2018年10月31日

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鬱病の女の人と仲が良くて二十代は大学を辞めた。
三十代は一緒に暮らす女の人が鬱になって人生辞めることになるんだろうか。

ただ、そもそも二十代に大学を辞めたのは本当に鬱病の女の人のせいだったのだろうか。単に大学を辞めたことを鬱病の女の人のせいにしてるんじゃなかろうか。
数年ばかり一ヶ月おきに死にたいという話をされるなど、案外、世界では普通のことだったのかもしれないし、普通じゃないとしても、問題なく大学を卒業する人もいるだろう。
単に自分が怠惰だっただけ、あるいは自分にも精神疾患があったのかもしれないし、そのことに答えを求めても仕方がない。過ぎてしまったことだ。
しかし、考えると大学を辞めて南米に行き、自転車旅をしてその問題にフタをしたようなところがある。過ぎたことは仕方がないのだと言って。

人生、各自で自分のことは世話を見ないといけない。
それでも、目の前を通り過ぎて精神を崩壊させる人間を見送る、当人で何とかするより他ないとは言えど、濁流の中で本気かどうかは分からないにせよ助けてくれと手を差し出した人間が渦に飲まれて行く、その手を握れば助かったのかもしれないし、やはり助けられなかったのかもしれない、自分は手を握ってダメだったのだろうか、あるいは握ろうとして握らなかったのか、それともそもそもにその人は手など差し出しもしなかったか、濁流になど流されてもいなかったのだろうか。
その後にその人が死んだという噂も聞かなかったが、目付きがおかしくなるほど薬を飲まされて人間は回復するものだろうか。
最後に聞いた話だと、スポーツカーで男の助手席に乗っていたということだが、女の人は濁流の真っ只中にいた頃も一ヶ月死にたいと言って、一ヶ月ばかり連絡がなくなり、そして知らない男に抱かれていた話をして死にたいと言っていた。僕も知っている男もいたし、出会い系サイトで知り合ったという男もいた。女の人は寂しかったのだ。だれかに抱かれている時だけは寂しくないと感じるのだと言った。だが、肌を重ねた男たちは通り過ぎていった。だれも女の人を助けなかった。
そして、僕も通り過ぎていった。良いことだったのか、悪いことだったのか、肌を重ねることはないまま。

肌を重ねることに関して、セックスに狂った女、いや、狂ってはいないのか、一般的には不特定多数の人間とするのは普通なのかもしれない。彼女は医者をしていた。
この女の人は病んでいたんだかどうだかと言えば分からないにせよ、仕事をバリバリしていた。小学校の頃の同級生で、当時は絵に描いたような優等生、机の中のお道具箱の中は見たことはないが、少なくとも我々男子のお道具箱とは真逆の整然としたものだっだに違いないと断言出来るような、まさに学級委員、実際に学級委員だったか記憶に定かでないが、そういう女の子だった。
それが、まあ、やりまくっていると言うのだ。そういうのをオープンにする。
それが言ってるだけで本当かどうか分からなかったが、確かに容姿に関しては大人になって美しくなっていた。色気があった。やりまくろうと思えばいくらでも相手には困らないような綺麗な女になっていた。
大人になって東京で暮らしている時、ふとした事からその女の家の引越しを手伝うことになった。帰る頃には雪が積もって帰れなくなり泊まらせてもらうことになった。
「いや、君とは友達でいたいから」
「うん、やった相手はもうただのヤリ友としか見えない。クズにしか見えない。別にクズが悪いわけじゃないけど。それで良かったら」
結局しなかった。
その後、多少のやり取りはあったものの、引っ越して遠くなり、それきりになった。

肌を重ねないのが良かったのか悪かったのかは分からない。
僕の勝手な都合の良い思い込みとしては、鬱病だった女の人は僕に対していくらか思うところあったのだろう。
女医の言葉の真偽は分からないが、友達でいたい異性、友人として価値ある人間とはセックスはしないものなのかもしれない。
都合の悪い事実は、単に僕に抱かれるだけの男としての魅力がなかったのかもしれない。

アフリカに行ったことの意味を考えることがある。いや、何度も考えた。意味がなかったとは思わない。アフリカは明確に僕の何かを変えたと思う。根本的に僕の中での世界の存在というのを変えてしまった。貧しさとは栄養失調でお腹のふくらんだ子どもたちや、病気というわけじゃないことを知った。よく写真に出てくるそういった貧困もまた貧困の一つだろう。しかし、明確に貧乏なのだが飢餓に苦しんでいるわけじゃない人がいた。彼らは貧乏で大変そうだったが、明るかった。病気もいっぱいある。安全な水もない。仕事もない。それでも、彼らはみんな明るかった。少なくとも未来に絶望しているようには見えなかった。彼ら自身分かっているだろうが、彼らが裕福になって、お金持ちとは言わずとも安全な水、電気、ガスなどのインフラが手に入る未来は遥かに遠い。子供のうちにかなりの確率で病気にかかって死んでしまうリスクのない暮らし。遥かに遠い。子どもはまだしも、大人にとっては残りの自分の人生と、そういった暮らし、貧しさのなくなる日々までの遠さ、どちらが長いかなど明確に分かってしまう。
それでも、未来に絶望しない。あるいは絶望していながら明るいのか。
確かに貧しさのなくなる未来は来ないかもしれない。ただ、そういうのとは関係なく生きる喜びがある。マンゴーの木を揺らせばマンゴーの実が降ってくる、それを食べれば生きていける、それが美味しい、それは幸福なこと。そういうことなのだろうか。好きな女と結婚し、子どもを産むことが幸福で、その子どもが病気で死んでしまえば悲しいことで、かと言って、その前の幸福は消えるわけではない。そういうことなのだろうか。

何にせよ、アフリカは僕には最初は未知のもので、終わった後も理解は出来ないものだった。
知らない世界が存在していたということだけ分かった。

日本に帰ってくると実に様々なことが馬鹿馬鹿しく見えた。
いろんなことがお利口で、みんなお金をたくさん持っていて、何かにくたびれていて、何かに悩んでいた。少なくとも明るくなかった。
とても奇妙なことのように感じた。
しかし、その違和感も時間が経つと薄れていき、気付けば自分もお利口にお金を持って、くたびれて、暗くなっていた。

一緒に暮らしている女の人は暮らし始めは良かったが、仕事の夜勤で体を壊して仕事をやめ、土地に馴染めず、知り合いも出来ず、一人で家で留守番する日々が続き、また働こうとしたがやはりまた倒れ、一人で家で留守番することでまた心をいためた。そうやって体も心もいためていった。一人で外出するのが恐ろしいと言うようになった。
僕もまたいためていた。
仕事は上手くいかなかった。将来に見通しは立たない。それでも、食うには特には困らない。一緒に暮らす女の人と仲良く、元気に生きていられれば幸せだと思ったが、女の人はどんどんと精神を悪化させていた。

女の人はじきに出て行くだろう。
僕にはもう支えられないだろう。虚しいだけだ。僕が何をしても良くならない。
それでも、出ていけば、多分、女の人は元気になるだろう。きっと土地やタイミングが合わなかったのだ。一人で生きて行くとなれば自由にまた元気で素敵な女の人に戻るだろう。
病気で元気のない姿は悲しい。元気になるなら出掛けるべきだろう。

かつての鬱病の女の人と違うのはそこだろう。昔の人は濁流に飲まれていった。今の人はきっと濁流から解き放たれる。
無責任かもしれないが、そういうのってあると思う。無責任男とでも世間では言うのかもしれない。
だけど、一人で生きている方が向いている人だっている。少なくとも昔と違って今回はきっと僕がいなくなれば上手く行く。女の人は今回も通り過ぎていくけど、濁流からはちゃんと出られる。
女の人にはいろいろ良くしてもらった。楽しかった。素敵な日々だった。でも、自分は何もしてあげられなかった。自分は女の人の人生の時間を無駄に使わせてしまったのかもしれない。申し訳ないと思う。

さて、僕はどうしようか。
何だか僕はとてつもなく疲れてしまった。
女の人を支えるというやるべき事もなくなる。
何かやりたいことがあるわけでもない。
昔、南米に行った時とは違う。あの頃も絶望してはいたが、何かすれば何か素晴らしいところに辿り着けるかもしれないという期待があった。
今は違う。
何かをしたところで、何かにたどり着いたところで、別に僕はもうそこまでたどり着きたいと感じない。期待がない。
今でも自転車に乗ることはある。ただ、それはどこかにたどり着きたいというより、生きていくための心の支えとして乗っているだけだ。自転車に乗っていれば楽しい。世界が美しい。それに励まされる。それで何とか生きてきた。でも、どこか素晴らしい場所にたどり着ける予感はない。

大学を辞めて南米に出発して、今やっと戻ってきたのかもしれない。
世界にはとっても素晴らしいものがたくさんあったよ、美しかった。でも、やっぱり君の生きる居場所はなかったよ。ちゃんと世界のいたるところ、本当に全力で探してきたんだけどね。未来の僕が言ってるんだから間違いない。でも、せっかくだから一度は君も見てきてから死んだ方が良い。別に大学を辞めたって世界の美しさはいくらでも見られる感じられる。一度は経験しといた方が良いさ。

さて、今の僕の方はどうするのか。
もう頑張りたくない。疲れた。
死ぬってのもすごく痛いらしいから嫌だ。痛いのは嫌だ。痛くないなら良いのかって言うと、やはり寂しい気もする。
だれか助けてくれと手を差し出すか。
でも、僕は昔も今も手を差し出す人の手を取らなかった。取れなかったのか取ったけど上手くいかなかったかは分からないにせよ、結果としては目の前を通り過ぎて行くのを見過ごした。最終的に自分のことは自分でするしかないと言った。
寂しい気はするけれど、やはり去るべきだろう。僕は僕を去るべきだろう。痛いのも悲しいのも嫌だけど。

そうは言っても痛いのは嫌だから虫歯の治療をしに行く。
ふと、明日の朝に女の人が元気になって、病気も治っているかもしれない。そうなれば、万事解決する。
そのことを願って虫歯を治す。
生きるか死ぬかどうするか考えてる人間が虫歯を治すなんてヘンテコな気もするけれど。
やっぱり生きていたいのだ。
別にお金がなくても元気で明るければ人間生きていけるけど、元気もなくなり暗くなれば人間生きていけない。
虫歯が治った頃に女の人が出て行くことになれば、何だか勿体無い気もするが。
まあ、その時は自分も世界の虫歯みたいなものだったんだろう、なんて納得するのかもしれない。抜いて捨てるか、削って金ピカの被せ物付けるか。何か僕にも良い金ピカの被せ物はないんだろうか。そんなもの被ってまで生きてどうするんだという気もするが。
生きてさえいれば何とかなるかもしれない。もちろん何ともならないかもしれないが。
生きてさえいれば、ふと次の生きる目標が浮かんでくるかもしれない。それはとても下らないものかもしれない。自転車で旅するなんてのも別に意味があるかどうかと言えば微妙だが、少なくとも僕はその目標でここまで生きてきた。どんなに下らないことだろうが、生きていける。生きてさえいれば何とかなる。先延ばしかもしれないが、それでも何とかなるかもしれない。何ともならないかもしれない。

問題は疲れ果ててしまっていることだろう。
もしかすると、すぐに何かが現れるかもしれないけれど、そのすぐさえ渡りきれるだけの力が残っているんだろうか。
疲れたらごはんを食べて、眠れば良いはずなのだが、どうにも疲れ果ててしまっている。ゆっくりで良いからペダルを踏めば少しずつでもどこかに向かって前に進めるはずなのに、疲れ果てているのだ。
どうしてこんなに疲れてしまっているのだろう。

でも、多分、今回もきっと何とかなるんじゃないだろうか。これまでもそうだったから。死ぬなんて大変だし、何とか生きていくんだろう。


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posted by ちょろり at 22:16| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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