2019年11月18日

成功哲学と住宅と。

31歳の転職。
20代の頃と違って、手取り足取り仕事を教えてもらえない。
未経験歓迎とは言っても、最低限の社会人的能力は備えているだろう、ということもあるし、周囲も良い年こいたおっさんにアレコレ言いにくい。
教えてもらいたいことは自分で考えて教えてくださいと頼む、そりゃ社会人の常識ではある。
それでもさすがに職種が全く違う。
また厄介なのが自転車みたいにカタログもない。
正直何が何だかわけが分からない。
教えてもらえるうちが花とは言うが、まあ、正にその通りである。

それでも、今の会社に移ってきたのは正解だったと思う。
この会社、経営者が他にもいくつか会社をやっている中にコンサルティング事業がある。
それで、社内で成功哲学のような教育をしてくれる。

人生を成功したいか。
正直、僕はそういうのってあんまり思わない。
でも、まあ、それは僕の言葉の中でのことだろう。

最近の僕はお金を稼ぎたくなった。
成功哲学の影響もあるのだろうが。

お金がなくて出来ないことっていうのが悲しくなったのだ。
僕は自転車屋さんの仕事ってとても好きだった。
でも、残念ながら会社の経営、財務がこけてしまった。真相は定かではないが、特別損失が膨らんでしまったとか何とか。真相究明する気も起きなかったし、意味も感じられなかったので、真相は謎のままだ。もしかすると、本当は会社は特に経営にこけてなどいなかったのかもしれない。
それでも、僕の給料はもうほとんど上がらないという状況だったのは間違いない。

まったくね。
どうして、歳を取るとお金をたくさん稼がなくちゃいけなくなるんだろう。
どうして歳を取ると、年相応の経済力なんてものが必要になるんだろう。
いや、本当はそんなことないのかもしれないのに、僕が勝手に思い込んだことかもしれない。

でも、妻が妊娠して働けなくなって、もうすぐ子どもだって産まれてくる。当然、赤ちゃんは働けない。
僕が稼いでくるしかないのだ。

遠い将来の老後の貯蓄までの話はしなくたって、赤ちゃんが安心して大人になるのに必要なお金、もしかするとそんなのって案外なければないなりに子どもは大人になるのかもしれないけどね。

とにかく僕はお金を稼いでみようと思ったわけだ。
貧乏を我慢するっていうのは半分僕の趣味でもあるけど、僕一人じゃなくて妻と子どもにまでそういうことをさせるのは僕の趣味ではない。

ーーー

成功哲学の良いところは、ただ漠然とお金が欲しいっていうことから変わったことだろう。

成功哲学ではとにかく成功するためのイメージを持って、それに向けての階段をイメージして、自分の足元まで伸ばして登っていくってものだ。
単純にそれだけのことだ。世の中に流布している成功哲学の大半がそれだけのことだ。

でも、それを本気でやるってのは難しい。

遠い将来のビジョン。
例えば子どもが大人になって手を離れたら、妻と二人でサンチャゴデコンポステーラを歩きたい。アラスカのデナリ国立公園に行ってみたい。
子どもが手を離れる前に家族で行ってみたって良い。
また自転車を持って海外を走りに出掛けたい。
それはこれまでの突撃隊長的なやり方じゃなくて。
妻と二人で楽しくしたいのだ。

100マイルが走れるようになったらUTMBにも出てみたい。

自転車でブルベだってやりたい。

もちろん、子どもが困ることなく、医者になりたいと言って一生懸命勉強したら、医学部に行かせてやれるだけのお金を作っておきたい。

そういうのを成功哲学では成功者って言うのかもしれない。

でも、別に僕の場合、それは成功でも失敗でもなく、人生のうちにやっておきたいいくつかのことっていうだけだ。
やっておきたいことだから、やれる方法を考える。

成功哲学は、ただ漠然とお金が欲しい。もう貧乏は嫌だ。っていう気持ちと夢とをお金でつないでくれる考え方なのかな、という気もする。

ーーー

まあ、少々くたびれるのは事実だけど。

でも、住宅の勉強は楽しい。
久々に三平方の定理を使ってみたりして。
数学が生まれて初めて実用的に僕の生活の中で役に立っている。
嬉しい。
まあ、大した数学は使わないんだけど。どちらかと言えば算数か。
でも、何だか嬉しい。

まあ、そんなこんな。
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2019年11月07日

転職して一週間ほど。

新しい仕事にボチボチ慣れていってみている。
と言っても、はっきり言って、何の仕事もしていない。
詳しいことは分からないが、まずは会社の雰囲気に慣れてね、ということみたいだ。
優しい会社で助かっている。

ーーどうしてこの会社に来たの?

ということを何回か会社のいろんな人に聞かれた。
はっきり言ってお金のためだ。

別にこれは恥ずかしいことじゃないと僕は思っている。
家族が出来て、家族で幸せに暮らすためにきちんとした収入が欲しい。

まあ、一番は自転車屋で稼げれば一番良かった。
ただ、自転車屋で店長職をしているのと、
住宅業界で未経験一年目で給料は同じなのだ。
それでいて年間休日は20日以上違う。
まあ、残業なんかは増えるのだが。

住宅業界で三年もいれば自転車屋で店長職をしているより1.5倍は収入は良くなってしまう。

さすがに1.5倍違うと随分暮らし向きも変わる。

ーーー

人生はお金ではないとは思う。
仕事のやりがい云々というのも、どうかなという気はする。

生きているだけで幸せ、これも一つの真理ではある。

どうしてお金がそんなに必要か。
孤独にならないようにお金が欲しいんじゃないだろうか。
お金がなかったり、貧乏だったりすると、社会の目が厳しい、ような気がしてしまう。

すごく良い車とは言わずとも、一家に一台は普通車は欲しい。
性能的な問題というよりは、世間の目なんだろう。

世間の目を気にせず生きられるようになれば、それは強い。

別にお金がなくたって、家族で近くの公園にサンドイッチを持って出かければ幸せだろう。
異国へ家族旅行など行かなくたって幸せに生きていける。
実際、自分もそうだった。
家族でお出掛けなんてほとんどしなかった。
日曜はだいたい野球だった。
そんなもんで良いのだ。
良い車に乗って、遠くに出かける必要などない。

でも、家族が増えるに際して、お金がないのが不安に感じられる。
それは僕の心が貧しいからなのかもしれない。

ーーー

自転車屋を辞めてから、めっきり自転車に乗ってない。
寂しいことだが。
まあ、仕方ないことでもあるのだろう。

冬が来るから、乗るなら今のうちだろう。
でも、何となく乗る気が起きない。

周りに自転車の仲間はいない。
ついこの前まで毎日自転車に触れて生きていけたのに。

ーーー

そうは言っても新しい仕事も楽しい。
全く新しい業種だから勉強することも多い。
新しいことをしていく。

人間、何をするかって三つだ。
できることをする。
したいことをする。
しないといけないことをする。

できることをする、日々をルーチンワークにはめていく。
それが一番楽ではある。
でも、人生、長いのだ。
昨日まで上手くいっていたことが上手くいかなくなることだってある。
できることだけやっていると、上手く行かなくなった時にニッチもサッチも行かなくなる。

しないといけないことをする。
これは必要なことだ。
でも、しないといけないことってモチベーションはなかなか上がらない。
モチベーションの低いことは効率も悪い。

したいことをして生きていけるようにしないといけない。
しないといけないことをしたいことに寄せて行くって大事だ。

ーーー

困ったら人と話そう。本を読もう。勉強しよう。
そして、どうしてもダメなら自転車でも乗ってみよう。

それで人生たいてい上手くいく。

ま、そんなこんな。
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2019年11月01日

茅野。いいところ。

茅野での新しい暮らしが始まっている。
今日は新しいお仕事初日だった。
最初の2時間は緊張していたが、みなさん良い人で割と早くなじめた。
長野の人は穏やかで良い。

とりあえず、今日は特に何の仕事もせず。
パソコンの設定したりなんやかんや。
とりあえず、みなさんの名前と顔を覚えられて良かった。

ーーー

山小屋と自転車屋こそしてきたものの、普通の会社って初めてだ。
通勤手当だとか有給だとか、ゴールデンウィークに盆、正月。まさに夢のようだ。

自転車屋を辞めたことについて悲しいところも多かったが、新しく住む茅野という町は実に素晴らしい。
給料、休日ももちろん大事ではあるが、それだけじゃ人間つらい。住環境、遊ぶ環境ってすごく大事だ。

少しふらふらっと出掛けると標高1000メートルになってしまう。
先日は妻と森の中の珈琲屋さんに出掛けた。
本当に森の中に珈琲屋さんがあるのだ。

夏場ならその気になれば、そのまま八ヶ岳にも登れてしまう。登山口まで車で30分も掛からない。自転車だと小一時間か。
八ヶ岳という山はこれまで北アルプスと比較するまでもないと思っていたが、眺めていて非常に美しい。
北アルプスのスケールの大きさというのも素晴らしいのだが、いかんせん、奥深い、町から遠い。
それに対して八ヶ岳は近い。
そして形が良い。
茅野はまさに八ヶ岳の裾野にある。

そして、茅野の良いところは隣の原村に雰囲気の良いカフェが多いということもある。
実際にはカフェなどそんなにしょっちゅう行くものではないが、良いカフェがある町って、良いカフェが好きな住人がいるということでもある。
とても文化的なのだ。
東京の富裕層の住みそうな別荘地も多い。

八ヶ岳山麓。
なるほど、スローライフを求めて移住者が来る町である。
まあ、僕はスローライフとかはあまり求めてなかったんだけど。
山小屋で何シーズンか過ごせばスローライフもお腹いっぱいになるのだ。
でも、スローライフ、嫌いじゃない。
スローライフまでは求めていなかったが、長野県に住みたいと考えたのは事実だ。

山麓ということで言えば、前は榛名山の山麓だったが、山麓のスケールが違う。
八ヶ岳山麓とは実に広い。
逆を言えば平地がほとんどないのだが。
なだらかな坂でずっと諏訪湖の盆地へと下っていく。
このなだらかな坂というのが実に長い。
スケールが大きい。
それでいて、盆地の箱庭感。

でも地元の人は、狭くて閉塞感があると言う。
まあ、それも納得はする。
生まれてから死ぬまでこの盆地の中で住むとなると確かに閉塞感のようなものを感じるのかもしれない。

ーーー

31歳にして思うのが、転々と生きることが出来るというのは楽しい。
どこでも生きていけるということ。

ほとんどの人が故郷の町や仕事の都合で生きる町を決める。
実際は僕も仕事の都合で住む町が決まる。
さすがに住む町を決めて、そこで都合良く仕事が決まるってことはなかなかない。
それでも、ある程度はあっちに住みたい、こっちに住みたいと移っていく。

転々としていると地の人が生きているのを見る。
一口に日本と言っても案外いろんなことが違う。
もちろん、ベースは同じだ。
前に書いた良いカフェがあるかどうかという話もそうだし、群馬県の場合は良い車に乗っている人が多かった。外車に乗っている人が多い。日本車にしてもちょっと良い車っていうのが多い。なぜかは分からなかったけど。
一括りにその地域の人の特性を決めたりするのは良くないが、人間、集団で生きる生物だから、やはりその土地の傾向っていうのはあるのだろう。

また面白いのが海外になると、さっぱり違うようで、今度は逆に同じ人間なんだなーと感じるところの方が増える。
アフリカも南米も行く前って随分怖い。
特に僕らは黒人って怖いって感じる。
これが行ってみると、全くもって普通の人々だ。
お酒と煙草があればそれだけで仲良くなれる。
アフリカでもタバコは体に悪いという思想が浸透しつつあるが、やっぱりタバコをスパーっと吸っていると、ミスター、1本ちょうだい、と話になる。

ーーー

そういえば、タバコの話といえば。
今度こそタバコをやめるかもしれない。
別に子供のためじゃない。一応、少しは子供のためでもあるけど。どちらかと言えば、仕事のためだ。今の時代、やっぱり営業職はタバコを吸わない方がイメージが良い。
と言いつつ、自転車屋の店長してる頃は裏の公園でスパスパ吸っていたのだが。

子供の発育にタバコは悪いと世間では言う。
ただ、僕はそうは思わない。
僕らが子供の頃って、家の中でタバコを吸うお父さんってたくさんいた。
じゃあ、僕らの友達で、そういうタバコを吸うお父さんがいたせいで大人になっても呼吸器系がおかしい人っているだろうか。
ちょっと聞いたことがない。

むしろ、100歳近いじいさんが美味そうにタバコを吸っているってのは見かける。
まあ、最近は減っただろうけど。

そういえば、シンセイ、ワカバ、ゴールデンバットがなくなってしまった。
安いタバコを美味そうに吸う老人って、素晴らしく平和だったのに。

煙草は文化だ。

でも、今度ばかりは煙草をやめるかもしれない。
金のために。
まあ、タバコ吸ってても稼げるなら、やめることはないだろうけど。
30代は稼げる父親を目指すのだ。

でも、茅野は空気が乾いていて、煙草が実に美味しい。

ーーー

人生がドンドンと進んでいく。
気付くともうすぐ40歳。

何か凄いことが出来ないだろうか。
いまだにそんなことを考えたりもする。どこの高校生だい、って話だけど。でも、割と僕は今でも何かすごいことをやってみたいと思っている。
別に偉くなくても大したことじゃなくてもいいので、何かすごいことを。

子供が生まれるから保身に走っている気もするけど。
そりゃ、子ども、家族は大事だ。
それは当たり前であり、当たり前のことは当たり前にやらないといけない。
その上で何かすごいこと。

とりあえずは、100マイル走れるようになると楽しいだろうなと思うのだ。
ランニングで、ね。

本当は今年のうちに100キロを目指していたけど、まだ難しそうかな。
50キロくらいはもう走れるだろうか。

まあ、無理はせずに。
のんびり100マイルを目指そう。
コースもなにも考えちゃいないけど。

まずは仕事か。
当たり前のことを当たり前に。

ま、そんなこんな。
posted by ちょろり at 23:03| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月28日

茅野に移った。

長野県茅野市に引っ越した。
引っ越して改めて群馬って都会だったのか、と思う。
そういえば、山小屋の勤務を終えて群馬に住み始めた頃も群馬って都会だなと思ったっけ。

でも、故郷倉敷の方が群馬の高崎よりも人口が多い。まあ、やたらと広いからというのもあるが。

最寄りのスーパーは車じゃないとちょっと遠い。
茅野のスーパーにはイナゴが普通に売っていて驚いた。
魚はやっぱり多くはない。
道はとにかく少なくて狭くてクネクネしている。
通勤時間帯だけはすごく混む。
市役所は人口が少ないからか、待ち時間も少なく、親身に丁寧に教えてくれた。
特に助かるのは子育て周りのことを保健所の人がとても丁寧に教えてくれるし、困ったらいつでも連絡下さい、とのこと。
牛丼屋なんかでも見てると、接客効率が悪そうに思った。

高崎は都会だった。人々は早かった。
東京はもっと都会で人はすこぶる早く動いていた。

物理的な動きではなく、脳みそが休まる暇がないような早さ。

それはそれで良いことなのかもしれないが。
長野の少しゆとりのある感じの方が個人的には好みだ。

群馬も良かったけど、群馬は何だかスキがなくて。
あるいは僕も店長職、管理職として気負いすぎているところもあったのかもしれない。

群馬と東京を並べるのも無理はあるかもしれないが、関東平野はやっぱり早くてスキがない。

そんな風に思っていたら、いざ、仕事が始まると長野だって大して変わらないのかもしれないけれど。

でも、やはり長野は山小屋の思い出がある。
山小屋も死ぬほどキツかった。でも、やっぱり精神的にスローでゆとりみたいなものがあった。
隙間。

夜にランニングに出たら星が綺麗だった。
茅野の田舎道は歩道が狭かったり、無かったり、デコボコだったりして、車が来るとはねられそうで怖くて、裏道はクネクネ曲がって分かりにくくて。
まだ11月に入ってないのに寒くて。
でも、星がとてつもなく綺麗。
昼に走れば八ヶ岳も綺麗なんだろう。

長野県が終の住処になると良いなと思う。
いろんなところに住むのも楽しいんだけど。

まあ、そんなこんな。
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2019年10月24日

さようなら群馬。

群馬最終日。
荷物を引っ越し屋に渡して、Sさんご夫婦に挨拶に出掛けた。
あまりにもちょくちょく、しかも突然に押しかけるので迷惑かなとも思ったが、僕はSさん夫婦の所に遊びに行って話を聞くのが好きなのだ。
Sさん夫婦は浮世離れしていて、そして正しいことを言う。
もちろん、世の中に絶対的な正しさなどないのだが、少なくともSさん夫婦の話というのは僕にはとても正しいことのように感じる。

生きるとはイージーじゃないけれど、ただ食事のために生きては寂しい。
それでも、日々生きていくためにはやはり先立つものはお金であり、仕事に忙殺され、良い音楽を聴くだったり、自転車を楽しむだったり、本に触れるということから離れてしまいがちになる。
もちろん、それは悪いことじゃないし、僕も次第にそうなっていくだろう。

Sさんも昔は一流企業の一流サラリーマンだったので、仕事に忙殺されていたことだろう。
ただ、今は老後に入り、数年に一度異国を自転車で旅して暮らす。
家は素晴らしい木材を使った家だ。しかし、豪邸というわけではない。シンプルに二人が老後を暮らすために不足なく、なおかつ余分なのがなく。
クラシックかジャズが流れている。
Sさんの昔のことは詳しくは知らない。
それでも、Sさんはただの元一流サラリーマンでもなく、ただの遊び人でもない。
だから、それは単なる小洒落た作り物のカフェで過ごすような時間とも違う。
何がすごいかと説明するのも難しい。
ただ、Sさん宅でSさん夫婦と会話をして過ごす時間というのは僕にとって本当に素晴らしい時間だった。人生の真理とまでいうと大げさな話になるかもしれないが、人生のゴールとは何か、何を求めて人は生きるのかというと、ああいう時間を過ごせる老後に辿り着くっていうのは一つあるんじゃないだろうか。

仙人ハウスとでも言うべき時間が流れる。

と言っても、話す内容は別段大したことでもなく、毎回同じような話なのだが。

ーーー

話の流れでS夫人に僕が大学をやめた理由を話したところ、つまり僕は狭い教室の中でたくさんの人が前を向いて密集している空間っていうのがどうしても気持ち悪くて駄目だった、ある意味、精神の弱い登校拒否的な理由で大学を去ることになったのだということを話したところ。
ーーあら、わたしは福田くんは旅なんかもドンドンして、今回の転職にしても、バイタリティを持って自由な思想でドンドン強く進むようなタフな人だから、大学を辞めたのも色々考えた上なのかと思っていた。
と言われた。

Sさん夫婦の時代は頭の良い人、向上心ある人が学生運動したり、大学を中退するというのは少なからずいたので、僕もそういう、言うなれば『良き中退』の人と思っていたようだ。

残念ながら僕の時代は、賢くて頭が良くてバイタリティがある人がポジティブな理由で大学を中退することって少ない。
まあ、稀にそういう人もいなくはないが。
それでも、僕の時代は、大学が無意味で腐ってると思う人も、一応は学歴だけは卒業のところまではする。

辞めるのは、僕のように残念な人だけだ。

ーーー

でも、S夫人が僕のことをそんな風に立派な賢い人と思っていたのは、面白かった。

僕の中では僕は僕だ。
二十歳の頃から変わらず。
でも、当たり前だが、外から見ると二十歳の僕と今の僕じゃ随分違うんだろう。
今の僕は自分の好きなことを通して自転車屋のプロショップの店長までした。そして、次の人生のハードルのために新しい仕事を探してトライする。
結構バイタリティに溢れた、タフで健全な人間というふうにも見えるのだろう。

これは大発見だった。
言われてみると確かにそういう風にも見えるのかもしれないと。

でも、まあ、実際には僕は僕で。二十歳くらいのころ、人生の悩みを憂鬱に考え、大学に行けなくて辞めざるをえなくて、やけっぱちに日本を飛び出した僕と。今の僕。僕の中では同じ僕だ。まあ、確かにいろいろ変わってはいるけど、本質は同じだ。

でも、Sさん夫人が僕のことをバイタリティあふれる人間だと思ってくれていたのはとても嬉しいことだし。

これを機に根暗は辞めてバイタリティあふれて、人生を進んでいく人間になってしまっても良い気もする。

まあ、現実は僕はとてもネガティブで後ろ向きに後ずさる人間ではある。
とてつもない速さで後ろに進むもんだから、逆にバイタリティあふれるのかもしれない。
自分では怖いと感じることから後ずさって後ろに進んでいるつもりでも、傍から見れば後ろ向きも前向きもなく、積極的に人生を動かしているように見える。
まあ、実際、全力で走ってはいる。

前向きだろうが後ろ向きだろうが、自分のために自分で考えて全力で何事かをし続けているって大事だ。

まあ、せっかくだから、これからは後ろ向きじゃなくて、ポジティブな感じで全力で生きていく方向にしていこうかな。

ーーー

自転車屋をやめると、あまり自転車を乗らなくなってしまうかもしれない。
段々と仕事ばかりになってしまうのかもしれない。

なので、また小説を頑張ってみようかなと最近思っている。
もちろん、仕事は大事だ。
父親だから稼がないといけない。
仕事が一番。

でも、父親としての人生も、夫しての人生も大事だが、自分の人生もやはり大事だ。
そりゃ、欲張りな話ではあろうが。
それでも、子供には子供の人生があり、妻には妻の。僕には僕の。
妻と子供を大事にしないといけないけれど、自分も大事だ。そして、自分の人生のためのことは自分がしないといけない。誰かがしてくれるわけじゃない。もちろん、助けはあるにせよ。

だからこそ、小説をまた一笑懸命やっていったほうが良いんじゃないかと思う。仕事と家族優先だけど。

ーーで、福田くんはどんな小説が書きたいの?
S夫人にそう言われて、答えに窮した。
書きたいものが分かっていれば、書いている。
そう、別に実際に書くという作業自体はさほど難しくない。
何を書きたいかが分かるってのが一番大事で、難しい。

まあ、のんびり行こうじゃないか。
とはいえ、ぼんやりのんびりしてるとあっという間に随分歳が過ぎてしまうので怖いが。

さて、なんの話書くかな。
短編くらいからリハビリしてみるか。

ーーー

新しい土地にもSさん夫婦のように、人生に光を導いてくれる人と出会えると良い。
そう、都合良く良い人と出会うのは難しいにせよ。
でも、多分、だれかそういう人が現れてくれる気はする。
何だかんだ、これまでは毎回そういう人が現れてくれた。
きっとそういう人に出会えるだろう。まずは信じるって大事だ。信じること、望まないことは訪れないから。

さようなら群馬。
群馬の二年間も実にてんこ盛りで楽しかった。

ま、そんなこんな。
posted by ちょろり at 01:07| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月20日

イメージとパッションで人生を。

人生はイメージとパッションだ。
想像力と情熱。
イメージを持って、パッションで進んでいく。
困った時には、毎回、そのフレーズで切り抜ける。

正直、見知らぬ土地で、未経験の仕事で。
初めての子ども。
正直なところ、一歩間違えると不安でウツになっちゃいそうだ。

でも、簡単なことなのだ。
家族で楽しいことをしよう。
子どもと妻で、どこか旅行に出掛けよう。
何か遊ぼう。
そうなると時間とお金はある程度必要になると思うのだ。

じゃあ、お金を稼ごう。
休みもある程度ある会社で。
休みとお金が高い仕事ってきっと難しいだろう。
しかも、それが未経験の業種で見知らぬ土地で。

でも、それさえ出来てしまえば、子どもと妻と三人でどこか綺麗な山に登ってみたり、遊園地や動物園に行けたり。
少年野球の応援に行ったりキャッチボールをしたり。
いろんな楽しいことが出来る。

そして、新しく難しい仕事にトライする。
それはきっととても楽しいことだ。
厳しくて大変かもしれない。
でも、そういうことが出来るようになれば、多分気持ちが良いはずだ。

難しいことを高いレベルでやっていけるように勉強も必要だろう。
そのためには日々コツコツでも勉強をする習慣を身に着けよう。
ランニングとあわせて、なにか自分のために勉強をコツコツ継続出来るよう。

そういう日々はきっと素敵だ。

そういうイメージに向かって情熱を持って生きていけば良い。
そうすれば、楽しく過ぎていくはずだ。
いろんなことが色彩を帯びて駆け抜けて行ってくれるはずだ。

怖いのは怖いけどね。
そりゃそうだ。
引っ越しはウキウキもするけど、心配も多い。
新しい暮らし、仕事、新しく加わる家族。

アフリカ、南米に自転車旅しに行ったときの飛行機。
日本を離陸する瞬間、着陸する異国の土地が見えた瞬間。
正直、思うのは、
ーーああ、やっちゃった。今回はヤバイかもしれない。怖い。
である。
ウキウキもするけど、怖いのほうがはるかに大きい。
特にアフリカは、飛行機から見ると冗談抜きでサバンナ。テレビで見るアレだ。その中を細く道が伸びていて、掘っ立て小屋みたいな家の集まった集落が時々ある。
自転車でそこを走っていくと思うと、
ーーああ、やばいな。今回はやばいかもしれないな。
が正直な気持ちである。

でも、それを走りきれたら素敵だな、とも思うわけだ。
逆に怖いからこそ、そんな大地を走りきれたら、僕ってすごいんじゃないか、って。
怖いからこそ、ウキウキもするわけだ。

まあ、全部リセットして帰国できる飛行機が待機してたら、帰国してしまうかもしれないけど。

冗談抜きで本当に怖かった。
そして、本当に楽しかった。

スリルを楽しんでいるとうわけじゃないのだ。
怖いものは怖いし、可能なら怖いものなど避けて生きていきたいと思う。
でも、その向こうに素晴らしい世界が待っているなら。
いや、世界は平等か。
そのトンネルをくぐり抜けた向こうに素敵な自分が待っているとしたら。
ウキウキして自転車をこぎはじめようじゃないか。

ま、そんなこんな。
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2019年10月19日

知は力なり、なのか。

気付けば、宅建士の試験が明後日になった。

正直、工務店では宅建士は使わないので少しモチベーションは下がってしまっているのだが、受験料も払ったので取得するつもりでいる。
受検を申し込んだときには、まだ次の仕事が決まっていなかったので、とにかく資格を取るため動いたものの、工務店になったわけだ。

ーーー

さて、宅建士、受かるのか。
もちろん、独学である。
自転車屋と山小屋しかしたことがないので、不動産業などさっぱり分からない、さっぱり未経験だ。

勉強期間は約3ヶ月。

自信のほどは半々だ。
こういうときは落ちるのが相場のようにも思うが、何となく受かる気はしている。

実際、勉強していて、まあまあ解けるようにはなったけれど、やはり難しい問題はつまずくし、引っかけ問題にも簡単に引っかかってしまう。

特に暗記が苦手なので暗記が必要な問題はよく間違える。

それでも、何回も間違えていると段々と覚えてくるものだ。

まあ、合格するだろうとは思うけれど、合格しない可能性もそれなりにある。
それなりに自信はあるけれど、落ちるかもしれないなっていうのが本音だ。

やっぱり途中から、
「工務店じゃ使わないからなー」
などとモチベーションが落ちてしまって、勉強時間が減ったのが痛い。

ーーー

大学までの勉強がはじめて人生の役に立ちそうだな、と思う。

直接的に学んだ数学などが役立つわけじゃないが。
試験勉強は実に死ぬほどやった。
試験勉強なんか試験以外で人生の役に立つことはない、って思いながらもやった。

現実には、人生では学校以外でも、大人になっても資格試験とかってあるし、そういうのって人生の役に立つのだ。

ーーー

これまでの人生で大学までの勉強が役に立ったことって正直なかった。
僕は学生時代は数学が出来たのだが。
数学が出来たおかげで人生役に立ったことってない。

数学が出来ると、人から、
「頭が良いんですね」
など、お世辞もあろうが、ほめてはもらえる。

ただ、数学を使ったことって本当にない。

数学に限らず様々な学問がそうだろう。
それにしても、数学が役に立つことって、本当になかなかない。

統計学なんか使って集客の分析なんかかけてみたところで、これ、統計学を知らない社長さんの会社では重宝してもらえない。
現場では統計学よりも肌感覚である。
実際、それで良いと思う。
アレコレ、MBAのマーケティングだとかの知識をこねたって、現場ではいかに人の心を掴むかが全てだ。

たぶん自転車を作ろうって話になると、微積や流体力学なんかが役に立つのだろうが、組み立てる、修理するのにはそんなこと全く必要ない。

ーーー

勉強など無意味なのだろうか。

どうだろう。
分からない。

以前は、
ーーいや、勉強、学問は大事だ。学ぶって大事だ!
と思っていた。
でも、どうなんだろう、って最近思うのだ。

今も学ぶってことは好きだ。
最近はユヴァル・ノバのサピエンス全史なんて読んで(オーディオブックだから聞いているが正確)人類史みたいなことを勉強してみているけど。勉強ってほどでもないけど。

勉強ってのはあくまで好きでやるものなのかな、と僕は思うわけだ。

ーーー

宅建士の勉強だって、必要だからやるっていうのも事実だけど。
半分好きで勉強してるところもある。
別に宅建士がなくたって、ファイナンシャルプランナーがなくたって仕事って出来る。
もちろん、持ってないと出来ない仕事も存在はするし、ある程度必要だから勉強するという側面は間違いない。
でも、別に生きていく上でどうしても宅建士の資格を持ってないと働けない、明日死ぬってことはない。

勉強すると、単純に豊かになる。
何事もそうだろう。例えば宅建士じゃなくて法律なんかだと分かりやすいかもしれない。
別に仕事に使わなくたって、ぼくらの生きる世界を司っている法律を知っていれば、知っているよりは豊かに生きれるんじゃないだろうか。
別に裁判に勝つため、証書を作成するためではなく。
どういう法律が僕らの世界にあって、僕らの行動を制限したり、守ったりしてくれているのか。
そういうのを知って生きているって豊かなことのように僕は思うわけだ。

ーーー

フランシスベーコンは、知は力なり、と言ったけど。

力として使うことも出来ることもあろうが、知は豊かなり、じゃないだろうかと最近の僕は思う。

かと言って知がないから豊かじゃないとは思わない。
昔、塗装屋さんで働いていた頃、それこそ勉強とは無縁の人と一緒に働いていた時、学問や知ってのは生きる幸福とは直接的には関係ないんだな、って僕は思った。
その人たちは魅力的だった。
生きること自体を純粋に生きているような感じがした。

それこそアフリカでは純粋にただ生きるって素晴らしいって思ったものだ。

自分で知は豊かなりとか言ったのに、別に知は力でも豊かでもなく、単純に趣味なんじゃないかな、とか思ったりする。
好きな人は好きでやれば、って。

ーーー

そうは言っても、知は力なり、っていう言葉って強い。

実際、今の日本の社会をはじめとする多くの社会では知があって学歴や資格があると収入が高くて、安定した暮らしを過ごしやすい傾向にある。

でも、同時に意外と高収入の人でも、学歴がなかったり、勉強は好きじゃないって人もいる。
特に資格の勉強や学校の勉強についてはそうだろう。
ただ、その仕事、お金に直結することについては調べたり、体験的に修得しているんだろうけど。
世にいう実学とかいうことになるんだろうか。

ーーー

知は力なりが強いのは、世界がそれを望んでいるからだ。
別に望んでいるのは、神様でもないし、地球や自然でもないし、宇宙人でもない。
かと言って人間でもない。
国家だったり、あるいはもっと大きな集団が望んでいるのだ。

ーー学問、文化が発展すれば人類はより良くなる。
そういう幻想に基づいているわけだ。
幻想というと失礼ではあるが。

これ、誰が言い出したというわけでなかろう。

実際、学問、文化が発展して人類はより良くなっただろうか。
案外、そうでもない気がする。

たとえば、石油からプラスチックが作れるようになって便利になったような気はする。
でも、別にプラスチックがなければ、ないなりに人間は生きていただろう。
むしろ、プラスチックゴミの問題も出てる。
さらに言えば、石油も限りがある。プラスチックって開発されて使ってしまうと便利で、プラスチックなしの暮らしって想像すら出来ない。なんせアフリカでもみんなに広く愛用されている。
安い、軽い、木材みたいに腐らない。
確かに便利ではある。
それゆえに今からプラスチックのない世界に戻るのって難しい。
プラスチックを捨てずに生きていこうと思うと、プラスチックゴミの問題や、石油資源の問題都向き合わないといけなくなる。
多分、それをクリアしたら、それゆえに生まれた問題に向き合わなくちゃいけなくなる。

これに対して、そもそもプラスチックが発明されていなかったらどうか。
案外、幸せだったんじゃないだろうか。

プラスチックだとパッとしない、分かりにくいというなら、物理学の集大成ともいうべき原子力のことを考えると分かりやすいかもしれない。
確かに便利だ。莫大なエネルギーを作れる。
ただ、遥かに厄介だ。

アインシュタインが悪いわけじゃないけれど、原子力エネルギーは見つからない方が人類は平和で幸せだったんじゃなかろうか。
アインシュタインが見つけなくても、きっとドイツの学者が発見していただろう。
その人が発見しなくたって、だれかがいずれ発見していたかもしれない。

原子力はいずれ発見、開発される流れに人類は進んでいたんだろう。
もちろん、アインシュタインすごいし、偉いのだけど。

ーーー

何が言いたいかって難しい話だけど。

知は力なりってのを最近の僕は疑ってるってことだ。
もっと正確に言えば、知は力なりという今の世界の根本的な常識を疑ってるわけだ。

まあ、そうは言っても子供が産まれるし、子どもはこの世界を生きていくんだから、この世界の常識に合うように、この世界からはみ出されて悲しかったり苦労したりしないで欲しいので、これはこれとしてやっていくのだが。

ーーー

なんかどんどんと話はそれていくけど。

とりあえず、宅建士の試験頑張ろ。
明日は前日なのに一日遊びに出掛けるんだけど。

まあ、大学受験の時もそうだった。
受かる人間は直前まで勉強しなくたって受かるのだ。前日ギリギリまで勉強しないとどうにもならない人って、そもそも間に合っていないのだ。
まあ、滑り込みセーフとか、最後まで諦めないとか、言いようは色々あるけど。

ーーー

自転車屋をやめて時間や気持ちに余裕が出来ているからか、最近はそういうどうでもいいようなことを、若い頃のようなことを考えることが多い。

ま、そんなこんな。
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2019年09月26日

箱庭、茅野。

来月から茅野という土地に住むことになったので、妻君とアパートを探しに出掛けた。妻君の腹はもう随分と大きくなっていて、留守番しているのが良いかとも思ったが、妻君としては見知らぬ土地、本当に全く一度も行ったことのない土地なのだから住む前に一度は自分の目で見て家を決めたいということで、二人で出掛ける。

茅野という土地は長野県にある。
長野県という土地は山ばかりである。
ボコボコと山ばかりある中に少しへこんだような形で盆地がある。長野の人は平、タイラと呼ぶらしい。
盆地は大きく分けて三つで長野市のある平、松本市、伊那市のある松本平、そして諏訪市、岡谷市、茅野市のある諏訪平といった具合だ。
さて、その諏訪平に住むことになるのだが、諏訪平は三つの盆地の中では比較的小さい。その上、諏訪湖という大きな湖がある。
湖とは景色は良いけれど、車が当然通れない。湖の反対に行くにはぐるりと湖沿いに行くことになる。人が住む平らな土地は少なく、湖周りの交通の便は良くない。
しかしながら、この諏訪平というのはミニマルで箱庭といった様相があり、非常に文学的な雰囲気のある土地である。
箱庭的美しさというのは、長野県の三つの平にいずれもあるが、諏訪平は一番狭いからか非常に箱庭感がある。
その中でも茅野とは八ヶ岳に向かって少しずつ登っていく土地であり、坂の美しさがある。少し行くと、気付けば坂を登っているので、箱庭的美しさのある諏訪平、そして美しい八ヶ岳を見られる。
そのまま映画を撮りたいと思わせるような土地である。

群馬から一つ目の山、軽井沢を越えて佐久に行き、そこから二つ目の山、八ヶ岳を越えて諏訪平に着く。
この二つ目の山を越えるには高速道路がない。随分遠回りをしないと高速ではいけないし、当然、平らな土地で行ける道はない。非常に不便である。しかしながら、途中で白樺湖がある。
白樺湖はさほど大きな湖でもない。
今の時期は紅葉もしていない。
しかし、標高が1400mほどあり、周囲の山の形も美しい。
長野の山は同じ県内でも場所によって随分と形が違う。険しい北アルプスに対して、八ヶ岳は緩やかで優しいカーブがある。八ヶ岳より東の群馬側になると妙義山で有名なギザギザの形の山になる。
こうも分かりやすく山の形、雰囲気が変わるというのも珍しい。

妻君と二人、何軒か見て回ったが、想像以上に賃貸の相場が高い。
このくらいの町の規模なら、普通もう少し安いように思うのだが、全くもって安くない。
群馬の市街地と同じくらいか、ちょっと高いかくらいだろうか。
群馬も大都会ではないが、仮にも関東平野である。東京までのアクセスも決して悪くないので、新幹線通勤で東京の本社に通う人も住んでいる。そう、新幹線が通っているのだ。新潟、長野、金沢につながる主要高速道路、新幹線とがある。企業もスバルなどの大メーカーもある。単純に人口だけ見ても諏訪平の岡谷市、諏訪市、茅野市を合計しても高崎の方が倍くらいはある。まあ、高崎も広いので都会じゃない土地もあるのだが。
そう考えるとなぜ茅野の賃貸がこんな値段するのだろうと思うのだが、なぜか高い。

高い、高いと文句を言っていても仕方ないので、何軒か比較して相場を掴んでいく。

それにしても、この土地は面白い。
狭い箱庭的な土地なので、少し場所が変わるだけで随分と環境が変わる。まず標高が変わる。特に茅野は東側は八ヶ岳に向かってゆるやかに登っていくので、直線距離で数キロ離れるだけで気温が1〜2度くらい変わってしまう。気温だけじゃなくて空気の感じも違う。眺めも違う。
西の岡谷、諏訪方面の方が諏訪平の中心なのでそっちの方が平らで家や店も多い。

狭い平なので道は細く曲がりくねっている。
その上、電車の線路もあるし、川も流れているので、行きたい方に道がつながってくれない。くねくねと曲がってしまう。
狭い平も全てが真っ平らなわけでもなく、小さな丘みたいになっている場所もある。
また長野県というのは道路を作るのに予算を出さないのか、主要国道も狭い。
言うなれば町全体がどこか古い。

これ、悪い意味じゃない。
狭い平に大きな湖、細くて曲がりくねった道、鉄道と川、そして八ヶ岳に向かって緩やかに登る地形。
映画撮るならここじゃないか、と思わせるような箱庭感がある。

残念ながら古い町並みなどはあまり保存されているわけでもないらしい。
でも、僕としては逆にそこが好きでもある。
僕の故郷は倉敷、町並み景観が保存された観光地である。そういう町も良いけれど、どこか気取ってる。
最近の倉敷はもう分からないけど。
何だか観光客も昔より増えてしまって、大きなショッピングモールが駅の反対に出来てしまって。町並みを保存しているエリアもハリボテみたいになってしまっていた。
町並み保存地域から少しのところにマンションが建ち並んでもいる。
たまに帰省する度に思うのだが、故郷はどんどんと気品を失ってしまう。
それは過去の記憶が美化されてしまっているせいかもしれない。
それでも、僕らが学校をサボって麻雀をしていた神社も謎の観光客が増えた。神社に観光ってなんだそりゃって気はする。
そこの神社は高校生が学校をサボったり、御百度参りするおばちゃんがいたり。そういう地方の町の普通の神社であるべきだと思うのだが。
まあ、散歩するにはとても良いところなので観光コースになっても不思議ではないのだが。
それにしても、どうも気品を失っていくように僕には感じられる。
そんなこと言うのは年寄りになっていっている証拠なのかもしれないが。
それでも、昔の思い出の町云々だけじゃなく、やはり気品に欠ける気がする。
まあ、元々気品などない観光客にこびた観光地、そんなもんだったのかもしれないけど。

そう考えると、僕は変に町並み保存した観光地よりも、自然と残っている古くさい、少しうらぶれたような町の方が好きなのだ。
それこそ、狭い平の箱庭みたいな町の、さびれた景色など素敵だと感じるわけだ。

諏訪湖のわきの安い民宿に泊まって、妻君と新しく生まれてくる子どもと暮らす家も決まった。
子どもとしては茅野ってどうなんだろう。

長野出身の知人の話を聞くと、
「山に囲まれて閉じ込められているみたいで嫌だった。大人になったら東京に出たいと思った」
という話が多いけど。
僕と妻君にはとても素敵な土地のように映るのだが。

そりゃ、茅野の極寒の冬をまだ体験していないからだろうか。
注意しないと水道管が凍結して破裂するらしい。

「僕らが小学校の頃は校庭にプールの水をまいて、それが凍った上でスケートの授業なんかしたんですよ。最近は暖かくなったから出来なくなったみたいですけど」
そんなこと、日本国内でありえるのか、などと驚きつつ。

大人になって選んで行くには良い土地だろうと僕と妻君は思うのだが。
住む土地を選べずに生まれてくる子どもにとっては、寒くてつらいかもしれないが。

妻君と二人での旅行はこれで最後になってしまった。
これからはしばらく家族三人での旅行になるのだろう。もちろん、喜ばしいことだけど。
若い時代が過ぎ去って行く。
人生が急に加速して過ぎ去って行く。

最近の僕はランニングで走るようにしている。
そんなにストイックなわけでもない。
むしろ、客観的に見ればイージーな部類だろう。週に2日ほど五キロずつ走る。月に8日走れば一応四十キロだ。まあ、サボることもあるんだけど。

自転車でどこか遠くに、たっぷり時間をかけて行くことは当面できない。
子どもが生まれると一日中かけて、ゆっくりロングライドするのも難しくなるだろう。

それでも、僕は走るべきだろう。
理由なんかないけど。
何でも良いから走るべきだろう。
そんなにハードじゃなくても良い。フルマラソンで何時間を目指すとかでもなくて良い。
汗をかいて、息を切らせて、一生懸命走るべきだろう。

自転車でも良いんだけど、自転車は時間がかかるので、当面難しそうだ。

一日に30分とかで良い。
毎日とかじゃなくても良い。
週に何日とか決めなくても良い。
体が走りたいと思った時、走りたいと心が感じた時、汗をかきたい、息を切らせて動きたい時。

理由などないけど、何かしらの形で僕は走り続けるべきだろうと思うのだ。

ま、そんかこんな。
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2019年09月22日

ふとJAL123便の事故についてインターネットで検索などしてみたりする。

ふとJAL123便の事故についてインターネットで検索などしてみたりする。

JAL123便が群馬に墜落したのは1985年。
僕が生まれる前のことだ。
そんなわけで僕の世代はこの事件のことを全く知らない。
政治家が悪いことしたんだか、アメリカが悪いことをしたんだか。
そもそもそんな陰謀などの存在すら知らず、飛行機が落ちていっぱい人が死んだ大惨事としか知らない。
JAL123便については、非常に不可解な点が多く、様々な推論が飛び交っているが、真実は謎のままだ。

日本政府って時々、結構な悪事を働く。

フクシマの原発についても安全を確保するために必要な事実を公表しない。
今でも日本国内の食品の安全性について国は必要な調査、対策をしているかといえば僕ら国民には真実は分からない。

最近だとドカンと消費税が上がるのに、オリンピックに合わせてキャッシュレスを進めるという建前で5%戻って来るよ、などと言っているが、甚だ色々胡散臭い。
悪事の予感しかしない。

ゲノム編集食品について表示義務なしでOKなどということにもなりつつある。

ーーー

JAL123便についての真相は謎のままだが、ある意味では平和な時代の悪意に満ちた事件だったのかもしれない。

というのも、フクシマについては原子力という人間の手に負えないものの暴走についての隠蔽である。

ゲノム編集食品についても、これは完全に人間の手に負えないものだ。

キャッシュレス決済についても、お金がなくなり、お金の概念のみで人々が信用をやりとりする時代の幕開け、これもある意味で人間の手に負えないものじゃないだろうか。

その点、JAL123便の事故は人為的な悪意の犯罪。言うなれば何かしらの利権をめぐる問題。人間の領域を越えていない問題だったんじゃなかろうか。ある意味では人間の領域の泥臭い悪事の証拠隠滅だったとも言えるんじゃないか。
まあ、真実が謎なので本当のところは分からないし、もしかすると、人間の領域を越えた問題だったので、こうして真実が表に出ないままなのかもしれない。

ーーー

JAL123便についての真相は謎ではあるが、概ね有力なのは日本が核兵器をコッソリ作って輸出していたのを隠蔽するためか、松下の作っていたOSトロン(WindowsとMacよりも優秀だったそうな)を妨害するためか、自衛隊か米軍がミサイルを撃って撃墜し、その後、自衛隊か米軍の特殊部隊によって証拠隠滅のため生き残った乗客を火炎放射器で皆殺しにしたといった説がある。

もちろん、それらは仮説、推測であり、真実は今なお謎ではあるが、事件から30年以上経った現在でも、当時のことについての情報を政府はもちろん、テレビ局なども公開しないし追求しようとしない。胡散臭いテレビ番組なんかでも絶対に触れない。

こういう個人のブログで諸説飛ぶ程度までなのだ。
そんなわけで、今僕の書いているものも特に信憑性はない。
それにしても、30年経ってもずっとそんな具合ってことは、まあ、何かあるのだろう。
ネス湖のネッシーでも真相究明されてるのに、そんな大事件の真相が究明できないってことはなかろう。究明しない理由があるか、公表しない理由があるのだろう。

核兵器の輸出云々については、そんな危険なものを積んでいたとしたら飛行機を撃墜などというリスキーな方法じゃなくもう少し別の方法で闇に葬る気はする。
松下の開発していたOSトロンについても、たしかにWindows、Macより優れたOSだったらしいが、わざわざ民間旅客機を派手に落として処分するだろうか。
ましてや、何百人もの乗客、中には著名人もいたのに、それを皆殺しにするとなると、一体どういった事情があったのか。
何か裏の目的があるにしたって、あまりに目に付くやり方だ。

民間機に対して外部からミサイルなりをぶつけて落とすなど、バレないわけがない。
救助が遅くなったのも誰の目にも明らかに不審にしか映らない。
ましてやほぼ全員死亡するなど明らかにおかしい。

JAL123便の事件とは実に謎に包まれた事件であり、テレビ局などのマスコミも絶対に触れないタブーだ。

ーーー

そんな事件なのでインターネットを掘り進めても真相には辿り着くわけもないので、深追いはしない。

まあ、どこの国も多かれ少なかれ悪いことはしている。

ーーー

それにしても、僕らの国、日本っていうのは悪事し放題の国だなとは改めて感じる。
消費税を10%にする、ゲノム編集食品解禁、かなり深刻な問題なのだが国民は何も出来ない。
デモ行進も起きない。
学生運動もない。

先日、親しくしているおじいさんに、
「最近の若い人が選挙に行かないのは問題だよ。選挙以外に民意を反映する方法がないのに、こんなに投票率が低いんじゃ、民意はほとんど反映されない」
と言われたが。

この辺り、僕らの世代っていうのは、もう国家に大して手を上げられないように徹底的に教育されてしまっていると言っても良かろう。
ちなみに僕自身、選挙にはいかない人間なのだが。

ストレートに言えば、金持ちが政治をしたって金持ちに有利な国にしかなるわけがないし、政治家になれば金持ちになるというシステムである以上、何をどうしたって金持ちのための国にしかならないじゃないか。
って話なのだ。

そう、ゆとり世代、さとり世代というやつである。
すぐに諦めてしまう。
国家や偉い人に弱い。
拳を上げて反抗できない。

そして、僕らの世代は一番元気な働き盛りの年齢にいまなっている。

ーーー

さて、このゆとり、さとり世代についてだが。
僕は、僕らの世代のことをコンドーム世代と呼びたいと考えている。ちなみに僕らはゆとり世代一年生くらいだ。高校の数学から複素平面がなくなった世代だ。余談だが複素平面をなくすなんて、文部省は頭がおかしいんじゃないかと思うのだが。

さて、コンドーム世代。

僕らの世代より若い人はセックスの時にコンドームを付ける人が多い。
僕らより少し上の世代の人はコンドームなしでセックスして、中絶なんかの話もあった。

まあ、まったく有意な統計データもない、僕の個人的な感覚の話ではあるのだが。
他人のセックスのことをそんなに嗅ぎ回っているわけでもないが、まあ、男として生きていると、他人のセックスの話を無駄にあれこれ聞く時期ってのはある。

単純にゆとり教育の一環として性教育について進歩したとも言えるが、それ以上に国民をより従順にする教育制度が成功したとも言えるんじゃなかろうか。

ゆとり世代、さとり世代、今は何世代なのかは分からないけれど、着実に僕らは諦める国民として教育され、反社会的なこと、国に疑問を抱くことはいかがわしいという風になってきているんじゃないだろうか。

フクシマ問題についてあれだけ国際的に批判されても相変わらず日本は原発を辞めようとしない。
国民も黙っている。

千葉県の停電についても、今のご時世に首都東京のすぐ隣の県でライフラインが断たれて何日も復旧しないなど、やはりおかしいことだらけである。
やっぱり国民は黙っている。

まあ、僕も黙っているんだけど。

ーーー

ところで東海地震、南海トラフ地震はどうなったのだろうか。
あと数年で来る、どうしようと騒がれていたのに。
台風一発で何日も復旧しないのに、太平洋側の広域に被害の発生する大地震が起きたら、これ、為すすべないんじゃなかろうか。

ーーー

アレコレ考えてみても、特に建設的な話はないのだが。

ま、そんなこんな。
posted by ちょろり at 22:45| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年09月20日

人間、なりたいものになる。

人間、なりたいものになる。
最近、思う。

自転車屋を退職するに際して切に思う。
自転車屋をやりたいなら、さっさと開業してしまうべきだったのだ、と。
そして、それは今からでも遅くはない。今すぐにでも開業に向けて何かを始めれば良い。
でも、つまるところ、僕は本当のところ自転車屋をしたいわけでもないのだろう。
本当にしたいならアレコレ理由を付けずにやってたのだろう。

自分の周りを見ても山岳ガイドをしながら、雑誌の記事を書く人もいるし、写真で食っている人、映像で食ってる人、文章で食っている人はいる。
彼らがなにか特別だったのかと言えば、存外そんなわけでもないと今更気付く。
それで食っていこうと決めて、それを仕事に出来る会社に入っただけのことだ。
あるいは独立したか。

ーーー

たしかに僕が自転車をやってきたのは稼ぐためではない。
単純に好きということと、小説の引き出しになりそうだと思ってのことだった。
だから、自転車で飯を食おうってのは元々なかった。
偶然、仕事になったので、仕事としてやるからには一生懸命やろうっていうことで一生懸命やってきたということなのだ。

小説に関しても飯が食いたいならライトノベルを勉強しただろう。
あるいは編集者や雑誌屋なんかの就職を探したろう。

改めて考えると、小説家になれなかったことも、自転車屋を開業できなかったことも納得してしまう。
小説家については一冊くらいは大手の出版社から出してもらえるような文を生きてる間に書きたいとは思っているけど。

ーーー

今度の転職は工務店の営業マンだが。
これは稼ぎたくてやる仕事だ。
なぜその仕事にしたのか。稼ぎたいのだ。
家を売るって一番稼げる仕事だと思う。
単純に単価が高い。

人生の三大支出は住宅、教育、老後資金と言われている。
この中で住宅というのはかなり異質で商品一つで三代支出の一つになりうる。
現実には賃貸に住む期間もあるし、固定資産税だの修繕費だのも含まれるが、家の購入費っていうのが大半だ。
あとの教育については学校は小中高大と分かれるし、老後資金もアレコレ分かれる。

衣食住と人間の必要なもので考えても、衣食は細々と買うが、家は一発でドカンと買う。

ものすごく単純な理屈だが、家が売れれば一番儲かる。
それゆえに販売も一番難しいとも言えるのだが。

それでも、医者などの特殊なスキルなしで、年収一千万が実現するのは家を売るか、株などのお金でお金を膨らませるかの二択である。

ーーー

なぜお金が欲しいのか。

今まではお金って必要なかった。
多分これからもそこまでたくさんのお金は必要ない。
何だかんだで日本でまじめに正社員してる限り餓死することはないし、子供を学校に行かせることもできる。

強いて言うなら、これまでしたことがなかったことだからやってみたいっていうのが大きい。

目標は家とスバルのフォレスターを買うこと。
そんなのそこまで大金持ちじゃなくても出来るのだろうが。
正直なところ、僕には他に思いつかない。
ブランド物の服が欲しいわけでもないし、豪邸が欲しいわけでもなく、レクサスが欲しいわけでもない。
マウンテンバイクが積める大きい車、家族でキャンプに行ける車があれば良い。

じゃあ、年収一千万円を目指して何にお金を使うのか。

正直、分からないんだけど、何か寄付でもしたいと思ってる。
世のためになるようなことってわけでもなく。
国立公園の整備とか。マウンテンバイクのトレイル整備のためとか。あるいは誰でも使える音楽室を作るとか。冒険家のために出資するとか。
僕の友人でユーラシアをオートバイで横断したいってやつがいるんだけど、そういうやつに200万くらいホイッてあげちゃうような感じか。
別にオートバイでユーラシア横断なんかやってる人はいくらでもいるんだろうけど、でも、何だか面白そうじゃない。
世間でいう立派なことに寄付したいわけじゃなくて、面白そうな人が面白そうなことをするのに寄付したいわけだ。

面白い遊びをする誰かが喜ぶような何かにお金を使って、面白い遊びをお裾分けしてもらいたいなんて思うのだ。

言うなれば昔の貴族みたいなものか。
パトロンになりたいわけだ。
センスある若者にお金を出して、面白いことを味わいたい。

まあ、そんなこと言ったって、まずは自分の家族の生活ありきで、よほど稼がないと難しいんだろうけど。

ーーー

まあ、要は別にお金の使い道は決まってはいないのだ。
単純にたくさんお金を稼ぐと面白そうだな、っていうだけのことだ。
もちろん、大前提として家族でキャンプに行きたいとか、家族が安らげる家が欲しいっていうのが第一で、その余ったお金でやる程度のことだから夢見たって仕方ないけど。

でも、やるからにはお金が余って困るかもしれないって心配をするくらいじゃないといけないと思うのだ。

子供の教育に注ぎ込むかっていうと、そういうのはあまり考えてない。
子供はかわいいけれど、人生って理不尽だ。
才能のあるやつが面白いことをする。
才能って天性のものだとは思わない。努力や運、きっかけ、なによりも人柄だろうと思う。
なので、息子がそういう才能溢れる人間でお金を出せば面白いことをしそうだなと思えば注ぎ込むかもしれないけど、才能がなければそれはそれで良いと思うし、それならお金は別の人が使った方が楽しいような気がする。

いざ育っていくと、自分の子供にじゃぶじゃぶ使ってるのかもしれないけど。
はたまた妻君がそういうことに使って、それを横で眺めているしか出来ないのかもしれないが。

まあ、なってみないと分からない。

でも、個人的には面白い人が集まる面白い場所なんか作るのに使いたいと思ってはいる。

もしかすると、自転車で南極点を目指すのかもしれないけど。

ーーー

人間、なりたいものになるのだ。
どういうものになりたいと思うか。
思いつけるか。
そして、それをどれだけ強く思えるか。

大人になるにつれて、いろんなことが出来るようになって、いろんなことが出来なくもなっていく。

何に使うんだか分からないけど、とりあえずたんまりお金を稼いでみたいと思ってる。

ま、そんなこんな。
posted by ちょろり at 23:14| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年09月12日

人生が目まぐるしく進んで、何を目標に生きていこうか。

人生が目まぐるしく進んでいく。

子どもが出来て、転職することになって。
車を買わなくちゃいけなくなった。
工務店で働くので、いずれ自分の家も建てようと思っている。

数年前、自転車でアフリカを走っていたのが実に遠い過去のようで、改めて考えればつい三年ほど前のことだ。
マラウィのことをよく考える。その国ではマラリア対策で蚊除けになるんじゃないかと、村で3ドルで半ば押し売りされたマリファナをぷかぷかとテントで吸って野宿していたのを思い出す。
あんまりマリファナの話なんかするのもどうかとは思うけど、別にマリファナ大好きってわけでもないし、日本で吸うことはない、要は潔白なのでこうして書くのだが。
(日本国内で高い金を払って、警察に捕まるリスクを押してまでマリファナをするのは馬鹿だけだ)
そこの国ではずっと下痢もしていたので、マリファナ茶みたいに下痢の治療にならないか、なんて思ってぷかぷかやっていたわけだ。

貧乏な国だったし、ある日突然全裸の黒人に殴られたりするし。僕も珍しくよくマリファナをやっていて。
どことなく幻想のような思い出のある国だ。
四国くらいの大きさの小さな国だったから、本の数週間の滞在だったし、特に観光すべきポイントもなかったけど、不思議と印象に残っている国だ。

首都について日本大使館に電話して、駐在のドクターに相談しようとしたら、しばらくドクター不在なんです、なんて言われたりして。
実に楽しい国だった。

笑えるレベルの苦労ってのは楽しい。
これが下痢なんかじゃなくて深刻な病気だと楽しくはないが。
まあ、下痢も深刻に困ったのだが。

マラウィのヘンテコな話といえば、これは現地で知ったことではなくニュースで読んだことだが、一部の地域で大人になる通過儀礼として12歳の少女がセックスしないといけないってのがあるそうな。
しかも、それでHIVが随分広がったりする。

まあ、ヘンテコな国なのだが、どこか愛すべき国。
もう一回行くかと聞かれると、行こうとはあまり思わないのだが。

ーーー

それにしても、そこから3年ほどで急に人生目まぐるしく進む。

急にいろんなことがきちんとして、身が重くなる。
妻と子のため生命保険にも入った。
もしもの時のために毎月1万円以上払うわけだ。
もしもの時って何なんだ、って話だが。

こんなにいっぱい税金やら社会保険やら年金やら払っているのに、もしものことがあった時のために別途で生命保険に入らないといけない国って、なんだそりゃ、って気はする。

マラウィに住もうとは思わないが、ある意味では日本も随分と変な国ではある。

ーーー

何はともあれ、僕は随分と変な国日本で妻と子どもを育てて行くことになったのだ。

日本も少しマリファナ解禁でもして、イージーに生きるっていう選択肢もアリにしても良いんじゃなかろうか。
でも、きっと日本でマリファナ解禁しても、日本人は上手く遊べないだろう。
まあ、マリファナを上手に遊べている国なんて少ないんだろうけど。
でも、別にビールやウイスキーと大して変わりないんだから、解禁してリラックスして生きていっても良いんじゃないかって気はする。

根底のところで日本は少し変な国なんじゃないかと僕は思っている。
何を基準にして、どういうところが変なのか。
そんなこと日本以外の国で生きたことがないからよく分からないけど。
何となく感覚的に日本ってヘンテコな国だなと僕は思っている。
忖度、出る杭打たれる。
正しいことが正しいってならないことが多い。

ブーブーと文句ばかり言っても仕方ないが。
貧乏な自転車屋を引退して、外の世界を見渡すことになると。
何だか、随分と変な世界に僕はいるような気がした。

ーーー
ーーー

そういえば、最近、憧れの人、人生の目標の人、尊敬している人はいますか?っていうことについて考えることがあった。

ふと考えると、最近、そういう人がいない。
もう少し若かった頃って、割とそういう人っていくらでもいた。
たとえば、村上春樹みたいになりたいとか。
でも、次第に有名人なんかに憧れなくもなったし、お金持ちにも憧れなくなった。
それは実現する可能性が低くなったからってわけでもない。
誰かに憧れるというよりは、自転車屋してて、そこそこお金も困らなくて、景色の良いところでコーヒーが飲めて、家族が健康で、僕は僕で自分の好きな自転車やランニングなんかをそれなりに楽しめれば、そういうのが良いかな、って。

まあ、向上心がなくなったのかもしれないし。
はたまた、それなりに自分が何が好きで、どんな感じで生きたいかってのが見えて来たのかもしれない。
何にせよ遠い夢を見なくなった。
どこか寂しくある。

こんな風に生きたいということで。
しいて言うなら自転車仲間のSさん夫婦の暮らしっていうのは確かに憧れではある。定年後、世界の至る所を旅するという生き方も素敵だし、家が素敵だし、生活も総じて素敵だ。奥様が芸術家だからというのもあるのか、家全体はもちろん、家具や絵、彫刻など、全てが非常に美しくまとまっている。

もちろん、Sさん夫婦にもアレコレ苦労はあろう。
別に大金持ちってわけでもないだろう。
人生で何か偉業を成し遂げで何か残したかということもないのかもしれないし、僕が知らないだけで実はすごく偉い人なのかもしれない。まあ、実のところは分からない。
でも、まあ、多分、普通の人だと思う。多分ね。もしかすると、偉い人かもしれないけど。

そう、別にこれがスゴいって説明もしにくいわけだ。

それでも、Sさん夫婦は生き方に芯みたいなものがあり、それが行動、暮らしや家、趣味、所有物などに一貫して滲み出ている。
統一感があるのだ。
下衆だったり嫌味な感じがない。
何だかんだで自転車や乗馬など、結構お金のかかる趣味も多いのだが、成金趣味的なところがなく、当然ながら貧乏くささもない。好きなのでやっているだけで、必要な分はお金をかけるが、無駄なお金はかけない。

中庸というべきものかと言えば、中庸とも違う。

じゃあ、一体僕はSさん夫婦の何に、どういうところに憧れているのか。

改めて考えると難しい。

ーーー
ーーー

随分と人生が変わる。
これから何を目指して生きて行こうか。
家族の健康はもちろん。
僕は一人の人間として何を目標に生きていこうか。

ま、そんなこんな。
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2019年09月07日

欲なんかかくから性善説も性悪説も。

人間は性善説ベースなのか性悪説ベースなのか、なんてことを最近考える。

チームって、基本的に同じ目標で動かないと強くない。
小学生の野球チームなんかにしても、みんなが勝つためにやっているチームと、親に習い事に行きなさいということで何となく野球をしているチームだと差は歴然となる。

あ、嘘だ。
中学校くらいまでの野球はピッチャーで決まる。ピッチャーが一人だけ良けりゃ大抵勝てる。特に小学生の野球となるとまずストライクを普通に投げられるピッチャーがいるかどうかだ。バッターが打てない球を投げるピッチャーじゃなくて、ストライクが入るかどうか。これがないと試合にならないんだけど、小学生くらいだとストライクに投げるって難しいのだ。
フォアボール=100パーセント出塁できる=打率10割だから、こういうことになってしまう。

小学生の野球で勝つための戦略は2ストライクまではオールバントだ。もちろん、見送りもする。とにかく走らせる。最初はほとんど見送って2ストライクからのヒッティングメインにして、バントしないと向こうが思った辺りから実際にバントも混ぜていく。
これ、ピッチャーはすごく疲れる。バントの処理ってピッチャーは物凄く疲れる。

ただ、そういうことをするとバッシングが来る。
勝ててもバッシングが来る。
そして、プレイヤーである子供たちもつまらない。

野球とはホームランを狙って盛り上がる遊びでもある。

でも、基本的には勝った方がスポーツは面白い。
だから、露骨になりすぎない範囲で、なおかつ子供たちが楽しめる範囲でセーフティバントとバスターの技術、ピッチャーを疲れさせる技術っていうのは教えておいた方が良い。

何よりも大事なのは、勝つためにやろう、っていう目的を統一することだ。

ーーー

勝つために試合はする。
当たり前のようだけど、意外とチーム全員で勝つためにやろう、って意識を統一するのは難しいのだ。
もちろん、みんな勝ちたいのは勝ちたいのだが、勝てるなら勝ちたいっていう程度の話なのだ。

少年野球の場合、土日に朝起きて一生懸命やって、親に誉められれば、それでとりあえずはOKだし、そこで友達が出来て、放課後にポケモンが出来ればサイコー。
つまり、勝ちたいのは勝ちたいけど、勝てなくても、まあ、どっちでも良いのだ。

高校野球くらいになると、割と監督も厳しかったり、先輩との上下関係も厳しかったりして、勝つために頑張ろうって話にはなるのだが。
可愛いマネージャーと良い関係になれるのと、試合で勝てるのと。
そりゃ、可愛いマネージャーとウキウキする方が優先だし。
怖い先輩に怒られない、監督に罰のランニングをさせられない。
そういう方が試合の勝ち負けより大事っていう高校球児の方がよほど多いのだ。
もちろん、タテマエとしては勝つためにやっているにせよ。

ーーー

じゃあ、どうやって高校球児、あるいは野球少年たちを勝つために統一していけるか。
勝ちの味を覚えさせるというのに尽きる。
勝てばモテる。勝てば親に誉められる。
世の中、勝てば官軍ってのは当たり前のことではあるのだが、実際には勝ち続けられる人間は少ないので、負けても他のことを頑張れば良いなんてことを人間覚えるようになる。

まあ、実際、野球が全てっていう人間は少なくて、野球で勝つよりも勉強を頑張りたかったり、まあ、アレコレあるのだ。
それでも、勝てば嬉しいっていう、勝ちの味を覚えさせれば、また勝ちたくなる。
これが出来ればチームは強くなる。

だから、強豪校はずっと強いのだ。
勝って当たり前、勝てばチヤホヤされることを知っている。
だから、勝ちに向かって統一されている。
だから、強い。

ーーー

これ、仕事でも同じで、売上を伸ばそうって統一するのは難しい。

儲けるために働く。

これ、非常に当たり前なのだが、全員が儲けるために働くって統一するのは非常に難しいのだ。

例えば、僕もそうだが、たくさん売っても給料が変わらない。休みも増えない。
こうなってしまうと、頑張れにくくなる。
頑張っても意味がないっていうのはツラい。
特に頑張っている人間ほどツラい。

でも、当然だが頑張らないと会社は傾くし、そうこうしていれば、自分の給料も怪しくなってくる。

だが、これまた不思議なことに頑張らなくても、大抵の企業はそう簡単には潰れないし、給料も明確な理由なく大幅に減ることもない。

そういう構造の儲かっていない中小企業の場合、
「儲けるために働く」
っていう考えで統一していくのは難しい。

ーーー

じゃあ、給料を上げればせっせと儲けるために働くかというと、これまたそうでもない。
給料が上がれば、そのことに対してありがとうございますと感謝こそすれど、その分、余計に一生懸命働くのは数ヶ月のことで、しばらくすればその給料が普通になってしまって、以前の通りと変わらない程度にしか働かなくなる。

ーーー

保険屋のおばさんから聞いたが、お金は遺産として残すのは良いが、死ぬ前に配ってはいけないという鉄則があるそうな。

死ぬ前に贈与してしまうと、もらう前ともらってしばらくは感謝して、せっせと恩も返すが、三年も経てば過ぎ去った過去である。
贈与してから三年以内に死ぬなら良いが、現実問題、そうもいかない。

これに対して、
「世話してくれてありがとう、遺産はお前に多く残してやるからな」
と約束すると、死ぬまではせっせと世話してくれる。

もちろん、みんながみんなそうではないにせよ、生前に贈与するよりは遺産として贈与した方が間違いないっていうのは鉄則らしい。

ーーー

こうして話が進んできて、やっと最初の話題、人間は性善説なんだから性悪説なんだかって話に辿り着く。

自分で言うのもなんだが、自分は割と真面目な人間なので、少年野球をするにしたって勝つために頑張ったし、ホームランで盛り上がるためにも頑張った。
仕事にしても、やるからには会社が儲かるように、なおかつお客さんが喜ぶ仕事を目指すのが当たり前と思って努力してきた。
遺産についてはまだ親が元気なので分からないが、故郷から遠く離れているので、この点は不義理をするかもしれない。

自分で言うのもなんだが、真面目だと思う。
何事もやるからには結果を目指して頑張る。みんなが幸福になるように自分が出来る最大限の努力をする。
それが当たり前だと思って生きてきた。

もちろん、サボることもあった。高校のバレーボール部は部室に昼寝とタバコを吸いに行ってただけだ。
勝つなど一ミリも考えなかった。
そのくせキャプテンなんかしてた。

ーーー

31歳にして分かったのだが。
会社が儲かるために努力しない人っていうのは存在するのだ。
働くからには儲かるように努力するのは決して当たり前のことではない。
それこそ、バレーボール部の部室にタバコを吸いに行っていた馬鹿がいるように。タバコじゃないにせよ、会社の利益を増やすため以外の目的で仕事に行く人っていうのは決して少なくない。

本当に何も考えず、朝になったら起きて、仕事に行って、職場で何かして、叱られないように過ごして、時間が来たら帰る。

なぜ儲けようというやる気が起きないのか。
単純に実家暮らしで、近所の人なんかの目を気にして正社員という世間体のためだけに仕事に行く人もいる。
実家暮らしなので食うに困らないというわけだ。
実家暮らしじゃなくても、近くに親がいて、何かあれば助けてくれるので、そんなにお金にシビアでもないという場合もある。
はたまた、公務員や大企業の場合、個人の頑張りは仕事全体にあまり反映されないので、頑張ってもサボっても組織はそれなりに儲かっているということもある。
はたまた、頑張っても評価されないどころか、厄介な仕事や責任ばかり増えてしまう仕事というのもある。

ーーー

これ、単純にやる気の問題なのだ。
性善説、性悪説、要は生まれつきの問題なのだ。

宅建の試験勉強なんかしていても思うが、やる気次第なのだ。
もちろん、やる気があっても落ちることもあるにせよ。やる気がある人の方が受かる可能性は間違いなく高い。

ーーー

問題は善か悪かって、どっちがどっちなんだという話だ。

会社で仕事をしていて、特に仕事に関しての話の場合、儲けるために頑張るやつが善である。
会社の目的は儲けることだ。
利益を出さない団体、非営利組織でさえ運営上必要な最低限の利益は必ず作らないといけない。
もちろん、利益を上げる営みを通して、それが社会貢献になるというのも大事ではあるが。
とにもかくにも利益が出ないことには会社ってのは進まない。
少なくとも人を毎日八時間拘束して仕事をさせるためには、その人の食い扶持を確保しないといけない。

ただ、少年野球のバントの話がまた出てくるのだが。
勝つために何でもしていいってわけでもない。

やはりホームランを狙うブンブン丸が必要なのだ。

それでも、やっぱり会社は利益を出さないといけないわけで、働く人間として同僚にも儲けるための努力、お客さんに喜んでもらう努力はして欲しい。
勝つためにチームとして頑張って欲しいと思うわけだ。
いかに給料が悪かろうと、休みがなかろうと、実家暮らしだろうと。
それが、真面目というものであり。
性善説でものを考えていたいのだ。

そんなわけで、転職を前にした僕は性善説、性悪説なんてことを考えた。

ーーー

目から鱗だったのは、次の転職先の社長の書いた本にあったことだ。

次の転職先も10人程度の小さなところだ。
ただ、社長は10個くらい会社を持っていて、ビジネス書なんかも何冊か出している。
内容としてはピンキリというのが正直なところだ。そりゃ、文章家ではない実業家だからね。本として面白く仕上がるかは出版社の企画、編集の腕が問われるところだ。

その本の中に中小企業の経営者向けのものがあるのだが。
その中で如何に従業員を育てるかというのが書かれている。

中小企業では特に人が少なく余剰の人材を雇う余裕がない。
だから、個々が頭を使って会社が儲かる方法を考え行動できるようにしないといけない。
いかにしてそういう人材を育てるか。

ただ、中にはそういう風に育たない人もいる。
そういう人をどう捉えるか。
そういう人も必要だと書いているのだ。

言い方は悪いが、向上心のないサラリーマン気質の人はそれはそれで会社にとって必要なのだ。
ただ、大事なのはそれを明確に本人に認識させることなのだ。

理想は会社が儲かるように考えて行動できる社員が育つということだ。
でも、出来ない人にそれを求めるのは酷だ。
それに、逆にそういう人は与えられた作業をあまり考えずに黙々とこなしてくれる。

だから、ある程度まで教育したところで、本人に選択させるのだそうだ。
儲かるように考えて動く社員になるか。向上心も必要だし、大変だし、成長すれば責任もついてくる。それでも、儲かった分はちゃんと払う。
それか、黙々とこなす社員になるか。そういう人材も会社にとって必要なのだ。ただ、儲かる方法を考えて動く社員より収入は落ちることになるが、向上心などは求めない。

どちらが良い悪いではなく、それは価値観次第なので本人の自由な意思で選ばせてやるべきだ。選んだからには責任を持って、その方向で頑張ってくれ、と。

もちろん、やる気が全くない人を雇うわけにはいかないので、最初の教育の段階で会社に合わない人には辞めてもらうのもアリだとしている。
厳しくすると社員が辞めてしまうかもしれないと臆してしまう会社も少なくないが、厳しくしたら辞めてしまう社員をなあなあで雇い続けると会社にとっても当人にとっても良いことにならない。特に40歳くらいまでなあなあで雇い続けて、若い有能な人もある程度育ったところで不必要になって解雇などは当人にとって地獄である。
どうしても合う合わないというのはあるので、合わない人には早い段階で辞めてもらって別の会社で活躍するチャンスにしてもらう方が良いだろう、と。

こういう風に徹底するのは本当に難しい。
人をクビにすることは難しいことだし、また雇用するのも大変なことだ。

可能な限りは仕事ができない奴も雇ってやりたいっていうのは経営者の心理だろう。ある日突然、仕事ができる人間に変わってくれないかと淡い期待を抱きつつ。
そして、いくらか無理をすれば何人かくらいならそういう人間を雇うくらいは出来てしまう。
でも、それがなあなあになってしまうと、気付くと出来ない人間の方が多くなって、真面目な人間が負担を背負いこんで無理をして馬鹿を見ることになる。

そういうことは誰でも分かることなのだが、人間、自分が当事者になるとじわじわと悪くなっていく物事っていうのには対処出来ないものなのだろう。

そこをズバズバっと徹底してやっていくっていうのは本当にすごい。

ーーー

まあ、自分の会社に都合の良い理屈とも取れるが、実際、中小企業で人材を育てていくってそういうことである。

僕が自転車屋さんをしていて、会社に対してよく思ったのは、正社員の数は減らしてバイトを雇って欲しいということだった。
正社員は少数精鋭で店長として動けるレベルの人だけ、あるいはそこまで成長する見込みのある人だけにして、あとはアルバイトにして欲しい。
そうしないと、モチベーションの低いスタッフの食い扶持を稼ぐために、自分の給料が伸びなくなってしまうのだ。
正社員が少ないと売上が伸びていくと人手不足になる可能性もあるが、やる気のない正社員はどちらにせよ一人にカウントできるほどの仕事が出来ない。

そりゃ、自転車っていうのが利益率の高い商品なら良い。
あるいはママチャリのように日用品として全国民に需要のある商品でも何とかなるだろう。
でも、ロードバイクとは利益率は低いし、その上、数がたくさん売れるものでもない。
自転車操業とはよく言ったものだ。

ロードバイクを売るというのは、いかに常連を育てるかだ。
ロードバイク愛好家である限り、馴染みのショップが一件は必要だ。
だから、きちんと常連として付いてくれると長く安定して購入し続けてくれる。
さらにその人の知り合いがロードバイクを始めるときに紹介してくれる。
ロードバイクを始めようと思った時に知り合いでロードバイクが詳しい人がいたら相談するだろう。その時に店を紹介してくれるかどうかっていうのはとても大事なのだ。

常連さんが常連さんでい続けてくれるっていうのはとても難しい。
ただ、安いだけだと別の店でもっと安いところが見付かったら、そこに移ってしまう。
常連だからと値引きばかりしていると意味がない。
ただ、たくさん知り合いを紹介してくれる人にはそれ相応のサービスもすべきだ。
用事がなくてもふらりと店に立ち寄りたい、あそこの店の人と用はなくとも世間話をしたい。
そういう関係性が出来れば良い。
世間話だけでは利益にならないので、これを嫌う店も少なくないが、趣味の仕事は紹介ありきだ。ぶらりと立ち寄ってくれるほどの信頼関係が出来ていて、なおかつきちんとお店とお客さんというマナーがお互いに出来ていれば、頻繁に店に顔を出してくれるお客さんはいずれ必ず良い常連さんになってくれる。
ただ喋るだけで何も買わないっていう変わった人もいるけれど、そういう人は少数だし、そういう人はお店とお客さんっていう最低限のマナーを作れていない。

要は一人の人間の人生を通しての趣味のパートナーになれるかどうか。
これがロードバイクを売るという商売の核心だ。

もちろん、そういう常連さんじゃなくて、ぶらっときて買って行って、それきりというお客さんも売上にはなる。
ただ、そういうお客さんを狙って増やしたり、安定して減らさないようにするのも難しい。
ぶらり客は運の要素が大きい。

もちろん、ぶらり客を逃さず売上を作れるかっていうのも大事ではある。
ぶらり客だって接客が悪いと、そのままぶらりと別の店に行ってそこで買ってしまう。
売り逃がしになる。

常連さんにせよぶらり客を逃さないようにするにせよ。
どちらもきちんとした接客や会話力が必要になる。

そういうビジネスなのに社員の数ばかり多くて、モチベーションの高い社員は少ない。

ーーー

今の仕事の愚痴にもなったが。
でも、僕は心底、自転車屋さんで平和き生きていたかったのだ。
別にそんなに高い収入もいらないし、休みも多くなくて良い。
ただ、家族が困らない程度のことは欲しかった。
だから、仕事も頑張ってきたし、数字も出してきた。

だから、同僚には求めるのだ。

ーーー

でも、それは僕の間違いだったのだ。

現実世界ではいろんな人がいる。
勝てれば嬉しいけれど、勝つために一丸になってやるチームっていうのは多くはない。
みんなそれぞれに価値観がある。

ーーー

次の職場は徹底して勝ちに行く職場だ。
まだ入ってもいないが、入社前に社内チャットなどに入れてもらって会話を読んでいるがすさまじい。

全員が一丸になって勝つためには宗教が必要だ。

強豪校の野球部だって、アレは半分は宗教だ。
まず選ばれた選手ということ。
そして、勝って当たり前ということ。
野球こそ人生ということ。
そういう思想のベースがあるから、凄まじい量の練習が出来る。
その中の競争に勝った精鋭がレギュラーとして試合に出る。
野球が上手いということこそ、試合に勝つために必要な選手であるということ、それこそが至上の目的であり、それに向かって一丸となる。
これ、宗教である。

はっきり言って高校野球ですごい選手だからって人生どうこうなるわけでもない。
結果論としては、そういう体育会系でもまれて、忍耐力のある人間はたしかにその後の人生も上手くいきやすいってのはあるにせよ。
甲子園に出たからって、プロ野球選手になれるわけでもないし、野球関連の仕事で食っていけるわけでもない。野球こそが人生っていう日々は遅かれ早かれやってくる。
でも、チームにいるあいだは野球こそ全て。
疑う余地がない。
信じる信じないではない。
言うなればその思想は神であり、信じないなどという選択肢があるわけもなく、意識して信じるようなことでもない。

基本的に勝つためのチームとは何かしらそういう宗教めいたものがある。

ーーー

正直なところ、一人でのんびりと自転車屋をしつつ。コーヒーでも出していたいのだが。近所の学生のママチャリのパンク修理なんかしたりね。馴染みの常連さんと走りに行ったりね。
細々と食うに困らない程度の収入で。
でも、平和で。
空を眺めて。
文でも書いて。

何とも無気力な本音だとは我ながら思うが。

ーーー

昔よく行ってたバーも随分変わってしまったらしい。
昔は大した金にもならない呑んだくれが集まってのんびりと音楽を聴いて下らない話をしていたのが、領収書を切って経費で飲んでくれる飲み会の客をターゲットにした居酒屋みたいになってるとか聞く。

僕はいっぱいお金を手に入れて、仕事の出来る男になって。
家でも立てて、良い車でも買うんだろうか。

静かに文章を書いて、旅をして。
そんな暮らしはやってこないんだろうか。

まあ、とりあえずは子どもが元気に育ってくれれば良い。
それでも、子どもが大人になったとき、そんな父親どう思うんだろう。

静かに生きていたいなら、静かに生きていりゃ良いのに。
アレコレと欲ばっかり出すからいけないのだ。

そう、勝つために一丸になれる会社は少ないし。
自分の求めることのために全力を尽くして生きれる人は少ないってことなのだろう。
アレコレといらない欲だったり、仕方ないといって言い訳を作ってみたり。

アレコレ言っても仕方ないので、まずは次の仕事を全力で頑張って、お金をたんまり稼いでみようじゃないか。
アレコレ言っても仕方がないのだ。
仕方ないって言い訳作って生きていくんだ。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 23:20| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年09月02日

安い給料で働き続けてはいけないという話。

安い給料で働き続けてはいけないという話をしようと思う。
同時に給料が安くてもやりたい仕事は一度はしてみるべきだという話も。

ーーー

転職して年収が上がった。
そんなCMが世の中にはたくさんある。
ーーそんなに都合良く行くわけないだろ。
と前までの僕は思っていたのだが。
現実には転職をして年収が上がるということはさほど珍しいことではないらしい。
ちなみに今回の僕は年収は変わらず。
とは言っても店長=社長の次に偉いポストから、未経験の新人になるのに年収は同じで休日は30日近く増える。

ーーー

安い給料の会社で働き続けてはいけない。

これにはいくつか理由がある。

まず周囲の人だ。

安い給料の会社は、同僚も給料が安い。
給料が安いと向上心とかって低くなりやすい。

今の会社は正に典型的だ。
仕事ができる人、向上心のある人たちはみんな辞めていってしまって、残ったのは給料は安くても問題ない、今のままでも別に良い、そういう人たちばかりが残ってしまった。
なので、仕事について積極的に何か自分からしようという人はいない。仕事の指示をしても、「それは私の仕事じゃありません」「私はこれをしたので、それはしません」ということを平気で言ってしまう。
会社が潰れず、叱られるような責任を出来るだけ背負わず、とりあえず出勤して何か仕事しているような雰囲気で1日を過ごして日々を生きる。売り上げを伸ばして、仕事を評価してもらって、給料を上げてもらいたいとかっていうのはない。
とにかく無難に叱られないように生きる。

ーーー

ここで重要なのは、その人たち、仕事に向上心のない人たちに罪はないということだ。
夏目漱石の「こころ」ではKは向上心のないものは馬鹿だ、と言っているが、向上心を持たずに生きるのも、人生の選択の一つだ。

人間、失敗はしたくない。
ヒルクライムレースに出るにしても、レースの前から予防線を張る。練習が出来ていないから今回はダメだ、体調が悪い、様々な理由で失敗しても仕方ないと予防線を張る。
予防線を張っておけば失敗してもダメージは少ない。場合によっては失敗にすらならない。
別にタイムはどっちでも良いんです。
そう言っておけば、遅くても失敗にはならないし、完走しなくても別に失敗にはならない。

逆に何分を目指す、今年は練習を頑張っているなどと言うと、タイムが届かないと失敗になってしまう。

人間はなぜ失敗したときの心配をしてしまうか。
答えは成功することだけを考えていると失敗した時のダメージが大きいからだ。

向上心を持つとは、チャレンジすることであり、失敗がつきまとうことだ。

トップアスリートはとにかくメンタルが強い。成功イメージを絶えず持って練習する。勝つために練習する。
失敗に負けないハートがあり、向上心を途切れさせず挑戦し続ける。
だから、僕ら凡人はどんな競技であれトップアスリートを尊敬するのだ。

ーーー

人間、みんなトップアスリートであれ、っていうのは無理があるし、酷だ。

向上心を持たず、責任のある仕事を避けて、向上心なく無難に、ただ出社して就業時間を何か仕事らしいことをして時間を潰して毎日を過ごして月給を手に入れる。
食うために生きる。

これはある種の防衛本能だし、ある意味で無欲であり、実際問題として、こういう人たちが存在しないと世の中はケンカや戦争だらけになってしまう。

今回のテーマとは矛盾するが、安い給料で働き続ける人もいるから世界は成り立っているのも事実である。

ーーー

向上心のない人たちに囲まれて生きる。
向上心なく生きることが特に問題ないという人は安い給料で働き続けるのも良い。
ただ、そういうのが耐えられないという人は、給料はそれなりに良い会社に入るべきだ。

給料の安い会社は人材に対して安く使える人間を求める。高い賃金を払わないといけない優秀な人間は求めない。そこそこの安い賃金でそこそこの仕事をしてくれる人間。
そういう会社にいる限り、会社はあなたに期待はしていない。
優秀すぎる人間になって欲しくないとさえ思っている。

安い給料でも文句なく働く、あまり能力のない、他に応用の効かない人間であって欲しいと考えている。

そういう会社には長くいるべきではないと僕は思っている。

ーーー

従業員の方に向上心のある人間とない人間がいるように、会社も向上心のない会社がある。

個人と違って会社については基本的には売り上げ、利益を大きくしたいとはどこの会社も考えている。
ただ、違うのは何かを良くしていくこと、工夫することで成長したいと思っているかどうかだろう。

向上心のある会社は、社員の平均年収を上げて、優良企業になりたいと思っている。

平均年収が250万円のスタッフの店と400万円のスタッフの店なら、当たり前だが平均年収400万円のお店の方がきちんとした接客を期待出来るだろう。給料の安いアルバイトスタッフにきちんとした接客を期待しても無理がある。
しっかりした良い店を持つか、アルバイトばかりの店を持つか。
付く客層も変わる。

年収の低いスタッフは良い店で買い物が出来ないので、良い接客というのを知らない。
年収が低いと心もすさむ。
貧乏=必ずすさむわけではないが。
やはり、生活カツカツの余裕が全くない暮らしっていうのは、仕事の勉強のための本を買おうとかっていうことにはならない。

向上心ある会社は良い店を持ちたいと考える。
もちろん、安いお店も需要はあるので持ちたいが、高級店も構えておきたい。可能な限り自分たちのサービスの引き出しを多く持っておきたい。引き出しがある状態で意図的に事業として成績の伸びない方を縮小することはあれど、可能な限り質の高いサービスを提供して、業界内でのアドバンテージを作りたいと考える。
質の高いサービスをして良いビジネスを広げていきたいと考える。

向上心のない会社は逆で、失敗したときに痛みが少ないようにとにかく経費削減する。
特に人件費を削る。
あるいはサービスを削ろうとする。
そのくせ原価などを抑える努力や、本当に削るべき無駄な経費の削減っていうのは少なかったりする。

原価を抑える努力というと、販売戦略と予想を立てられる知識と経験などが必要になる。

極端な話だが、小売っていうのはその年の販売量が完全に予測出来れば必ず儲かる。
売り上げが少なくても、完璧に予測出来れば、ギリギリに必要な量だけ仕入れれば良い。
仕入れが少なければ掛け率が悪くなるし、掛け率を良くするためにまとめて多く仕入れすぎると在庫処分をしないといけなくなる。
必要な人件費も分かる。
予測の売り上げに必要なだけの人材を雇えば良い。

売り上げが少なくても、売り上げが完璧に予測出来れば、売れた分の粗利の利益は確実に儲かる。
大量仕入れをして原価を下げても不良在庫を抱えてしまっては意味がない。不良在庫=現金化出来ないもの=粗大ゴミだ。実際はゴミじゃなくてセール商材として使えないこともないのだが。

ーーー

一口に言えば向上心のある会社とない会社の違いは、投資するものが違う。
人材育成っていうのは時間もかかるし、失敗するリスクもある。
人間、合う合わないがある。
仕事に合う合わない。環境に合う合わない。
入社面接時は全員、頑張りますと言って入るけれど、いざ入ると頑張りたくなくなってしまう人っている。

大企業なんかは典型的だが、人材を採用しても全員が成長するとは期待していない。たくさん採った内の何人かが優秀な人材に育ってくれることを期待して採用するし教育していく。

中小企業はそれが難しい。
無駄な人材は採れない。
そこで向上心が分かれてしまう。
少々ダメな人間で良いので、安く使える人材を求めるようになってしまう会社が出てきてしまう。
これが当たり前になると負のループに入る。

ーーー

ただ、一個人と同じで会社にしても向上心のない会社が悪いわけではない。
向上心ある会社、向上心を求められる会社はしんどいという人も多い。
売り上げはそこそこで良いから、何とか細々食いつないでいきたいという会社もあるから世の中は上手くまわっていく。

ーーー

安い給料で働いてはいけない理由の一つに休日がある。

安い給料の会社っていうのは、社員に出すものを出さない。
「給料は安いけど、福利厚生が良くて休日は多い」
っていう会社も存在はする。
でも、給料をたたく会社って基本的に社員を大事にしないので、やっぱり休日も少なくて、福利厚生も良くないっていう場合の方が多い。

給料の多い少ないは金銭的な価値観もあるけれど、休日の多い少ないについては多い方が良い。
人間、体力、気力には限界がある。長時間働き続けても、仕事の質が落ちる。
休日が充実していないと何のために頑張って働いてるんだか分からなくなる。
仮に休日返上で仕事がしたければ、休日に仕事の勉強をしたって良いわけだ。

仕事の質と、仕事を頑張りたいと思えるモチベーションのために休日は多い会社の方が良い。

家庭を犠牲にして仕事をしたって、結果として後悔が残る。

ーーー

もちろん、給料と休日の良い仕事は求められるものは高い。
それが嫌っていう人はいる。

テーマとは矛盾するけれど、安い給料の会社で働くっていう選択肢も決してナシではない。

ーーー

少し脱線はするけれど、ホームレスってのも生き方としてはアリなのだ。
春先や秋の季節の良い時期に大阪の西成区のホームレスタウンに行ってみてワンカップを飲むと分かる。
西成には一泊千円のドヤという簡易宿があるのだが、そこで一泊して、昼からワンカップを道端に座り込んで飲んで、空を見上げてみると、これが実に気持ち良いのだ。

時間とお金が許すなら、自転車持ってアフリカのタンザニアなんかに行って、自転車で走った後、小さな村の売店で冷えてないビールを買って飲んでみても良い。
タバコを吸おうとすると人が寄ってきて、自分が吸うよりもたくさん吸われてしまう。
彼らには仕事がない。
ビールは何だかんだでアフリカでも百円くらいはする。
彼らの日当は三百円とか、あるいはゼロ円だったりもするのだが、ぼんやりと木陰で黄昏ているわけだが。
彼らと通じない言語でやりとりしてぼんやりとビールを飲むと、これは実に美味い。
可能ならビールではなく、ビニール袋に入った五十円しないくらいのジンを飲む方が良い。あまり美味くはないが、すぐ酔える。コーラを一緒に買って混ぜて飲んでも良い。僕はお酒は強いのをストレートやロックで飲むのが好きなので、袋のまま喉に流し込んでいたが、このスタイルは現地の酒飲みと同じなので親近感を持ってもらえる。
彼らはこれをよく飲む。安く酔えるのだ。ちなみにアル中が増えるので社会問題にもなっているらしい。

仕事をせずに昼から飲む酒は美味い。
仕事後のよく冷えたビールが美味いなんて言う人がいるが。
酒は仕事などせずに、昼間から路上に座り込んで飲むのが一番美味い。

ーーー

働きたくない、怠惰でいたいというのも人間の正直な欲求の一つなのだ。

なので、給料も休日などの待遇もいらないから、出来るだけ楽な仕事をしたい、食べる分だけもらえればそれで良い。
これもまた正しいと僕は思っている。

昨今の自己啓発本はそういうのを断固として否定するが、ホームレスの暮らしにもメリットはある。
止むを得ずホームレスをせざるを得ない人も中にはいるが、日本の場合、選ばなければ仕事はあるし、国としてはホームレスは減らしたいので安く住める公営住宅などもある。
それでも、ホームレスをする人がいるのは、ホームレスは気楽なのだ。

持たない暮らしとは気楽で気持ち良いのだ。

いつでも、全てを手放して、自分の行きたい場所に行ける暮らし。
何かを維持するために毎月多くのお金を払い続けなくても良い暮らし。
今生きていることだけを考えれば済む暮らし。

ーーー

持たない暮らし、持つ暮らしでいうと、僕は本当は持たない暮らしの方が好きだ。

でも、転職すると年収も上がるし、転職後は取らないといけない資格も増える。覚えないといけない仕事もてんこ盛りだろう。
まず車を買わないといけない。仕事で車を使わないといけない。

一人で生きるなら買うとしても軽トラかバンだったろう。
でも、今度は子どもも生まれる。
子どもを連れて家族で西日本まで帰省しないといけなくもなるので、クルーズコントロールの付いた普通車を買おうと思っている。

家を建てる会社なので、タイミングが合えば家も建ててしまおうかと考えている。
家族のためにも良いし、自分が実際に商品を購入するっていうのは一番の勉強にもなる。

そうやって、持たない暮らしから離れていく。

持たない暮らしが好きな僕には分かるけど、持たない暮らしっていうのも逆にくたびれてしまうところもある。

まあ、何よりも子どもが多数決の世の中で少数派で生きていかないといけないっていうのはかわいそうだと思うわけだ。
かと言って金持ちの家庭に育ててやりたいわけでもないが。
子どものためにも家族でいろんなところに行っていろんな遊びをしたいし、妻のためでもあるし、僕自身のためにも。
家族みんなでいろいろ遊んでみたい。

そう考えると、持たない暮らしから離れるのは寂しい気もするけど、お酒に溺れる夜には別れを告げて、収入の良い、休日の多い仕事に転職して、仕事をバリバリやって。
それが僕の次の生き方なんだろう。

ーーー

安い給料で働き続けてはいけない。
そんなタイトル、テーマにしてはみたものの、実のところ、安い給料の仕事をしてみるのだって良い。その気になれば、転機さえ来れば、そういう仕事から離れるタイミングも来る。年齢的に難しくなることもありえるけど。まあ、その辺りは運だろう。

若い頃の自分に言いたいことは、自分には決してマトモな仕事は無いなんて思い込んではいけないということだ。
安い給料の仕事でも、好きなこと、誇りを持てる仕事っていうのはとても素晴らしいことだ。
ある意味ではそういう仕事に就職するのって難しい。
多分、安い仕事から高い仕事に転職するより、逆の方が難しい。
特に家族を持ったりすればなおさらだ。

自転車屋での仕事って、して良かったと本当に思う。
これから先、ふと何かのきっかけですこぶるお金持ちになる日が来たとしても、若い時代を自転車の旅と自転車屋、山小屋で過ごせたことについてはずっと感謝し続けるだろうと思う。

でも、安い給料で働き続けてはいけない。

正確に言えば、安い給料で働きたくないと感じる日が人生突然やって来たりする。
その時にはスパッと動けないといけない。

でも、別にそういう日が来なければのんびりと生き続けるのも、それはそれで良いのだけど。

でも、のんびり生きるなら自分で会社を作るべきだろう。
誰かの会社で安い給料で働き続けていていると、段々と周囲の人間が仕事の出来ない人、仕事にやる気のない人ばかりになってしまう可能性がある。

そうは言っても自営業すると、なかなかのんびりとやってはいけないのだろうが。

まあ、人生、一度は良い給料の会社に入ってみといた方が良いんだろう。
その上でホームレスライフを選ぶのもそれは自由だけど。

ま、そんなこんな。
posted by ちょろり at 23:29| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月17日

宅建の模試を受けてみる。

宅建士の勉強を進める。
次の仕事で実際に使うか微妙なのだが、勉強し始めたからには取る。

七月に勉強を始めて、スマホでぽちぽちと練習問題を解いたり、帰宅したら参考書を眺めたりと勉強を進めて来て、やっと一通り読むのが終わった。まだ読めてないところもいくらかあるが。

この段階でとりあえず模試を買って解いてみることに。

50問中29点であっさり不合格。合格ラインは35点前後だそうな。
まあ、現段階としては悪くない。

試験勉強はとにかく答え合わせが大事だ。
まずは一通り網羅して、あとは試験を解いて出来ていないところを把握して、一度間違えた問題に類似する問題については二度と間違えないようにする。

特に模試はプロが作っている。
ヤマが当たらないところもいくらかはあるが、模試を作るプロはヤマ張りのプロだ。その中から実際に出題される問題はある程度ある。
つまり、模試で満点が取れるように理解出来れば、本番の試験もそれなりに取れるのだ。
とにかく模試の問題をきちんと理解する。

そんなの最低限のことじゃないかと言えばその通りだが、四択問題の試験について言えば、最低限の知識があればある程度は解けるというのも事実だ。

予定通り勉強が進んでいる。
本音を言えば予定よりもう少し進んでくれてれば良かったのにな、と思いつつ。
まあ、そう甘くはないのだ。

国家資格とはフェアだ。
勉強さえすれば、きちんと社会で生きていける力になる。
もちろん、使い方次第ではあるものの。

ま、そんなこんな。
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2019年08月16日

改めて転職を振り返るのと、これまでの仕事の反省なんかをしてみようと思う。

転職が決まって、ここで改めて転職を振り返るのと、これまでの仕事の反省をしてみようと思う。

ーーー

基本的に転職活動中は自分で自分をいかに持ち上げるかの戦いだった。
転職活動って結構心折れる。
特に僕なんかは大学中退で職歴も自転車屋と山小屋、さらに途中で自転車放浪の旅なんて具合だったから、面接=懺悔状態だった。
職を探しても、家族を養える給料の職で未経験OKっていうのは基本は家か保険の営業。残業地獄、ストレス地獄っていう仕事ばかりだった。

それでも、子どもは生まれるし、現実問題として子どもを育てていくには仕事を変えないといろいろ厳しい。会社の問題もあるが、自分にも問題はあるのだが、とにかく厳しかった。

転職活動はとにかく自分を肯定しないとやってられない。
転職すること自体に疑問を持つこともあったし、とにかく不安はあった。
今の会社を去らずに頑張る方法は無いのだろうか。
何だかんだで会社にも社長にも恩があるし、引越しの費用や給料のない期間についても貯蓄を崩さないといけない。
店長まで頑張ったのもある。
慕ってくれるお客さんもいる。
可能なら今の会社に残りたいというのはある。

でも、現実問題として前に進むしかないのだ。

おそらく転職って、子どもができるとか、結婚するとかの理由がないとなかなか難しいと思う。
何せその日までその会社で何とか飯が食えてるわけだ。贅沢を言わなければその会社でも飯を食っていける。
でも、環境の変化があるとそれまでの食い扶持じゃ家族を養えなくなる。

全力で自己肯定、転職は必要だし正しいこと。
自分はできる。
大丈夫だ。
これまでの人生で悪いことはしてきていない。
自分なりに一生懸命頑張ってきた。
世間の人に出来る仕事なら自分も努力すれば出来るはずだ。

とにかくアゲアゲで行く。
アゲアゲにしても、絶望に絶望が重なるので、とにかくアゲる。
アゲていけるかどうかが転職の鍵だ。

転職すると決めたらアゲアゲで進む。

ーーー

転職の第一歩は転職エージェントだ。
ハローワークでも良いが、ハローワークは遠いし、仕事をしていると通いにくい。
転職エージェントは無料で自分専任の担当が付く。電話などで面談もしてくれるし、メールでも対応も迅速だ。希望を聞いてくれてそれに合う求人の紹介はもちろん、履歴書の書き方や面接の対策までしてくれる。

とにかく登録する。
僕はリクルートと地方のその地域に強いという小さいエージェントを使った。
最終的には小さいエージェントの方で決まった。

リクルートのような大手はとにかくたくさん求人があるけど、正直、あまり親身じゃない。
システムでとにかくたくさん応募させて決める。
数打ちゃ当たるだ。
応募は10以上したが、面接に行けたのは1社で、そこは落ちた。

小さい方のエージェントはとても親身だった。
求人は少ないのだが、その分、そこに何とかして入れてくれようとする。なので当人がヤル気が出る求人、なおかつ合格しそうな求人を紹介してくれる。
本当に親身に丁寧にしてくれたので、そこは三社応募して一社だけ面接に行けて、そこがそのまま受かった。
球数が少ないので、打率を上げるという方法だ。

学歴や経歴が良くて転職に自信がある人は大手からいろんな企業を見て決めるのが良いだろう。
僕のような転職市場のダメ人間は小さいエージェントを頼る方が上手く行くかもしれない。
まあ、最後は運やタイミング次第なので必ずしもそうではないだろう。

どちらもメリットはあるので、何社か組み合わせて使うのが良いんだろう。

ーーー

次に僕は資格の勉強を始めた。
勉強は何よりも自信になる。
どんな仕事なのかという勉強にもなる。
もちろん、取得できれば転職に有利にもなる。

仕事を探し始めて分かったのは保険か家の営業くらいしか残された手はないということだった。
(後半で分かったが、工場勤務という手もあった。なぜか工場勤務は序盤、なかなか求人が見つからなかったのだ)

保険の営業も考えたが、保険が役に立つのは人の不幸な時で、不安を煽って契約するという側面が好きになれなかった。
その点、家は金額が高くてつらそうだが、夢のマイホーム、正に夢のある仕事だと思った。

それで家の営業をしようと、とりあえず本屋に行って役に立ちそうな資格を取ろうと思った。
何せ大学中退だし職歴もボロボロだ。
長期にわたって仕事が見つからないかもしれないので、とにかく資格を取ろうと。資格を取れば何か良い仕事があるかもしれない、と。

そんなわけで宅建士を取ることに。

最初はそういう消去法から選んだのだが、勉強していると心が安らいだ。

転職活動ってとにかく不安と絶望がたえずつきまとうし、出来る事って意外と少ない。求人を探して応募するくらいしかない。履歴書や職務経歴書を頑張って書くとかはあるにせよ、結局まな板の上のコイ、面接に呼ばれれば品定めされて、受け身に結果を待つしか出来ない。

その点、勉強は能動的だ。
少なくとも目的に向かって自分は何か努力しているという心の安らぎがある。
勉強している時間、し終わった後。
絶望と不安からほんの少しだが逃げられる。

実際に転職後に役立つかどうかは分からないにせよ。
やれることをやるっていうのは、僕の場合、救いになった。

ーーー

後は運で何とか決まった。
面接に行ったらすごく良い人で話していて面白かった。そこが取ってくれた。
正直、受けに行くまでは家の営業つらそうだな、っていうのが大きかった。今もつらそうだとは思っているが、すごく面白そうな会社だったのだ。なので正直に思うところをすべて話した。

こればかりは運だ。
僕のような人間を取ってくれる会社が世の中にあって良かったし、そういう会社がタイミングよく募集していて、それに応募出来たのも、全て運が良かったとしか言えない。

転職活動開始から2ヶ月しないくらいで決まったのだから本当に運だった。

なので、絶望してもいけない、というかあまり意味がない。
自分を取ってくれる、なおかつ入りたい会社っていうのがあるかどうかはタイミングと運だ。

タイミングと運が悪ければ長く活動を続けるしかない。
もちろん、自分に無理のない範囲で継続しないといけない。
なおかつ、なるべく早く決めないといけない。
転職活動をし始めると現在の仕事に対してのモチベーションは落ちてしまう。そうならないよう努力はするのだが、どうしてもこれまでの会社の恩や義理よりも、自分の未来の不安が強くなってしまう。
それでも、転職活動において、現在の仕事をきちんと頑張らないと当然仕事にミスが起きて、転職活動のストレスと現在の仕事の失敗のストレスの両バサミにあってツラい。
転職活動で大事なのは現在の仕事をおろそかにせず、無理なく根気強く、自分を肯定しながら進めることだろう。

ーーー

さて、転職活動についてはこの辺で。
自転車屋の仕事の反省だ。
自転車屋というより、これまでの自分の仕事に対しての反省だろう。

もちろん頑張ったところもあるが、何よりも部下への支持、教育っていうのはダメダメだった。
恐らくそこさえ出来れば売り上げももっと伸ばせただろうし、職場の空気も明るく、みんな楽しく出来ただろう。
店長という中間管理職である以上、自分がプレイヤーとして反省、修理する以上に、下の人間にもっと自由に自発的に仕事したくなるように環境を整えてやって、仕事を投げて、失敗が怖くないようフォローしてあげる。なおかつ、悪いところは鋭く指摘する。上司の指示にはテキパキ従うよう空気を作る。
最終的にそういうのがどうにも出来なかった。

原因はたくさんあるが、一番は嫌われ役に立てなかったということじゃないだろうか。
部活や仲良しサークルじゃなくて仕事なんだから、ダメなものはダメだと強く指摘しないといけなかったし、出来るようになるまで根気強く向き合わなくてはいけなかった。嫌われるとかそういうのを気にしてはいけなかった。
部下が仕事を出来るようにしてやるのが上司という立場の人間の仕事なのだ。
それが出来ないと自分も苦しいし、部下もいつまでも成長出来なくて、ダメ社員扱いを受け続けるのは苦しい。
ダメなのにダメと言わないのは、優しさではない。
ダメなことをダメとストレートに教えて、出来るように一緒に考えて努力、協力するのが優しさだろう。

もちろん、良いところを誉めて伸ばすっていうのもアリだろうけど、やはりダメなところはダメと言わないといけないんだろう。
ダメと言うことで相手のモチベーションを下げることになるかもしれないし、実際、僕の部下は仕事放棄して職場から消えてしまうというのも事実ではあるのだが、それでも、根気強く向き合わないと、ダメなままで居続けてお互いにストレスにしかならない。
良いところを誉めて伸ばすにしても、ダメなところはダメだとストレートに指摘すべきなのだろう。
理想は何かしらの解決案、提案を持ってダメと指摘すべきだろう。
解決案、提案がなければ諦めるかどうかを本人に選ばせるべきなのだろう。
ーー君はこういうところが出来ていない。こういうところは出来ている。出来ていないところを出来るようにする方法を一緒に考えて努力するか、出来ないということを受け入れて出来る分野で頑張るかどちらが良い?
とストレートに指摘して、相手に選択させるのが良いんだろう。

僕は基本的にこっちの解釈、判断で「この人には出来ないことは出来ないで仕方ない」と諦めてしまっていた。

簡単に諦めてはいけないし、ましてや本人に諦める気がなくて努力する気が少しでもあるなら、しっかり向き合ってやっていくべきだ。
本人に選ばせるというのも、少々、残酷なやり方とも思えるが、実際問題、大人になったら自分のことは自分でやるしかない。
それでも、チャンスは与えないといけないし、可能な限りチャンスをものにして、戦力になって欲しい。

そういうのが全く出来なかった。

ダメな人は諦めるか近寄らないっていうのが僕のセオリーだったが、それだけじゃダメなのだ。
ダメな人は改善のため一度は徹底して向き合わねばならない。
根っからのダメな人間など珍しい。その仕事ではダメでも、それ以外のプライベートなんかではとても優れた人間かもしれない。
ただ、上司として接する以上、仕事についてダメなまま放置してしまうのはいけないのだ。

ーーー

結局、そこは真摯さと自覚だろう。
部下をその仕事の中で有用な人、価値ある戦力に育てるということは、その人の人生を明るくすることなのだ。
部下を仕事漬けにしろということではなく、部下が仕事が得意になって、仕事に誇りを持てるようにする手伝いをする。
管理職とはそういうのこそが仕事だと自覚して、真摯に向き合わねばならない。

そういうのがあれば、教育を面倒だと感じることはないし、真摯さは相手に伝わる。
正直、教えられるほど自分にも自信がなくたって、教えないといけないのだ。教えられるように自信を持つために自分が先に努力しないといけない。
結局、自分に自信のないことは教えられない。
でも、自信がないことでも教えられるようにならないといけないり

そのためには当然、三日坊主じゃいけなくて、相手が出来るようになるまで徹底してやり続けなくてはいけない。

次に管理職になる日は多分遠いだろう。正直、そういう日が来たからと言ってきちんと管理出来る自信はあまりないのだが。
事実として管理出来なかったせいで、部下たちはこの後もしかすると失業するかもしれない。
これは自分の失敗である。

ーーー

その他の反省すべき失敗と言うのは案外思い付かない。
多分、他にもいろいろあるはずなのだが。
それでも、販売なんかについては概ね精一杯頑張ったように思う。
メカニックなんかの技術的な面についても勉強を積んだし、一通りのことは問題なくこなせる。

自分の手の届く範囲のことは頑張れたんじゃないかな、と。

可能ならもう少し機材を自腹を切って買って、勉強する機会を増やすべきだったかもしれないが、現実問題として、そんな金銭的余裕はなかった。

ーーー

自転車屋、山小屋と好き放題生きたので、大学を卒業してすぐ就職した人より、金銭面では少々苦労はしてきた。と言っても、20代はその夜飲む酒代があれば十分だったのだが。

キャリア形成とか人生設計とかいう意味でどうだったか、と考えると、まあ、悪くなかったんじゃないだろうか。

若い間に自転車で海外を放浪する。
これってやっぱり何者にも変えられない価値があると思う。
ーーじゃあ、それを通して何を身に付けましたか?
ということを面接で聞かれたりもした。
ーー人に助けてもらわないと人は生きていけないし、人に助けを求める方法、お腹が減ったらお腹が減った、何か食べられるところはないですか?と言葉が知らなくても伝える方法です。
と僕は答えた。
面接官はあまり意味がわかっていなかった。

実際問題、日本に住んでいると何の心配もない。
頭のイカれたシャブ中に突然ナイフで刺される可能性。
強盗しないと生きていけない貧困者。
人間を襲う象。
そんなのっていない。
蚊に刺されてマラリアの心配をすることもない。
国境で隣国のビザを取るためにアメリカドルが必要だが正規レートで換金してくれる銀行などないという問題もない。
コンビニに行けばおにぎりも安全な水も買える。
行き倒れたってだれかが警察に通報してくれて、とりあえずは保護してもらえる。
車にはねられてもすぐに救急車が来てくれる。
国境を越えるたびにタバコ代を毎回高くボッタクられる心配もない。
食べる肉にハエがたかっていて、それを汚い油であげて、便所の匂いがするような肉を食べる心配もない。
走っても走っても町にたどり着かなくて、ライオンやピューマのような肉食獣が出るかもしれない道端で野宿する心配もない。
子どもが死ぬことも当たり前のような世界ではない。
壊れかけた自転車を片道4時間近くこいで学校で2時間だけ勉強するような少年もいない。
日本はすごく安全だ。
安全を確保するための努力をしなくて良い。
誰かに助けて欲しいと頼む必要もない。
理不尽さが少ない。

世界は結構いろいろと理不尽なことだらけだし、そして自由だ。
安全ではないけれど、とても広いし自由だ。

助けが必要なら自分で助けてくれるようお願いしないといけない。
素直に自分が今しようとしていることを伝える。つまり、旅の目的地を伝えて必要としていることを伝える。助けて欲しいと頼む。今夜の寝る場所を提供して欲しいとか。

そういうのって本来は人間として当たり前なのだ。
大学を卒業してサラリーマンして働けば、安定したお金が入ってくるっていうのも大事だけど。根本的には人と人とのつながりがあって助けてもらいながら生きるものだから、助けてもらうスキル、人を助けるスキルっていうのは大前提として重要なことなのだ。

だから、生きるスキルの少ない若い頃に、家族も友達も誰もいない見知らぬ異国の田舎の村で誰かに助けてもらう。
そういう経験っていうのは本当に貴重だったと思う。

年を取ってから貯蓄したお金で優雅に世界をまわるのも良いけれど、若い時に体一つで、出来るだけ貧乏で制限がたくさんある中で異国を旅するというのは大事だ。

こういうのは島国である日本人はすごく弱い。
逆に途上国の人なんかは、日本国内で働いている人もたくさんいるように、母国で仕事がなければ、異国で仕事を探して稼いで生きるのは当たり前だったりする。
自分が生きるゾーンを自分で作るという営みだ。
社会が用意してくれた大学やそこを卒業した安全なゾーンではなく。自分で考えて自分が生きるためのゾーンを自分で作る。

生き抜くためには自分から動いて、人の心を動かさないといけない。

ーーー

大学を中退したことについて悩むことも多かった。
それでも、大学を中退したからこそ、僕は破れかぶれで旅をした。
真っ当なサラリーマンにはなれないと思っていた。
すごく気持ちの苦しい日々があったこともよく覚えている。

でも、改めてそういう時代が通り過ぎて、意外とすんなり転職も決まった今思う。
苦しいと思っていたあの日々こそ一番生きがいに溢れていて、どこに向かおうとしているかも分からないままもがいていた日々こそ一番充実して素敵だったんじゃないかな、と。

まあ、もちろん、これからも素敵な日々は来るんだろうけど。

ーーー

そう考えると、最後は経済的な事情で引退することにはなったものの、自転車屋で働けたのは、そういう旅の日々の自分に対して筋が通せていたと思う。ちゃんと店長までなったし、多くのお客さんに自転車の素晴らしさを伝えられたんじゃないかな、と。

自転車が好きな人、登山が好きな人たちの払ってくれたお金で今日まで生きてこれたことを感謝して。

次の人生に進もうかな、と。
次の人生って言ったって、やるのは僕なので相変わらず泥臭くやるんだろう。
そんなにスマートには生きられないだろう。
また楽しい日々が来ることを楽しみにしつつ。

子どもが高校出たらヨーロッパでものんびり旅しよう。

まあ、そんなこんな。
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2019年08月10日

自転車屋引退。

じてぼんの筆者としては残念な話だけれど。
子どもがもうすぐ生まれる父親としては素晴らしい話で。

転職が決まった。
自転車屋は引退することになった。
一般企業で営業マンをしていく。

でも、今度は八ヶ岳のふもとなので、MTBは近くに富士見パノラマがあるし、ロードも麦草峠にビーナスラインと自転車を乗る環境としては天国だ。トライアスロンも野尻湖まで行けばある。登山ももちろん天国だ。
やはりアウトドアするなら長野は強い。

ーーー

自転車屋さんで子どもは育てられないのか。
別にそんなことはないと思う。

実際に僕の周りにもそういう人はたくさんいる。
そして、子どもが出来て自転車屋さんを辞めていく人もやはりたくさんいる。

給料面、休日面は世間一般の平均より良くないけれど、その気になれば食っていけないこともない。
単純に僕の場合は会社の考え方についていけなくなってしまったというのが大きい。
僕の中で仕事とはやったらやった分は報酬があるべきだと考えている。好きな仕事なら報酬は我慢しなさいっていうのは間違っていると思うのだ。
そうしないと、仕事に対して頑張ろうというモチベーションにならない。
ただぼんやりと出社するだけで給料がもらえる、別に頑張っても給料も良くならないし、休みも少ないから自転車イベントにも出られない。仕事だから自転車屋さんにいるだけ。
そういう職場には僕はあまりいたくないし、そういう店で自転車を売りたくない。

一口に言えば自分が自転車を買いたいと思える良い自転車屋で働いていたい。
自分がお客さんだとして、親しくしている店長さんが実は貧乏過ぎて家庭崩壊していたら嫌だ。自転車のために家庭崩壊している人から自転車を買いたくない。

何かしらの明確な目的を持って仕事を一生懸命する人たちと仕事がしたい。特に自転車屋さんなら、自転車に対して熱い想いを持ってる人と一緒に働きたいし、そういう人たちが幸せに家庭を作っていけるような会社で働きたい。

そうは言うけど、自転車の知識もロクになかった僕を拾ってくれて、プロショップの店長が出来るまでに育ててくれた今の会社には感謝している。
恩を仇で返すようなことになってしまうが、子ども最優先で生きていく。
そう、モンスターペアレントだ。
子どものこととなれば、恩も仇で返す。
でも、そりゃそうだ。まずは自分の生活が守れないと、自転車という人生の遊び道具は売れない。

そうは言っても、会社も出せない給料は出せない。

こうなると交渉決裂だ。
リスクを取ってもプロトンから逃げねばならない。

つまるところ、僕はお金が欲しかったのだ。
そして、社長はお金を払いたくなかった。
それだけのことなのだ。
はっきり言って、そこには哲学も美学もない。

ーーー

自転車屋さんに限ったことではないけれど、家族を持つことで生き方が変わる人とそうじゃない人ってのがいる。

結局は家族の理解である。
そして、家族の理解っていうのは、仕事への熱心さである。
そういう意味では僕は自転車屋さんにそこまで熱心なようには妻の目には映らなかったのかもしれない。
あるいは、熱心ではあるもののしんどそうなところが多く映ったのかもしれない。

ーーー

僕自身、自転車屋さんの仕事に未練はないかと言えば、正直、あまりない。
自転車屋さんっていう仕事はとても好きだけど。

同じように山小屋に未練はないかと言えばない。
山小屋は実に素晴らしい仕事だったと思うけど。

自転車も登山も好きだけれど、楽しいからしただけだ。
良くも悪くも単純に楽しいから自分が納得するまでトコトンやっただけ。その中で縁あって仕事としてやっていける期間があった。
もちろん、まだまだやり足りないことも多い。雪山登山もしたかったし、自転車ももっとやりたいこともある。

ーーー

そう、ふと思い出したが。
昔の僕はいつか珈琲屋さんと自転車屋さんと古本屋さんをくっ付けたような店がしたかったのだ。
珈琲と本と自転車。
あとは音楽なんかもあれば良いかもしれないけれど。
それこそが若き僕の求める全てだった。
正にじてぼんである。

今は少し変わって、自転車関連でやるなら、レンタルとサイクリングツアーとMTBコースのあるキャンプ場がやりたい。
レンタルは日本全国宅配しつつ、地域活性化の役に立つよう駅前受け渡しの予約も受けるし、市内協力店にもレンタルロードバイクを置いて、キャンプ場の脇にそれらのレンタル自転車の基地になる倉庫を建てる。

改めて考えると、昔の珈琲と自転車と古本っていうのは故郷の町に生きていた自分ペースで欲しかった場所であり。
今考えるレンタルとツアーとキャンプ場っていうのは、旅をして来た結果、旅人目線として旅先に欲しい遊び場所なのだ。
そのキャンプ場に外人が来れば、日本一周をする装備と自転車が気軽に借りられるような拠点になれば最高だ。
もちろん、外人じゃなくて日本人でも良い。
もっと気軽に日本を自転車で旅して下さいね、と。

ただ、この事業の問題点はレンタル事業だけで大して儲からないであろうキャンプ場の維持なんかをしていかないといけないことである。
星の美しいキャンプ場が良いと思っている。
キャンプ場の維持代がかからないように、フリーのキャンプサイトにしてしまって管理なんかに維持費があまりかからないようにするのも手だが。
基本的にはレンタル事業とツアー事業に何人かいて、プラスでキャンプ場の手入れもするくらいで。

レンタル事業がどの程度儲かるかというのが問題ではあるが、全国宅配レンタルサービスは全国の旅館、ホテル、ゲストハウスなどの法人向けも含めて展開していけばかなり可能性はあるだろう。
トライアスロンを開催するエリアのホテルを狙うだけでもかなり取れる。トライアスロンパックと銘打って、ロードバイク一式とウェットスーツがレンタルできるプランを展開すればトライアスロンの宿泊客が確実に取れるし、宿泊客じゃなくても前日にレンタルしてレース後に返却したいというユーザーも取れる。
その辺は営業力次第だ。

今の会社でその努力をしろと声が上がりそうだが、残念ながら僕はステキなキャンプ場がやりたいのでその運営資金のための利益を求めるのであって、単純な売り上げのためにそういう努力はしたくない。
はっきり言ってお金のためなら、是非とも別の仕事をすべきだ。
自転車はあまりお金にはならないし、だからこそ自転車はステキなのだ。

ーーー

でも、子どもが生まれるので、それはしない。
普通のサラリーマンをやる。
いや、普通より稼げるサラリーマンをやるつもりだ。
資金が作れたら、事業を立ち上げて、地域おこし協力隊なんかに投げてしまって、社長職していても良いかもしれない。

その利益で今度こそのんびりと珈琲屋さんと古本屋さんの自転車屋さんをやろうじゃないか。

そして、それも誰かに投げてしまって、日本中に支店を展開して、外人さんが気楽に日本を自転車で回れるようなシステムを作って。
もっと自転車がみんなに身近になっていて、マイカー通勤が減って、自転車通勤が普通になっていて。日本が世界でも先進的な自転車利用による環境保護の国になっていて。

その頃には子どもも大人になって。
老人になった僕は今度はどこに旅に出ようか。
その頃には南極を自転車で走るのも今より普及していたら南極点を目指したい。
世界が平和になっていて、戦争もなく、どこの国にもビザなしで入れて、自由に旅出来て。
老人になった僕でさえ見たことのない景色の道を自転車で走れたら。
それはきっととってもステキなことだろう。

もしかすると、月や火星をサイクリング出来るようになってるかもしれないし、地球滅亡の危機が来ているかもしれないけど。

まあ、そんな妄想もするわけだ。

別に自転車屋さんを辞めたって、世の中から自転車がなくなるわけじゃないし、まだ見たことのない景色がなくなるわけでもない。
のんびり妻と子どもと一緒に生きていく。

ーーー

そうは言っても一度自転車屋さんを辞めて改めて戻ったのに、また辞めるというのは正直心痛むところではある。
信頼してくれたお客さんに申し訳ない。

それでも、内心ほっとしているところもある。
今日、面接が決まってから少ししてから、海外通販の部品の持ち込みがあった。

海外通販で買ったものを正規店で取り付けてもらう。
工賃さえもらえれば良いのだろうか。
それでも、食材持ち込み自由のレストランなど聞いたこともない。
レストランに限らず、そこで販売するはずのものを非正規ルートで安く買ったものを持ち込むなんてのはどの業界でもあまり聞かない。

やはりそれはルール違反なのだろう。

そうは言っても、それも受けねば食ってはいけない。
それなら、それを受けられるシステムを作っていない側にも責任はある。

ただ、そんなシステムを作る、つまり非正規ルートで購入した部品についてはアップチャージを頂きますなどというルールを作って提示しなくてはいけないってのは、人を叩いたら相手が痛い思いをするのでいけません、という何とも幼稚なルールだ。

話を広げるけれど、ふるさと納税でAmazonポイントをあげるなどという馬鹿な地方自治体が出て来て、物議を醸したりもしたのについてもそうだ。

普通に考えてやっちゃいけないことはいけない。

その理屈で言えば、恩のある会社を裏切るなどという行為もそうなのだろう。

子どもが出来たから、家族が出来たから。
本来、そういうのは理由にならないと思うのだ。

どうにも余裕がない。僕も社会も世界も。
ーー子どもが出来て、お金がかかるね、でも、まあ、何とかやっていきますよ。ははは。
そういうのがない。
みんなカツカツで隣の人より少しでも多く儲けたいし、自分だけ貧乏でいるのは嫌だ。

アフリカでの旅は東から南西へと国境を越えるごとに経済力のある国へと変わっていった。
冷蔵庫のない村がなくなり、スーパーのある町が現れた。裕福な白人が乗った車が増えた。
そして、ギブミーマネーと笑いながら叫ぶ大人や子どもが減って、暗い顔をしたストリートチルドレンが現れた。

もちろん、それが全てではない。
あくまで僕の目から見たアフリカだ。

アフリカでは貧乏は決して憎むべき悪ではなかった。
貧乏で発生している深刻な問題もたくさんあったのも事実ではある。
それでも、貧乏が当たり前の地域では、仕事のない人々は木陰でぼんやり黄昏ていて、風に吹かれていた。
稼ぎのあったものはビールを飲んで稼ぎを溶かしてしまっていた。
時々、お金持ちもいた。
お金持ちは貧乏人とは壁があった。
それでも、それは許容されていた。
貧乏人の存在もお金持ちの存在も。
料金をチャージ出来ないので通信出来ないケータイ電話を持つ人々。
道端でバケツいっぱいのマンゴーを売るおばさん。
誰が欲しがるのか分からない手作りの木のオモチャを売るおばさんもいた。
牛を追う少年。
朝から村の前で牛を殺していたり、自転車のハンドルに鶏をぶらさげていたり。
ハエのたかった肉。汚れきった油で揚げて塩をかけて食う。硬くて獣臭い。
一夫多妻制の社会の中で、結婚した相手の父親に迫られ続けるのが嫌で離婚したゲストハウスのおばちゃん。

アフリカはずっと遠い。遥かに遠い。
僕は転職して勉強して、きっとこれまでより良い収入と休みを得るようになる。
誰かは自転車屋さんに憧れて、いずれ店長になる。

先日、31歳、僕と同じ年齢の日本人の自転車で旅する人がペルーで死んだ。交通事故だったそうだ。
旅の終わりか不意に訪れてしまった。

少し前まで転職が決まらないで苦しんでいた僕はアフリカで死んだら楽だったかもしれないと真剣に考えたことがあった。
旅は楽しい。
でも、旅は終わって、日常の日々が戻ってくる。
日本での日常の日々はとても快適だ。
ただ、みんなカツカツで、自分も気付けば一緒にカツカツになっている。
旅の日々ほど輝いている日々はない。
その輝いている日々の真ん中で突然に人生が終わる。

転職が上手くいったからというのもあるのかもしれないにせよ。
日本のカツカツの日々と旅の日々のコントラストに絶望することは少なくない。
それでも、絶望の真ん中だって旅の先に続いた道であり、そこを一緒に歩いてくれる家族が出来た。
良いことばかりじゃない。
どちらかと言えば悪いことの方が多いかもしれない。
楽しいことばかりでもない。
嘘だ、楽しいことについては結構たくさんある。
良いことも悪いことも、汗水垂らして苦労して乗り越えて、何が楽しいんだか分からないけど、新しい日がまたやってきて、何のためだか分からないままに何かを努力する。
輝いている旅の日々とは随分遠い。
これからの日々に苦労は山積みだろう。

それでも、僕は生きて帰って来れて良かったかなと思っている。
きっと死んでしまった人も日本に帰ってきたかっただろう。
はたまた異国で生きるという選択肢をしたかもしれない。
何にせよ、少なくとも自分で決めた目的地までは辿り着きたかっただろう。
どこに辿り着いて、どういう意味があるとも知れないにせよ。
自転車で旅する人は自分の進みたい方向に進んで自分が決めたところまで自分の足で進みたい。
その人の旅が途上で果ててしまったことを心から悲しく思う。
それも天命かもしれないが、やはり自転車で旅した人間としてゴールまでたどり着けなかった無念を思うと悲しく思う。
冥福を祈ります。

僕の自転車の旅は終わったけど、人生の旅はまだまだ。不運で死んでしまった人の分まで頑張って楽しんで生きていかないと。

まあ、そんなこんな。
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2019年05月08日

スーパースターとチャンピオン。

スーパースターとチャンピオン。
スーパースターは何をしたってスーパースターだ。成功しても失敗しても。その代わり、平凡なことではスーパースターではいられなくなる。
チャンピオンは失敗してはいけない。失敗したらチャンピオンではなくなる。

だれもスーパースターでは居続けられないし、だれもがチャンピオンになりたい。不思議なことだけれど、二度と失敗してはいけないチャンピオンにみんななりたいんだ。
大抵の人はチャンピオンになれない。
チャンピオンになれる人は限られているし、チャンピオンでい続けられる人はさらに限られている。

坂道をどんどんと登っていく。
止まることない。
いつもならその人は止まって、待ってくれる。
しかし、止まることなく凄いスピードで登って行ってしまう。もう追い付くどころか、これ以上進めない。でも、その人は登って行く。
上の方には黒い雲がかかっている。あの雲の中は雨じゃないだろうか。
呼んでも止まらず登り続ける。


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2019年04月20日

正しいことが正しいとは限らない世界。

正しいことが正しいとは限らない。
ただ、それってどうなんだろうか。
正しいことが正しいとは限らないのが正しい世の中って結構狂ってしまってるんじゃなかろうか。

「はじまりへの旅」という映画を観た。
主人公の一家は森の中で暮らしている。父親の教育方針なのだ。世間から離れ、学校には行かせず、父親が直接教え、肉体を鍛え、書を読み知識を蓄えて生きる。ヒッピーと一口にも言ってしまえるような暮らしをしている。
しかし、母親が精神病の末、自殺した。その葬儀に家族で行くため森を出る。
そう大した事件は起こらないのだが、ちょっとしたアレコレをする内に、やっぱり子どもは学校に行かせてまともに生きさせてやろうと父親は思うようになるという話だ。

まあ、この映画はどこか後味のよろしくない胸糞悪い映画だった。
学校に行かせず森で育てる。知識は十分にある。人間、それで良いように僕は思うのだ。
そりゃ、みんながそう生きていくとよろしくない。
ただ、いくらかはそういう人がいたって悪くないはずなのだ。
別に森じゃなくてもどこでも良い。ただ、学校でみんな等しく歩調を合わせてクローンのような考え方を持つ必要はなかろうと思うのだ。

映画の中では子供たちは何ヶ国語も習得していて、哲学や思想、自然科学などのジャンルの学問にも深い。筋肉はモリモリ。
現実には英才教育をしても、そんな風にはならない。
現実は医者の子どもでも、いくら金をかけて教育してもロクな大学に入れず、金を積めば入れる地方私立医学部っていうのが存在しているように、勉強や学問っていうのは、出来ない人間は出来ない。
ましてや六ヶ国語を喋って、全ての学問に深いなんてことが何人もいる子どもが全員出来るようになるわけはない。

まあ、あくまで映画、作り話の世界の設定なので、そこまでは良しとしよう。仮定、設定がないと物語は成り立たないので。

ただ、問題はそんな天才的な子どもたちがわざわざスクールバスに乗って学校に行く必要があるかというと、甚だ疑問ではある。
一体主人公は何に敗北したのか、これが非常に謎なのだ。

確かに社会性というのは大事ではある。
子どもを社会から隔絶してしまうのは危険であることは間違いない。
ただ、六ヶ国語やら何やら習得出来るだけの能力があるなら社会性も学ばせてやれば覚えれるだろう。
世捨て人をするというのもまた選択肢だろうし、社会に帰属して生きるもまた選択肢だろう。親がどちらかだけを強要することは良くないとも言えるが、逆を言えば基本的に世の中、親は子に社会に帰属することを強要している。

社会性というのも、そもそもに怪しいもので、国が変われば常識も違う。
最近、ベルリンの友のことを考えることが多いが、彼が偉いのは、そういう既存の社会性に依存しないというところだ。日本に生きれば日本の社会に帰属して生きるのが楽だ。未知の世界に適合して生きる、どこに行っても生きていけるってのはすごく強い。

正しいことが正しいとは限らない。
例えば、日本で客商売をしていると明らかに理不尽なことを言う客っていうのはどうしても存在する。
日本以外の国ではどうか分からないが、物を買うとなると、客は神様というのが発生する。

実際、客商売をしているとお客様は神様っていうのは正しい。神様のように思いなさいという比喩ではなく、お客様がお金を落とすからこそ我々の生活は成り立つ。お客様の求める商品こそが正しく、お客様が求めない商品は正しくない。
いかに作りが良くて素晴らしいものであっても、お客様が求めていない商品は客商売をしている限りダメなのだ。
まあ、基本的には作りの良い素晴らしいものっていうのをお客様は欲しいと感じる場合が多いんだけど。

ただ、人間として正しくないことでも、お客様が求めるものっていうのもある。
例えば安い電気だ。
これは倫理的に考えて正しくないだろう。
原子力発電所が吹き飛んでも、安い電気代は求められる。ジャブジャブ電気を使う。
でも、お客様が求めている限り、商売をしている立場からはそれをいかに提供するか、いかに魅力的に提案するかになる。
お客様は神様なのだ。

明らかに理不尽なことを言うお客さんは、現実的にはお客さんじゃなくなる。理不尽を言って利益よりも損害を出すようになると、これはお客さんじゃない。利益をもたらしてくれていればこそお客さんはお客さんなのだ。
しかし、現実はそうも行かず、ニュースなんかで店員が土下座をさせられたりする事件が起きるわけだ。

商売は三方良しが理想ではある。
売り手、買い手、世間の三方に良い商売が理想だ。
そのためには正しいことが正しいが通らないといけない。

正しいことが正しいとは限らない。
六ヶ国語を覚えて、知識を蓄えて、肉体を鍛えて、それが正しいとは限らないってのは何とも変な気がする。

主人公は一体何に負けて、子どもたちをスクールバスに乗せて学校に通わせることにするのか。
いや、この製作者は一体何に負けてこういうラストを書かねばならなくなったのか。
ヒッピーはダメだ、長いものには巻かれろ、世間に順応しなくちゃいけない。道徳の教科書に載るようなクリーンなラストじゃないといけない。

正しいことが正しいとは限らないってのが正しい世の中。
何者か分からない巨大な何かが個人の考えを否定して、無言の圧力で一つの方向に導く世界。

実際、僕も誰に遠慮してるんだか分かりゃしないが、何者かに気を使って正しいことが正しいとは限らないような、正しくないことも目を閉じてやるのが正しいような、ヘンテコなことになっていってる気はする。

変なクリーンな雰囲気でラストをしめてはいるが、何とも後味の悪い映画だった。

そんなこんな。


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posted by ちょろり at 23:43| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月18日

子どもが出来た。

子どもが出来た。
無事に産まれるんだか、まだ安定期にも入らないから分からないけれど、元気に産まれて、大きくなって欲しい。
そんなわけで結婚もすることにした。

急にいろんなことが進んだ。
アフリカは遥か遠い過去のようだ。

子どもが出来て、最初、中絶も考えた。
僕も妻、妻になるので妻で良いんだろう、どちらも当面は子どもは作らず二人で呑気にやって行くつもりだった。
結婚もどちらでも良かった。いずれ結婚するのだろうが、役場での申請なんかが難儀だろうからと折を見て入籍すれば良かろうといった程度のものだった。
そこにふと子どもが出来た。

僕も何だかんだで31歳、妻は少し年上なので世間一般で言えば子どもを持つにはちょうど良い年なのだろうが、世間の考えは世間の考えであり、僕らの考えとは関係ない。
僕の収入は相変わらず少ない。
独り身で生きるには十分だが、誰かを養えるかと言えば、まあ、養えるんだろうが。
そう、酒を辞めた。週に一度くらいは家で晩酌しているが。毎日ウイスキーを飲む暮らしから随分な変化だ。
煙草は辞めていないが、随分減った。
酒と煙草をやめるだけで、まあ、何とか養えるくらいにはなる。というのも、僕の出費の大半はその二つだったから。それ以外の娯楽といえば自転車くらいか。妻と暮らすようになってからはギターも弾かなくなったし、本もあまり読まなくなった。最後の砦が酒だったわけだが、酒は案外すんなり辞めた。
そうすると案外、生計が立ちそうな見通しが立った。
酒飲みってそんなもんだろう。
酒っていう鉄球を付けて生きている。外せば案外いろんなことが出来る。分かっちゃいるけれど、酒が好きで飲む。飲んで何か良いことがあるわけでもない。知り合いがいくらか出来るのは良いことだけれど、お金同様、夜の夢だ。飲み終われば眠りがやってきて、朝に太陽が昇る代わりに過ぎ去って行く。
だからこそ、酒の仲間は好きだった。
出来れば酒の仲間は夢であって欲しい。
日本人の常識としては昼間の仲間との交友を深めるために酒は飲むものかもしれない。
だけど、僕にとっては酒の酔いの中で夢のように揺れる友達でいて欲しかった。俗っぽい話は聞きたくなかった。仕事の愚痴など聞きたくもない。何の内容もない話をして揺らいでいる、夜の夢の仲間。
僕は一人きりで酒を飲みに出掛けるのが好きだった。

酒と煙草を辞めて、子どもを一人育てられるくらいの採算が立つ。
そう考えると酒を飲んできて良かったなと思う。
夜の夢から離れるのは寂しくもあるけれど。

昼の夢といえば自転車の旅だったんだろう。

酒に満たされた夜か、その日眠る場所も分からない昼の日々か。

ーーー

子どものためにそういったことを辞めるのかと言うと、まあ、その通りでもあるのだが、どこか肩の荷が降りたような気もする。
正直なところ、アフリカ以来、僕の心が燃えるようなやりたいことは見つからなかった。
仕事は嫌いじゃない。好きかと言われると、地方の町の自転車屋さん、どこか物足りない気もせんでもないが。それでも、悪くない仕事だと思う。それでも、心が燃えるようなことかと言えば、どうだろうと思う。
小説を書くということも、小説を読まなくなって、要は小説に心酔出来なくなったから読むことが減ったのだろうか、はたまた読まなくなって心酔出来なくなったのか、何にせよどうしても書きたいものってのがなくなったか、はたまた書きたいものは心の中に燻っていれど、手に届かなくなったのか、手を伸ばす労力、探す労力が落ちたのか、心が燃える感じがなくなってしまった。

どう生きるか。
正直、そういうのが見えなかった。

自転車屋さんという仕事に関して熱意はあるが、正直、随分走ってしまったからか、自転車に対してどこか冷めているところもある。いや、好きではあるが、世の自転車愛好家のように頑張ろうってあまり思えないところがある。休日にロードバイクで走っても、マウンテンバイクで山を走っても、一人きりで異国を走る高揚感みたいなものはない。ましてやアフリカやパタゴニアのような高揚感は縁遠い。
100km走ったって特に達成感はない。200kmほど走ればいくらか満足感はあるが。それでも、どこか冷めてしまっている。

そういう中で子どもが出来て、中絶のことも考えたが、二人で考えた結果、頑張って育てていこうと決めると、肩の荷が下りたような気がした。

ーーー

人間、誰しもすごい人でありたい。
何でも良いから、何か一つ、他の人には出来ないすごいことが出来たり、職場ですごく仕事ができるとか、他の人からすごいと思われるような要素が欲しい。
多かれ少なかれそういうのって誰にでもある。

僕の場合、自転車の旅にせよ、小説にせよ、僕に出来るかもしれないすごいことだったんだろう。

自分で言うのも何だけど、自転車に関してはちょっとすごかったと思う。
いや、自転車の旅自体もそうだけれど、その旅を文にして世界を綴ったというのもほんの少しはすごかったと思う。
まあ、よくやったんじゃないかと思っている。

だけど、すごくあり続けるって大変だ。

友人でベルリンに住んでいる男がいる。
彼は高校を卒業してから、たまに日本に帰ってくる以外はずっと異国にいる。
日本が嫌いなんだかどうだか知らない。
エリートってわけでもなく、料理なんかしながら生きている。
僕は彼のことはすごいと思っている。
別にハーバード大学を出てるわけでもなく、単にインターナショナルフリーターみたいな具合なわけだが、異国でお金を稼いで生きていくってすごいと思う。良い大学を出て駐在員として異国に住むとかじゃなく、体一つで異国で生き抜いているってのは、これはかなりすごいと思う。
彼は彼自身のことをすごいと思っているのかは知らないけれど、多分、自分の生き方を愛しているんじゃないかなと思うし、普通の日本人とは違う生き方をしているという自負はあるだろう。

すごくあり続けるって大変だ。

そういう意味で、僕は子どもが出来て、育てることを決めた時、どこか肩の荷が下りた。
子どものせいにして、いろんなことをやめるってわけじゃない。
ただ、いろんなことをやりながら出来るほど子育てって楽じゃないだろう。
ある意味では僕は子どもを言いわけにして、人生を一つ降りるのかもしれない。

実際は小説を書くなんて子どもがいたって出来るだろう。

肩の荷が降りてしまった。
僕はもうすごくあり続けなくって良い。

ベルリンの友はまだまだすごくあり続けるだろうか。

ーーー

すごくあり続けるってのは、ヒーローでい続けるってことなんだろう。

多くの人は途中で肩の荷を下ろしてしまう。
実際、僕より早く結婚した友人を見ていて、正直なところ、つまらなく感じたことが何度かある。
もちろん、それは否定したりすべきことではない。ただ、つまらないと感じた。
まあ、野球部の4番でエースだって、プロ野球に進まない限りは普通の人になっていくんだ。

基本的には普通の人で世界は成り立っている。

実際に4番でエースじゃなくたって、学生くらいまでって、何かしら4番でエースのことってある。ギターが上手でバンドで目立っていた、とかね。
それが、日々、仕事帰りに買うファミチキとビールだけが楽しみになったりする。

要は僕はそういうのが嫌だったんだろう。
自分がそうなるのも、かつてヒーローだった友人がそうなるのも。

ーーー

でも、いざ、子どもが出来て育てていこうと決め、肩の荷が下りたような感じがすると、それも人生か、僕の人生は折り返しに来て、死に向かって下り始めるのか、そんな気もするのだ。
どこか寂しくもあるが、いずれは死ぬのだ。
その中で次の命に任せるのかもしれない。
なんて無責任なことだ、と思うところもある。
でも、僕はとりあえずここまで頑張った、あとは君に頼むよ、と言ったところか。
すごいことをしてくれ、なんて思わないけど、元気で楽しく面白く生きておくれ、なんて思うわけだ。
僕は僕で随分頑張ってみたんだよ。どうも、まだまだ満足はしてないけど、いったん君に任せようかな、って。
もしかすると、子どもがいくらか育ったところで、また僕も僕で何か頑張るかもしれないけれど。
とりあえず、当面は君を育てることだけに集中して頑張ってみようかなって。
多分、それは結構楽しいことだと思うし。
少なくとも、僕の心が燃えることではある。頑張ってみようじゃないか、って。

とりあえずは元気に産まれて来てくれると良いんだけど。
父親ってのは母親ほど頑張れることが少ないから、何が出来るってわけでもないんだけどね。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 23:31| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年03月25日

山の裾野へ引っ越すことにした。

山の裾野へ引っ越すことにした。
厭世的になっても仕方はないのだが、最近は北海道の過疎の村の役場の求人などを見て、良いなと思ったりする。

子曰く(しいわく)、学びて時に之を習う、また説ばし(よろこばし)からずや。
朋遠方より来たる有り、また楽しからずや。
人知らずして慍みず(うらみず)、また君子ならずや。

ふと論語を思い出す。
高校の頃、学校に行くのが嫌いだったので、図書館で論語を読んだものだ。
授業でも習うが、学校のことは全面的に馬鹿にしていた。実際、学校で習う国語とは実につまらない。どうして名作をあんなにつまらなく感じさせる事ができるのだろうと思う。
そうは言っても、名作を知ったきっかけはやはり授業で教わるからだ。

ーーー

論語は何とも素晴らしいと感じた。
まず漢字がずらずら並んでいてカッコいいし、書き下し文を声に出して読み上げても何だかテキパキしていてカッコイイ。まあ、漢文全般に言えることだろうが。
それにしても、論語はカッコイイ。

実際のところ高校で論語を知るまで、日本の教育では学ぶとは何なのかということを教わらない。
論語はこれに対していきなり教えてくれる。
学ぶとは楽しいことではないか、と。
そして、学んだ結果として、遠くにいる友人にまで自分の話が届き会いに来てくれ話すとは実に楽しいことじゃないか。
だからといって、仮に人に知られるようにならなくたって恨んだり、くさったりしないで学び続ける、そういうのが君子ってものだよ、と。

なんと的確でコンパクトに学ぶとは何なのかを綴っている。

ーーー

まあ、実のところ、論語の内容などほとんど覚えちゃいないのだが。友あり遠方より来たるのフレーズは何故だかよく覚えている。

学校だとか集団というのは今も嫌いだ。人がたくさんいて、もちょもちょしているのが嫌いだし、学びたいために学ぶのじゃなく、みんなが学んでいるから学ぶっていうのがすごく気持ち悪かった。
生きていると何歳になっても大多数の人間は同じでみんなが働いているから働くだけで、働きたいことしたいことのために働くって少ない。

特に近年、人間を眺めているとつまらないような気持ちになることが増えた。人間に対して嫌だと思う気持ちもそうだが、つまらなくなった自分自身を映す鏡のように感じるせいかもしれない。
少なくとも、自分はかつてつまらない人間だと考えていた人間になりつつあるし、それを受け入れつつある。

30歳など若いと言う人もいるが。
はっきり言って30歳はもう全く若くない。
人間、40歳にもなれば明確に体力は落ち始める。
イチローでさえ45歳で引退だ。45歳までスポーツ選手としてプレイできるって本当にすごいことだ。
死ぬのは100歳かもしれないけれど、イチローでさえ45歳で現役終了だ。どうしたって体が衰えてくる。
ましてや、すごいわけでもない一般人の僕なんかは45歳まで体が元気なわけもなかろう。
まあ、プロのスポーツ選手じゃないんだから、体が元気じゃなくたって構わないとも言えるけど、脳みそだって45歳にはもう落ち目だろう。

現実問題として、35歳くらいだと思うのだ。
何歳からでも何でも始められるというのは事実だが、35歳を過ぎてゼロから始めるってのはやはり成長がしにくいのだろう。

50歳ともなれば、もう落ち目も良いところ。
むしろ、老害になり始める人もいる。過去の栄冠にすがりついて、下の人間を馬鹿にする。

もちろん、そうじゃない人もいる。謙虚に生きて、60歳だろうが70歳になろうが、若い人の話を聞いて素直に認めてくれることもあれば、助け船を出してくれること、率直に意見を言ってくれる人もいる。
長く生きて偉いはずの人が、年齢関係なく人間同士としてあくまで対等に、なおかつ年長者としての優しさを持って接してくれる。
そういう立派な人もいる。

ーーー

論語では、
十五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳従う。
七十にして心の欲するところに従って、矩をこえず。
とのことだ。

意味は、五十までは読んでそのまま。
六十にして何を聞いても動じなくなった。
七十にして思うように自由にやっても、道義を違えるようなことがなくなった、といった意味だ。

今よりも平均寿命の短い時代ということも考慮しなくてはいけないのはある。
今は寿命100年の時代だし、定年がない仕事なら60過ぎても現役でバリバリ仕事をする人もいる。

そうはいっても、昔の平均寿命の低さは子供のうちに死んでしまう確率が高かったせいもある。元気な人はやはりある程度までは長生きしたのだろう。

五十にして天命を知るのだ。

ーーー

そう考えていくと三十というのは、もう若くないわけだ。
もちろん、まだ五十まではしばらくある。
しかし、もう何かを始めていないといけない年齢ではあるのだ。

ーーー

最近、結婚をしたのかと聞かれることがある。
籍は入れていない。
入れても良いのだが、入れなくても構わない。どちらにせよ、今の人と死ぬまで過ごすのだろう。

結婚は男の墓場とは言うが、墓場にする人も多いし、そうじゃない人もいるだろう。
自分はどちらなのかと考えるとちょっと分からない。
それでも、墓場になるとしても、それは結婚したからではなく自分の怠慢ゆえに墓場を迎えるだけのことだろう。
一人で生きるのと違い相手を気遣わなければならないのも事実だが、相手が自分を助けてくれるのも事実だ。
助けてもらうことで出来るようになることが増えるか。助けることで自分の出来なくなることの方が増えるか。
一人で生きるのとは違うが、イコール墓場ではなかろう。一人じゃできないことが出来るようになるのだから。

ーーー

まあ、それにしても、友あり遠方より来たる、とは実に的を射たもので。

今の仕事にくたびれはてた今、旧知の友が遠方から来てくれ、手を差し伸べてくれれば良いのにと最近の僕は思う。
そうは言えど、旧知の友の多くも、やはり日々の生活に飲み込まれ、くたびれ、かつての光みたいなものは失われているだろうなどと考えると、故郷には帰りたくないし、旧知の友にも会いたくないような気持ちになってしまう。

北海道の過疎の村の役場の求人を眺める。
それで良いのかね、とも思うが。
遠方より友は来ない。

ドイツの友に会いに行きたい。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 00:03| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする