2019年02月11日

貧すりゃ鈍。

お金について考えることがあった。
最近、安定した仕事に就けだの何だの言われることがあったからだ。
確かにもうじき31歳になるし、転職するとしたらラストチャンスではある。

これまでも僕は事ある毎にお金について考えてきた。
貧すりゃ鈍する。貧乏になると日々お金のことばかり考えなくちゃいけなくて思考まで鈍って来ますよ、なんて言葉だが、まあ、この言葉は的を射てはいる。

昨今の日本の悲しみとは、貧乏なことがイコール悲しいこと、悪いことなんて考えが当たり前になっていることだ。
成功者にはお金が手に入る。
社会で価値ある人にはお金が手に入る。
そういうのが当たり前になっている。

とにかく危険なのは即イコールでつなぐことだ。
確かに資本主義の理想としては、社会的に価値ある人にお金が入る、というのはある。
ただ、現実問題としてはそれは違う。
非常に危険なのが、価値のある人=成功者=価値ある人っていう即イコールだ。
現実にはそのイコールが成立することもあるけど、しないことも多いのが本来なのだ。
しかし、即イコールの世界ではお金がない人は成功者ではなく、社会的に価値があるわけではない、人類に貢献しているわけではないというヘンテコなことになる。

このイコール問題が顕著なのは芸術だとかそっちの方面で、例えば太宰治もチャーリーパーカーも少なくともお金持ちではなかった。
まあ、お酒や麻薬に溶かしてしまったからというのもあるだろうが。
ただ、彼らは価値がなかったかといえば、絶対にそういうことはありえない。

経済なんかでもユニクロは大成功を収めて巨大な企業でお金持ちだが、ユニクロがやったのは自分たちだけ儲かれば良いという価格破壊で、人々は服を大事に長く着なくなり、労働者は安い賃金でたくさんの服を作らなければいけなくなった。

今、流行りつつあるPayPayも便利なようだが、お金ってのは国が出来るだけ全員に公平になるよう管理しないといけないのに、営利企業がお金の代わりになるものを作って管理してしまうっていうのは非常に危険なことなのだ。
仮にPayPayがスマホ決済を独占したら、PayPayの都合の良いようにお金を自由に発行できるようになってしまうし、決済手数料という名目にはなっているが、その実、消費税と変わらず、それをPayPayが自由に吸い上げることが出来てしまう。
もっと平たく言ってしまえば、勝手に日本国内で日本円以外のお金を印刷して流通させたら犯罪だが、お金と同じ機能を持つものを紙じゃなくデジタルでやるのは犯罪にならないということだ。
後の利益を考えると100億円還元キャンペーンなど安いものなのだ。
セキュリティの危険とかではなく、営利企業が手を出してはいけない領域であり、ほとんどの人がそのことを気付いていない、はたまた気付いていてもどうにもお金に勝てなくて使ってしまう。
かくいう僕もPayPayを使う。やはり便利ではあるし、集客も出来る。
最近の僕の悩みの一つではある。モラルに反することに加担して日銭を稼いでいるってことはある。

ーーー

じゃあ、お金を稼ぐのは悪いことかと言えば、当然そういうわけでもない。

ただ、お金がないのは悪いこと、お金があるのは良いことってのはおかしいというだけのことだ。
だから、その逆、お金があるのは悪いことで、お金がないのは良いことってのもおかしい。

これも、イコール理論で考えるとマイナスの反対はプラスということになってしまう。

基本的に絶対的に良い悪いということはない。
お金を持っていても良い人はいるし、悪い人もいる。その逆も然り。
当然のことのようだが、イコール理論では良いの反対は悪い、だから良くないものは悪いになってしまう。

ーーー

先日、退職金のある仕事をした方が良いという話をされたのと対照的に、世界はおかしい、お金にばかり走っているという話を別のところでされた。
別にそちらは押し付けではなかったし、むしろ、僕の考えと近いものはあったのだが。

ただ、聞いていて、ぼんやりと違和感みたいなものを感じた。

ーーー

僕としては稼ぎたいだけ稼げば良いと思うのだ。
他人の生き方、働き方に文句を付けるな、と。

そう言いつつ、ぼくも文句を付けるのだが。

まあ、PayPayもユニクロもモラル違反だとは思うし、あまり良いことではないと僕は思うけれど、そういうのが良いって人々も世の中いる。

ただ、やはり楽して金を稼ごうとかってのは良くないと思うわけだ。
地面からお金ははえてこない。
せめて裏山に拾いに行くくらいの労力はないとおかしいわけだ。

昨今、ふるさと納税なんかもそうだが、平気で偉い人が楽して得しましょうみたいなことをする。

別に楽したって良いのだが、基本的にお金はにょきにょき生えてこない。
何せ、お金を払えば誰かを働かせることが出来るわけだ。
にょきにょき生えて来たら、今度は自分も地面から生えて来たタダのお金で働かされることになる。

何もしなくてもお金が手にはいるとかってのは変なことだし、それをおかしいと感じないのは危ないし、偉い人が率先してそういうことをするってのはヤバイってやつなのだ。

ーーー

そうは言うのだが、敬愛する小説家の先生はFXで稼いでいたりする。
モラル云々の話で言えば株だのFXだので金を稼ぐってのは一番よろしくない。しかし、僕はこの先生は非常に好きだ。
この先生くらいになると爽やかなもので、働かなくて良いなら働きたくないと断言する。何で飯を食っているのかは定かではない。先日は渋谷だかどこだかでUFOの講演会だかをしていたらしい。それは金のための活動ではないらしい。漫画の原作をやってるとかしてないとか。とりあえずは小説家の先生なのだが小説での収入で食っていないのだけは間違いない。
ちなみに小説は良い小説を書く。まあ、当たり前なのだが、だって小説家の先生だもの。
家は実に質素なアパートに住んでいる。
酒を飲んでギターを弾いて。
ちょっとした仙人、随分俗っぽい仙人だが、何というか超越して爽やかである。爽やかさのかけらもないのだが。

ーーー

お金の話って多数派、少数派というだけのことで、多数派が圧倒的に多くなると暴力的になってしまうだけのことなのだ。
今ならお金派が多いから、お金がないことは悪い、退職金をもらえて福利厚生の良い仕事をするのが良いことなのだ、なんてのが世界の常識になっている。

僕からすれば、安定した仕事、給料の良い仕事なんてのは危険な香りしかしない。
人間、時間ってのは平等だ。そりゃ、早く死ぬ人も長く生きる人もいる。それもまた平等にランダムだ。不公平ってのは公平なことでもある。作為が働かずランダムであるっていうのはある意味で平等なのだ。
たくさんお金を稼ぐ人はたくさん時間働いているか、何かのスキルを得るために時間をかけている。そのどちらでもなければ、モラルに反することをしていたり、リスクを背負ってきているかだ。
頭がなけりゃ体を使え、体も弱ければ時間を使え、ってやつだ。何かしら使っているのだ。
産まれながらに体が二つあったり、脳みそが四つあったり、超能力が使えるとかすれば話は別かもしれないが。
基本的には何かを差し出してお金ってのは入るのだ。

昔の友人に高収入な人が多いが、まあ、大変そうではある。
中にはそんなに大変そうでもなくて収入も良くて福利厚生も良い人もいるが、まあ、それはそれだ。
逆にえらく大変そうなのに収入も福利厚生もよろしくない人もいるが、まあ、それはそれだ。

一つ言えるのは、会った時に、
「あ、やっぱりこいつの方が稼ぎが多いから幸せそうだな」
なんてことは全く感じない。
当たり前だが、幸福さと収入、福利厚生ってのはそんなに関係ないのだ。

これがアフリカとかなら、いくらかは思うのかもしれない。何せ貧乏と言ったら実に貧乏、字の通り食うに困る。しかし、アフリカのすごいところは貧乏が悪いわけではない。
まあ、アフリカと一括りにして話すのも良くないが。イメージとしてはタンザニア、マラウィ辺りだ。ザンビア辺りからはお金持ちが発生しだして、貧乏は良くないことみたいな空気がどこかにある。
村丸ごと貧乏ってのは救いがないようでいて、しかし、貧乏というのも普通のことであって別に悪ではない。

一度村で頭のパーの人がいた。
道路脇の村で、僕は言葉が分からないので最初分からなかったのだが、次第に周りが笑っているのと、彼の仕草を見ていると、なるほど、彼はパーなのだと分かった。
憐みではなく、人々は笑っているのだ。
言うなれば、パーのおっさんが旅人に絡んでるぞ、みたいな具合で。
そういうのって、日本だと小学校の道徳の教科書では絶対にしてはいけません、ということになっている。
しかし、現実に体験すると明るいのだ。
みんなパーのおっさんを馬鹿にしてはいるのだが、憐みはない。むしろ親しみみたいなものがある。
臭いものにフタをするじゃないが、タブー、かわいそう、触れてはいけないみたいなことをする方がよほど人間として良くないことで、素直に「パーのおっさん、相変わらずアホだねー」なんて笑いながら、それでもおっさんも村の一員なのだろう。

人間、ある程度の数がいれば、生まれつき頭がパーの人もいるし、育っていく途中で頭を打ち付けてパーになる人もいる。
でも、そういうのって仕方ないのだ。
アフリカの場合、大人になるまでに死んでしまう子どもも多いし、大人もふとしたことで死ぬ。祝日が危険らしく、お祭り騒ぎになるとついついアッサリ人が死んだりしてしまうことが珍しくないと言っていた。酔っ払ってトラックの荷台から落っこちるとか。
今生きていることを謳歌しているようなところがある。
なので人々は非常に力強いし、生命力に溢れていて、明るい。土と太陽の間に生きている。

生きているだけで人間ハッピー。
まあ、アフリカだって実際にはそれが全てではないのだろうが。アフリカ人でもアディーチェの小説のような苦悩はある。当たり前だが同じ人間なので。
ただ、アディーチェみたいに国際的に活躍している人は欧米に住む経験があるのも事実だが。

ーーー

あれこれと話はブレるが。

何だかんだで強いのはお金が少なくても幸せを感じる方法を知っている人間だ。
お金がないと幸せになれないと思っている人は大変だ。たくそんお金を稼ぐには疲れる。ほどよく働いても疲れるは疲れるが、そりゃ適度な疲れだ。

服を一つ買うにしたって、今年の新作、トレンド、あのブランドが良いと振り回されて、毎年、毎月高い服を買わないと満足出来ない人は大変だ。

昔から着続けているボロボロの服を着ていたって、どこか風流でスタイルがあってかっこいい。
そういう方が素敵だし、生きていて楽だ。

貧すりゃ鈍するとは言うが、いくらか貧乏していても頭の中がお金のことばかり考えなくても幸福に満たされていれば鈍さない。

逆にお金があってもお金のことばかり考えていないといけない人は鈍する。
いくらお金があってもお腹が出てしまって、健康を害しているのでは、何の意味もないのに、その事に気付かずいつもお金のことばかり考えている。
生きる事に対して頭が鈍してしまっている。

まあ、そうは言うけれど僕もお金は欲しいのだ。
今のところ何も困ってはいないけれど。

何十年も先の老後のお金のことなんか考えて、今の頭が鈍していたら、そりゃ馬鹿ではある。
ただ、今だけじゃなくいくらか先まで鈍することがないよう、やはり先々のお金の工面もいくらかは必要ではある。

ま、そんなこんな。


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2019年02月09日

祖母に三年ぶりに会ったら涙が出てしまった。

祖母に三年ぶりに会ったら涙が出てしまった。
少しボケているとは聞いていた。
しかし、現実はどうにも悲しかった。

祖母の状態は悪くない。
90歳だが自分で歩ける。
ボケているとはいえど、数年ぶりに見る僕のことを僕と分かってくれていた。

ただ、老人ホームの中で見つけた祖母は迷子になってしまっていた。
広い老人ホームではない。
どこかに行こうとしていたらしいのだが、道に迷ってしまい分からなくて困っていたと言っていた。
ボケてしまっているのだ。

人間90にもなればボケる。
それは頭の中では分かる。
壁に向かってクソを投げる人もいる。ひどく敵対的になる人もいる。
そういうことは知っている。
しかし、祖母が小さな老人ホームの中で迷子になったと言っている現実っていうのはひどくショックだった。

仕方がないのだ。
むしろ、歳を考えれば軽い方なのだ。迷子になっていると思い込んでいたり、僕のことをだれの子どもたったかな、と言ったり。母は一人っ子なので母の子ども以外ないのだが。
それでも、名前と顔が分かってくれたのは嬉しかった。
そう考えると祖母のボケは軽度のものだろう。

しかし、祖母はひどく残酷な生き延び方をしてしまっているように思えた。
祖父が死んでから、早く迎えに来て欲しいと言っていた。馬鹿なことを言うもんじゃないよ、元気に長生きしてよ、なんて言っていた。
ただ、今日の祖母を見ると、おじいちゃん、早く迎えに来てあげて下さいと思ってしまった。
今のうちに。

その年齢で三年も会わなければそういうことになるってのは普通なのだろうとは分かる。

ただ、祖母には悲しみがなかった。
早くおじいさんに迎えに来て欲しいとも言わなかった。
ただ、生きるって難しいねと言っていた。

神よ、なぜ一生懸命生きてきた人の最後にこんなひどいことをするのだ、と。
なんと酷い仕打ちをするのだ、と。

ーーー

それからエルグレコの受胎告知を眺めに行った。
大原美術館は遠くない。千三百円で入れる。
大原美術館は実家から歩いて十分のところにあり、学生時代は全館ゼロ円で入れたのでよく行った。
この美術館、非常に美しいのだ。
日本で最も美しい美術館はどこなんだか知らないが、少なくとも上野の国立西洋美術館よりは美しいと思う。国立西洋美術館も素敵な建物だし、世界遺産にも登録されているが、大原美術館の方が美しいと感じる人の方が多いと思う。
中庭の日本庭園には誰でも無料で入れて、そこで煙草を吸うと非常に美味いのだ。
収蔵作品も素晴らしい。ピカソも何枚かある。モネの睡蓮もある。あとは忘れた。でも、有名な画家の絵が何枚もある。収蔵点数自体は国立西洋美術館ほどではないが、どの絵もかなり知名度があり見応えがある。
美術館に詳しいわけじゃないが、いくつか美術館には行ったが、大原美術館みたいな絵のチョイス、有名作品がこんなに多い地方美術館ってほとんどないと思う。

受胎告知は大原美術館に何度か行っている人なら知っている。
何せ大原美術館の中で最も高額な絵だからだ。最も大切に展示されている。
大原美術館とは大原さんが自腹で作った美術館なので、基本的には全て同時ヨーロッパに直接買い付けに行っている。児島虎次郎さんという画家さんに買いに行かせたらしいのだが。
多分、普通の美術館では絵の値段って言わないし、国の所蔵のものが多いので買う買わないではなかろう。その辺は大原美術館っていうのは少し変わっている。

日本国内にエルグレコの絵があるのは、国立西洋美術館と大原美術館の二枚だけだそうだ。日本国内にエルグレコの受胎告知が存在しているのは奇跡だとも言われているそうな。

まあ、そんなわけで、倉敷の人でちょっと美術館に行く人と言えばエルグレコの受胎告知は有名なのだ。

受胎告知は聖母マリアの元に天使が降りてきて、キリストが産まれるよ、ってことを伝えに来ているワンシーンだ。

ーーー

実際には行っている時にはエルグレコを目当てに行ったわけではないのだ。
単純に大原美術館を散歩したかったのだ。

まあ、建物が良い。
祖母のことで混乱した心を落ち着けたかった。
だが、そういう心境で絵など見ると心がささくれて大変だろうとは分かってはいたのだが。

ーーー

一時間ばかりエルグレコを眺めていた。

どうして神は祖母にあんな酷い仕打ちをするのだろう。
人間はなぜ生まれてくるのだろう。
生きるってこと自体は残酷ではないが、人間生きている限りは生きねばならぬ。
生きねばならないから生きているとなるのは、ひどく残酷だと思うのだ。

それから裏の神社に登ると藤の木が枯れかけていた。
延々と高校をサボり続けて通い詰めた神社だ。境内の裏にある藤はとても立派だった。しかし、裏なので人はほとんど来ない。
たった10年ほどで随分と元気をなくし、枯れかけていた。
祖母の三年はどこか納得もある。
しかし、藤がたったの10年ほどでこんなに元気がなくなるとは思いもよらなかった。


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2019年02月07日

アフリカ2

ユーフォーの話から始めるとしよう。

僕がアフリカに着くときに考えたのは、やべーな、今度ばかりは死ぬかもなー、ってことだった。
窓の下に広がるのは冗談抜きで動物奇想天外って番組でやってたサバンナだもの。
すごいよ。
テレビって本当に。
そのまま動物奇想天外。
所ジョージとか黒柳徹子とか出てた。
この木何の木木になる木って。
そりゃ、上からじゃライオンなんか見えない。
でも、まあ、こりゃ人間の住むところじゃないってね。
集落を探すけど分からない。
ぽつぽつと生えた草原と木。
へー、世界にもまだこんなところってあるんだなって。
自転車で走るつもりがない人なら、呑気に眺めるんだろう。
でも、僕はそこを自転車で走るんだ。
ちょっとじゃなくて全部ね。

ちょっと骨が折れるなじゃなくて。
今回ばかりは死んでしまうかもなって。

いろんな冒険家が世界にはいるけど。
誰しも今回はやばいなって思うんじゃないかな。
絶対安全なところなんて言ったって冒険家にとっては退屈しのぎか、スポンサー集めだ。

僕の眺めたアフリカって、本当に動物奇想天外だった。
冗談みたいなアフリカ。
本物のアフリカ。

いや、アフリカって本当はもう少し都市なんだろ。バックパッカーなんかでも歩いてるんだし。

少なくとも、きっとそのサバンナを歩くバックパッカーなんていないだろう。

ああ、冗談みたいな本物のアフリカ。
絶望。

それが僕のファーストアフリカだった。


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アフリカ1

その頃の僕にとって世界はどうだったのか。

それってずっと続く疑問だ。
NATOのユーゴスラビア爆撃。
それはきつと小学生の頃で、悪い国にアメリカが爆弾を落としている、そんな感じだった。

結果としては爆弾を落とされる国ってのは悪い国なのかな。
そんな風に考えたけど。

本当の良し悪しなんて僕に分かるわけもなく。

また、僕は出かけることにした。
アフリカ。


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2019年01月20日

飯を作るとレシピを見ろと言われる。

飯を作るとレシピを見ろと言われる。
美味けりゃ何でも良いんじゃないかと思うが、美味いものより不味くて良いからインターネット上で評判の良いものを食べたいのだと言う。

書き物をしてると不思議に思うのが、生身の人間より文の情報を人間って信じる。
何ともヘンテコな話だなと思うのだが、ペンは剣よりも強し、という言葉もある。

元々は暴力で圧するより、言葉の方が人間は納得して自発的に動く、つまりは北風と太陽というような意味だ。
しかし、今はすっかり逆転してしまっている。
ペンの方が遥かに暴力になりつつある。

ここ数年、調べ物をするのにインターネットというのは昔より役に立たなくなったと感じることが多い。
広告収入、まあ、私もそれでいくらか収入を得ているのも事実なので全否定もできない立場なのだが、検索キーワードに引っかかるように文を作れば、検索の上位に出てしまう。
その方法というのが実にチープなもので、
・更新頻度
・写真の有無
・キーワードの現れる頻度
・ロボットじゃなく人間の手書きによるもの
なんて辺りで、情報のディープさ、詳しさというのは関係ないのだ。

だから、そのルールに則ったページばかり出て来て、肝心の欲しい情報にいつまでも行きあたらない。

昔は広告収入とかって基本的になかったので、好きな人が好きな情報を作る。調べる人は気に入れば直接にその製作者に連絡を取って感謝を伝えた。
お金って基本的に入らなかった。
それでも、自分の好きなことを文や写真にして発信して、それを感謝してくれる人がいて。
純粋に好きな人が好きなことを発信して、好きな人が調べて読んだ。

はっきり言って、インターネットは死んでいる。
インターネットほど秀逸なメディアはなかなかない。
しかし、一口に言えば愚民がインターネットを殺してしまった。
コーヒーの入れ方一つにしても、調べてみたって大手企業のマジョリティ向けの宣伝や、キーワードだけたくさん散りばめたウィキペディアを書き換えただけのようなページにしか当たらない。

図書館にしてもそうだ。
情報を求めて行っても、入門書ばかりが書棚に並ぶ。
図書館にいる人だって、本当の本好きもいくらからいるけれど、何となく図書館に休日行くのがオシャレみたいな人々が増えた。

ーーー

すこぶる悪い言い方をするのだが。
生計に関すること以外のことって、余裕のある人の特権なのだと思う。
お金持ちの特権とかじゃない。
人生、等しく時間ってのはある。
それを何に割り振るかってのが人生だ。
何でもかしこでも知ってて素敵なんてわけにはいかないし、それを出来るのはそれこそ貴族であるべきなのだ。
庶民は時間が限られていてしかるべきなのだ。

一つのことをするって時間もかかるし、お金もかかる。
それが本来なのだ。

でも、どの業界もそうだけど、マニアじゃなくてビギナーを取り込もうとする。
そうしないと儲からない。
ノースフェースみたいなものだ。
本当の登山好きじゃなくて、タウンユースでも着たくなる服を作るメーカーが人気が出る。
人気のないメーカーはマニアにはうけたって、結局資金繰りが詰まって、何年かすると消えてしまったりする。

お金の上に立って生きていて良いことってあまりない気がする。
それでも、人間お金の上に立って生きている。
ずいぶん時間をかけた結果、お金の上に立つことに決めている。

ヘンテコな話だ。
ほんの数年でインターネットが死んでしまったりするなんて。

ま、そんなこんな。


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posted by ちょろり at 22:33| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月06日

時々、ケータイのゲームにハマることがある。

時々、ケータイのゲームにハマることがある。
元はペンキ塗りのアルバイトをしていた頃だ。
なぜかドカタの人たちってケータイゲームが好きだ。お金もかからないし休憩時間にぼんやりとタバコを吸いながらやるのにちょうど良いのだろう。話題にもなる。
ハイエースの中をタバコの煙で充満させながら協力プレイが何とかと話をする。
それぞれ一人親方でやってたり別の親方のところで働いているのを忙しさで人を貸し借りするのだが、共通の話題としてゲームがあるっていうのは良いのだ。
どうでも良い会話というのは大事で、サバサバしていると、誰それの現場の時は誰それがやる気がないとか、どこそこの親方の仕事の取り方がえぐいだのと、まあ仕事、日々の生活のかかった金を稼ぐための営みをしているとあれこれ揉め事が起きたりすることもあるらしいのだが、どっちでも良い時間潰しのようなゲームで協力プレイをしてたりすると、
「え、そのキャラどうやって取ったん?」
「今日何時からイベントだっけ?」
だの、まあ、実にどうでも良い会話で和気あいあいして良いのだ。
まあ、何かと程よいのだ。

そんなわけで僕もゲームを始めると、
「ふくちゃん、最初はこのキャラからやっていけばええんよ!オレをフレンド申請しとけば序盤は楽勝よ!」
なんて具合で優しく教えてくれたりする。
基本的に優しくて兄貴肌な人が多かったというのもあるかもしれない。
実際、僕はパチンコもやらないし、ナンパもしない、キャバクラも行かないし、若い頃にケンカもしなかったし、良い車も持っていないから、ペンキ屋さんでの話題ってゲームがあるとすごく助かった。

ペンキ屋を卒業しても、まあ、卒業といっても何も覚えていないのだが、基本的に塗料の缶を運んだり、塗料をまぜたり、簡単な下塗りだけやったりくらいだったのだが、何にせよペンキ屋をしなくなっても、僕はケータイのゲームを時々するようになった。
別に大して面白いわけでもないし、生産的でもない。
ただ、何となく心の癒しがあるのだ。
特に頭を使わずぼんやりとスマホをいじる。
そんなことが心の癒しになるのは不思議なことのようにも思うが、何にも頭を使わずぼんやりと時間を過ごせることって癒しになるのだ。

スマホのゲームなどしなくても、ぼんやり空を眺めれば良い気もする。
案外、これが出来ない。
旅の日々の中では簡単だったのだが、普通の日々だとアレコレ考え事があったりする。
何もせずぼんやり過ごす時間って案外難しい。

友人でスマホゲームの達人が二人ほどいるのだが、一人は世界ランクでも上位に行ったりする。課金なしでそのくらいは行けるとのことだが、確かにいつでもゲームをしている。
ちなみに彼も仕事がなかった頃はドカタをしていた。
もう一人は配送の運転手をしているのだが、運転中に延々とやっているらしい。

まあ、大人になるってのは多かれ少なかれそういうところがあるんだろう。
昔なら英単語の一つでも覚えるか、とかだったが、英単語を覚えたところで使う場面がない。仕事で使う機会があれば、必然的に勉強するし、勉強する必要がない場合は使う場面がないということでもある。
日々の生活、仕事の中で即戦力になるようなことしかしなくなっていく。或いは全く無意味なこと、してもしなくても良いこと。した方が良いことってのは、しないと罪悪感もある。してもしなくても良いことは、しなくたって良いので、気が向いた時だけぼんやりとすれば良い。気楽なのだ。

まあ、人生、そういう要素も必要なのだろう。
いや、必要じゃないからこそ気分転換に良いのかもしれないが。

ま、そんなこんな。


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2019年01月04日

アフリカの話をそろそろ文にしようかと目論みつつ、すぐつまづく。

アフリカの話をそろそろ文にしようかと目論みつつ。
そうは言っても昔みたいに小説にするのはどうも難しい気がしている。
昔のは何だかんだで小説だった。
今回は写真集にしようかなと思いつつ。

そうは言っても、はっきり言って個人の旅日記なんかほとんどの人が興味ない。
それに対して芸能人や著名人の文章ってのは興味がある。村上春樹がトライアスロン日記なんて出したら、まあ、それなりに売れるような気がする。内容はどうあれ。
無名の個人の文章ってのは実に難しい。

手に取る人がいなければ、文とは寂しい。
一冊の本を作るときに難しいのはそこだ。
それでも、文とは寂しかろうと無意味だろうと存在しさえすれば存在しているのだ。

ーーー

小説とノンフィクションの境目って難しいとは思う。
以前の南米の話はノンフィクションではあったが、小説だったように思う。

ノンフィクションとは何ぞや。
これは難しい。
難しいので考えない。

ーーー

これまではBCCKSという出版サービスを使っていたのだが、今度はNEXT publishingなるサービスを試してみようかと考えている。

このNEXT publishingというサービスはAmazonのオンデマンドプリント、要は注文が入ってから印刷して製本して販売するというシステムを使ったサービスらしい。
PDFで入稿したら、あとは売れたら、その都度仲介手数料がかかるが基本的には作家の方は出費ゼロで出版が出来るというわけだ。
紙の本を発信するには良いサービスだ。

BCCKSは小説なんかには良い。
電子書籍でAmazonや楽天など様々な電子書籍ストアに配信してくれる。
電子書籍での発信のメリットは、とにかく購入者が安く手に入れられるということだ。
広く読んでもらいやすい。
出版社なんかの目に止まるチャンスも高い。

ただ、BCCKSはPDFなどでの入稿が出来ない。有料オプションでMacを使ってePUBファイルというのを作れば出来ないこともないのだが。貧乏人なのでWindowsしか持っていないので無理だ。
基本的にはブログのような形式で入力していくことになる。
写真をメインに本を作るとなると、BCCKSのやり方だと厄介だ。何より我が家のインターネットは遅い。オンラインでの原稿作成ツールを使うのはかなり無理がある。
オフラインでPDFで作って、紙の本に印刷してくれるってのは良い。
しかも、アマゾンで販売してくれる。
別に無料で良いのだが、現実問題として、
・紙に印刷するにはお金がかかる。
・電子書籍は現実的に普及していない
・Webページとして作っても良いが、Webページって流し読みになって最初から最後までを読んでもらえない。
なんていうことから、やっぱり紙で発信するというのは重要なのだ。

ーーー

はて、そんなわけで写真を整理してみたのだが。
どうも去年くらいに同じ作業をしてつまづいた覚えがある。

やはり僕は元が写真メインではないので、写真を基軸に本を作るってのがイマイチ分からないのだ。
起承転結を付けて、最後に向けて物語を進行させてテーマを展開していくというやり方しかして来ていない。

ふむ。
いきなりつまづいた。

結局、今回もアフリカ編は完成ならずか。
まあ、そうは言っても一応最後まで作ってみようかなと思いつつ。

どうもアフリカ編は以前に小説も書こうとして十万字近く書いてみたが、全ボツになったりと上手くまとまらない。
実際、アフリカでのことって何をどう文にすれば良いんだか分からないってのが本音ではある。

まあ、のんびりやっていくさ。
辞めてしまわなければ、いずれは完成する。
人生を通してゆったり長く執筆はしていけば良い。

まあ、そんなこんな。


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2019年01月03日

青年くんはFXで勝負すべきか。

今日は自転車でぶらぶらと秩父の方へ出掛けた。

今年はちょろり草を出来るだけ毎日書いていこうと考えてはみたのだが、やはり自転車の方のブログと両方書いていて毎日ってのは難しい気がする。

それでも、毎日ちょっとでも何か書いてみて、何日か合わせて一本書くってのでも良いかって気はしている。

基本的には日記には鮮度が大事だと考えていたので、その日の日記はその日の内に書ききってアップロードしないといけない、続きを別の日にまたがるって微妙だと考えていた。
何より書きにくい。
日記なんて、そんな大したことを書くわけでもないので、一日経てば、なんでそんな話題を書いていたのかも思い出せなくなってしまう。
そうは言っても、そういう書き方も必要であれば、やはり覚えないといけないだろう。

ーーー

今日はお金と仕事のことなんか考えたりした。
知人の若者がFXで一儲けしてやろうと考えているのだ。そのことについて一緒に自転車で出掛けていたKさんなる人と、「どうなんでしょうね、心配ですね」などと話したわけだ。

実際、僕も株なんかはやっている。
FXも手を出そうか考えてもいる。
別に必勝法はない。
むしろ、先日、株の方で大敗してしまっている。僕の買った株が突然大暴落してしまっている。まあ、大暴落と言っても1年か、長くても三年ほど待てば元の値段くらいまでは戻るのだが。
株は長期的な目で見れば、その会社が上場停止なんかにならない限りは元の値段までは戻ってくる。

FXも基本的には放置していればいずれは元のポジションまでは戻る日は来る。
問題はFXはレバレッジ、つまり自分の持っている金額の何倍という商品を買えてしまう。10倍にしていれば、勝ちも負けも10倍になる。
これがFXで一発当てる人がいる理由だ。
逆に財産をなくしてしまう人も出てくる。

基本的には当たり前と言えば当たり前なのだが、勝ちだけ見込みの高い博打など存在しない。
FXは博打じゃなく投資だという人もいるが、噛み砕いて考えれば上がるか下がるかの丁半博打である。

基本的には丁半博打については倍プッシュし続ければいずれは勝てる。倍プッシュとは負けたら次は掛け金を倍にして賭けるというわけだ。
勝てば前に負けた金額を回収できる。
負けてもまた倍プッシュで良い。
問題は掛け金がそんなに続くかという問題ではある。
あとは倍プッシュして買ったという時に勝ち幅が小さくても意味がない。

投資と投機と博打の違いとは、負けた時の幅だ。
博打は負けたらゼロになる。
投機は負けるとゼロまでは言わずとも大きく負ける。
投資は負けても減るのは一部のみだ。
要は用意する資産を長期的に運用出来るかどうかだ。博打は負ければ一瞬で終わってしまう。
FXはレバレッジのかけ方によっては投資だし、大きくかけると博打以上にリスキーになる。
また選ぶ通貨にもよる。円、ユーロ、ドルの三代通貨はリスクは低いがマイナー通貨は暴落したりがある。

ーーー

Kさんは割と心配していたが、僕としてはFXでも何でも興味があることは試してみるのは良いことのように思う。
その若い子、青年くんとでも呼ぶことにしようか、青年くんは自動でコンピュータが運用してくれるシステムを30万円で買って一儲けしてやろうという魂胆らしい。

「そんな上手い話あるわけないだろ。やっぱり汗水垂らして働かないといけないんだよ」
というのがKさんの考えである。

Kさんの言う理屈は正しい。
実際のところ、FXはコンピュータでかなり勝てるというのも事実ではあるが、そこまで勝率の高いシステムが30万円程度で買えるとは思えない。
何せそんなに勝てるシステムなら30万円で売らずにそのシステムで儲けた方が早い。
何せ一万本売れたとしても30億円である。
30億円と言えば大きい金額のようでもあるが、放置しているだけで楽して勝てるなんて、そこまで勝率の高いシステムなら元の資金が100万円もあればすぐに稼げそうな金額である。

現実一万本も売れるかっていうと微妙な気はする。
何だかんだで一万人くらいは甘い話に飛び付く人も存在するかもしれない。
ただ、仮に一万人買ったとして、そのコンピュータが同じように投資するとしたら、一万人が投資する未来が製作者には分かるということでもある。ただ、一万人程度の投資で相場がどの程度動くのかってどうなんだろう。
世の中、もはや天文学的数字のような財産を持ってるような人もいるわけだし。

何にせよ、順当に考えればやはりK氏の理屈、「世の中そんなに甘くないって」
というのが正しい。

ーーー

ただ、実際に投資で大儲けしたことのある人を僕は二人ほど直接見たこともあるので、存外、可能性はゼロじゃないと思ったりはする。

ただ、青年くんは仮に勝ったとしても、結局上手く使えないような気がする。
博打で買った金とは湯水のように消えるものなのだ。
もちろん、一生をプロの相場師として生きていきたいと強く考えていれば話は別だろうが、単純に仕事が嫌で働きたくない、お金が欲しいってのは上手く行かない場合が多いのだ。

実際、僕の知る投資で大儲けした人は、勝ったは勝ったが、段々と数字の感覚がおかしくなってゲームみたいになって、結局最後は必要な分だけ残して、あとは全部賭けてなくしてしまったと言っていた。そして、焼き物職人として生きていた。今はどうしてるかは知らない。
もう一人の人はやはり膨大な金額を持っているが、どうもお金というものの感覚がよく分からなくなるらしく、高いもの、良いものと呼ばれるものを買っても全く嬉しくなくなって、世界を旅して、自分自身が価値があると感じたものにだけ使うようにしているとのことだった。なので、生活は意外なまでに質素だ。意図的にそうやって質素にしておかないと、喜びや面白みがなくなってしまうらしい。その気になれば、お金で買えるものは何でも手に入るってのも案外大変なのだそうだ。

青年くんも仮に勝ったところで、中途半端な価値なら湯水のように使ってしまって、むしろその後負けて借金になったりするかもしれない。大勝ちしたとしても、明確にお金を使ってどうしたいということもない。車が欲しいとかはあるみたいだが。

ーーー

根本的な問題としては、仕事をしたくないってところだろう。
まあ、僕もくたびれるので仕事なんかしなくて良いならしたくない。たまに気が向いた時だけちょっと働くなんてのが嬉しいは嬉しい。
でも、そうなると誇りってのは持てない。
サラリーマンだろうが何だろうが、やはり仕事には誇りってものがある。

というのも、仕事って意外と難しい。
子どもの頃は大人になればみんな何かしら仕事を出来るようになるものだと思っていたが、実際にはみんなそれなりの苦労をして今の自分の仕事が出来るようになっている。
苦労して出来るようになったことって、やはり誇りがある。

僕の場合、好きなことを仕事にしているけれど、やはり仕事は仕事である。それなりの苦労はある、というか好きなことを仕事にするのは苦労が多い。
縁があって結局自転車屋なんて形で働き続けているが、給料も休みも悪いし全くオススメはしない。
それこそ日が変わって一月三日となったが、今日も勤務だった。三が日くらいゆっくりしたいというか、年末年始は二週間くらいはぼんやりしていたい。
そんなわけで人にはオススメしないが自分としては誇りを持って働ける仕事なので良い仕事だと思っている。

ーーー

青年くんはFXで一儲けしたいというが、その実、一儲けなどしなくとも働きがいのある仕事がしたいという方が正しいのだろう。
「まあ、たしかに複雑になりましたよね。昔って働いていればそれで良かったけど。なんか最近ってテレビなんか見てると、年収は500万円とか、年間休日百三十日とかが普通って言いますしね。青年くんみたいに派遣で働いていると、仕事なんか馬鹿馬鹿しくも感じるし、FXで一発当てるって夢を見る方がよほど現実的かもしれないですよね」
「まあ、そうなんですけどね」
「そう、そんなんですけどね、ですよね」

ーーー

K氏とアレコレ言っては見るものの、青年くんは興味があるならFXで一発狙ってみるのが良いような気もする。

他人事だからってのもあるが、どかーんと二百万くらい借金してみるのと良かろう。二百万くらいなら10年もすれば笑って話せる借金だろう。
はたまたドカーンと大投資家になれるかもしれない。
はたまた案外どっちにもならず、単に30万円損するだけかもしれない。

ただ、モヤモヤとFXしてみたら大儲け出来るかもしれないと思い悩んでいるよりは、人生は経験だ。
200万の借金で買える経験なら安いものだと思う。
一千万円負けるとちょっと話は変わるけど。

実際、僕自身、海外に自転車で旅するということで何だかんだでトータルで二百万くらいは沈めてきた。実際に使ったのは百万くらいだが、その無職の期間に普通にサラリーマンしていたら入っていただろう収入なんか考えれば200万くらいは堅い。
それどころか、まともに大学を卒業してサラリーマンしていたら、今頃年収も百万くらい違って、ゴールデンウィークなんか十連休だったろう。
そう考えると20代の頃にほんの少し異国を自転車で放浪したことでの損失って500万円くらいに登るかもしれない。

でも、お金持ちが一億円出したって、自転車で異国を旅する経験は買えないのだ。
経験ってのはやはり偉大だと今も思う。
それでいくら得するか損するか、何かに役立ってるかなんかは知らないが。

人は思い出を積み重ねて生きるものだ。
目の前の札束はいくら積み上げても思い出にはならない。

ーーー

欲に駆られてFXしてみて、何が手に入るか。
それは分かりはしないが、青年くんくらいの年齢で30万円使ってやる遊びって決して安いものじゃないはずだ。
やってみるのは大事だと僕は思う。

少なくとも僕やK氏はしなかった体験だ。

体験なら何でもしとくべきかと言えば答えはノーだが。
本人が本気でしてみたいと感じることについては、やはり体験してみるべきだろう。
やるからには全力で勝ちに行く、全力で楽しみに行く。

そういう体験の積み重ねの先に仕事ってあるべきだろう。

まあ、そんなこんな。


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2019年01月01日

ちょろり草は終わるのか、毎日になるのか。

平成が本当に終わるということを大晦日に知る。そろそろ終わるということは知っていたが四月までで終わるなんて具体的に決まっているなどとは知らなかった。
ニュースも見ないと。

別に狙ったわけじゃないけれど、ちょろり草も平成の終わりと一緒に終わるのかもしれない。
実質2018年はほとんど書かなかった。

ブログも長く書くと愛着が湧く。
かれこれ10年以上日記を書いた。
ちょろり草の前にも書いていて、最初は確か高校生の頃だった。ちょろり草の最初の記事はスマートフォンからの過去ログからは開けないほど古いが、その前から日々書いていた。

何のために日記を書くか。
一口に言えば王様の耳はロバの耳だろう。
別に悪口を書くとかいうわけではない。
日々生きていると思うことがある。しかし、それを全て口に出して人に話すことは出来ない。誰かに話すべきことじゃないってのもあるし、単純に物理的に不可能だということだ。
歩きながら考えついたことを延々と書いてみるという実験をしたこともあった。その頃はツイッターなんかも流行り始めた頃だった。

元々は小説の練習のため、ネタ帳的なものだった。
小説も書かなくなった。
最近は仕事の自転車関係の文についてはほぼ毎日書いてはいるものの、何とも無味乾燥でつまらない気がする。自転車に関する情報という意味ではある程度の意味はあるのだろうが、文章として面白かったり美しさがあったり、思想があるかっていうとないだろう。
数年もすればAIでも書けるようになるかもしれない文章とも言える。
その点、ちょろり草は未来永劫AIには書けない文章だろう。

王様の耳はロバの耳。
この話は元々は、神様の呪いでロバの耳にされた王様。王様の耳のことをしるのは行きつけの床屋のオヤジだけ、必ず秘密を守るよう約束するが、床屋は心にしまった秘密を我慢出来ず井戸に向かって叫ぶようになるのだが、井戸を通じてみんながそれを知ってしまう。耳の秘密を知っていたのは床屋一人だけなので王様は床屋を殺してしまおうかと考えるが、許してあげることにした。みんなの意見が聞けるよう大きなロバの耳になっているのだと打ち明けた。すると、その寛容の精神を神が認めて呪いを解いてもらえてめでたし、という話だ。
井戸じゃなくて穴を掘って叫んだが、その近くの葦が「王様の耳はロバの耳」と歌うようになって知れ渡るなどのバリエーションがあるようだ。

本来は寛容の精神のお話みたいなところだ。
ただ、このロバの耳の話っていうのに関して僕はしみじみ思うところある。

大人になるにつれて僕らは言葉を発さなくなる、そんな風に僕は思うのだ。
子どもなら王様の耳はロバの耳なんて気にせず叫ぶか、別に誰かに言いたいとも思わずコロリと忘れてしまうだろう。
大人になるほどにロバの耳のような問題が増えてくる。
正しいことを正しいと言えなくなったりする。
童話つながりだと裸の王様だろう。王様は裸だって叫ぶのには勇気がいる。
口にしてはいけない秘密や、言葉にしてはいけない考えみたいなのが増えてくる。

そういった言葉にしない方が良いことを口に出さず、言葉にせず、考えず。
そうやって生きる方が人生は楽チンだ。

でも、それをやってると世界は滅んでしまうだろう。
暗黙の多数決ってのがある。
基本的に今の世界は多数決だ。多数の単位は何人かじゃなく、権力やお金なんかも含めた力の強さだ。
少数派が声を上げてもいかんともしがたい。
昔はデモとか学生運動なんかがあったそうだが。

平成がいつ終わるかも知らなかったくらいなので、最近は本当にニュース、政治などさっぱりなのだが、安倍首相がトランプ大統領と仲良さそうに映っているのを見ると、詳しいことは分からないが、なんかこりゃヤバイんじゃないかなって思う。
中国がスーパーパワーを持ち始めて、世界に不穏な空気が出ている中で、原発も吹き飛んだし、アメリカさんに助けてもらうために、これまで以上に媚びないといけないとかの理屈は分かるが、それって本当に大丈夫なのかって話だ。
多分、多くの人がそういうのって思っているだろう。もちろん、政治に関する考え方って人によって違うから、安倍首相が好きって人も中にはいるだろうし、トランプさんが好きって人もいるだろう。

こんなこと言うとアホかって思われるかもしれないが、トランプ氏と安倍氏はとにかく顔が悪い。トランプ氏なんか赤いネクタイなんか付けるからますます際立つ。
テレビでもインターネットでも、その二人が握手したり仲良さそうに立っている絵が、もう何とも駄目なのだ。
それが何と我が国の代表なのだ。

顔や見た目で人のことを判断しちゃいけないとはいうが、北の将軍様もやはりビジュアルは良くない。一目見て、「あ、なんかヤバイやつだな」ってなる。
ヨーロッパの国の代表なんかって割とみんなキリッとしている気がする。そりゃ、ブサイクも中にはいるかもしれないが。
昔ドイツが暴走していた頃、ヒトラーも写真をちょっと見ただけで、「あ、このおっさん目がなんかヤバイな」って感じだ。

顔で政治をするわけでもないが。
それでも、学者なんかと違って政治家って人の心を掴めないといけない。
やっぱりブサイクとかヤバイ顔って駄目なんじゃないかと、個人的には思うわけだ。

そりゃ、顔、風貌だけで選挙を決めるわけにもいかない。
ただ、やはり首相なんかは国の代表、それこそ顔なわけだ。
安倍氏とトランプ氏の並んでる絵なんか見ると、「ああ、あそこの国とはあまり関わりたくないな」って思うんじゃないだろうか。
北の将軍と三人揃ったら、絵だけ見れば何だか気が合いそうではないか。

首相以外なら良いが、首相に関しては容姿ってもう少し小綺麗な紳士がなって欲しいと思う。
もちろん、きちんとした政治ができる人が一番ではあるが。
少なくともアホみたいな似合わない赤いネクタイをしめるような男が僕らの代表にはならないで欲しいとは思う。
別にアメリカが嫌いとか、アメリカに媚びるのがどうとかは思わない。大抵の国はアメリカさんと良い関係で世界を渡り歩きたいのだから。

それでも、仮にの話だが。
北の将軍様が物凄い渋いイケメン紳士で国民が植えていなかったら、世論ももう少し違ったようにも思う。

もちろん、政治は顔でするものではないのだけれど。

ーーー

そんな政治の話は置いといて。
そういう話って日記ではダラダラ書けたって、誰かに対して話すってのもはばかられる。

当時高校生だったり、大学生だったり、プー太郎だったり、旅人だったりした僕は思ったものだ。
大人になるにつれてみんなが言葉にしなくなることを、正しいと感じる正しいことを自分は考えていこう、と。
マジョリティー、マイノリティー関係なく、自分が思うことを大事にしよう、と。

ーーー

はて、じゃあ、平成が終わるのと同時にちょろり草が終わるってのはどうなんだ?という話でもある。

本音を言えばよろしくないと思う。
ちょろり草とは不滅であるべきだ。
読む人がいようが、いなかろうが。

しかし、日記とは日々書いてこそだろう。

はれときどきぶた、という童話があるのだが、この主人公も日記を書く。未来のことを日記に書く。でたらめなことを書くとそれが現実になってしまう。
小さい頃に母が買ってくれた本だが、非常によく出来た作品だったと思う。

多分、僕の勘違いだろうが、その中で日記とは毎日書くものだみたいな記述があったような気がしている。多分記憶違いだろうが。

何にせよ、最近は全く書かなくなったが、日記とは毎日書くべきだというのは僕の中では大事なのだ。

対照的に糸井重里氏のほぼ日、ほぼ日刊糸井新聞は、これ、まあ実に上手いタイトルである。
ほぼ日刊。
実に甘美な良いタイトルだと思う。
現実として毎日ってのは無理なこともあるが、ほぼ日刊というのは実に良い。

日記絡みで言えば、森博嗣氏のモリログアカデミーというブログも良かった。書籍でも出ている。
森博嗣氏はスカイクロラが映画化されたのが有名だろう。どのシリーズも結構ハマる。当時は名古屋大学の工学の教授をしながら小説家もしていた。
モリログアカデミーの素晴らしい点は本当にただの日記なのだ。最初に最近の原稿の執筆の進捗の話で、あとは大抵は愛犬と鉄道模型なんかの話が多かった。その後、その日考えたことなんかを書いている。はっきり言って僕は犬なんかどうでも良いし、鉄道模型もさっぱり分からないのだが、淡々とした日記が何だか心癒された。
淡々とした日記ってのは良い。

ーーー

最近の僕はどうも文を書いたり読んだりする時間を上手く作れない。
店長さんになって一年目だったということもあろう。
ただ、書斎に1時間こもって机に向かうという時間がうまく作れないのだ。よろしくない。

2019年はちょろり草が終わるのか。
はたまた書斎に1時間こもれるようになって、再び毎日書けるようになるのか。

誰かと暮らすとは難しいものだ。
それでも、朝少し早く起きれば1時間くらいは作れるだろう。
僕は朝起きるのが嫌いなので難しいだろうが。

それでも、30代になっても一日の中で自分の時間を作れるかってとても大きな課題だと思う。別にその時間の中で他の人から見れば特に大したことをしていなくたってだ。自分にとって大事な時間というのを1時間は難しくとも30分で良いから作る。
人と暮らすようになろうが、旅に出ていようが、子供が生まれようが。
どんなときにでも一日の中に自分の時間を作る。
もちろん、家族は大事にしながら。
今年の課題である。

ま、そんなこんな。


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2018年12月27日

自分だけのための人生の墓場。

アフリカに行ってからどことなく老けたような気がする。単純に燃え尽き症候群だろうか。それでも、とにかくあまり物を考えなくなった。仕事が忙しくなったというのもあろう。人と一緒に暮らすようになったからということもあろう。

一つ大きいのは人目を気にして文を書かなくなったということだ。
仕事関連の無感情な文、自分にとって不利になるような文を書かなくなった。つまりは思想的な文や批判する文だ。

利害的なものもあるが、批判できなくなったということもある。
かつて自分が批判していたような人間に自分もなった。まるきり全てではないにせよ、まずあまり戦わなくなった。かつては戦ってナンボみたいなところがあったが、今はそういうのがなくなった。

みんなそれぞれ色々ある。
そう思うようになった。

日本は良くないとか、今の社会は良くないとかって素直に思わなくなった。
じゃあ、良いと思うようになったかと言えばそうでもない。
でも、みんなそれぞれ色々ある。
あと、僕も何だか忙しくなった。

忙しくなったとは言っても、実際何か大したことをしているかと言えば、昔の方がよほど大したことをしていた気はする。
どちらかと言えば雑事に追われている。
例えば飯を食うにしても、昔は自分一人の飯だったのでモヤシを炒めるか、カレーを作るか、チルドの餃子を焼くかくらいだった。自分は今もそれで構わないのだが、一緒に暮らす人もそれで良いというわけにはいかない。料理は半々くらいなのだが、相手が作ってくれれば、きちんと食べねばならない。
パソコンで調べ物しながら、タバコ片手にメモを取りながら食事するというわけにもいかない。掃除、洗濯にしてもそうだ。休日にせよ何にせよ、自分のためだけに全てを使うとはいかない。
特に調べ物、書き物という点では人と暮らす、誰かと生きるってのはデメリットが多い。
書くっていうのは膨大な時間が必要だ。今夜のように寝付けなくて深夜まで一人で起きているという日でもなければのんびり文も書けない。一緒に暮らしているのに毎晩そういうわけにもいかない。
当然、飲みにも行きにくい。飲みにいかないといろんな人と話したり眺めたり出来ない。

じゃあ、今の暮らしが良くないのかと言えば、そうでもない。

結婚は人生の墓場とは言うが、たしかにそうかもしれない。一つ目の墓場だろうと思う。自分のためだけの自分だけの人生が終わる。
誰かと生きる人生が始まる。

誰かと生きていて何か良いことがあるのかと言うと、寂しくない。
少なくとも文を延々と書かないとやりきれないような寂しさはない。
そうは言っても、それで何か生産になっているかと言えばそうでもない。
子どもを作れば未来を作ることにはなるが、とりあえずのところはまだ予定はない。

子どもを作るっていうのは、ある意味便利なことだなと思う。
もちろん大変なことだけれど、とにかく子どもを産んで育てる、これだけで人間として価値がある。生き物として価値がある。
非常にシンプルだけれど、生き物としては一番意義のある行動だ。

しかし、誰かと生きる人生、子どもを育てる人生となっても、自分のための人生ってのは完全に消失しない。結婚は人生の一つ目の墓場ではあるが、結婚しようと何をしようと死ぬまでは自分ってのは自分なのだ。自分のために自分が何かをしてやらないといけない。
やはり自分のための時間、活動ってのは何かしら確保しないといけないだろう。

アフリカで価値観が広がり過ぎたのかもしれない。
人間とは人間なのだ。
生きていれば生きた人間なのだ。
何も理解できていない気はするが。

ま、そんなこんな。


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2018年12月23日

時々、なぜこんなところにいるのだろう、という気持ちになることがある。

時々、なぜこんなところにいるのだろう、という気持ちになることがある。
群馬県だとかの土地の話ではない。人生の場所という意味でだ。
じゃあ、どこにいれば良いのか、いたい場所なんかがあるのか。

ひどくつまらないような気持ちになる。
昔はもっと楽しいことがあったような気がする。
実際には多分昔もそんなに楽しいことなんてなかった。
或いは今もそんなにつまらないわけでもないのかもしれない。
そう、別に何も悪くはない。

ベルリンの友人のことを考える。
別に立派なことをしてるわけでもない。ヒッピーみたいな具合で転々と生きているだけ。今は偶然ベルリンにいる。もしかすると、ずっとベルリンにいるのかもしれない。
異邦人として生きる。
多分、大変なことだろう。彼は大学も出ていない、本当のフーテンだ。アメリカに住む友人もいるが、そちらは大学を出て日本企業の現地駐在員としてアメリカに暮らしている。賢いのはきっとアメリカの方の友人だろう。
少なくとも僕よりは賢いし立派だ。

それでも、不思議とベルリンの男ってのは心捉えるものがある。
何をして生きてるんだか。異国には焼き鳥族ってのがいるのだが、要は留学なんかで行ったは良いが勉強についていけなかったり、夜遊びばかりに走って、結局日本料理店で焼き鳥を焼くアルバイトをして、言うなれば海外でフリーターしてるような人だ。ベルリンの彼は言うなればそういう焼き鳥族の一種なのかもしれないが、かと言って単純に学生時代の焼き鳥族でも、ワーホリ焼き鳥族でもない。クリーンさがないのだ。
もしかすると、お酒やマリファナだとかのやり過ぎで頭がラリってしまっているだけなのかもしれないが、なぜかベルリンの男は心に掛かる。
ミュージシャンでもアーティストでもない。
フーテンとは言っても別段放浪し続けてるわけでもない。

なんていうか彼は本当に一人きりで異国で遊び続けているのだ。
ただ、楽しいことを求めて。

いや、実際には近年、彼が何をしてるんだか分からない。
案外、言わないだけで大きなビジネスなんかしてるのかもしれない。実はすこぶるカタギな生き方をしているのかもしれない。
可能性はゼロではない。
僕も歳を取ったみたいに、彼も歳を取っているかもしれない。
僕がどうしてこんなところにいるんだろうと感じるようになったように彼もそんな状況にいるのかもしれない。

昔は友人で誰かすこぶる売れる映画でも発表して有名人にならないかな、なんて思ったり、スーパーミュージシャンやすごい画家になるやつが現れないかななんて思ったりした。
でも、最近はあまり思わない。
映画監督を目指していた男がいて、彼の場合、今もプロで映像屋をしているので、ふとヒット映画を出したりする可能性もゼロではないが。
もちろんそうなれば嬉しいは嬉しいのだが。

何というか。昔と違って、社長になるやつがいても不思議じゃない年齢になった。年収一千万円オーバーのやつがいても別に不思議じゃない歳になった。
何千万円だかの住宅ローンを組んで家を建てるやつがいるのも普通の年齢。
誰かが不意に大ヒット映画を作ったって、まあ、すこぶるすごいことだし、とても嬉しいことだけれど、なんというか有り得ることのように思えてしまうのだ。

なんて言うか出来ることが増えてしまって逆に夢がない年齢になってしまったのかもしれない。
自転車世界一周だって、やってやれないことはない。別に僕に限った話じゃなくて、自転車なんて全くの素人でも出来ないことはない。資金を集めて、年月を費やす覚悟とヤル気があれば誰にでも出来る。それこそ、先日、世界一周した人は今は再び南米を走っているが、元々は自転車なんて全くの未経験の人だったという。
南極点だって、本当の本当にヤル気になれば誰でもチャレンジは出来る。
大人ってそういうものだ。時間もお金もある。何よりも自分のことを自分で責任を取る。子どもと大人の違いはそこだろう。だれかに責任を取ってもらうとかってない。だからこそ、出来ることは増える。

でも、出来ることは増えたのに、やれることは随分と減った。
例えば明け方まで納得が行くまで文を書き続けるということ。昔はいくらでもやったけれど、今はやれない。もちろん、出来なくはないはずなのだ。
しなくなったとも言えなくもないが、やれなくなったっていう方が正しい気がする。

さらに歳をとれば家族が出来たりとかってのも出て、またやれなくなることは増えるだろう。
家族が出来るのは素敵なことだけどね。

どうしてこんなところに来ちまったのか。
じゃあ、どこに行けば良かったのか。
そんなにそこは良くないところか。
別に悪いところじゃないさ。
でも、どうしてこんなところに自分はいるのだろう。
そもそもここは一体どこなのだろう。
別にそんなことを知らなくても明日は生きていけるし、きっと知らない方が良いのかもしれないし、知ろうともしないのかもしれないけど。
どこだか、どんな場所だか知らないけど、どうして僕はここにいるんだろう。

昔は自転車で旅に出れば全てが解決したけど、多分、しばらくはそういうことでは何も解決しないんだろうな。

まあ、そんなこんな。


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2018年12月11日

野球の夢。

悪い夢に目を覚ます。
野球の夢など見るのはいつ以来だろう。
なぜか甲子園出場していて、僕は控えの捕手なのだが、突然、代打で出ることになり、そのまま捕手として守備に出ることになった。捕手として出る公式戦としては初試合らしかった。
しかし、プロテクターが見付からない。
「オーケー、オレが少し行って時間を稼ぐよ」
と言って友人が肩慣らしの間だけ代わりに出てくれた。しかし、僕のプロテクターは見つからなかった。

高校生の頃に野球を辞めた。小学校一年生からしていたのだが、高校一年の頃、勉強を理由に辞めた。実際、その頃の僕は医者になりたくて熱心に勉強していた。医者を目指すとなると、野球部の朝練、毎日の午後練をして七時半に帰宅してから3時間程度の勉強は必要だった。そして、また六時過ぎに起きて朝練に行く。12時に寝るとしたら、本当に休む暇なく野球をしているか勉強しているかになる。
これだけ強靭なメンタルで練習しないといけないのに野球部は弱かった。進学校の野球部とはそんなものだ。
一年の夏に辞めた。

一口に言えば、その野球部は練習時間が長過ぎか、或いは学校の出す課題が多過ぎだった。
僕のクラスは三年になると、いつも何人かが勉強のし過ぎか、勉強のプレッシャーでメンタル的な理由で休んでいた。ちょっと病的に勉強を詰め込み過ぎだった。

そう考えると合理的な理由で辞めたと今でも思うし、納得もする。
ただ、現実問題としては、僕は医学部には入れなかったし、大学も卒業しなかった。

夢から覚めた時に、ひどく心が痛んだ。
野球をしていると、ひどく緊張することがあった。チームスポーツに共通のことかもしれないが、プレーが回ってくると緊張する。失敗すると負けてしまう。
でも、試合で活躍したい、良いプレイをしたいからこそ練習もするので、試合でプレーが回ってくるっていうのは本来的にはゴール、目指すべきポイントの一つのはずなのだ。
多分、性格が出るのだろう。先頭打者ってのは気楽だ。みんなの期待がある。ノーアウトからランナーが出ると有利だ。でも、ノーアウトからランナーが出る確率ってそこまで高くはない。打率三割のバッターなら、フォアボールを入れても出塁率五割となればかなりの良いバッターになる。そもそも打率三割ってのはかなり良い。
良くて五割。期待はされるが、出れなくたって、ああ、残念で終わる。
リスクのない活躍のチャンスだ。
対して三番、四番は厄介だ。ランナーがいればホームに返す仕事になる。ツーアウトランナーなしでもホームランが狙えるバッターなら期待は掛かる。特に四番は後がない。三番は後ろに四番がいる。
バッティングはまだ良い。成功率の方が低いという前提だ。
守備はそうはいかない。ヒットの当たりは仕方ないにせよ、普通の打球はアウトにして当たり前なのだ。
そして、バッティングは自分が失敗しても誰かが入れてくれる。即負けにつながるわけじゃない。
しかし、守備は自分が失敗すると点になる。これは負けにつながる。特に外野手はミスが許されない。一発で点につながる。

野球では投手と捕手っていうのはとても特殊で、圧倒的に長時間ボールを持つことになる。
基本的に痛い。
投手は肩が痛くなるし、捕手はキャッチングを失敗すると指が痛い。
どちらかでも悪いと試合は負ける。

まあ、どこの守備位置も緊張感がある。
チームスポーツってそうだ。自分のミスでチームが負ける。
逆はない。自分の活躍だけでチームが勝つってことはないのだ。チームがつながって初めて勝ちがある。

起きた時の不快感はそういう緊張感のせいもあったろう。久々に味わう緊張。
そして辞めてしまったということ。
そのことにいまだに罪悪感を持っている、まさか10年以上たって夢に見るとは。

たらればを話したって仕方はないが、野球を続けていれば僕の人生は違ったんじゃないかと思うことはある。
医者にはなれなかったにせよ、大学は出れたと思うのだ。野球という集団に属して、人からはみ出ることなく生きていけたんじゃないかと。
多分、こうして文は書かなかったろう。
書く時間などなかったろう。
書く時間を取ろうとも思わなかったろう。
でも、多分、それなりの大学に行って、それなりの企業に勤めて、それなりの生活をしていたんじゃないかと思う。

逆に野球をしていたら、あの頃辞めていれば良かったと思っただろうか。辞めていれば医者になれたかもしれないのに、と。
結果論ではあるが、野球を続けていた方が勉強はしたような気がするし、医者にもなれたかもしれないとは思う。

たらればを言っても仕方ないが、結果は今の通りだ。
少なくとも野球を続けていたら今みたいな暮らしは無かったろう、良くも悪くも。

ただ、夢の中でもう少し良いプレーは出来たかもしれない。
あまり意味はないかもしれないが。それでも、僕は夢の中だけでも良いプレーをしたかった。

ふと一度だけ出た高校の公式戦を考えた。一年生大会というやつだ。
一回戦から強い高校とぶつかって負けた。
その時、相手のランナーにやたらと盗塁された。足も速かったし、投手が牽制、クイックモーションがロクに出来なかったせいもある。ただ、その事を考えると、タイムを一度取って、投手や野手に牽制の練習をさせれば良かった気がする。高校野球の弱小チームと強豪チームの差は残酷なまでに厳しい。だからこそ、勝ち負けは仕方ないと思い切って、今後の試合のために思い切って牽制の練習を投手と野手全員に実践の中でさせるべきだったんじゃなかろうか。
そうやって開き直ってしまえば、どこかに勝ちを掴むための糸口が出来たんじゃなかろうか。勝てなくたって投手を実践の中で成長させる何かがあったんじゃなかろうか。
勝ちを諦めるのは良くないとは言えど、試合の中で何かを掴むっていうのは大きい。
捕手っていうのはタイムをかけてそういう指示を出せる。
本来は監督が出すべきなのだろうが、監督が生徒に勝ちを諦めさせるわけにもいかない。

少なくともチームの次の試合のための何かを出来れば、僕は野球を辞めずに最後まで続けられたんじゃなかろうか。

続けたところで何があったというのか。
そもそも、今の暮らしだって気に入っている。
楽しい。
嫌なことも少なくないし、給料も休みも少ないけど、好きな事を仕事にするのは生き甲斐みたいなものを感じる瞬間がある。

それでも、夢の中でもう少し良いプレーが出来たんじゃないだろうか。
少なくともプロテクターを付けて、グラウンドに立って試合に入れたんじゃなかろうか。

ひどく寂しい、悲しい夢だった。
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2018年12月02日

ダメな人間ってのがいるものか考えたりする。

ダメな人間ってのがいるものか考えたりする。
どうも自分にはリーダーシップがないらしく、部下がどんどんと仕事をサボるようになっていく。当人たちはサボっている自覚はないのだろう。
基本的には、「それは私の仕事じゃないですから」「○○さんはしてないのに私だけしないといけないんですか」みたいなフレーズになってしまう。こうなると僕はもう諦めてしまう。
すぐ諦めるのは悪い癖なのだろうが、昔、勉強していた時に分かったことがあるのだが、出来ない人間はどうあっても出来ないのだということだ。別に勉強が出来ないからって駄目ってことはない。
ただ、出来ないものは出来ないのだ。なぜ出来ないってマインドセットが出来ないからだ。

僕は芸能人の顔と名前が全く分からない。目の前に明石家さんまがいても分からない。特に今はテレビ自体見ないので、誰が有名なんだから名前すら分からない。一口に言えば興味がないのと、必要性を感じないからだ。
芸能人の顔と名前は分からなくても今のところ困ってはいない。
興味と必要性を感じるのに出来ないことと言えばジャズギターの演奏だ。これに関しては僕は興味もあるし、必要性も感じている。ジャズが出来ればやはり人生楽しかろう。
なので勉強してみたし練習もしてみたのだが、ジャズギターはさっぱり分からない。
要は出来ないものは出来ないのだ。

恐らくジャズギターを出来るようになるためには、まずバンドを組む必要がある。ジャズじゃなくて普通のバンドでも良い。そして、楽曲をいくつかこなさないといけない。そうして誰かと合わせる、一曲を誰かと演奏しきるっていうやり方を知らないといけないのだろう。恐らくそのためにはコードをつまずかず弾けたり、ちょっとしたソロを取れたりしないといけないのだろう。そこからジャズバンドとかに入って自分に必要なスキルみたいなものを感じて練習していくのだろう。
要は環境が作れないから出来るようにならないのだ。

重要なのは環境を作れる能力があるかどうかだ。

最近は珍しくロードバイクのレースのトレーニングなんかをしている。
これは環境があるのだ。
以前いた店よりもお客さんがレースに興味があり、高額な車体にも興味があるし、早く走れるようになる方法を知りたいと思っている。
こうなると自分もいくらか速く走れた方が良い。最速まで言わずとも、ある程度、少なくとも一般人には程遠いレベル、実業団レーサーにヤバイと思わせられるレベル、自転車屋の店長ってのも大変なのだ。
何にせよ、そういう環境にいると、日々トレーニングをする必要性、興味、そして速くなるための環境みたいなものがある。
次の春くらいまでにワンランク速くなるだろうと思う。
別に速くて偉いわけでも何でもないが、やはり職業上、遅いよりは速い方がいくらか良いことはあるだろう。

小説に関してはどうだろう。
出来ない人間なのだろうか。
小説が書けるか書けないかって、読みたいものを理解する力だと思う。自分はこういうものを読んでみたい。こんな小説があれば良いのに。
自分自身の読みたいものに限らず、多分こういうのを読みたいって感じる人々が世界にいるんじゃないだろうか、っていうところまで拡張出来れば良いのだろう。はたまた、世界にこんな小説があれば良いのにと思う力だろう。
最近の僕にはそういうのがめっきりない。
偶然、当たる面白い読み物、作品というのはあるにしたって、どうも声が聞こえない。人の心が見えない。

昔はもっと人の心が見えた気がする。こういうことをすればどう思われかみたいなことを考えていた気がする。
歳を取ると、特に男の人って横柄な態度を取るようになる。接客業をしているとよく思う。仕事なんかでは謙虚なのかもしれないがプライベートに関しては男の人は歳を取ると横柄になる。特にサラリーマンの人はそうだろう。経営者の人とかって意外とそうでもない。まあ、いついかなる時も会社の看板を背負って生きているわけだ。どこそこの会社の社長が非人道的な振る舞いをした、などとなれば会社の評判が下がるし、それはイコール自分の財産が危うくなることだ。それに経営者とは人を動かしてナンボだから、やはり人に対する接し方みたいなものは洗練されたものがあるのだろう。

はて、ダメな人間。
別に成功者と呼ばれる人が良い人間というわけでもなかろう。それにしたってダメな人間とは何ぞや。
生きてればいろんな人からいろんな評価をもらう。
良い評価ばかりじゃないし、悪い評価ばかりでもなかろう。
悪い評価が多いからダメな人間かと言えばそうでもなかろう。

最近、僕にはエリキムエンダというアフリカ人からお金かしてとよくメールが来る。エリキは非常に良い人だった。なんと親切で素晴らしい人間だろうと思った。アフリカの小さな村のオートバイのメカニックなのだが、当然と言っては失礼だがお金はないだろう。彼はその村で非常に僕に親切にしてくれた。僕は感謝の気持ちに彼に何か礼がしたかったし、その頃、毎日ギブミーマネーと人々に言われていたこともあって、彼に少しチップをあげたいと思ったのだ。しかし、彼は断った。それどころか朝ごはんやジュースなんかをご馳走してくれた。村のジュース屋さんには冷蔵庫によく冷えたマンゴージュースがあった。その辺で拾ったマンゴーをしぼっただけのものだろうが、これがすこぶる美味しかった。アフリカの村ではコーラを買うにしても冷蔵庫がないことも珍しくない。エリキは村を案内してあげようと言い、一周することになった。普通の民家のようなところに入る。土を固めたような壁の立方体の空間の中にプラスチックの椅子が三脚ほど、そして冷蔵庫があった。エリキは女の人を呼び、そして冷蔵庫からマンゴージュースを出してくれたというわけだ。エリキの知人の家なんだか、それとも村のジュース屋さんだったのか。恐らくジュース屋さんなのだろう。エリキの知人、普通の人が家に自前のプライベートな冷蔵庫を持っているとは考えにくい。
エリキに何があったんだか分からないが、僕が日本に帰ってしばらくして、エリキはダルエスサラーム、タンザニア最大の都市に住むようになったらしい。ダルエスサラームはアフリカの中では巨大な都市だ。中心部にはなんのビルだから詳しいことはよく分からないが、ドカンと明らかにアフリカらしくないビルが建っている。先進国のビルと変わりない。そのエリア以外にもビルはあるが、ビルというよりは日本だとボロい団地みたいな建物だ。アフリカらしくない綺麗なビルには国連の何だかが入っているとか何とか言ってた気がする。
それでも、道路の真ん中に謎の穴、僕は初日からその穴に片足落ちて大怪我しかけたりしたのだが、そんなのがあったり、少し離れれば、ああ、アフリカではある。そうは言ってもダルエスサラームは飛び抜けて大都市である。アフリカとは僕ら日本人の想像を越えてアフリカである。

さて、エリキ君は冷蔵庫がないのも当たり前な感じの村、実際、その村に泊まった夜は停電で電気がつかなかったのだが、それがなぜだかダルエスサラームに行った。
かつてはチップどころか朝飯代すら受け取るのを拒否した男がなぜかギブミーマネーになった。プリーズヘルプミー、アイスタートスモールビジネス、アイニードヘルプ。みたいな具合である。ちなみにこれはエリキに限らずアフリカで知り合って連絡先を交換した人からはぽろぽろ来る。基本的にみんなスモールビジネスを始めたいから少しお金支援してと言ってくる。1000ドルからスタートして500ドル、ほんの少しで良いからとお願いしてくる。じゃあ30ドルくらいなら良いよ、で、どうやってお金を送れば良いの?となったところで基本は終わる。ウェスタンユニオンの海外送金を使ってくれと言ってくるがやり方もよく分からないので、分からないと言って終わる。
実際50ドル程度なら支援したって良いと思っている。世話になった。50ドルというと僕ら日本人には、まあ、少ない金額だ。世話になった人が困ってるならあげたって構わないと思う金額だ。
ただ、タンザニアの地方の人にとっては半月から一月の稼ぎに近かったりする。少なくとも50日毎日ビールを一本ずつ飲める。僕ら日本人にはビール一本じゃ物足りないが、彼らの収入だと1日に何本もビールを飲むって簡単じゃないように思う。まあ、人によるのだろう。実際、村でビールをご馳走してもらったこともある。
そう、お金があるときには人にご馳走するのも、お金がないときに人にご馳走してもらうのも彼らには自然なことなのかもしれない。
僕はタンザニアのことを深くは知らない。せいぜい一月くらいだ。それもたいていは自転車こいで、飯食って、ビール飲んで寝てただけだ。ちなみにタンザニアのビールは結構美味しい。アフリカの走った国の中ではタンザニアがビールは一位だった。あとはナミビアか。でも、ナミビアと違ってタンザニアのビールは大きかった。バリディ、サーナと言わないとぬるい常温のビールが出て来る。意外と慣れてくるとそれも結構美味いのだが。
その程度しかタンザニアのことは知らない。でも、ダルエスサラームは好きじゃなかった。
何だかスラムって感じがした。もちろん、タンザニアの中では最も大きくて洗練された都市なのかもしれないが。アフリカの首都はどこもそうだったが、貧富の差みたいなものが明確に見えた。村なんかは貧しいのだが明るい。貧乏は身近なものであり、忌み嫌うものでも不幸なものでもなく、普通のことみたいな。貧しさに親しみみたいなものが感じられた。もちろん、大変なのだろうが、悲壮感みたいなのがなかった。
エリキはなぜダルエスサラームに行ったのだろう。

エリキはお金持ちになろうとしたのかもしれない。
裕福な暮らしを夢見たのかもしれない。
それは責められることではない。

お金が欲しい。
でも、働きたくない。

人間ってそんなもんなんだろうか。

ダメな人間とは何だろうか。

ま、そんなこんな。


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2018年11月14日

致命的に腑抜けたような日々。

あまり日記を書かない日々。
日記とは日記であり、雑記であるべきだ。
自転車に関するコラムなんかはあれはコラムであり、やはりぶつぶつと日々のことを綴るのが日記なのだ。

リトルミスサンシャインなんて映画を観た。
特に山場もなく、ドンデン返しもない平和な映画だ。サザエさんみたいな映画だ。
エルトポなんかも観た。こちらは何ともアートな映画。基本的に絵が美しいし、面白い。フランツカフカの城を読んでいるような感覚のする不思議な映画だ。
エルトポと比べるとリトルミスサンシャインは実に平和でサザエさんで面白みみたいなものってないのだが、ここまでサザエさん、平凡を重ねられると、これはこれで一周して良い映画というか。こういう良い映画、サザエさん的良さの作品があればこそ、エルトポみたいなアート映画みたいなのは引き立つのだ。
偶然ながら良い組み合わせになった。

ーーー

虫歯の親知らずは近所の歯医者がヤブと言っては何だが、散々苦戦されて抜き損ねたのを別の歯医者に行くと1分くらいで簡単に抜いてくれたのだが、抜いた次の日から風邪をひいた。
ヤブとは何ぞ。腕が悪いことなのだろうか。いや、腕が悪いのに無理をするってのがヤブじゃなかろうか。抜けないから別の医者に行ってくれっていうなら、コレはまあヤブとは違うような気がする。
それでも、ヤブなどと言ってはよろしくないのだろう。失敗したにせよ、僕のために一生懸命抜こうとしてくれたわけだから。

少なくとも近所の人々で利用する人もいるからこそ、その歯医者は成り立っている。
利用している人々はヤブとは知らないのか。
はたまた偶然抜けなかっただけで、決してヤブではないのか。
もしくはヤブだろうがそうじゃなかろうが、案外それで成立するものだろうか。
何にせよ老人の歯科医が今日までやってきているわけだから、成立してきたわけだ。

僕の働いてる店も、もしかするとヤブと呼ばれているのかもしれない。
ヤブ。

店の裏に公園があり、僕はよくそこでタバコを吸う。
店の中は何となく空気が吹き溜まっているような感じがして好きじゃない。今の店がどうとかじゃなく、学校にせよ、職場にせよ、長時間いる場所ってなんか空気が淀むような感じがして好きじゃないのだ。
あとは風通しの問題か。
夕方くらいにタバコを吸いにいくと老人が掃き掃除をしている。
ーーどうも、ご苦労さんです。
そんな会話をする。老人は元板前で息子はもう40を過ぎていて、孫もいるそうな。
別段、話題などない。
ただ、私の唯一の気楽な話し相手かもしれない。
毎回話題は変わらない。
お仕事お疲れ様です、寒くなってきましたね、若くていいね、いつも働いててご苦労だねといったところだ。
老人のおかげでその公園はいつも綺麗だ。自転車屋と町工場とラブホテルにアパートに囲まれた狭くも広くもない、遊具はブランコと滑り台があって藤棚がある、ゲートボールをしていることもある、少年にサッカーを教える父親がいることもある、不良がたまっているとかはない。昼には公園沿いの道に車を止めてどこかの営業らしいおじさんがぼんやりと黄昏ていたりする。何のためにあるんだかよく分からない、世界から取り残されたような公園だ。

最近の僕も同じような具合で、特に何か意味があるのかと問われると、まあ、ないでしょうね、と答えるような存在になりつつある。
お酒を飲まなくなったので、少し金銭的にゆとりが出来て株なんかを買い足したりすることもある。
何か致命的に腑抜けたような日々。

何かをするってのが偉いわけでもないのだが。

ま、そんなこんな。
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2018年11月04日

親知らずが悪化する。

親知らず事件が悪化している。
抜歯に失敗したところが明らかに腫れてきている。
ーー大丈夫、虫歯じゃ死なない。
それは分かっているし、大して痛みもないのだが。
果たしてオレの体はどうなってしまうんだ、というのがある。

そもそもに病気をしないので、病院などあまり行かない。
それが今年は春に目の横に粉瘤、デキモノが出来て、それを切除しなくちゃいけなくなったりもした。
どちらも命に全く関わらない、言うなれば軽い病気ではあるが、やはり病気は病気で、病気慣れしていないとそんな小さな病気でもショックを受ける。
当たり前だが、自分も生き物でいずれは全ての歯がボロボロになるだろうし、大きな病もいずれかかるかもしれない。

生きるか死ぬかなど考えていた人間が虫歯ごときで遠い未来の病気にしょんぼりするというのも実に変な話ではあるが。
親知らず同様、我慢すればすぐ抜けるというわけには行かず、ぐりぐりねじねじされながら死ぬってこともあるわけだ。

虫歯の治療を受けていると自転車のパンク修理を連想した。
自転車のパンク修理なんてのは、自転車屋さんとしては簡単なものなので、ほいほいさくさくとやってしまうのだが、医者もそうなのだろうか。
人の命を預かっているとは言えど、自転車も遅いと言えど一応は乗り物で事故になれば人の命に関わる。
極論になるが、歯医者の方は命には関わらない分、自転車のパンク修理の方がよほど慎重にやらねばならない仕事ともいえる。

何にせよやはり仕事とは何事もほいほいさくさくしてはいけないものだなと思う。

ーーー

抜歯の失敗から別の歯医者に変えようかとアレコレ調べたりすると。
まあ、歯医者ってのもいろいろある。
出来る限り無痛治療を努力していますだとか、CTを撮れますだとか。
たしかに命に関わるわけじゃないにせよ、歯医者ってのはやっぱり痛いものらしく、あれこれ工夫している。

ただ、虫歯なんぞ結果としては治るのだから痛いのくらいは子供じゃないんだから我慢しろと言われれば、まあ、それが正論ではある。
それでも、あの手この手で宣伝する。
確かに料金が少々高くとも痛みなく抜いてくれるなら迷わずその歯医者にするのだろう。
以前の僕では考えられないが、今の僕はとにかく痛くなくて早く抜いてくれるところならいくらか高くても構わないと感じる。

歯の痛みってのは実にすごいものだ。
絶対死ぬことはないのに。

ーーー

今度こそ医療保険に入ろうかななどと考えたりする。
でも、何だかそういうのってズレてる気がする。
保身に走ることをズレているとかは思わない。
人生って長い。
そりゃ、若い時の方が濃密ではある。年取ってからの百万円と若い頃の十万円なら若い頃の十万円の方が価値がある。年取ってからお金をかけて良い経験をするのも大事だが、やはり若いうちに経験するっていうのは蓄積になる。蓄積されれば一生を通して使える。老後の世界一周も悪くはないが、やはり若い時に多少無理してでもした方が世界は広がると思う。
そうは言っても人生長い。
ぽっくり明日死んでやると言ったって、現実なかなかそうはならない。

ーーー

虫歯ごときで何を考え込んでるのやら。

ま、そんなこんな。


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2018年11月03日

歯を抜く話。

虫歯の治療をしに行ったところが、親知らずで抜くことになったのだが、ペンチみたいなのでつかんで引っこ抜こうとしたところ歯が砕けてしまって難航することになった。
そこからウンウン唸って戦ったが、どうにも麻酔がうまく効かない。そこまで激痛というほどじゃないが、歯医者特有の刺すような鋭い痛みがちょくちょく走る。
結局、虫歯が奥まで進んでいて、神経が炎症を起こしていて麻酔がかからないということで、炎症を止める抗生物質と痛み止めを出されて、また来週続きをすることになった。

歯医者の痛みとは大したもので、全く命に別状はない。本当に放置し続けると虫歯菌が血液に乗って他の病気になることもありえるらしいが。
基本的には死なない。
そのくせ痛い。
粘膜だから痛覚は少ないというのが理屈の上だが、尖った痛みが頭にキンと抜ける。
昔、ヘソをいじり過ぎて化膿した馬鹿な友人がいたが、最後は腹が痛くなって救急で行ったところ太い管をズドンとヘソに刺されて人生で一番痛かった、形容のしようがない痛みだったという。その痛みに比べると歯の治療の痛みなど大したこともないはずだが、キンと頭に抜ける。
痛みが出た後痛いというより、あの痛みが来ると思うと嫌な痛みだ。

死ぬと痛いんだかどうだかということを考えたりもしたが、歯が砕ける程度で痛いんだから、命が砕けるとなるとさぞ痛いのだろう。

歯が砕けて痛がっていると、女の人が優しくなった。鬱病手前の時期もあるが、波があるので落ち着けば何ということはない。
何ということはないのだから、たまに来る波もさほど悩むこと、生きるだの死ぬだの悩むほどのことはなかろうと思うこともあるが、死ぬまでその波乗りを支えると考えるとやはり気のせいではない気もするが、気のせいと感じる時は気のせいだという気で生きてるのが気楽で良い。

そういうことを考えると自転車の旅は生きる力をくれたと感じる。
自転車の旅なんかもしんどい時はしんどい。まともに向き合うとゲンナリすることもある。
結局進むだけ進んで後はなるようになる、そんな感覚ってのは必要だし、やってる内にそういう感覚は身に付いてくる。

死にたいだの何だのの問題は極論すればそこに辿り着く。
考え詰めてずっと先のことまで心配すると、生きているのが絶望に満ちてくる。年金なんかもらえりゃしないだのなんだの。

はっきり言って、今の若い世代はどう足し算しても年金がもらえるわけがない。逆に年金がもらえるとしたら、どこからその金が湧いてくるんだという話になる。
答えは金融商品の運用で湧いてくる。
株価は不思議なもので、膨らむ。
どこから湧いてくるかと言えば人間の期待から湧いてくる。この企業が伸びるだろうという期待が膨らめばそこに投資する人が増えて株価は伸びる。
これは実にヘンテコなことだ。株なんてのは概念だ。それを買う人がいて、売る人がいて、それを買う人がいての繰り返しで勝手に膨らんでいく。
実際にはモノは何もない。
その企業の業績の良し悪しなんて言ったって、結局それもどこかから資源なりを取ってきたものを加工して売るなりで出て来る。
株の成立は大航海時代にある。
一回の航海に出るのに、お金持ちがスポンサーになってお金を出すと、失敗した時に残念なことになる。
それで複数でスポンサーになる。
成功すると配当がもらえる。失敗すると配当はもらえないどころか、追加の資金提供を迫られることもある。
成功を繰り返すと、そこのスポンサーになりたい人が増えて、スポンサー権を売り買いするようになる。
要は手付かずの財宝を探検に出掛けるという前提があって成立していた。
現代はそういう手付かずの財宝はないので、本来的には株価ってのは成立しないはずだが、手付かずの未知のアイディアなんてのも財宝の一種なので成立してはいる。
ただ、そんな風に株価が膨らんでも、実際はただの概念なのでやはり無理があるのが本来だ。
株価の幻想が膨らみ続ける限りは年金も成立するのだが、やはり株ってのはヘンテコなもののような気がする。
実際に年金は破綻しつつある。
株はまだ破綻していないが。

株価の幻想から連想するのはベーシックインカムだ。
衣食住に必要な最低限のお金はみんなに支給しましょ、ってやつだ。
これもまた実に幻想だ。
要は資本主義社会が進んで、格差問題が広がるので、最低限はみんなに保証しますよってわけだ。一生懸命働いた分は贅沢、嗜好品なんかに使って下さいね、と。
ローマで言うところのパンとサーカスだ。貴族は何もしなくてもパン、食料とサーカス、娯楽だけはあげますよ、と。そうしておくと民衆はほくほくして政治の細かいところを見なくなる。愚民政策だ。
年金なんかも月々いくらか納めてくれれば老後バッチシですから、なんて話だが。どう考えてもおかしい。株にしても、膨らむ一方なので大丈夫だよってのはやっぱりおかしい。
現役世代がリタイア世代を支えるための年金制度なんて言ったりもするが、老人が増え続ければ、支えようがない。
支えられている方の老人は仕事がないからといって公園の掃除や駐輪場の整理なんかして暇を潰している。

弱者をサポートするためのシステムは必要にしたって、明らかな破綻は良くない。

年金制度の問題は老人が偉いっていうことだ。
結局、選挙で力を持つのは老人だ。人脈があり、影響力がある。
仮に選挙権は現役世代のみって変われば、年金制度なんかすぐに変更になるかもしれない。

ある程度の弱肉強食、現実の上での優劣は必要なのだ。
そうしないと、馬鹿馬鹿しくなる。
全員馬鹿になれば万事解決。
全員お金持ちになれば万事解決。
そういうのはやっぱり無理があるのだ。

腕のある大工は食えて、腕の悪い大工は食うに困る。
それじゃ、腕の悪い大工がかわいそう。
そんなことを言ってるとどうにもならないのだ。

なんか話がどんどんそれた。

歯の痛い話だった。
いや、別にそんな話どうでも良いのか。

まあ、そんなこんな。


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posted by ちょろり at 22:32| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月31日

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鬱病の女の人と仲が良くて二十代は大学を辞めた。
三十代は一緒に暮らす女の人が鬱になって人生辞めることになるんだろうか。

ただ、そもそも二十代に大学を辞めたのは本当に鬱病の女の人のせいだったのだろうか。単に大学を辞めたことを鬱病の女の人のせいにしてるんじゃなかろうか。
数年ばかり一ヶ月おきに死にたいという話をされるなど、案外、世界では普通のことだったのかもしれないし、普通じゃないとしても、問題なく大学を卒業する人もいるだろう。
単に自分が怠惰だっただけ、あるいは自分にも精神疾患があったのかもしれないし、そのことに答えを求めても仕方がない。過ぎてしまったことだ。
しかし、考えると大学を辞めて南米に行き、自転車旅をしてその問題にフタをしたようなところがある。過ぎたことは仕方がないのだと言って。

人生、各自で自分のことは世話を見ないといけない。
それでも、目の前を通り過ぎて精神を崩壊させる人間を見送る、当人で何とかするより他ないとは言えど、濁流の中で本気かどうかは分からないにせよ助けてくれと手を差し出した人間が渦に飲まれて行く、その手を握れば助かったのかもしれないし、やはり助けられなかったのかもしれない、自分は手を握ってダメだったのだろうか、あるいは握ろうとして握らなかったのか、それともそもそもにその人は手など差し出しもしなかったか、濁流になど流されてもいなかったのだろうか。
その後にその人が死んだという噂も聞かなかったが、目付きがおかしくなるほど薬を飲まされて人間は回復するものだろうか。
最後に聞いた話だと、スポーツカーで男の助手席に乗っていたということだが、女の人は濁流の真っ只中にいた頃も一ヶ月死にたいと言って、一ヶ月ばかり連絡がなくなり、そして知らない男に抱かれていた話をして死にたいと言っていた。僕も知っている男もいたし、出会い系サイトで知り合ったという男もいた。女の人は寂しかったのだ。だれかに抱かれている時だけは寂しくないと感じるのだと言った。だが、肌を重ねた男たちは通り過ぎていった。だれも女の人を助けなかった。
そして、僕も通り過ぎていった。良いことだったのか、悪いことだったのか、肌を重ねることはないまま。

肌を重ねることに関して、セックスに狂った女、いや、狂ってはいないのか、一般的には不特定多数の人間とするのは普通なのかもしれない。彼女は医者をしていた。
この女の人は病んでいたんだかどうだかと言えば分からないにせよ、仕事をバリバリしていた。小学校の頃の同級生で、当時は絵に描いたような優等生、机の中のお道具箱の中は見たことはないが、少なくとも我々男子のお道具箱とは真逆の整然としたものだっだに違いないと断言出来るような、まさに学級委員、実際に学級委員だったか記憶に定かでないが、そういう女の子だった。
それが、まあ、やりまくっていると言うのだ。そういうのをオープンにする。
それが言ってるだけで本当かどうか分からなかったが、確かに容姿に関しては大人になって美しくなっていた。色気があった。やりまくろうと思えばいくらでも相手には困らないような綺麗な女になっていた。
大人になって東京で暮らしている時、ふとした事からその女の家の引越しを手伝うことになった。帰る頃には雪が積もって帰れなくなり泊まらせてもらうことになった。
「いや、君とは友達でいたいから」
「うん、やった相手はもうただのヤリ友としか見えない。クズにしか見えない。別にクズが悪いわけじゃないけど。それで良かったら」
結局しなかった。
その後、多少のやり取りはあったものの、引っ越して遠くなり、それきりになった。

肌を重ねないのが良かったのか悪かったのかは分からない。
僕の勝手な都合の良い思い込みとしては、鬱病だった女の人は僕に対していくらか思うところあったのだろう。
女医の言葉の真偽は分からないが、友達でいたい異性、友人として価値ある人間とはセックスはしないものなのかもしれない。
都合の悪い事実は、単に僕に抱かれるだけの男としての魅力がなかったのかもしれない。

アフリカに行ったことの意味を考えることがある。いや、何度も考えた。意味がなかったとは思わない。アフリカは明確に僕の何かを変えたと思う。根本的に僕の中での世界の存在というのを変えてしまった。貧しさとは栄養失調でお腹のふくらんだ子どもたちや、病気というわけじゃないことを知った。よく写真に出てくるそういった貧困もまた貧困の一つだろう。しかし、明確に貧乏なのだが飢餓に苦しんでいるわけじゃない人がいた。彼らは貧乏で大変そうだったが、明るかった。病気もいっぱいある。安全な水もない。仕事もない。それでも、彼らはみんな明るかった。少なくとも未来に絶望しているようには見えなかった。彼ら自身分かっているだろうが、彼らが裕福になって、お金持ちとは言わずとも安全な水、電気、ガスなどのインフラが手に入る未来は遥かに遠い。子供のうちにかなりの確率で病気にかかって死んでしまうリスクのない暮らし。遥かに遠い。子どもはまだしも、大人にとっては残りの自分の人生と、そういった暮らし、貧しさのなくなる日々までの遠さ、どちらが長いかなど明確に分かってしまう。
それでも、未来に絶望しない。あるいは絶望していながら明るいのか。
確かに貧しさのなくなる未来は来ないかもしれない。ただ、そういうのとは関係なく生きる喜びがある。マンゴーの木を揺らせばマンゴーの実が降ってくる、それを食べれば生きていける、それが美味しい、それは幸福なこと。そういうことなのだろうか。好きな女と結婚し、子どもを産むことが幸福で、その子どもが病気で死んでしまえば悲しいことで、かと言って、その前の幸福は消えるわけではない。そういうことなのだろうか。

何にせよ、アフリカは僕には最初は未知のもので、終わった後も理解は出来ないものだった。
知らない世界が存在していたということだけ分かった。

日本に帰ってくると実に様々なことが馬鹿馬鹿しく見えた。
いろんなことがお利口で、みんなお金をたくさん持っていて、何かにくたびれていて、何かに悩んでいた。少なくとも明るくなかった。
とても奇妙なことのように感じた。
しかし、その違和感も時間が経つと薄れていき、気付けば自分もお利口にお金を持って、くたびれて、暗くなっていた。

一緒に暮らしている女の人は暮らし始めは良かったが、仕事の夜勤で体を壊して仕事をやめ、土地に馴染めず、知り合いも出来ず、一人で家で留守番する日々が続き、また働こうとしたがやはりまた倒れ、一人で家で留守番することでまた心をいためた。そうやって体も心もいためていった。一人で外出するのが恐ろしいと言うようになった。
僕もまたいためていた。
仕事は上手くいかなかった。将来に見通しは立たない。それでも、食うには特には困らない。一緒に暮らす女の人と仲良く、元気に生きていられれば幸せだと思ったが、女の人はどんどんと精神を悪化させていた。

女の人はじきに出て行くだろう。
僕にはもう支えられないだろう。虚しいだけだ。僕が何をしても良くならない。
それでも、出ていけば、多分、女の人は元気になるだろう。きっと土地やタイミングが合わなかったのだ。一人で生きて行くとなれば自由にまた元気で素敵な女の人に戻るだろう。
病気で元気のない姿は悲しい。元気になるなら出掛けるべきだろう。

かつての鬱病の女の人と違うのはそこだろう。昔の人は濁流に飲まれていった。今の人はきっと濁流から解き放たれる。
無責任かもしれないが、そういうのってあると思う。無責任男とでも世間では言うのかもしれない。
だけど、一人で生きている方が向いている人だっている。少なくとも昔と違って今回はきっと僕がいなくなれば上手く行く。女の人は今回も通り過ぎていくけど、濁流からはちゃんと出られる。
女の人にはいろいろ良くしてもらった。楽しかった。素敵な日々だった。でも、自分は何もしてあげられなかった。自分は女の人の人生の時間を無駄に使わせてしまったのかもしれない。申し訳ないと思う。

さて、僕はどうしようか。
何だか僕はとてつもなく疲れてしまった。
女の人を支えるというやるべき事もなくなる。
何かやりたいことがあるわけでもない。
昔、南米に行った時とは違う。あの頃も絶望してはいたが、何かすれば何か素晴らしいところに辿り着けるかもしれないという期待があった。
今は違う。
何かをしたところで、何かにたどり着いたところで、別に僕はもうそこまでたどり着きたいと感じない。期待がない。
今でも自転車に乗ることはある。ただ、それはどこかにたどり着きたいというより、生きていくための心の支えとして乗っているだけだ。自転車に乗っていれば楽しい。世界が美しい。それに励まされる。それで何とか生きてきた。でも、どこか素晴らしい場所にたどり着ける予感はない。

大学を辞めて南米に出発して、今やっと戻ってきたのかもしれない。
世界にはとっても素晴らしいものがたくさんあったよ、美しかった。でも、やっぱり君の生きる居場所はなかったよ。ちゃんと世界のいたるところ、本当に全力で探してきたんだけどね。未来の僕が言ってるんだから間違いない。でも、せっかくだから一度は君も見てきてから死んだ方が良い。別に大学を辞めたって世界の美しさはいくらでも見られる感じられる。一度は経験しといた方が良いさ。

さて、今の僕の方はどうするのか。
もう頑張りたくない。疲れた。
死ぬってのもすごく痛いらしいから嫌だ。痛いのは嫌だ。痛くないなら良いのかって言うと、やはり寂しい気もする。
だれか助けてくれと手を差し出すか。
でも、僕は昔も今も手を差し出す人の手を取らなかった。取れなかったのか取ったけど上手くいかなかったかは分からないにせよ、結果としては目の前を通り過ぎて行くのを見過ごした。最終的に自分のことは自分でするしかないと言った。
寂しい気はするけれど、やはり去るべきだろう。僕は僕を去るべきだろう。痛いのも悲しいのも嫌だけど。

そうは言っても痛いのは嫌だから虫歯の治療をしに行く。
ふと、明日の朝に女の人が元気になって、病気も治っているかもしれない。そうなれば、万事解決する。
そのことを願って虫歯を治す。
生きるか死ぬかどうするか考えてる人間が虫歯を治すなんてヘンテコな気もするけれど。
やっぱり生きていたいのだ。
別にお金がなくても元気で明るければ人間生きていけるけど、元気もなくなり暗くなれば人間生きていけない。
虫歯が治った頃に女の人が出て行くことになれば、何だか勿体無い気もするが。
まあ、その時は自分も世界の虫歯みたいなものだったんだろう、なんて納得するのかもしれない。抜いて捨てるか、削って金ピカの被せ物付けるか。何か僕にも良い金ピカの被せ物はないんだろうか。そんなもの被ってまで生きてどうするんだという気もするが。
生きてさえいれば何とかなるかもしれない。もちろん何ともならないかもしれないが。
生きてさえいれば、ふと次の生きる目標が浮かんでくるかもしれない。それはとても下らないものかもしれない。自転車で旅するなんてのも別に意味があるかどうかと言えば微妙だが、少なくとも僕はその目標でここまで生きてきた。どんなに下らないことだろうが、生きていける。生きてさえいれば何とかなる。先延ばしかもしれないが、それでも何とかなるかもしれない。何ともならないかもしれない。

問題は疲れ果ててしまっていることだろう。
もしかすると、すぐに何かが現れるかもしれないけれど、そのすぐさえ渡りきれるだけの力が残っているんだろうか。
疲れたらごはんを食べて、眠れば良いはずなのだが、どうにも疲れ果ててしまっている。ゆっくりで良いからペダルを踏めば少しずつでもどこかに向かって前に進めるはずなのに、疲れ果てているのだ。
どうしてこんなに疲れてしまっているのだろう。

でも、多分、今回もきっと何とかなるんじゃないだろうか。これまでもそうだったから。死ぬなんて大変だし、何とか生きていくんだろう。


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2018年09月21日

音楽なんかしたいのかもしれない。

最近は何について書こうか、なんて思う。
日記を書いていないようで実は書いてはいる。ただ、最後まで書き切れない。
ーー何だか違うな、そういうことを書きたいわけじゃないんだ。
いつも途中でそう感じてしまう。

日記ってのは難しい。
仕事で店のブログなんかは書いている。これは簡単だ。ブログを書く以外にも自転車を組み立てたり、掃除したり、商品のディスプレイをいじったり、セールの企画を考えたり、ポップを書いたり、接客していたり、イベントを考えてみたり、まあ、あれこれやっているので、なかなか毎日は書けないが、自転車屋のブログっていうのは比較的簡単だ。
商品の話をすれば良い。或いは自転車のコラムを少し書けば良い。
書くべきことが決まっている。
商品の話は嘘は書かずに、誇張せずに、その商品の良いところと、こんな感じで使うと楽しいかもしれないなんてこと、こんな人には良いかもしれないってこと、値段を払うだけの価値があるかどうか、まあ、正直、これはちょっと高いですね、でも良いアイテムだよ、とかね。
お店にはいくらでもアイテムはあるし、それぞれのアイテムごとに語るべきことはいくらでもある。

ーーー

昔、TSUTAYAでジャズのCDを借りて、それをコピーして、ルーズリーフにCDを入れる布を貼り付けて、ジャケットをコピーして貼って、自分で勝手にライナーズノートを書くって遊びをしていたことがある。
まあ、あまり長続きはしなかった。何だかんだ10枚くらいしかやらなかったと思う。
理由は、ひとつに単純に飽き性だということ。
もうひとつにCDをレンタル出来る金があるようでなかったようで、実際にはあるんだけど、何だかいつも貧乏していたこと。
そして、ブログでやれば良いんじゃなかろうかと思ってみたりして、結局、デジタルではしなかったこと。

ノリでCDケースとジャケットを貼る。その前にジャケットのコピーを取りにコンビニに行く。
今になって考えると、面倒臭がりのくせに、多分こういう面倒な手数が楽しかったのだろう。

ーーー

小説については僕はレビューを書くのが下手だ。
その作品について話すってのが下手くそで、例えば安部公房の壁について話そうと思うと、安部公房の他の作品との対比や、シュルレアリスムなのかどうかや、カフカのシュルレアリスムと比較するとどうなのか、そんなわけの分からない方に話が広がる。
まあ、安部公房については砂の女、壁、箱男の三つ読んでおけば良い。他の作品もたいていどれを読んでも安部公房だなという感じで良いのだが。砂の女は完成度が高い。人間の心に突き刺さる。箱男はこれぞ安部公房だ。最高だ。壁は安部公房をバラせばこういうことなんだな、安部公房の作品の根底みたいな感じがする。

ジャズのCDについてもいまいち上手くない。
マイルスデイビスの枯葉の入ったCDに関してはそれを書いた夜のこと、とある秋の夜長の日記みたいな内容だった気がする。ちなみにアルバム名はサムシンエルス。このアルバムは実に豪華なメンバーだ。マイルスデイビスとコルトレーンとビルエバンスと誰だっけ忘れた。まあ、良いや。
はっきり言って、僕は一曲まるっと口でパクパク歌える曲って、このサムシンエルスの中の枯葉と、ビルエバンスのポートレイトインジャズというアルバムの中の枯葉くらいだ。あとはビルエバンスのサムデイマイプリンスウィルカムがほんのり覚えている。昔はもう少し歌えて、夜に一人で親の車を運転しながら歌っていた。
最近はじっくりジャズを聴かないので、歌える曲もほとんどない。
それにしてもサムシンエルスの枯葉とポートレイトインジャズの枯葉については今もちゃんと頭の中で再生出来るんだから、本当によく聴いた。

ーーー

それにしても、改めてジャズという音楽はよく出来ていると思う。
今でもたまにクラシックギターを弾くのだが、昔から弾いている曲数は増えていない。
弾こうと思うと、僕の場合、楽譜がきちんと読めないので、まずとにかく何回も聴く。南米の曲が好きなのだが、リズムが変則的なので、とにかく何度も曲を聴く。
ビラロボスのショーロスという曲が一番好きなのだが、これは本当に独特なリズム感で、多分楽譜のまま弾いても上手く響かない。

クラシックギターという楽器はソロで和音とメロディーが弾ける。
ソロで和音が鳴らせる楽器自体少ないし、和音と同時にメロディーが弾けるとなるといよいよ少ない。ベースとメロディーくらいまでならまだしも三和音以上とメロディーを鳴らせる楽器っていうのは、本当にピアノとギター、あとは鉄琴木琴くらいだろうか。ピアノ、鉄琴、木琴は似ている。ギターは非常にヘンテコだ。右手と左手を使わないと音が鳴らせない。サックスなんかは右手一本でもある程度の音は鳴る。ギターはそうはいかない。左手と右手を同時に動かさないといけない。それなのに、和音が鳴らせる。とてもヘンテコな楽器だ。

クラシックギター、独奏楽器では適当にリズムを揺らすとただの下手くそなのだが、芯を持ってリズムを揺らすのは、これは味があるといえる。
ジャズっていうのはリズムが変則的なようだが、ドラムがいてリズム、テンポ自体はキープされている。
独奏というのはその辺、割と自由だ。

まあ、そんなわけで一曲弾こうと思うと結構聴く。いろんな人のいろんな弾き方をYouTubeで探す。プロからアマチュア、いろんな弾き方を探す。

一人でクラシックギターを弾く時の目的は曲を完成させることではない。人前でノーミスで弾けるようになるための練習ではない。
いかに心に響かせるか、だ。
他人に聴いてもらって、上手だねと誉められたいってのもゼロとは言わないにせよ、多分、僕が誰かの前で弾くことって死ぬまでなかろうと思う。

どちらかといえば、ワンフレーズで良いから気持ち良く響いてくれるように弾きたいだけなのだ。

ーーー

それで譜面を覚えた状態で何度も聴くのだが。
それでも、マイルスやビルエバンスの枯葉みたいに今でも頭の中で再生出来る曲って意外とないのだ。
福田進一氏のシャコンヌに関してはいくらか再生出来る。
本当に音楽が好きな人からはシャコンヌはクラシックギターで弾く必要もないし、バイオリンで弾いているCDの方がよほど聴く価値があると言われたりもするが、なぜか福田進一氏のシャコンヌはよく聴いたのか、よく耳に残っている。

ーーー

ジャズってのは不思議なことに歌える音楽だ。
歌の入っていない曲の方が多いが、しかし、それを鼻歌で歌うと気持ち良い。
クラシックギター曲ってのは口では歌えない。やはりギターで響かせる以外に方法がない。

その点、ジャズってのは実によく出来ている。

あとは、良いオーディオで何回も聞いたからってのもあるかもしれない。
ジャズ喫茶によく行った。
ライブじゃなく、レコードをかけてくれる店だ。CDでかけることも多かったけど。
ジャズ喫茶のおっさんってのは、まあ、マニアだ。ジャズマニア、あるいはオーディオオタク。
オーディオなんてそんなに大して変わらないと思う人もいるかもしれないが、全く違うのだ。
心の底を震わせるような音を出すオーディオってのは存在する。

改めて思えば、昔行っていた店のマスターたちは実に素晴らしい音を作り上げていたなと思う。

ーーー

音楽を聴かなくなったのは、そういうオーディオを聴けなくなったからってのは大きいだろう。

音楽を聴くのが好きな人は分かれる。
演奏する人に多いのは、曲を聴く人だ。
それに対して、僕のような音楽に詳しくない人間は音自体を聴く。気持ち良く体の中に響く音かどうか。
もちろん、最終的にはオーディオ機器の良し悪しよりも、演奏の良し悪し、曲の良し悪しにはなってくる。
ただ、第一関門として、音の良し悪しってのがあるのだ。体の中に響いてくれるかどうか。

ーーー

ただ、音の良し悪しという意味では、昔ギターを大学で弾いていた頃の先輩の音が今でも頭に残っている。
あれはひどく感動した。
今でもどうしてあんな音が出せるのか不思議で仕方ない。そこらのプロよりも遥かに綺麗な音を出していたように思うが、それは思い出を美化し過ぎなのかもしれない。

ーーー

弾くんだか聴くんだか、なんでも良いのだが、音楽なんかしたいのかもしれない。ひさびさに音楽に身を委ねてみたいのかもしれない。

ま、そんなこんな。
posted by ちょろり at 01:40| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年09月16日

ーー書き続ければ良かったのに。僕の知り合いで、細々書いてて、この前当たってドラマになるとかで何千万だか入るって言ってたやつもいるよ…

ーー書き続ければ良かったのに。僕の知り合いで、細々書いてて、この前当たってドラマになるとかで何千万だか入るって言ってたやつもいるよ。
東京から来た陶芸家のオヤジが語る。
ーー何ででしょうね、まあ、書かなくなったんですよ。書けなくなったのかもしれないし。
一発当てるために書く、そんなことを随分前から思わなくなっている自分に気付く。書きたくなれば書く。書くべきものがあれば書く。良いものが書けたと思えば文学賞なんかにも送ってみたって良いが、文学賞云々より前に書ける原稿がない。

昔は文学賞を取って、城崎温泉に別荘を持って愛人を囲うのが夢だった。現実には文学賞を取ったとしてもそんなことが出来るわけでもないのだが。
それでも、昔は小説家はかっこいいと信じていた。今も小説家はかっこいいと思う。やはり文化人、それで飯を食えるほどの文化人というものには憧れはある。ただ、かつてのように盲目に良い小説が書ければ、いくらか金が入って、女にモテるとも思わなくなった。

二十代を酒に金を溶かすような日々を過ごしたせいだか、酒を飲みに行かなくなった最近は金が欲しいともさほど思わなくなった。
大した貯蓄はなくとも、月末に給料日を指折り数えるようなことはなくなった。

時々、飲みに出掛けてばかりいた日々を懐かしむ。
三年と経たずに職を変え、住居を変え、旧知の友に会うのは数年に一度となり。そういったライフスタイルの中では酒こそが唯一の友だった。そうは言ってもあまり飲めない体質なので、大した量を飲まずとも泥酔する。そのおかげか健康も崩さずやっていた。泥酔しては文を書こうとした。
そんな暮らしなので金もなければ異性と付き合うようなこともなく。デートする金がなかった。

気楽で楽しい日々、それを続けていればもしかすると小説家になったのかもしれない。
ほぼ全ての金を酒に溶かして、小説と音楽にふけり、なぜか自転車に乗り続けた。

アフリカを走って、何かが途切れた。
そんな気がしている。
僕は何かに追われていたんじゃなかろうか。

何千万だかの印税収入。
昔なら憧れただろうか。

福生の小説家の先生は今も変わらず飲んでるだろう。
前会った時にはFXで勝つ方法を見つけたと言っていた。
実際、小説家で小説だけで飯が食える人は少ない。あれこれ文の仕事や副収入がないと難しい。
何せ日本はサラリーがないってことにひどく厳しい。収入が低くても結構な金額の税金やら保険やらを徴収される。異国を旅していて困るのがこれだ。異国を旅していて収入ゼロの状態でも毎月保険料や年金なんかが積み重なる。無い袖振れないと言っても、実際には息をしてる限りは明日の食費、家賃くらいは持っているので、そこから出すことになるが、そうなると飯が食えない。これが不思議とどこかから出てくる。親から借りることもあれば、本当に飯を食わなかったり、住み込みで働いて家賃をなくしたり。
毎月サラリーがもらえて、保険や年金の心配をしなくて良いのは随分と気分が楽だ。
その代わりに時間と自由を切り売りしているというだけなのだが。

時間と自由を切り売りして、酒を飲みにいくのをほとんど辞めてしまって、小説を書かなくなった僕と、六十を過ぎて独り身で日々酒を飲んで24時間の区切りなく生きる小説家の先生。
やはり小説家は偉いのだ。
デカダン、頽廃主義とかではなく。
海外ではどうかは分からないが、日本でまともなサラリーマンやるってのは時間と自由を切り売りして税金、年金の心配をしなくて良くなることである。
やっぱりそうなってしまうと、小説家なんてのは難しいと思うのだ。
時間と自由を切り売りして、安心を手に入れるなんて、そりゃ、動物で言うところのサバンナを捨てて動物園に飼われるような話だ。餌も天敵も心配なく、獣医もいる。いかに動物園のオリの中で一番強くなったって、野生に投げ出されたらひとたまりもない。
自分の命を自分でつなぐってのは、やはり生き物としてのベースだろう。
動物園で長生きをしたって、そりゃ、やはり違うんだろう。
それこそ、今、久々に福生に飲みに出てみろ、一晩飲むだけでいっぱいいっぱいさ。
9時過ぎから飲み始めて12時くらいには小説家の先生に捕まって、朝の5時まで転々とチビチビと焼酎の茶割やビールなんかを飲んで、一眠りして10時には仕事に行く。毎日とは言わずとも5回に一回くらいはそうなる。週に2,3日飲んでりゃ、月に2回はそんなことがある。そんなのをスタンダードとして暮らしてるやつと一晩だけにしたって飲めば、そりゃ追い付けない。
酒を飲むのが偉いわけじゃないが、自分の意志で飲みたい時に飲みたいだけ飲んで、話したいだけ話して。
少なくとも自分の時間と自由を、自分の手に握っている人間ってのはやはり偉い。
世間がどうこうじゃなく、飲みたいから飲む。それでいて何とかして今日も生きている。
そういうのって、やっぱり偉いのだ。
偉いなんて言うと上から目線だが、それでもやっぱり人間として偉いっていうのは何なのかと問われれば、何千万円だか原稿料でもらうとか、安定したサラリーがあるとかじゃなく、自分で自分の時間と自由を手にして生きてるってことなのだ。

金になるから何たらをする。
利益になるからアレコレをする。
そりゃ、そういうのはいくらかは必要だろう。税金も年金も保険も払わなけりゃいけない。

ただ、税金も年金も保険ってのは日本の欠点だろうとは思う。
もちろん、税金っていくらかは必要だろうが、毎年、来年の予算確保のために大して荒れていない道路の工事に使ったりするような具合だから、やはり多過ぎるだろう。
年金と保険は任意で良かろう。税金からいくらか医療費を賄うのは良いだろうが。

息をするだけで消える金が高過ぎるのだ。
家賃も食料品の値段も軒並み高い。
給料も高いが。

異国で物価の違いを感じる時にふと思うのが、給料が良くなっても支出も多くなるんだから、意味がないのではなかろうかと思う。
これは国に限らず個人の生活についてもそうで、収入が増えれば支出も増える。

ケビンはニヒリストといえばニヒリストなのかもしれない。
賢ければ賢いほど生きにくくなる人間というのが世の中にはいる。
ケビンの言うことには真理がある。
時間が無限の人間。
現実には全てのものが有限なのだが、無限だと思っている、あるいはそう思っていなくてもそういう行動をする人間が世の中にはいる。
ケビンの定義によれば馬鹿かどうかというのは有限性の問題なのだ。
何事も限られていると言うことを理解して行動している人間か、そうではないか。

サラリーマンが良いか悪いかは分からない。
ただ、そんな具合でオレは良いのだろうか、と思う。
そりゃ、一口に言えば歳食ってしまったんだよ、とも言えるのかもしれない。歳食って保身に走った。

昔いろいろなことを教えてもらったフリーペーパーの編集長さんがいるのだが、彼は人生は有限だということをよく理解していたのだろうなと思う。
今でこそフリーペーパーって普通になったけど、当時はすごかった。ウィンドウズじゃレイアウトを組むにもいまいちで、マックであれこれいじって校正して、自分が書くのもあるが、取材から連載執筆の依頼、配布まで一人でやっていた。
ブログでも金がもらえる今の時代では何ということはないが、当時、ゼロ円で雑誌を配布して広告収入で飯を食うってのを地でやるって相当なことだったと思う。
その人にはそれなりの尊敬が集まり、しかし人々は離れ、変人扱いされ、病気になって離婚して死にかけて、最近、死ぬ間際の最期の頑張りということなのか再びフリーペーパーに取り掛かっている。

成功者、失敗者という区別は変だと思うけれど、小説家の先生やフリーペーパーの編集長氏はちょうど僕の親と同じくらいの年齢で、うちの親は、まあ、平和に老後を迎えて、最近登山やロードバイクなどの趣味を始めたりしている一方で、彼らはまだ苦悩している、なにかと闘っている。
きっと、世界の大半は新しい小説もフリーペーパーの新刊も待ってはいない。
刊行されたからと言って誰か喜ぶだろうか。
何人かは喜ぶだろう。
残酷な話だけれど、その小説家の先生のファンと言えば僕を含めたごく少ない人しかいないのかもしれないし、フリーペーパーが再び復活する話を聞いて嬉しく思った人は本当に少ないのかもしれない。
そう考えると何とも悲しくなってくる。
別に僕には関係ないといえば関係ないのかもしれない。でも、あの人たちの書くものがそうやって世界の片隅で無意味なもののように埋もれて行くのを想像するとひどく悲しいような気持ちがするのだ。人生の大半を文に捧げた人の最後は悲しい。
ある意味では文を仕事にできず、文を書くのをいつしかやめるっていうのは幸せなことのようにも思う。
文を書くってのはシビアだ。簡単なことじゃないし、経済的にも困る。その上、評価はシビアだ。映画や写真のように気楽に何となく眺めてくれて、縁あってファンになってくれるっていうのはない。文を読むのは疲れる。

最近の僕は子どものようなことを考える。
つまり、かっこいい大人が現れて欲しいのだ。
子どもだった僕の前に現れて、ぷかぷかタバコを吸って、フリーペーパーの編集長をしている。
そのフリーペーパーの編集長と来たら、僕らにジョイフルをおごらせるのだ。
「すみません、財布持ってくるの忘れました!」
なんて言って。
これは相当に面白い。
本当にお金がなかったのかもしれない。それでも、普通に考えて大人が人と会う約束をしていて財布を忘れるわけがない。確信犯だろう。しかし、確信犯と言っても、本当に財布を持ってこないってのは相当に勇気がいる。自分の子どもと同じくらいの人間にジョイフル、ファミレスの中でも一番安い方の飯をおごってもらうのだから。実はカバンの中に入ってるのを嘘を付いているというわけもなかろう。いくらなんでも五百円の食事くらいその気になれば出せないことはなかろう。
多分、編集長氏はこれは面白いと思ったからこそやったのだろう。
実際、僕らは編集長氏と別れた後に、
「ごめん、財布忘れました!」
というフレーズを繰り返し真似して、笑った。
このギャグは本当にハイセンスだったと思う。本当にお金がなかったのかもしれないが、本当にお金がなかったら多分五百円の飯じゃなくてもう少し何かするんじゃないかなと思うし、あるいは本当にお金がなくなると人間ジョイフルで財布忘れたと言うのだろうか。
今になっても考えるほどに深みのあるユーモアだったと思うのだ。

子どものようなことを考える僕は、そんな素敵な大人が現れてくれないかなと思うのだ。
素直に将来について相談したくなるような。
そして、子どもの僕にかっこつけて振舞ってくれるような。

僕にとっての大人は次第にもう定年退職くらいの年齢になって、深みこそあれど、なかなかカッコも付けてくれないし、僕を子ども扱いして何かを教えるってのも難しくなってしまった。
僕も、大人たちも歳を取ってしまった。

大人も友人も去った僕は、僕一人で何かを考えて決めて生きねばならない。
歳をとってしまった。時間は有限なのだ。

そんなこんな。


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posted by ちょろり at 00:29| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月27日

意識を高く持つ問題など考える。

意識を高く持つ問題など考える。

基本的には人間、意識を高く持つ方が生きやすいとかなんとかだが、危険といえば危険なのだ。

まず、そもそもに意識が高いだの低いだのって何なのか。
インターネットによると、
「意識高い系(いしきたかいけい)とは、自分を過剰に演出する(言い換えれば、大言壮語を吐く)が中身が伴っていない若者、前向きすぎて空回りしている若者、インターネットにおいて自分の経歴・人脈を演出し自己アピールを絶やさない人などを意味する俗称である。 」
とのことである。

また難しいのが系と付いているところだ。
系っていうのは、実際にはそうではないから系なのだ。
意識が高いというのは、目標があったり、向上や成長を目指しているといったところでたる。
意識高い系は、それみたいなものというところである。

ーーー

ただ、言葉とは俗世に引っ張られるものだ。
ら抜き言葉も俗世に引っ張られて、間違った日本語ではないということになりつつある。
意識が高いというのも、意識高い系に引っ張られる傾向はある。

今の時代の意識が高いってのは、一口に言えば「お金をたくさん稼ぐのに適した精神」とでも言うのが良かろう。
独立起業、一流企業、株などの資金運用、こういったところが意識が高いとかそんなものだろう。
それを地でやっている人間は意識が高い。
それに憧れて、実際はそうでもないのに、そんな気分にひたっているのを意識高い系。

ーーー

はて、生きていると仕事とはしんどいものだ。
実にしんどい。
最近は肺に穴が空いたみたいに胸に痛みのある時期も続いたりもした。
まあ、今は治ったが。

そういう仕事がしんどい時に意識を高く持つと楽なのだ。

ーーー

実際のところ、僕は仮に月に1,000時間働いたとしても、給料は一円も変わらない。
実際、僕一人で何百万稼ごうが給料は全く変わらない。

こういう時に意識が低いと、「どうせ給料変わらないから」となる。
意識が高いと、「会社の利益が増えて安定したり、店の評判が上がれば、目先の給料は別として、自分の人生の質が上がる」となる。

この両者で楽なのは意識を高く持つ方だ。

ーーー

じゃあ、楽になるから意識は高く持つべきなのか、って話になると、これは定額働かせ放題になる。
Amazonでも何でも定額なんたら放題だが、日本は基本的には定額働かせ放題に企業も国もしたい。
文句を言わずに、高いモチベーションで働き続けてくれて、国の財政を支えてくれる人材を求めている。

ーーー

意識を高く持つと、働いていて、気持ちは楽ではある。
オレの頑張り、頑張ってるオレ、人生は努力と忍耐である、貯蓄、尊敬、地位、名誉、金。

でも、現実には違うと思う。
意識が高くなくてものんびりと日々を生きていて、約束などせずともふらりと茶を飲みに遊べてリラックスして話をできる友人がいる方がよほど気持ちは楽だし、豊かだと思う。
意識を高く持って、
「頑張ってるオレは人間として正しい、素晴らしい!」
っていうのは、やはりかなり無理がある。
正しい人間とは自分のことを正しいなどと感じない。普通であると感じると思うのだ。

ーーー

まあ、それでも働かないといけない。
僕らは今の日本で働かないといけない。
金も稼がないといけない。
そうなると、意識は高く持つ方が気分は楽なのだ。

上手く生きないといけない。
ただ、本当のところはどうなのか。

ごまかして生きることも必要だ。
馬鹿正直は馬鹿を見る。
意識を高く持たせる。

何だかヘンテコな世の中だ。
無理をした方が楽。無理をするのを前提に社会での正しさがある。
意識などは自然と高く持つか、そういうのには興味がないと生きるかなんて自由のはずなのだが。

ま、そんなこんな。


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posted by ちょろり at 22:44| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする