2018年07月22日

ワンミスで死ぬこと。

ワンミスで死ぬ。そういうことって普通の人生じゃ起こらない。そういう風に我々は信じている。だけど、現実には生き物はワンミスで死ぬ。
ちょうど最近の僕は、取り返しの付かないワンミスをやってしまったことに今さら気付いて、こりゃ、もう死ぬしかないかなと思っている。

逆を言うと、大抵のヤバイ状況ってのは、過ぎ去って仕舞えば、まあ、そんな頃もあったなというものだ。
何だかんだで時間は過ぎるし、物事進んで行く。
そうしていると、何だかんだヤバイ状況ってのも過ぎて行く。

人生、良い時もあれば、悪い時もある。

ただ、死んでしまうと良い時も悪い時もやってこない。

ーーー

人間、幸せな時に死ぬべきか、不幸な時に死ぬべきか。

幸せな時に死ぬと悲しい。
不幸な時に死ぬと苦しみからの解放がある。

ーーー

生きる権利は死ぬまである。
死ぬ権利は死ぬ時にしかない。

死ぬ時をどう決めるか。

生きていたって仕方がない。
そうなったら死んでも構わない気もする。
しかし、逆を言えば生きていてどうだと言うのだろう。
生きているうちにこれをしたい。あれをしたい。
例えば芥川賞を取りたいとか、か。

じゃあ、芥川賞は取れないとなったらどうするべきだろうか。
取れないじゃなく、取りたいと思えなくなった時には。
何かしたいことを見付けた方が良いだろう。

したいことが見付からない。
こういうのが鬱病の本質かもしれない。

もちろん、芥川賞が欲しいなどというのは、欲しいは欲しいのだ。
ただ、取れないと感じる、絶望してしまう。
実際には芥川賞なんかは小説さえ書いて投稿していれば、確率はあるのだ。ゼロではない。

いや、実際にはゼロの人が大半だ。
芥川賞が何なのか。
芥川賞ってのは文学だ。
文学作品を書かねばならない。
文学作品とは何たるや。
最後まで誰かが読みたいと感じることが出来る文章であり、読み終わって何かしらの満足があるもののことだ。
何を読めば人は満足するか。
それは分からない。
それを探求、発明するのが文学をするってことだ。
これから外れている限りは可能性はゼロなのだ。誰かが時間と労力を使って読み、満足を感じるもの。それは狙って書く方がいいのかもしれないし、狙わずにただ書く方が良いのかもしれない。
どちらにせよ、人が最後まで読み、誰か一人でも満足を感じない文章。これは可能性がない。

何にせよ労力がいる。
眠って起きたら欲しいものが手に入っている。
そういうことってありえない。

労力を惜しまず継続すること。
それが生きるということだ。

ーーー

しかし、もう労力を使いたくない。
こうなると終わりなのだ。

したいことがなくても、しなくちゃいけないことがあれば人間は生きていける。

したいことを失って、しなくちゃいけないことを廃棄すれば、人間は生きていかなくて良くなる。

そういうののトリガーって意外と一つだ。
ワンミス。
そこからいろんなことがほつれて破綻していく。

ーーー

大人になれば自分の死ぬ時を決めるくらいしたって良いだろう。
誰だって苦労して大人になったのだ。
自分の生き死にくらい自分で決めたって、誰かに非難されたり、馬鹿にされたりすべきものではない。


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posted by ちょろり at 22:14| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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