2018年09月21日

音楽なんかしたいのかもしれない。

最近は何について書こうか、なんて思う。
日記を書いていないようで実は書いてはいる。ただ、最後まで書き切れない。
ーー何だか違うな、そういうことを書きたいわけじゃないんだ。
いつも途中でそう感じてしまう。

日記ってのは難しい。
仕事で店のブログなんかは書いている。これは簡単だ。ブログを書く以外にも自転車を組み立てたり、掃除したり、商品のディスプレイをいじったり、セールの企画を考えたり、ポップを書いたり、接客していたり、イベントを考えてみたり、まあ、あれこれやっているので、なかなか毎日は書けないが、自転車屋のブログっていうのは比較的簡単だ。
商品の話をすれば良い。或いは自転車のコラムを少し書けば良い。
書くべきことが決まっている。
商品の話は嘘は書かずに、誇張せずに、その商品の良いところと、こんな感じで使うと楽しいかもしれないなんてこと、こんな人には良いかもしれないってこと、値段を払うだけの価値があるかどうか、まあ、正直、これはちょっと高いですね、でも良いアイテムだよ、とかね。
お店にはいくらでもアイテムはあるし、それぞれのアイテムごとに語るべきことはいくらでもある。

ーーー

昔、TSUTAYAでジャズのCDを借りて、それをコピーして、ルーズリーフにCDを入れる布を貼り付けて、ジャケットをコピーして貼って、自分で勝手にライナーズノートを書くって遊びをしていたことがある。
まあ、あまり長続きはしなかった。何だかんだ10枚くらいしかやらなかったと思う。
理由は、ひとつに単純に飽き性だということ。
もうひとつにCDをレンタル出来る金があるようでなかったようで、実際にはあるんだけど、何だかいつも貧乏していたこと。
そして、ブログでやれば良いんじゃなかろうかと思ってみたりして、結局、デジタルではしなかったこと。

ノリでCDケースとジャケットを貼る。その前にジャケットのコピーを取りにコンビニに行く。
今になって考えると、面倒臭がりのくせに、多分こういう面倒な手数が楽しかったのだろう。

ーーー

小説については僕はレビューを書くのが下手だ。
その作品について話すってのが下手くそで、例えば安部公房の壁について話そうと思うと、安部公房の他の作品との対比や、シュルレアリスムなのかどうかや、カフカのシュルレアリスムと比較するとどうなのか、そんなわけの分からない方に話が広がる。
まあ、安部公房については砂の女、壁、箱男の三つ読んでおけば良い。他の作品もたいていどれを読んでも安部公房だなという感じで良いのだが。砂の女は完成度が高い。人間の心に突き刺さる。箱男はこれぞ安部公房だ。最高だ。壁は安部公房をバラせばこういうことなんだな、安部公房の作品の根底みたいな感じがする。

ジャズのCDについてもいまいち上手くない。
マイルスデイビスの枯葉の入ったCDに関してはそれを書いた夜のこと、とある秋の夜長の日記みたいな内容だった気がする。ちなみにアルバム名はサムシンエルス。このアルバムは実に豪華なメンバーだ。マイルスデイビスとコルトレーンとビルエバンスと誰だっけ忘れた。まあ、良いや。
はっきり言って、僕は一曲まるっと口でパクパク歌える曲って、このサムシンエルスの中の枯葉と、ビルエバンスのポートレイトインジャズというアルバムの中の枯葉くらいだ。あとはビルエバンスのサムデイマイプリンスウィルカムがほんのり覚えている。昔はもう少し歌えて、夜に一人で親の車を運転しながら歌っていた。
最近はじっくりジャズを聴かないので、歌える曲もほとんどない。
それにしてもサムシンエルスの枯葉とポートレイトインジャズの枯葉については今もちゃんと頭の中で再生出来るんだから、本当によく聴いた。

ーーー

それにしても、改めてジャズという音楽はよく出来ていると思う。
今でもたまにクラシックギターを弾くのだが、昔から弾いている曲数は増えていない。
弾こうと思うと、僕の場合、楽譜がきちんと読めないので、まずとにかく何回も聴く。南米の曲が好きなのだが、リズムが変則的なので、とにかく何度も曲を聴く。
ビラロボスのショーロスという曲が一番好きなのだが、これは本当に独特なリズム感で、多分楽譜のまま弾いても上手く響かない。

クラシックギターという楽器はソロで和音とメロディーが弾ける。
ソロで和音が鳴らせる楽器自体少ないし、和音と同時にメロディーが弾けるとなるといよいよ少ない。ベースとメロディーくらいまでならまだしも三和音以上とメロディーを鳴らせる楽器っていうのは、本当にピアノとギター、あとは鉄琴木琴くらいだろうか。ピアノ、鉄琴、木琴は似ている。ギターは非常にヘンテコだ。右手と左手を使わないと音が鳴らせない。サックスなんかは右手一本でもある程度の音は鳴る。ギターはそうはいかない。左手と右手を同時に動かさないといけない。それなのに、和音が鳴らせる。とてもヘンテコな楽器だ。

クラシックギター、独奏楽器では適当にリズムを揺らすとただの下手くそなのだが、芯を持ってリズムを揺らすのは、これは味があるといえる。
ジャズっていうのはリズムが変則的なようだが、ドラムがいてリズム、テンポ自体はキープされている。
独奏というのはその辺、割と自由だ。

まあ、そんなわけで一曲弾こうと思うと結構聴く。いろんな人のいろんな弾き方をYouTubeで探す。プロからアマチュア、いろんな弾き方を探す。

一人でクラシックギターを弾く時の目的は曲を完成させることではない。人前でノーミスで弾けるようになるための練習ではない。
いかに心に響かせるか、だ。
他人に聴いてもらって、上手だねと誉められたいってのもゼロとは言わないにせよ、多分、僕が誰かの前で弾くことって死ぬまでなかろうと思う。

どちらかといえば、ワンフレーズで良いから気持ち良く響いてくれるように弾きたいだけなのだ。

ーーー

それで譜面を覚えた状態で何度も聴くのだが。
それでも、マイルスやビルエバンスの枯葉みたいに今でも頭の中で再生出来る曲って意外とないのだ。
福田進一氏のシャコンヌに関してはいくらか再生出来る。
本当に音楽が好きな人からはシャコンヌはクラシックギターで弾く必要もないし、バイオリンで弾いているCDの方がよほど聴く価値があると言われたりもするが、なぜか福田進一氏のシャコンヌはよく聴いたのか、よく耳に残っている。

ーーー

ジャズってのは不思議なことに歌える音楽だ。
歌の入っていない曲の方が多いが、しかし、それを鼻歌で歌うと気持ち良い。
クラシックギター曲ってのは口では歌えない。やはりギターで響かせる以外に方法がない。

その点、ジャズってのは実によく出来ている。

あとは、良いオーディオで何回も聞いたからってのもあるかもしれない。
ジャズ喫茶によく行った。
ライブじゃなく、レコードをかけてくれる店だ。CDでかけることも多かったけど。
ジャズ喫茶のおっさんってのは、まあ、マニアだ。ジャズマニア、あるいはオーディオオタク。
オーディオなんてそんなに大して変わらないと思う人もいるかもしれないが、全く違うのだ。
心の底を震わせるような音を出すオーディオってのは存在する。

改めて思えば、昔行っていた店のマスターたちは実に素晴らしい音を作り上げていたなと思う。

ーーー

音楽を聴かなくなったのは、そういうオーディオを聴けなくなったからってのは大きいだろう。

音楽を聴くのが好きな人は分かれる。
演奏する人に多いのは、曲を聴く人だ。
それに対して、僕のような音楽に詳しくない人間は音自体を聴く。気持ち良く体の中に響く音かどうか。
もちろん、最終的にはオーディオ機器の良し悪しよりも、演奏の良し悪し、曲の良し悪しにはなってくる。
ただ、第一関門として、音の良し悪しってのがあるのだ。体の中に響いてくれるかどうか。

ーーー

ただ、音の良し悪しという意味では、昔ギターを大学で弾いていた頃の先輩の音が今でも頭に残っている。
あれはひどく感動した。
今でもどうしてあんな音が出せるのか不思議で仕方ない。そこらのプロよりも遥かに綺麗な音を出していたように思うが、それは思い出を美化し過ぎなのかもしれない。

ーーー

弾くんだか聴くんだか、なんでも良いのだが、音楽なんかしたいのかもしれない。ひさびさに音楽に身を委ねてみたいのかもしれない。

ま、そんなこんな。
posted by ちょろり at 01:40| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年09月16日

ーー書き続ければ良かったのに。僕の知り合いで、細々書いてて、この前当たってドラマになるとかで何千万だか入るって言ってたやつもいるよ…

ーー書き続ければ良かったのに。僕の知り合いで、細々書いてて、この前当たってドラマになるとかで何千万だか入るって言ってたやつもいるよ。
東京から来た陶芸家のオヤジが語る。
ーー何ででしょうね、まあ、書かなくなったんですよ。書けなくなったのかもしれないし。
一発当てるために書く、そんなことを随分前から思わなくなっている自分に気付く。書きたくなれば書く。書くべきものがあれば書く。良いものが書けたと思えば文学賞なんかにも送ってみたって良いが、文学賞云々より前に書ける原稿がない。

昔は文学賞を取って、城崎温泉に別荘を持って愛人を囲うのが夢だった。現実には文学賞を取ったとしてもそんなことが出来るわけでもないのだが。
それでも、昔は小説家はかっこいいと信じていた。今も小説家はかっこいいと思う。やはり文化人、それで飯を食えるほどの文化人というものには憧れはある。ただ、かつてのように盲目に良い小説が書ければ、いくらか金が入って、女にモテるとも思わなくなった。

二十代を酒に金を溶かすような日々を過ごしたせいだか、酒を飲みに行かなくなった最近は金が欲しいともさほど思わなくなった。
大した貯蓄はなくとも、月末に給料日を指折り数えるようなことはなくなった。

時々、飲みに出掛けてばかりいた日々を懐かしむ。
三年と経たずに職を変え、住居を変え、旧知の友に会うのは数年に一度となり。そういったライフスタイルの中では酒こそが唯一の友だった。そうは言ってもあまり飲めない体質なので、大した量を飲まずとも泥酔する。そのおかげか健康も崩さずやっていた。泥酔しては文を書こうとした。
そんな暮らしなので金もなければ異性と付き合うようなこともなく。デートする金がなかった。

気楽で楽しい日々、それを続けていればもしかすると小説家になったのかもしれない。
ほぼ全ての金を酒に溶かして、小説と音楽にふけり、なぜか自転車に乗り続けた。

アフリカを走って、何かが途切れた。
そんな気がしている。
僕は何かに追われていたんじゃなかろうか。

何千万だかの印税収入。
昔なら憧れただろうか。

福生の小説家の先生は今も変わらず飲んでるだろう。
前会った時にはFXで勝つ方法を見つけたと言っていた。
実際、小説家で小説だけで飯が食える人は少ない。あれこれ文の仕事や副収入がないと難しい。
何せ日本はサラリーがないってことにひどく厳しい。収入が低くても結構な金額の税金やら保険やらを徴収される。異国を旅していて困るのがこれだ。異国を旅していて収入ゼロの状態でも毎月保険料や年金なんかが積み重なる。無い袖振れないと言っても、実際には息をしてる限りは明日の食費、家賃くらいは持っているので、そこから出すことになるが、そうなると飯が食えない。これが不思議とどこかから出てくる。親から借りることもあれば、本当に飯を食わなかったり、住み込みで働いて家賃をなくしたり。
毎月サラリーがもらえて、保険や年金の心配をしなくて良いのは随分と気分が楽だ。
その代わりに時間と自由を切り売りしているというだけなのだが。

時間と自由を切り売りして、酒を飲みにいくのをほとんど辞めてしまって、小説を書かなくなった僕と、六十を過ぎて独り身で日々酒を飲んで24時間の区切りなく生きる小説家の先生。
やはり小説家は偉いのだ。
デカダン、頽廃主義とかではなく。
海外ではどうかは分からないが、日本でまともなサラリーマンやるってのは時間と自由を切り売りして税金、年金の心配をしなくて良くなることである。
やっぱりそうなってしまうと、小説家なんてのは難しいと思うのだ。
時間と自由を切り売りして、安心を手に入れるなんて、そりゃ、動物で言うところのサバンナを捨てて動物園に飼われるような話だ。餌も天敵も心配なく、獣医もいる。いかに動物園のオリの中で一番強くなったって、野生に投げ出されたらひとたまりもない。
自分の命を自分でつなぐってのは、やはり生き物としてのベースだろう。
動物園で長生きをしたって、そりゃ、やはり違うんだろう。
それこそ、今、久々に福生に飲みに出てみろ、一晩飲むだけでいっぱいいっぱいさ。
9時過ぎから飲み始めて12時くらいには小説家の先生に捕まって、朝の5時まで転々とチビチビと焼酎の茶割やビールなんかを飲んで、一眠りして10時には仕事に行く。毎日とは言わずとも5回に一回くらいはそうなる。週に2,3日飲んでりゃ、月に2回はそんなことがある。そんなのをスタンダードとして暮らしてるやつと一晩だけにしたって飲めば、そりゃ追い付けない。
酒を飲むのが偉いわけじゃないが、自分の意志で飲みたい時に飲みたいだけ飲んで、話したいだけ話して。
少なくとも自分の時間と自由を、自分の手に握っている人間ってのはやはり偉い。
世間がどうこうじゃなく、飲みたいから飲む。それでいて何とかして今日も生きている。
そういうのって、やっぱり偉いのだ。
偉いなんて言うと上から目線だが、それでもやっぱり人間として偉いっていうのは何なのかと問われれば、何千万円だか原稿料でもらうとか、安定したサラリーがあるとかじゃなく、自分で自分の時間と自由を手にして生きてるってことなのだ。

金になるから何たらをする。
利益になるからアレコレをする。
そりゃ、そういうのはいくらかは必要だろう。税金も年金も保険も払わなけりゃいけない。

ただ、税金も年金も保険ってのは日本の欠点だろうとは思う。
もちろん、税金っていくらかは必要だろうが、毎年、来年の予算確保のために大して荒れていない道路の工事に使ったりするような具合だから、やはり多過ぎるだろう。
年金と保険は任意で良かろう。税金からいくらか医療費を賄うのは良いだろうが。

息をするだけで消える金が高過ぎるのだ。
家賃も食料品の値段も軒並み高い。
給料も高いが。

異国で物価の違いを感じる時にふと思うのが、給料が良くなっても支出も多くなるんだから、意味がないのではなかろうかと思う。
これは国に限らず個人の生活についてもそうで、収入が増えれば支出も増える。

ケビンはニヒリストといえばニヒリストなのかもしれない。
賢ければ賢いほど生きにくくなる人間というのが世の中にはいる。
ケビンの言うことには真理がある。
時間が無限の人間。
現実には全てのものが有限なのだが、無限だと思っている、あるいはそう思っていなくてもそういう行動をする人間が世の中にはいる。
ケビンの定義によれば馬鹿かどうかというのは有限性の問題なのだ。
何事も限られていると言うことを理解して行動している人間か、そうではないか。

サラリーマンが良いか悪いかは分からない。
ただ、そんな具合でオレは良いのだろうか、と思う。
そりゃ、一口に言えば歳食ってしまったんだよ、とも言えるのかもしれない。歳食って保身に走った。

昔いろいろなことを教えてもらったフリーペーパーの編集長さんがいるのだが、彼は人生は有限だということをよく理解していたのだろうなと思う。
今でこそフリーペーパーって普通になったけど、当時はすごかった。ウィンドウズじゃレイアウトを組むにもいまいちで、マックであれこれいじって校正して、自分が書くのもあるが、取材から連載執筆の依頼、配布まで一人でやっていた。
ブログでも金がもらえる今の時代では何ということはないが、当時、ゼロ円で雑誌を配布して広告収入で飯を食うってのを地でやるって相当なことだったと思う。
その人にはそれなりの尊敬が集まり、しかし人々は離れ、変人扱いされ、病気になって離婚して死にかけて、最近、死ぬ間際の最期の頑張りということなのか再びフリーペーパーに取り掛かっている。

成功者、失敗者という区別は変だと思うけれど、小説家の先生やフリーペーパーの編集長氏はちょうど僕の親と同じくらいの年齢で、うちの親は、まあ、平和に老後を迎えて、最近登山やロードバイクなどの趣味を始めたりしている一方で、彼らはまだ苦悩している、なにかと闘っている。
きっと、世界の大半は新しい小説もフリーペーパーの新刊も待ってはいない。
刊行されたからと言って誰か喜ぶだろうか。
何人かは喜ぶだろう。
残酷な話だけれど、その小説家の先生のファンと言えば僕を含めたごく少ない人しかいないのかもしれないし、フリーペーパーが再び復活する話を聞いて嬉しく思った人は本当に少ないのかもしれない。
そう考えると何とも悲しくなってくる。
別に僕には関係ないといえば関係ないのかもしれない。でも、あの人たちの書くものがそうやって世界の片隅で無意味なもののように埋もれて行くのを想像するとひどく悲しいような気持ちがするのだ。人生の大半を文に捧げた人の最後は悲しい。
ある意味では文を仕事にできず、文を書くのをいつしかやめるっていうのは幸せなことのようにも思う。
文を書くってのはシビアだ。簡単なことじゃないし、経済的にも困る。その上、評価はシビアだ。映画や写真のように気楽に何となく眺めてくれて、縁あってファンになってくれるっていうのはない。文を読むのは疲れる。

最近の僕は子どものようなことを考える。
つまり、かっこいい大人が現れて欲しいのだ。
子どもだった僕の前に現れて、ぷかぷかタバコを吸って、フリーペーパーの編集長をしている。
そのフリーペーパーの編集長と来たら、僕らにジョイフルをおごらせるのだ。
「すみません、財布持ってくるの忘れました!」
なんて言って。
これは相当に面白い。
本当にお金がなかったのかもしれない。それでも、普通に考えて大人が人と会う約束をしていて財布を忘れるわけがない。確信犯だろう。しかし、確信犯と言っても、本当に財布を持ってこないってのは相当に勇気がいる。自分の子どもと同じくらいの人間にジョイフル、ファミレスの中でも一番安い方の飯をおごってもらうのだから。実はカバンの中に入ってるのを嘘を付いているというわけもなかろう。いくらなんでも五百円の食事くらいその気になれば出せないことはなかろう。
多分、編集長氏はこれは面白いと思ったからこそやったのだろう。
実際、僕らは編集長氏と別れた後に、
「ごめん、財布忘れました!」
というフレーズを繰り返し真似して、笑った。
このギャグは本当にハイセンスだったと思う。本当にお金がなかったのかもしれないが、本当にお金がなかったら多分五百円の飯じゃなくてもう少し何かするんじゃないかなと思うし、あるいは本当にお金がなくなると人間ジョイフルで財布忘れたと言うのだろうか。
今になっても考えるほどに深みのあるユーモアだったと思うのだ。

子どものようなことを考える僕は、そんな素敵な大人が現れてくれないかなと思うのだ。
素直に将来について相談したくなるような。
そして、子どもの僕にかっこつけて振舞ってくれるような。

僕にとっての大人は次第にもう定年退職くらいの年齢になって、深みこそあれど、なかなかカッコも付けてくれないし、僕を子ども扱いして何かを教えるってのも難しくなってしまった。
僕も、大人たちも歳を取ってしまった。

大人も友人も去った僕は、僕一人で何かを考えて決めて生きねばならない。
歳をとってしまった。時間は有限なのだ。

そんなこんな。


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posted by ちょろり at 00:29| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月27日

意識を高く持つ問題など考える。

意識を高く持つ問題など考える。

基本的には人間、意識を高く持つ方が生きやすいとかなんとかだが、危険といえば危険なのだ。

まず、そもそもに意識が高いだの低いだのって何なのか。
インターネットによると、
「意識高い系(いしきたかいけい)とは、自分を過剰に演出する(言い換えれば、大言壮語を吐く)が中身が伴っていない若者、前向きすぎて空回りしている若者、インターネットにおいて自分の経歴・人脈を演出し自己アピールを絶やさない人などを意味する俗称である。 」
とのことである。

また難しいのが系と付いているところだ。
系っていうのは、実際にはそうではないから系なのだ。
意識が高いというのは、目標があったり、向上や成長を目指しているといったところでたる。
意識高い系は、それみたいなものというところである。

ーーー

ただ、言葉とは俗世に引っ張られるものだ。
ら抜き言葉も俗世に引っ張られて、間違った日本語ではないということになりつつある。
意識が高いというのも、意識高い系に引っ張られる傾向はある。

今の時代の意識が高いってのは、一口に言えば「お金をたくさん稼ぐのに適した精神」とでも言うのが良かろう。
独立起業、一流企業、株などの資金運用、こういったところが意識が高いとかそんなものだろう。
それを地でやっている人間は意識が高い。
それに憧れて、実際はそうでもないのに、そんな気分にひたっているのを意識高い系。

ーーー

はて、生きていると仕事とはしんどいものだ。
実にしんどい。
最近は肺に穴が空いたみたいに胸に痛みのある時期も続いたりもした。
まあ、今は治ったが。

そういう仕事がしんどい時に意識を高く持つと楽なのだ。

ーーー

実際のところ、僕は仮に月に1,000時間働いたとしても、給料は一円も変わらない。
実際、僕一人で何百万稼ごうが給料は全く変わらない。

こういう時に意識が低いと、「どうせ給料変わらないから」となる。
意識が高いと、「会社の利益が増えて安定したり、店の評判が上がれば、目先の給料は別として、自分の人生の質が上がる」となる。

この両者で楽なのは意識を高く持つ方だ。

ーーー

じゃあ、楽になるから意識は高く持つべきなのか、って話になると、これは定額働かせ放題になる。
Amazonでも何でも定額なんたら放題だが、日本は基本的には定額働かせ放題に企業も国もしたい。
文句を言わずに、高いモチベーションで働き続けてくれて、国の財政を支えてくれる人材を求めている。

ーーー

意識を高く持つと、働いていて、気持ちは楽ではある。
オレの頑張り、頑張ってるオレ、人生は努力と忍耐である、貯蓄、尊敬、地位、名誉、金。

でも、現実には違うと思う。
意識が高くなくてものんびりと日々を生きていて、約束などせずともふらりと茶を飲みに遊べてリラックスして話をできる友人がいる方がよほど気持ちは楽だし、豊かだと思う。
意識を高く持って、
「頑張ってるオレは人間として正しい、素晴らしい!」
っていうのは、やはりかなり無理がある。
正しい人間とは自分のことを正しいなどと感じない。普通であると感じると思うのだ。

ーーー

まあ、それでも働かないといけない。
僕らは今の日本で働かないといけない。
金も稼がないといけない。
そうなると、意識は高く持つ方が気分は楽なのだ。

上手く生きないといけない。
ただ、本当のところはどうなのか。

ごまかして生きることも必要だ。
馬鹿正直は馬鹿を見る。
意識を高く持たせる。

何だかヘンテコな世の中だ。
無理をした方が楽。無理をするのを前提に社会での正しさがある。
意識などは自然と高く持つか、そういうのには興味がないと生きるかなんて自由のはずなのだが。

ま、そんなこんな。


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posted by ちょろり at 22:44| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月07日

最近、ぼんやりと。アフリカを思い出す。

最近、ぼんやりと生きている。
向上心のないものは馬鹿だ。
漱石は小説の中でそう言っていた。
そういう意味では最近の僕は馬鹿だ。

なかなか生きるとは分からないものだ。
ご飯を食べて、明日に困ることなく生きていればそれだけで良いのか。

答えはシンプルで、それで良いのだろう。
人間、生きてりゃそれだけで良いのだろう。

最近、独立開業のことなど少し考えたりした。
雇われもくたびれた。
そうは言っても経営となると、ますます面倒くさい。
自転車業界は貧乏業界と言っても、独立すれば、それなりの収入にはなる。
自転車って何だかんだでそれなりに高額だし、それなりに売れる。世間一般の人が考えているよりは自転車って売れるのだ。

ただ、サラリーマンやってる限りは自転車業界の昔からの悪しき伝統でとにかく給料をたたいて、休みは少なく働かせるってのがある。
自転車をいじるっていう特殊なスキルと、中途半端な高額商品、車ほど高くもないし、かと言ってパソコンよりは高い。そして、在庫金額が高い、店舗面積が必要など。
独立しにくい要素が多く、ライバルが現れにくいので、給料を上げて人材を募る必要もなかったりする。メンテナンスや修理は基本的に買った店でやるから、家の近所で買う人が多いということもあるので、特別なことをしなくてもそれなりに売れる。
そんなわけで人材を大事にしない業界だ。

かと言って、独立すれば良いかと言えば、金策に走るのが考えるだけでも嫌なのだ。
毎月支払いがいくらあるから、いくら売らなくちゃいけない。
経営って基本的に借金ありきで、どうやって返済しながら利益を膨らませて行くかってことになる。

最終的に経営ってお金が欲しいかどうかだろう。あるいは商売を通してやりたいことがあるかどうか。
その点、金はまあそこまでいらないし、休みもサラリーマンしてる方が休みは休みなので呑気ではある。
雇われと言っても自転車を売って、話して、修理して、言うなれば自転車屋さんとしての仕事は変わりない。仕事内容としては好きなのだ。
そうなるとブツブツ言いながらも雇われで働いている方が良いような気もする。

そうやって「向上心のないものは馬鹿だ」になるわけだ。

ーーー

群馬に来て友人、知人がなかなか出来ない。
群馬に原因があるのではなく、ちょうど三十歳くらいってそんな歳なのだろう。
普通は転々としていなければ、友人や知人なんてある程度いる。そうなると友人、知人を増やそうってなかなかならない。
仕事や日々の生活でつまづいた時に会話出来るような友人。

その点、アフリカの村なんかって良いなとは思う。
とにかくどこかで群れている。
別段、何をするわけでもなく何人かで黄昏ている。
もちろん、水汲みやらアレコレすることもあるんだろうけど。
国にもよるけど、一日三ドルとかで生きている。
お金もないし、仕事もないから家族や隣近所の人と話したり、ぼんやりして過ごす。
基本的には村人は全員知り合いだ。

もちろん、そんな楽天的で平和なばかりではないのだろう。本当の貧困とは実に大変だろう。マラリアの蚊も飛んでいれば、綺麗な飲み水もない。
ただ、少なくとも僕の記憶の中のアフリカの人々はすごく平和に見えた。少なくとも寂しそうな人ってのは少ないように見えた。

そうは言ってもアフリカでも大都市となれば全員知り合いってわけにもいかない。
それでも、路上に座り込む暇そうな人々は何かしらしゃべっていた。

家で一人で過ごすってのがあまり選択肢に入らないらしい。
日本と違って、家の中は風が通らないので、外の木陰の方が涼しいってのもあるのかもしれない。
はたまた、仕事がないように見えても、実はバス停で観光バスを待ち伏せてギブミーマネーと頼むための待機時間、つまり実は立派な仕事なのかもしれない。

仕事がないってのは悲しいことでもあるけど、暇ってのはそれなりに良いことなのかもしれない。

ーーー

暇が欲しいのかもしれない。
ふと、暇ってものを思い出す。
ここ最近、暇の思い出がない。
休みは少ないとは言えどある。それでも、何かしている。何か内容があるのだ。

自転車で旅していた時にはいつも暇だった。
その日の目的地は一応はある。大陸を一つ自転車で走るってのはなかなか途方もないようで、案外1週間も走れば500km程度、東京〜大阪くらいの距離にはなる。東京大阪なんか小さな日本の中の距離じゃないかと思うかもしれないけれど、2週間走れば1000キロ、1000キロとなると青森東京くらいにはなるし、4週間も走れば北海道から鹿児島くらいにはなる。
僕なんかは実際は途中の町なんかで休んでばかりいるので、そこまでの距離にはならないのだが。
日本も小さいように見えて、アフリカでの走行距離が4000から5000キロ程度、僕は走った距離に関しては非常にどんぶり勘定なので本当のところは地図をたどってみないと分からないし、くねくね走っているので、まっすぐ突っ切ればもっと短くなるのだが、北海道から鹿児島まで行って、また北海道まで戻れば一応は大陸を横断出来る程度の距離にはなるわけだ。
地球をぐるりと回る赤道の長さは約四万キロだから、五千キロも走れば大抵の大陸は横断出来るのも当たり前と言えば当たり前で、南北に言ったって二万キロなわけで、単純計算4倍なわけだ。

そんなわけで大陸を横断するってコツコツ日々走って、何か食べて飲んで眠っていると、何だかんだで気付くとゴール出来てしまう。
もちろん、大変は大変だ。
今から資金は出してやるからアフリカを走って来いって言われても怖いので嫌だ。それなりに腹をくくらないといけない。まあ、腹をくくる時間を少しもらえれば喜んで行くのだが。でも、次は予防接種してから行きたい。

毎日ぼんやりと、
「今日はこの村かこの村くらいかなー」
なんて見当を付けて走り始めることもあるし、道路の看板に町までの距離が書いてあるのを見て決めることもあるし、2時くらいまで走りながらその時に決めるなんてこともあるし。
一応目的地みたいなところ、一応の目安みたいなものはあるのだが、いちいち街の名前などリストアップするようなマメなタイプでもないので、何となく自転車こいでたどり着いた村で何とかするわけだ。

これがある種の究極の暇で、目的地があるなら、そこまでバスなり飛行機なりで行けば良いのに、チンタラと自転車こいで進むわけだ。腹が減ったなーと思えば何か食べながら。
景色の良し悪しに感動するなんてのも、まあ、いくらかはある。
シマウマが横切ったりすると嬉しい。
象が出ても最初は嬉しい。象の恐怖が分かると怖くてたまらないが。
村で暇そうなやつに絡まれて、タバコを取られたりしながら。

象に関しては本当に最悪だ。
まあ、冷静に考えれば当たり前なのだが、檻がない動物園、しかも、みんなワイルドライフだから元気モリモリ、怖くて当たり前なのだ。
ライオンは出なかったので良かった。
パタゴニアもピューマが出なくて良かった。

冷静に考えてはいけないってところもある。
冷静に考えると家から出るのも危なくなってしまう。
それこそ冗談抜きで最近の日本は外が暑くて危ないので不要な外出はやめましょうなんて本気で言っているけれど、その理屈で言うと生きていると死んでしまう可能性があるので生きるのはやめましょうなんてことになってしまう。
「そんなの極論過ぎる」
なんて言われるかもしれないけれど。

それでも、熱中症が危ないから室内でエアコンを付けましょうってのは、実に問題の解決になっていないのだ。
酷暑だの何だの、昔と違って暑くなった、最近の暑さはひどいだのなんだの、そうは言ったってその暑い地球で生きていく他ないのだ。
家の中を冷やして、外に熱を出してなんかじゃイタチゴッコにもなりゃしない。
それどころかどんどん外が暑くなる一方だ。
最近、日本が暑いのはエアコンの使い過ぎなんじゃないかとさえ思う。

やはりこれもアフリカは優秀で、暑いから木陰でぼんやりしよう、である。
実際、アフリカの暑い地域って、仕事どころじゃないと思う。最低限、生きていくために必要な水汲みなんかはするにしたって、それにプラスして何か労働するかって話になると、そんなの暑くて無理だよってなる気はする。
とりあえず、最低限、食うだけは動くにせよ、あとは日陰で何かおしゃべりでもしながら、ぼんやりしていようぜ。太陽が傾いて少し涼しくなってから何かしようぜ。
暑さへの対策としては一番良い方法なんじゃないかと思う。
暑くて動けない時は動かずぼんやりする。
そうしてると、それなりに暑さに慣れてくる。
結局、生き物やってる限り環境に適応していくっていう以外に生きていく方法はないのだ。

ーーー

不要な外出はどんどんすべきだし、暑ければ日陰で涼めば良い。
冷静に考えて、危険なことを避けて。
それじゃ一時凌ぎにしかならない。

とりあえず、あまり深く考えずにやってみて、駄目そうなら逃げる。
そういう意味では逃げの方法は考えておかないといけないのだが。

象が出てどうしても危なければヒッチハイクでもすれば良い。
ちなみにボツワナの象エリアではこっちから頼まなくても、車がちょくちょく声をかけてくれるので、特に無理をする必要はない。

ーーー

それにしたって、そんな危険なことに自ら意図的に突撃しなくて良いじゃないか、なんでそんなことするのだ、と言われるとこれは実に難しい。

まず、象エリアを通らないと目的地にたどり着かないから象エリアを通るだけだ。
そういうと嘘になる。意図的にそこを通るようにルートは組んでいる。パタゴニアもそうだが、暴風の無人地帯を意図的にルートに入れている。いや、パタゴニアはフィッツロイに行きたかったので仕方ないと言えば仕方ないのか。
いや、そうは言ったって、結局はスタートおうち、ゴールおうちなわけだから、そもそもに家から出なければ良いわけだ。

凄いことをしたいのか、誰かに自慢したいのかといえば、まあ、いくらかはそういうのもあるんだろう。
きゃー、鼠くん素敵!
まあ、モテたい。可愛い女の子にモテたい。素敵って言われたい。あわよくば一夜を共にしたい。
そうは言っても、別にモテはしないのは分かりきっていることだ。
誰かに自慢するにしたって、自転車友達は少ないので話してもあまり理解してもらえない。旅人なんかには話すといくらか気分が良かったりはする。

まあ、単純に野生の象がふらふら歩いてる道なんか行ってみたいじゃないか。台風どころじゃない風で木が根っこから抜けて転がっているような大地に行ってみたいじゃないか。アフリカで一番高い山の頂上の景色を見てみたいじゃないか。
それも、自分の足で、自転車で行ってみたいじゃないか。

つまるところは単純なそういう欲求なわけだ。
飯が美味いからどこそこの国に行きたいとか、何か有名な美術品があるからとか、人気があるからとかじゃなく、単純に行ってみたいというだけだ。
海辺の浅瀬フラミンゴがいっぱい群れていたりね。
写真で見たいじゃなく、生の目で見てみたいし、生の足で自分の力で行ってみたいじゃないか。

ーーー

暇が欲しい。
ま、そんなそんな。


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2018年07月30日

金を持ってロクでもないやつになること。

いくらか金を持っていたり、ハッタリをかましたり、地位や名誉があったって、そういうのはあまりその人の人間性には関係ない。

人間に大事なものはいくつかあるが、最終的には強さだ。
ただ、強さってのは誰かを屈服させるってものじゃない。
誰かに助けてもらう力だ。
結局一人でどんなにいばったって、強がってみたって、そんなものは5人くらいで束になってかかればすぐに倒れてしまう。
一緒に助けてくれて戦ってくれる人が何人いるかが人生だ。

そういう意味で人を大事に出来ない人間には未来がない。
短い目で見れば良くたって、長い目で見たとき、人を大事にしなかった人は痛い目を見る。そして、そういう時に誰も助けに来てくれない。

人は優しくあるべきだ。

ーーー

優しい人は足元をすくわれる。
馬鹿を見る。

それも一つの真実だろう。
真面目にやってると、悪い奴に足元をすくわれる。

火のないところに煙は立たない。
悪い奴って言われる奴はやっぱり何かしら悪いことをしているのだ。

ーーー

今さら、普通の仕事を夢見たりする。
あまり難しいことを考えたくない。
特に人を半分騙すようなことはしたくない。

それは騙しているわけではない。

そんな風に言いくるめるようなこと。

そういうのは騙してるってことなのだ。

事実を都合よく語るってのは、ある程度は仕方ない。どちらかから見て都合の良いように物事は進められる。
ただ、事実ではない嘘をさも本当のことのように語るのは良くない。

ーーー

貧しさは悲しい。

しかし、正しくないことはもっと悲しい。

正しくて貧しことは悲しいところもある。ただ、救いはある。

正しくなくて富めることは空虚だ、救いがない。

ーーー

さて、問題は正しくない人間が強大な場合だ。
まあ、強大である。
悪くて強大だから、財を築く。

もう自転車の仕事は二度と出来なくなるだろう。

まあ、それも人生か。

そんなこんな。


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2018年07月26日

仕事で心がウンゲツィーファー。

相変わらず心が折れてしまっている。
どんどん人が退職して、僕にてんこ盛りの仕事が乗っかる。残った社員は点検も出来ないか、対人コミュニケーションに半分くらい障害のあるような人間。そして僕。このメンバーは無理がある。一人でやってる店ならそこまで売り上げを伸ばさなくても良いが、そうもいかない。
仕事の多さもそうだが、そうやってサクサクと人が半ばクビのような形で自主退職に追い詰められて行くのを見ていて、ある日、もう働けないとなってしまう。都合が悪くなれば自分もいずれ自主退職に追い詰められる日が遠からず来るだろう。

辞めようと思っても辞めるに辞められない。
こちらの都合での退職っていうのは、どんな形にせよ会社に対する裏切りではある。円満退職というのは難しい。
ましてや店長なので、非常に厳しい。
退職届けを書いて出せば法的には問題ないことになってはいるが。

さらにその後の無職の期間、次の職探し、何のために長々と自転車屋なんかしてきたんだか、様々なことを考えると、隕石でも降ってきて即死しないかと考える。
「あの人、隕石に当たって死んだんだって。かわいそうねー」
何とも収まりの良い最期だ。
ストレートに言えば、こちらに非のない完璧なる事故死だ。
これは楽チンだ。

雷が鳴ると、不思議と当たるのが怖いと感じる。夏の夕暮れの雷。ヘンテコな雲がどんどん積み上がって空が光る。
昔は雷など鳴ったって怖くもなかった。
普通は子供の頃怖くて、大人になると怖くなくなるものだが、なぜか最近の僕は雷が鳴ると怖い。

雷に当たって即死なら隕石同様、完璧なる事故死になる。
だから、むしろ雷の中を積極的に出掛けて落雷に当たって行くべきところなのだが、どうしてだか雷が怖い。
音や光が怖いんじゃなくて、痛そうだなと思うわけだ。
死ぬなんてのは何でも痛いに決まっている。
首吊りだっていくらかは痛いだろう。
糞尿垂れ流して死ぬ。
何より自殺なんてのは実に縁起が悪い。響が悪い。

そうは言っても何かと面倒で、やる気も起きない、エネルギーもないとなると、
「あー、ある朝目が覚めたら自分が巨大な毒虫に、じゃなくて、ページすっ飛ばして死んでてくれねーかなー」
などと思うわけだ。
「もう仕事行きたくねー。でも、行かないと電話掛かってきて、多分、社長が直接家に来るしなー。どこの高校生だよ、誰かに叱られるのが怖いって。あー、行きたくねー。理不尽な仕事割り振られて、他の社員誰も助けてくれない状態、もう無理ー、行きたくねー、行きたくねー、金もねー、次の仕事もねー、あー、ページすっ飛ばしてグレゴール・ザムザ死んでてくれりゃ良いのに」

カフカの変身は、仕事に行きたくない人、生きている意味を失ってしまった人をよく表している。
ある朝起きたら毒虫になっていて、家族からの暴力で死に至る。そして、ラストシーンで家族は、「やっと死んでくれた」と言ってウキウキしながら列車で気晴らしのピクニックに出掛ける。

実際には、鬱病になっても残念ながら人間の体は毒虫にならない。毒虫だったり、単なる虫だったり表記が翻訳によって違うが、原文ではウンゲツィーファーUngeziefer、ドイツ語でとにかく人から忌み嫌われる虫、菌といったものという意味だそうだ。この辺りはカフカは実に巧妙だ。ゴキブリとかムカデとか言ってしまわない。読み手の想像力が膨らむ。悪い方、気味悪い嫌な生物にも伸ばせるし、グレゴールが可愛そうとも思わせてくれる。ゴキブリやムカデなどと断定してしまうと、ただ気持ち悪い、ましてやグレゴールを可愛そうだとは思えなくなってしまう。

ウンゲツィーファーになってしまった兄に対し、妹は何とか優しくしようと思うのだが、やはりウンゲツィーファーで気味悪くて、結局、父親の攻撃を中心にグレゴールは負傷して死に至る。

介護でボケた老人がクソを壁に投げたり、ひどい罵声を浴びせてきたりするのに似ている。親だから優しくせねば、しかし、我慢がならない。
鬱病なんかもそうだろう。

しかし、現実世界では人間はウンゲツィーファーにはならないのだ。
これはある意味残酷ではある。
ウンゲツィーファーとなれば、家族はやっとアイツと縁が切れた、ピクニックに行こうと晴れやかな気持ちでラストシーンを迎えられるわけだ。

生きていく希望を失った人間の精神の極みが表されている。
誰かに助けてもらいたい、優しくしてもらいたい、しかし、自分はもはやウンゲツィーファーであり、外見的には人間だとしても、もう精神的にウンゲツィーファー、生きてはいけないものになっていて、自分が死ぬことで周囲の人間がむしろ幸せになれる、自分が死ぬことで汽車に乗ってピクニックに行って欲しい。

ただ、カフカの変身の面白さは、主人公グレゴールは外見的にはウンゲツィーファーなのだが、内面は別段何ということはない、全く普通の青年で自殺願望などがあるわけでもない。何の予兆もなく、理不尽にもある朝突然ウンゲツィーファーになってしまったわけだ。

まあ、ある意味では鬱病、自殺願望なんかもそういうものだが。
ある朝、突然、精神がウンゲツィーファーになってしまうのだ。

ーーー

それにしても面白いのが、単に仕事を辞めるにも辞めづらい、そんな単純なことで僕は死のうとしているということだ。
多分死なないと思うけど。

単純に退職届けを出せないということ。
昨日今日と二連休だったのでよかったが、明日、出勤できるのだろうか。

これまた面白いことが、たかが退職届けを出せないってことで死のうって人間の存在もそうだが、誰もこれを助けることは出来ないということだ。
「じゃあ、オレが代わりに退職届け書いて出して来てやるからさ、とりあえず今晩飲みに行こうぜ!明日から一緒に次の仕事探しに行こうぜ!」
実際、ニュースに流れる、仕事を辞めるに辞められなくて自殺した人々には、そんな助けが必要だったんだろう。言うなれば、困った時に現れる正義のヒーロー。或いは明るいニートの友人。

ニートの友人って必要だと思う。
自分が困った時に、声を掛ければ大抵暇していて、茶でも飲みに行かないか、奢るよといえば、金はないけど時間はいくらでもあるからな!と言ってやって来る。
誰にでもニートの友人は必要だし、或いはホームレスでも良い。
心の相談ホットラインの電話など必要ない。ある程度のホームレス、ニートがいて、その公園に行けばハトにエサやりしながら話を聞いてもらえる。
「金はないけど時間はあるからな!」

ーーー

好きなことを仕事にして、やっと店長にまでなったが、残念無念ではある。
自転車はもう全て捨てようかなと考えたりもする。最近、自転車に乗っていても、悲しみがある。アフリカも南米も遠い過去に埋もれてしまった。

生きてさえいれば何とかなる。
まあ、何だかんだで死ぬことはないんだろうけど。

ある朝目覚めたらウンゲツィーファーになってるかもしれない。

そんなこんな。


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2018年07月22日

ワンミスで死ぬこと。

ワンミスで死ぬ。そういうことって普通の人生じゃ起こらない。そういう風に我々は信じている。だけど、現実には生き物はワンミスで死ぬ。
ちょうど最近の僕は、取り返しの付かないワンミスをやってしまったことに今さら気付いて、こりゃ、もう死ぬしかないかなと思っている。

逆を言うと、大抵のヤバイ状況ってのは、過ぎ去って仕舞えば、まあ、そんな頃もあったなというものだ。
何だかんだで時間は過ぎるし、物事進んで行く。
そうしていると、何だかんだヤバイ状況ってのも過ぎて行く。

人生、良い時もあれば、悪い時もある。

ただ、死んでしまうと良い時も悪い時もやってこない。

ーーー

人間、幸せな時に死ぬべきか、不幸な時に死ぬべきか。

幸せな時に死ぬと悲しい。
不幸な時に死ぬと苦しみからの解放がある。

ーーー

生きる権利は死ぬまである。
死ぬ権利は死ぬ時にしかない。

死ぬ時をどう決めるか。

生きていたって仕方がない。
そうなったら死んでも構わない気もする。
しかし、逆を言えば生きていてどうだと言うのだろう。
生きているうちにこれをしたい。あれをしたい。
例えば芥川賞を取りたいとか、か。

じゃあ、芥川賞は取れないとなったらどうするべきだろうか。
取れないじゃなく、取りたいと思えなくなった時には。
何かしたいことを見付けた方が良いだろう。

したいことが見付からない。
こういうのが鬱病の本質かもしれない。

もちろん、芥川賞が欲しいなどというのは、欲しいは欲しいのだ。
ただ、取れないと感じる、絶望してしまう。
実際には芥川賞なんかは小説さえ書いて投稿していれば、確率はあるのだ。ゼロではない。

いや、実際にはゼロの人が大半だ。
芥川賞が何なのか。
芥川賞ってのは文学だ。
文学作品を書かねばならない。
文学作品とは何たるや。
最後まで誰かが読みたいと感じることが出来る文章であり、読み終わって何かしらの満足があるもののことだ。
何を読めば人は満足するか。
それは分からない。
それを探求、発明するのが文学をするってことだ。
これから外れている限りは可能性はゼロなのだ。誰かが時間と労力を使って読み、満足を感じるもの。それは狙って書く方がいいのかもしれないし、狙わずにただ書く方が良いのかもしれない。
どちらにせよ、人が最後まで読み、誰か一人でも満足を感じない文章。これは可能性がない。

何にせよ労力がいる。
眠って起きたら欲しいものが手に入っている。
そういうことってありえない。

労力を惜しまず継続すること。
それが生きるということだ。

ーーー

しかし、もう労力を使いたくない。
こうなると終わりなのだ。

したいことがなくても、しなくちゃいけないことがあれば人間は生きていける。

したいことを失って、しなくちゃいけないことを廃棄すれば、人間は生きていかなくて良くなる。

そういうののトリガーって意外と一つだ。
ワンミス。
そこからいろんなことがほつれて破綻していく。

ーーー

大人になれば自分の死ぬ時を決めるくらいしたって良いだろう。
誰だって苦労して大人になったのだ。
自分の生き死にくらい自分で決めたって、誰かに非難されたり、馬鹿にされたりすべきものではない。


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posted by ちょろり at 22:14| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月20日

四面楚歌

四面楚歌している。
職場にて部下はヤル気がなくて、社長は屁理屈こねて、飲みに出てもしっくり来る場所がなかなかない。
家では同居人が群馬から出たいと言っている。

群馬には知人も頼れる人もなく、四面楚歌。
どこに行っても敵の国の歌が、あいつを倒せと響いている。
一つの言動の誤りで敵軍が流れ込んで来る。

おれは呑気に自転車を売って、休みの日になれば自転車に乗って、夜は時々酒を飲みに出て、気楽に生きていたいだけなのだ。
たくさんのお金はいらないし、立派な家も車も必要ない。
気楽に人と話をしていたい。
「間違えたことを言ったらどうしよう。地雷を踏んでしまったらどうしよう」
そんな心配などせず、特に考えなどせず、頭に浮かんだ話したいことを何となく口にしてみて会話がしていたいだけだ。

そういうところに至って改めて、人間として致命的だということだ。
人と話したり、人と会うことが恐ろしいのだ。
間違えた言動をしてしまったら、地雷を踏んだらどうしよう。
そんなの人間として致命的だ。

友人もどこかへ去って行ったし、正直、楽しいこともない。
生きていて楽しみがないのだ。
何かがしたい。

今の仕事をやめて、何かしたいということもないし、何か出来ることもない。

死にたいなら早く死ぬべきなのだ。

ーーー

不思議なことといえば最近雷が怖いと思うようになった。

雷なんか最高じゃないか。
当たれば即死、気づく暇もなく。
理想的じゃないか。
そもそも滅多に当たることなどない。
それなのに雷が怖くなった。
当たったらどうしようか。
どうしようもないし、どうするということもないじゃないか。
しかし、雷が怖い。

そんなこんな。
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2018年06月22日

お金を欲しいと思わない気持ち。

お金を欲しいと思わない。
非常に大事なことのような気がする。

お金ってのは実にヘンテコなものだ。
愛とお金、どちらが強いか。
多分、今の世の中、お金じゃないだろうか。
もちろん全ての人がそうではないにせよ。
それでも、お金なんて全く欲しくないって人はゼロじゃないだろうか。
今に限らずいつからそうなんじゃないだろうか。

ヘンテコな話ではあるけれども、お金なんて欲しいと思わないようになるには、お金がたくさん必要なのだ。
お金がない人がお金なんて必要ないと感じるのは難しい。
知人の株屋さんみたいにお金がありすぎて、そう、彼はもうお金がありすぎる、株の中でピコピコと動くお金ってのは、もう現実世界で実際に使うお金とは桁が違い過ぎるから、別に現実世界でお金を使いたいなんて思わないのだ。
自分のしたいことがお金を必要とすることの場合にはお金を使うけれど、高いものだから欲しいとかってのは全くなくなるらしい。
高級ブランドでもホームセンターの作業着でも彼にはどっちでも良いらしい。

彼が高い金額のものが欲しいと感じるためには、彼は貧乏にならなければいけない。

自分で燻製をしたいとか言って近所の畑を買って燻製小屋を建てたりはする。
金が掛かるとかっていうのは、本当に彼にはどっちでも良いことなのだ。
必要になれば、株の海から少しすくってくれば良いし、必要なければすくわずにいれば良い。

ーーー

それにしても、お金があって、お金が欲しいと思わない暮らしってのは難しいんだろうなと思う。
貧乏だとコンビニで買うビールが嬉しい。
それはビールが好きだからってのもあるにせよ、ビールは高いからたまにしか買えないからってのもある。
僕なんか正にそれでビールはそんなに好きでもないのだが、やはりビールを飲めると幸せになれる。
でも、海外にいる時はビールばかり飲んでいたことを考えると、やっぱりビールは好きなのかもしれない。

ビールが百円になると僕の幸福度は下がるのか。
実際、南米、アフリカあたりだとビール百円ってのはさほど珍しくもない。
1リットルで二百円だったり、350mlで百円だったりと国で違いはあるにせよだ。
それにしても、改めて考えるとやはりビールは海外でも安くない。百円って結構な良い金額だ。特にアフリカなんか日給三百円もらえれば万歳、今日は仕事があって運が良かったみたいな人も少なくない。それでも、人々はビールを飲むのだ。

人々はビールの美味しさを飲むのか、高い飲み物という喜びを飲むのか。

本来は、高いもの=美味しいものっていう図式は成り立つようにお金って作ろうとされている。
ただ、今の現実ではそれってあまり成り立たない。
白米、納豆、味噌汁、卵焼き。
我々日本人には、実に美味しい。
でも、高くはない。

僕はメロンって好きじゃない。
そんなもん個人の好き嫌いだろと言われればそれまでなのだが、全くもって好きじゃない。別段嫌いってわけでもない。ただ、ポテチとメロン、どっちか選ばせてくれるなら、ポテチが欲しいっていうレベルだ。シュークリームとポテチだとシュークリームだろうか。
でも、メロンは高い。

単純に需給バランスで価格は決まる。
メロンはみんなある程度お金を出してでも食べたいからこそ高いのだ。安くすると売り切れになってしまったり、作る人が労力の割に報酬が少ないからということで辞めてしまったりすることになる。
お金を出してでも食べたいってのは何なのか。美味しいからなのか。
これが難しい。

「あたい、朝はフルーツしか食べないの」
映画だか漫画だかでそんなセリフがある。マダムが言うわけだ。
これは美味しいからってわけではないだろう。マダムはマダムだから朝はフルーツしか食べたくないのだ。

まあ、もちろん、美味しいからっていう理由もあるんだろうが。

まあ、さらに言えば健康志向とかってのもあるんだろうが。
余談ではあるが、アフリカでは毎日マンゴーばかりかじっていたが、確かにマンゴーをかじってばかりいる時は体調が良かった。
マンゴーを休んで、パンとかウガリ(アフリカの小麦粉なんかの粉を混ぜ合わせたモチみたい食べ物)の炭水化物ばかりで生きていると体調がいまいちになった。
フルーツは健康に良いってのは確かにあるんだろう。

ただ、日本でフルーツばかり食べるというと、それが間食やデザートならフルーツが好きなんだね、で終わるにせよ、一食まるごとフルーツだけとなると、贅沢というか、少々成金趣味な気もしてくる。
まあ、確かにフルーツで朝ごはんは羨ましいとは思う。朝から美味しいだろう。

でも、メロンは好きじゃない。

まあ、フルーツはそれなりに美味しいから値段が高いというのも事実ではあるのだ。
それでも、やはり高いから美味しいと感じる部分があるってのもやはり事実だろう。

ーーー

お金が欲しいと思うのは悪いことじゃない。
むしろ、大事なことだ。
お金を稼ぐって大事だ。
お金を稼ぐことが好きで得意で、なおかつお金を使うことが好きって人が増えれば経済はよくなるだろう。

問題は経済が良くなったら世界は良くなるかといえば、そこは案外何とも言えない。

ーーー

お金を欲しいと思う気持ち。

ま、そんなこんな。


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posted by ちょろり at 00:41| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月21日

休みの日は休むということ。

夜が伸びる。
時々、そんな風になる。
酒を飲んで夜が伸びて、昼過ぎまで眠り、夜が伸びる。

人生がドン突きに当たる。
一体なんのために生きてるんだか。

「うん、休みはね、休むのが一番いいよ」
最近、ちょくちょく行くバーのマスターが言う。
「家が一番、何もしないのが一番」
そうは言うがマスターはスノーボードと海釣りが好きで、休みの日は割といろいろ遊んでいる。

まあ、そんなもんだ、と言えばそんなもんなのかもしれない。
働いて、週に一度飲みに出掛けるのが楽しみ。
特別、やることもない。仕事もそれなりにやってりゃ良い。すべき勉強もない。
飯食って、息吸って、眠って、働く。
そんなもんだ。それが普通になるのさ。

たまに大学を出てれば良かった気もする。
数学をしていたって良かったかもしれない。何かエンジニアとか研究職とか。とりあえず、生きることに飽きないような仕事をすべきだったんじゃないかって。
自転車屋してると、時々、人生に飽きてしまいそうになることがある。
まあ、どんな仕事をしてても、同じかもしれない。
自転車屋に限ったことじゃない。

どこか静かな峠でも自転車で走りに行くべきか。
そういうのは癒しがある。
でも、どこか途方も無い。

「休みの日は休むのが一番だよ。特に内容ある面白いことを語る必要なんかないんだよ。空っぽなことで笑ってるのが一番。会話ってそんなもんだよ」
まあ、人間、そんなもんかもしれない。

そんなこんな。


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2018年06月13日

群馬に来てから人間関係が作れない。

群馬に来てから人間関係が作れない。
職場は相変わらずだし、こっちに知り合いと言ってもSさんくらいしかいない。
全く知り合いがいないとなると、もしも何かあった時にどうしようなどと考えたりするし、普段アレコレあっても相談する相手もいない。

東京にいた頃は、バーに行けば知り合いは出来た。さほど仲が良いと言うほどじゃないにせよ、世間話が出来る程度の知人は出来た。
東京は冷たいとは言うけれど、言うなれば全員、地方から出て来た人同士、同じような境遇なので、知人を作るって難しくなかった。
群馬は難しい。

逆に職業を隠して自転車の愛好会、サークルなんかに入ってみても良いのかなと思う。
でも、やっぱり厄介なことになる気はする。
自転車屋の店長という素性が後になってから分かると、嘘つきということになる。
かと言って、自転車屋の店長とわかっていると、店に来られるのも困る。友人が店に来るのって少々困るのだ。どうしても安くして欲しいとか、そういうことになってしまうことがある。僕個人の店なら、良くしてもらってるからそのお返しにこれは安くしますよとかってしても良いんだけど。
同じ理由でお客さんと一緒に走りに行くっていうのもしにくい。

ジャズ作戦はそういう狙いもあった。
ジャズを通して友人、知人を作ろう、と。
残念ながらジャズはいまいち上手くいかなかった。月謝が高い割にあまり教え方も良くなかったので、辞めることにした。

引っ越した土地で知人を作るとは難しい。
ヨガ教室でも通おうかなんて真剣に考えたりするほどだ。
飲みに出掛けるより健康だし、お金もさほど掛からない。
それでも、行ったとしても、そんなに社交的でもないから別に友達なんて出来ないだろう。普通にヨガして帰ってくるだけだろう。

でも、友達、知人なんてのは無理をしてまで作るものなんだろうか。

まあ、職場で一人くらい一緒に自転車乗りに行く人がいれば全て解決する話なのだが。
自転車屋なんだからさ。
そのくらいいれば良いのにね。

まあ、生きるってのはそもそもに孤独なのかもしれない。
大人になったら友達が欲しいなんてみんな思わないのが普通なんだろう。
或いは職場に何人か友達がいるか。
地元にいるか。

はたまた、昔、良い友達がいてくれたから、こんな風に感じるのかもしれない。

みんなそんなもんなんだよ、と言われれば、まあ、そんなもんなのかもしれないな、と。
生きるって孤独なものだし、自分のことは自分でして当たり前だし。

職場では部下にはなめられているし、上からはアレコレ言われて四面楚歌だ。東京の頃よりクレーマーが少ないのが救いではある。
友人もいないし、ストレスを抱え込んでしまうと、簡単にウツになってしまうような環境ではある。

はてさて、どうしたものやら。
あまり深く考えすぎないのが一番か。

群馬脱出するにも、店長してるとそう簡単には辞めさせてもらえるわけもないし、良い仕事もないし。脱出したところでどこに行こうというアテもなく。
人生、途方に暮れてしまう。

ま、そんなこんな。


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2018年06月11日

農業大学校に入ろうかなと考える。

農業大学校に入ろうかなと考える。
農業で飯食うのは難しいだろうけど。
キャンプ場とレンタル自転車と農家の3本立てにすると面白いんじゃないかなって。
体験農家とかね。

自転車屋は頑張ってはみたのだが、あと三十年続けられるかというと自信がない。
やっぱり年間休日80日で、ボーナスも何もなしで、責任ばかり重いなんて仕事は心が折れる。
死にたい死にたいと考えながら働くくらいなら本当に死んだ方が良いだろうし、実際に死ぬんなら別の仕事をしてみた方が良いんじゃないかなって。

ーーー

一本でやるから行き詰まるのだ。
どんな仕事も利益を出そう、ビジネスにしようと思うと行き詰まる。結局、お金に勝てない。儲かることは大企業が資本を投げて取ってしまう。
儲かることは基本的にお金を持ってる人たちに勝てない。
スキルで何とか出来るかっていうと、難しい。
例えば、僕には自転車のスキルがある。でも、大企業がその気になれば自転車のスキルを持っている人間を雇えば話は済む。

だから、逆を突くんなら、あんまり儲からないことをやるってことだと思うのだ。
農業もキャンプ場もレンタル自転車もそれ単体ではお金にはならない。
ただ、それを組み合わせると相乗効果も出るし、互いの儲からないところを補填し合える。
兼業で出来ることを三つ以上持つってのが大事だと思うのだ。

ーーー

キャンプ場はしたい。
アフリカを走っていた時から思っているが、キャンプ場って良い。
だって、キャンプって気持ちいい。野宿って素晴らしい。
キャンプ場だけで儲けようとすると上手くいかない。オートキャンプだとかにして値段を高くしないといけない。
キャンプ場が難しいのは日本は土地が高いからだ。
でも、現実には日本では余った農地、働き手のいない農地が増えてきている。
この一部をキャンプ場にして、レンタル自転車で昼間近くをふらふら出来て、農業体験なんかが出来て、美味しいコーヒーが飲めてっていう空間にすれば良いと思うのだ。
メインの収入は農業で最低限の食う分だけ確保して、プラスアルファでキャンプ場をすれば良いんじゃないだろうか。

マウンテンバイクでくるくる回れる簡単なコースも作ってさ。

ーーー

まあ、そんなのは夢物語だろうか。
工場とかで働くってのが現実だろうか。
ひどく心を痛めてしまっている。対人関係でストレスのない工場で働くのが良いなと感じてしまう。

夢かもしれないけれど。
農業しながら休憩しながらギター弾いたりして。
のんびり暮らしたいのだ。

そんなこんな。


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2018年06月10日

ーーねえ、アフリカの話を聞かせておくれよ。

ーーねえ、アフリカの話を聞かせておくれよ。
ーー残念だけど全て忘れてしまったんだ。
ーー覚えていることはないの?
ーーあるよ。
ーーそれを話しておくれ。
ーー残念だけど無理みたいなんだ。

意味がないじゃないかね、溶けるさかなクン。私は鯖の方が好きなんです。そうかね、消しゴムがずっと角になるとね、これは君サボテンだよ、ずっと空を飛ぶんだ、豚ですね?ああ、そう、豚だね。

お金が大変なことになっているんですよ、地震でね、そう、火事かもしれない、じゃあ、君、橋を渡れなくなるじゃないか、渡ったって構うもんですか、でも、それじゃ火傷してしまうぜ、そこに塩とワサビを塗りましょうよ、そんなら浄水器を付けないとな、カルシウムが取れなくなりますよ、豚め、あの豚め。

三百円拾うマシーンを開発したんだよ、一日三百円、それでビールを飲んでしまっちゃ意味がないじゃないですか、だから無粋なのさ、三百円じゃタバコも買えなくなりましたね、ずっと向こうの煙突があるだろう、あそこから入っていけば良いと思うのさ、ひっかかりますよ、三百円なんだから良いさ。

壁が崩れているでしょう、構わないさ、テレビを置きましょう、サッカーはしないか、日が落ちてからするとしますか、じゃあ、目玉焼きを作ってきてくれ、でも、もう九回裏ツーアウトですよ、そうそう、そこに注いでくれ、どんどん注いでくれれば良い、友達が出来ないんですって。

羽毛ぶとんに柄を付けてはいけません。

そうだ、二人ばかり養子を取ることにしよう、長靴とペンキはどうしますか、ずっと伸ばしたら良いよ、ハシゴは買ったばかりですよ、橋の下にぶらさがっていれば良いのさ。

犬なんか拾ってきて、ビール瓶くらい何とかしてくれないかい、赤茶けた夕焼けの裏側に住むトンボはずっと筋肉を気にしているんですよ、胸の筋肉だろ、悪いやつじゃないんだ。

おーい、おーい。
おいー!
おーい。

そうだ、派手な羽を付けておこう。
きっとそういことなのだ。


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2018年06月06日

ハロー、ワールド。何も分からないね。

自転車でアフリカと南米を走るってのは、やってる人は少ない。世界一周の人でも厄介なルートなのでどちらかは外すという人もいる。
それでも、やってみた感想としては、さほど難しくはなかったと思う。

ただ、実際問題としてやるのは難しい。
死んだらどうするか。
僕は残念ながらそういうのはあまり考えずにやったからこそ出来ただけのことで、そういうのはある意味ではルール違反なのだ。
死ぬと迷惑がかかるとかそういう理由じゃなく、死んじゃったらどうしようってのを考えないってのは生き物としてダメだと言えるだろう。

そうは言っても、実際に行った時には死ぬ気で行ったわけでもない。
95%生還できるだろうと思えばこそ出発出来た。80%だったらさすがに行けなかっただろう。

僕の95%の根拠とは単純だ。
自転車で走る道=車が走る道=バスか何か走っている=いざとなれば金さえ出せば空港か日本大使館まで辿り着ける。

逆に5%の死ぬ理由は何か。
交通事故は不可避だ。それでも現地人は事故に遭わずに生きている人が大半だ。
病気もまた不可避だ。それでも、病気にかかる人ってのもそんなに高い確率ではない。マラリアなんかも怖いといえば怖いけれど、現地人たちはその環境でも生きている。
人が住んでいる場所=人間が生きられる環境=僕もまた人間であるから生きられる。
それでも、やはり死ぬかもしれない。
それが5%なのだ。

そうは言っても、現地人もパタゴニアの荒野やボツワナの象の出るエリアを自転車で走ったりしない。
あの辺りに関しては危険だ。
僕の感覚としてはボツワナの象の出るエリアは本当に危なかったと今でも思う。もう一回走れって言われたら断るだろう。野生の象は恐ろしい。

ーーー

最近、少々、仕事に関して考えることが多い。

自転車屋という仕事は好きなことを仕事にしているので満足感もあるが、恐ろしく待遇が悪い。僕の働いている会社が特に悪いってのもあるのかもしれないが、収益の構造として、どうしても待遇が悪くなる。

なぜ自転車屋はそんなに収益構造が悪いのかといえば、組み立てに時間がかかり、しかも専門の技術が必要で、なおかつ専門学校も国家試験もないので人材がいない。
車体を組み立てられて修理もきちんと出来るという人材は稀少なのだ。
単純に形になれば良いってわけでもない。
レース機材ってのはユーザーの要望が必ず出て来る。それに応えるチューンが出来ないといけない。

なおかつ販売のためにも知識と接客技術が必要だ。

なおかつ宣伝や仕入れなどの一般的小売店のスキルも必要になる。

そういった人材はなかなかいない。
僕自身、全て兼ね揃えているかと言えばそうでもない。というか、多分、そういう人はいないと思う。
一人で全て出来るなんてのは、自転車に限らずどんな仕事でも無理がある。

なので、普通の仕事は部署に分かれている。
服屋の店員でデザインから縫製、仕入れ、販売、修理までするなんて人間はいない。
システムエンジニアだって営業からコーティング、プロジェクトのプランニング、保守まで一人で全部するなんて、個人でやってない限りありえない。

会社ってのは歯車だ。
歯車ってのは、悪いフレーズでよく使われるけれど、全てを一人でできなくても仕事が出来るってのはものすごく素晴らしいシステムだ。

そういうシステムが機能しない会社、歯車じゃない会社ってのは無理がある。
それが自転車屋だ。
全て出来ないといけない。

そうなると人件費がかさむ。
結果、売っても売っても給料は増えない。
休みも増えない。

ーーー

はたまた構造としてどこかが大量に取ってしまっているかという問題もある。

業界とは怖いもので、その世界の中だけで常識が作られる。
自転車屋は給料が安くて当たり前。
自転車に限らず小売の店員は給料が安くて当たり前。
この常識はいかんとも崩し難い。

何せ崩す必要がないからだ。

自転車は完全に供給過多になってしまっている。
需要が少ない。
十万円以上の自転車が欲しいという人は多くはない。
もちろん誘導すればいくらかはそういう層は増える。
誰しも最初は初心者なのだ。
欲しいという潜在的な層があるのは間違いないが、結局、10万円なのだ。
値段的に考えて、やはり趣味のアイテムであり、一般企業のように何人も従業員がいて、きちんと休日と給料を出すことが成立するほどの需要はないのだ。
せいぜい二人くらいで、プラスでアルバイトを雇って経営するくらいまでが自転車屋の需給の現実だ。
僕の知り合いで人並みの給料と休みをもらっている自転車屋従業員はメーカー直営店くらいしかない。
メーカー直営は収入構造が違う。その店舗で売っても売らなくても良い。どこの店でも良いから、そのメーカーの車体さえ売れれば良い。あくまでショールームだ。

ーーー

働き手の現実っていうのは、雇い主には関係ない。
なぜって、自分が死ぬまでの食い扶持に関係ないからだ。
雇い主、つまりオーナーってのはそれなりの資金がある。親から継いでいる場合もあるし、自分で作ったとしたらそれなりの歳になっている。
親から継いでいる場合、そもそも金はある。経営に困ればタイミングを見て規模縮小すれば良い。食い扶持には困らない。
歳を食っている場合、あと何年か維持出来れば良いので、人材は使い捨てでも良い。

そんなわけで、自転車業界からはたいていの人が去っていく。だいたい結婚と前後して去っていく。
残るのは僕のような他に仕事がない人間くらいだ。元選手という人もそうだ。
僕は選手ほど命をかけて自転車のトレー二ングはしなかったけれど、大人になってから自転車で食ってきたし、自転車のことしかしてこなかったっていう点では選手あがりの人と同じだ。

山小屋なんかも結婚と前後して人が去っていく。

それにしても、僕のような去るにも去る先のない人間は歳を取ってどうすれば良いのやら。
アリとキリギリスじゃないが、キリギリスだってキリギリスなりにせっせと頑張ってきたのだから、何とかならないかとは思う。

ーーー

かと言って自転車屋を去りたいわけでもないのも事実だ。
やはり好きなことを仕事にするってのは良い。

逆を言えば好きなことを仕事にしていけるだけの能力がないのが問題だとも言える。

ーーー

問題なのは給料でも休みでもないのだろう。
働き甲斐なんじゃないだろうか。
不思議と今の会社は働いていて、とても気分が落ち込む。
自転車屋と一口に言ってもいろいろ違う。
服屋だってユニクロもあればセレクトショップもある。レディースだけの店もあるし、値段帯も違う。

どうすれば自分の働く場所を自分が働き甲斐を感じられる環境に変えられるかってのが問題だろう。

ーーー

今日、人を送りに成田空港まで行った。
群馬から車で行くと随分遠かった。
自転車で行っても遠いには違いないが、多分自転車の方が楽だったろうと思うほど疲れた。
何よりも成田はかつて初めて異国に出発した空港だ。
その後、ドイツの友人を見送りに行ったこともある。
自分が出発するわけでもない空港ってのは随分と考えさせられる。

僕は南米やアフリカを走りに行って何を得たんだろう。
そして、これから先の人生で、どこか異国をまた走りに行くことがあるんだろうか。
故郷の友はみんな大人になった。奥さんがいたり、子どもがいる。別にそういうことを比較したりはしない。
年金のことなんか話したりする。
北海道から歩き続ける若いカップルと知り合うことがあった。
ニュースで20代、30代の旅人が季節労働で人材不足の農家の助けになってるなんて記事を読んだ。

時々、帰りたくなる。
どこに帰るんだろう。
帰る場所。
故郷。
故郷は帰れないのだ。少し帰るくらいは良いにせよ。
なぜ。
多分、ちっぽけなプライドと下らない事情のせいだろう。
そんな理由も、もうしばらく経てば。いつになるかは分からないにせよ、親も死んで、帰ろうにも頼る人もいない、頼れないという理由でなくて、もはや存在しなくなる。
自分に子どもが出来れば、その子どもにはその生まれた土地が故郷になるのか。
そういう故郷になるような土地はあるのか。
子どもが育てられるだけの仕事のある土地はあるのか。

ハロー、ワールド。
世界の反対側まで見てきたけど、僕にはまだ何も分からない。

ーーー

最近は飲んだ夜に変に陽気になることが多い。
そんな時には、絶望を書くのは辞めて希望を書こうと思える。
でも、希望ってなんなのか。
酔った夜に書けば良いのだけれど、起きたら昨夜の感情だけ思い出して、しかし、希望の中身は何も覚えていないのだ。

ーーー

昔から思っているんだが。
みんな何を希望に生きているんだろう。
希望なんか無くても生きていくものだろうか。

僕には希望のない人生を歩いて行くのはしんどいことのように思えるんだけど。
希望は作るものなのか。
どこかに存在するものなのか。
そもそも無いものなのか。
忘却こそ人生なのか。

ーーー

そんなこんな。


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2018年05月31日

生きるとは忍耐だ。

生きる不安が募る。
まあ、時々、そういうことがある。

群馬に移って自転車屋で勤務して半年ほど。
どんどんと憂鬱が深まる。
追い風が吹かない。

残念なんだか、良いことなんだか、人生は三十歳では終わらない。
非常に当たり前と言えば当たり前だが。
とにかく今を生きるために生きてきた。三十歳より先のためじゃなく、今を生きてきた。

昔は困った時には誰かに相談したり、話したりしたけれど、今は誰にも話せない。
話してもどうにもならない。
助からない。

ーーー

無人島に流れ着いてしまったら、どうするか?
まず、問題になるのは自殺するかどうかじゃないだろうかと僕は思うのだ。
映画みたいに無人島でサバイバルして生き延びてって、現実にはかなり無理がある。
現実、魚なんか捕まえられない。ヤシの実も落ちてない。
飢えて苦しんで死ぬってのが現実だろう。
餓死って苦しい。
死にたくなったらいつでも死ねば良いともならない。飢えると自殺するだけのエネルギーもない。

そうなると手頃な気に縄をかける方が現実的とも言える。

ーーー

普通の仕事を普通にしたい。
自転車屋するにも、普通の自転車屋で普通に働きたい。
今の職場はちょっと異常だと思う。
まあ、どこに行っても僕はそう感じるのかもしれない。

薄々分かってはいたが、多分、どこにも適応出来ない。
大学さえ適応出来ていないんだから、当たり前と言えば当たり前だが。
診断されれば適応障害とか躁鬱とかアルコール依存症だとか、まあ、いくらでも病名が付くんだろう。

それでも、僕は普通の仕事を普通にしたい。
一生懸命働いて、仕事にやりがいを感じて、誇りを持って、人並みとまで言わずとも、年に100日は休みが欲しい。年に数回は三連休も欲しい。

まあ、嘘だ。
最近の僕は人と話さず、暗い穴の中にいたい。そのまま眠っていたい。
ただ、現実には働かねばならない。
頼れる知り合いも親族もいない土地だ。働かねばならない。
人生は金だ。
金が全てではないけれど、金が尽きると動けないのは事実だ。
何とか耐えるしかない。
死にたいとか一日に三回くらい考えるけれど、死ぬわけにもいかないし、死ぬかどうか考える暇があるなら死んだ方が良い。死なないなら生きるしかない。
生きるなら耐えるしかない。

無人島じゃないけれど、耐え続けるしかない。助けが来るまで耐え続けるしかない。
忍耐だ。
助けなんて来ないかもしれない。
無人島みたいなものだ。
でも、死なないなら生きているしかない。
生きるのは忍耐だ。耐え忍ぶことだ。
何を耐え忍ぶのか。
さあ、分からない。
何のために耐え忍ぶのか。
さあ、分からない。
だけど、生きるとは忍耐だ。


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2018年05月30日

コーエン兄弟のノーカントリーを見た。

コーエン兄弟のノーカントリーを見た。
クオリティの高い映画だった。
ただ、ノーカントリーは面白いのかというと難しい。

昔からある風潮ではあるが、難解な作品っていうのがふともてはやされることがある。
ノーベル賞作家ガブリエル・ガルシア・マルケスなんかが正に好例だ。
ガルシアマルケスの作品は面白いのか。
これは非常に難しい問題だ。

解けないパズルってのは面白いってのがある。
ただ、本当にずっと解けないと面白くないというのも事実だ。
非常に矛盾してはいるが、自分の力で解けてしまうパズルはつまらないし、かと言って解けないとこれはこれでつまらない。
ガルシア・マルケスが面白いか問題は正にこれで、コーエン兄弟のノーカントリーもこれに入ってくるだろう。

文学になると、シュルレアリスム文学っていうのがある。アンドレブルトンの溶ける魚が代表的だろう。
アンドレブルトンの溶ける魚は全く意味が分からない。
ただ、このシュルレアリスムというのは文学のみならず広い範囲の芸術ではびこった。
ダリの溶ける時計なんかが分かりやすいだろう。

シュルレアリスムの真髄は要はわけが分からないのに、なぜか鑑賞していて心が動くってことだ。
単純にわけが分からないだけだと、ダメなのだ。
ただ、理解可能で心が動くと、これはシュルレアリスムとしては少し違うことになってしまう。
そういう意味ではフランツ・カフカはやはりシュルレアリスムとは少々違う。カフカの場合は理不尽の積み重ねによる世界のねじれ、そこから出て来る面白さだ。意外にも意味自体は全くこじれずストーリーになっている。

ガルシア・マルケスの場合は、シュルレアリスムではなくマジックリアリズムというジャンルになるのだが、カフカよりはシュルレアリスムよりになっている。
ガルシア・マルケスは実際には起こらないことを積み重ねるのだが、ルールはこの世界のルールで語る。これがねじれになるので気持ち良いのだ。
わけが分からないといえばわけが分からない。
そういう意味ではシュルレアリスムに近いところがある。

ーーー

はてさて、マジックリアリズムやシュルレアリスムなんかは今回のメインの話ではない。

ノーカントリーだ。

単刀直入に言えば、コーエン兄弟ならビッグリボウスキーの方が面白かった。
ビッグリボウスキーは間違いなく名作だし、最高に面白いと言える。
対してノーカントリーは面白いかと言えば何とも難しい。映像としての緊張感なんかは素晴らしい。空気がすごい。結局、映画って空気が全てだ。ストーリーにワクワクするハリウッドも、まあ、それはそれで良いけれど、空気が良ければ映画は良い。

ただ、やっぱり面白いは面白いで重要なのだ。
その点、ノーカントリーは何とも言えないところが残る。
ポーイっと全てが放り投げられてしまう。
それもまたそれで良いのだが。
引っ掛かりがあるようでない。

良い映画、上手い映画ではあるけれど、最高って言うべきなのか。
もう一つ引っ掛かりがあっても良かった気はする。

引っ掛かりがないと、単純に難解で、難解なことを面白いと言えばオシャレという安易な罠に落ちてしまいかねない。

ーーー

オチが付かないから良いというのも事実ではあるものの、やはり何かしらのオチは付く方が良い。
別にオチがラストに来なくても良い。
作品の中にはオチが欲しい。

ビックリボウスキーなんかにはオチがある。
何か納得するところがある。

カフカの変身はきっちりオチがある。城は未完なのでオチまで辿り着いていないのやら、はたまたそれがオチなのやら。

ノーカントリーは、どうもこのオチが分かりにくい。

未来世紀ブラジルなんかはオチが無理やり過ぎて、実に胸糞悪い最高な終わり方をする。
ノーカントリーにはそのくらいのオチがあっても良かった気はする。

まあ、何もないから良い作品っていうのも事実なんだけど。

どこかどっち付かずな気がする。
着々とストーリーを運んで来ておいて、ノーオチで終わるってのはどうだかな、という。

まあ、単純に撮りたいように撮ったという意味では間違いないのだが。

ーーー

ただ、もっとマニアックに突き進むか、スリリングに面白くしていくか。
どっちかになれば最高だったような気もする。
まあ、面白かったのは間違いないんだが。

ふむ、なかなか難しいものだ。

そんなこんな。


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2018年05月25日

助からないアリ。

どうも四面楚歌している。
多分、仕事も上手く行かないだろう。
家のことも上手く行かないだろう。

去年、婚約破棄をした。
事の発端はその辺りから始まる。
アフリカ帰りの僕は全てが明るかった。実に様々なことが明るかった。
ただ、それは日本では思慮が足りないと言うものでもあったらしい。

正しいか間違っているかは別として、男女が好き同士になれば、結婚をして生きていけば良い。
そこに経済的な問題などはさほどない。
民族や部族の問題などはあるにしたって、経済的にどうこう、少なくとも日本で言う貧乏はアフリカでは貧乏どころかお金持ちの部類に入るってのもあるにしたって、貧乏は悲しむべきことでもない。二人の愛があれば良い。
通りすがりの旅人のわたしにはそう思えた。

旅人をしていると、その日の寝る場所、食べるものだけで頭の中がいっぱいで、あまり細かいことが気にならない。
助けてもらうのが当たり前とは思わないにせよ、助けてもらわないことには旅は進まない。
宿一つ、水一本買うにしたって、その土地の人が、コイツは気に入らないから何もやらないと思えばオシマイである。
お金を払ったって水を売っていない場所は売っていない。でも、なぜかコーラは売っている。コーラは美味しい。とは言ってもコーラなどいらない、水をくれ、って時はある。そうは言っても売っていない場所では売っていない。

飛行機やエンジンのついた乗り物の場合、そういうことはあまりない。
国丸ごと一つ水を売っていないって国は今は基本的にはない。
どの国にも国である限り、国を運営する人々、支配者階級がいて、それと交渉するヨーロッパ人たちがいくらかは住んでいる。
これも考えるとすごいことだ。世界には国じゃない土地はほとんどないのだから。

今日、公園でタバコを吸いながらアリを眺めていたのだが。
そう、その公園にはやたらとアリがたくさんいる。
幼い頃にはアリって、たくさんいるほど楽しいものだったが、大人になると、アリに噛まれると嫌だな、などと思う。
アフリカで野宿しようが何だろうが日本のアリに嫌だなと感じるのは感じる。
それで、近付くアリは足で払う。
そうなると、潰れてしまうアリが出てくる。

さすがにアリに可哀想と思うほどの優しさは今は持っていないが、アリというのは死ぬ時には突然死ぬという話を思い出す。
機械の燃料が切れるように突然死ぬそうだ。
痛いとかってのはないらしい。
虫には痛覚がないとは言うが、死ぬ1秒前まで動き続けて突然死ぬ、なんとも不思議な生き物だなとは思う。
それにしたって、苦しくないかってのは分からない。

公園の地面を見ると実にたくさんのアリが歩いている。
計画があるんだか、ないんだか、しんどいんだかどうだか、そういうのは分からない。アリと話せると面白い気もするが、もしかすると、結構、いつでも苦しみながら生きているのかもしれないから、そうだとすると、あまり話したくない。悲しい気持ちになってしまうだろう。
ーーなんでそんなに一生懸命歩いているんですか?
ーーそんなこと聞かれましても。
ーーどこか今日の目的地はあるんですか?
ーーそんなこと聞かれましても。
ーー暑いのに疲れないんですか?
ーーそんなこと聞かれましても。

足で払おうとして潰れてしまったアリは即死せず、動かせる部分だけで歩こうとする。
痛覚がないってのが本当だか知らないけれど、動く限りは動かせる場所は動かすのかもしれない。

それにしても、たくさんアリがいると言っても、地面を埋め尽くすほどではないから、仲間はなかなか行き当たらない。
アリは怪我をした仲間を助ける生き物でもある、そんなことを何かで読んだことがある。
仲間が助けてやれば良いのにと眺めるが、なかなか行き当たらない。
たまに行き当たっても石に当たったように相手にしない。
タバコが手に当たって熱くなるほど短くなったところで、やっと相手にするアリが現れた。
これで助かるのかと思いきや、別のアリが来てぶつかると、びっくりしてしまったんだか別の場所へ行ってしまった。
新しく来たアリも死にかけたアリに構うことなくどこか歩いて行ってしまった。

婚約破棄をした理由は結局のところ、経済的な理由だった。
女性から言われたのではない。
私の方が、連れて行って人生の面倒を見られるだけの自信が起きなかった。
結婚しようと行った時にはそういうことは考えなかった。好きな人といればよかろうと。
しかし、半年日本で暮らすと、もう、どうにもならなくなった。
正しく言えば経済的な現実というよりは、経済的なことに対しての自分の感じ方だったのかもしれない。

金があれば良かったのにと思うことは少なからずある。決して多くはないが。
ただ、金があれば解決したかと言えばそうでもない気はする。
金があっても解決しないし、金がなかったからといって破綻したわけでもない。

公園のアリみたいなもので、広い土地の中を歩いていて、行き当たらないから助けられないというわけでもなく、行き当たったって助からないこともある。

単純に言えば助からないときには助からないのだろう。
全てにおいてそうなんだろう。

ーーどうすりゃ良いって言うんだ?
どうにもしようはないだろうけれど、一生懸命やっておいた方が後からガッカリはしにくいだろうね。

そんなこんな。


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posted by ちょろり at 21:40| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月23日

行儀良く正座で生きること。

ぼんやりと何かを書こうと考えて生きてみているが、何を書くんだか。
その点、昔は立派だった。よく書いていた。形にしていた。
ギターも弾いていたし、大道芸もしていたし、自転車もよく走ったし、小説もよく書いていた。

昔は良かったなんて言ってしまうとオシマイな気もするけれど、多分僕自身の営みとしては昔の方が良かったような気がする。

昔と何が変わったのか考える。
何が変わったのだろうか。
友達は減った。
最近、少し飲み屋で友達を作り始めてはいるが、昔のようにはいかない。
友達が減ると自慢する相手がいなくなる。
自慢って大事だと思うのだ。
要はたいていのことは学芸会だと思うのだ。
見てもらう人がいない劇なんか練習しない。
練習して、最後、誰も観客もいない状態で壁に向かって演技しろって言われたって、多分小学生はだれも真面目に練習しないだろう。誰かに見てもらうからこそ練習するのだ。

どうでも良いが、学芸会で木の役っていうフレーズが昔からあるけど、そんなもの本当にあるのだろうか。
まあ、確かにセリフ一つだけの役ぐらいは存在はするけど、セリフのない立ってるだけの木ってない。そんな役を子供にやらせるとPTAから叱られる。
それでも、本当は木の役の方が助かる子もいるのは事実だ。人前でセリフを大きな声で言うって、まあ、それなりに大変だ。トラウマになってしまう子もいるだろう。
木の役は意外と必要ではある。基本的に存在しないけど。
そして、仮に木の役があったら、木の役の子は練習はしないだろう。いてもいなくても良い役なわけだから。大して見られないわけだから。

ただ、木の役だって、スポットライトを浴びるような木なら話は違うだろう。
結構大事な木で舞台で一人だけスポットライトを浴びるとなれば、セリフや大きな動作はなくとも、きちんと立つってだけでも、やっぱり練習するんだろう。

要は人に見られる、見せるってすごく重要なわけだ。

ーーー

それにしても、最近、書けないことが増えた。
安易に書くわけにもいかない問題。
別段、安易に書いたって問題になりはしないだろう。

良い歳こいているんだから、自分の言葉には責任を持ちなさい。
そうは言うけれど、言葉を自由に言えない世界って何とも言えない。

でも、多分、そんなもんなんだ。
言葉って外に出せない。

そうやって文を書かなくなっていくんだろう。
そうなると、僕はどうやって生きていくんだろう。

コンビニのパスタでも食べて、クソして眠って生きていくんだろうか。

ーーー

最近、ベルリンの友人からベルリンに来て一緒に店をしないかなんて言ってもらったりもした。
本当はそんな生き方が良い気がする。

行儀よく日本で人並みの振りして生きてるなんて無理がある気がする。
それでも、当面、行儀良く日本で生きてみようと思っている。

なんで?
自分にも分からない。

何も面白いことのない生活のことをどうして正しいと思うのか。
ベルリンは破滅的だろうか。
一体何が破滅的なのか。

今の暮らしはひどく息苦しい。
旅をしていないからとかじゃなく、誰のために何のために自分は行儀良く正座で我慢してるんだろうか。
まあ、月々の支払いにビクビクせず飯が食えてるんだから、それで良いじゃないのと言われりゃそれまでだけど。

そんなこんな。


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2018年05月18日

旅せずに生きる方法も、旅しながら生きる方法も、自分にはどうも分からない。

旅せずに生きる方法も、旅しながら生きる方法も、自分にはどうも分からない。

旅せずひとところに留まる暮らし、それに付随する難しさ、それがどうすれば良いのか。
旅しながら生きるには、お金の問題がある。

これが不思議なもので。
旅してるか、旅してないか、生きている限りはどちらかのはずなわけで、現実、旅しながら生きても来たし、旅せずに生きても来ている。
どちらも分からないのに、かれこれどちらもしながら生きて来ている。

苦手なことってのは実に不思議なことだと思う。
やってみたことがあればこそ、苦手と感じる。
さらに言えば、それなりにやり続けるからこそ苦手だと思う。

ただ、人間って普通は嫌いなことって避ける。
だから、苦手っていうのは矛盾の上にある。

使い古されたフレーズになるけど、
無知の知、
ってやつになるのかもしれない。

分からないってのを知るのが一番楽しい。

旅しながら生きるも分からないし、旅せずに生きるも分からない。
三十にして自分はどっちも分からないんだなって気付く。

生きづらいとも言えるけど、悪くない人生なのかもしれない。

ま、そんなこんな。


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2018年05月16日

アフリカ篇を書きたい。

アフリカ篇を書きたい。
ただ、何を書けば良いんだか分からない。
アフリカのことを話したい。
何を誰に話せば良いのか分からない。

高崎の町はひどく孤独だ。
高崎の町が孤独なのではなく、三十歳という年齢が孤独なのかもしれない。
旅の日々は随分と遠くなった。
今ではもうほとんど思い出せない。
そんなに年月は経っていないはずだ。一年と少し。その間に僕は随分といろんなことを失った気がする。
今の暮らしは良い暮らしだろう。
大学を辞めて以来、初めてのそれなりの給料。店長職としては多くないにせよ、暮らして行くに困らない程度の給料。
自転車で旅をして自転車屋の店長をする。
外から見れば良い人生なのかもしれない。
だけれど、箱の中身は随分と寂しく悲しい。
逆にどうしてそんなに箱の中身は寒々しい色をしているんだろうと思う。
外に出てごらん、すっかり春が来て暖かくなっているよ。
しかし、箱の中は鼠色でどこか寒々しい。

学生時代を思い出すことが多い。
Yとギターを弾いていた。麻雀もよくやった。たいていいつもウイスキーを飲んでいて、部屋の中は煙草の煙で満ちていた。
3DKもあるのに随分と安い家賃のアパートで隣には中国人のファミリーが住んでいて、よく喧嘩をしているような声が聞こえた。
二階の部屋だったけれど、窓を開けてもすぐに隣の家の壁だった。
いつも金はなくて、もやしと米と卵ばかり食べていた。そのくせコーヒーは美味しい豆を探し歩いて、貧乏の中にコーヒーだけ良いものが浮かんでいるようだった。
千円のジャズのレコードを探して、古本屋の百円の小説コーナーを探していた。
土日には大道芸をしに出掛けた。
数ヶ月に一回鬱病の女の子から死にたいという相談を受けて、半月ばかり大学に行かない期間が出来て、単位を落としていった。
じゃあ、その女の子がいなかったら大学を卒業していたのか。
多分、無理だったろう。
ーーその女の子とはもう関わらない方が良いよ。
何人かの友人はそう言った。
実際、僕がいなくなったって、その女の子は困ることはなかっただろう。別に付き合ってもいなかったし、女の子が僕のことを好きなわけでもなかったし、僕も好きかと言えばそうではなかったと思う。
ただ、そのくらいの年齢の頃ってある程度近しい関係の異性なら誰でも好きと言えば好きだし、好きじゃないと言えば好きってわけでもない、若い男女ってそんなもんだろう。セックスはしたかったのは間違いない。
女の子が僕に死にたいという相談をする理由は単純に僕はそういうことを話しやすい人間だったらしい。死にたいと言われても、死んじゃ駄目だよとも思わなかったし、死んだ方が楽とも思わなかった。本人が死にたいならそれもまた選択肢だと思った。ただ、死ぬと悲しいから死んで欲しくはなかった。
そういう自殺に対する曖昧なスタンスが心を病んだ女の子にとって話しやすかったんだろう。
確かに僕も時々、死にたいなんて誰かに相談したくなることがある。
特に最近は仕事で疲れていて絶望的な気持ちになることが多い。
ただ、昔と違って生きるか死ぬか迷ってみたって、生きている限りは生きているわけだし、死ぬとなれば死ぬ、考えてみても仕方がないと思うのであまり考えないし、ましてや誰かに相談するでもない。死んだ方が楽かどうかと言えば、死んだら楽も苦しいもない。
先日、新潟で日本海を眺めたのだが、そこの波の作る泡を見て、こんな泡から生き物は始まったのか、なんてふと思ったりもした。春の新潟の海は暗い。基本的に日本海ってのは一年中暗くて、波がどこか乱暴でささくれている。どこか海が固い。四月の日本海にはシャベルカーが雪をすくっていた。陸地の除雪した雪を海岸に捨てるらしい。
その海岸はゴミも多くて、そこをショベルカーが動いていて、少し離れたところに原子力発電所があった。
海の泡から生き物が生まれるなんて百年や千年どころじゃない時間がかかるのだろう。
生き物が陸地に上がって、人間が生まれて、あれやこれやして今に至って僕がいる。
長い時間かけた進化の中で、自殺を考える人間が出て来たって自然と言えば自然だろう。
女の子には死んでもらいたくなかったし、元気になればどこか遊びに出掛けたかったけれど、女の子は病院で貰う薬のおかげで終始頭がぼんやりとしてしまうようになり、家の二階からジャンプして両足骨折して入院した頃、僕と女の子は縁を切った。僕にも女の子にもそれが良かった。多分、女の子は僕に限らずほとんどの知り合いとの関係を切ったんだと思う。僕が医者でもそういう治療をすると思う。
その子は長く心を病んでしまっていて、誰か、特に昔から知っている人と会ったり話したりすると、社会から落っこちてしまった劣等感みたいなものを感じざるを得なかっただろう。
祖父が村の長老まで長生きしたけれど死んで、僕は大学を辞めて旅に出掛けた。

その頃の僕はきっと何かを探していたんじゃないかと思う。
何かを求めていたんじゃなくて、何かを探しているのが好きだったんだろう。
南米を自転車で旅して、山小屋に住み込んで働いて、自転車屋で働いて、アフリカに自転車持って行って。
それらは探すっていう行為の一環だったのだろう。

何を探し当てたんだか今でも分からないけれど、多分見付けてはいた。南米にせよアフリカにせよ。
ただ、それは帰国すると砂になって、風に吹き飛ばされてしまう。
それが何だったのか、今はもちろん、手に入れていた時でさえ分かっていなかっただろう。
ただ、何かを見付けて、手の中に握っていた期間はあったように思う。

アフリカの話か。
何を書けば良いのだろう。


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