2019年09月12日

人生が目まぐるしく進んで、何を目標に生きていこうか。

人生が目まぐるしく進んでいく。

子どもが出来て、転職することになって。
車を買わなくちゃいけなくなった。
工務店で働くので、いずれ自分の家も建てようと思っている。

数年前、自転車でアフリカを走っていたのが実に遠い過去のようで、改めて考えればつい三年ほど前のことだ。
マラウィのことをよく考える。その国ではマラリア対策で蚊除けになるんじゃないかと、村で3ドルで半ば押し売りされたマリファナをぷかぷかとテントで吸って野宿していたのを思い出す。
あんまりマリファナの話なんかするのもどうかとは思うけど、別にマリファナ大好きってわけでもないし、日本で吸うことはない、要は潔白なのでこうして書くのだが。
(日本国内で高い金を払って、警察に捕まるリスクを押してまでマリファナをするのは馬鹿だけだ)
そこの国ではずっと下痢もしていたので、マリファナ茶みたいに下痢の治療にならないか、なんて思ってぷかぷかやっていたわけだ。

貧乏な国だったし、ある日突然全裸の黒人に殴られたりするし。僕も珍しくよくマリファナをやっていて。
どことなく幻想のような思い出のある国だ。
四国くらいの大きさの小さな国だったから、本の数週間の滞在だったし、特に観光すべきポイントもなかったけど、不思議と印象に残っている国だ。

首都について日本大使館に電話して、駐在のドクターに相談しようとしたら、しばらくドクター不在なんです、なんて言われたりして。
実に楽しい国だった。

笑えるレベルの苦労ってのは楽しい。
これが下痢なんかじゃなくて深刻な病気だと楽しくはないが。
まあ、下痢も深刻に困ったのだが。

マラウィのヘンテコな話といえば、これは現地で知ったことではなくニュースで読んだことだが、一部の地域で大人になる通過儀礼として12歳の少女がセックスしないといけないってのがあるそうな。
しかも、それでHIVが随分広がったりする。

まあ、ヘンテコな国なのだが、どこか愛すべき国。
もう一回行くかと聞かれると、行こうとはあまり思わないのだが。

ーーー

それにしても、そこから3年ほどで急に人生目まぐるしく進む。

急にいろんなことがきちんとして、身が重くなる。
妻と子のため生命保険にも入った。
もしもの時のために毎月1万円以上払うわけだ。
もしもの時って何なんだ、って話だが。

こんなにいっぱい税金やら社会保険やら年金やら払っているのに、もしものことがあった時のために別途で生命保険に入らないといけない国って、なんだそりゃ、って気はする。

マラウィに住もうとは思わないが、ある意味では日本も随分と変な国ではある。

ーーー

何はともあれ、僕は随分と変な国日本で妻と子どもを育てて行くことになったのだ。

日本も少しマリファナ解禁でもして、イージーに生きるっていう選択肢もアリにしても良いんじゃなかろうか。
でも、きっと日本でマリファナ解禁しても、日本人は上手く遊べないだろう。
まあ、マリファナを上手に遊べている国なんて少ないんだろうけど。
でも、別にビールやウイスキーと大して変わりないんだから、解禁してリラックスして生きていっても良いんじゃないかって気はする。

根底のところで日本は少し変な国なんじゃないかと僕は思っている。
何を基準にして、どういうところが変なのか。
そんなこと日本以外の国で生きたことがないからよく分からないけど。
何となく感覚的に日本ってヘンテコな国だなと僕は思っている。
忖度、出る杭打たれる。
正しいことが正しいってならないことが多い。

ブーブーと文句ばかり言っても仕方ないが。
貧乏な自転車屋を引退して、外の世界を見渡すことになると。
何だか、随分と変な世界に僕はいるような気がした。

ーーー
ーーー

そういえば、最近、憧れの人、人生の目標の人、尊敬している人はいますか?っていうことについて考えることがあった。

ふと考えると、最近、そういう人がいない。
もう少し若かった頃って、割とそういう人っていくらでもいた。
たとえば、村上春樹みたいになりたいとか。
でも、次第に有名人なんかに憧れなくもなったし、お金持ちにも憧れなくなった。
それは実現する可能性が低くなったからってわけでもない。
誰かに憧れるというよりは、自転車屋してて、そこそこお金も困らなくて、景色の良いところでコーヒーが飲めて、家族が健康で、僕は僕で自分の好きな自転車やランニングなんかをそれなりに楽しめれば、そういうのが良いかな、って。

まあ、向上心がなくなったのかもしれないし。
はたまた、それなりに自分が何が好きで、どんな感じで生きたいかってのが見えて来たのかもしれない。
何にせよ遠い夢を見なくなった。
どこか寂しくある。

こんな風に生きたいということで。
しいて言うなら自転車仲間のSさん夫婦の暮らしっていうのは確かに憧れではある。定年後、世界の至る所を旅するという生き方も素敵だし、家が素敵だし、生活も総じて素敵だ。奥様が芸術家だからというのもあるのか、家全体はもちろん、家具や絵、彫刻など、全てが非常に美しくまとまっている。

もちろん、Sさん夫婦にもアレコレ苦労はあろう。
別に大金持ちってわけでもないだろう。
人生で何か偉業を成し遂げで何か残したかということもないのかもしれないし、僕が知らないだけで実はすごく偉い人なのかもしれない。まあ、実のところは分からない。
でも、まあ、多分、普通の人だと思う。多分ね。もしかすると、偉い人かもしれないけど。

そう、別にこれがスゴいって説明もしにくいわけだ。

それでも、Sさん夫婦は生き方に芯みたいなものがあり、それが行動、暮らしや家、趣味、所有物などに一貫して滲み出ている。
統一感があるのだ。
下衆だったり嫌味な感じがない。
何だかんだで自転車や乗馬など、結構お金のかかる趣味も多いのだが、成金趣味的なところがなく、当然ながら貧乏くささもない。好きなのでやっているだけで、必要な分はお金をかけるが、無駄なお金はかけない。

中庸というべきものかと言えば、中庸とも違う。

じゃあ、一体僕はSさん夫婦の何に、どういうところに憧れているのか。

改めて考えると難しい。

ーーー
ーーー

随分と人生が変わる。
これから何を目指して生きて行こうか。
家族の健康はもちろん。
僕は一人の人間として何を目標に生きていこうか。

ま、そんなこんな。
posted by ちょろり at 00:38| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年09月07日

欲なんかかくから性善説も性悪説も。

人間は性善説ベースなのか性悪説ベースなのか、なんてことを最近考える。

チームって、基本的に同じ目標で動かないと強くない。
小学生の野球チームなんかにしても、みんなが勝つためにやっているチームと、親に習い事に行きなさいということで何となく野球をしているチームだと差は歴然となる。

あ、嘘だ。
中学校くらいまでの野球はピッチャーで決まる。ピッチャーが一人だけ良けりゃ大抵勝てる。特に小学生の野球となるとまずストライクを普通に投げられるピッチャーがいるかどうかだ。バッターが打てない球を投げるピッチャーじゃなくて、ストライクが入るかどうか。これがないと試合にならないんだけど、小学生くらいだとストライクに投げるって難しいのだ。
フォアボール=100パーセント出塁できる=打率10割だから、こういうことになってしまう。

小学生の野球で勝つための戦略は2ストライクまではオールバントだ。もちろん、見送りもする。とにかく走らせる。最初はほとんど見送って2ストライクからのヒッティングメインにして、バントしないと向こうが思った辺りから実際にバントも混ぜていく。
これ、ピッチャーはすごく疲れる。バントの処理ってピッチャーは物凄く疲れる。

ただ、そういうことをするとバッシングが来る。
勝ててもバッシングが来る。
そして、プレイヤーである子供たちもつまらない。

野球とはホームランを狙って盛り上がる遊びでもある。

でも、基本的には勝った方がスポーツは面白い。
だから、露骨になりすぎない範囲で、なおかつ子供たちが楽しめる範囲でセーフティバントとバスターの技術、ピッチャーを疲れさせる技術っていうのは教えておいた方が良い。

何よりも大事なのは、勝つためにやろう、っていう目的を統一することだ。

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勝つために試合はする。
当たり前のようだけど、意外とチーム全員で勝つためにやろう、って意識を統一するのは難しいのだ。
もちろん、みんな勝ちたいのは勝ちたいのだが、勝てるなら勝ちたいっていう程度の話なのだ。

少年野球の場合、土日に朝起きて一生懸命やって、親に誉められれば、それでとりあえずはOKだし、そこで友達が出来て、放課後にポケモンが出来ればサイコー。
つまり、勝ちたいのは勝ちたいけど、勝てなくても、まあ、どっちでも良いのだ。

高校野球くらいになると、割と監督も厳しかったり、先輩との上下関係も厳しかったりして、勝つために頑張ろうって話にはなるのだが。
可愛いマネージャーと良い関係になれるのと、試合で勝てるのと。
そりゃ、可愛いマネージャーとウキウキする方が優先だし。
怖い先輩に怒られない、監督に罰のランニングをさせられない。
そういう方が試合の勝ち負けより大事っていう高校球児の方がよほど多いのだ。
もちろん、タテマエとしては勝つためにやっているにせよ。

ーーー

じゃあ、どうやって高校球児、あるいは野球少年たちを勝つために統一していけるか。
勝ちの味を覚えさせるというのに尽きる。
勝てばモテる。勝てば親に誉められる。
世の中、勝てば官軍ってのは当たり前のことではあるのだが、実際には勝ち続けられる人間は少ないので、負けても他のことを頑張れば良いなんてことを人間覚えるようになる。

まあ、実際、野球が全てっていう人間は少なくて、野球で勝つよりも勉強を頑張りたかったり、まあ、アレコレあるのだ。
それでも、勝てば嬉しいっていう、勝ちの味を覚えさせれば、また勝ちたくなる。
これが出来ればチームは強くなる。

だから、強豪校はずっと強いのだ。
勝って当たり前、勝てばチヤホヤされることを知っている。
だから、勝ちに向かって統一されている。
だから、強い。

ーーー

これ、仕事でも同じで、売上を伸ばそうって統一するのは難しい。

儲けるために働く。

これ、非常に当たり前なのだが、全員が儲けるために働くって統一するのは非常に難しいのだ。

例えば、僕もそうだが、たくさん売っても給料が変わらない。休みも増えない。
こうなってしまうと、頑張れにくくなる。
頑張っても意味がないっていうのはツラい。
特に頑張っている人間ほどツラい。

でも、当然だが頑張らないと会社は傾くし、そうこうしていれば、自分の給料も怪しくなってくる。

だが、これまた不思議なことに頑張らなくても、大抵の企業はそう簡単には潰れないし、給料も明確な理由なく大幅に減ることもない。

そういう構造の儲かっていない中小企業の場合、
「儲けるために働く」
っていう考えで統一していくのは難しい。

ーーー

じゃあ、給料を上げればせっせと儲けるために働くかというと、これまたそうでもない。
給料が上がれば、そのことに対してありがとうございますと感謝こそすれど、その分、余計に一生懸命働くのは数ヶ月のことで、しばらくすればその給料が普通になってしまって、以前の通りと変わらない程度にしか働かなくなる。

ーーー

保険屋のおばさんから聞いたが、お金は遺産として残すのは良いが、死ぬ前に配ってはいけないという鉄則があるそうな。

死ぬ前に贈与してしまうと、もらう前ともらってしばらくは感謝して、せっせと恩も返すが、三年も経てば過ぎ去った過去である。
贈与してから三年以内に死ぬなら良いが、現実問題、そうもいかない。

これに対して、
「世話してくれてありがとう、遺産はお前に多く残してやるからな」
と約束すると、死ぬまではせっせと世話してくれる。

もちろん、みんながみんなそうではないにせよ、生前に贈与するよりは遺産として贈与した方が間違いないっていうのは鉄則らしい。

ーーー

こうして話が進んできて、やっと最初の話題、人間は性善説なんだから性悪説なんだかって話に辿り着く。

自分で言うのもなんだが、自分は割と真面目な人間なので、少年野球をするにしたって勝つために頑張ったし、ホームランで盛り上がるためにも頑張った。
仕事にしても、やるからには会社が儲かるように、なおかつお客さんが喜ぶ仕事を目指すのが当たり前と思って努力してきた。
遺産についてはまだ親が元気なので分からないが、故郷から遠く離れているので、この点は不義理をするかもしれない。

自分で言うのもなんだが、真面目だと思う。
何事もやるからには結果を目指して頑張る。みんなが幸福になるように自分が出来る最大限の努力をする。
それが当たり前だと思って生きてきた。

もちろん、サボることもあった。高校のバレーボール部は部室に昼寝とタバコを吸いに行ってただけだ。
勝つなど一ミリも考えなかった。
そのくせキャプテンなんかしてた。

ーーー

31歳にして分かったのだが。
会社が儲かるために努力しない人っていうのは存在するのだ。
働くからには儲かるように努力するのは決して当たり前のことではない。
それこそ、バレーボール部の部室にタバコを吸いに行っていた馬鹿がいるように。タバコじゃないにせよ、会社の利益を増やすため以外の目的で仕事に行く人っていうのは決して少なくない。

本当に何も考えず、朝になったら起きて、仕事に行って、職場で何かして、叱られないように過ごして、時間が来たら帰る。

なぜ儲けようというやる気が起きないのか。
単純に実家暮らしで、近所の人なんかの目を気にして正社員という世間体のためだけに仕事に行く人もいる。
実家暮らしなので食うに困らないというわけだ。
実家暮らしじゃなくても、近くに親がいて、何かあれば助けてくれるので、そんなにお金にシビアでもないという場合もある。
はたまた、公務員や大企業の場合、個人の頑張りは仕事全体にあまり反映されないので、頑張ってもサボっても組織はそれなりに儲かっているということもある。
はたまた、頑張っても評価されないどころか、厄介な仕事や責任ばかり増えてしまう仕事というのもある。

ーーー

これ、単純にやる気の問題なのだ。
性善説、性悪説、要は生まれつきの問題なのだ。

宅建の試験勉強なんかしていても思うが、やる気次第なのだ。
もちろん、やる気があっても落ちることもあるにせよ。やる気がある人の方が受かる可能性は間違いなく高い。

ーーー

問題は善か悪かって、どっちがどっちなんだという話だ。

会社で仕事をしていて、特に仕事に関しての話の場合、儲けるために頑張るやつが善である。
会社の目的は儲けることだ。
利益を出さない団体、非営利組織でさえ運営上必要な最低限の利益は必ず作らないといけない。
もちろん、利益を上げる営みを通して、それが社会貢献になるというのも大事ではあるが。
とにもかくにも利益が出ないことには会社ってのは進まない。
少なくとも人を毎日八時間拘束して仕事をさせるためには、その人の食い扶持を確保しないといけない。

ただ、少年野球のバントの話がまた出てくるのだが。
勝つために何でもしていいってわけでもない。

やはりホームランを狙うブンブン丸が必要なのだ。

それでも、やっぱり会社は利益を出さないといけないわけで、働く人間として同僚にも儲けるための努力、お客さんに喜んでもらう努力はして欲しい。
勝つためにチームとして頑張って欲しいと思うわけだ。
いかに給料が悪かろうと、休みがなかろうと、実家暮らしだろうと。
それが、真面目というものであり。
性善説でものを考えていたいのだ。

そんなわけで、転職を前にした僕は性善説、性悪説なんてことを考えた。

ーーー

目から鱗だったのは、次の転職先の社長の書いた本にあったことだ。

次の転職先も10人程度の小さなところだ。
ただ、社長は10個くらい会社を持っていて、ビジネス書なんかも何冊か出している。
内容としてはピンキリというのが正直なところだ。そりゃ、文章家ではない実業家だからね。本として面白く仕上がるかは出版社の企画、編集の腕が問われるところだ。

その本の中に中小企業の経営者向けのものがあるのだが。
その中で如何に従業員を育てるかというのが書かれている。

中小企業では特に人が少なく余剰の人材を雇う余裕がない。
だから、個々が頭を使って会社が儲かる方法を考え行動できるようにしないといけない。
いかにしてそういう人材を育てるか。

ただ、中にはそういう風に育たない人もいる。
そういう人をどう捉えるか。
そういう人も必要だと書いているのだ。

言い方は悪いが、向上心のないサラリーマン気質の人はそれはそれで会社にとって必要なのだ。
ただ、大事なのはそれを明確に本人に認識させることなのだ。

理想は会社が儲かるように考えて行動できる社員が育つということだ。
でも、出来ない人にそれを求めるのは酷だ。
それに、逆にそういう人は与えられた作業をあまり考えずに黙々とこなしてくれる。

だから、ある程度まで教育したところで、本人に選択させるのだそうだ。
儲かるように考えて動く社員になるか。向上心も必要だし、大変だし、成長すれば責任もついてくる。それでも、儲かった分はちゃんと払う。
それか、黙々とこなす社員になるか。そういう人材も会社にとって必要なのだ。ただ、儲かる方法を考えて動く社員より収入は落ちることになるが、向上心などは求めない。

どちらが良い悪いではなく、それは価値観次第なので本人の自由な意思で選ばせてやるべきだ。選んだからには責任を持って、その方向で頑張ってくれ、と。

もちろん、やる気が全くない人を雇うわけにはいかないので、最初の教育の段階で会社に合わない人には辞めてもらうのもアリだとしている。
厳しくすると社員が辞めてしまうかもしれないと臆してしまう会社も少なくないが、厳しくしたら辞めてしまう社員をなあなあで雇い続けると会社にとっても当人にとっても良いことにならない。特に40歳くらいまでなあなあで雇い続けて、若い有能な人もある程度育ったところで不必要になって解雇などは当人にとって地獄である。
どうしても合う合わないというのはあるので、合わない人には早い段階で辞めてもらって別の会社で活躍するチャンスにしてもらう方が良いだろう、と。

こういう風に徹底するのは本当に難しい。
人をクビにすることは難しいことだし、また雇用するのも大変なことだ。

可能な限りは仕事ができない奴も雇ってやりたいっていうのは経営者の心理だろう。ある日突然、仕事ができる人間に変わってくれないかと淡い期待を抱きつつ。
そして、いくらか無理をすれば何人かくらいならそういう人間を雇うくらいは出来てしまう。
でも、それがなあなあになってしまうと、気付くと出来ない人間の方が多くなって、真面目な人間が負担を背負いこんで無理をして馬鹿を見ることになる。

そういうことは誰でも分かることなのだが、人間、自分が当事者になるとじわじわと悪くなっていく物事っていうのには対処出来ないものなのだろう。

そこをズバズバっと徹底してやっていくっていうのは本当にすごい。

ーーー

まあ、自分の会社に都合の良い理屈とも取れるが、実際、中小企業で人材を育てていくってそういうことである。

僕が自転車屋さんをしていて、会社に対してよく思ったのは、正社員の数は減らしてバイトを雇って欲しいということだった。
正社員は少数精鋭で店長として動けるレベルの人だけ、あるいはそこまで成長する見込みのある人だけにして、あとはアルバイトにして欲しい。
そうしないと、モチベーションの低いスタッフの食い扶持を稼ぐために、自分の給料が伸びなくなってしまうのだ。
正社員が少ないと売上が伸びていくと人手不足になる可能性もあるが、やる気のない正社員はどちらにせよ一人にカウントできるほどの仕事が出来ない。

そりゃ、自転車っていうのが利益率の高い商品なら良い。
あるいはママチャリのように日用品として全国民に需要のある商品でも何とかなるだろう。
でも、ロードバイクとは利益率は低いし、その上、数がたくさん売れるものでもない。
自転車操業とはよく言ったものだ。

ロードバイクを売るというのは、いかに常連を育てるかだ。
ロードバイク愛好家である限り、馴染みのショップが一件は必要だ。
だから、きちんと常連として付いてくれると長く安定して購入し続けてくれる。
さらにその人の知り合いがロードバイクを始めるときに紹介してくれる。
ロードバイクを始めようと思った時に知り合いでロードバイクが詳しい人がいたら相談するだろう。その時に店を紹介してくれるかどうかっていうのはとても大事なのだ。

常連さんが常連さんでい続けてくれるっていうのはとても難しい。
ただ、安いだけだと別の店でもっと安いところが見付かったら、そこに移ってしまう。
常連だからと値引きばかりしていると意味がない。
ただ、たくさん知り合いを紹介してくれる人にはそれ相応のサービスもすべきだ。
用事がなくてもふらりと店に立ち寄りたい、あそこの店の人と用はなくとも世間話をしたい。
そういう関係性が出来れば良い。
世間話だけでは利益にならないので、これを嫌う店も少なくないが、趣味の仕事は紹介ありきだ。ぶらりと立ち寄ってくれるほどの信頼関係が出来ていて、なおかつきちんとお店とお客さんというマナーがお互いに出来ていれば、頻繁に店に顔を出してくれるお客さんはいずれ必ず良い常連さんになってくれる。
ただ喋るだけで何も買わないっていう変わった人もいるけれど、そういう人は少数だし、そういう人はお店とお客さんっていう最低限のマナーを作れていない。

要は一人の人間の人生を通しての趣味のパートナーになれるかどうか。
これがロードバイクを売るという商売の核心だ。

もちろん、そういう常連さんじゃなくて、ぶらっときて買って行って、それきりというお客さんも売上にはなる。
ただ、そういうお客さんを狙って増やしたり、安定して減らさないようにするのも難しい。
ぶらり客は運の要素が大きい。

もちろん、ぶらり客を逃さず売上を作れるかっていうのも大事ではある。
ぶらり客だって接客が悪いと、そのままぶらりと別の店に行ってそこで買ってしまう。
売り逃がしになる。

常連さんにせよぶらり客を逃さないようにするにせよ。
どちらもきちんとした接客や会話力が必要になる。

そういうビジネスなのに社員の数ばかり多くて、モチベーションの高い社員は少ない。

ーーー

今の仕事の愚痴にもなったが。
でも、僕は心底、自転車屋さんで平和き生きていたかったのだ。
別にそんなに高い収入もいらないし、休みも多くなくて良い。
ただ、家族が困らない程度のことは欲しかった。
だから、仕事も頑張ってきたし、数字も出してきた。

だから、同僚には求めるのだ。

ーーー

でも、それは僕の間違いだったのだ。

現実世界ではいろんな人がいる。
勝てれば嬉しいけれど、勝つために一丸になってやるチームっていうのは多くはない。
みんなそれぞれに価値観がある。

ーーー

次の職場は徹底して勝ちに行く職場だ。
まだ入ってもいないが、入社前に社内チャットなどに入れてもらって会話を読んでいるがすさまじい。

全員が一丸になって勝つためには宗教が必要だ。

強豪校の野球部だって、アレは半分は宗教だ。
まず選ばれた選手ということ。
そして、勝って当たり前ということ。
野球こそ人生ということ。
そういう思想のベースがあるから、凄まじい量の練習が出来る。
その中の競争に勝った精鋭がレギュラーとして試合に出る。
野球が上手いということこそ、試合に勝つために必要な選手であるということ、それこそが至上の目的であり、それに向かって一丸となる。
これ、宗教である。

はっきり言って高校野球ですごい選手だからって人生どうこうなるわけでもない。
結果論としては、そういう体育会系でもまれて、忍耐力のある人間はたしかにその後の人生も上手くいきやすいってのはあるにせよ。
甲子園に出たからって、プロ野球選手になれるわけでもないし、野球関連の仕事で食っていけるわけでもない。野球こそが人生っていう日々は遅かれ早かれやってくる。
でも、チームにいるあいだは野球こそ全て。
疑う余地がない。
信じる信じないではない。
言うなればその思想は神であり、信じないなどという選択肢があるわけもなく、意識して信じるようなことでもない。

基本的に勝つためのチームとは何かしらそういう宗教めいたものがある。

ーーー

正直なところ、一人でのんびりと自転車屋をしつつ。コーヒーでも出していたいのだが。近所の学生のママチャリのパンク修理なんかしたりね。馴染みの常連さんと走りに行ったりね。
細々と食うに困らない程度の収入で。
でも、平和で。
空を眺めて。
文でも書いて。

何とも無気力な本音だとは我ながら思うが。

ーーー

昔よく行ってたバーも随分変わってしまったらしい。
昔は大した金にもならない呑んだくれが集まってのんびりと音楽を聴いて下らない話をしていたのが、領収書を切って経費で飲んでくれる飲み会の客をターゲットにした居酒屋みたいになってるとか聞く。

僕はいっぱいお金を手に入れて、仕事の出来る男になって。
家でも立てて、良い車でも買うんだろうか。

静かに文章を書いて、旅をして。
そんな暮らしはやってこないんだろうか。

まあ、とりあえずは子どもが元気に育ってくれれば良い。
それでも、子どもが大人になったとき、そんな父親どう思うんだろう。

静かに生きていたいなら、静かに生きていりゃ良いのに。
アレコレと欲ばっかり出すからいけないのだ。

そう、勝つために一丸になれる会社は少ないし。
自分の求めることのために全力を尽くして生きれる人は少ないってことなのだろう。
アレコレといらない欲だったり、仕方ないといって言い訳を作ってみたり。

アレコレ言っても仕方ないので、まずは次の仕事を全力で頑張って、お金をたんまり稼いでみようじゃないか。
アレコレ言っても仕方がないのだ。
仕方ないって言い訳作って生きていくんだ。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 23:20| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年09月02日

安い給料で働き続けてはいけないという話。

安い給料で働き続けてはいけないという話をしようと思う。
同時に給料が安くてもやりたい仕事は一度はしてみるべきだという話も。

ーーー

転職して年収が上がった。
そんなCMが世の中にはたくさんある。
ーーそんなに都合良く行くわけないだろ。
と前までの僕は思っていたのだが。
現実には転職をして年収が上がるということはさほど珍しいことではないらしい。
ちなみに今回の僕は年収は変わらず。
とは言っても店長=社長の次に偉いポストから、未経験の新人になるのに年収は同じで休日は30日近く増える。

ーーー

安い給料の会社で働き続けてはいけない。

これにはいくつか理由がある。

まず周囲の人だ。

安い給料の会社は、同僚も給料が安い。
給料が安いと向上心とかって低くなりやすい。

今の会社は正に典型的だ。
仕事ができる人、向上心のある人たちはみんな辞めていってしまって、残ったのは給料は安くても問題ない、今のままでも別に良い、そういう人たちばかりが残ってしまった。
なので、仕事について積極的に何か自分からしようという人はいない。仕事の指示をしても、「それは私の仕事じゃありません」「私はこれをしたので、それはしません」ということを平気で言ってしまう。
会社が潰れず、叱られるような責任を出来るだけ背負わず、とりあえず出勤して何か仕事しているような雰囲気で1日を過ごして日々を生きる。売り上げを伸ばして、仕事を評価してもらって、給料を上げてもらいたいとかっていうのはない。
とにかく無難に叱られないように生きる。

ーーー

ここで重要なのは、その人たち、仕事に向上心のない人たちに罪はないということだ。
夏目漱石の「こころ」ではKは向上心のないものは馬鹿だ、と言っているが、向上心を持たずに生きるのも、人生の選択の一つだ。

人間、失敗はしたくない。
ヒルクライムレースに出るにしても、レースの前から予防線を張る。練習が出来ていないから今回はダメだ、体調が悪い、様々な理由で失敗しても仕方ないと予防線を張る。
予防線を張っておけば失敗してもダメージは少ない。場合によっては失敗にすらならない。
別にタイムはどっちでも良いんです。
そう言っておけば、遅くても失敗にはならないし、完走しなくても別に失敗にはならない。

逆に何分を目指す、今年は練習を頑張っているなどと言うと、タイムが届かないと失敗になってしまう。

人間はなぜ失敗したときの心配をしてしまうか。
答えは成功することだけを考えていると失敗した時のダメージが大きいからだ。

向上心を持つとは、チャレンジすることであり、失敗がつきまとうことだ。

トップアスリートはとにかくメンタルが強い。成功イメージを絶えず持って練習する。勝つために練習する。
失敗に負けないハートがあり、向上心を途切れさせず挑戦し続ける。
だから、僕ら凡人はどんな競技であれトップアスリートを尊敬するのだ。

ーーー

人間、みんなトップアスリートであれ、っていうのは無理があるし、酷だ。

向上心を持たず、責任のある仕事を避けて、向上心なく無難に、ただ出社して就業時間を何か仕事らしいことをして時間を潰して毎日を過ごして月給を手に入れる。
食うために生きる。

これはある種の防衛本能だし、ある意味で無欲であり、実際問題として、こういう人たちが存在しないと世の中はケンカや戦争だらけになってしまう。

今回のテーマとは矛盾するが、安い給料で働き続ける人もいるから世界は成り立っているのも事実である。

ーーー

向上心のない人たちに囲まれて生きる。
向上心なく生きることが特に問題ないという人は安い給料で働き続けるのも良い。
ただ、そういうのが耐えられないという人は、給料はそれなりに良い会社に入るべきだ。

給料の安い会社は人材に対して安く使える人間を求める。高い賃金を払わないといけない優秀な人間は求めない。そこそこの安い賃金でそこそこの仕事をしてくれる人間。
そういう会社にいる限り、会社はあなたに期待はしていない。
優秀すぎる人間になって欲しくないとさえ思っている。

安い給料でも文句なく働く、あまり能力のない、他に応用の効かない人間であって欲しいと考えている。

そういう会社には長くいるべきではないと僕は思っている。

ーーー

従業員の方に向上心のある人間とない人間がいるように、会社も向上心のない会社がある。

個人と違って会社については基本的には売り上げ、利益を大きくしたいとはどこの会社も考えている。
ただ、違うのは何かを良くしていくこと、工夫することで成長したいと思っているかどうかだろう。

向上心のある会社は、社員の平均年収を上げて、優良企業になりたいと思っている。

平均年収が250万円のスタッフの店と400万円のスタッフの店なら、当たり前だが平均年収400万円のお店の方がきちんとした接客を期待出来るだろう。給料の安いアルバイトスタッフにきちんとした接客を期待しても無理がある。
しっかりした良い店を持つか、アルバイトばかりの店を持つか。
付く客層も変わる。

年収の低いスタッフは良い店で買い物が出来ないので、良い接客というのを知らない。
年収が低いと心もすさむ。
貧乏=必ずすさむわけではないが。
やはり、生活カツカツの余裕が全くない暮らしっていうのは、仕事の勉強のための本を買おうとかっていうことにはならない。

向上心ある会社は良い店を持ちたいと考える。
もちろん、安いお店も需要はあるので持ちたいが、高級店も構えておきたい。可能な限り自分たちのサービスの引き出しを多く持っておきたい。引き出しがある状態で意図的に事業として成績の伸びない方を縮小することはあれど、可能な限り質の高いサービスを提供して、業界内でのアドバンテージを作りたいと考える。
質の高いサービスをして良いビジネスを広げていきたいと考える。

向上心のない会社は逆で、失敗したときに痛みが少ないようにとにかく経費削減する。
特に人件費を削る。
あるいはサービスを削ろうとする。
そのくせ原価などを抑える努力や、本当に削るべき無駄な経費の削減っていうのは少なかったりする。

原価を抑える努力というと、販売戦略と予想を立てられる知識と経験などが必要になる。

極端な話だが、小売っていうのはその年の販売量が完全に予測出来れば必ず儲かる。
売り上げが少なくても、完璧に予測出来れば、ギリギリに必要な量だけ仕入れれば良い。
仕入れが少なければ掛け率が悪くなるし、掛け率を良くするためにまとめて多く仕入れすぎると在庫処分をしないといけなくなる。
必要な人件費も分かる。
予測の売り上げに必要なだけの人材を雇えば良い。

売り上げが少なくても、売り上げが完璧に予測出来れば、売れた分の粗利の利益は確実に儲かる。
大量仕入れをして原価を下げても不良在庫を抱えてしまっては意味がない。不良在庫=現金化出来ないもの=粗大ゴミだ。実際はゴミじゃなくてセール商材として使えないこともないのだが。

ーーー

一口に言えば向上心のある会社とない会社の違いは、投資するものが違う。
人材育成っていうのは時間もかかるし、失敗するリスクもある。
人間、合う合わないがある。
仕事に合う合わない。環境に合う合わない。
入社面接時は全員、頑張りますと言って入るけれど、いざ入ると頑張りたくなくなってしまう人っている。

大企業なんかは典型的だが、人材を採用しても全員が成長するとは期待していない。たくさん採った内の何人かが優秀な人材に育ってくれることを期待して採用するし教育していく。

中小企業はそれが難しい。
無駄な人材は採れない。
そこで向上心が分かれてしまう。
少々ダメな人間で良いので、安く使える人材を求めるようになってしまう会社が出てきてしまう。
これが当たり前になると負のループに入る。

ーーー

ただ、一個人と同じで会社にしても向上心のない会社が悪いわけではない。
向上心ある会社、向上心を求められる会社はしんどいという人も多い。
売り上げはそこそこで良いから、何とか細々食いつないでいきたいという会社もあるから世の中は上手くまわっていく。

ーーー

安い給料で働いてはいけない理由の一つに休日がある。

安い給料の会社っていうのは、社員に出すものを出さない。
「給料は安いけど、福利厚生が良くて休日は多い」
っていう会社も存在はする。
でも、給料をたたく会社って基本的に社員を大事にしないので、やっぱり休日も少なくて、福利厚生も良くないっていう場合の方が多い。

給料の多い少ないは金銭的な価値観もあるけれど、休日の多い少ないについては多い方が良い。
人間、体力、気力には限界がある。長時間働き続けても、仕事の質が落ちる。
休日が充実していないと何のために頑張って働いてるんだか分からなくなる。
仮に休日返上で仕事がしたければ、休日に仕事の勉強をしたって良いわけだ。

仕事の質と、仕事を頑張りたいと思えるモチベーションのために休日は多い会社の方が良い。

家庭を犠牲にして仕事をしたって、結果として後悔が残る。

ーーー

もちろん、給料と休日の良い仕事は求められるものは高い。
それが嫌っていう人はいる。

テーマとは矛盾するけれど、安い給料の会社で働くっていう選択肢も決してナシではない。

ーーー

少し脱線はするけれど、ホームレスってのも生き方としてはアリなのだ。
春先や秋の季節の良い時期に大阪の西成区のホームレスタウンに行ってみてワンカップを飲むと分かる。
西成には一泊千円のドヤという簡易宿があるのだが、そこで一泊して、昼からワンカップを道端に座り込んで飲んで、空を見上げてみると、これが実に気持ち良いのだ。

時間とお金が許すなら、自転車持ってアフリカのタンザニアなんかに行って、自転車で走った後、小さな村の売店で冷えてないビールを買って飲んでみても良い。
タバコを吸おうとすると人が寄ってきて、自分が吸うよりもたくさん吸われてしまう。
彼らには仕事がない。
ビールは何だかんだでアフリカでも百円くらいはする。
彼らの日当は三百円とか、あるいはゼロ円だったりもするのだが、ぼんやりと木陰で黄昏ているわけだが。
彼らと通じない言語でやりとりしてぼんやりとビールを飲むと、これは実に美味い。
可能ならビールではなく、ビニール袋に入った五十円しないくらいのジンを飲む方が良い。あまり美味くはないが、すぐ酔える。コーラを一緒に買って混ぜて飲んでも良い。僕はお酒は強いのをストレートやロックで飲むのが好きなので、袋のまま喉に流し込んでいたが、このスタイルは現地の酒飲みと同じなので親近感を持ってもらえる。
彼らはこれをよく飲む。安く酔えるのだ。ちなみにアル中が増えるので社会問題にもなっているらしい。

仕事をせずに昼から飲む酒は美味い。
仕事後のよく冷えたビールが美味いなんて言う人がいるが。
酒は仕事などせずに、昼間から路上に座り込んで飲むのが一番美味い。

ーーー

働きたくない、怠惰でいたいというのも人間の正直な欲求の一つなのだ。

なので、給料も休日などの待遇もいらないから、出来るだけ楽な仕事をしたい、食べる分だけもらえればそれで良い。
これもまた正しいと僕は思っている。

昨今の自己啓発本はそういうのを断固として否定するが、ホームレスの暮らしにもメリットはある。
止むを得ずホームレスをせざるを得ない人も中にはいるが、日本の場合、選ばなければ仕事はあるし、国としてはホームレスは減らしたいので安く住める公営住宅などもある。
それでも、ホームレスをする人がいるのは、ホームレスは気楽なのだ。

持たない暮らしとは気楽で気持ち良いのだ。

いつでも、全てを手放して、自分の行きたい場所に行ける暮らし。
何かを維持するために毎月多くのお金を払い続けなくても良い暮らし。
今生きていることだけを考えれば済む暮らし。

ーーー

持たない暮らし、持つ暮らしでいうと、僕は本当は持たない暮らしの方が好きだ。

でも、転職すると年収も上がるし、転職後は取らないといけない資格も増える。覚えないといけない仕事もてんこ盛りだろう。
まず車を買わないといけない。仕事で車を使わないといけない。

一人で生きるなら買うとしても軽トラかバンだったろう。
でも、今度は子どもも生まれる。
子どもを連れて家族で西日本まで帰省しないといけなくもなるので、クルーズコントロールの付いた普通車を買おうと思っている。

家を建てる会社なので、タイミングが合えば家も建ててしまおうかと考えている。
家族のためにも良いし、自分が実際に商品を購入するっていうのは一番の勉強にもなる。

そうやって、持たない暮らしから離れていく。

持たない暮らしが好きな僕には分かるけど、持たない暮らしっていうのも逆にくたびれてしまうところもある。

まあ、何よりも子どもが多数決の世の中で少数派で生きていかないといけないっていうのはかわいそうだと思うわけだ。
かと言って金持ちの家庭に育ててやりたいわけでもないが。
子どものためにも家族でいろんなところに行っていろんな遊びをしたいし、妻のためでもあるし、僕自身のためにも。
家族みんなでいろいろ遊んでみたい。

そう考えると、持たない暮らしから離れるのは寂しい気もするけど、お酒に溺れる夜には別れを告げて、収入の良い、休日の多い仕事に転職して、仕事をバリバリやって。
それが僕の次の生き方なんだろう。

ーーー

安い給料で働き続けてはいけない。
そんなタイトル、テーマにしてはみたものの、実のところ、安い給料の仕事をしてみるのだって良い。その気になれば、転機さえ来れば、そういう仕事から離れるタイミングも来る。年齢的に難しくなることもありえるけど。まあ、その辺りは運だろう。

若い頃の自分に言いたいことは、自分には決してマトモな仕事は無いなんて思い込んではいけないということだ。
安い給料の仕事でも、好きなこと、誇りを持てる仕事っていうのはとても素晴らしいことだ。
ある意味ではそういう仕事に就職するのって難しい。
多分、安い仕事から高い仕事に転職するより、逆の方が難しい。
特に家族を持ったりすればなおさらだ。

自転車屋での仕事って、して良かったと本当に思う。
これから先、ふと何かのきっかけですこぶるお金持ちになる日が来たとしても、若い時代を自転車の旅と自転車屋、山小屋で過ごせたことについてはずっと感謝し続けるだろうと思う。

でも、安い給料で働き続けてはいけない。

正確に言えば、安い給料で働きたくないと感じる日が人生突然やって来たりする。
その時にはスパッと動けないといけない。

でも、別にそういう日が来なければのんびりと生き続けるのも、それはそれで良いのだけど。

でも、のんびり生きるなら自分で会社を作るべきだろう。
誰かの会社で安い給料で働き続けていていると、段々と周囲の人間が仕事の出来ない人、仕事にやる気のない人ばかりになってしまう可能性がある。

そうは言っても自営業すると、なかなかのんびりとやってはいけないのだろうが。

まあ、人生、一度は良い給料の会社に入ってみといた方が良いんだろう。
その上でホームレスライフを選ぶのもそれは自由だけど。

ま、そんなこんな。
posted by ちょろり at 23:29| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月17日

宅建の模試を受けてみる。

宅建士の勉強を進める。
次の仕事で実際に使うか微妙なのだが、勉強し始めたからには取る。

七月に勉強を始めて、スマホでぽちぽちと練習問題を解いたり、帰宅したら参考書を眺めたりと勉強を進めて来て、やっと一通り読むのが終わった。まだ読めてないところもいくらかあるが。

この段階でとりあえず模試を買って解いてみることに。

50問中29点であっさり不合格。合格ラインは35点前後だそうな。
まあ、現段階としては悪くない。

試験勉強はとにかく答え合わせが大事だ。
まずは一通り網羅して、あとは試験を解いて出来ていないところを把握して、一度間違えた問題に類似する問題については二度と間違えないようにする。

特に模試はプロが作っている。
ヤマが当たらないところもいくらかはあるが、模試を作るプロはヤマ張りのプロだ。その中から実際に出題される問題はある程度ある。
つまり、模試で満点が取れるように理解出来れば、本番の試験もそれなりに取れるのだ。
とにかく模試の問題をきちんと理解する。

そんなの最低限のことじゃないかと言えばその通りだが、四択問題の試験について言えば、最低限の知識があればある程度は解けるというのも事実だ。

予定通り勉強が進んでいる。
本音を言えば予定よりもう少し進んでくれてれば良かったのにな、と思いつつ。
まあ、そう甘くはないのだ。

国家資格とはフェアだ。
勉強さえすれば、きちんと社会で生きていける力になる。
もちろん、使い方次第ではあるものの。

ま、そんなこんな。
posted by ちょろり at 23:49| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月16日

改めて転職を振り返るのと、これまでの仕事の反省なんかをしてみようと思う。

転職が決まって、ここで改めて転職を振り返るのと、これまでの仕事の反省をしてみようと思う。

ーーー

基本的に転職活動中は自分で自分をいかに持ち上げるかの戦いだった。
転職活動って結構心折れる。
特に僕なんかは大学中退で職歴も自転車屋と山小屋、さらに途中で自転車放浪の旅なんて具合だったから、面接=懺悔状態だった。
職を探しても、家族を養える給料の職で未経験OKっていうのは基本は家か保険の営業。残業地獄、ストレス地獄っていう仕事ばかりだった。

それでも、子どもは生まれるし、現実問題として子どもを育てていくには仕事を変えないといろいろ厳しい。会社の問題もあるが、自分にも問題はあるのだが、とにかく厳しかった。

転職活動はとにかく自分を肯定しないとやってられない。
転職すること自体に疑問を持つこともあったし、とにかく不安はあった。
今の会社を去らずに頑張る方法は無いのだろうか。
何だかんだで会社にも社長にも恩があるし、引越しの費用や給料のない期間についても貯蓄を崩さないといけない。
店長まで頑張ったのもある。
慕ってくれるお客さんもいる。
可能なら今の会社に残りたいというのはある。

でも、現実問題として前に進むしかないのだ。

おそらく転職って、子どもができるとか、結婚するとかの理由がないとなかなか難しいと思う。
何せその日までその会社で何とか飯が食えてるわけだ。贅沢を言わなければその会社でも飯を食っていける。
でも、環境の変化があるとそれまでの食い扶持じゃ家族を養えなくなる。

全力で自己肯定、転職は必要だし正しいこと。
自分はできる。
大丈夫だ。
これまでの人生で悪いことはしてきていない。
自分なりに一生懸命頑張ってきた。
世間の人に出来る仕事なら自分も努力すれば出来るはずだ。

とにかくアゲアゲで行く。
アゲアゲにしても、絶望に絶望が重なるので、とにかくアゲる。
アゲていけるかどうかが転職の鍵だ。

転職すると決めたらアゲアゲで進む。

ーーー

転職の第一歩は転職エージェントだ。
ハローワークでも良いが、ハローワークは遠いし、仕事をしていると通いにくい。
転職エージェントは無料で自分専任の担当が付く。電話などで面談もしてくれるし、メールでも対応も迅速だ。希望を聞いてくれてそれに合う求人の紹介はもちろん、履歴書の書き方や面接の対策までしてくれる。

とにかく登録する。
僕はリクルートと地方のその地域に強いという小さいエージェントを使った。
最終的には小さいエージェントの方で決まった。

リクルートのような大手はとにかくたくさん求人があるけど、正直、あまり親身じゃない。
システムでとにかくたくさん応募させて決める。
数打ちゃ当たるだ。
応募は10以上したが、面接に行けたのは1社で、そこは落ちた。

小さい方のエージェントはとても親身だった。
求人は少ないのだが、その分、そこに何とかして入れてくれようとする。なので当人がヤル気が出る求人、なおかつ合格しそうな求人を紹介してくれる。
本当に親身に丁寧にしてくれたので、そこは三社応募して一社だけ面接に行けて、そこがそのまま受かった。
球数が少ないので、打率を上げるという方法だ。

学歴や経歴が良くて転職に自信がある人は大手からいろんな企業を見て決めるのが良いだろう。
僕のような転職市場のダメ人間は小さいエージェントを頼る方が上手く行くかもしれない。
まあ、最後は運やタイミング次第なので必ずしもそうではないだろう。

どちらもメリットはあるので、何社か組み合わせて使うのが良いんだろう。

ーーー

次に僕は資格の勉強を始めた。
勉強は何よりも自信になる。
どんな仕事なのかという勉強にもなる。
もちろん、取得できれば転職に有利にもなる。

仕事を探し始めて分かったのは保険か家の営業くらいしか残された手はないということだった。
(後半で分かったが、工場勤務という手もあった。なぜか工場勤務は序盤、なかなか求人が見つからなかったのだ)

保険の営業も考えたが、保険が役に立つのは人の不幸な時で、不安を煽って契約するという側面が好きになれなかった。
その点、家は金額が高くてつらそうだが、夢のマイホーム、正に夢のある仕事だと思った。

それで家の営業をしようと、とりあえず本屋に行って役に立ちそうな資格を取ろうと思った。
何せ大学中退だし職歴もボロボロだ。
長期にわたって仕事が見つからないかもしれないので、とにかく資格を取ろうと。資格を取れば何か良い仕事があるかもしれない、と。

そんなわけで宅建士を取ることに。

最初はそういう消去法から選んだのだが、勉強していると心が安らいだ。

転職活動ってとにかく不安と絶望がたえずつきまとうし、出来る事って意外と少ない。求人を探して応募するくらいしかない。履歴書や職務経歴書を頑張って書くとかはあるにせよ、結局まな板の上のコイ、面接に呼ばれれば品定めされて、受け身に結果を待つしか出来ない。

その点、勉強は能動的だ。
少なくとも目的に向かって自分は何か努力しているという心の安らぎがある。
勉強している時間、し終わった後。
絶望と不安からほんの少しだが逃げられる。

実際に転職後に役立つかどうかは分からないにせよ。
やれることをやるっていうのは、僕の場合、救いになった。

ーーー

後は運で何とか決まった。
面接に行ったらすごく良い人で話していて面白かった。そこが取ってくれた。
正直、受けに行くまでは家の営業つらそうだな、っていうのが大きかった。今もつらそうだとは思っているが、すごく面白そうな会社だったのだ。なので正直に思うところをすべて話した。

こればかりは運だ。
僕のような人間を取ってくれる会社が世の中にあって良かったし、そういう会社がタイミングよく募集していて、それに応募出来たのも、全て運が良かったとしか言えない。

転職活動開始から2ヶ月しないくらいで決まったのだから本当に運だった。

なので、絶望してもいけない、というかあまり意味がない。
自分を取ってくれる、なおかつ入りたい会社っていうのがあるかどうかはタイミングと運だ。

タイミングと運が悪ければ長く活動を続けるしかない。
もちろん、自分に無理のない範囲で継続しないといけない。
なおかつ、なるべく早く決めないといけない。
転職活動をし始めると現在の仕事に対してのモチベーションは落ちてしまう。そうならないよう努力はするのだが、どうしてもこれまでの会社の恩や義理よりも、自分の未来の不安が強くなってしまう。
それでも、転職活動において、現在の仕事をきちんと頑張らないと当然仕事にミスが起きて、転職活動のストレスと現在の仕事の失敗のストレスの両バサミにあってツラい。
転職活動で大事なのは現在の仕事をおろそかにせず、無理なく根気強く、自分を肯定しながら進めることだろう。

ーーー

さて、転職活動についてはこの辺で。
自転車屋の仕事の反省だ。
自転車屋というより、これまでの自分の仕事に対しての反省だろう。

もちろん頑張ったところもあるが、何よりも部下への支持、教育っていうのはダメダメだった。
恐らくそこさえ出来れば売り上げももっと伸ばせただろうし、職場の空気も明るく、みんな楽しく出来ただろう。
店長という中間管理職である以上、自分がプレイヤーとして反省、修理する以上に、下の人間にもっと自由に自発的に仕事したくなるように環境を整えてやって、仕事を投げて、失敗が怖くないようフォローしてあげる。なおかつ、悪いところは鋭く指摘する。上司の指示にはテキパキ従うよう空気を作る。
最終的にそういうのがどうにも出来なかった。

原因はたくさんあるが、一番は嫌われ役に立てなかったということじゃないだろうか。
部活や仲良しサークルじゃなくて仕事なんだから、ダメなものはダメだと強く指摘しないといけなかったし、出来るようになるまで根気強く向き合わなくてはいけなかった。嫌われるとかそういうのを気にしてはいけなかった。
部下が仕事を出来るようにしてやるのが上司という立場の人間の仕事なのだ。
それが出来ないと自分も苦しいし、部下もいつまでも成長出来なくて、ダメ社員扱いを受け続けるのは苦しい。
ダメなのにダメと言わないのは、優しさではない。
ダメなことをダメとストレートに教えて、出来るように一緒に考えて努力、協力するのが優しさだろう。

もちろん、良いところを誉めて伸ばすっていうのもアリだろうけど、やはりダメなところはダメと言わないといけないんだろう。
ダメと言うことで相手のモチベーションを下げることになるかもしれないし、実際、僕の部下は仕事放棄して職場から消えてしまうというのも事実ではあるのだが、それでも、根気強く向き合わないと、ダメなままで居続けてお互いにストレスにしかならない。
良いところを誉めて伸ばすにしても、ダメなところはダメだとストレートに指摘すべきなのだろう。
理想は何かしらの解決案、提案を持ってダメと指摘すべきだろう。
解決案、提案がなければ諦めるかどうかを本人に選ばせるべきなのだろう。
ーー君はこういうところが出来ていない。こういうところは出来ている。出来ていないところを出来るようにする方法を一緒に考えて努力するか、出来ないということを受け入れて出来る分野で頑張るかどちらが良い?
とストレートに指摘して、相手に選択させるのが良いんだろう。

僕は基本的にこっちの解釈、判断で「この人には出来ないことは出来ないで仕方ない」と諦めてしまっていた。

簡単に諦めてはいけないし、ましてや本人に諦める気がなくて努力する気が少しでもあるなら、しっかり向き合ってやっていくべきだ。
本人に選ばせるというのも、少々、残酷なやり方とも思えるが、実際問題、大人になったら自分のことは自分でやるしかない。
それでも、チャンスは与えないといけないし、可能な限りチャンスをものにして、戦力になって欲しい。

そういうのが全く出来なかった。

ダメな人は諦めるか近寄らないっていうのが僕のセオリーだったが、それだけじゃダメなのだ。
ダメな人は改善のため一度は徹底して向き合わねばならない。
根っからのダメな人間など珍しい。その仕事ではダメでも、それ以外のプライベートなんかではとても優れた人間かもしれない。
ただ、上司として接する以上、仕事についてダメなまま放置してしまうのはいけないのだ。

ーーー

結局、そこは真摯さと自覚だろう。
部下をその仕事の中で有用な人、価値ある戦力に育てるということは、その人の人生を明るくすることなのだ。
部下を仕事漬けにしろということではなく、部下が仕事が得意になって、仕事に誇りを持てるようにする手伝いをする。
管理職とはそういうのこそが仕事だと自覚して、真摯に向き合わねばならない。

そういうのがあれば、教育を面倒だと感じることはないし、真摯さは相手に伝わる。
正直、教えられるほど自分にも自信がなくたって、教えないといけないのだ。教えられるように自信を持つために自分が先に努力しないといけない。
結局、自分に自信のないことは教えられない。
でも、自信がないことでも教えられるようにならないといけないり

そのためには当然、三日坊主じゃいけなくて、相手が出来るようになるまで徹底してやり続けなくてはいけない。

次に管理職になる日は多分遠いだろう。正直、そういう日が来たからと言ってきちんと管理出来る自信はあまりないのだが。
事実として管理出来なかったせいで、部下たちはこの後もしかすると失業するかもしれない。
これは自分の失敗である。

ーーー

その他の反省すべき失敗と言うのは案外思い付かない。
多分、他にもいろいろあるはずなのだが。
それでも、販売なんかについては概ね精一杯頑張ったように思う。
メカニックなんかの技術的な面についても勉強を積んだし、一通りのことは問題なくこなせる。

自分の手の届く範囲のことは頑張れたんじゃないかな、と。

可能ならもう少し機材を自腹を切って買って、勉強する機会を増やすべきだったかもしれないが、現実問題として、そんな金銭的余裕はなかった。

ーーー

自転車屋、山小屋と好き放題生きたので、大学を卒業してすぐ就職した人より、金銭面では少々苦労はしてきた。と言っても、20代はその夜飲む酒代があれば十分だったのだが。

キャリア形成とか人生設計とかいう意味でどうだったか、と考えると、まあ、悪くなかったんじゃないだろうか。

若い間に自転車で海外を放浪する。
これってやっぱり何者にも変えられない価値があると思う。
ーーじゃあ、それを通して何を身に付けましたか?
ということを面接で聞かれたりもした。
ーー人に助けてもらわないと人は生きていけないし、人に助けを求める方法、お腹が減ったらお腹が減った、何か食べられるところはないですか?と言葉が知らなくても伝える方法です。
と僕は答えた。
面接官はあまり意味がわかっていなかった。

実際問題、日本に住んでいると何の心配もない。
頭のイカれたシャブ中に突然ナイフで刺される可能性。
強盗しないと生きていけない貧困者。
人間を襲う象。
そんなのっていない。
蚊に刺されてマラリアの心配をすることもない。
国境で隣国のビザを取るためにアメリカドルが必要だが正規レートで換金してくれる銀行などないという問題もない。
コンビニに行けばおにぎりも安全な水も買える。
行き倒れたってだれかが警察に通報してくれて、とりあえずは保護してもらえる。
車にはねられてもすぐに救急車が来てくれる。
国境を越えるたびにタバコ代を毎回高くボッタクられる心配もない。
食べる肉にハエがたかっていて、それを汚い油であげて、便所の匂いがするような肉を食べる心配もない。
走っても走っても町にたどり着かなくて、ライオンやピューマのような肉食獣が出るかもしれない道端で野宿する心配もない。
子どもが死ぬことも当たり前のような世界ではない。
壊れかけた自転車を片道4時間近くこいで学校で2時間だけ勉強するような少年もいない。
日本はすごく安全だ。
安全を確保するための努力をしなくて良い。
誰かに助けて欲しいと頼む必要もない。
理不尽さが少ない。

世界は結構いろいろと理不尽なことだらけだし、そして自由だ。
安全ではないけれど、とても広いし自由だ。

助けが必要なら自分で助けてくれるようお願いしないといけない。
素直に自分が今しようとしていることを伝える。つまり、旅の目的地を伝えて必要としていることを伝える。助けて欲しいと頼む。今夜の寝る場所を提供して欲しいとか。

そういうのって本来は人間として当たり前なのだ。
大学を卒業してサラリーマンして働けば、安定したお金が入ってくるっていうのも大事だけど。根本的には人と人とのつながりがあって助けてもらいながら生きるものだから、助けてもらうスキル、人を助けるスキルっていうのは大前提として重要なことなのだ。

だから、生きるスキルの少ない若い頃に、家族も友達も誰もいない見知らぬ異国の田舎の村で誰かに助けてもらう。
そういう経験っていうのは本当に貴重だったと思う。

年を取ってから貯蓄したお金で優雅に世界をまわるのも良いけれど、若い時に体一つで、出来るだけ貧乏で制限がたくさんある中で異国を旅するというのは大事だ。

こういうのは島国である日本人はすごく弱い。
逆に途上国の人なんかは、日本国内で働いている人もたくさんいるように、母国で仕事がなければ、異国で仕事を探して稼いで生きるのは当たり前だったりする。
自分が生きるゾーンを自分で作るという営みだ。
社会が用意してくれた大学やそこを卒業した安全なゾーンではなく。自分で考えて自分が生きるためのゾーンを自分で作る。

生き抜くためには自分から動いて、人の心を動かさないといけない。

ーーー

大学を中退したことについて悩むことも多かった。
それでも、大学を中退したからこそ、僕は破れかぶれで旅をした。
真っ当なサラリーマンにはなれないと思っていた。
すごく気持ちの苦しい日々があったこともよく覚えている。

でも、改めてそういう時代が通り過ぎて、意外とすんなり転職も決まった今思う。
苦しいと思っていたあの日々こそ一番生きがいに溢れていて、どこに向かおうとしているかも分からないままもがいていた日々こそ一番充実して素敵だったんじゃないかな、と。

まあ、もちろん、これからも素敵な日々は来るんだろうけど。

ーーー

そう考えると、最後は経済的な事情で引退することにはなったものの、自転車屋で働けたのは、そういう旅の日々の自分に対して筋が通せていたと思う。ちゃんと店長までなったし、多くのお客さんに自転車の素晴らしさを伝えられたんじゃないかな、と。

自転車が好きな人、登山が好きな人たちの払ってくれたお金で今日まで生きてこれたことを感謝して。

次の人生に進もうかな、と。
次の人生って言ったって、やるのは僕なので相変わらず泥臭くやるんだろう。
そんなにスマートには生きられないだろう。
また楽しい日々が来ることを楽しみにしつつ。

子どもが高校出たらヨーロッパでものんびり旅しよう。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 23:56| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月10日

自転車屋引退。

じてぼんの筆者としては残念な話だけれど。
子どもがもうすぐ生まれる父親としては素晴らしい話で。

転職が決まった。
自転車屋は引退することになった。
一般企業で営業マンをしていく。

でも、今度は八ヶ岳のふもとなので、MTBは近くに富士見パノラマがあるし、ロードも麦草峠にビーナスラインと自転車を乗る環境としては天国だ。トライアスロンも野尻湖まで行けばある。登山ももちろん天国だ。
やはりアウトドアするなら長野は強い。

ーーー

自転車屋さんで子どもは育てられないのか。
別にそんなことはないと思う。

実際に僕の周りにもそういう人はたくさんいる。
そして、子どもが出来て自転車屋さんを辞めていく人もやはりたくさんいる。

給料面、休日面は世間一般の平均より良くないけれど、その気になれば食っていけないこともない。
単純に僕の場合は会社の考え方についていけなくなってしまったというのが大きい。
僕の中で仕事とはやったらやった分は報酬があるべきだと考えている。好きな仕事なら報酬は我慢しなさいっていうのは間違っていると思うのだ。
そうしないと、仕事に対して頑張ろうというモチベーションにならない。
ただぼんやりと出社するだけで給料がもらえる、別に頑張っても給料も良くならないし、休みも少ないから自転車イベントにも出られない。仕事だから自転車屋さんにいるだけ。
そういう職場には僕はあまりいたくないし、そういう店で自転車を売りたくない。

一口に言えば自分が自転車を買いたいと思える良い自転車屋で働いていたい。
自分がお客さんだとして、親しくしている店長さんが実は貧乏過ぎて家庭崩壊していたら嫌だ。自転車のために家庭崩壊している人から自転車を買いたくない。

何かしらの明確な目的を持って仕事を一生懸命する人たちと仕事がしたい。特に自転車屋さんなら、自転車に対して熱い想いを持ってる人と一緒に働きたいし、そういう人たちが幸せに家庭を作っていけるような会社で働きたい。

そうは言うけど、自転車の知識もロクになかった僕を拾ってくれて、プロショップの店長が出来るまでに育ててくれた今の会社には感謝している。
恩を仇で返すようなことになってしまうが、子ども最優先で生きていく。
そう、モンスターペアレントだ。
子どものこととなれば、恩も仇で返す。
でも、そりゃそうだ。まずは自分の生活が守れないと、自転車という人生の遊び道具は売れない。

そうは言っても、会社も出せない給料は出せない。

こうなると交渉決裂だ。
リスクを取ってもプロトンから逃げねばならない。

つまるところ、僕はお金が欲しかったのだ。
そして、社長はお金を払いたくなかった。
それだけのことなのだ。
はっきり言って、そこには哲学も美学もない。

ーーー

自転車屋さんに限ったことではないけれど、家族を持つことで生き方が変わる人とそうじゃない人ってのがいる。

結局は家族の理解である。
そして、家族の理解っていうのは、仕事への熱心さである。
そういう意味では僕は自転車屋さんにそこまで熱心なようには妻の目には映らなかったのかもしれない。
あるいは、熱心ではあるもののしんどそうなところが多く映ったのかもしれない。

ーーー

僕自身、自転車屋さんの仕事に未練はないかと言えば、正直、あまりない。
自転車屋さんっていう仕事はとても好きだけど。

同じように山小屋に未練はないかと言えばない。
山小屋は実に素晴らしい仕事だったと思うけど。

自転車も登山も好きだけれど、楽しいからしただけだ。
良くも悪くも単純に楽しいから自分が納得するまでトコトンやっただけ。その中で縁あって仕事としてやっていける期間があった。
もちろん、まだまだやり足りないことも多い。雪山登山もしたかったし、自転車ももっとやりたいこともある。

ーーー

そう、ふと思い出したが。
昔の僕はいつか珈琲屋さんと自転車屋さんと古本屋さんをくっ付けたような店がしたかったのだ。
珈琲と本と自転車。
あとは音楽なんかもあれば良いかもしれないけれど。
それこそが若き僕の求める全てだった。
正にじてぼんである。

今は少し変わって、自転車関連でやるなら、レンタルとサイクリングツアーとMTBコースのあるキャンプ場がやりたい。
レンタルは日本全国宅配しつつ、地域活性化の役に立つよう駅前受け渡しの予約も受けるし、市内協力店にもレンタルロードバイクを置いて、キャンプ場の脇にそれらのレンタル自転車の基地になる倉庫を建てる。

改めて考えると、昔の珈琲と自転車と古本っていうのは故郷の町に生きていた自分ペースで欲しかった場所であり。
今考えるレンタルとツアーとキャンプ場っていうのは、旅をして来た結果、旅人目線として旅先に欲しい遊び場所なのだ。
そのキャンプ場に外人が来れば、日本一周をする装備と自転車が気軽に借りられるような拠点になれば最高だ。
もちろん、外人じゃなくて日本人でも良い。
もっと気軽に日本を自転車で旅して下さいね、と。

ただ、この事業の問題点はレンタル事業だけで大して儲からないであろうキャンプ場の維持なんかをしていかないといけないことである。
星の美しいキャンプ場が良いと思っている。
キャンプ場の維持代がかからないように、フリーのキャンプサイトにしてしまって管理なんかに維持費があまりかからないようにするのも手だが。
基本的にはレンタル事業とツアー事業に何人かいて、プラスでキャンプ場の手入れもするくらいで。

レンタル事業がどの程度儲かるかというのが問題ではあるが、全国宅配レンタルサービスは全国の旅館、ホテル、ゲストハウスなどの法人向けも含めて展開していけばかなり可能性はあるだろう。
トライアスロンを開催するエリアのホテルを狙うだけでもかなり取れる。トライアスロンパックと銘打って、ロードバイク一式とウェットスーツがレンタルできるプランを展開すればトライアスロンの宿泊客が確実に取れるし、宿泊客じゃなくても前日にレンタルしてレース後に返却したいというユーザーも取れる。
その辺は営業力次第だ。

今の会社でその努力をしろと声が上がりそうだが、残念ながら僕はステキなキャンプ場がやりたいのでその運営資金のための利益を求めるのであって、単純な売り上げのためにそういう努力はしたくない。
はっきり言ってお金のためなら、是非とも別の仕事をすべきだ。
自転車はあまりお金にはならないし、だからこそ自転車はステキなのだ。

ーーー

でも、子どもが生まれるので、それはしない。
普通のサラリーマンをやる。
いや、普通より稼げるサラリーマンをやるつもりだ。
資金が作れたら、事業を立ち上げて、地域おこし協力隊なんかに投げてしまって、社長職していても良いかもしれない。

その利益で今度こそのんびりと珈琲屋さんと古本屋さんの自転車屋さんをやろうじゃないか。

そして、それも誰かに投げてしまって、日本中に支店を展開して、外人さんが気楽に日本を自転車で回れるようなシステムを作って。
もっと自転車がみんなに身近になっていて、マイカー通勤が減って、自転車通勤が普通になっていて。日本が世界でも先進的な自転車利用による環境保護の国になっていて。

その頃には子どもも大人になって。
老人になった僕は今度はどこに旅に出ようか。
その頃には南極を自転車で走るのも今より普及していたら南極点を目指したい。
世界が平和になっていて、戦争もなく、どこの国にもビザなしで入れて、自由に旅出来て。
老人になった僕でさえ見たことのない景色の道を自転車で走れたら。
それはきっととってもステキなことだろう。

もしかすると、月や火星をサイクリング出来るようになってるかもしれないし、地球滅亡の危機が来ているかもしれないけど。

まあ、そんな妄想もするわけだ。

別に自転車屋さんを辞めたって、世の中から自転車がなくなるわけじゃないし、まだ見たことのない景色がなくなるわけでもない。
のんびり妻と子どもと一緒に生きていく。

ーーー

そうは言っても一度自転車屋さんを辞めて改めて戻ったのに、また辞めるというのは正直心痛むところではある。
信頼してくれたお客さんに申し訳ない。

それでも、内心ほっとしているところもある。
今日、面接が決まってから少ししてから、海外通販の部品の持ち込みがあった。

海外通販で買ったものを正規店で取り付けてもらう。
工賃さえもらえれば良いのだろうか。
それでも、食材持ち込み自由のレストランなど聞いたこともない。
レストランに限らず、そこで販売するはずのものを非正規ルートで安く買ったものを持ち込むなんてのはどの業界でもあまり聞かない。

やはりそれはルール違反なのだろう。

そうは言っても、それも受けねば食ってはいけない。
それなら、それを受けられるシステムを作っていない側にも責任はある。

ただ、そんなシステムを作る、つまり非正規ルートで購入した部品についてはアップチャージを頂きますなどというルールを作って提示しなくてはいけないってのは、人を叩いたら相手が痛い思いをするのでいけません、という何とも幼稚なルールだ。

話を広げるけれど、ふるさと納税でAmazonポイントをあげるなどという馬鹿な地方自治体が出て来て、物議を醸したりもしたのについてもそうだ。

普通に考えてやっちゃいけないことはいけない。

その理屈で言えば、恩のある会社を裏切るなどという行為もそうなのだろう。

子どもが出来たから、家族が出来たから。
本来、そういうのは理由にならないと思うのだ。

どうにも余裕がない。僕も社会も世界も。
ーー子どもが出来て、お金がかかるね、でも、まあ、何とかやっていきますよ。ははは。
そういうのがない。
みんなカツカツで隣の人より少しでも多く儲けたいし、自分だけ貧乏でいるのは嫌だ。

アフリカでの旅は東から南西へと国境を越えるごとに経済力のある国へと変わっていった。
冷蔵庫のない村がなくなり、スーパーのある町が現れた。裕福な白人が乗った車が増えた。
そして、ギブミーマネーと笑いながら叫ぶ大人や子どもが減って、暗い顔をしたストリートチルドレンが現れた。

もちろん、それが全てではない。
あくまで僕の目から見たアフリカだ。

アフリカでは貧乏は決して憎むべき悪ではなかった。
貧乏で発生している深刻な問題もたくさんあったのも事実ではある。
それでも、貧乏が当たり前の地域では、仕事のない人々は木陰でぼんやり黄昏ていて、風に吹かれていた。
稼ぎのあったものはビールを飲んで稼ぎを溶かしてしまっていた。
時々、お金持ちもいた。
お金持ちは貧乏人とは壁があった。
それでも、それは許容されていた。
貧乏人の存在もお金持ちの存在も。
料金をチャージ出来ないので通信出来ないケータイ電話を持つ人々。
道端でバケツいっぱいのマンゴーを売るおばさん。
誰が欲しがるのか分からない手作りの木のオモチャを売るおばさんもいた。
牛を追う少年。
朝から村の前で牛を殺していたり、自転車のハンドルに鶏をぶらさげていたり。
ハエのたかった肉。汚れきった油で揚げて塩をかけて食う。硬くて獣臭い。
一夫多妻制の社会の中で、結婚した相手の父親に迫られ続けるのが嫌で離婚したゲストハウスのおばちゃん。

アフリカはずっと遠い。遥かに遠い。
僕は転職して勉強して、きっとこれまでより良い収入と休みを得るようになる。
誰かは自転車屋さんに憧れて、いずれ店長になる。

先日、31歳、僕と同じ年齢の日本人の自転車で旅する人がペルーで死んだ。交通事故だったそうだ。
旅の終わりか不意に訪れてしまった。

少し前まで転職が決まらないで苦しんでいた僕はアフリカで死んだら楽だったかもしれないと真剣に考えたことがあった。
旅は楽しい。
でも、旅は終わって、日常の日々が戻ってくる。
日本での日常の日々はとても快適だ。
ただ、みんなカツカツで、自分も気付けば一緒にカツカツになっている。
旅の日々ほど輝いている日々はない。
その輝いている日々の真ん中で突然に人生が終わる。

転職が上手くいったからというのもあるのかもしれないにせよ。
日本のカツカツの日々と旅の日々のコントラストに絶望することは少なくない。
それでも、絶望の真ん中だって旅の先に続いた道であり、そこを一緒に歩いてくれる家族が出来た。
良いことばかりじゃない。
どちらかと言えば悪いことの方が多いかもしれない。
楽しいことばかりでもない。
嘘だ、楽しいことについては結構たくさんある。
良いことも悪いことも、汗水垂らして苦労して乗り越えて、何が楽しいんだか分からないけど、新しい日がまたやってきて、何のためだか分からないままに何かを努力する。
輝いている旅の日々とは随分遠い。
これからの日々に苦労は山積みだろう。

それでも、僕は生きて帰って来れて良かったかなと思っている。
きっと死んでしまった人も日本に帰ってきたかっただろう。
はたまた異国で生きるという選択肢をしたかもしれない。
何にせよ、少なくとも自分で決めた目的地までは辿り着きたかっただろう。
どこに辿り着いて、どういう意味があるとも知れないにせよ。
自転車で旅する人は自分の進みたい方向に進んで自分が決めたところまで自分の足で進みたい。
その人の旅が途上で果ててしまったことを心から悲しく思う。
それも天命かもしれないが、やはり自転車で旅した人間としてゴールまでたどり着けなかった無念を思うと悲しく思う。
冥福を祈ります。

僕の自転車の旅は終わったけど、人生の旅はまだまだ。不運で死んでしまった人の分まで頑張って楽しんで生きていかないと。

まあ、そんなこんな。
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2019年05月08日

スーパースターとチャンピオン。

スーパースターとチャンピオン。
スーパースターは何をしたってスーパースターだ。成功しても失敗しても。その代わり、平凡なことではスーパースターではいられなくなる。
チャンピオンは失敗してはいけない。失敗したらチャンピオンではなくなる。

だれもスーパースターでは居続けられないし、だれもがチャンピオンになりたい。不思議なことだけれど、二度と失敗してはいけないチャンピオンにみんななりたいんだ。
大抵の人はチャンピオンになれない。
チャンピオンになれる人は限られているし、チャンピオンでい続けられる人はさらに限られている。

坂道をどんどんと登っていく。
止まることない。
いつもならその人は止まって、待ってくれる。
しかし、止まることなく凄いスピードで登って行ってしまう。もう追い付くどころか、これ以上進めない。でも、その人は登って行く。
上の方には黒い雲がかかっている。あの雲の中は雨じゃないだろうか。
呼んでも止まらず登り続ける。


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2019年04月20日

正しいことが正しいとは限らない世界。

正しいことが正しいとは限らない。
ただ、それってどうなんだろうか。
正しいことが正しいとは限らないのが正しい世の中って結構狂ってしまってるんじゃなかろうか。

「はじまりへの旅」という映画を観た。
主人公の一家は森の中で暮らしている。父親の教育方針なのだ。世間から離れ、学校には行かせず、父親が直接教え、肉体を鍛え、書を読み知識を蓄えて生きる。ヒッピーと一口にも言ってしまえるような暮らしをしている。
しかし、母親が精神病の末、自殺した。その葬儀に家族で行くため森を出る。
そう大した事件は起こらないのだが、ちょっとしたアレコレをする内に、やっぱり子どもは学校に行かせてまともに生きさせてやろうと父親は思うようになるという話だ。

まあ、この映画はどこか後味のよろしくない胸糞悪い映画だった。
学校に行かせず森で育てる。知識は十分にある。人間、それで良いように僕は思うのだ。
そりゃ、みんながそう生きていくとよろしくない。
ただ、いくらかはそういう人がいたって悪くないはずなのだ。
別に森じゃなくてもどこでも良い。ただ、学校でみんな等しく歩調を合わせてクローンのような考え方を持つ必要はなかろうと思うのだ。

映画の中では子供たちは何ヶ国語も習得していて、哲学や思想、自然科学などのジャンルの学問にも深い。筋肉はモリモリ。
現実には英才教育をしても、そんな風にはならない。
現実は医者の子どもでも、いくら金をかけて教育してもロクな大学に入れず、金を積めば入れる地方私立医学部っていうのが存在しているように、勉強や学問っていうのは、出来ない人間は出来ない。
ましてや六ヶ国語を喋って、全ての学問に深いなんてことが何人もいる子どもが全員出来るようになるわけはない。

まあ、あくまで映画、作り話の世界の設定なので、そこまでは良しとしよう。仮定、設定がないと物語は成り立たないので。

ただ、問題はそんな天才的な子どもたちがわざわざスクールバスに乗って学校に行く必要があるかというと、甚だ疑問ではある。
一体主人公は何に敗北したのか、これが非常に謎なのだ。

確かに社会性というのは大事ではある。
子どもを社会から隔絶してしまうのは危険であることは間違いない。
ただ、六ヶ国語やら何やら習得出来るだけの能力があるなら社会性も学ばせてやれば覚えれるだろう。
世捨て人をするというのもまた選択肢だろうし、社会に帰属して生きるもまた選択肢だろう。親がどちらかだけを強要することは良くないとも言えるが、逆を言えば基本的に世の中、親は子に社会に帰属することを強要している。

社会性というのも、そもそもに怪しいもので、国が変われば常識も違う。
最近、ベルリンの友のことを考えることが多いが、彼が偉いのは、そういう既存の社会性に依存しないというところだ。日本に生きれば日本の社会に帰属して生きるのが楽だ。未知の世界に適合して生きる、どこに行っても生きていけるってのはすごく強い。

正しいことが正しいとは限らない。
例えば、日本で客商売をしていると明らかに理不尽なことを言う客っていうのはどうしても存在する。
日本以外の国ではどうか分からないが、物を買うとなると、客は神様というのが発生する。

実際、客商売をしているとお客様は神様っていうのは正しい。神様のように思いなさいという比喩ではなく、お客様がお金を落とすからこそ我々の生活は成り立つ。お客様の求める商品こそが正しく、お客様が求めない商品は正しくない。
いかに作りが良くて素晴らしいものであっても、お客様が求めていない商品は客商売をしている限りダメなのだ。
まあ、基本的には作りの良い素晴らしいものっていうのをお客様は欲しいと感じる場合が多いんだけど。

ただ、人間として正しくないことでも、お客様が求めるものっていうのもある。
例えば安い電気だ。
これは倫理的に考えて正しくないだろう。
原子力発電所が吹き飛んでも、安い電気代は求められる。ジャブジャブ電気を使う。
でも、お客様が求めている限り、商売をしている立場からはそれをいかに提供するか、いかに魅力的に提案するかになる。
お客様は神様なのだ。

明らかに理不尽なことを言うお客さんは、現実的にはお客さんじゃなくなる。理不尽を言って利益よりも損害を出すようになると、これはお客さんじゃない。利益をもたらしてくれていればこそお客さんはお客さんなのだ。
しかし、現実はそうも行かず、ニュースなんかで店員が土下座をさせられたりする事件が起きるわけだ。

商売は三方良しが理想ではある。
売り手、買い手、世間の三方に良い商売が理想だ。
そのためには正しいことが正しいが通らないといけない。

正しいことが正しいとは限らない。
六ヶ国語を覚えて、知識を蓄えて、肉体を鍛えて、それが正しいとは限らないってのは何とも変な気がする。

主人公は一体何に負けて、子どもたちをスクールバスに乗せて学校に通わせることにするのか。
いや、この製作者は一体何に負けてこういうラストを書かねばならなくなったのか。
ヒッピーはダメだ、長いものには巻かれろ、世間に順応しなくちゃいけない。道徳の教科書に載るようなクリーンなラストじゃないといけない。

正しいことが正しいとは限らないってのが正しい世の中。
何者か分からない巨大な何かが個人の考えを否定して、無言の圧力で一つの方向に導く世界。

実際、僕も誰に遠慮してるんだか分かりゃしないが、何者かに気を使って正しいことが正しいとは限らないような、正しくないことも目を閉じてやるのが正しいような、ヘンテコなことになっていってる気はする。

変なクリーンな雰囲気でラストをしめてはいるが、何とも後味の悪い映画だった。

そんなこんな。


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2019年04月18日

子どもが出来た。

子どもが出来た。
無事に産まれるんだか、まだ安定期にも入らないから分からないけれど、元気に産まれて、大きくなって欲しい。
そんなわけで結婚もすることにした。

急にいろんなことが進んだ。
アフリカは遥か遠い過去のようだ。

子どもが出来て、最初、中絶も考えた。
僕も妻、妻になるので妻で良いんだろう、どちらも当面は子どもは作らず二人で呑気にやって行くつもりだった。
結婚もどちらでも良かった。いずれ結婚するのだろうが、役場での申請なんかが難儀だろうからと折を見て入籍すれば良かろうといった程度のものだった。
そこにふと子どもが出来た。

僕も何だかんだで31歳、妻は少し年上なので世間一般で言えば子どもを持つにはちょうど良い年なのだろうが、世間の考えは世間の考えであり、僕らの考えとは関係ない。
僕の収入は相変わらず少ない。
独り身で生きるには十分だが、誰かを養えるかと言えば、まあ、養えるんだろうが。
そう、酒を辞めた。週に一度くらいは家で晩酌しているが。毎日ウイスキーを飲む暮らしから随分な変化だ。
煙草は辞めていないが、随分減った。
酒と煙草をやめるだけで、まあ、何とか養えるくらいにはなる。というのも、僕の出費の大半はその二つだったから。それ以外の娯楽といえば自転車くらいか。妻と暮らすようになってからはギターも弾かなくなったし、本もあまり読まなくなった。最後の砦が酒だったわけだが、酒は案外すんなり辞めた。
そうすると案外、生計が立ちそうな見通しが立った。
酒飲みってそんなもんだろう。
酒っていう鉄球を付けて生きている。外せば案外いろんなことが出来る。分かっちゃいるけれど、酒が好きで飲む。飲んで何か良いことがあるわけでもない。知り合いがいくらか出来るのは良いことだけれど、お金同様、夜の夢だ。飲み終われば眠りがやってきて、朝に太陽が昇る代わりに過ぎ去って行く。
だからこそ、酒の仲間は好きだった。
出来れば酒の仲間は夢であって欲しい。
日本人の常識としては昼間の仲間との交友を深めるために酒は飲むものかもしれない。
だけど、僕にとっては酒の酔いの中で夢のように揺れる友達でいて欲しかった。俗っぽい話は聞きたくなかった。仕事の愚痴など聞きたくもない。何の内容もない話をして揺らいでいる、夜の夢の仲間。
僕は一人きりで酒を飲みに出掛けるのが好きだった。

酒と煙草を辞めて、子どもを一人育てられるくらいの採算が立つ。
そう考えると酒を飲んできて良かったなと思う。
夜の夢から離れるのは寂しくもあるけれど。

昼の夢といえば自転車の旅だったんだろう。

酒に満たされた夜か、その日眠る場所も分からない昼の日々か。

ーーー

子どものためにそういったことを辞めるのかと言うと、まあ、その通りでもあるのだが、どこか肩の荷が降りたような気もする。
正直なところ、アフリカ以来、僕の心が燃えるようなやりたいことは見つからなかった。
仕事は嫌いじゃない。好きかと言われると、地方の町の自転車屋さん、どこか物足りない気もせんでもないが。それでも、悪くない仕事だと思う。それでも、心が燃えるようなことかと言えば、どうだろうと思う。
小説を書くということも、小説を読まなくなって、要は小説に心酔出来なくなったから読むことが減ったのだろうか、はたまた読まなくなって心酔出来なくなったのか、何にせよどうしても書きたいものってのがなくなったか、はたまた書きたいものは心の中に燻っていれど、手に届かなくなったのか、手を伸ばす労力、探す労力が落ちたのか、心が燃える感じがなくなってしまった。

どう生きるか。
正直、そういうのが見えなかった。

自転車屋さんという仕事に関して熱意はあるが、正直、随分走ってしまったからか、自転車に対してどこか冷めているところもある。いや、好きではあるが、世の自転車愛好家のように頑張ろうってあまり思えないところがある。休日にロードバイクで走っても、マウンテンバイクで山を走っても、一人きりで異国を走る高揚感みたいなものはない。ましてやアフリカやパタゴニアのような高揚感は縁遠い。
100km走ったって特に達成感はない。200kmほど走ればいくらか満足感はあるが。それでも、どこか冷めてしまっている。

そういう中で子どもが出来て、中絶のことも考えたが、二人で考えた結果、頑張って育てていこうと決めると、肩の荷が下りたような気がした。

ーーー

人間、誰しもすごい人でありたい。
何でも良いから、何か一つ、他の人には出来ないすごいことが出来たり、職場ですごく仕事ができるとか、他の人からすごいと思われるような要素が欲しい。
多かれ少なかれそういうのって誰にでもある。

僕の場合、自転車の旅にせよ、小説にせよ、僕に出来るかもしれないすごいことだったんだろう。

自分で言うのも何だけど、自転車に関してはちょっとすごかったと思う。
いや、自転車の旅自体もそうだけれど、その旅を文にして世界を綴ったというのもほんの少しはすごかったと思う。
まあ、よくやったんじゃないかと思っている。

だけど、すごくあり続けるって大変だ。

友人でベルリンに住んでいる男がいる。
彼は高校を卒業してから、たまに日本に帰ってくる以外はずっと異国にいる。
日本が嫌いなんだかどうだか知らない。
エリートってわけでもなく、料理なんかしながら生きている。
僕は彼のことはすごいと思っている。
別にハーバード大学を出てるわけでもなく、単にインターナショナルフリーターみたいな具合なわけだが、異国でお金を稼いで生きていくってすごいと思う。良い大学を出て駐在員として異国に住むとかじゃなく、体一つで異国で生き抜いているってのは、これはかなりすごいと思う。
彼は彼自身のことをすごいと思っているのかは知らないけれど、多分、自分の生き方を愛しているんじゃないかなと思うし、普通の日本人とは違う生き方をしているという自負はあるだろう。

すごくあり続けるって大変だ。

そういう意味で、僕は子どもが出来て、育てることを決めた時、どこか肩の荷が下りた。
子どものせいにして、いろんなことをやめるってわけじゃない。
ただ、いろんなことをやりながら出来るほど子育てって楽じゃないだろう。
ある意味では僕は子どもを言いわけにして、人生を一つ降りるのかもしれない。

実際は小説を書くなんて子どもがいたって出来るだろう。

肩の荷が降りてしまった。
僕はもうすごくあり続けなくって良い。

ベルリンの友はまだまだすごくあり続けるだろうか。

ーーー

すごくあり続けるってのは、ヒーローでい続けるってことなんだろう。

多くの人は途中で肩の荷を下ろしてしまう。
実際、僕より早く結婚した友人を見ていて、正直なところ、つまらなく感じたことが何度かある。
もちろん、それは否定したりすべきことではない。ただ、つまらないと感じた。
まあ、野球部の4番でエースだって、プロ野球に進まない限りは普通の人になっていくんだ。

基本的には普通の人で世界は成り立っている。

実際に4番でエースじゃなくたって、学生くらいまでって、何かしら4番でエースのことってある。ギターが上手でバンドで目立っていた、とかね。
それが、日々、仕事帰りに買うファミチキとビールだけが楽しみになったりする。

要は僕はそういうのが嫌だったんだろう。
自分がそうなるのも、かつてヒーローだった友人がそうなるのも。

ーーー

でも、いざ、子どもが出来て育てていこうと決め、肩の荷が下りたような感じがすると、それも人生か、僕の人生は折り返しに来て、死に向かって下り始めるのか、そんな気もするのだ。
どこか寂しくもあるが、いずれは死ぬのだ。
その中で次の命に任せるのかもしれない。
なんて無責任なことだ、と思うところもある。
でも、僕はとりあえずここまで頑張った、あとは君に頼むよ、と言ったところか。
すごいことをしてくれ、なんて思わないけど、元気で楽しく面白く生きておくれ、なんて思うわけだ。
僕は僕で随分頑張ってみたんだよ。どうも、まだまだ満足はしてないけど、いったん君に任せようかな、って。
もしかすると、子どもがいくらか育ったところで、また僕も僕で何か頑張るかもしれないけれど。
とりあえず、当面は君を育てることだけに集中して頑張ってみようかなって。
多分、それは結構楽しいことだと思うし。
少なくとも、僕の心が燃えることではある。頑張ってみようじゃないか、って。

とりあえずは元気に産まれて来てくれると良いんだけど。
父親ってのは母親ほど頑張れることが少ないから、何が出来るってわけでもないんだけどね。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 23:31| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年03月25日

山の裾野へ引っ越すことにした。

山の裾野へ引っ越すことにした。
厭世的になっても仕方はないのだが、最近は北海道の過疎の村の役場の求人などを見て、良いなと思ったりする。

子曰く(しいわく)、学びて時に之を習う、また説ばし(よろこばし)からずや。
朋遠方より来たる有り、また楽しからずや。
人知らずして慍みず(うらみず)、また君子ならずや。

ふと論語を思い出す。
高校の頃、学校に行くのが嫌いだったので、図書館で論語を読んだものだ。
授業でも習うが、学校のことは全面的に馬鹿にしていた。実際、学校で習う国語とは実につまらない。どうして名作をあんなにつまらなく感じさせる事ができるのだろうと思う。
そうは言っても、名作を知ったきっかけはやはり授業で教わるからだ。

ーーー

論語は何とも素晴らしいと感じた。
まず漢字がずらずら並んでいてカッコいいし、書き下し文を声に出して読み上げても何だかテキパキしていてカッコイイ。まあ、漢文全般に言えることだろうが。
それにしても、論語はカッコイイ。

実際のところ高校で論語を知るまで、日本の教育では学ぶとは何なのかということを教わらない。
論語はこれに対していきなり教えてくれる。
学ぶとは楽しいことではないか、と。
そして、学んだ結果として、遠くにいる友人にまで自分の話が届き会いに来てくれ話すとは実に楽しいことじゃないか。
だからといって、仮に人に知られるようにならなくたって恨んだり、くさったりしないで学び続ける、そういうのが君子ってものだよ、と。

なんと的確でコンパクトに学ぶとは何なのかを綴っている。

ーーー

まあ、実のところ、論語の内容などほとんど覚えちゃいないのだが。友あり遠方より来たるのフレーズは何故だかよく覚えている。

学校だとか集団というのは今も嫌いだ。人がたくさんいて、もちょもちょしているのが嫌いだし、学びたいために学ぶのじゃなく、みんなが学んでいるから学ぶっていうのがすごく気持ち悪かった。
生きていると何歳になっても大多数の人間は同じでみんなが働いているから働くだけで、働きたいことしたいことのために働くって少ない。

特に近年、人間を眺めているとつまらないような気持ちになることが増えた。人間に対して嫌だと思う気持ちもそうだが、つまらなくなった自分自身を映す鏡のように感じるせいかもしれない。
少なくとも、自分はかつてつまらない人間だと考えていた人間になりつつあるし、それを受け入れつつある。

30歳など若いと言う人もいるが。
はっきり言って30歳はもう全く若くない。
人間、40歳にもなれば明確に体力は落ち始める。
イチローでさえ45歳で引退だ。45歳までスポーツ選手としてプレイできるって本当にすごいことだ。
死ぬのは100歳かもしれないけれど、イチローでさえ45歳で現役終了だ。どうしたって体が衰えてくる。
ましてや、すごいわけでもない一般人の僕なんかは45歳まで体が元気なわけもなかろう。
まあ、プロのスポーツ選手じゃないんだから、体が元気じゃなくたって構わないとも言えるけど、脳みそだって45歳にはもう落ち目だろう。

現実問題として、35歳くらいだと思うのだ。
何歳からでも何でも始められるというのは事実だが、35歳を過ぎてゼロから始めるってのはやはり成長がしにくいのだろう。

50歳ともなれば、もう落ち目も良いところ。
むしろ、老害になり始める人もいる。過去の栄冠にすがりついて、下の人間を馬鹿にする。

もちろん、そうじゃない人もいる。謙虚に生きて、60歳だろうが70歳になろうが、若い人の話を聞いて素直に認めてくれることもあれば、助け船を出してくれること、率直に意見を言ってくれる人もいる。
長く生きて偉いはずの人が、年齢関係なく人間同士としてあくまで対等に、なおかつ年長者としての優しさを持って接してくれる。
そういう立派な人もいる。

ーーー

論語では、
十五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳従う。
七十にして心の欲するところに従って、矩をこえず。
とのことだ。

意味は、五十までは読んでそのまま。
六十にして何を聞いても動じなくなった。
七十にして思うように自由にやっても、道義を違えるようなことがなくなった、といった意味だ。

今よりも平均寿命の短い時代ということも考慮しなくてはいけないのはある。
今は寿命100年の時代だし、定年がない仕事なら60過ぎても現役でバリバリ仕事をする人もいる。

そうはいっても、昔の平均寿命の低さは子供のうちに死んでしまう確率が高かったせいもある。元気な人はやはりある程度までは長生きしたのだろう。

五十にして天命を知るのだ。

ーーー

そう考えていくと三十というのは、もう若くないわけだ。
もちろん、まだ五十まではしばらくある。
しかし、もう何かを始めていないといけない年齢ではあるのだ。

ーーー

最近、結婚をしたのかと聞かれることがある。
籍は入れていない。
入れても良いのだが、入れなくても構わない。どちらにせよ、今の人と死ぬまで過ごすのだろう。

結婚は男の墓場とは言うが、墓場にする人も多いし、そうじゃない人もいるだろう。
自分はどちらなのかと考えるとちょっと分からない。
それでも、墓場になるとしても、それは結婚したからではなく自分の怠慢ゆえに墓場を迎えるだけのことだろう。
一人で生きるのと違い相手を気遣わなければならないのも事実だが、相手が自分を助けてくれるのも事実だ。
助けてもらうことで出来るようになることが増えるか。助けることで自分の出来なくなることの方が増えるか。
一人で生きるのとは違うが、イコール墓場ではなかろう。一人じゃできないことが出来るようになるのだから。

ーーー

まあ、それにしても、友あり遠方より来たる、とは実に的を射たもので。

今の仕事にくたびれはてた今、旧知の友が遠方から来てくれ、手を差し伸べてくれれば良いのにと最近の僕は思う。
そうは言えど、旧知の友の多くも、やはり日々の生活に飲み込まれ、くたびれ、かつての光みたいなものは失われているだろうなどと考えると、故郷には帰りたくないし、旧知の友にも会いたくないような気持ちになってしまう。

北海道の過疎の村の役場の求人を眺める。
それで良いのかね、とも思うが。
遠方より友は来ない。

ドイツの友に会いに行きたい。

そんなこんな。
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2019年03月11日

五月一日に日本人は日の丸の旗を掲げるのだろうか?

もうじき平成が終わるらしいが、果たして新しい天皇陛下が即位される五月一日に日本人は家の前に日の丸の旗を掲げるのだろうか?
ふとそんな事が気になった。

かくいう僕はそもそもに日の丸の国旗を持っていないので、掲げようもない。
買うべきだろうかと思うのだが、国旗って何屋で売っているのだろう。白い布に赤い丸を書けば良い気もするが、白い旗なんかどこで売ってるのやら。何で日の丸を染めれば良いのやら。
まあ、Amazonで売ってるのだろうが。

普通の祝日にまで国旗を掲揚すべきとは思わないが、やはり元号が変わり天皇陛下が変わる日くらいは国旗は掲げるべきじゃなかろうか。
とは、思うものの、今のご時世、祝日に国旗を掲げている家ってまったく見なくなったし、うちだけ国旗を掲げるのも妙な気はする。

何だかその時点で妙な話ではある。
日本なんだから、天皇陛下の代替わりに国旗を掲げて敬意を表するのが少数派で、気まずさみたいなものを感じるなんて。
まあ、妙な話である。
ここは日本であり、日の丸は国旗である。

何だか昔は運動会なんかでも国歌って流れていたし、国旗掲揚ってあった気はするのだが、随分と長いこと国歌を聞かない。

南米を自転車で走っていた頃はやたらと君が代を歌っていた。暇があれば君が代を歌っていた。
アフリカの時は歌わなかった。
アフリカの時は2回目の旅行なので少々旅慣れていたから怖さも減ったということもあろうし、アフリカって割とどこでも人がいたので大声で何か歌うわけにもいかなかった。
南米はもう正に明日死ぬかもしれないって割と毎日思った。実際パタゴニアって無人地域を三日間かけて野宿しながら移動するのが普通だったから、なんかもう毎日が大冒険だった。
そういう意味ではやっぱりパタゴニアが一番楽しかった。

孤独になって君が代を歌う。
そんなの僕くらいのもので、他の人はそうじゃないのかもしれないが。
それでも、異国で一人きりになったとき、祖国を想ったものだ。
パタゴニアの暴風の荒野の中で君が代を歌うと、何とも美しいメロディーだと感じた。

最近の僕は割と孤独している。
一緒に暮らす人は出来たが、職場で友人と言えるほどの人はいない。別の店舗にはいるけれど。
人間関係ゼロってことはないが、今月末引越しをするのに、冷蔵庫を運ぶのを手伝ってもらう友人がいなくて困っている。引越し屋も三月末の引越しなんて、もう間に合わない。家具は少ないので問題はないのだが、少し難儀ではある。

パタゴニアの孤独は割と心地良いものだった。
死にたくはないけれど、何というか潔さみたあなものがあった。テントで眠る時、「ピューマが出て食い殺されませんように」なんて考えた。
高緯度なので夜は短かった。
暴風の中を延々と自転車をこぐ。
本当にそれ以外ない。街も人もいない。一時間に一台車が通るかどうか。ただ前に進み、疲れたら水を飲み、ビスケットなんかをかじった。
死にたくはないけれど、死んだって悔いがないような綺麗な孤独だった。
それで僕は日の丸を歌っていた。

今の孤独ははっきり言って随分と不快だ。
人間は腐るほど周りにいる。
しかし、僕は徹底的に孤独だ。
仮に明日重い病気になったら、妻以外で助けてくれる人は誰かいるだろうか。
気付いていないだけでいるのだろうか。
こんなに言葉も通じる、同じ国の人間が周りにいるはずなのに。

母国にいて、母国が遠い。
帰るべき、帰属すべき集団を感じられない、分からない。
日本最高とかっていうナショナリズム的な話じゃなく、単純に人間、生きている限り何かの集団に帰属しないとやっていけないし、日本、国歌ってのはやはり帰属すべき器であるべきだと思うのだ。
家族、血縁については故郷を離れるとやはり遠い。いずれ帰るべき場所かもしれないが、当面予定もない。何より故郷が姿を変えていくのが、どうも最近忍びない。故郷の町や景色もそうだが、友人、知人、すべてのものが変わってしまう。もちろん、自分も変わっているだろうから、変わってしまったものに対して文句など言えるわけもないし、不満などもない。ただ、変わってしまうと、僕の胸の中にある故郷、僕はどこに帰るべきなのだろうと思うのだ。

天皇陛下は毎日国民のためにお祈りをしてくれているそうな。
実は世界でも一番偉いらしい。神話の時代からの正当な血族って、世界で天皇陛下くらいらしい。
そんなに偉いのに我々国民のために毎日お祈りをしてくれている。
まあ、それが生まれついての仕事だからということもあるにせよ、それでも毎日、国民の安寧を願って生きている。
天皇陛下は日本のシンボルであり、政治的な実務はしないとはいえど、やはり天皇陛下は日本なのだ。

まあ、天皇陛下を敬愛しましょう、国旗を掲げましょうとは言わないし、実際、僕も国旗を買うかも未定ではあるのだが。
五月一日が何事もなくやってきて何事もなく過ぎてしまうってのは、歴史に対する敬意がないような気はする。

ま、そんなこんな。


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2019年02月20日

残りの人生と飛べない鳥のこと。

あくまで単なる順序の問題だと考えていた。
二十代でふらふらと山にこもり、自転車で異国を旅した。
そのことを人に誉められたり、すごいと言ってもらえることもあったが、言うなればそれは前借りで、知人には定年してから異国を自転車で旅する人もいる。
私の両親も定年を迎え、登山や旅行など娯楽を始めた。
先に苦労したからこそ、老後の貯蓄もあり余裕もある。
だから、自分の経験とは単なる順番の問題なのだ、と。

最近、残りの人生を考える。
ーー次はいつ旅に行くんだい?
私を知る人は聞く。
次に行くとしたら今度こそペンギンを見たい。
南米もアフリカもずいぶん南に行ったのにペンギンを見ることがなかった。ペンギンの生息地の近くも通り過ぎたのだが、過ぎてからペンギンがいることを知った。
そんなにペンギンが好きなのかと問われると、まあ、それなりには好きだ。ペンギンの小説も書いたことがある。
すこぶる好きかと問われると、それほどのものでもないとは思うが、動物園でも水族館でも必ずペンギンは見る。そうは言っても大抵の人がペンギンは必ず見るだろう。ゾウ、ライオン、キリン、ペンギンだろう。
そう考えればペンギンは大したものだ。ゾウ、ライオン、キリンと体が大きい。飼育費も随分かかる。ペンギンは小さい。たくさん魚は食べるので飼育費はそれなりにかかるらしいが。

残りの人生を考える話からどんどん脱線するが。
飛べない鳥と言えば、ペンギンだけじゃない。
ニワトリもこれまた実に立派な鳥だ。とにかく食べられる。美味い。安い。なんと残酷な話だろうとも思う。
ニワトリの祖先は東南アジアなんかに住むセキショクヤケイという鳥だそうだ。元々そんなに飛ばない鳥だったようだが、猫と同様人間に飼われることで種の保存を選択したのが現在のニワトリだそうな。

余談ついでに最近知ったのが、私がパタゴニアで見た鳥、やたらと速く走る大きな鳥はダチョウではなくパタゴニアに住む絶滅危惧種のダーウィンレアという鳥だったようだ。
少し離れたところを並走するように走ってきたのだがとにかく速くて大きかった。

飛ばない鳥というのは非常に素敵だ。

ーーー

さて、動物の肉というとアフリカだ。
アフリカの牛肉は実にまずい。品種改良されていない野生種に近いし、育て方もしっかり歩かせる。それで筋肉質で美味くないのだ。
まずいなどと言うと命に対して不敬ではあるが。少なくとも我々人間が食して美味いのは、やはり品種改良を重ねて牛小屋で育てられた牛の肉だ。
しかし、面白いのはアルゼンチンの肉は美味いということだ。アルゼンチンの牛も基本的に放牧なので固い。僕ら日本人が初めて食うと安い肉のように感じる。
しかし、アルゼンチンの肉はステーキで食べると非常に美味しい。日本人は霜降りが好きなので最初好みに合わないが、慣れてくると肉を噛む美味さがある。塩コショウをすりこんでやって波の付いたフライパンで焼くと実に美味い。

食とは理解だ。
大抵のものが最初は不味いと感じる。
例えば魚だろう。私は今も魚が得意ではないが、以前と比べると美味いと感じることが増えた。どうにも魚臭さというのがダメなのだ。それでも、食べている内に美味さというのをいくらかは理解してくる。海に近い町に行って新鮮なものを食うと臭くない。生の魚とは美味いものなんだなと、日本人のくせに大人になってから理解してきた次第である。
アルゼンチンの肉もそうで、初めは歯が折れるかと思ったものだが、食っていると良さが分かってくるのだ。
山の食べられる草にしてもそうだ。アザミの天ぷらなど、最初はただの草を食っているような感じなのだが、次第に美味く感じてくる。

ただ、アフリカの牛肉は最後まで美味いと思えなかった。
アフリカ、特にマサイ族にとっては牛は非常に大事なものだ。今でこそお金の方が大事かもしれないが、牛こそ彼らにとって最も大事なものだったらしいし、今も牛を大事にしている。アフリカを走っていると、マサイの子供が牛を連れて歩いていたりする。棒切れを持って牛の群の後を歩く。マサイ族の牛の扱い方は何も知らない我々が見ても非常に上手く、牛たちは従順にマサイの子供の思うように歩く。少し進んでマサイじゃない土地に行くと牛はよくはぐれそうになり、牛追いの人はよく牛をたたく。マサイが牛を叩いている姿は私は目にしなかった。それでもマサイの牛はとても従順に動くのだ。
でも、肉は美味くない。
牛肉はスワヒリ語でニャマと言う。米はワリ。アンドはナ。だから、牛肉と米を食いたければ、ニャマ、ナ、ワリと言えば通じる。
それにしても、ニャマは実に美味くなかった。
とにかく固い。味もしない。彼らの料理の仕方、大抵のものは油で素揚げというスタイルのせいもあろうが、固いばかりで味がしない。

ニャマに対してクク、ニワトリはそこまで不味くなかった。
日本で食べるニワトリよりはいくらか固いし、旨味もどこか素っ気ないのだが、それでもニャマと牛肉ほどの違いはなかった。
ニャマは美味くない。少なくとも日本人の味覚からすると。

しかし、牛たちは非常に大事にされていた。

美味い不味いの話で、バックパッカーたちの間であるのが、文明が発展している国は飯が美味いというものがあった。ただし、イギリスを除くとのことだ。イギリスは美味しくないのに発展している珍しい国だそうな。
まあ、笑い話、冗談程度の話なのだが、たしかにいくらか的を射ている。

それでも、アフリカの肉っていうのは命なのだろうなと私は思うのだ。
命をつなぐために命を食う。
美味い不味いではなく、命を繋いでくれる牛たちへの感謝、尊敬。

倫理的に考えるとアフリカの牛への扱いは日本より遥かに正しい。
正か悪かで論理を展開するのは危険ではあるが。
それでも、食べるために小屋に閉じ込め、近隣住民も匂いがするからといって近くに住みたがらない。はっきり言って日本人は食への命への尊敬に欠けている。米一粒に感謝する人は今の日本にはかなり少なくなりつつある。
それに対して強く逞しい牛を育てるために、一緒に一日中人が歩いているアフリカっていうのは命に対して非常に倫理が高いと私は思うのだ。

ーーほかに仕事がないからだろう。
まあ、それも間違ってはいない。
しかし、我々の命をつないでくれる命への尊敬というのは、やはり大事だろう。
日本人は高齢者の問題に直面しているのもあるが、人に長く生きて欲しいと願わなくなりつつある。もちろん、元気に長生きして欲しいが、元気じゃない長生きも、若い人を邪魔するような長生きもどうかと思う。
命は生きるべきだけ生きて、死すべき時に死ぬべきだろう。
誰しも死にたくはないが、キリストもブッダも死んだのだ。
キリストとブッダが偉いのは、死すべき時に死んだということも大きいように思う。
二人とも生きている間でも、それなりに偉くはなったが、死後の現在尊敬されているほど偉くなる前に死んでいる。もちろん、偉かったのだが。
人間、偉くなって怖いのは傲慢になることだ。

あくまで私の考えだが。
人間、それぞれに偉くなれる範囲が決まっている。
それを越すと偉そうに振る舞うようになる。
だから、ある程度の歳になると偉そうになる。
それ以上偉くなれなくなっても、人間ってのは向上心がある。だから、実は伴わなくても、偉くなりたいもんだから、態度ばかり偉くなってしまう。
実際、上限まで偉くなっているのだから偉いのではあるが。
それでも、自分はもう偉くなれないと悟るのは大事なのだ。
ブッダは布教の旅の最後に沙羅双樹の間に最期の寝床を弟子に頼んでいる。
私の考えではあるが、ブッダほどの人となれば、80歳程度で死なずにもっと長生きする方法も知っていただろうと思う。
何せ科学が進んだと言えど、現代では普通の人でも100歳近くまで生きるようになっている。ブッダほどの超越した人であれば、ただ生きるだけならばいくらでも生きられたんじゃなかろうかと思うのだ。
しかし、ブッダは弟子に言って北枕で永眠する。

キリストは弟子の裏切りを知っていながら死ぬ。ブッダよりもキリストの方がその気になればまだまだ長生き出来た。裏切りを知っていたし、知っていてあえて死ぬわけだ。

キリストとブッダも生きるだけ生きて、死すべき時に死んだのだろうと私は思うのだ。
二人とも半分神様、空想上の人かもしれない。
神様として、永遠に生きることも出来ただろう存在だ。
しかし、死んでいる。

ーーー

はて、残りの人生に関してだ。

30歳では正直残りの人生も見えない。
体力についても、私の場合、トレーニングもしているからか、かげりも見えない。
いくらか二日酔いが残るのが増えたくらいか。

しかし、以前は無限だと感じた伸び代に有限を感じる。別段、まだ限界が見えはしない。まだまだいくらでもやれるようにも思うが、しかし、限度がいずれ来るのだろうという感覚はある。
単純に有限だと理解しただけのことだ。

有限を感じると誰かに引っ張ってもらって生きることに疑問を感じる。
自分で何事かを出来る自信はない。
しかし、自信はなくとも、人生の引き算を考えるとそろそろ何事かを自分でやり始めないといけないのではないかと感じるのだ。

ま、そんなこんな。


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2019年02月11日

貧すりゃ鈍。

お金について考えることがあった。
最近、安定した仕事に就けだの何だの言われることがあったからだ。
確かにもうじき31歳になるし、転職するとしたらラストチャンスではある。

これまでも僕は事ある毎にお金について考えてきた。
貧すりゃ鈍する。貧乏になると日々お金のことばかり考えなくちゃいけなくて思考まで鈍って来ますよ、なんて言葉だが、まあ、この言葉は的を射てはいる。

昨今の日本の悲しみとは、貧乏なことがイコール悲しいこと、悪いことなんて考えが当たり前になっていることだ。
成功者にはお金が手に入る。
社会で価値ある人にはお金が手に入る。
そういうのが当たり前になっている。

とにかく危険なのは即イコールでつなぐことだ。
確かに資本主義の理想としては、社会的に価値ある人にお金が入る、というのはある。
ただ、現実問題としてはそれは違う。
非常に危険なのが、価値のある人=成功者=価値ある人っていう即イコールだ。
現実にはそのイコールが成立することもあるけど、しないことも多いのが本来なのだ。
しかし、即イコールの世界ではお金がない人は成功者ではなく、社会的に価値があるわけではない、人類に貢献しているわけではないというヘンテコなことになる。

このイコール問題が顕著なのは芸術だとかそっちの方面で、例えば太宰治もチャーリーパーカーも少なくともお金持ちではなかった。
まあ、お酒や麻薬に溶かしてしまったからというのもあるだろうが。
ただ、彼らは価値がなかったかといえば、絶対にそういうことはありえない。

経済なんかでもユニクロは大成功を収めて巨大な企業でお金持ちだが、ユニクロがやったのは自分たちだけ儲かれば良いという価格破壊で、人々は服を大事に長く着なくなり、労働者は安い賃金でたくさんの服を作らなければいけなくなった。

今、流行りつつあるPayPayも便利なようだが、お金ってのは国が出来るだけ全員に公平になるよう管理しないといけないのに、営利企業がお金の代わりになるものを作って管理してしまうっていうのは非常に危険なことなのだ。
仮にPayPayがスマホ決済を独占したら、PayPayの都合の良いようにお金を自由に発行できるようになってしまうし、決済手数料という名目にはなっているが、その実、消費税と変わらず、それをPayPayが自由に吸い上げることが出来てしまう。
もっと平たく言ってしまえば、勝手に日本国内で日本円以外のお金を印刷して流通させたら犯罪だが、お金と同じ機能を持つものを紙じゃなくデジタルでやるのは犯罪にならないということだ。
後の利益を考えると100億円還元キャンペーンなど安いものなのだ。
セキュリティの危険とかではなく、営利企業が手を出してはいけない領域であり、ほとんどの人がそのことを気付いていない、はたまた気付いていてもどうにもお金に勝てなくて使ってしまう。
かくいう僕もPayPayを使う。やはり便利ではあるし、集客も出来る。
最近の僕の悩みの一つではある。モラルに反することに加担して日銭を稼いでいるってことはある。

ーーー

じゃあ、お金を稼ぐのは悪いことかと言えば、当然そういうわけでもない。

ただ、お金がないのは悪いこと、お金があるのは良いことってのはおかしいというだけのことだ。
だから、その逆、お金があるのは悪いことで、お金がないのは良いことってのもおかしい。

これも、イコール理論で考えるとマイナスの反対はプラスということになってしまう。

基本的に絶対的に良い悪いということはない。
お金を持っていても良い人はいるし、悪い人もいる。その逆も然り。
当然のことのようだが、イコール理論では良いの反対は悪い、だから良くないものは悪いになってしまう。

ーーー

先日、退職金のある仕事をした方が良いという話をされたのと対照的に、世界はおかしい、お金にばかり走っているという話を別のところでされた。
別にそちらは押し付けではなかったし、むしろ、僕の考えと近いものはあったのだが。

ただ、聞いていて、ぼんやりと違和感みたいなものを感じた。

ーーー

僕としては稼ぎたいだけ稼げば良いと思うのだ。
他人の生き方、働き方に文句を付けるな、と。

そう言いつつ、ぼくも文句を付けるのだが。

まあ、PayPayもユニクロもモラル違反だとは思うし、あまり良いことではないと僕は思うけれど、そういうのが良いって人々も世の中いる。

ただ、やはり楽して金を稼ごうとかってのは良くないと思うわけだ。
地面からお金ははえてこない。
せめて裏山に拾いに行くくらいの労力はないとおかしいわけだ。

昨今、ふるさと納税なんかもそうだが、平気で偉い人が楽して得しましょうみたいなことをする。

別に楽したって良いのだが、基本的にお金はにょきにょき生えてこない。
何せ、お金を払えば誰かを働かせることが出来るわけだ。
にょきにょき生えて来たら、今度は自分も地面から生えて来たタダのお金で働かされることになる。

何もしなくてもお金が手にはいるとかってのは変なことだし、それをおかしいと感じないのは危ないし、偉い人が率先してそういうことをするってのはヤバイってやつなのだ。

ーーー

そうは言うのだが、敬愛する小説家の先生はFXで稼いでいたりする。
モラル云々の話で言えば株だのFXだので金を稼ぐってのは一番よろしくない。しかし、僕はこの先生は非常に好きだ。
この先生くらいになると爽やかなもので、働かなくて良いなら働きたくないと断言する。何で飯を食っているのかは定かではない。先日は渋谷だかどこだかでUFOの講演会だかをしていたらしい。それは金のための活動ではないらしい。漫画の原作をやってるとかしてないとか。とりあえずは小説家の先生なのだが小説での収入で食っていないのだけは間違いない。
ちなみに小説は良い小説を書く。まあ、当たり前なのだが、だって小説家の先生だもの。
家は実に質素なアパートに住んでいる。
酒を飲んでギターを弾いて。
ちょっとした仙人、随分俗っぽい仙人だが、何というか超越して爽やかである。爽やかさのかけらもないのだが。

ーーー

お金の話って多数派、少数派というだけのことで、多数派が圧倒的に多くなると暴力的になってしまうだけのことなのだ。
今ならお金派が多いから、お金がないことは悪い、退職金をもらえて福利厚生の良い仕事をするのが良いことなのだ、なんてのが世界の常識になっている。

僕からすれば、安定した仕事、給料の良い仕事なんてのは危険な香りしかしない。
人間、時間ってのは平等だ。そりゃ、早く死ぬ人も長く生きる人もいる。それもまた平等にランダムだ。不公平ってのは公平なことでもある。作為が働かずランダムであるっていうのはある意味で平等なのだ。
たくさんお金を稼ぐ人はたくさん時間働いているか、何かのスキルを得るために時間をかけている。そのどちらでもなければ、モラルに反することをしていたり、リスクを背負ってきているかだ。
頭がなけりゃ体を使え、体も弱ければ時間を使え、ってやつだ。何かしら使っているのだ。
産まれながらに体が二つあったり、脳みそが四つあったり、超能力が使えるとかすれば話は別かもしれないが。
基本的には何かを差し出してお金ってのは入るのだ。

昔の友人に高収入な人が多いが、まあ、大変そうではある。
中にはそんなに大変そうでもなくて収入も良くて福利厚生も良い人もいるが、まあ、それはそれだ。
逆にえらく大変そうなのに収入も福利厚生もよろしくない人もいるが、まあ、それはそれだ。

一つ言えるのは、会った時に、
「あ、やっぱりこいつの方が稼ぎが多いから幸せそうだな」
なんてことは全く感じない。
当たり前だが、幸福さと収入、福利厚生ってのはそんなに関係ないのだ。

これがアフリカとかなら、いくらかは思うのかもしれない。何せ貧乏と言ったら実に貧乏、字の通り食うに困る。しかし、アフリカのすごいところは貧乏が悪いわけではない。
まあ、アフリカと一括りにして話すのも良くないが。イメージとしてはタンザニア、マラウィ辺りだ。ザンビア辺りからはお金持ちが発生しだして、貧乏は良くないことみたいな空気がどこかにある。
村丸ごと貧乏ってのは救いがないようでいて、しかし、貧乏というのも普通のことであって別に悪ではない。

一度村で頭のパーの人がいた。
道路脇の村で、僕は言葉が分からないので最初分からなかったのだが、次第に周りが笑っているのと、彼の仕草を見ていると、なるほど、彼はパーなのだと分かった。
憐みではなく、人々は笑っているのだ。
言うなれば、パーのおっさんが旅人に絡んでるぞ、みたいな具合で。
そういうのって、日本だと小学校の道徳の教科書では絶対にしてはいけません、ということになっている。
しかし、現実に体験すると明るいのだ。
みんなパーのおっさんを馬鹿にしてはいるのだが、憐みはない。むしろ親しみみたいなものがある。
臭いものにフタをするじゃないが、タブー、かわいそう、触れてはいけないみたいなことをする方がよほど人間として良くないことで、素直に「パーのおっさん、相変わらずアホだねー」なんて笑いながら、それでもおっさんも村の一員なのだろう。

人間、ある程度の数がいれば、生まれつき頭がパーの人もいるし、育っていく途中で頭を打ち付けてパーになる人もいる。
でも、そういうのって仕方ないのだ。
アフリカの場合、大人になるまでに死んでしまう子どもも多いし、大人もふとしたことで死ぬ。祝日が危険らしく、お祭り騒ぎになるとついついアッサリ人が死んだりしてしまうことが珍しくないと言っていた。酔っ払ってトラックの荷台から落っこちるとか。
今生きていることを謳歌しているようなところがある。
なので人々は非常に力強いし、生命力に溢れていて、明るい。土と太陽の間に生きている。

生きているだけで人間ハッピー。
まあ、アフリカだって実際にはそれが全てではないのだろうが。アフリカ人でもアディーチェの小説のような苦悩はある。当たり前だが同じ人間なので。
ただ、アディーチェみたいに国際的に活躍している人は欧米に住む経験があるのも事実だが。

ーーー

あれこれと話はブレるが。

何だかんだで強いのはお金が少なくても幸せを感じる方法を知っている人間だ。
お金がないと幸せになれないと思っている人は大変だ。たくそんお金を稼ぐには疲れる。ほどよく働いても疲れるは疲れるが、そりゃ適度な疲れだ。

服を一つ買うにしたって、今年の新作、トレンド、あのブランドが良いと振り回されて、毎年、毎月高い服を買わないと満足出来ない人は大変だ。

昔から着続けているボロボロの服を着ていたって、どこか風流でスタイルがあってかっこいい。
そういう方が素敵だし、生きていて楽だ。

貧すりゃ鈍するとは言うが、いくらか貧乏していても頭の中がお金のことばかり考えなくても幸福に満たされていれば鈍さない。

逆にお金があってもお金のことばかり考えていないといけない人は鈍する。
いくらお金があってもお腹が出てしまって、健康を害しているのでは、何の意味もないのに、その事に気付かずいつもお金のことばかり考えている。
生きる事に対して頭が鈍してしまっている。

まあ、そうは言うけれど僕もお金は欲しいのだ。
今のところ何も困ってはいないけれど。

何十年も先の老後のお金のことなんか考えて、今の頭が鈍していたら、そりゃ馬鹿ではある。
ただ、今だけじゃなくいくらか先まで鈍することがないよう、やはり先々のお金の工面もいくらかは必要ではある。

ま、そんなこんな。


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2019年02月09日

祖母に三年ぶりに会ったら涙が出てしまった。

祖母に三年ぶりに会ったら涙が出てしまった。
少しボケているとは聞いていた。
しかし、現実はどうにも悲しかった。

祖母の状態は悪くない。
90歳だが自分で歩ける。
ボケているとはいえど、数年ぶりに見る僕のことを僕と分かってくれていた。

ただ、老人ホームの中で見つけた祖母は迷子になってしまっていた。
広い老人ホームではない。
どこかに行こうとしていたらしいのだが、道に迷ってしまい分からなくて困っていたと言っていた。
ボケてしまっているのだ。

人間90にもなればボケる。
それは頭の中では分かる。
壁に向かってクソを投げる人もいる。ひどく敵対的になる人もいる。
そういうことは知っている。
しかし、祖母が小さな老人ホームの中で迷子になったと言っている現実っていうのはひどくショックだった。

仕方がないのだ。
むしろ、歳を考えれば軽い方なのだ。迷子になっていると思い込んでいたり、僕のことをだれの子どもたったかな、と言ったり。母は一人っ子なので母の子ども以外ないのだが。
それでも、名前と顔が分かってくれたのは嬉しかった。
そう考えると祖母のボケは軽度のものだろう。

しかし、祖母はひどく残酷な生き延び方をしてしまっているように思えた。
祖父が死んでから、早く迎えに来て欲しいと言っていた。馬鹿なことを言うもんじゃないよ、元気に長生きしてよ、なんて言っていた。
ただ、今日の祖母を見ると、おじいちゃん、早く迎えに来てあげて下さいと思ってしまった。
今のうちに。

その年齢で三年も会わなければそういうことになるってのは普通なのだろうとは分かる。

ただ、祖母には悲しみがなかった。
早くおじいさんに迎えに来て欲しいとも言わなかった。
ただ、生きるって難しいねと言っていた。

神よ、なぜ一生懸命生きてきた人の最後にこんなひどいことをするのだ、と。
なんと酷い仕打ちをするのだ、と。

ーーー

それからエルグレコの受胎告知を眺めに行った。
大原美術館は遠くない。千三百円で入れる。
大原美術館は実家から歩いて十分のところにあり、学生時代は全館ゼロ円で入れたのでよく行った。
この美術館、非常に美しいのだ。
日本で最も美しい美術館はどこなんだか知らないが、少なくとも上野の国立西洋美術館よりは美しいと思う。国立西洋美術館も素敵な建物だし、世界遺産にも登録されているが、大原美術館の方が美しいと感じる人の方が多いと思う。
中庭の日本庭園には誰でも無料で入れて、そこで煙草を吸うと非常に美味いのだ。
収蔵作品も素晴らしい。ピカソも何枚かある。モネの睡蓮もある。あとは忘れた。でも、有名な画家の絵が何枚もある。収蔵点数自体は国立西洋美術館ほどではないが、どの絵もかなり知名度があり見応えがある。
美術館に詳しいわけじゃないが、いくつか美術館には行ったが、大原美術館みたいな絵のチョイス、有名作品がこんなに多い地方美術館ってほとんどないと思う。

受胎告知は大原美術館に何度か行っている人なら知っている。
何せ大原美術館の中で最も高額な絵だからだ。最も大切に展示されている。
大原美術館とは大原さんが自腹で作った美術館なので、基本的には全て同時ヨーロッパに直接買い付けに行っている。児島虎次郎さんという画家さんに買いに行かせたらしいのだが。
多分、普通の美術館では絵の値段って言わないし、国の所蔵のものが多いので買う買わないではなかろう。その辺は大原美術館っていうのは少し変わっている。

日本国内にエルグレコの絵があるのは、国立西洋美術館と大原美術館の二枚だけだそうだ。日本国内にエルグレコの受胎告知が存在しているのは奇跡だとも言われているそうな。

まあ、そんなわけで、倉敷の人でちょっと美術館に行く人と言えばエルグレコの受胎告知は有名なのだ。

受胎告知は聖母マリアの元に天使が降りてきて、キリストが産まれるよ、ってことを伝えに来ているワンシーンだ。

ーーー

実際には行っている時にはエルグレコを目当てに行ったわけではないのだ。
単純に大原美術館を散歩したかったのだ。

まあ、建物が良い。
祖母のことで混乱した心を落ち着けたかった。
だが、そういう心境で絵など見ると心がささくれて大変だろうとは分かってはいたのだが。

ーーー

一時間ばかりエルグレコを眺めていた。

どうして神は祖母にあんな酷い仕打ちをするのだろう。
人間はなぜ生まれてくるのだろう。
生きるってこと自体は残酷ではないが、人間生きている限りは生きねばならぬ。
生きねばならないから生きているとなるのは、ひどく残酷だと思うのだ。

それから裏の神社に登ると藤の木が枯れかけていた。
延々と高校をサボり続けて通い詰めた神社だ。境内の裏にある藤はとても立派だった。しかし、裏なので人はほとんど来ない。
たった10年ほどで随分と元気をなくし、枯れかけていた。
祖母の三年はどこか納得もある。
しかし、藤がたったの10年ほどでこんなに元気がなくなるとは思いもよらなかった。


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2019年02月07日

アフリカ2

ユーフォーの話から始めるとしよう。

僕がアフリカに着くときに考えたのは、やべーな、今度ばかりは死ぬかもなー、ってことだった。
窓の下に広がるのは冗談抜きで動物奇想天外って番組でやってたサバンナだもの。
すごいよ。
テレビって本当に。
そのまま動物奇想天外。
所ジョージとか黒柳徹子とか出てた。
この木何の木木になる木って。
そりゃ、上からじゃライオンなんか見えない。
でも、まあ、こりゃ人間の住むところじゃないってね。
集落を探すけど分からない。
ぽつぽつと生えた草原と木。
へー、世界にもまだこんなところってあるんだなって。
自転車で走るつもりがない人なら、呑気に眺めるんだろう。
でも、僕はそこを自転車で走るんだ。
ちょっとじゃなくて全部ね。

ちょっと骨が折れるなじゃなくて。
今回ばかりは死んでしまうかもなって。

いろんな冒険家が世界にはいるけど。
誰しも今回はやばいなって思うんじゃないかな。
絶対安全なところなんて言ったって冒険家にとっては退屈しのぎか、スポンサー集めだ。

僕の眺めたアフリカって、本当に動物奇想天外だった。
冗談みたいなアフリカ。
本物のアフリカ。

いや、アフリカって本当はもう少し都市なんだろ。バックパッカーなんかでも歩いてるんだし。

少なくとも、きっとそのサバンナを歩くバックパッカーなんていないだろう。

ああ、冗談みたいな本物のアフリカ。
絶望。

それが僕のファーストアフリカだった。


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アフリカ1

その頃の僕にとって世界はどうだったのか。

それってずっと続く疑問だ。
NATOのユーゴスラビア爆撃。
それはきつと小学生の頃で、悪い国にアメリカが爆弾を落としている、そんな感じだった。

結果としては爆弾を落とされる国ってのは悪い国なのかな。
そんな風に考えたけど。

本当の良し悪しなんて僕に分かるわけもなく。

また、僕は出かけることにした。
アフリカ。


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2019年01月20日

飯を作るとレシピを見ろと言われる。

飯を作るとレシピを見ろと言われる。
美味けりゃ何でも良いんじゃないかと思うが、美味いものより不味くて良いからインターネット上で評判の良いものを食べたいのだと言う。

書き物をしてると不思議に思うのが、生身の人間より文の情報を人間って信じる。
何ともヘンテコな話だなと思うのだが、ペンは剣よりも強し、という言葉もある。

元々は暴力で圧するより、言葉の方が人間は納得して自発的に動く、つまりは北風と太陽というような意味だ。
しかし、今はすっかり逆転してしまっている。
ペンの方が遥かに暴力になりつつある。

ここ数年、調べ物をするのにインターネットというのは昔より役に立たなくなったと感じることが多い。
広告収入、まあ、私もそれでいくらか収入を得ているのも事実なので全否定もできない立場なのだが、検索キーワードに引っかかるように文を作れば、検索の上位に出てしまう。
その方法というのが実にチープなもので、
・更新頻度
・写真の有無
・キーワードの現れる頻度
・ロボットじゃなく人間の手書きによるもの
なんて辺りで、情報のディープさ、詳しさというのは関係ないのだ。

だから、そのルールに則ったページばかり出て来て、肝心の欲しい情報にいつまでも行きあたらない。

昔は広告収入とかって基本的になかったので、好きな人が好きな情報を作る。調べる人は気に入れば直接にその製作者に連絡を取って感謝を伝えた。
お金って基本的に入らなかった。
それでも、自分の好きなことを文や写真にして発信して、それを感謝してくれる人がいて。
純粋に好きな人が好きなことを発信して、好きな人が調べて読んだ。

はっきり言って、インターネットは死んでいる。
インターネットほど秀逸なメディアはなかなかない。
しかし、一口に言えば愚民がインターネットを殺してしまった。
コーヒーの入れ方一つにしても、調べてみたって大手企業のマジョリティ向けの宣伝や、キーワードだけたくさん散りばめたウィキペディアを書き換えただけのようなページにしか当たらない。

図書館にしてもそうだ。
情報を求めて行っても、入門書ばかりが書棚に並ぶ。
図書館にいる人だって、本当の本好きもいくらからいるけれど、何となく図書館に休日行くのがオシャレみたいな人々が増えた。

ーーー

すこぶる悪い言い方をするのだが。
生計に関すること以外のことって、余裕のある人の特権なのだと思う。
お金持ちの特権とかじゃない。
人生、等しく時間ってのはある。
それを何に割り振るかってのが人生だ。
何でもかしこでも知ってて素敵なんてわけにはいかないし、それを出来るのはそれこそ貴族であるべきなのだ。
庶民は時間が限られていてしかるべきなのだ。

一つのことをするって時間もかかるし、お金もかかる。
それが本来なのだ。

でも、どの業界もそうだけど、マニアじゃなくてビギナーを取り込もうとする。
そうしないと儲からない。
ノースフェースみたいなものだ。
本当の登山好きじゃなくて、タウンユースでも着たくなる服を作るメーカーが人気が出る。
人気のないメーカーはマニアにはうけたって、結局資金繰りが詰まって、何年かすると消えてしまったりする。

お金の上に立って生きていて良いことってあまりない気がする。
それでも、人間お金の上に立って生きている。
ずいぶん時間をかけた結果、お金の上に立つことに決めている。

ヘンテコな話だ。
ほんの数年でインターネットが死んでしまったりするなんて。

ま、そんなこんな。


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2019年01月06日

時々、ケータイのゲームにハマることがある。

時々、ケータイのゲームにハマることがある。
元はペンキ塗りのアルバイトをしていた頃だ。
なぜかドカタの人たちってケータイゲームが好きだ。お金もかからないし休憩時間にぼんやりとタバコを吸いながらやるのにちょうど良いのだろう。話題にもなる。
ハイエースの中をタバコの煙で充満させながら協力プレイが何とかと話をする。
それぞれ一人親方でやってたり別の親方のところで働いているのを忙しさで人を貸し借りするのだが、共通の話題としてゲームがあるっていうのは良いのだ。
どうでも良い会話というのは大事で、サバサバしていると、誰それの現場の時は誰それがやる気がないとか、どこそこの親方の仕事の取り方がえぐいだのと、まあ仕事、日々の生活のかかった金を稼ぐための営みをしているとあれこれ揉め事が起きたりすることもあるらしいのだが、どっちでも良い時間潰しのようなゲームで協力プレイをしてたりすると、
「え、そのキャラどうやって取ったん?」
「今日何時からイベントだっけ?」
だの、まあ、実にどうでも良い会話で和気あいあいして良いのだ。
まあ、何かと程よいのだ。

そんなわけで僕もゲームを始めると、
「ふくちゃん、最初はこのキャラからやっていけばええんよ!オレをフレンド申請しとけば序盤は楽勝よ!」
なんて具合で優しく教えてくれたりする。
基本的に優しくて兄貴肌な人が多かったというのもあるかもしれない。
実際、僕はパチンコもやらないし、ナンパもしない、キャバクラも行かないし、若い頃にケンカもしなかったし、良い車も持っていないから、ペンキ屋さんでの話題ってゲームがあるとすごく助かった。

ペンキ屋を卒業しても、まあ、卒業といっても何も覚えていないのだが、基本的に塗料の缶を運んだり、塗料をまぜたり、簡単な下塗りだけやったりくらいだったのだが、何にせよペンキ屋をしなくなっても、僕はケータイのゲームを時々するようになった。
別に大して面白いわけでもないし、生産的でもない。
ただ、何となく心の癒しがあるのだ。
特に頭を使わずぼんやりとスマホをいじる。
そんなことが心の癒しになるのは不思議なことのようにも思うが、何にも頭を使わずぼんやりと時間を過ごせることって癒しになるのだ。

スマホのゲームなどしなくても、ぼんやり空を眺めれば良い気もする。
案外、これが出来ない。
旅の日々の中では簡単だったのだが、普通の日々だとアレコレ考え事があったりする。
何もせずぼんやり過ごす時間って案外難しい。

友人でスマホゲームの達人が二人ほどいるのだが、一人は世界ランクでも上位に行ったりする。課金なしでそのくらいは行けるとのことだが、確かにいつでもゲームをしている。
ちなみに彼も仕事がなかった頃はドカタをしていた。
もう一人は配送の運転手をしているのだが、運転中に延々とやっているらしい。

まあ、大人になるってのは多かれ少なかれそういうところがあるんだろう。
昔なら英単語の一つでも覚えるか、とかだったが、英単語を覚えたところで使う場面がない。仕事で使う機会があれば、必然的に勉強するし、勉強する必要がない場合は使う場面がないということでもある。
日々の生活、仕事の中で即戦力になるようなことしかしなくなっていく。或いは全く無意味なこと、してもしなくても良いこと。した方が良いことってのは、しないと罪悪感もある。してもしなくても良いことは、しなくたって良いので、気が向いた時だけぼんやりとすれば良い。気楽なのだ。

まあ、人生、そういう要素も必要なのだろう。
いや、必要じゃないからこそ気分転換に良いのかもしれないが。

ま、そんなこんな。


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posted by ちょろり at 22:24| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月04日

アフリカの話をそろそろ文にしようかと目論みつつ、すぐつまづく。

アフリカの話をそろそろ文にしようかと目論みつつ。
そうは言っても昔みたいに小説にするのはどうも難しい気がしている。
昔のは何だかんだで小説だった。
今回は写真集にしようかなと思いつつ。

そうは言っても、はっきり言って個人の旅日記なんかほとんどの人が興味ない。
それに対して芸能人や著名人の文章ってのは興味がある。村上春樹がトライアスロン日記なんて出したら、まあ、それなりに売れるような気がする。内容はどうあれ。
無名の個人の文章ってのは実に難しい。

手に取る人がいなければ、文とは寂しい。
一冊の本を作るときに難しいのはそこだ。
それでも、文とは寂しかろうと無意味だろうと存在しさえすれば存在しているのだ。

ーーー

小説とノンフィクションの境目って難しいとは思う。
以前の南米の話はノンフィクションではあったが、小説だったように思う。

ノンフィクションとは何ぞや。
これは難しい。
難しいので考えない。

ーーー

これまではBCCKSという出版サービスを使っていたのだが、今度はNEXT publishingなるサービスを試してみようかと考えている。

このNEXT publishingというサービスはAmazonのオンデマンドプリント、要は注文が入ってから印刷して製本して販売するというシステムを使ったサービスらしい。
PDFで入稿したら、あとは売れたら、その都度仲介手数料がかかるが基本的には作家の方は出費ゼロで出版が出来るというわけだ。
紙の本を発信するには良いサービスだ。

BCCKSは小説なんかには良い。
電子書籍でAmazonや楽天など様々な電子書籍ストアに配信してくれる。
電子書籍での発信のメリットは、とにかく購入者が安く手に入れられるということだ。
広く読んでもらいやすい。
出版社なんかの目に止まるチャンスも高い。

ただ、BCCKSはPDFなどでの入稿が出来ない。有料オプションでMacを使ってePUBファイルというのを作れば出来ないこともないのだが。貧乏人なのでWindowsしか持っていないので無理だ。
基本的にはブログのような形式で入力していくことになる。
写真をメインに本を作るとなると、BCCKSのやり方だと厄介だ。何より我が家のインターネットは遅い。オンラインでの原稿作成ツールを使うのはかなり無理がある。
オフラインでPDFで作って、紙の本に印刷してくれるってのは良い。
しかも、アマゾンで販売してくれる。
別に無料で良いのだが、現実問題として、
・紙に印刷するにはお金がかかる。
・電子書籍は現実的に普及していない
・Webページとして作っても良いが、Webページって流し読みになって最初から最後までを読んでもらえない。
なんていうことから、やっぱり紙で発信するというのは重要なのだ。

ーーー

はて、そんなわけで写真を整理してみたのだが。
どうも去年くらいに同じ作業をしてつまづいた覚えがある。

やはり僕は元が写真メインではないので、写真を基軸に本を作るってのがイマイチ分からないのだ。
起承転結を付けて、最後に向けて物語を進行させてテーマを展開していくというやり方しかして来ていない。

ふむ。
いきなりつまづいた。

結局、今回もアフリカ編は完成ならずか。
まあ、そうは言っても一応最後まで作ってみようかなと思いつつ。

どうもアフリカ編は以前に小説も書こうとして十万字近く書いてみたが、全ボツになったりと上手くまとまらない。
実際、アフリカでのことって何をどう文にすれば良いんだか分からないってのが本音ではある。

まあ、のんびりやっていくさ。
辞めてしまわなければ、いずれは完成する。
人生を通してゆったり長く執筆はしていけば良い。

まあ、そんなこんな。


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posted by ちょろり at 23:58| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月03日

青年くんはFXで勝負すべきか。

今日は自転車でぶらぶらと秩父の方へ出掛けた。

今年はちょろり草を出来るだけ毎日書いていこうと考えてはみたのだが、やはり自転車の方のブログと両方書いていて毎日ってのは難しい気がする。

それでも、毎日ちょっとでも何か書いてみて、何日か合わせて一本書くってのでも良いかって気はしている。

基本的には日記には鮮度が大事だと考えていたので、その日の日記はその日の内に書ききってアップロードしないといけない、続きを別の日にまたがるって微妙だと考えていた。
何より書きにくい。
日記なんて、そんな大したことを書くわけでもないので、一日経てば、なんでそんな話題を書いていたのかも思い出せなくなってしまう。
そうは言っても、そういう書き方も必要であれば、やはり覚えないといけないだろう。

ーーー

今日はお金と仕事のことなんか考えたりした。
知人の若者がFXで一儲けしてやろうと考えているのだ。そのことについて一緒に自転車で出掛けていたKさんなる人と、「どうなんでしょうね、心配ですね」などと話したわけだ。

実際、僕も株なんかはやっている。
FXも手を出そうか考えてもいる。
別に必勝法はない。
むしろ、先日、株の方で大敗してしまっている。僕の買った株が突然大暴落してしまっている。まあ、大暴落と言っても1年か、長くても三年ほど待てば元の値段くらいまでは戻るのだが。
株は長期的な目で見れば、その会社が上場停止なんかにならない限りは元の値段までは戻ってくる。

FXも基本的には放置していればいずれは元のポジションまでは戻る日は来る。
問題はFXはレバレッジ、つまり自分の持っている金額の何倍という商品を買えてしまう。10倍にしていれば、勝ちも負けも10倍になる。
これがFXで一発当てる人がいる理由だ。
逆に財産をなくしてしまう人も出てくる。

基本的には当たり前と言えば当たり前なのだが、勝ちだけ見込みの高い博打など存在しない。
FXは博打じゃなく投資だという人もいるが、噛み砕いて考えれば上がるか下がるかの丁半博打である。

基本的には丁半博打については倍プッシュし続ければいずれは勝てる。倍プッシュとは負けたら次は掛け金を倍にして賭けるというわけだ。
勝てば前に負けた金額を回収できる。
負けてもまた倍プッシュで良い。
問題は掛け金がそんなに続くかという問題ではある。
あとは倍プッシュして買ったという時に勝ち幅が小さくても意味がない。

投資と投機と博打の違いとは、負けた時の幅だ。
博打は負けたらゼロになる。
投機は負けるとゼロまでは言わずとも大きく負ける。
投資は負けても減るのは一部のみだ。
要は用意する資産を長期的に運用出来るかどうかだ。博打は負ければ一瞬で終わってしまう。
FXはレバレッジのかけ方によっては投資だし、大きくかけると博打以上にリスキーになる。
また選ぶ通貨にもよる。円、ユーロ、ドルの三代通貨はリスクは低いがマイナー通貨は暴落したりがある。

ーーー

Kさんは割と心配していたが、僕としてはFXでも何でも興味があることは試してみるのは良いことのように思う。
その若い子、青年くんとでも呼ぶことにしようか、青年くんは自動でコンピュータが運用してくれるシステムを30万円で買って一儲けしてやろうという魂胆らしい。

「そんな上手い話あるわけないだろ。やっぱり汗水垂らして働かないといけないんだよ」
というのがKさんの考えである。

Kさんの言う理屈は正しい。
実際のところ、FXはコンピュータでかなり勝てるというのも事実ではあるが、そこまで勝率の高いシステムが30万円程度で買えるとは思えない。
何せそんなに勝てるシステムなら30万円で売らずにそのシステムで儲けた方が早い。
何せ一万本売れたとしても30億円である。
30億円と言えば大きい金額のようでもあるが、放置しているだけで楽して勝てるなんて、そこまで勝率の高いシステムなら元の資金が100万円もあればすぐに稼げそうな金額である。

現実一万本も売れるかっていうと微妙な気はする。
何だかんだで一万人くらいは甘い話に飛び付く人も存在するかもしれない。
ただ、仮に一万人買ったとして、そのコンピュータが同じように投資するとしたら、一万人が投資する未来が製作者には分かるということでもある。ただ、一万人程度の投資で相場がどの程度動くのかってどうなんだろう。
世の中、もはや天文学的数字のような財産を持ってるような人もいるわけだし。

何にせよ、順当に考えればやはりK氏の理屈、「世の中そんなに甘くないって」
というのが正しい。

ーーー

ただ、実際に投資で大儲けしたことのある人を僕は二人ほど直接見たこともあるので、存外、可能性はゼロじゃないと思ったりはする。

ただ、青年くんは仮に勝ったとしても、結局上手く使えないような気がする。
博打で買った金とは湯水のように消えるものなのだ。
もちろん、一生をプロの相場師として生きていきたいと強く考えていれば話は別だろうが、単純に仕事が嫌で働きたくない、お金が欲しいってのは上手く行かない場合が多いのだ。

実際、僕の知る投資で大儲けした人は、勝ったは勝ったが、段々と数字の感覚がおかしくなってゲームみたいになって、結局最後は必要な分だけ残して、あとは全部賭けてなくしてしまったと言っていた。そして、焼き物職人として生きていた。今はどうしてるかは知らない。
もう一人の人はやはり膨大な金額を持っているが、どうもお金というものの感覚がよく分からなくなるらしく、高いもの、良いものと呼ばれるものを買っても全く嬉しくなくなって、世界を旅して、自分自身が価値があると感じたものにだけ使うようにしているとのことだった。なので、生活は意外なまでに質素だ。意図的にそうやって質素にしておかないと、喜びや面白みがなくなってしまうらしい。その気になれば、お金で買えるものは何でも手に入るってのも案外大変なのだそうだ。

青年くんも仮に勝ったところで、中途半端な価値なら湯水のように使ってしまって、むしろその後負けて借金になったりするかもしれない。大勝ちしたとしても、明確にお金を使ってどうしたいということもない。車が欲しいとかはあるみたいだが。

ーーー

根本的な問題としては、仕事をしたくないってところだろう。
まあ、僕もくたびれるので仕事なんかしなくて良いならしたくない。たまに気が向いた時だけちょっと働くなんてのが嬉しいは嬉しい。
でも、そうなると誇りってのは持てない。
サラリーマンだろうが何だろうが、やはり仕事には誇りってものがある。

というのも、仕事って意外と難しい。
子どもの頃は大人になればみんな何かしら仕事を出来るようになるものだと思っていたが、実際にはみんなそれなりの苦労をして今の自分の仕事が出来るようになっている。
苦労して出来るようになったことって、やはり誇りがある。

僕の場合、好きなことを仕事にしているけれど、やはり仕事は仕事である。それなりの苦労はある、というか好きなことを仕事にするのは苦労が多い。
縁があって結局自転車屋なんて形で働き続けているが、給料も休みも悪いし全くオススメはしない。
それこそ日が変わって一月三日となったが、今日も勤務だった。三が日くらいゆっくりしたいというか、年末年始は二週間くらいはぼんやりしていたい。
そんなわけで人にはオススメしないが自分としては誇りを持って働ける仕事なので良い仕事だと思っている。

ーーー

青年くんはFXで一儲けしたいというが、その実、一儲けなどしなくとも働きがいのある仕事がしたいという方が正しいのだろう。
「まあ、たしかに複雑になりましたよね。昔って働いていればそれで良かったけど。なんか最近ってテレビなんか見てると、年収は500万円とか、年間休日百三十日とかが普通って言いますしね。青年くんみたいに派遣で働いていると、仕事なんか馬鹿馬鹿しくも感じるし、FXで一発当てるって夢を見る方がよほど現実的かもしれないですよね」
「まあ、そうなんですけどね」
「そう、そんなんですけどね、ですよね」

ーーー

K氏とアレコレ言っては見るものの、青年くんは興味があるならFXで一発狙ってみるのが良いような気もする。

他人事だからってのもあるが、どかーんと二百万くらい借金してみるのと良かろう。二百万くらいなら10年もすれば笑って話せる借金だろう。
はたまたドカーンと大投資家になれるかもしれない。
はたまた案外どっちにもならず、単に30万円損するだけかもしれない。

ただ、モヤモヤとFXしてみたら大儲け出来るかもしれないと思い悩んでいるよりは、人生は経験だ。
200万の借金で買える経験なら安いものだと思う。
一千万円負けるとちょっと話は変わるけど。

実際、僕自身、海外に自転車で旅するということで何だかんだでトータルで二百万くらいは沈めてきた。実際に使ったのは百万くらいだが、その無職の期間に普通にサラリーマンしていたら入っていただろう収入なんか考えれば200万くらいは堅い。
それどころか、まともに大学を卒業してサラリーマンしていたら、今頃年収も百万くらい違って、ゴールデンウィークなんか十連休だったろう。
そう考えると20代の頃にほんの少し異国を自転車で放浪したことでの損失って500万円くらいに登るかもしれない。

でも、お金持ちが一億円出したって、自転車で異国を旅する経験は買えないのだ。
経験ってのはやはり偉大だと今も思う。
それでいくら得するか損するか、何かに役立ってるかなんかは知らないが。

人は思い出を積み重ねて生きるものだ。
目の前の札束はいくら積み上げても思い出にはならない。

ーーー

欲に駆られてFXしてみて、何が手に入るか。
それは分かりはしないが、青年くんくらいの年齢で30万円使ってやる遊びって決して安いものじゃないはずだ。
やってみるのは大事だと僕は思う。

少なくとも僕やK氏はしなかった体験だ。

体験なら何でもしとくべきかと言えば答えはノーだが。
本人が本気でしてみたいと感じることについては、やはり体験してみるべきだろう。
やるからには全力で勝ちに行く、全力で楽しみに行く。

そういう体験の積み重ねの先に仕事ってあるべきだろう。

まあ、そんなこんな。


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posted by ちょろり at 20:05| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする