2019年05月08日

スーパースターとチャンピオン。

スーパースターとチャンピオン。
スーパースターは何をしたってスーパースターだ。成功しても失敗しても。その代わり、平凡なことではスーパースターではいられなくなる。
チャンピオンは失敗してはいけない。失敗したらチャンピオンではなくなる。

だれもスーパースターでは居続けられないし、だれもがチャンピオンになりたい。不思議なことだけれど、二度と失敗してはいけないチャンピオンにみんななりたいんだ。
大抵の人はチャンピオンになれない。
チャンピオンになれる人は限られているし、チャンピオンでい続けられる人はさらに限られている。

坂道をどんどんと登っていく。
止まることない。
いつもならその人は止まって、待ってくれる。
しかし、止まることなく凄いスピードで登って行ってしまう。もう追い付くどころか、これ以上進めない。でも、その人は登って行く。
上の方には黒い雲がかかっている。あの雲の中は雨じゃないだろうか。
呼んでも止まらず登り続ける。


iPhoneから送信
posted by ちょろり at 18:08| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月20日

正しいことが正しいとは限らない世界。

正しいことが正しいとは限らない。
ただ、それってどうなんだろうか。
正しいことが正しいとは限らないのが正しい世の中って結構狂ってしまってるんじゃなかろうか。

「はじまりへの旅」という映画を観た。
主人公の一家は森の中で暮らしている。父親の教育方針なのだ。世間から離れ、学校には行かせず、父親が直接教え、肉体を鍛え、書を読み知識を蓄えて生きる。ヒッピーと一口にも言ってしまえるような暮らしをしている。
しかし、母親が精神病の末、自殺した。その葬儀に家族で行くため森を出る。
そう大した事件は起こらないのだが、ちょっとしたアレコレをする内に、やっぱり子どもは学校に行かせてまともに生きさせてやろうと父親は思うようになるという話だ。

まあ、この映画はどこか後味のよろしくない胸糞悪い映画だった。
学校に行かせず森で育てる。知識は十分にある。人間、それで良いように僕は思うのだ。
そりゃ、みんながそう生きていくとよろしくない。
ただ、いくらかはそういう人がいたって悪くないはずなのだ。
別に森じゃなくてもどこでも良い。ただ、学校でみんな等しく歩調を合わせてクローンのような考え方を持つ必要はなかろうと思うのだ。

映画の中では子供たちは何ヶ国語も習得していて、哲学や思想、自然科学などのジャンルの学問にも深い。筋肉はモリモリ。
現実には英才教育をしても、そんな風にはならない。
現実は医者の子どもでも、いくら金をかけて教育してもロクな大学に入れず、金を積めば入れる地方私立医学部っていうのが存在しているように、勉強や学問っていうのは、出来ない人間は出来ない。
ましてや六ヶ国語を喋って、全ての学問に深いなんてことが何人もいる子どもが全員出来るようになるわけはない。

まあ、あくまで映画、作り話の世界の設定なので、そこまでは良しとしよう。仮定、設定がないと物語は成り立たないので。

ただ、問題はそんな天才的な子どもたちがわざわざスクールバスに乗って学校に行く必要があるかというと、甚だ疑問ではある。
一体主人公は何に敗北したのか、これが非常に謎なのだ。

確かに社会性というのは大事ではある。
子どもを社会から隔絶してしまうのは危険であることは間違いない。
ただ、六ヶ国語やら何やら習得出来るだけの能力があるなら社会性も学ばせてやれば覚えれるだろう。
世捨て人をするというのもまた選択肢だろうし、社会に帰属して生きるもまた選択肢だろう。親がどちらかだけを強要することは良くないとも言えるが、逆を言えば基本的に世の中、親は子に社会に帰属することを強要している。

社会性というのも、そもそもに怪しいもので、国が変われば常識も違う。
最近、ベルリンの友のことを考えることが多いが、彼が偉いのは、そういう既存の社会性に依存しないというところだ。日本に生きれば日本の社会に帰属して生きるのが楽だ。未知の世界に適合して生きる、どこに行っても生きていけるってのはすごく強い。

正しいことが正しいとは限らない。
例えば、日本で客商売をしていると明らかに理不尽なことを言う客っていうのはどうしても存在する。
日本以外の国ではどうか分からないが、物を買うとなると、客は神様というのが発生する。

実際、客商売をしているとお客様は神様っていうのは正しい。神様のように思いなさいという比喩ではなく、お客様がお金を落とすからこそ我々の生活は成り立つ。お客様の求める商品こそが正しく、お客様が求めない商品は正しくない。
いかに作りが良くて素晴らしいものであっても、お客様が求めていない商品は客商売をしている限りダメなのだ。
まあ、基本的には作りの良い素晴らしいものっていうのをお客様は欲しいと感じる場合が多いんだけど。

ただ、人間として正しくないことでも、お客様が求めるものっていうのもある。
例えば安い電気だ。
これは倫理的に考えて正しくないだろう。
原子力発電所が吹き飛んでも、安い電気代は求められる。ジャブジャブ電気を使う。
でも、お客様が求めている限り、商売をしている立場からはそれをいかに提供するか、いかに魅力的に提案するかになる。
お客様は神様なのだ。

明らかに理不尽なことを言うお客さんは、現実的にはお客さんじゃなくなる。理不尽を言って利益よりも損害を出すようになると、これはお客さんじゃない。利益をもたらしてくれていればこそお客さんはお客さんなのだ。
しかし、現実はそうも行かず、ニュースなんかで店員が土下座をさせられたりする事件が起きるわけだ。

商売は三方良しが理想ではある。
売り手、買い手、世間の三方に良い商売が理想だ。
そのためには正しいことが正しいが通らないといけない。

正しいことが正しいとは限らない。
六ヶ国語を覚えて、知識を蓄えて、肉体を鍛えて、それが正しいとは限らないってのは何とも変な気がする。

主人公は一体何に負けて、子どもたちをスクールバスに乗せて学校に通わせることにするのか。
いや、この製作者は一体何に負けてこういうラストを書かねばならなくなったのか。
ヒッピーはダメだ、長いものには巻かれろ、世間に順応しなくちゃいけない。道徳の教科書に載るようなクリーンなラストじゃないといけない。

正しいことが正しいとは限らないってのが正しい世の中。
何者か分からない巨大な何かが個人の考えを否定して、無言の圧力で一つの方向に導く世界。

実際、僕も誰に遠慮してるんだか分かりゃしないが、何者かに気を使って正しいことが正しいとは限らないような、正しくないことも目を閉じてやるのが正しいような、ヘンテコなことになっていってる気はする。

変なクリーンな雰囲気でラストをしめてはいるが、何とも後味の悪い映画だった。

そんなこんな。


iPhoneから送信
posted by ちょろり at 23:43| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月18日

子どもが出来た。

子どもが出来た。
無事に産まれるんだか、まだ安定期にも入らないから分からないけれど、元気に産まれて、大きくなって欲しい。
そんなわけで結婚もすることにした。

急にいろんなことが進んだ。
アフリカは遥か遠い過去のようだ。

子どもが出来て、最初、中絶も考えた。
僕も妻、妻になるので妻で良いんだろう、どちらも当面は子どもは作らず二人で呑気にやって行くつもりだった。
結婚もどちらでも良かった。いずれ結婚するのだろうが、役場での申請なんかが難儀だろうからと折を見て入籍すれば良かろうといった程度のものだった。
そこにふと子どもが出来た。

僕も何だかんだで31歳、妻は少し年上なので世間一般で言えば子どもを持つにはちょうど良い年なのだろうが、世間の考えは世間の考えであり、僕らの考えとは関係ない。
僕の収入は相変わらず少ない。
独り身で生きるには十分だが、誰かを養えるかと言えば、まあ、養えるんだろうが。
そう、酒を辞めた。週に一度くらいは家で晩酌しているが。毎日ウイスキーを飲む暮らしから随分な変化だ。
煙草は辞めていないが、随分減った。
酒と煙草をやめるだけで、まあ、何とか養えるくらいにはなる。というのも、僕の出費の大半はその二つだったから。それ以外の娯楽といえば自転車くらいか。妻と暮らすようになってからはギターも弾かなくなったし、本もあまり読まなくなった。最後の砦が酒だったわけだが、酒は案外すんなり辞めた。
そうすると案外、生計が立ちそうな見通しが立った。
酒飲みってそんなもんだろう。
酒っていう鉄球を付けて生きている。外せば案外いろんなことが出来る。分かっちゃいるけれど、酒が好きで飲む。飲んで何か良いことがあるわけでもない。知り合いがいくらか出来るのは良いことだけれど、お金同様、夜の夢だ。飲み終われば眠りがやってきて、朝に太陽が昇る代わりに過ぎ去って行く。
だからこそ、酒の仲間は好きだった。
出来れば酒の仲間は夢であって欲しい。
日本人の常識としては昼間の仲間との交友を深めるために酒は飲むものかもしれない。
だけど、僕にとっては酒の酔いの中で夢のように揺れる友達でいて欲しかった。俗っぽい話は聞きたくなかった。仕事の愚痴など聞きたくもない。何の内容もない話をして揺らいでいる、夜の夢の仲間。
僕は一人きりで酒を飲みに出掛けるのが好きだった。

酒と煙草を辞めて、子どもを一人育てられるくらいの採算が立つ。
そう考えると酒を飲んできて良かったなと思う。
夜の夢から離れるのは寂しくもあるけれど。

昼の夢といえば自転車の旅だったんだろう。

酒に満たされた夜か、その日眠る場所も分からない昼の日々か。

ーーー

子どものためにそういったことを辞めるのかと言うと、まあ、その通りでもあるのだが、どこか肩の荷が降りたような気もする。
正直なところ、アフリカ以来、僕の心が燃えるようなやりたいことは見つからなかった。
仕事は嫌いじゃない。好きかと言われると、地方の町の自転車屋さん、どこか物足りない気もせんでもないが。それでも、悪くない仕事だと思う。それでも、心が燃えるようなことかと言えば、どうだろうと思う。
小説を書くということも、小説を読まなくなって、要は小説に心酔出来なくなったから読むことが減ったのだろうか、はたまた読まなくなって心酔出来なくなったのか、何にせよどうしても書きたいものってのがなくなったか、はたまた書きたいものは心の中に燻っていれど、手に届かなくなったのか、手を伸ばす労力、探す労力が落ちたのか、心が燃える感じがなくなってしまった。

どう生きるか。
正直、そういうのが見えなかった。

自転車屋さんという仕事に関して熱意はあるが、正直、随分走ってしまったからか、自転車に対してどこか冷めているところもある。いや、好きではあるが、世の自転車愛好家のように頑張ろうってあまり思えないところがある。休日にロードバイクで走っても、マウンテンバイクで山を走っても、一人きりで異国を走る高揚感みたいなものはない。ましてやアフリカやパタゴニアのような高揚感は縁遠い。
100km走ったって特に達成感はない。200kmほど走ればいくらか満足感はあるが。それでも、どこか冷めてしまっている。

そういう中で子どもが出来て、中絶のことも考えたが、二人で考えた結果、頑張って育てていこうと決めると、肩の荷が下りたような気がした。

ーーー

人間、誰しもすごい人でありたい。
何でも良いから、何か一つ、他の人には出来ないすごいことが出来たり、職場ですごく仕事ができるとか、他の人からすごいと思われるような要素が欲しい。
多かれ少なかれそういうのって誰にでもある。

僕の場合、自転車の旅にせよ、小説にせよ、僕に出来るかもしれないすごいことだったんだろう。

自分で言うのも何だけど、自転車に関してはちょっとすごかったと思う。
いや、自転車の旅自体もそうだけれど、その旅を文にして世界を綴ったというのもほんの少しはすごかったと思う。
まあ、よくやったんじゃないかと思っている。

だけど、すごくあり続けるって大変だ。

友人でベルリンに住んでいる男がいる。
彼は高校を卒業してから、たまに日本に帰ってくる以外はずっと異国にいる。
日本が嫌いなんだかどうだか知らない。
エリートってわけでもなく、料理なんかしながら生きている。
僕は彼のことはすごいと思っている。
別にハーバード大学を出てるわけでもなく、単にインターナショナルフリーターみたいな具合なわけだが、異国でお金を稼いで生きていくってすごいと思う。良い大学を出て駐在員として異国に住むとかじゃなく、体一つで異国で生き抜いているってのは、これはかなりすごいと思う。
彼は彼自身のことをすごいと思っているのかは知らないけれど、多分、自分の生き方を愛しているんじゃないかなと思うし、普通の日本人とは違う生き方をしているという自負はあるだろう。

すごくあり続けるって大変だ。

そういう意味で、僕は子どもが出来て、育てることを決めた時、どこか肩の荷が下りた。
子どものせいにして、いろんなことをやめるってわけじゃない。
ただ、いろんなことをやりながら出来るほど子育てって楽じゃないだろう。
ある意味では僕は子どもを言いわけにして、人生を一つ降りるのかもしれない。

実際は小説を書くなんて子どもがいたって出来るだろう。

肩の荷が降りてしまった。
僕はもうすごくあり続けなくって良い。

ベルリンの友はまだまだすごくあり続けるだろうか。

ーーー

すごくあり続けるってのは、ヒーローでい続けるってことなんだろう。

多くの人は途中で肩の荷を下ろしてしまう。
実際、僕より早く結婚した友人を見ていて、正直なところ、つまらなく感じたことが何度かある。
もちろん、それは否定したりすべきことではない。ただ、つまらないと感じた。
まあ、野球部の4番でエースだって、プロ野球に進まない限りは普通の人になっていくんだ。

基本的には普通の人で世界は成り立っている。

実際に4番でエースじゃなくたって、学生くらいまでって、何かしら4番でエースのことってある。ギターが上手でバンドで目立っていた、とかね。
それが、日々、仕事帰りに買うファミチキとビールだけが楽しみになったりする。

要は僕はそういうのが嫌だったんだろう。
自分がそうなるのも、かつてヒーローだった友人がそうなるのも。

ーーー

でも、いざ、子どもが出来て育てていこうと決め、肩の荷が下りたような感じがすると、それも人生か、僕の人生は折り返しに来て、死に向かって下り始めるのか、そんな気もするのだ。
どこか寂しくもあるが、いずれは死ぬのだ。
その中で次の命に任せるのかもしれない。
なんて無責任なことだ、と思うところもある。
でも、僕はとりあえずここまで頑張った、あとは君に頼むよ、と言ったところか。
すごいことをしてくれ、なんて思わないけど、元気で楽しく面白く生きておくれ、なんて思うわけだ。
僕は僕で随分頑張ってみたんだよ。どうも、まだまだ満足はしてないけど、いったん君に任せようかな、って。
もしかすると、子どもがいくらか育ったところで、また僕も僕で何か頑張るかもしれないけれど。
とりあえず、当面は君を育てることだけに集中して頑張ってみようかなって。
多分、それは結構楽しいことだと思うし。
少なくとも、僕の心が燃えることではある。頑張ってみようじゃないか、って。

とりあえずは元気に産まれて来てくれると良いんだけど。
父親ってのは母親ほど頑張れることが少ないから、何が出来るってわけでもないんだけどね。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 23:31| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年03月25日

山の裾野へ引っ越すことにした。

山の裾野へ引っ越すことにした。
厭世的になっても仕方はないのだが、最近は北海道の過疎の村の役場の求人などを見て、良いなと思ったりする。

子曰く(しいわく)、学びて時に之を習う、また説ばし(よろこばし)からずや。
朋遠方より来たる有り、また楽しからずや。
人知らずして慍みず(うらみず)、また君子ならずや。

ふと論語を思い出す。
高校の頃、学校に行くのが嫌いだったので、図書館で論語を読んだものだ。
授業でも習うが、学校のことは全面的に馬鹿にしていた。実際、学校で習う国語とは実につまらない。どうして名作をあんなにつまらなく感じさせる事ができるのだろうと思う。
そうは言っても、名作を知ったきっかけはやはり授業で教わるからだ。

ーーー

論語は何とも素晴らしいと感じた。
まず漢字がずらずら並んでいてカッコいいし、書き下し文を声に出して読み上げても何だかテキパキしていてカッコイイ。まあ、漢文全般に言えることだろうが。
それにしても、論語はカッコイイ。

実際のところ高校で論語を知るまで、日本の教育では学ぶとは何なのかということを教わらない。
論語はこれに対していきなり教えてくれる。
学ぶとは楽しいことではないか、と。
そして、学んだ結果として、遠くにいる友人にまで自分の話が届き会いに来てくれ話すとは実に楽しいことじゃないか。
だからといって、仮に人に知られるようにならなくたって恨んだり、くさったりしないで学び続ける、そういうのが君子ってものだよ、と。

なんと的確でコンパクトに学ぶとは何なのかを綴っている。

ーーー

まあ、実のところ、論語の内容などほとんど覚えちゃいないのだが。友あり遠方より来たるのフレーズは何故だかよく覚えている。

学校だとか集団というのは今も嫌いだ。人がたくさんいて、もちょもちょしているのが嫌いだし、学びたいために学ぶのじゃなく、みんなが学んでいるから学ぶっていうのがすごく気持ち悪かった。
生きていると何歳になっても大多数の人間は同じでみんなが働いているから働くだけで、働きたいことしたいことのために働くって少ない。

特に近年、人間を眺めているとつまらないような気持ちになることが増えた。人間に対して嫌だと思う気持ちもそうだが、つまらなくなった自分自身を映す鏡のように感じるせいかもしれない。
少なくとも、自分はかつてつまらない人間だと考えていた人間になりつつあるし、それを受け入れつつある。

30歳など若いと言う人もいるが。
はっきり言って30歳はもう全く若くない。
人間、40歳にもなれば明確に体力は落ち始める。
イチローでさえ45歳で引退だ。45歳までスポーツ選手としてプレイできるって本当にすごいことだ。
死ぬのは100歳かもしれないけれど、イチローでさえ45歳で現役終了だ。どうしたって体が衰えてくる。
ましてや、すごいわけでもない一般人の僕なんかは45歳まで体が元気なわけもなかろう。
まあ、プロのスポーツ選手じゃないんだから、体が元気じゃなくたって構わないとも言えるけど、脳みそだって45歳にはもう落ち目だろう。

現実問題として、35歳くらいだと思うのだ。
何歳からでも何でも始められるというのは事実だが、35歳を過ぎてゼロから始めるってのはやはり成長がしにくいのだろう。

50歳ともなれば、もう落ち目も良いところ。
むしろ、老害になり始める人もいる。過去の栄冠にすがりついて、下の人間を馬鹿にする。

もちろん、そうじゃない人もいる。謙虚に生きて、60歳だろうが70歳になろうが、若い人の話を聞いて素直に認めてくれることもあれば、助け船を出してくれること、率直に意見を言ってくれる人もいる。
長く生きて偉いはずの人が、年齢関係なく人間同士としてあくまで対等に、なおかつ年長者としての優しさを持って接してくれる。
そういう立派な人もいる。

ーーー

論語では、
十五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳従う。
七十にして心の欲するところに従って、矩をこえず。
とのことだ。

意味は、五十までは読んでそのまま。
六十にして何を聞いても動じなくなった。
七十にして思うように自由にやっても、道義を違えるようなことがなくなった、といった意味だ。

今よりも平均寿命の短い時代ということも考慮しなくてはいけないのはある。
今は寿命100年の時代だし、定年がない仕事なら60過ぎても現役でバリバリ仕事をする人もいる。

そうはいっても、昔の平均寿命の低さは子供のうちに死んでしまう確率が高かったせいもある。元気な人はやはりある程度までは長生きしたのだろう。

五十にして天命を知るのだ。

ーーー

そう考えていくと三十というのは、もう若くないわけだ。
もちろん、まだ五十まではしばらくある。
しかし、もう何かを始めていないといけない年齢ではあるのだ。

ーーー

最近、結婚をしたのかと聞かれることがある。
籍は入れていない。
入れても良いのだが、入れなくても構わない。どちらにせよ、今の人と死ぬまで過ごすのだろう。

結婚は男の墓場とは言うが、墓場にする人も多いし、そうじゃない人もいるだろう。
自分はどちらなのかと考えるとちょっと分からない。
それでも、墓場になるとしても、それは結婚したからではなく自分の怠慢ゆえに墓場を迎えるだけのことだろう。
一人で生きるのと違い相手を気遣わなければならないのも事実だが、相手が自分を助けてくれるのも事実だ。
助けてもらうことで出来るようになることが増えるか。助けることで自分の出来なくなることの方が増えるか。
一人で生きるのとは違うが、イコール墓場ではなかろう。一人じゃできないことが出来るようになるのだから。

ーーー

まあ、それにしても、友あり遠方より来たる、とは実に的を射たもので。

今の仕事にくたびれはてた今、旧知の友が遠方から来てくれ、手を差し伸べてくれれば良いのにと最近の僕は思う。
そうは言えど、旧知の友の多くも、やはり日々の生活に飲み込まれ、くたびれ、かつての光みたいなものは失われているだろうなどと考えると、故郷には帰りたくないし、旧知の友にも会いたくないような気持ちになってしまう。

北海道の過疎の村の役場の求人を眺める。
それで良いのかね、とも思うが。
遠方より友は来ない。

ドイツの友に会いに行きたい。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 00:03| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年03月11日

五月一日に日本人は日の丸の旗を掲げるのだろうか?

もうじき平成が終わるらしいが、果たして新しい天皇陛下が即位される五月一日に日本人は家の前に日の丸の旗を掲げるのだろうか?
ふとそんな事が気になった。

かくいう僕はそもそもに日の丸の国旗を持っていないので、掲げようもない。
買うべきだろうかと思うのだが、国旗って何屋で売っているのだろう。白い布に赤い丸を書けば良い気もするが、白い旗なんかどこで売ってるのやら。何で日の丸を染めれば良いのやら。
まあ、Amazonで売ってるのだろうが。

普通の祝日にまで国旗を掲揚すべきとは思わないが、やはり元号が変わり天皇陛下が変わる日くらいは国旗は掲げるべきじゃなかろうか。
とは、思うものの、今のご時世、祝日に国旗を掲げている家ってまったく見なくなったし、うちだけ国旗を掲げるのも妙な気はする。

何だかその時点で妙な話ではある。
日本なんだから、天皇陛下の代替わりに国旗を掲げて敬意を表するのが少数派で、気まずさみたいなものを感じるなんて。
まあ、妙な話である。
ここは日本であり、日の丸は国旗である。

何だか昔は運動会なんかでも国歌って流れていたし、国旗掲揚ってあった気はするのだが、随分と長いこと国歌を聞かない。

南米を自転車で走っていた頃はやたらと君が代を歌っていた。暇があれば君が代を歌っていた。
アフリカの時は歌わなかった。
アフリカの時は2回目の旅行なので少々旅慣れていたから怖さも減ったということもあろうし、アフリカって割とどこでも人がいたので大声で何か歌うわけにもいかなかった。
南米はもう正に明日死ぬかもしれないって割と毎日思った。実際パタゴニアって無人地域を三日間かけて野宿しながら移動するのが普通だったから、なんかもう毎日が大冒険だった。
そういう意味ではやっぱりパタゴニアが一番楽しかった。

孤独になって君が代を歌う。
そんなの僕くらいのもので、他の人はそうじゃないのかもしれないが。
それでも、異国で一人きりになったとき、祖国を想ったものだ。
パタゴニアの暴風の荒野の中で君が代を歌うと、何とも美しいメロディーだと感じた。

最近の僕は割と孤独している。
一緒に暮らす人は出来たが、職場で友人と言えるほどの人はいない。別の店舗にはいるけれど。
人間関係ゼロってことはないが、今月末引越しをするのに、冷蔵庫を運ぶのを手伝ってもらう友人がいなくて困っている。引越し屋も三月末の引越しなんて、もう間に合わない。家具は少ないので問題はないのだが、少し難儀ではある。

パタゴニアの孤独は割と心地良いものだった。
死にたくはないけれど、何というか潔さみたあなものがあった。テントで眠る時、「ピューマが出て食い殺されませんように」なんて考えた。
高緯度なので夜は短かった。
暴風の中を延々と自転車をこぐ。
本当にそれ以外ない。街も人もいない。一時間に一台車が通るかどうか。ただ前に進み、疲れたら水を飲み、ビスケットなんかをかじった。
死にたくはないけれど、死んだって悔いがないような綺麗な孤独だった。
それで僕は日の丸を歌っていた。

今の孤独ははっきり言って随分と不快だ。
人間は腐るほど周りにいる。
しかし、僕は徹底的に孤独だ。
仮に明日重い病気になったら、妻以外で助けてくれる人は誰かいるだろうか。
気付いていないだけでいるのだろうか。
こんなに言葉も通じる、同じ国の人間が周りにいるはずなのに。

母国にいて、母国が遠い。
帰るべき、帰属すべき集団を感じられない、分からない。
日本最高とかっていうナショナリズム的な話じゃなく、単純に人間、生きている限り何かの集団に帰属しないとやっていけないし、日本、国歌ってのはやはり帰属すべき器であるべきだと思うのだ。
家族、血縁については故郷を離れるとやはり遠い。いずれ帰るべき場所かもしれないが、当面予定もない。何より故郷が姿を変えていくのが、どうも最近忍びない。故郷の町や景色もそうだが、友人、知人、すべてのものが変わってしまう。もちろん、自分も変わっているだろうから、変わってしまったものに対して文句など言えるわけもないし、不満などもない。ただ、変わってしまうと、僕の胸の中にある故郷、僕はどこに帰るべきなのだろうと思うのだ。

天皇陛下は毎日国民のためにお祈りをしてくれているそうな。
実は世界でも一番偉いらしい。神話の時代からの正当な血族って、世界で天皇陛下くらいらしい。
そんなに偉いのに我々国民のために毎日お祈りをしてくれている。
まあ、それが生まれついての仕事だからということもあるにせよ、それでも毎日、国民の安寧を願って生きている。
天皇陛下は日本のシンボルであり、政治的な実務はしないとはいえど、やはり天皇陛下は日本なのだ。

まあ、天皇陛下を敬愛しましょう、国旗を掲げましょうとは言わないし、実際、僕も国旗を買うかも未定ではあるのだが。
五月一日が何事もなくやってきて何事もなく過ぎてしまうってのは、歴史に対する敬意がないような気はする。

ま、そんなこんな。


iPhoneから送信
posted by ちょろり at 01:03| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月20日

残りの人生と飛べない鳥のこと。

あくまで単なる順序の問題だと考えていた。
二十代でふらふらと山にこもり、自転車で異国を旅した。
そのことを人に誉められたり、すごいと言ってもらえることもあったが、言うなればそれは前借りで、知人には定年してから異国を自転車で旅する人もいる。
私の両親も定年を迎え、登山や旅行など娯楽を始めた。
先に苦労したからこそ、老後の貯蓄もあり余裕もある。
だから、自分の経験とは単なる順番の問題なのだ、と。

最近、残りの人生を考える。
ーー次はいつ旅に行くんだい?
私を知る人は聞く。
次に行くとしたら今度こそペンギンを見たい。
南米もアフリカもずいぶん南に行ったのにペンギンを見ることがなかった。ペンギンの生息地の近くも通り過ぎたのだが、過ぎてからペンギンがいることを知った。
そんなにペンギンが好きなのかと問われると、まあ、それなりには好きだ。ペンギンの小説も書いたことがある。
すこぶる好きかと問われると、それほどのものでもないとは思うが、動物園でも水族館でも必ずペンギンは見る。そうは言っても大抵の人がペンギンは必ず見るだろう。ゾウ、ライオン、キリン、ペンギンだろう。
そう考えればペンギンは大したものだ。ゾウ、ライオン、キリンと体が大きい。飼育費も随分かかる。ペンギンは小さい。たくさん魚は食べるので飼育費はそれなりにかかるらしいが。

残りの人生を考える話からどんどん脱線するが。
飛べない鳥と言えば、ペンギンだけじゃない。
ニワトリもこれまた実に立派な鳥だ。とにかく食べられる。美味い。安い。なんと残酷な話だろうとも思う。
ニワトリの祖先は東南アジアなんかに住むセキショクヤケイという鳥だそうだ。元々そんなに飛ばない鳥だったようだが、猫と同様人間に飼われることで種の保存を選択したのが現在のニワトリだそうな。

余談ついでに最近知ったのが、私がパタゴニアで見た鳥、やたらと速く走る大きな鳥はダチョウではなくパタゴニアに住む絶滅危惧種のダーウィンレアという鳥だったようだ。
少し離れたところを並走するように走ってきたのだがとにかく速くて大きかった。

飛ばない鳥というのは非常に素敵だ。

ーーー

さて、動物の肉というとアフリカだ。
アフリカの牛肉は実にまずい。品種改良されていない野生種に近いし、育て方もしっかり歩かせる。それで筋肉質で美味くないのだ。
まずいなどと言うと命に対して不敬ではあるが。少なくとも我々人間が食して美味いのは、やはり品種改良を重ねて牛小屋で育てられた牛の肉だ。
しかし、面白いのはアルゼンチンの肉は美味いということだ。アルゼンチンの牛も基本的に放牧なので固い。僕ら日本人が初めて食うと安い肉のように感じる。
しかし、アルゼンチンの肉はステーキで食べると非常に美味しい。日本人は霜降りが好きなので最初好みに合わないが、慣れてくると肉を噛む美味さがある。塩コショウをすりこんでやって波の付いたフライパンで焼くと実に美味い。

食とは理解だ。
大抵のものが最初は不味いと感じる。
例えば魚だろう。私は今も魚が得意ではないが、以前と比べると美味いと感じることが増えた。どうにも魚臭さというのがダメなのだ。それでも、食べている内に美味さというのをいくらかは理解してくる。海に近い町に行って新鮮なものを食うと臭くない。生の魚とは美味いものなんだなと、日本人のくせに大人になってから理解してきた次第である。
アルゼンチンの肉もそうで、初めは歯が折れるかと思ったものだが、食っていると良さが分かってくるのだ。
山の食べられる草にしてもそうだ。アザミの天ぷらなど、最初はただの草を食っているような感じなのだが、次第に美味く感じてくる。

ただ、アフリカの牛肉は最後まで美味いと思えなかった。
アフリカ、特にマサイ族にとっては牛は非常に大事なものだ。今でこそお金の方が大事かもしれないが、牛こそ彼らにとって最も大事なものだったらしいし、今も牛を大事にしている。アフリカを走っていると、マサイの子供が牛を連れて歩いていたりする。棒切れを持って牛の群の後を歩く。マサイ族の牛の扱い方は何も知らない我々が見ても非常に上手く、牛たちは従順にマサイの子供の思うように歩く。少し進んでマサイじゃない土地に行くと牛はよくはぐれそうになり、牛追いの人はよく牛をたたく。マサイが牛を叩いている姿は私は目にしなかった。それでもマサイの牛はとても従順に動くのだ。
でも、肉は美味くない。
牛肉はスワヒリ語でニャマと言う。米はワリ。アンドはナ。だから、牛肉と米を食いたければ、ニャマ、ナ、ワリと言えば通じる。
それにしても、ニャマは実に美味くなかった。
とにかく固い。味もしない。彼らの料理の仕方、大抵のものは油で素揚げというスタイルのせいもあろうが、固いばかりで味がしない。

ニャマに対してクク、ニワトリはそこまで不味くなかった。
日本で食べるニワトリよりはいくらか固いし、旨味もどこか素っ気ないのだが、それでもニャマと牛肉ほどの違いはなかった。
ニャマは美味くない。少なくとも日本人の味覚からすると。

しかし、牛たちは非常に大事にされていた。

美味い不味いの話で、バックパッカーたちの間であるのが、文明が発展している国は飯が美味いというものがあった。ただし、イギリスを除くとのことだ。イギリスは美味しくないのに発展している珍しい国だそうな。
まあ、笑い話、冗談程度の話なのだが、たしかにいくらか的を射ている。

それでも、アフリカの肉っていうのは命なのだろうなと私は思うのだ。
命をつなぐために命を食う。
美味い不味いではなく、命を繋いでくれる牛たちへの感謝、尊敬。

倫理的に考えるとアフリカの牛への扱いは日本より遥かに正しい。
正か悪かで論理を展開するのは危険ではあるが。
それでも、食べるために小屋に閉じ込め、近隣住民も匂いがするからといって近くに住みたがらない。はっきり言って日本人は食への命への尊敬に欠けている。米一粒に感謝する人は今の日本にはかなり少なくなりつつある。
それに対して強く逞しい牛を育てるために、一緒に一日中人が歩いているアフリカっていうのは命に対して非常に倫理が高いと私は思うのだ。

ーーほかに仕事がないからだろう。
まあ、それも間違ってはいない。
しかし、我々の命をつないでくれる命への尊敬というのは、やはり大事だろう。
日本人は高齢者の問題に直面しているのもあるが、人に長く生きて欲しいと願わなくなりつつある。もちろん、元気に長生きして欲しいが、元気じゃない長生きも、若い人を邪魔するような長生きもどうかと思う。
命は生きるべきだけ生きて、死すべき時に死ぬべきだろう。
誰しも死にたくはないが、キリストもブッダも死んだのだ。
キリストとブッダが偉いのは、死すべき時に死んだということも大きいように思う。
二人とも生きている間でも、それなりに偉くはなったが、死後の現在尊敬されているほど偉くなる前に死んでいる。もちろん、偉かったのだが。
人間、偉くなって怖いのは傲慢になることだ。

あくまで私の考えだが。
人間、それぞれに偉くなれる範囲が決まっている。
それを越すと偉そうに振る舞うようになる。
だから、ある程度の歳になると偉そうになる。
それ以上偉くなれなくなっても、人間ってのは向上心がある。だから、実は伴わなくても、偉くなりたいもんだから、態度ばかり偉くなってしまう。
実際、上限まで偉くなっているのだから偉いのではあるが。
それでも、自分はもう偉くなれないと悟るのは大事なのだ。
ブッダは布教の旅の最後に沙羅双樹の間に最期の寝床を弟子に頼んでいる。
私の考えではあるが、ブッダほどの人となれば、80歳程度で死なずにもっと長生きする方法も知っていただろうと思う。
何せ科学が進んだと言えど、現代では普通の人でも100歳近くまで生きるようになっている。ブッダほどの超越した人であれば、ただ生きるだけならばいくらでも生きられたんじゃなかろうかと思うのだ。
しかし、ブッダは弟子に言って北枕で永眠する。

キリストは弟子の裏切りを知っていながら死ぬ。ブッダよりもキリストの方がその気になればまだまだ長生き出来た。裏切りを知っていたし、知っていてあえて死ぬわけだ。

キリストとブッダも生きるだけ生きて、死すべき時に死んだのだろうと私は思うのだ。
二人とも半分神様、空想上の人かもしれない。
神様として、永遠に生きることも出来ただろう存在だ。
しかし、死んでいる。

ーーー

はて、残りの人生に関してだ。

30歳では正直残りの人生も見えない。
体力についても、私の場合、トレーニングもしているからか、かげりも見えない。
いくらか二日酔いが残るのが増えたくらいか。

しかし、以前は無限だと感じた伸び代に有限を感じる。別段、まだ限界が見えはしない。まだまだいくらでもやれるようにも思うが、しかし、限度がいずれ来るのだろうという感覚はある。
単純に有限だと理解しただけのことだ。

有限を感じると誰かに引っ張ってもらって生きることに疑問を感じる。
自分で何事かを出来る自信はない。
しかし、自信はなくとも、人生の引き算を考えるとそろそろ何事かを自分でやり始めないといけないのではないかと感じるのだ。

ま、そんなこんな。


iPhoneから送信
posted by ちょろり at 23:45| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月11日

貧すりゃ鈍。

お金について考えることがあった。
最近、安定した仕事に就けだの何だの言われることがあったからだ。
確かにもうじき31歳になるし、転職するとしたらラストチャンスではある。

これまでも僕は事ある毎にお金について考えてきた。
貧すりゃ鈍する。貧乏になると日々お金のことばかり考えなくちゃいけなくて思考まで鈍って来ますよ、なんて言葉だが、まあ、この言葉は的を射てはいる。

昨今の日本の悲しみとは、貧乏なことがイコール悲しいこと、悪いことなんて考えが当たり前になっていることだ。
成功者にはお金が手に入る。
社会で価値ある人にはお金が手に入る。
そういうのが当たり前になっている。

とにかく危険なのは即イコールでつなぐことだ。
確かに資本主義の理想としては、社会的に価値ある人にお金が入る、というのはある。
ただ、現実問題としてはそれは違う。
非常に危険なのが、価値のある人=成功者=価値ある人っていう即イコールだ。
現実にはそのイコールが成立することもあるけど、しないことも多いのが本来なのだ。
しかし、即イコールの世界ではお金がない人は成功者ではなく、社会的に価値があるわけではない、人類に貢献しているわけではないというヘンテコなことになる。

このイコール問題が顕著なのは芸術だとかそっちの方面で、例えば太宰治もチャーリーパーカーも少なくともお金持ちではなかった。
まあ、お酒や麻薬に溶かしてしまったからというのもあるだろうが。
ただ、彼らは価値がなかったかといえば、絶対にそういうことはありえない。

経済なんかでもユニクロは大成功を収めて巨大な企業でお金持ちだが、ユニクロがやったのは自分たちだけ儲かれば良いという価格破壊で、人々は服を大事に長く着なくなり、労働者は安い賃金でたくさんの服を作らなければいけなくなった。

今、流行りつつあるPayPayも便利なようだが、お金ってのは国が出来るだけ全員に公平になるよう管理しないといけないのに、営利企業がお金の代わりになるものを作って管理してしまうっていうのは非常に危険なことなのだ。
仮にPayPayがスマホ決済を独占したら、PayPayの都合の良いようにお金を自由に発行できるようになってしまうし、決済手数料という名目にはなっているが、その実、消費税と変わらず、それをPayPayが自由に吸い上げることが出来てしまう。
もっと平たく言ってしまえば、勝手に日本国内で日本円以外のお金を印刷して流通させたら犯罪だが、お金と同じ機能を持つものを紙じゃなくデジタルでやるのは犯罪にならないということだ。
後の利益を考えると100億円還元キャンペーンなど安いものなのだ。
セキュリティの危険とかではなく、営利企業が手を出してはいけない領域であり、ほとんどの人がそのことを気付いていない、はたまた気付いていてもどうにもお金に勝てなくて使ってしまう。
かくいう僕もPayPayを使う。やはり便利ではあるし、集客も出来る。
最近の僕の悩みの一つではある。モラルに反することに加担して日銭を稼いでいるってことはある。

ーーー

じゃあ、お金を稼ぐのは悪いことかと言えば、当然そういうわけでもない。

ただ、お金がないのは悪いこと、お金があるのは良いことってのはおかしいというだけのことだ。
だから、その逆、お金があるのは悪いことで、お金がないのは良いことってのもおかしい。

これも、イコール理論で考えるとマイナスの反対はプラスということになってしまう。

基本的に絶対的に良い悪いということはない。
お金を持っていても良い人はいるし、悪い人もいる。その逆も然り。
当然のことのようだが、イコール理論では良いの反対は悪い、だから良くないものは悪いになってしまう。

ーーー

先日、退職金のある仕事をした方が良いという話をされたのと対照的に、世界はおかしい、お金にばかり走っているという話を別のところでされた。
別にそちらは押し付けではなかったし、むしろ、僕の考えと近いものはあったのだが。

ただ、聞いていて、ぼんやりと違和感みたいなものを感じた。

ーーー

僕としては稼ぎたいだけ稼げば良いと思うのだ。
他人の生き方、働き方に文句を付けるな、と。

そう言いつつ、ぼくも文句を付けるのだが。

まあ、PayPayもユニクロもモラル違反だとは思うし、あまり良いことではないと僕は思うけれど、そういうのが良いって人々も世の中いる。

ただ、やはり楽して金を稼ごうとかってのは良くないと思うわけだ。
地面からお金ははえてこない。
せめて裏山に拾いに行くくらいの労力はないとおかしいわけだ。

昨今、ふるさと納税なんかもそうだが、平気で偉い人が楽して得しましょうみたいなことをする。

別に楽したって良いのだが、基本的にお金はにょきにょき生えてこない。
何せ、お金を払えば誰かを働かせることが出来るわけだ。
にょきにょき生えて来たら、今度は自分も地面から生えて来たタダのお金で働かされることになる。

何もしなくてもお金が手にはいるとかってのは変なことだし、それをおかしいと感じないのは危ないし、偉い人が率先してそういうことをするってのはヤバイってやつなのだ。

ーーー

そうは言うのだが、敬愛する小説家の先生はFXで稼いでいたりする。
モラル云々の話で言えば株だのFXだので金を稼ぐってのは一番よろしくない。しかし、僕はこの先生は非常に好きだ。
この先生くらいになると爽やかなもので、働かなくて良いなら働きたくないと断言する。何で飯を食っているのかは定かではない。先日は渋谷だかどこだかでUFOの講演会だかをしていたらしい。それは金のための活動ではないらしい。漫画の原作をやってるとかしてないとか。とりあえずは小説家の先生なのだが小説での収入で食っていないのだけは間違いない。
ちなみに小説は良い小説を書く。まあ、当たり前なのだが、だって小説家の先生だもの。
家は実に質素なアパートに住んでいる。
酒を飲んでギターを弾いて。
ちょっとした仙人、随分俗っぽい仙人だが、何というか超越して爽やかである。爽やかさのかけらもないのだが。

ーーー

お金の話って多数派、少数派というだけのことで、多数派が圧倒的に多くなると暴力的になってしまうだけのことなのだ。
今ならお金派が多いから、お金がないことは悪い、退職金をもらえて福利厚生の良い仕事をするのが良いことなのだ、なんてのが世界の常識になっている。

僕からすれば、安定した仕事、給料の良い仕事なんてのは危険な香りしかしない。
人間、時間ってのは平等だ。そりゃ、早く死ぬ人も長く生きる人もいる。それもまた平等にランダムだ。不公平ってのは公平なことでもある。作為が働かずランダムであるっていうのはある意味で平等なのだ。
たくさんお金を稼ぐ人はたくさん時間働いているか、何かのスキルを得るために時間をかけている。そのどちらでもなければ、モラルに反することをしていたり、リスクを背負ってきているかだ。
頭がなけりゃ体を使え、体も弱ければ時間を使え、ってやつだ。何かしら使っているのだ。
産まれながらに体が二つあったり、脳みそが四つあったり、超能力が使えるとかすれば話は別かもしれないが。
基本的には何かを差し出してお金ってのは入るのだ。

昔の友人に高収入な人が多いが、まあ、大変そうではある。
中にはそんなに大変そうでもなくて収入も良くて福利厚生も良い人もいるが、まあ、それはそれだ。
逆にえらく大変そうなのに収入も福利厚生もよろしくない人もいるが、まあ、それはそれだ。

一つ言えるのは、会った時に、
「あ、やっぱりこいつの方が稼ぎが多いから幸せそうだな」
なんてことは全く感じない。
当たり前だが、幸福さと収入、福利厚生ってのはそんなに関係ないのだ。

これがアフリカとかなら、いくらかは思うのかもしれない。何せ貧乏と言ったら実に貧乏、字の通り食うに困る。しかし、アフリカのすごいところは貧乏が悪いわけではない。
まあ、アフリカと一括りにして話すのも良くないが。イメージとしてはタンザニア、マラウィ辺りだ。ザンビア辺りからはお金持ちが発生しだして、貧乏は良くないことみたいな空気がどこかにある。
村丸ごと貧乏ってのは救いがないようでいて、しかし、貧乏というのも普通のことであって別に悪ではない。

一度村で頭のパーの人がいた。
道路脇の村で、僕は言葉が分からないので最初分からなかったのだが、次第に周りが笑っているのと、彼の仕草を見ていると、なるほど、彼はパーなのだと分かった。
憐みではなく、人々は笑っているのだ。
言うなれば、パーのおっさんが旅人に絡んでるぞ、みたいな具合で。
そういうのって、日本だと小学校の道徳の教科書では絶対にしてはいけません、ということになっている。
しかし、現実に体験すると明るいのだ。
みんなパーのおっさんを馬鹿にしてはいるのだが、憐みはない。むしろ親しみみたいなものがある。
臭いものにフタをするじゃないが、タブー、かわいそう、触れてはいけないみたいなことをする方がよほど人間として良くないことで、素直に「パーのおっさん、相変わらずアホだねー」なんて笑いながら、それでもおっさんも村の一員なのだろう。

人間、ある程度の数がいれば、生まれつき頭がパーの人もいるし、育っていく途中で頭を打ち付けてパーになる人もいる。
でも、そういうのって仕方ないのだ。
アフリカの場合、大人になるまでに死んでしまう子どもも多いし、大人もふとしたことで死ぬ。祝日が危険らしく、お祭り騒ぎになるとついついアッサリ人が死んだりしてしまうことが珍しくないと言っていた。酔っ払ってトラックの荷台から落っこちるとか。
今生きていることを謳歌しているようなところがある。
なので人々は非常に力強いし、生命力に溢れていて、明るい。土と太陽の間に生きている。

生きているだけで人間ハッピー。
まあ、アフリカだって実際にはそれが全てではないのだろうが。アフリカ人でもアディーチェの小説のような苦悩はある。当たり前だが同じ人間なので。
ただ、アディーチェみたいに国際的に活躍している人は欧米に住む経験があるのも事実だが。

ーーー

あれこれと話はブレるが。

何だかんだで強いのはお金が少なくても幸せを感じる方法を知っている人間だ。
お金がないと幸せになれないと思っている人は大変だ。たくそんお金を稼ぐには疲れる。ほどよく働いても疲れるは疲れるが、そりゃ適度な疲れだ。

服を一つ買うにしたって、今年の新作、トレンド、あのブランドが良いと振り回されて、毎年、毎月高い服を買わないと満足出来ない人は大変だ。

昔から着続けているボロボロの服を着ていたって、どこか風流でスタイルがあってかっこいい。
そういう方が素敵だし、生きていて楽だ。

貧すりゃ鈍するとは言うが、いくらか貧乏していても頭の中がお金のことばかり考えなくても幸福に満たされていれば鈍さない。

逆にお金があってもお金のことばかり考えていないといけない人は鈍する。
いくらお金があってもお腹が出てしまって、健康を害しているのでは、何の意味もないのに、その事に気付かずいつもお金のことばかり考えている。
生きる事に対して頭が鈍してしまっている。

まあ、そうは言うけれど僕もお金は欲しいのだ。
今のところ何も困ってはいないけれど。

何十年も先の老後のお金のことなんか考えて、今の頭が鈍していたら、そりゃ馬鹿ではある。
ただ、今だけじゃなくいくらか先まで鈍することがないよう、やはり先々のお金の工面もいくらかは必要ではある。

ま、そんなこんな。


iPhoneから送信
posted by ちょろり at 23:47| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月09日

祖母に三年ぶりに会ったら涙が出てしまった。

祖母に三年ぶりに会ったら涙が出てしまった。
少しボケているとは聞いていた。
しかし、現実はどうにも悲しかった。

祖母の状態は悪くない。
90歳だが自分で歩ける。
ボケているとはいえど、数年ぶりに見る僕のことを僕と分かってくれていた。

ただ、老人ホームの中で見つけた祖母は迷子になってしまっていた。
広い老人ホームではない。
どこかに行こうとしていたらしいのだが、道に迷ってしまい分からなくて困っていたと言っていた。
ボケてしまっているのだ。

人間90にもなればボケる。
それは頭の中では分かる。
壁に向かってクソを投げる人もいる。ひどく敵対的になる人もいる。
そういうことは知っている。
しかし、祖母が小さな老人ホームの中で迷子になったと言っている現実っていうのはひどくショックだった。

仕方がないのだ。
むしろ、歳を考えれば軽い方なのだ。迷子になっていると思い込んでいたり、僕のことをだれの子どもたったかな、と言ったり。母は一人っ子なので母の子ども以外ないのだが。
それでも、名前と顔が分かってくれたのは嬉しかった。
そう考えると祖母のボケは軽度のものだろう。

しかし、祖母はひどく残酷な生き延び方をしてしまっているように思えた。
祖父が死んでから、早く迎えに来て欲しいと言っていた。馬鹿なことを言うもんじゃないよ、元気に長生きしてよ、なんて言っていた。
ただ、今日の祖母を見ると、おじいちゃん、早く迎えに来てあげて下さいと思ってしまった。
今のうちに。

その年齢で三年も会わなければそういうことになるってのは普通なのだろうとは分かる。

ただ、祖母には悲しみがなかった。
早くおじいさんに迎えに来て欲しいとも言わなかった。
ただ、生きるって難しいねと言っていた。

神よ、なぜ一生懸命生きてきた人の最後にこんなひどいことをするのだ、と。
なんと酷い仕打ちをするのだ、と。

ーーー

それからエルグレコの受胎告知を眺めに行った。
大原美術館は遠くない。千三百円で入れる。
大原美術館は実家から歩いて十分のところにあり、学生時代は全館ゼロ円で入れたのでよく行った。
この美術館、非常に美しいのだ。
日本で最も美しい美術館はどこなんだか知らないが、少なくとも上野の国立西洋美術館よりは美しいと思う。国立西洋美術館も素敵な建物だし、世界遺産にも登録されているが、大原美術館の方が美しいと感じる人の方が多いと思う。
中庭の日本庭園には誰でも無料で入れて、そこで煙草を吸うと非常に美味いのだ。
収蔵作品も素晴らしい。ピカソも何枚かある。モネの睡蓮もある。あとは忘れた。でも、有名な画家の絵が何枚もある。収蔵点数自体は国立西洋美術館ほどではないが、どの絵もかなり知名度があり見応えがある。
美術館に詳しいわけじゃないが、いくつか美術館には行ったが、大原美術館みたいな絵のチョイス、有名作品がこんなに多い地方美術館ってほとんどないと思う。

受胎告知は大原美術館に何度か行っている人なら知っている。
何せ大原美術館の中で最も高額な絵だからだ。最も大切に展示されている。
大原美術館とは大原さんが自腹で作った美術館なので、基本的には全て同時ヨーロッパに直接買い付けに行っている。児島虎次郎さんという画家さんに買いに行かせたらしいのだが。
多分、普通の美術館では絵の値段って言わないし、国の所蔵のものが多いので買う買わないではなかろう。その辺は大原美術館っていうのは少し変わっている。

日本国内にエルグレコの絵があるのは、国立西洋美術館と大原美術館の二枚だけだそうだ。日本国内にエルグレコの受胎告知が存在しているのは奇跡だとも言われているそうな。

まあ、そんなわけで、倉敷の人でちょっと美術館に行く人と言えばエルグレコの受胎告知は有名なのだ。

受胎告知は聖母マリアの元に天使が降りてきて、キリストが産まれるよ、ってことを伝えに来ているワンシーンだ。

ーーー

実際には行っている時にはエルグレコを目当てに行ったわけではないのだ。
単純に大原美術館を散歩したかったのだ。

まあ、建物が良い。
祖母のことで混乱した心を落ち着けたかった。
だが、そういう心境で絵など見ると心がささくれて大変だろうとは分かってはいたのだが。

ーーー

一時間ばかりエルグレコを眺めていた。

どうして神は祖母にあんな酷い仕打ちをするのだろう。
人間はなぜ生まれてくるのだろう。
生きるってこと自体は残酷ではないが、人間生きている限りは生きねばならぬ。
生きねばならないから生きているとなるのは、ひどく残酷だと思うのだ。

それから裏の神社に登ると藤の木が枯れかけていた。
延々と高校をサボり続けて通い詰めた神社だ。境内の裏にある藤はとても立派だった。しかし、裏なので人はほとんど来ない。
たった10年ほどで随分と元気をなくし、枯れかけていた。
祖母の三年はどこか納得もある。
しかし、藤がたったの10年ほどでこんなに元気がなくなるとは思いもよらなかった。


iPhoneから送信
posted by ちょろり at 20:01| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月07日

アフリカ2

ユーフォーの話から始めるとしよう。

僕がアフリカに着くときに考えたのは、やべーな、今度ばかりは死ぬかもなー、ってことだった。
窓の下に広がるのは冗談抜きで動物奇想天外って番組でやってたサバンナだもの。
すごいよ。
テレビって本当に。
そのまま動物奇想天外。
所ジョージとか黒柳徹子とか出てた。
この木何の木木になる木って。
そりゃ、上からじゃライオンなんか見えない。
でも、まあ、こりゃ人間の住むところじゃないってね。
集落を探すけど分からない。
ぽつぽつと生えた草原と木。
へー、世界にもまだこんなところってあるんだなって。
自転車で走るつもりがない人なら、呑気に眺めるんだろう。
でも、僕はそこを自転車で走るんだ。
ちょっとじゃなくて全部ね。

ちょっと骨が折れるなじゃなくて。
今回ばかりは死んでしまうかもなって。

いろんな冒険家が世界にはいるけど。
誰しも今回はやばいなって思うんじゃないかな。
絶対安全なところなんて言ったって冒険家にとっては退屈しのぎか、スポンサー集めだ。

僕の眺めたアフリカって、本当に動物奇想天外だった。
冗談みたいなアフリカ。
本物のアフリカ。

いや、アフリカって本当はもう少し都市なんだろ。バックパッカーなんかでも歩いてるんだし。

少なくとも、きっとそのサバンナを歩くバックパッカーなんていないだろう。

ああ、冗談みたいな本物のアフリカ。
絶望。

それが僕のファーストアフリカだった。


iPhoneから送信
posted by ちょろり at 02:30| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

アフリカ1

その頃の僕にとって世界はどうだったのか。

それってずっと続く疑問だ。
NATOのユーゴスラビア爆撃。
それはきつと小学生の頃で、悪い国にアメリカが爆弾を落としている、そんな感じだった。

結果としては爆弾を落とされる国ってのは悪い国なのかな。
そんな風に考えたけど。

本当の良し悪しなんて僕に分かるわけもなく。

また、僕は出かけることにした。
アフリカ。


iPhoneから送信
posted by ちょろり at 02:19| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月20日

飯を作るとレシピを見ろと言われる。

飯を作るとレシピを見ろと言われる。
美味けりゃ何でも良いんじゃないかと思うが、美味いものより不味くて良いからインターネット上で評判の良いものを食べたいのだと言う。

書き物をしてると不思議に思うのが、生身の人間より文の情報を人間って信じる。
何ともヘンテコな話だなと思うのだが、ペンは剣よりも強し、という言葉もある。

元々は暴力で圧するより、言葉の方が人間は納得して自発的に動く、つまりは北風と太陽というような意味だ。
しかし、今はすっかり逆転してしまっている。
ペンの方が遥かに暴力になりつつある。

ここ数年、調べ物をするのにインターネットというのは昔より役に立たなくなったと感じることが多い。
広告収入、まあ、私もそれでいくらか収入を得ているのも事実なので全否定もできない立場なのだが、検索キーワードに引っかかるように文を作れば、検索の上位に出てしまう。
その方法というのが実にチープなもので、
・更新頻度
・写真の有無
・キーワードの現れる頻度
・ロボットじゃなく人間の手書きによるもの
なんて辺りで、情報のディープさ、詳しさというのは関係ないのだ。

だから、そのルールに則ったページばかり出て来て、肝心の欲しい情報にいつまでも行きあたらない。

昔は広告収入とかって基本的になかったので、好きな人が好きな情報を作る。調べる人は気に入れば直接にその製作者に連絡を取って感謝を伝えた。
お金って基本的に入らなかった。
それでも、自分の好きなことを文や写真にして発信して、それを感謝してくれる人がいて。
純粋に好きな人が好きなことを発信して、好きな人が調べて読んだ。

はっきり言って、インターネットは死んでいる。
インターネットほど秀逸なメディアはなかなかない。
しかし、一口に言えば愚民がインターネットを殺してしまった。
コーヒーの入れ方一つにしても、調べてみたって大手企業のマジョリティ向けの宣伝や、キーワードだけたくさん散りばめたウィキペディアを書き換えただけのようなページにしか当たらない。

図書館にしてもそうだ。
情報を求めて行っても、入門書ばかりが書棚に並ぶ。
図書館にいる人だって、本当の本好きもいくらからいるけれど、何となく図書館に休日行くのがオシャレみたいな人々が増えた。

ーーー

すこぶる悪い言い方をするのだが。
生計に関すること以外のことって、余裕のある人の特権なのだと思う。
お金持ちの特権とかじゃない。
人生、等しく時間ってのはある。
それを何に割り振るかってのが人生だ。
何でもかしこでも知ってて素敵なんてわけにはいかないし、それを出来るのはそれこそ貴族であるべきなのだ。
庶民は時間が限られていてしかるべきなのだ。

一つのことをするって時間もかかるし、お金もかかる。
それが本来なのだ。

でも、どの業界もそうだけど、マニアじゃなくてビギナーを取り込もうとする。
そうしないと儲からない。
ノースフェースみたいなものだ。
本当の登山好きじゃなくて、タウンユースでも着たくなる服を作るメーカーが人気が出る。
人気のないメーカーはマニアにはうけたって、結局資金繰りが詰まって、何年かすると消えてしまったりする。

お金の上に立って生きていて良いことってあまりない気がする。
それでも、人間お金の上に立って生きている。
ずいぶん時間をかけた結果、お金の上に立つことに決めている。

ヘンテコな話だ。
ほんの数年でインターネットが死んでしまったりするなんて。

ま、そんなこんな。


iPhoneから送信
posted by ちょろり at 22:33| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月06日

時々、ケータイのゲームにハマることがある。

時々、ケータイのゲームにハマることがある。
元はペンキ塗りのアルバイトをしていた頃だ。
なぜかドカタの人たちってケータイゲームが好きだ。お金もかからないし休憩時間にぼんやりとタバコを吸いながらやるのにちょうど良いのだろう。話題にもなる。
ハイエースの中をタバコの煙で充満させながら協力プレイが何とかと話をする。
それぞれ一人親方でやってたり別の親方のところで働いているのを忙しさで人を貸し借りするのだが、共通の話題としてゲームがあるっていうのは良いのだ。
どうでも良い会話というのは大事で、サバサバしていると、誰それの現場の時は誰それがやる気がないとか、どこそこの親方の仕事の取り方がえぐいだのと、まあ仕事、日々の生活のかかった金を稼ぐための営みをしているとあれこれ揉め事が起きたりすることもあるらしいのだが、どっちでも良い時間潰しのようなゲームで協力プレイをしてたりすると、
「え、そのキャラどうやって取ったん?」
「今日何時からイベントだっけ?」
だの、まあ、実にどうでも良い会話で和気あいあいして良いのだ。
まあ、何かと程よいのだ。

そんなわけで僕もゲームを始めると、
「ふくちゃん、最初はこのキャラからやっていけばええんよ!オレをフレンド申請しとけば序盤は楽勝よ!」
なんて具合で優しく教えてくれたりする。
基本的に優しくて兄貴肌な人が多かったというのもあるかもしれない。
実際、僕はパチンコもやらないし、ナンパもしない、キャバクラも行かないし、若い頃にケンカもしなかったし、良い車も持っていないから、ペンキ屋さんでの話題ってゲームがあるとすごく助かった。

ペンキ屋を卒業しても、まあ、卒業といっても何も覚えていないのだが、基本的に塗料の缶を運んだり、塗料をまぜたり、簡単な下塗りだけやったりくらいだったのだが、何にせよペンキ屋をしなくなっても、僕はケータイのゲームを時々するようになった。
別に大して面白いわけでもないし、生産的でもない。
ただ、何となく心の癒しがあるのだ。
特に頭を使わずぼんやりとスマホをいじる。
そんなことが心の癒しになるのは不思議なことのようにも思うが、何にも頭を使わずぼんやりと時間を過ごせることって癒しになるのだ。

スマホのゲームなどしなくても、ぼんやり空を眺めれば良い気もする。
案外、これが出来ない。
旅の日々の中では簡単だったのだが、普通の日々だとアレコレ考え事があったりする。
何もせずぼんやり過ごす時間って案外難しい。

友人でスマホゲームの達人が二人ほどいるのだが、一人は世界ランクでも上位に行ったりする。課金なしでそのくらいは行けるとのことだが、確かにいつでもゲームをしている。
ちなみに彼も仕事がなかった頃はドカタをしていた。
もう一人は配送の運転手をしているのだが、運転中に延々とやっているらしい。

まあ、大人になるってのは多かれ少なかれそういうところがあるんだろう。
昔なら英単語の一つでも覚えるか、とかだったが、英単語を覚えたところで使う場面がない。仕事で使う機会があれば、必然的に勉強するし、勉強する必要がない場合は使う場面がないということでもある。
日々の生活、仕事の中で即戦力になるようなことしかしなくなっていく。或いは全く無意味なこと、してもしなくても良いこと。した方が良いことってのは、しないと罪悪感もある。してもしなくても良いことは、しなくたって良いので、気が向いた時だけぼんやりとすれば良い。気楽なのだ。

まあ、人生、そういう要素も必要なのだろう。
いや、必要じゃないからこそ気分転換に良いのかもしれないが。

ま、そんなこんな。


iPhoneから送信
posted by ちょろり at 22:24| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月04日

アフリカの話をそろそろ文にしようかと目論みつつ、すぐつまづく。

アフリカの話をそろそろ文にしようかと目論みつつ。
そうは言っても昔みたいに小説にするのはどうも難しい気がしている。
昔のは何だかんだで小説だった。
今回は写真集にしようかなと思いつつ。

そうは言っても、はっきり言って個人の旅日記なんかほとんどの人が興味ない。
それに対して芸能人や著名人の文章ってのは興味がある。村上春樹がトライアスロン日記なんて出したら、まあ、それなりに売れるような気がする。内容はどうあれ。
無名の個人の文章ってのは実に難しい。

手に取る人がいなければ、文とは寂しい。
一冊の本を作るときに難しいのはそこだ。
それでも、文とは寂しかろうと無意味だろうと存在しさえすれば存在しているのだ。

ーーー

小説とノンフィクションの境目って難しいとは思う。
以前の南米の話はノンフィクションではあったが、小説だったように思う。

ノンフィクションとは何ぞや。
これは難しい。
難しいので考えない。

ーーー

これまではBCCKSという出版サービスを使っていたのだが、今度はNEXT publishingなるサービスを試してみようかと考えている。

このNEXT publishingというサービスはAmazonのオンデマンドプリント、要は注文が入ってから印刷して製本して販売するというシステムを使ったサービスらしい。
PDFで入稿したら、あとは売れたら、その都度仲介手数料がかかるが基本的には作家の方は出費ゼロで出版が出来るというわけだ。
紙の本を発信するには良いサービスだ。

BCCKSは小説なんかには良い。
電子書籍でAmazonや楽天など様々な電子書籍ストアに配信してくれる。
電子書籍での発信のメリットは、とにかく購入者が安く手に入れられるということだ。
広く読んでもらいやすい。
出版社なんかの目に止まるチャンスも高い。

ただ、BCCKSはPDFなどでの入稿が出来ない。有料オプションでMacを使ってePUBファイルというのを作れば出来ないこともないのだが。貧乏人なのでWindowsしか持っていないので無理だ。
基本的にはブログのような形式で入力していくことになる。
写真をメインに本を作るとなると、BCCKSのやり方だと厄介だ。何より我が家のインターネットは遅い。オンラインでの原稿作成ツールを使うのはかなり無理がある。
オフラインでPDFで作って、紙の本に印刷してくれるってのは良い。
しかも、アマゾンで販売してくれる。
別に無料で良いのだが、現実問題として、
・紙に印刷するにはお金がかかる。
・電子書籍は現実的に普及していない
・Webページとして作っても良いが、Webページって流し読みになって最初から最後までを読んでもらえない。
なんていうことから、やっぱり紙で発信するというのは重要なのだ。

ーーー

はて、そんなわけで写真を整理してみたのだが。
どうも去年くらいに同じ作業をしてつまづいた覚えがある。

やはり僕は元が写真メインではないので、写真を基軸に本を作るってのがイマイチ分からないのだ。
起承転結を付けて、最後に向けて物語を進行させてテーマを展開していくというやり方しかして来ていない。

ふむ。
いきなりつまづいた。

結局、今回もアフリカ編は完成ならずか。
まあ、そうは言っても一応最後まで作ってみようかなと思いつつ。

どうもアフリカ編は以前に小説も書こうとして十万字近く書いてみたが、全ボツになったりと上手くまとまらない。
実際、アフリカでのことって何をどう文にすれば良いんだか分からないってのが本音ではある。

まあ、のんびりやっていくさ。
辞めてしまわなければ、いずれは完成する。
人生を通してゆったり長く執筆はしていけば良い。

まあ、そんなこんな。


iPhoneから送信
posted by ちょろり at 23:58| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月03日

青年くんはFXで勝負すべきか。

今日は自転車でぶらぶらと秩父の方へ出掛けた。

今年はちょろり草を出来るだけ毎日書いていこうと考えてはみたのだが、やはり自転車の方のブログと両方書いていて毎日ってのは難しい気がする。

それでも、毎日ちょっとでも何か書いてみて、何日か合わせて一本書くってのでも良いかって気はしている。

基本的には日記には鮮度が大事だと考えていたので、その日の日記はその日の内に書ききってアップロードしないといけない、続きを別の日にまたがるって微妙だと考えていた。
何より書きにくい。
日記なんて、そんな大したことを書くわけでもないので、一日経てば、なんでそんな話題を書いていたのかも思い出せなくなってしまう。
そうは言っても、そういう書き方も必要であれば、やはり覚えないといけないだろう。

ーーー

今日はお金と仕事のことなんか考えたりした。
知人の若者がFXで一儲けしてやろうと考えているのだ。そのことについて一緒に自転車で出掛けていたKさんなる人と、「どうなんでしょうね、心配ですね」などと話したわけだ。

実際、僕も株なんかはやっている。
FXも手を出そうか考えてもいる。
別に必勝法はない。
むしろ、先日、株の方で大敗してしまっている。僕の買った株が突然大暴落してしまっている。まあ、大暴落と言っても1年か、長くても三年ほど待てば元の値段くらいまでは戻るのだが。
株は長期的な目で見れば、その会社が上場停止なんかにならない限りは元の値段までは戻ってくる。

FXも基本的には放置していればいずれは元のポジションまでは戻る日は来る。
問題はFXはレバレッジ、つまり自分の持っている金額の何倍という商品を買えてしまう。10倍にしていれば、勝ちも負けも10倍になる。
これがFXで一発当てる人がいる理由だ。
逆に財産をなくしてしまう人も出てくる。

基本的には当たり前と言えば当たり前なのだが、勝ちだけ見込みの高い博打など存在しない。
FXは博打じゃなく投資だという人もいるが、噛み砕いて考えれば上がるか下がるかの丁半博打である。

基本的には丁半博打については倍プッシュし続ければいずれは勝てる。倍プッシュとは負けたら次は掛け金を倍にして賭けるというわけだ。
勝てば前に負けた金額を回収できる。
負けてもまた倍プッシュで良い。
問題は掛け金がそんなに続くかという問題ではある。
あとは倍プッシュして買ったという時に勝ち幅が小さくても意味がない。

投資と投機と博打の違いとは、負けた時の幅だ。
博打は負けたらゼロになる。
投機は負けるとゼロまでは言わずとも大きく負ける。
投資は負けても減るのは一部のみだ。
要は用意する資産を長期的に運用出来るかどうかだ。博打は負ければ一瞬で終わってしまう。
FXはレバレッジのかけ方によっては投資だし、大きくかけると博打以上にリスキーになる。
また選ぶ通貨にもよる。円、ユーロ、ドルの三代通貨はリスクは低いがマイナー通貨は暴落したりがある。

ーーー

Kさんは割と心配していたが、僕としてはFXでも何でも興味があることは試してみるのは良いことのように思う。
その若い子、青年くんとでも呼ぶことにしようか、青年くんは自動でコンピュータが運用してくれるシステムを30万円で買って一儲けしてやろうという魂胆らしい。

「そんな上手い話あるわけないだろ。やっぱり汗水垂らして働かないといけないんだよ」
というのがKさんの考えである。

Kさんの言う理屈は正しい。
実際のところ、FXはコンピュータでかなり勝てるというのも事実ではあるが、そこまで勝率の高いシステムが30万円程度で買えるとは思えない。
何せそんなに勝てるシステムなら30万円で売らずにそのシステムで儲けた方が早い。
何せ一万本売れたとしても30億円である。
30億円と言えば大きい金額のようでもあるが、放置しているだけで楽して勝てるなんて、そこまで勝率の高いシステムなら元の資金が100万円もあればすぐに稼げそうな金額である。

現実一万本も売れるかっていうと微妙な気はする。
何だかんだで一万人くらいは甘い話に飛び付く人も存在するかもしれない。
ただ、仮に一万人買ったとして、そのコンピュータが同じように投資するとしたら、一万人が投資する未来が製作者には分かるということでもある。ただ、一万人程度の投資で相場がどの程度動くのかってどうなんだろう。
世の中、もはや天文学的数字のような財産を持ってるような人もいるわけだし。

何にせよ、順当に考えればやはりK氏の理屈、「世の中そんなに甘くないって」
というのが正しい。

ーーー

ただ、実際に投資で大儲けしたことのある人を僕は二人ほど直接見たこともあるので、存外、可能性はゼロじゃないと思ったりはする。

ただ、青年くんは仮に勝ったとしても、結局上手く使えないような気がする。
博打で買った金とは湯水のように消えるものなのだ。
もちろん、一生をプロの相場師として生きていきたいと強く考えていれば話は別だろうが、単純に仕事が嫌で働きたくない、お金が欲しいってのは上手く行かない場合が多いのだ。

実際、僕の知る投資で大儲けした人は、勝ったは勝ったが、段々と数字の感覚がおかしくなってゲームみたいになって、結局最後は必要な分だけ残して、あとは全部賭けてなくしてしまったと言っていた。そして、焼き物職人として生きていた。今はどうしてるかは知らない。
もう一人の人はやはり膨大な金額を持っているが、どうもお金というものの感覚がよく分からなくなるらしく、高いもの、良いものと呼ばれるものを買っても全く嬉しくなくなって、世界を旅して、自分自身が価値があると感じたものにだけ使うようにしているとのことだった。なので、生活は意外なまでに質素だ。意図的にそうやって質素にしておかないと、喜びや面白みがなくなってしまうらしい。その気になれば、お金で買えるものは何でも手に入るってのも案外大変なのだそうだ。

青年くんも仮に勝ったところで、中途半端な価値なら湯水のように使ってしまって、むしろその後負けて借金になったりするかもしれない。大勝ちしたとしても、明確にお金を使ってどうしたいということもない。車が欲しいとかはあるみたいだが。

ーーー

根本的な問題としては、仕事をしたくないってところだろう。
まあ、僕もくたびれるので仕事なんかしなくて良いならしたくない。たまに気が向いた時だけちょっと働くなんてのが嬉しいは嬉しい。
でも、そうなると誇りってのは持てない。
サラリーマンだろうが何だろうが、やはり仕事には誇りってものがある。

というのも、仕事って意外と難しい。
子どもの頃は大人になればみんな何かしら仕事を出来るようになるものだと思っていたが、実際にはみんなそれなりの苦労をして今の自分の仕事が出来るようになっている。
苦労して出来るようになったことって、やはり誇りがある。

僕の場合、好きなことを仕事にしているけれど、やはり仕事は仕事である。それなりの苦労はある、というか好きなことを仕事にするのは苦労が多い。
縁があって結局自転車屋なんて形で働き続けているが、給料も休みも悪いし全くオススメはしない。
それこそ日が変わって一月三日となったが、今日も勤務だった。三が日くらいゆっくりしたいというか、年末年始は二週間くらいはぼんやりしていたい。
そんなわけで人にはオススメしないが自分としては誇りを持って働ける仕事なので良い仕事だと思っている。

ーーー

青年くんはFXで一儲けしたいというが、その実、一儲けなどしなくとも働きがいのある仕事がしたいという方が正しいのだろう。
「まあ、たしかに複雑になりましたよね。昔って働いていればそれで良かったけど。なんか最近ってテレビなんか見てると、年収は500万円とか、年間休日百三十日とかが普通って言いますしね。青年くんみたいに派遣で働いていると、仕事なんか馬鹿馬鹿しくも感じるし、FXで一発当てるって夢を見る方がよほど現実的かもしれないですよね」
「まあ、そうなんですけどね」
「そう、そんなんですけどね、ですよね」

ーーー

K氏とアレコレ言っては見るものの、青年くんは興味があるならFXで一発狙ってみるのが良いような気もする。

他人事だからってのもあるが、どかーんと二百万くらい借金してみるのと良かろう。二百万くらいなら10年もすれば笑って話せる借金だろう。
はたまたドカーンと大投資家になれるかもしれない。
はたまた案外どっちにもならず、単に30万円損するだけかもしれない。

ただ、モヤモヤとFXしてみたら大儲け出来るかもしれないと思い悩んでいるよりは、人生は経験だ。
200万の借金で買える経験なら安いものだと思う。
一千万円負けるとちょっと話は変わるけど。

実際、僕自身、海外に自転車で旅するということで何だかんだでトータルで二百万くらいは沈めてきた。実際に使ったのは百万くらいだが、その無職の期間に普通にサラリーマンしていたら入っていただろう収入なんか考えれば200万くらいは堅い。
それどころか、まともに大学を卒業してサラリーマンしていたら、今頃年収も百万くらい違って、ゴールデンウィークなんか十連休だったろう。
そう考えると20代の頃にほんの少し異国を自転車で放浪したことでの損失って500万円くらいに登るかもしれない。

でも、お金持ちが一億円出したって、自転車で異国を旅する経験は買えないのだ。
経験ってのはやはり偉大だと今も思う。
それでいくら得するか損するか、何かに役立ってるかなんかは知らないが。

人は思い出を積み重ねて生きるものだ。
目の前の札束はいくら積み上げても思い出にはならない。

ーーー

欲に駆られてFXしてみて、何が手に入るか。
それは分かりはしないが、青年くんくらいの年齢で30万円使ってやる遊びって決して安いものじゃないはずだ。
やってみるのは大事だと僕は思う。

少なくとも僕やK氏はしなかった体験だ。

体験なら何でもしとくべきかと言えば答えはノーだが。
本人が本気でしてみたいと感じることについては、やはり体験してみるべきだろう。
やるからには全力で勝ちに行く、全力で楽しみに行く。

そういう体験の積み重ねの先に仕事ってあるべきだろう。

まあ、そんなこんな。


iPhoneから送信
posted by ちょろり at 20:05| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月01日

ちょろり草は終わるのか、毎日になるのか。

平成が本当に終わるということを大晦日に知る。そろそろ終わるということは知っていたが四月までで終わるなんて具体的に決まっているなどとは知らなかった。
ニュースも見ないと。

別に狙ったわけじゃないけれど、ちょろり草も平成の終わりと一緒に終わるのかもしれない。
実質2018年はほとんど書かなかった。

ブログも長く書くと愛着が湧く。
かれこれ10年以上日記を書いた。
ちょろり草の前にも書いていて、最初は確か高校生の頃だった。ちょろり草の最初の記事はスマートフォンからの過去ログからは開けないほど古いが、その前から日々書いていた。

何のために日記を書くか。
一口に言えば王様の耳はロバの耳だろう。
別に悪口を書くとかいうわけではない。
日々生きていると思うことがある。しかし、それを全て口に出して人に話すことは出来ない。誰かに話すべきことじゃないってのもあるし、単純に物理的に不可能だということだ。
歩きながら考えついたことを延々と書いてみるという実験をしたこともあった。その頃はツイッターなんかも流行り始めた頃だった。

元々は小説の練習のため、ネタ帳的なものだった。
小説も書かなくなった。
最近は仕事の自転車関係の文についてはほぼ毎日書いてはいるものの、何とも無味乾燥でつまらない気がする。自転車に関する情報という意味ではある程度の意味はあるのだろうが、文章として面白かったり美しさがあったり、思想があるかっていうとないだろう。
数年もすればAIでも書けるようになるかもしれない文章とも言える。
その点、ちょろり草は未来永劫AIには書けない文章だろう。

王様の耳はロバの耳。
この話は元々は、神様の呪いでロバの耳にされた王様。王様の耳のことをしるのは行きつけの床屋のオヤジだけ、必ず秘密を守るよう約束するが、床屋は心にしまった秘密を我慢出来ず井戸に向かって叫ぶようになるのだが、井戸を通じてみんながそれを知ってしまう。耳の秘密を知っていたのは床屋一人だけなので王様は床屋を殺してしまおうかと考えるが、許してあげることにした。みんなの意見が聞けるよう大きなロバの耳になっているのだと打ち明けた。すると、その寛容の精神を神が認めて呪いを解いてもらえてめでたし、という話だ。
井戸じゃなくて穴を掘って叫んだが、その近くの葦が「王様の耳はロバの耳」と歌うようになって知れ渡るなどのバリエーションがあるようだ。

本来は寛容の精神のお話みたいなところだ。
ただ、このロバの耳の話っていうのに関して僕はしみじみ思うところある。

大人になるにつれて僕らは言葉を発さなくなる、そんな風に僕は思うのだ。
子どもなら王様の耳はロバの耳なんて気にせず叫ぶか、別に誰かに言いたいとも思わずコロリと忘れてしまうだろう。
大人になるほどにロバの耳のような問題が増えてくる。
正しいことを正しいと言えなくなったりする。
童話つながりだと裸の王様だろう。王様は裸だって叫ぶのには勇気がいる。
口にしてはいけない秘密や、言葉にしてはいけない考えみたいなのが増えてくる。

そういった言葉にしない方が良いことを口に出さず、言葉にせず、考えず。
そうやって生きる方が人生は楽チンだ。

でも、それをやってると世界は滅んでしまうだろう。
暗黙の多数決ってのがある。
基本的に今の世界は多数決だ。多数の単位は何人かじゃなく、権力やお金なんかも含めた力の強さだ。
少数派が声を上げてもいかんともしがたい。
昔はデモとか学生運動なんかがあったそうだが。

平成がいつ終わるかも知らなかったくらいなので、最近は本当にニュース、政治などさっぱりなのだが、安倍首相がトランプ大統領と仲良さそうに映っているのを見ると、詳しいことは分からないが、なんかこりゃヤバイんじゃないかなって思う。
中国がスーパーパワーを持ち始めて、世界に不穏な空気が出ている中で、原発も吹き飛んだし、アメリカさんに助けてもらうために、これまで以上に媚びないといけないとかの理屈は分かるが、それって本当に大丈夫なのかって話だ。
多分、多くの人がそういうのって思っているだろう。もちろん、政治に関する考え方って人によって違うから、安倍首相が好きって人も中にはいるだろうし、トランプさんが好きって人もいるだろう。

こんなこと言うとアホかって思われるかもしれないが、トランプ氏と安倍氏はとにかく顔が悪い。トランプ氏なんか赤いネクタイなんか付けるからますます際立つ。
テレビでもインターネットでも、その二人が握手したり仲良さそうに立っている絵が、もう何とも駄目なのだ。
それが何と我が国の代表なのだ。

顔や見た目で人のことを判断しちゃいけないとはいうが、北の将軍様もやはりビジュアルは良くない。一目見て、「あ、なんかヤバイやつだな」ってなる。
ヨーロッパの国の代表なんかって割とみんなキリッとしている気がする。そりゃ、ブサイクも中にはいるかもしれないが。
昔ドイツが暴走していた頃、ヒトラーも写真をちょっと見ただけで、「あ、このおっさん目がなんかヤバイな」って感じだ。

顔で政治をするわけでもないが。
それでも、学者なんかと違って政治家って人の心を掴めないといけない。
やっぱりブサイクとかヤバイ顔って駄目なんじゃないかと、個人的には思うわけだ。

そりゃ、顔、風貌だけで選挙を決めるわけにもいかない。
ただ、やはり首相なんかは国の代表、それこそ顔なわけだ。
安倍氏とトランプ氏の並んでる絵なんか見ると、「ああ、あそこの国とはあまり関わりたくないな」って思うんじゃないだろうか。
北の将軍と三人揃ったら、絵だけ見れば何だか気が合いそうではないか。

首相以外なら良いが、首相に関しては容姿ってもう少し小綺麗な紳士がなって欲しいと思う。
もちろん、きちんとした政治ができる人が一番ではあるが。
少なくともアホみたいな似合わない赤いネクタイをしめるような男が僕らの代表にはならないで欲しいとは思う。
別にアメリカが嫌いとか、アメリカに媚びるのがどうとかは思わない。大抵の国はアメリカさんと良い関係で世界を渡り歩きたいのだから。

それでも、仮にの話だが。
北の将軍様が物凄い渋いイケメン紳士で国民が植えていなかったら、世論ももう少し違ったようにも思う。

もちろん、政治は顔でするものではないのだけれど。

ーーー

そんな政治の話は置いといて。
そういう話って日記ではダラダラ書けたって、誰かに対して話すってのもはばかられる。

当時高校生だったり、大学生だったり、プー太郎だったり、旅人だったりした僕は思ったものだ。
大人になるにつれてみんなが言葉にしなくなることを、正しいと感じる正しいことを自分は考えていこう、と。
マジョリティー、マイノリティー関係なく、自分が思うことを大事にしよう、と。

ーーー

はて、じゃあ、平成が終わるのと同時にちょろり草が終わるってのはどうなんだ?という話でもある。

本音を言えばよろしくないと思う。
ちょろり草とは不滅であるべきだ。
読む人がいようが、いなかろうが。

しかし、日記とは日々書いてこそだろう。

はれときどきぶた、という童話があるのだが、この主人公も日記を書く。未来のことを日記に書く。でたらめなことを書くとそれが現実になってしまう。
小さい頃に母が買ってくれた本だが、非常によく出来た作品だったと思う。

多分、僕の勘違いだろうが、その中で日記とは毎日書くものだみたいな記述があったような気がしている。多分記憶違いだろうが。

何にせよ、最近は全く書かなくなったが、日記とは毎日書くべきだというのは僕の中では大事なのだ。

対照的に糸井重里氏のほぼ日、ほぼ日刊糸井新聞は、これ、まあ実に上手いタイトルである。
ほぼ日刊。
実に甘美な良いタイトルだと思う。
現実として毎日ってのは無理なこともあるが、ほぼ日刊というのは実に良い。

日記絡みで言えば、森博嗣氏のモリログアカデミーというブログも良かった。書籍でも出ている。
森博嗣氏はスカイクロラが映画化されたのが有名だろう。どのシリーズも結構ハマる。当時は名古屋大学の工学の教授をしながら小説家もしていた。
モリログアカデミーの素晴らしい点は本当にただの日記なのだ。最初に最近の原稿の執筆の進捗の話で、あとは大抵は愛犬と鉄道模型なんかの話が多かった。その後、その日考えたことなんかを書いている。はっきり言って僕は犬なんかどうでも良いし、鉄道模型もさっぱり分からないのだが、淡々とした日記が何だか心癒された。
淡々とした日記ってのは良い。

ーーー

最近の僕はどうも文を書いたり読んだりする時間を上手く作れない。
店長さんになって一年目だったということもあろう。
ただ、書斎に1時間こもって机に向かうという時間がうまく作れないのだ。よろしくない。

2019年はちょろり草が終わるのか。
はたまた書斎に1時間こもれるようになって、再び毎日書けるようになるのか。

誰かと暮らすとは難しいものだ。
それでも、朝少し早く起きれば1時間くらいは作れるだろう。
僕は朝起きるのが嫌いなので難しいだろうが。

それでも、30代になっても一日の中で自分の時間を作れるかってとても大きな課題だと思う。別にその時間の中で他の人から見れば特に大したことをしていなくたってだ。自分にとって大事な時間というのを1時間は難しくとも30分で良いから作る。
人と暮らすようになろうが、旅に出ていようが、子供が生まれようが。
どんなときにでも一日の中に自分の時間を作る。
もちろん、家族は大事にしながら。
今年の課題である。

ま、そんなこんな。


iPhoneから送信
posted by ちょろり at 23:38| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月27日

自分だけのための人生の墓場。

アフリカに行ってからどことなく老けたような気がする。単純に燃え尽き症候群だろうか。それでも、とにかくあまり物を考えなくなった。仕事が忙しくなったというのもあろう。人と一緒に暮らすようになったからということもあろう。

一つ大きいのは人目を気にして文を書かなくなったということだ。
仕事関連の無感情な文、自分にとって不利になるような文を書かなくなった。つまりは思想的な文や批判する文だ。

利害的なものもあるが、批判できなくなったということもある。
かつて自分が批判していたような人間に自分もなった。まるきり全てではないにせよ、まずあまり戦わなくなった。かつては戦ってナンボみたいなところがあったが、今はそういうのがなくなった。

みんなそれぞれ色々ある。
そう思うようになった。

日本は良くないとか、今の社会は良くないとかって素直に思わなくなった。
じゃあ、良いと思うようになったかと言えばそうでもない。
でも、みんなそれぞれ色々ある。
あと、僕も何だか忙しくなった。

忙しくなったとは言っても、実際何か大したことをしているかと言えば、昔の方がよほど大したことをしていた気はする。
どちらかと言えば雑事に追われている。
例えば飯を食うにしても、昔は自分一人の飯だったのでモヤシを炒めるか、カレーを作るか、チルドの餃子を焼くかくらいだった。自分は今もそれで構わないのだが、一緒に暮らす人もそれで良いというわけにはいかない。料理は半々くらいなのだが、相手が作ってくれれば、きちんと食べねばならない。
パソコンで調べ物しながら、タバコ片手にメモを取りながら食事するというわけにもいかない。掃除、洗濯にしてもそうだ。休日にせよ何にせよ、自分のためだけに全てを使うとはいかない。
特に調べ物、書き物という点では人と暮らす、誰かと生きるってのはデメリットが多い。
書くっていうのは膨大な時間が必要だ。今夜のように寝付けなくて深夜まで一人で起きているという日でもなければのんびり文も書けない。一緒に暮らしているのに毎晩そういうわけにもいかない。
当然、飲みにも行きにくい。飲みにいかないといろんな人と話したり眺めたり出来ない。

じゃあ、今の暮らしが良くないのかと言えば、そうでもない。

結婚は人生の墓場とは言うが、たしかにそうかもしれない。一つ目の墓場だろうと思う。自分のためだけの自分だけの人生が終わる。
誰かと生きる人生が始まる。

誰かと生きていて何か良いことがあるのかと言うと、寂しくない。
少なくとも文を延々と書かないとやりきれないような寂しさはない。
そうは言っても、それで何か生産になっているかと言えばそうでもない。
子どもを作れば未来を作ることにはなるが、とりあえずのところはまだ予定はない。

子どもを作るっていうのは、ある意味便利なことだなと思う。
もちろん大変なことだけれど、とにかく子どもを産んで育てる、これだけで人間として価値がある。生き物として価値がある。
非常にシンプルだけれど、生き物としては一番意義のある行動だ。

しかし、誰かと生きる人生、子どもを育てる人生となっても、自分のための人生ってのは完全に消失しない。結婚は人生の一つ目の墓場ではあるが、結婚しようと何をしようと死ぬまでは自分ってのは自分なのだ。自分のために自分が何かをしてやらないといけない。
やはり自分のための時間、活動ってのは何かしら確保しないといけないだろう。

アフリカで価値観が広がり過ぎたのかもしれない。
人間とは人間なのだ。
生きていれば生きた人間なのだ。
何も理解できていない気はするが。

ま、そんなこんな。


iPhoneから送信
posted by ちょろり at 02:02| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月23日

時々、なぜこんなところにいるのだろう、という気持ちになることがある。

時々、なぜこんなところにいるのだろう、という気持ちになることがある。
群馬県だとかの土地の話ではない。人生の場所という意味でだ。
じゃあ、どこにいれば良いのか、いたい場所なんかがあるのか。

ひどくつまらないような気持ちになる。
昔はもっと楽しいことがあったような気がする。
実際には多分昔もそんなに楽しいことなんてなかった。
或いは今もそんなにつまらないわけでもないのかもしれない。
そう、別に何も悪くはない。

ベルリンの友人のことを考える。
別に立派なことをしてるわけでもない。ヒッピーみたいな具合で転々と生きているだけ。今は偶然ベルリンにいる。もしかすると、ずっとベルリンにいるのかもしれない。
異邦人として生きる。
多分、大変なことだろう。彼は大学も出ていない、本当のフーテンだ。アメリカに住む友人もいるが、そちらは大学を出て日本企業の現地駐在員としてアメリカに暮らしている。賢いのはきっとアメリカの方の友人だろう。
少なくとも僕よりは賢いし立派だ。

それでも、不思議とベルリンの男ってのは心捉えるものがある。
何をして生きてるんだか。異国には焼き鳥族ってのがいるのだが、要は留学なんかで行ったは良いが勉強についていけなかったり、夜遊びばかりに走って、結局日本料理店で焼き鳥を焼くアルバイトをして、言うなれば海外でフリーターしてるような人だ。ベルリンの彼は言うなればそういう焼き鳥族の一種なのかもしれないが、かと言って単純に学生時代の焼き鳥族でも、ワーホリ焼き鳥族でもない。クリーンさがないのだ。
もしかすると、お酒やマリファナだとかのやり過ぎで頭がラリってしまっているだけなのかもしれないが、なぜかベルリンの男は心に掛かる。
ミュージシャンでもアーティストでもない。
フーテンとは言っても別段放浪し続けてるわけでもない。

なんていうか彼は本当に一人きりで異国で遊び続けているのだ。
ただ、楽しいことを求めて。

いや、実際には近年、彼が何をしてるんだか分からない。
案外、言わないだけで大きなビジネスなんかしてるのかもしれない。実はすこぶるカタギな生き方をしているのかもしれない。
可能性はゼロではない。
僕も歳を取ったみたいに、彼も歳を取っているかもしれない。
僕がどうしてこんなところにいるんだろうと感じるようになったように彼もそんな状況にいるのかもしれない。

昔は友人で誰かすこぶる売れる映画でも発表して有名人にならないかな、なんて思ったり、スーパーミュージシャンやすごい画家になるやつが現れないかななんて思ったりした。
でも、最近はあまり思わない。
映画監督を目指していた男がいて、彼の場合、今もプロで映像屋をしているので、ふとヒット映画を出したりする可能性もゼロではないが。
もちろんそうなれば嬉しいは嬉しいのだが。

何というか。昔と違って、社長になるやつがいても不思議じゃない年齢になった。年収一千万円オーバーのやつがいても別に不思議じゃない歳になった。
何千万円だかの住宅ローンを組んで家を建てるやつがいるのも普通の年齢。
誰かが不意に大ヒット映画を作ったって、まあ、すこぶるすごいことだし、とても嬉しいことだけれど、なんというか有り得ることのように思えてしまうのだ。

なんて言うか出来ることが増えてしまって逆に夢がない年齢になってしまったのかもしれない。
自転車世界一周だって、やってやれないことはない。別に僕に限った話じゃなくて、自転車なんて全くの素人でも出来ないことはない。資金を集めて、年月を費やす覚悟とヤル気があれば誰にでも出来る。それこそ、先日、世界一周した人は今は再び南米を走っているが、元々は自転車なんて全くの未経験の人だったという。
南極点だって、本当の本当にヤル気になれば誰でもチャレンジは出来る。
大人ってそういうものだ。時間もお金もある。何よりも自分のことを自分で責任を取る。子どもと大人の違いはそこだろう。だれかに責任を取ってもらうとかってない。だからこそ、出来ることは増える。

でも、出来ることは増えたのに、やれることは随分と減った。
例えば明け方まで納得が行くまで文を書き続けるということ。昔はいくらでもやったけれど、今はやれない。もちろん、出来なくはないはずなのだ。
しなくなったとも言えなくもないが、やれなくなったっていう方が正しい気がする。

さらに歳をとれば家族が出来たりとかってのも出て、またやれなくなることは増えるだろう。
家族が出来るのは素敵なことだけどね。

どうしてこんなところに来ちまったのか。
じゃあ、どこに行けば良かったのか。
そんなにそこは良くないところか。
別に悪いところじゃないさ。
でも、どうしてこんなところに自分はいるのだろう。
そもそもここは一体どこなのだろう。
別にそんなことを知らなくても明日は生きていけるし、きっと知らない方が良いのかもしれないし、知ろうともしないのかもしれないけど。
どこだか、どんな場所だか知らないけど、どうして僕はここにいるんだろう。

昔は自転車で旅に出れば全てが解決したけど、多分、しばらくはそういうことでは何も解決しないんだろうな。

まあ、そんなこんな。


iPhoneから送信
posted by ちょろり at 01:20| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月11日

野球の夢。

悪い夢に目を覚ます。
野球の夢など見るのはいつ以来だろう。
なぜか甲子園出場していて、僕は控えの捕手なのだが、突然、代打で出ることになり、そのまま捕手として守備に出ることになった。捕手として出る公式戦としては初試合らしかった。
しかし、プロテクターが見付からない。
「オーケー、オレが少し行って時間を稼ぐよ」
と言って友人が肩慣らしの間だけ代わりに出てくれた。しかし、僕のプロテクターは見つからなかった。

高校生の頃に野球を辞めた。小学校一年生からしていたのだが、高校一年の頃、勉強を理由に辞めた。実際、その頃の僕は医者になりたくて熱心に勉強していた。医者を目指すとなると、野球部の朝練、毎日の午後練をして七時半に帰宅してから3時間程度の勉強は必要だった。そして、また六時過ぎに起きて朝練に行く。12時に寝るとしたら、本当に休む暇なく野球をしているか勉強しているかになる。
これだけ強靭なメンタルで練習しないといけないのに野球部は弱かった。進学校の野球部とはそんなものだ。
一年の夏に辞めた。

一口に言えば、その野球部は練習時間が長過ぎか、或いは学校の出す課題が多過ぎだった。
僕のクラスは三年になると、いつも何人かが勉強のし過ぎか、勉強のプレッシャーでメンタル的な理由で休んでいた。ちょっと病的に勉強を詰め込み過ぎだった。

そう考えると合理的な理由で辞めたと今でも思うし、納得もする。
ただ、現実問題としては、僕は医学部には入れなかったし、大学も卒業しなかった。

夢から覚めた時に、ひどく心が痛んだ。
野球をしていると、ひどく緊張することがあった。チームスポーツに共通のことかもしれないが、プレーが回ってくると緊張する。失敗すると負けてしまう。
でも、試合で活躍したい、良いプレイをしたいからこそ練習もするので、試合でプレーが回ってくるっていうのは本来的にはゴール、目指すべきポイントの一つのはずなのだ。
多分、性格が出るのだろう。先頭打者ってのは気楽だ。みんなの期待がある。ノーアウトからランナーが出ると有利だ。でも、ノーアウトからランナーが出る確率ってそこまで高くはない。打率三割のバッターなら、フォアボールを入れても出塁率五割となればかなりの良いバッターになる。そもそも打率三割ってのはかなり良い。
良くて五割。期待はされるが、出れなくたって、ああ、残念で終わる。
リスクのない活躍のチャンスだ。
対して三番、四番は厄介だ。ランナーがいればホームに返す仕事になる。ツーアウトランナーなしでもホームランが狙えるバッターなら期待は掛かる。特に四番は後がない。三番は後ろに四番がいる。
バッティングはまだ良い。成功率の方が低いという前提だ。
守備はそうはいかない。ヒットの当たりは仕方ないにせよ、普通の打球はアウトにして当たり前なのだ。
そして、バッティングは自分が失敗しても誰かが入れてくれる。即負けにつながるわけじゃない。
しかし、守備は自分が失敗すると点になる。これは負けにつながる。特に外野手はミスが許されない。一発で点につながる。

野球では投手と捕手っていうのはとても特殊で、圧倒的に長時間ボールを持つことになる。
基本的に痛い。
投手は肩が痛くなるし、捕手はキャッチングを失敗すると指が痛い。
どちらかでも悪いと試合は負ける。

まあ、どこの守備位置も緊張感がある。
チームスポーツってそうだ。自分のミスでチームが負ける。
逆はない。自分の活躍だけでチームが勝つってことはないのだ。チームがつながって初めて勝ちがある。

起きた時の不快感はそういう緊張感のせいもあったろう。久々に味わう緊張。
そして辞めてしまったということ。
そのことにいまだに罪悪感を持っている、まさか10年以上たって夢に見るとは。

たらればを話したって仕方はないが、野球を続けていれば僕の人生は違ったんじゃないかと思うことはある。
医者にはなれなかったにせよ、大学は出れたと思うのだ。野球という集団に属して、人からはみ出ることなく生きていけたんじゃないかと。
多分、こうして文は書かなかったろう。
書く時間などなかったろう。
書く時間を取ろうとも思わなかったろう。
でも、多分、それなりの大学に行って、それなりの企業に勤めて、それなりの生活をしていたんじゃないかと思う。

逆に野球をしていたら、あの頃辞めていれば良かったと思っただろうか。辞めていれば医者になれたかもしれないのに、と。
結果論ではあるが、野球を続けていた方が勉強はしたような気がするし、医者にもなれたかもしれないとは思う。

たらればを言っても仕方ないが、結果は今の通りだ。
少なくとも野球を続けていたら今みたいな暮らしは無かったろう、良くも悪くも。

ただ、夢の中でもう少し良いプレーは出来たかもしれない。
あまり意味はないかもしれないが。それでも、僕は夢の中だけでも良いプレーをしたかった。

ふと一度だけ出た高校の公式戦を考えた。一年生大会というやつだ。
一回戦から強い高校とぶつかって負けた。
その時、相手のランナーにやたらと盗塁された。足も速かったし、投手が牽制、クイックモーションがロクに出来なかったせいもある。ただ、その事を考えると、タイムを一度取って、投手や野手に牽制の練習をさせれば良かった気がする。高校野球の弱小チームと強豪チームの差は残酷なまでに厳しい。だからこそ、勝ち負けは仕方ないと思い切って、今後の試合のために思い切って牽制の練習を投手と野手全員に実践の中でさせるべきだったんじゃなかろうか。
そうやって開き直ってしまえば、どこかに勝ちを掴むための糸口が出来たんじゃなかろうか。勝てなくたって投手を実践の中で成長させる何かがあったんじゃなかろうか。
勝ちを諦めるのは良くないとは言えど、試合の中で何かを掴むっていうのは大きい。
捕手っていうのはタイムをかけてそういう指示を出せる。
本来は監督が出すべきなのだろうが、監督が生徒に勝ちを諦めさせるわけにもいかない。

少なくともチームの次の試合のための何かを出来れば、僕は野球を辞めずに最後まで続けられたんじゃなかろうか。

続けたところで何があったというのか。
そもそも、今の暮らしだって気に入っている。
楽しい。
嫌なことも少なくないし、給料も休みも少ないけど、好きな事を仕事にするのは生き甲斐みたいなものを感じる瞬間がある。

それでも、夢の中でもう少し良いプレーが出来たんじゃないだろうか。
少なくともプロテクターを付けて、グラウンドに立って試合に入れたんじゃなかろうか。

ひどく寂しい、悲しい夢だった。
posted by ちょろり at 00:45| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月02日

ダメな人間ってのがいるものか考えたりする。

ダメな人間ってのがいるものか考えたりする。
どうも自分にはリーダーシップがないらしく、部下がどんどんと仕事をサボるようになっていく。当人たちはサボっている自覚はないのだろう。
基本的には、「それは私の仕事じゃないですから」「○○さんはしてないのに私だけしないといけないんですか」みたいなフレーズになってしまう。こうなると僕はもう諦めてしまう。
すぐ諦めるのは悪い癖なのだろうが、昔、勉強していた時に分かったことがあるのだが、出来ない人間はどうあっても出来ないのだということだ。別に勉強が出来ないからって駄目ってことはない。
ただ、出来ないものは出来ないのだ。なぜ出来ないってマインドセットが出来ないからだ。

僕は芸能人の顔と名前が全く分からない。目の前に明石家さんまがいても分からない。特に今はテレビ自体見ないので、誰が有名なんだから名前すら分からない。一口に言えば興味がないのと、必要性を感じないからだ。
芸能人の顔と名前は分からなくても今のところ困ってはいない。
興味と必要性を感じるのに出来ないことと言えばジャズギターの演奏だ。これに関しては僕は興味もあるし、必要性も感じている。ジャズが出来ればやはり人生楽しかろう。
なので勉強してみたし練習もしてみたのだが、ジャズギターはさっぱり分からない。
要は出来ないものは出来ないのだ。

恐らくジャズギターを出来るようになるためには、まずバンドを組む必要がある。ジャズじゃなくて普通のバンドでも良い。そして、楽曲をいくつかこなさないといけない。そうして誰かと合わせる、一曲を誰かと演奏しきるっていうやり方を知らないといけないのだろう。恐らくそのためにはコードをつまずかず弾けたり、ちょっとしたソロを取れたりしないといけないのだろう。そこからジャズバンドとかに入って自分に必要なスキルみたいなものを感じて練習していくのだろう。
要は環境が作れないから出来るようにならないのだ。

重要なのは環境を作れる能力があるかどうかだ。

最近は珍しくロードバイクのレースのトレーニングなんかをしている。
これは環境があるのだ。
以前いた店よりもお客さんがレースに興味があり、高額な車体にも興味があるし、早く走れるようになる方法を知りたいと思っている。
こうなると自分もいくらか速く走れた方が良い。最速まで言わずとも、ある程度、少なくとも一般人には程遠いレベル、実業団レーサーにヤバイと思わせられるレベル、自転車屋の店長ってのも大変なのだ。
何にせよ、そういう環境にいると、日々トレーニングをする必要性、興味、そして速くなるための環境みたいなものがある。
次の春くらいまでにワンランク速くなるだろうと思う。
別に速くて偉いわけでも何でもないが、やはり職業上、遅いよりは速い方がいくらか良いことはあるだろう。

小説に関してはどうだろう。
出来ない人間なのだろうか。
小説が書けるか書けないかって、読みたいものを理解する力だと思う。自分はこういうものを読んでみたい。こんな小説があれば良いのに。
自分自身の読みたいものに限らず、多分こういうのを読みたいって感じる人々が世界にいるんじゃないだろうか、っていうところまで拡張出来れば良いのだろう。はたまた、世界にこんな小説があれば良いのにと思う力だろう。
最近の僕にはそういうのがめっきりない。
偶然、当たる面白い読み物、作品というのはあるにしたって、どうも声が聞こえない。人の心が見えない。

昔はもっと人の心が見えた気がする。こういうことをすればどう思われかみたいなことを考えていた気がする。
歳を取ると、特に男の人って横柄な態度を取るようになる。接客業をしているとよく思う。仕事なんかでは謙虚なのかもしれないがプライベートに関しては男の人は歳を取ると横柄になる。特にサラリーマンの人はそうだろう。経営者の人とかって意外とそうでもない。まあ、いついかなる時も会社の看板を背負って生きているわけだ。どこそこの会社の社長が非人道的な振る舞いをした、などとなれば会社の評判が下がるし、それはイコール自分の財産が危うくなることだ。それに経営者とは人を動かしてナンボだから、やはり人に対する接し方みたいなものは洗練されたものがあるのだろう。

はて、ダメな人間。
別に成功者と呼ばれる人が良い人間というわけでもなかろう。それにしたってダメな人間とは何ぞや。
生きてればいろんな人からいろんな評価をもらう。
良い評価ばかりじゃないし、悪い評価ばかりでもなかろう。
悪い評価が多いからダメな人間かと言えばそうでもなかろう。

最近、僕にはエリキムエンダというアフリカ人からお金かしてとよくメールが来る。エリキは非常に良い人だった。なんと親切で素晴らしい人間だろうと思った。アフリカの小さな村のオートバイのメカニックなのだが、当然と言っては失礼だがお金はないだろう。彼はその村で非常に僕に親切にしてくれた。僕は感謝の気持ちに彼に何か礼がしたかったし、その頃、毎日ギブミーマネーと人々に言われていたこともあって、彼に少しチップをあげたいと思ったのだ。しかし、彼は断った。それどころか朝ごはんやジュースなんかをご馳走してくれた。村のジュース屋さんには冷蔵庫によく冷えたマンゴージュースがあった。その辺で拾ったマンゴーをしぼっただけのものだろうが、これがすこぶる美味しかった。アフリカの村ではコーラを買うにしても冷蔵庫がないことも珍しくない。エリキは村を案内してあげようと言い、一周することになった。普通の民家のようなところに入る。土を固めたような壁の立方体の空間の中にプラスチックの椅子が三脚ほど、そして冷蔵庫があった。エリキは女の人を呼び、そして冷蔵庫からマンゴージュースを出してくれたというわけだ。エリキの知人の家なんだか、それとも村のジュース屋さんだったのか。恐らくジュース屋さんなのだろう。エリキの知人、普通の人が家に自前のプライベートな冷蔵庫を持っているとは考えにくい。
エリキに何があったんだか分からないが、僕が日本に帰ってしばらくして、エリキはダルエスサラーム、タンザニア最大の都市に住むようになったらしい。ダルエスサラームはアフリカの中では巨大な都市だ。中心部にはなんのビルだから詳しいことはよく分からないが、ドカンと明らかにアフリカらしくないビルが建っている。先進国のビルと変わりない。そのエリア以外にもビルはあるが、ビルというよりは日本だとボロい団地みたいな建物だ。アフリカらしくない綺麗なビルには国連の何だかが入っているとか何とか言ってた気がする。
それでも、道路の真ん中に謎の穴、僕は初日からその穴に片足落ちて大怪我しかけたりしたのだが、そんなのがあったり、少し離れれば、ああ、アフリカではある。そうは言ってもダルエスサラームは飛び抜けて大都市である。アフリカとは僕ら日本人の想像を越えてアフリカである。

さて、エリキ君は冷蔵庫がないのも当たり前な感じの村、実際、その村に泊まった夜は停電で電気がつかなかったのだが、それがなぜだかダルエスサラームに行った。
かつてはチップどころか朝飯代すら受け取るのを拒否した男がなぜかギブミーマネーになった。プリーズヘルプミー、アイスタートスモールビジネス、アイニードヘルプ。みたいな具合である。ちなみにこれはエリキに限らずアフリカで知り合って連絡先を交換した人からはぽろぽろ来る。基本的にみんなスモールビジネスを始めたいから少しお金支援してと言ってくる。1000ドルからスタートして500ドル、ほんの少しで良いからとお願いしてくる。じゃあ30ドルくらいなら良いよ、で、どうやってお金を送れば良いの?となったところで基本は終わる。ウェスタンユニオンの海外送金を使ってくれと言ってくるがやり方もよく分からないので、分からないと言って終わる。
実際50ドル程度なら支援したって良いと思っている。世話になった。50ドルというと僕ら日本人には、まあ、少ない金額だ。世話になった人が困ってるならあげたって構わないと思う金額だ。
ただ、タンザニアの地方の人にとっては半月から一月の稼ぎに近かったりする。少なくとも50日毎日ビールを一本ずつ飲める。僕ら日本人にはビール一本じゃ物足りないが、彼らの収入だと1日に何本もビールを飲むって簡単じゃないように思う。まあ、人によるのだろう。実際、村でビールをご馳走してもらったこともある。
そう、お金があるときには人にご馳走するのも、お金がないときに人にご馳走してもらうのも彼らには自然なことなのかもしれない。
僕はタンザニアのことを深くは知らない。せいぜい一月くらいだ。それもたいていは自転車こいで、飯食って、ビール飲んで寝てただけだ。ちなみにタンザニアのビールは結構美味しい。アフリカの走った国の中ではタンザニアがビールは一位だった。あとはナミビアか。でも、ナミビアと違ってタンザニアのビールは大きかった。バリディ、サーナと言わないとぬるい常温のビールが出て来る。意外と慣れてくるとそれも結構美味いのだが。
その程度しかタンザニアのことは知らない。でも、ダルエスサラームは好きじゃなかった。
何だかスラムって感じがした。もちろん、タンザニアの中では最も大きくて洗練された都市なのかもしれないが。アフリカの首都はどこもそうだったが、貧富の差みたいなものが明確に見えた。村なんかは貧しいのだが明るい。貧乏は身近なものであり、忌み嫌うものでも不幸なものでもなく、普通のことみたいな。貧しさに親しみみたいなものが感じられた。もちろん、大変なのだろうが、悲壮感みたいなのがなかった。
エリキはなぜダルエスサラームに行ったのだろう。

エリキはお金持ちになろうとしたのかもしれない。
裕福な暮らしを夢見たのかもしれない。
それは責められることではない。

お金が欲しい。
でも、働きたくない。

人間ってそんなもんなんだろうか。

ダメな人間とは何だろうか。

ま、そんなこんな。


iPhoneから送信
posted by ちょろり at 23:21| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月14日

致命的に腑抜けたような日々。

あまり日記を書かない日々。
日記とは日記であり、雑記であるべきだ。
自転車に関するコラムなんかはあれはコラムであり、やはりぶつぶつと日々のことを綴るのが日記なのだ。

リトルミスサンシャインなんて映画を観た。
特に山場もなく、ドンデン返しもない平和な映画だ。サザエさんみたいな映画だ。
エルトポなんかも観た。こちらは何ともアートな映画。基本的に絵が美しいし、面白い。フランツカフカの城を読んでいるような感覚のする不思議な映画だ。
エルトポと比べるとリトルミスサンシャインは実に平和でサザエさんで面白みみたいなものってないのだが、ここまでサザエさん、平凡を重ねられると、これはこれで一周して良い映画というか。こういう良い映画、サザエさん的良さの作品があればこそ、エルトポみたいなアート映画みたいなのは引き立つのだ。
偶然ながら良い組み合わせになった。

ーーー

虫歯の親知らずは近所の歯医者がヤブと言っては何だが、散々苦戦されて抜き損ねたのを別の歯医者に行くと1分くらいで簡単に抜いてくれたのだが、抜いた次の日から風邪をひいた。
ヤブとは何ぞ。腕が悪いことなのだろうか。いや、腕が悪いのに無理をするってのがヤブじゃなかろうか。抜けないから別の医者に行ってくれっていうなら、コレはまあヤブとは違うような気がする。
それでも、ヤブなどと言ってはよろしくないのだろう。失敗したにせよ、僕のために一生懸命抜こうとしてくれたわけだから。

少なくとも近所の人々で利用する人もいるからこそ、その歯医者は成り立っている。
利用している人々はヤブとは知らないのか。
はたまた偶然抜けなかっただけで、決してヤブではないのか。
もしくはヤブだろうがそうじゃなかろうが、案外それで成立するものだろうか。
何にせよ老人の歯科医が今日までやってきているわけだから、成立してきたわけだ。

僕の働いてる店も、もしかするとヤブと呼ばれているのかもしれない。
ヤブ。

店の裏に公園があり、僕はよくそこでタバコを吸う。
店の中は何となく空気が吹き溜まっているような感じがして好きじゃない。今の店がどうとかじゃなく、学校にせよ、職場にせよ、長時間いる場所ってなんか空気が淀むような感じがして好きじゃないのだ。
あとは風通しの問題か。
夕方くらいにタバコを吸いにいくと老人が掃き掃除をしている。
ーーどうも、ご苦労さんです。
そんな会話をする。老人は元板前で息子はもう40を過ぎていて、孫もいるそうな。
別段、話題などない。
ただ、私の唯一の気楽な話し相手かもしれない。
毎回話題は変わらない。
お仕事お疲れ様です、寒くなってきましたね、若くていいね、いつも働いててご苦労だねといったところだ。
老人のおかげでその公園はいつも綺麗だ。自転車屋と町工場とラブホテルにアパートに囲まれた狭くも広くもない、遊具はブランコと滑り台があって藤棚がある、ゲートボールをしていることもある、少年にサッカーを教える父親がいることもある、不良がたまっているとかはない。昼には公園沿いの道に車を止めてどこかの営業らしいおじさんがぼんやりと黄昏ていたりする。何のためにあるんだかよく分からない、世界から取り残されたような公園だ。

最近の僕も同じような具合で、特に何か意味があるのかと問われると、まあ、ないでしょうね、と答えるような存在になりつつある。
お酒を飲まなくなったので、少し金銭的にゆとりが出来て株なんかを買い足したりすることもある。
何か致命的に腑抜けたような日々。

何かをするってのが偉いわけでもないのだが。

ま、そんなこんな。
posted by ちょろり at 01:38| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする