2019年02月20日

残りの人生と飛べない鳥のこと。

あくまで単なる順序の問題だと考えていた。
二十代でふらふらと山にこもり、自転車で異国を旅した。
そのことを人に誉められたり、すごいと言ってもらえることもあったが、言うなればそれは前借りで、知人には定年してから異国を自転車で旅する人もいる。
私の両親も定年を迎え、登山や旅行など娯楽を始めた。
先に苦労したからこそ、老後の貯蓄もあり余裕もある。
だから、自分の経験とは単なる順番の問題なのだ、と。

最近、残りの人生を考える。
ーー次はいつ旅に行くんだい?
私を知る人は聞く。
次に行くとしたら今度こそペンギンを見たい。
南米もアフリカもずいぶん南に行ったのにペンギンを見ることがなかった。ペンギンの生息地の近くも通り過ぎたのだが、過ぎてからペンギンがいることを知った。
そんなにペンギンが好きなのかと問われると、まあ、それなりには好きだ。ペンギンの小説も書いたことがある。
すこぶる好きかと問われると、それほどのものでもないとは思うが、動物園でも水族館でも必ずペンギンは見る。そうは言っても大抵の人がペンギンは必ず見るだろう。ゾウ、ライオン、キリン、ペンギンだろう。
そう考えればペンギンは大したものだ。ゾウ、ライオン、キリンと体が大きい。飼育費も随分かかる。ペンギンは小さい。たくさん魚は食べるので飼育費はそれなりにかかるらしいが。

残りの人生を考える話からどんどん脱線するが。
飛べない鳥と言えば、ペンギンだけじゃない。
ニワトリもこれまた実に立派な鳥だ。とにかく食べられる。美味い。安い。なんと残酷な話だろうとも思う。
ニワトリの祖先は東南アジアなんかに住むセキショクヤケイという鳥だそうだ。元々そんなに飛ばない鳥だったようだが、猫と同様人間に飼われることで種の保存を選択したのが現在のニワトリだそうな。

余談ついでに最近知ったのが、私がパタゴニアで見た鳥、やたらと速く走る大きな鳥はダチョウではなくパタゴニアに住む絶滅危惧種のダーウィンレアという鳥だったようだ。
少し離れたところを並走するように走ってきたのだがとにかく速くて大きかった。

飛ばない鳥というのは非常に素敵だ。

ーーー

さて、動物の肉というとアフリカだ。
アフリカの牛肉は実にまずい。品種改良されていない野生種に近いし、育て方もしっかり歩かせる。それで筋肉質で美味くないのだ。
まずいなどと言うと命に対して不敬ではあるが。少なくとも我々人間が食して美味いのは、やはり品種改良を重ねて牛小屋で育てられた牛の肉だ。
しかし、面白いのはアルゼンチンの肉は美味いということだ。アルゼンチンの牛も基本的に放牧なので固い。僕ら日本人が初めて食うと安い肉のように感じる。
しかし、アルゼンチンの肉はステーキで食べると非常に美味しい。日本人は霜降りが好きなので最初好みに合わないが、慣れてくると肉を噛む美味さがある。塩コショウをすりこんでやって波の付いたフライパンで焼くと実に美味い。

食とは理解だ。
大抵のものが最初は不味いと感じる。
例えば魚だろう。私は今も魚が得意ではないが、以前と比べると美味いと感じることが増えた。どうにも魚臭さというのがダメなのだ。それでも、食べている内に美味さというのをいくらかは理解してくる。海に近い町に行って新鮮なものを食うと臭くない。生の魚とは美味いものなんだなと、日本人のくせに大人になってから理解してきた次第である。
アルゼンチンの肉もそうで、初めは歯が折れるかと思ったものだが、食っていると良さが分かってくるのだ。
山の食べられる草にしてもそうだ。アザミの天ぷらなど、最初はただの草を食っているような感じなのだが、次第に美味く感じてくる。

ただ、アフリカの牛肉は最後まで美味いと思えなかった。
アフリカ、特にマサイ族にとっては牛は非常に大事なものだ。今でこそお金の方が大事かもしれないが、牛こそ彼らにとって最も大事なものだったらしいし、今も牛を大事にしている。アフリカを走っていると、マサイの子供が牛を連れて歩いていたりする。棒切れを持って牛の群の後を歩く。マサイ族の牛の扱い方は何も知らない我々が見ても非常に上手く、牛たちは従順にマサイの子供の思うように歩く。少し進んでマサイじゃない土地に行くと牛はよくはぐれそうになり、牛追いの人はよく牛をたたく。マサイが牛を叩いている姿は私は目にしなかった。それでもマサイの牛はとても従順に動くのだ。
でも、肉は美味くない。
牛肉はスワヒリ語でニャマと言う。米はワリ。アンドはナ。だから、牛肉と米を食いたければ、ニャマ、ナ、ワリと言えば通じる。
それにしても、ニャマは実に美味くなかった。
とにかく固い。味もしない。彼らの料理の仕方、大抵のものは油で素揚げというスタイルのせいもあろうが、固いばかりで味がしない。

ニャマに対してクク、ニワトリはそこまで不味くなかった。
日本で食べるニワトリよりはいくらか固いし、旨味もどこか素っ気ないのだが、それでもニャマと牛肉ほどの違いはなかった。
ニャマは美味くない。少なくとも日本人の味覚からすると。

しかし、牛たちは非常に大事にされていた。

美味い不味いの話で、バックパッカーたちの間であるのが、文明が発展している国は飯が美味いというものがあった。ただし、イギリスを除くとのことだ。イギリスは美味しくないのに発展している珍しい国だそうな。
まあ、笑い話、冗談程度の話なのだが、たしかにいくらか的を射ている。

それでも、アフリカの肉っていうのは命なのだろうなと私は思うのだ。
命をつなぐために命を食う。
美味い不味いではなく、命を繋いでくれる牛たちへの感謝、尊敬。

倫理的に考えるとアフリカの牛への扱いは日本より遥かに正しい。
正か悪かで論理を展開するのは危険ではあるが。
それでも、食べるために小屋に閉じ込め、近隣住民も匂いがするからといって近くに住みたがらない。はっきり言って日本人は食への命への尊敬に欠けている。米一粒に感謝する人は今の日本にはかなり少なくなりつつある。
それに対して強く逞しい牛を育てるために、一緒に一日中人が歩いているアフリカっていうのは命に対して非常に倫理が高いと私は思うのだ。

ーーほかに仕事がないからだろう。
まあ、それも間違ってはいない。
しかし、我々の命をつないでくれる命への尊敬というのは、やはり大事だろう。
日本人は高齢者の問題に直面しているのもあるが、人に長く生きて欲しいと願わなくなりつつある。もちろん、元気に長生きして欲しいが、元気じゃない長生きも、若い人を邪魔するような長生きもどうかと思う。
命は生きるべきだけ生きて、死すべき時に死ぬべきだろう。
誰しも死にたくはないが、キリストもブッダも死んだのだ。
キリストとブッダが偉いのは、死すべき時に死んだということも大きいように思う。
二人とも生きている間でも、それなりに偉くはなったが、死後の現在尊敬されているほど偉くなる前に死んでいる。もちろん、偉かったのだが。
人間、偉くなって怖いのは傲慢になることだ。

あくまで私の考えだが。
人間、それぞれに偉くなれる範囲が決まっている。
それを越すと偉そうに振る舞うようになる。
だから、ある程度の歳になると偉そうになる。
それ以上偉くなれなくなっても、人間ってのは向上心がある。だから、実は伴わなくても、偉くなりたいもんだから、態度ばかり偉くなってしまう。
実際、上限まで偉くなっているのだから偉いのではあるが。
それでも、自分はもう偉くなれないと悟るのは大事なのだ。
ブッダは布教の旅の最後に沙羅双樹の間に最期の寝床を弟子に頼んでいる。
私の考えではあるが、ブッダほどの人となれば、80歳程度で死なずにもっと長生きする方法も知っていただろうと思う。
何せ科学が進んだと言えど、現代では普通の人でも100歳近くまで生きるようになっている。ブッダほどの超越した人であれば、ただ生きるだけならばいくらでも生きられたんじゃなかろうかと思うのだ。
しかし、ブッダは弟子に言って北枕で永眠する。

キリストは弟子の裏切りを知っていながら死ぬ。ブッダよりもキリストの方がその気になればまだまだ長生き出来た。裏切りを知っていたし、知っていてあえて死ぬわけだ。

キリストとブッダも生きるだけ生きて、死すべき時に死んだのだろうと私は思うのだ。
二人とも半分神様、空想上の人かもしれない。
神様として、永遠に生きることも出来ただろう存在だ。
しかし、死んでいる。

ーーー

はて、残りの人生に関してだ。

30歳では正直残りの人生も見えない。
体力についても、私の場合、トレーニングもしているからか、かげりも見えない。
いくらか二日酔いが残るのが増えたくらいか。

しかし、以前は無限だと感じた伸び代に有限を感じる。別段、まだ限界が見えはしない。まだまだいくらでもやれるようにも思うが、しかし、限度がいずれ来るのだろうという感覚はある。
単純に有限だと理解しただけのことだ。

有限を感じると誰かに引っ張ってもらって生きることに疑問を感じる。
自分で何事かを出来る自信はない。
しかし、自信はなくとも、人生の引き算を考えるとそろそろ何事かを自分でやり始めないといけないのではないかと感じるのだ。

ま、そんなこんな。


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posted by ちょろり at 23:45| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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