かんできたら「そら、ここはこれだ」「ほい、こうだ」「あ、駄目だ、消そう」そんな具合で、反射で書かないといけない。
当然の話で、考えてなんとかなるなら、もっと小さな頃から「正しき良い文章の書き方」というものを義務教育で習うはずだ。もしくは、美文を構成するためのコンピューターの研究があっても良いはずだ。
勿論、単に考えるのが面倒というわけじゃない。
そう、これは、一つの諦めだ。
才能の無いやつには一生良い文章は書けない。それを全面的に認めることになる。
ただし、才能があっても書けない人間もたくさんいる。とにかく、真摯に小説を書くということに向き合わねば「完成された独自の文体」ってのは掴めない。
そこをクリアできるかどうかってのが問題だ。
とにかく、下書きの段階では考えないで、ガシガシ書く。推敲の段階できりきり頭をねじって納得するまでいじる。
そろそろ、何か舞い降りて来るに違いない。
人間の美意識なんて実に適当だし、人間の能力で最も強いものは慣れなのだ。難しくても十年かけてできないことなんて有り得ない。
歴史的な発見をする学者になれる人間は少ないけど、学者を職業として一生研究するのは、本人に強い希望さえあればできる。
この執筆が終わったら、長い新作は書かずに、これまでの作品の推敲をじっくりするのと、短編だけを延々と書き続けるというのをしばらくしようと思う。文学賞に百本出しても駄目なもんは駄目だ。受かるものを一本だけ書けば良い。
試行錯誤。
そんなこんな。
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