
箱根から御殿場、山中湖と。
写真は水源の村、道志の川。
伊豆半島もアップダウンがある上に、富士山方面の山は言わずもがな。
結構、きついルートになった。
伊豆半島の美しい海から、箱根の登り。
登りの最後はトンネルをくぐって御殿場に抜ける。
御殿場に抜けた途端、富士がドンと構えている。
先日、行ったときも書いたけれど。
富士があれだけありがたく思えるのは、自転車だけだと思う。
富士が大きくドンと見えるところまで自転車で行くって、結構、半端じゃなくしんどいのだ。
傾斜こそ、さほどきつくはないが、とにかく長い坂を登り続けないと、ドンと来るでかい富士には辿り着けない。本当にキツいんだ。
遠目に見る小さな富士とは、もう全くの別物だ。
ちょうど良いところに温泉があって入ってみた。
湯船につかりながら富士を眺めてやろう。
銭湯の絵じゃないぞ。生の富士だぞ。
それで、湯に入ったら、急に富士はありふれた写真なんかでよく見る富士山になっていってしまった。
ポップな味気ない温泉だったってのも良くなかったのかもしれないけれど。
結局、チャリの良いところってのは、そういうところだ。
写真には写らない美しさを感じれるんだ。
僕がアルゼンチンで最も美しいと思ったものは、空だった。
南半球特有の強い太陽に雲が光る。また、雲が不思議なまでに近くて、空は地平線の限り広い。夜には月が上る。
僕はその空の下で眠っては、自転車をこぎ、米をたいた。
写真にすれば、単なるきれいな地平線にしかならない。
そういえば、今回の良かったポイントは昨夜、すこぶる強い光を放つ灯台があったこと。
本当に何かが爆発してるかのような鋭い光をチカチカ発していた。
僕のテントを張ったところには、街灯なんか当然なく、真っ暗な簡単な登山道みたいな階段をのぼったところで。
あんなに強く光る灯台を僕は初めて見た。
近所の人間なら、車でぶらりと走っていれば、見える灯台のあかりだろう。
それでも、あれほど強く光っていると感じられる人間は、夜の暗い海に浮かぶ船の上の人間と、チャリであてもなく走ってきて、真っ暗な中野宿していた僕だけだったろう。
箱根の山は昔、初めてしたチャリ旅での最終日の道だった。岡山から東京。あの頃の僕には、大変な冒険だった。
実際、あの頃の自分は立派だなあと思う。
アルゼンチンと同じくらい。
自分にできるか分からないこと、したことのないことをした。
1号線と2号線に関しては、今でも走ると、あの頃見た景色だなってちゃんと覚えている。
まあ、走ったルートの景色はだいたいはちゃんと覚えてるんだけど。もちろん、忘れてるところもあるけど。
写真には写らない景色を僕はいくつも見てきたんだなあ、って、最近しみじみ思う。
僕は、旅をしても、本当に牛丼ばかり食べていて、名物なんか滅多に食わない。
本当に腹が減っているし、金もそんなに持ってないからだ。
土産も買わない。
写真も昔は本当に一枚も撮らなかった。
鹿児島に行ったときの写真なんかは一枚もない。(最近、フリーペーパー書くのに、結構欲しいんだけど)
文ってのは、そういうところ素敵だ。
写真にならない景色を表現できる。
プラスに写真が一枚とかあるとなお良い。
映像にまでしてしまうと、写真にならない美しさが損なわれてしまう。無駄な情報が多すぎる。
写真にならない景色ってのは、絵の問題じゃない。
外堀だ。
前後に何があったか。枠の外がどうなっているのか。
絵を介さずに、だれかの脳みそに景色を与えることができるのは、言葉だけなのだ。
そして、しゃべりと違って、文章という、言うなれば固定された言葉っていうのは、人間の脳みそを自由に走れるのだ。
写真を加えるか、映像を加えるか、音声、音楽を加えるか。
これは、作り手がどれだけの自由度を伝えたいかによって変わる。
詩なんかは、まさに自由度が高い。
小説も、それなりの自由度。
雑誌なんかの記事は、自由度はいくらか落ちる代わりに事実を。
映像は限りなく確定されている。
スーパーカブと一眼レフも欲しい。
写真にならない景色を、どれだけ集めて、記事にできるかってのをしばらくやってみたい。
ルート案内じゃなくて。
小説でもなくて。
ま、そんなこんな。