2017年03月14日

感覚とは曖昧か。

最終目的地、ナミビアウィントフックに到着して、自転車ブログはしばらくやめにすることにした。帰国まで書かない方が良いかな、と。
やはり自転車ブログに自転車以外のことは蛇足だし、いらないことを書けば文が濁る。
やはりちょろり草とは純然で良いと感じる。蛇足ってのがない。ちょろり草は僕が書いている限りはすべての文が蛇足にならない。

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そう、文が濁るっていうのを最近よく感じる。
書けないものは書かないのが良いんだな、と。
だから、じてぼん、自転車の方はしばらくは書かない、多分。
異国にいるのに走ってない日々には自転車のことは書けない。テーマがズレる。
日本なら良い気もする。
変な話だけれど。
一口に言えば、僕は不器用なんだろう。

何となく、アフリカの話も数年は小説にしない気がする。
いや、書き始めてはいるけれど、何回もボツになり、完成はずっと先なんだろうと思う。

何も得られなかったのではなく、得られたと確信しているからなんだろう。
このネタは熟成させたい。
間違いない引き出しだ。

なんとも変な感覚。
ちょろり草的な感覚。

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今日はへんてこな日本人の旅人に会った。
旅人とは総じてへんてこな人間だけれど、旅人としてはへんてこ、へんてこな人間が旅人でそれのへんてこだから普通人間の気もするけれど、へんてこな人だった。

仲良くしてる人とへんてこな人だねぇと話した。
アメリカ人も顔をしかめて、へんてこで苦手だと言った。アメリカ人が目の前でそういうことを言わず、裏で言うのは珍しいように思ったが、グローバルで通じるへんてこさがその旅人にはあるんだろう。

その旅人のへんてこさというのは、一口に言ってしまえば、自己顕示が強いのだ。自分はこれこれをして、すごいんだということを偉く押してくる。
「彼は陣取りゲームのように人と話す、相手を服従させるかのように」
アメリカ人はそう表現していた。

まあ、それでも、バックパッカーにせよ、僕にせよ、旅の武勇伝などは多かれ少なかれ誰かに語る。
その度合いが少し変わっているというだけなのだが、やはりへんてこな感じがする。

そうは言えど、広く知られていない事実を語るとき、人はへんてこというレッテルを貼られることが多い。
僕の小説の先生も、近年、UFOに関して話し過ぎて、元々変人、小説書きだの絵かきだの音楽家だのはやはり変人、普通の人が普通にできることをしていたって芸術家とは呼ばれないから当然なのだが、それが輪にかけて変人扱いされた。
ただ、一足踏み込んで勉強してみると、先生の語るUFOの話というのは、たしかに広くは知られていないし、事実かは分からないにせよ、ある程度の数の人々が信じている、認めている事象であり、そういうことを知るとそんなにへんてこな話でもなかったりする。

だから、一見、へんてこな人と思っても、案外、僕らが知らないだけで、きちんと確立している考え方、理屈を持っているかもしれない。
少なくとも一人の人間が信じるに値する程度の何かというのは存在するのだ。

だからって、ほいほい何でもついて行ったり関わったりすると危ない。

やはりラインってのは重要だ。
へんてこな人だと感じれば、やはりへんてこな人、自分のフィーリング、勘ってのは曖昧なようで案外アテになる。

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別の宿に泊まっている友人が遊びに来ていて、夜タクシーで戻るからとタクシーを拾いに道に出かけた。
歩いても十分そこらの宿なのだが、やはり海外の都市は日没後は基本的には出歩けない。歩ける街もあるそうだが、やはり基本は歩けない。背負う必要のないリスクであり、犯してしまったときの代償が大きすぎる。
特にウィントフックはリスクのある街だ。ヨーロッパのツーリストもいくらかは夜に飲み歩いているので、すこぶる危ないとまではいかないにせよ、貧富の格差の大きい国はリスクがある。
特にその宿までには鉄道をまたぐ橋がある。
橋というのは危ない。
貧しい路上生活者にとって、雨を防げる橋というものはありがたいものなのだ。

ちなみにすべての路上生活者が危険なわけではない。
屋根や塀の中で眠る我々が路上生活者を怖がる以上に、屋根も塀も持っていない彼らははるかに日々にリスクを背負っている。
我々以上に夜を恐れているのは彼らなのだ。

ただ、夜と親しいのも彼らの方だ。僕も野宿をいくらかはしているから分かるが、夜の恐怖に近いほどに夜に親しくなる。
夜に誰かと会えば、夜に親しい人間のほうが有利なのだ。

話はそれたが、タクシーを拾いに三人で出たところ、長い棒を持った黒人が歩いていた。
それがどうもおかしい気がした。
別段、こちらに向かって来ているわけでもなく、棒を振り回しているわけでもないのだが、杖をついているわけでもなく、しかし、棒をゆらゆらと揺らしている。
理由は分からないが、強烈に違和感があった。
「あれ、変じゃないですか?」
おーちゃんが言ったので、
「僕もそう思います、変ですよね、逃げましょう」
三人とも走って宿まで逃げた。

何事もなく宿まで戻り、宿の人の知人が車で僕らの友人を送ってくれた。

何事もなかったので、実際は変な人間だったのかは分からない。
逃げながら振り返ってもこちらを追いかけて来てもいなかったので、危ない人間でもなかったのかもしれない。

ただ、事実は、あんな棒をあんな風に揺らしながら持って夜歩く人間というのを僕もおーちゃんもアフリカで見たことがなかったし、変な感じがした。
「日本なら気にしないと思うんですけどね、改めて考えてもやっばり変だったと思いますよ」
と二人で話した。

ーーー

旅をするときのリスク管理っていうのは難しい。
日本の外務省なんかのハザードマップなんかは割とあてにならなかったりすることもあるそうだ。日本の体質として、安全重視すぎる面もあるし、それよりも他国の判断が揃うのを待つということもあるらしく、危ない地域に日本人だけ知らずに観光でいるということが過去に数回起きたこともある。
旅人の話もアテになるのは半分ほどだ。
危ないにも質があるから、危ないかどうかは人によったりすることもある。
ボツワナの自然保護区は通常の観光客には特に危険ではなくとも、自転車乗りには相当なリスクのある道だし、タンザニアの大都市ダルエスサラームは危険都市とは呼ばれるが、被害は主にタクシー強盗なのでタクシーを使わない自転車乗りにはさほど危ない街でもない。ただ、交通戦争と呼ぶにふさわしいほどに車が多く、信号がなく、交通ルールみたいなものが存在しないので交通事故のリスクは高いので、やはり危ないが。

とにかく生で見て感じないと危険の度合いは分からないのだ。
事前情報は重要だし、最低限知らねばならないことも多いが、あくまで予備知識であり、必要があれば通過しないといけないこともあるし、中止する判断が必要な場合もある。
スリルを楽しんではいけないが、いくらかのリスクを取らねば自分の行きたい場所、見たいものには辿り着けない。

だから、リスク管理、生で見たときのフィーリングは大事なのだ。
奇妙に感じれば、理由はなくとも何かがおかしいのだ。

リスクの存在とは忘れてはいけない。

ーーー

ただ、アフリカというのはよく人が死ぬようだ。
病気だけじゃなく、お祭りみたいなのがあるとはしゃぎ過ぎて死んでしまう人なんかは珍しくない、祝日明けに誰かが死んでしまっていて出社して来ないなんていうことが時々起きるのだ、それも自分の職場だけじゃなく知人の職場でも時々起きるらしいのだ、と現地で働く日本人が言っていた。
実際、棺桶屋さんというのをタンザニア、マラウィではよく見掛けた。
通りの家具屋さんに家具と同列で何種類かの棺桶、きれいな装飾のものや地味なものやらが並んでいたりする。

日本なんかでも葬儀屋なんかはよく見掛けるが、どちらかといえば大多数は老人向けで、変死や事故死というのはやはり数は少ないと思う。
実際、会社の同僚が祝日明けに不意に死んでしまったなど滅多にない。
何でもかしこでも発展しすぎてて、人が死ぬということから距離が遠くなってしまったからなのかもしれない。
何にせよ、我々には身近な人の死っていうのはあまり多くない。

もちろん、アフリカで人の命が軽いなどということはないのだろう。
ただ、彼らには死というのはさほど遠いものではないものなのかもしれない。

生きていれば、人間いつかは死ぬ。人間が死ぬということは決して不自然なことではない。
そりゃ、日本人にだって分かることだが、彼らはもしかするとそういうことをより身近に感じて生きているのかもしれない。

夜の近さだの、死の近さだの、リスクの勘だの、えらく曖昧な話になったが。

ま、そんなこんな。
posted by ちょろり at 06:58| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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