2018年04月18日

BCAAだのマグネシウムだのの補給食やサプリメントって?

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暖かくなってきて、アミノ酸だの何だのの補給食やサプリメントなんかが売れる季節になってきた。
お客さんからどれがどうなのか聞かれたりすることもあるので、簡単にまとめることに。

この手のサプリメントは簡単に言えば三種類だ。

ーーー

・エネルギー系

いわゆる補給食というもの。おにぎりなんかもこれに入る。
ブドウ糖キャンディ、ウィダーインゼリー、スポーツ羊羹、カロリーメイトなどコンビニなんかでも比較的簡単に手に入る。
見るポイントはエネルギー量、カロリー。
あとは食べやすさになる。
おにぎりなんかは信号待ちでは食べにくいが、カロリーメイトなんかは走りながらでもくわえられる。
ただ、カロリーメイトはパサパサで口の中の水分がなくなる。
また、ウィダーインゼリーのような液体の方が楽に食べやすい。

また、単純な炭水化物よりブドウ糖なんかの方が吸収が早い。

余談だがライド中の昼ごはんや、出発前の朝ごはんに関してはGI値なんかも考えると良い。
血糖値の上昇速度、要は糖分の吸収速度の目安だ。
ブドウ糖が一番高く、白米なんかも高い。同じ米でも玄米の方が低い。パスタなんかも米よりは低い。
果物なんかの糖分も吸収速度が遅い。

走っている時にはとにかく早く取り込みたいのに対して、走る前なんかには緩やかに長時間かけて取り込めるものも合わせて食べるとバテにくくなるというわけだ。

ただし、GI値の高いものを走っている途中に一気にたくさん食べると、急な血糖値上昇の反動でインスリンが出過ぎて、インスリンショックが起きたりすることもある。
インスリンは血糖値を下げるホルモンで、インスリンショックになると血糖値が下がって力が入らなくなる。

ーーー

・タンパク質、アミノ酸、クエン酸などのリカバリー系

有名どころだとBCAA。プロテインなんかもそうだ。
筋肉を補修してくれるやつらだ。

この手のサプリメントにはだいたいクエン酸も入っている。梅干しなんかに入っている疲労回復系の効果のある成分だ。すっぱい。

トレーニング中や後に取ると次の日に筋肉が楽チン。
ただ、プロテインなんかは取りすぎると単純に太る。

ーーー

・マグネシウムやナトリウムなんかのミネラル系。電解質系とか水分補給補助系とか言っても良い。

広いくくりで言えばスポーツドリンク。
汗をかくと水だけじゃなく、ナトリウムやら何やらが一緒に外に出てしまうので、それを補う。

この手のミネラルが不足すると、低ナトリウム血症などになってしまうことも。
もっと身近なところだと脚がつるとかだ。
ちなみに脚がつる対策はマグネシウム、カルシウムあたりが効く。あわせてコンプレッション系の締め付けるウェアを使うと効果的。

ミネラルが不足したまま水を飲んでも水分は上手く体内に入らない。
理科で習った浸透圧だ。

要は、体内にはミネラルが必要ってこと。

ーーー

・カフェインなどの興奮系

サプリメントとは少し違うが、乗っている時に使えるのはカフェインみたいな興奮系も良い。チョコとコーヒーなんかの組み合わせだ。
レッドブルとかね。
最強は無水カフェインの錠剤。

レースの時や、ロングライドの後半で疲れが出てきた時なんかに使うとパフォーマンスが上がるけど、体には良くない気はする。

ーーー

個人的にはグリコのBCAAくらいしか使わないのだが、最近はヒルクライムレースに向けて減量しているせいで脚がつりやすいので、カインズのマグネシウム&カルシウムを買ってみたりなどした。カインズのサプリメントじゃ効くか分からないけど。まあ、めちゃくちゃ安いからね。
きちんとしたマグネシウム系だとマグオンなんか使ったりする。ただ、日々飲むには安くないから走ってる時だけ。そういえば、マグオンの在庫を切らしているから発注しないと。

減量をすると、どうしてもミネラル系が不足しがちになるので、意図的にその手のアイテムは使う必要がある。
単純に体重を落とすのではなく、出来る限り筋肉を落とさず、健康を維持ながらしないと、逆にパワーが落ちてしまう。
プロテインなどは使わない。納豆だの豆腐だの鯖缶だの普通の食品で摂取することにしている。
飲むとしたら青汁くらいか。効果は知らないけど、安いし体に良さそうだから。

BCAAやマグネシウムなんかは普段の食事では摂取しにくいので、サプリメントを適宜使う。

ヒルクライムでは減量は効果が大きい。
無理な減量は逆効果だが、きちんと計算しての正しい減量に成功するとぐっと速くなるし、ロングライドなんかでも登りが楽になる。
冬に太った分を春先に落とすってのもある。

まあ、本当は冬もサボらず太らなけりゃ良いだけの話なんだけど。

ま、そんなこんな。
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2018年04月17日

2018年04月14日

遠い世界。

歳を取ったんだか、日々が忙しいのか。
日記を書かなくなった。

ブラックバードが夜の死の中で歌ってる。
壊れてしまった羽で飛ぼうとしながら。
この瞬間のために生きてきたのだ。
ブラックバードよ飛んでくれ、闇の中の一縷の光を求めて。

ビートルズのブラックバード、翻訳は僕なのであまり正確ではないかもしれない。
アフリカを走っていた頃よく聴いていた曲だ。

この曲は非常にシンプルだ。
伴奏はギターだけの弾き語り。
ギターはきちんと弾こうと思うと割と難しいようなこともするのだが、何となく弾くだけなら初心者でも弾ける。ただ、弾きながら歌うのは難しい。
歌も歌で激しい抑揚もない。
歌詞も実にシンプルだ。絶望の中を生きてきた黒い鳥が今こそ飛ぶ時だっていうだけのことを繰り返すばかりだ。
歌詞は暗いが、曲は優しく暖かだ。

ブラックバードとは日本名ではクロウタドリという鳥のことらしい。
30センチほどで体は黒く、クチバシは黄色い。
ヨーロッパなんかでは公園なんかにいるそうだ。
鳴き声が綺麗な鳥だと言う。

アフリカの強い日差しの中でブラックバードを聞くのは実にヘンテコなことだったと思う。
南米を走っていた時にはグレングールドの後の方の演奏のゴルドベルグ変奏曲だったが、こちらは割としっくり来る。パタゴニアの荒野で聴くにはグールドの孤独な美しいピアノ演奏っていうのは、まさにピッタリだった。ソニーのCDウォークマンを持って行っていたのでブエノスアイレスで三枚ほどタンゴのCDも買ったし、他のCDも2枚あったけれど、結局グールドばかり聴いていた。

旅の最中に聴く音楽とは不思議なもので、日本では大してきちんと聴いていたわけでもない曲を聴く。
アフリカでは知り合ったヨーロッパ人の旅人がすすめてくれた南アフリカのソウェトゴスペルコラールというグループの曲も好きだった。
ただ、自転車に乗って聴いていたのはブラックバード。

ーーー

かつては文を書くのが日々の唯一の癒しだった。
文を書くと正直あまり良いことが起きない。
何でもかんでも書くもんじゃないよ、と言われたり、アレコレ文句を言われたりもする。
沈黙は金とは言うが、黙して喋らないというのは確かに害がない。
しかし、害がない代わりに何も誰にも喋らないと、思考は頭を回っているだけでしばらくすると消えてしまう。
書いたとしたって消えてしまうには違いないし、特に反応なんかもあまり帰ってこないので、喋るほどは思考にコダマがあるというわけでもない。
それでも、文を書くと考えがコダマする。

世界はめまぐるしく変わった。
正確には僕がめまぐるしく変わったのかもしれない。それでも、世界っていうのはあくまで主観的なものだろう。木が生えて、動物が生まれて死んで、人間に関しては利害をめぐって戦争したり貿易してみたりの規模のことから少額訴訟にちょっとした買い物の細かい契約やら、五分の遅刻の嘘の理由やらあれこれ小競り合いをしたりと、そういう変わらないこともあるけれど、世界は刻一刻と変わり行く。
あくまで世界は主観的なものであって、変わっていく。
昔と違って暑くなった、でも、平均気温はグラフにするとさほど大きな変化はない、冬は寒くなった、ここ数十年一番の大雪、そんなことが毎年言われる。

そういうのってあまり関係ない。
風呂の水をじゃぶじゃぶ使ったって水道代もガス代も知れている。エアコンはつけっ放しにしていてもあまり電気代は変わらない。
地球は相変わらず痛んでいる。

小説を読んでも映画を観ても、あまり感動しなくなる。
どこかで聴いたような話。
音楽もビルエバンスを聴いていた頃よりはいくらか聴くプレイヤーもジャンルも増えたけど、どこか上の空だ。

マネジメントや会計なんかの本を読んでみても、それがどこに通じるんだろう。
売るための方法を考えて、たくさん売って、それからどうなるんだろう。
僕は静かに自転車を売っていたいだけなのだが。

どうしてアイツはギターを弾くのを辞めてしまったんだろう。
それはきっと君が大道芸をやめたのと同じような理由さ。別に飽きたわけでもなく、単純にやる気が起きないんだ。
何かをし続けるには縁が必要だ。
気付けばずっと自転車に関係する生き方をしているようにね。

小学校の教師をやめた男が偉そうにして、人の言うことに耳を貸さない。

ーーー

どこのことを考えているのか自分にも分からないけれど、とにかく遠い。
それは遠い。
遠い世界の中の僕はこの世界の僕を探しているのかもしれない。


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2018年04月11日

葉桜など眺めたこと。

葉桜など眺める。
桜を眺めるのは嫌いじゃないけれど、好きでもない。そりゃ、桜は良い。桜ってのは文句無く良い。そりゃ、間違いない。
幼稚な反逆心ってわけでもないけれど、桜を眺めるのは芸がない。
葉桜を眺めるってのは芸がある。
そんな馬鹿な考えを持っているのだけれど、現実問題としては、花の桜はチヤホヤするけれど、葉桜などありがたみもなく通り過ぎる。
そもそも葉桜は毛虫がいるから、葉桜には近づかない。
それでも、今日は葉桜を眺めた。


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2018年04月09日

雲まで届くような塔を。

自転車屋をして死んでいく自分の人生を考えると何とも悲しいような気持ちがした。
自転車屋に限らずどの仕事もいずれ死に行くのは変わらず、目先の給料や名誉、ステータス、やりがいなんかはいくらかは違うにせよ、ベルトコンベアでコンビニ弁当の具財を並べていたって、大手企業でそれらしいことをしていても、本質的には人生に大差ないような気がする。

そんなことを言っていても仕方がない。

お酒を飲んでも、自転車をこいでも特に何も満たされない。
夜の桜に妙な寂しさを感じたりする。
咲き始めは冬の終わりを喜べるか、散る頃には一つの季節が通り過ぎる、年月が進むのを感じ、少し北に行くとまだ満開の桜に出会って、その頃にはもう美しさじゃなく寂しさを感じる。

何とかせねばならない。
自分の人生は自分でなんとかするしかない。
しかし、どうやって。

個人拠出型年金の話など持ち上がったりして、話している相手の方は良い話だと思っているのだが、私の方はどうもそんなに長く生きる気もしないし、生きたとして、そんな時にお金があって何に使うんだろうなどと考える。お金があれば人生に憂いがないか。お金がなくて困ることはあるが、お金があるからって幸福とはまた関係ないことのように思う。

暖かな土地でビールを飲もう。
それがいい。
それから先はビールを飲んでから考えよう。
それでいいのか。

例えるなら雲まで届くような塔を作っていたい。
誰のためでもなく、何のためでもなく。
ただ、なにかを積み上げるように終わることなく作り続けなくちゃいけない、雲まで届来そうになった頃に随分と高くなったなと見上げたい。

そんなこんな。


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2018年03月28日

良いもの、人気のあるもの。ジャズギターなど始めてみる。

定住するとあっさり完全にウツ状態になってしまったが、ジャズギターなんか習い始めた。
元々クラシックギターはいくらか弾けるのだが、ジャズはからっきし分からない。
音楽は人生を豊かにしてくれる。
そんなわけで30歳からのジャズギター。

学費は結構かかる。
教室も隣の町まで30分ちょっとかけて自転車でえっちらおっちら行く。
それでも、きちんとやって、一年ほどで基本的なところさえ習得出来れば先の人生ずっと楽しめる。

当面は五線譜で弾けるようになる練習らしい。
とにかくジャズギターはまずは理論らしい。その上で五線譜を読めるのは重要らしい。
和音の複雑なクラシックと違って単音だけなので、五線譜も頑張れば、まあ、読めそうだ。
コードについてはギターは基本的に押さえ方のパターンは同じで指の位置を平行にずらせば良いだけなので、さほど難しくもないだろうと思っている。
問題は五線譜をすらすら読めるようになるのと、コード理論、アドリブ理論だ。

ーーー

群馬にはジャズのレコードを大きい音で流してくれて、お酒が飲めるバーはないかということも聞いてみたが、ないらしい。
ライブハウスみたいなのはあるらしいけれど、良いレコードを長して聴くのを楽しむってのはないらしい。
まあ、そんなご時世なんだろう。

先生も、地方のライブハウスって、言ったって大して上手くもないアマチュアが演奏してて、その知り合いが聴きに来てるくらいで、そういうのってどうなのかなと思うこともあるなんて言っていた。

まあ、ジャズを聴きながらコーヒーと本をたしなむなんて時代は終わったんだろう。

ーーー

良いものはいつまで経っても良いってのは間違いない。
ただ、良いものを人々が聴くかどうかってのは、時代に左右されるんだろう。

人々は良いものを求めていないのか。

J-POPを安易に否定するのも良くないが、J-POPは音楽自体の良さというより、世間的に人気のある、話題性のあるアーティストがやってるかどうかってところになるような気がする。
良いかどうかじゃなくて、人気があるかどうか。

J-POPに限らず、いろんなものがそうだろう。
良いかどうかじゃなくて、人気があるかどうか。

人気がある=お金になるっていう図式になってしまっている以上どうにもならない問題かもしれない。
良いものがお金になるとは限らないのだ。

自転車を売って生計を立てているが。
やはりこれも良いものとお金になるもの、人気のあるものってのは違う。

大道芸の時なんかが実に分かりやすかった。
難しい技、良い演技よりも、凄さが分かりやすくてインパクトがあり人目を引くものってのが人気があり、お金になった。

結局、お金がないと食ってはいけない。
仕事としてやるからにはお金を稼がないといけない。
そうなると、良いものを売っている店はなくなっていかざるを得ない。

ーーー

東京が良いところはそこかもしれない。
単純に人口が多いのといろんな人がいるので、良いものを求める人も少なからずいるし、良いものを売る店っていうのもある。
観光地なんかもそういう風潮がある。
街並みが良くて、歴史のある町ってのは、そういう傾向がある。

お金持ちが多い=そうなるわけでもない。
良いものが好きな人が多いかどうかってのは、生活感じゃないだろうか。
やっぱりベッドタウンってのは生活感だ。
生活に便利っていうものと良いものは少し遠い。
むしろ、良いものって、なくても生活自体は成り立つっていうタイプのものの方が多い。
生活の中に文学は必要ないし、音楽もなくたって良い。

焼肉屋やラーメン屋でもジャズが流れていたりすることもあるけれど、あれは鑑賞するための音楽としてではなくBGMとしての音楽だ。
良いものとしての音楽じゃなく、生活の一部としての音楽だ。

ーーー

お金持ちは良いものが好きみたいなイメージもあるが、はっきり言って金戦力と良いものが好きかってのは相関性は高くないと思う。
たとえば、僕の働く自転車屋で考えてみても、お金持ちだから良い自転車を買うって人もいくらかはいるにせよ、お金持ちじゃなくとも自転車が好きだから良い自転車を買うって人の方が明らかに多い。
100万円近い最高級クラスとなると、お金持ちの比率も高くなるが、20〜40万円あたりのそこそこ良いロードバイクというところについてはお金持ちかどうかはあまり関係ないように思う。好きな人が好きだから買っている。
最高級クラスではないものの、十分に値段の高い自転車だが、お金持ちだから買うってのはちょっと違う。

あとは時代の問題もあるのだろう。
昔はお金持ち、ステータスの高い人ってのは、ある程度良い趣味を持っていないと少し恥ずかしいような文化もあったのだろう。
最近は高いものを所有していれば、恥ずかしいことはないって時代なのかもしれない。
はたまた趣味が良いってものを選ぶのを代行するビジネスみたいになっているのかもしれない。
高いもの=趣味の良いものみたいな。

ーーー

良いもの=高いわけでもない。
ただ、安いもので良いものってのは探すのが難しい。
基本的には良いものって安くはない。
例えば、良いジャズのCDや良い小説は高くはないけど、すこぶる安いってわけでもない。小説は100円で買えることも多いけど。小説ってのは実に例外かもしれない。
服なんかは高いもの=良いかっていうと、全くそうとも限らなくて、趣味の悪い人は値段の高い服も趣味悪く着る。良い服を着こなすってのは難しいってのもある。

ーーー

お金があればなんとかなってしまうという時代だからかもしれない。
お金が全てじゃないけれど、お金はある意味では全てだ。
お金じゃ買えないものも存在はするけれど、お金で買えるものが増えた。例えば時間だってそうだ。昔はいかにお金を積んでも時間を買うのは難しかった。今は新幹線を使うだとか、コンパクトでどこでも仕事が出来るパソコンを買うだとかで時間って作りやすくなった。
技術革新ってのは、要はお金で買えるものが増えるってことだ。

お金はある意味で全てになりつつある。
結婚だって、お金って大きい。
昔から結婚する上でお金って大きかったに違いない。
それにしたって、昔よりもお金がかかる時代にはなってるだろう。
正確に言えばお金のかからない生き方ってのを人々が嫌になってしまっているのかもしれない。
冷暖房だとかを見たって、昔の人より今の人の方がよく使っている。
いろんなものが省エネになっているはずなのに、電気代とかってあまり変わらない。

給料が少々増えてもあまり意味がないって自論がある。
給料が少ない頃には、身丈にあったそれなりの生活をしてやり過ごす。
ただ、給料が増えれば、その分使うようにもなる。
実のところあんまり意味がないのだ。

ーーー

まあ、ジャズギターでもしてみる。
ジャズギターやってりゃ平和だ。
誰かとセッションする日は来るんだろうか。
ギターってジャズの中では弱いのだ。あってもなても問題ない楽器みたいな立ち位置なのだ。
ピアノ、ドラム、ベースは間違いなく必要だ。管楽器もあればあったで歓迎される。
ギターは本当にどっちでも良い。

まあ、それはそれで良いのだ。
アドリブなんかのかけ方が分かれば楽しいじゃないか。
人生が豊かになるじゃないか。

ま、そんなこんな。


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2018年03月26日

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明日にでも死ねる男を私は待ってるの。
おれは明日を待たず今死ねるよ。
違うの明日にでも死ねる男よ。
はるか未来に死ぬはずなのに、今日死なず、明日死んでも良い男?なおかつ。明日、実際には死なない男のこと?
そんな難しく言われたって分からないよ。

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2018年03月25日

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理由はなくとも、生きてるのがつらくなることが今もたくさんある。
ストレートに言えば死にたいと感じることが数え切れないほどある。
死にたいなどと考えながら生きるなら、死んだ方が良いのだろうと思う。
生きているなら生きるのに一生懸命であるべきだろうと思う。

何かの不安があるのだろうか。
それには原因があるのだろうか。

ひどく嫌だ。
生きているのがひどく嫌で仕方ない。

そうは言ったって、本当に死にたいやつはすでに死んでいるのだ。
おれはどうせ死なないのだ。
明日も生きるんだ、きっと。
死にたい気持ちと本当に死にたいってのは全く別のものなのだ。

眠って起きれば死にたい気持ちもきっと薄らいでいる。
ただ、忘れるだけだろう。
生きて何がしたいってこともない。いろんなことを忘れたって、事実は変わらない。したい何かなどない。すべき何かもない。

生きているのがつらい。
それはきっと明日の朝には忘れている。
明日も多分生きている。
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2018年03月14日

どう生きたいかを考える。

どう生きたいかを考える。
現状に絶望していても仕方がない。
現状の分析をしてみたって、にっちもさっちも行きはしない。

海のある町は良い。
チャリで気持ち良い峠のある町は良い。
歴史ある観光地も良い。
アウトドアのフィールドが近い町も良い。
そういう良い町に住みたい。

好きな女の子とにこにこして生きていたい。
好きな女の子のことを心からずっと好きでいられるような生活は良い。そういう女の子は素晴らしい。

自転車で時々遠くに行きたい。
アフリカや南米とまでは言わない。
北海道や鹿児島とまでも言わない。
それでも、二泊三日くらいで遠くまで。

美味しい珈琲を飲みたい。
美味しい煙草を吸いたい。
逆を言えば、一緒に過ごしていて煙草や珈琲が美味しくなるような友人がいて欲しい。

好きな音楽を聴きながら、本を読みたい。
必要な本じゃなくて、全く実用的でも何でもない、読んでも何も利益やメリットなんか得られるわけでもない、ただ読んでいて幸福な気持ちになれるような本を読みたい。

はたまたそういう本を書きたい。

偉い文章家になりたい。
これは昔と変わった。
昔は偉い小説家になりたかった。
偉くなりたいってのは変わらない。
単純に褒められたいとかお金が欲しいって欲求もあるにせよ、書くからには良いものを書きたい。
ただ、その書く媒体が小説に限らなくなった。
何でも良くなった。
何でも良いから読んでいて幸福な気持ちになったり、世界の平和のためになるような、読んだ誰かが満たされるような文章なら何でも良い。

犬の散歩をしたい。

トレーニングをしたい。
筋肉むきむきとまで言わずとも、ある程度引き締まった健康な体と精神でいたい。

お金はたくさんはいらないにせよ、困らない程度には欲しい。
まあ、お金に困らないって、かなりたくさんの金額になるのかもしれないけど。
でも、お金のことを考えた時に心配になったり悲しくなったりは嫌だ。

アフリカの人に少しでも恩を返せるようなことがほんの少しでも良いからしたい。

機構の穏やかな土地に住みたい。

可能なら自転車屋さんはしたい。
自転車屋さんって平和だと思う。
自転車って良いなと思う。

どうすればそういうことが出来るか考えて頑張っていこうじゃないか。

ま、そんなこんな。


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2018年03月11日

生きてるだけで丸儲け。

仕事ってのは60歳まで続けられる仕事じゃないと困る。
転々と職を変えて生きていくってのはくたびれる。

最近、あっさりとウツになりかけている。
仕事って難しいものだ。
自分のメンタルが弱いってのもあるんだろうが、厄介な職場だ。
店長職ってのは当たり前だけれど、失敗すると何百万円っていう損害の責任を持たないといけない。
何となくきになる商品を入れる、好きなように自転車乗ってるだけではやっていけない。
あまり責任を抱え込むのも良くないが、実際そういうものなのだ。

本来、大きい責任を一人の人が背負うようにすると危険なので、普通は副店長みたいな役職があるのが優良企業だが、ボーナスなし、盆休み正月休みなし、年間休日72日という素晴らしい企業なので、当然、そういうシステムはない。
そういう企業に入った自分が悪いので文句は言えないのだが。
真面目に死にたいとこの三ヶ月で10回くらい考えた。
もうアフリカも行ったし、自分の人生にはこれから先、特別面白いことは起きないのかもしれない。大根おろしのように削られて生きていくのなら、思い切って死んだ方が潔いんじゃなかろうか。

まあ、生きてるだけで丸儲け。
理由はよく分からんが、生きてるだけで、人間、丸儲けなのだ。

仕事で大変といえば。
山小屋も大変だった。
山小屋はもう無理だろうと思う。体力と精神力が続かない。
時間も長いし、仕事内容もきついし、家に帰れないし、プライベートの時間もない。基本的に24連勤、6連休という変則的な勤務体系もしんどい。
個人的には休めないし病院に行けないってのが一番つらかった。
山小屋で風邪をひくと、気温も低く乾燥もしている。のど飴を買いに行くコンビニもない。そういう意味では割と地獄なのだ。
山小屋でずっと働き続ける人っていうのは、本当にすごいと思う。山で暮らすっていうのが本当に好きなんだろう。
まあ、楽しいは楽しい。
一歩出れば大自然のど真ん中だ。
やっぱりそういうのって素晴らしい。
確かにきついけれど、プライスレスな暮らしだ。

ーーー

生きてるだけで丸儲け。
何でだろう。

精神的に落ち込んでしまっている今の僕には人間潔く死んじまった方が丸儲けな気がしてしまったりする。

楽しいこと。
楽しいことなんかあるだろうか。
生きてて楽しかったことと言えば、自転車で旅するのは楽しかった。これはもう何をどう言おうと楽しかった。日々、犬も歩けば棒に当たるの暮らし。そういうのってすごく楽しい。ステキな景色に出会ったり、ヘンテコなやつらに出会ったり。
シャカシャカと自転車こいで。
程よい速さだ。

旅の本質って、どこか行き先があるのではなく、日々、違うどこかに苦労して行くってことなんじゃないかと思う。
目的などない。
ただ、違うどこかへと進む。
コツコツ進んで行く。
それを繰り返して大陸の中を動いていく。
人々の暮らしを眺め、大地を眺め。
そういうのは感動がある。

それにしたって、そんな暮らしにも限度がある。
単純にしんどいのだ。
旅をするにはお金もかかる。
短期の仕事ってアルバイトだったり、季節労働だったり、何ともしんどいものが多いのだ。
年収なんか考えても低い。みんなが自動車を所有しているのに、僕は今まで一台も車を持ったことがない。
そういった苦労を厭わない熱意こそが旅の原動力なんだろう。
逆にその程度のことを我慢できる熱意がないなら、旅なんて出来ないと思う。特に自転車旅なんて熱意が全てだろう。

ーーー

多分、そういう熱意がなくなってしまった今、僕は途方に暮れてしまっているのかもしれない。
新しい土地、群馬には友人もいない。
相談できる相手もいない。

お酒が好きなのでバーを探してみるけれど、気に入ったバーはなかなか見付からない。暇と時間さえあれば毎日でも行きたくなるようなステキなバーは見つからない。
東京はその点素晴らしかった。
素敵なバーがいっぱいあったし、そこに素敵な人たちもいた。
故郷はもう遠い過去に埋もれてどうだったのか今や分からない。

先日、東京に行くことがあった。
ただ、東京も時間が過ぎていた。
そこにいた人々ももういなくなっていた。
いろんなことが過ぎ去り変わっていた。

ーーー

みんな結婚して、子供も出来る。
どんどん過ぎ去って行く。
アフリカの思い出話などする相手などいるわけもない。

僕一人だけが変なところにたどり着いてしまったのだ。
アリとキリギリスの教訓は、夏の間サボっていたからキリギリスが敗北するのではなく。
アリのように集団生活、そしきで生きることに適応した生き物が生き延び、一人で生きたキリギリスは敗北するという話なのだろう。

じゃあ、アリになれば良かったかと言えば、アリだってハッピーなやつもいれば、巣に帰れなくなって死ぬやつもいる。
夏に歌をうたって、好きなことをして、冬には潔く死ぬ。キリギリスは偉いじゃないか、そんな話なのかもしれない。
したいことだかどうだか分からないことにしがみついたり、アリしてみたりしたって、巣からはぐれてアッサリ死ぬアリもたくさんいる。
まあ、生き残るアリもたくさんいる。
巣の中でぬくぬく春を待つ。

その点、キリギリスは偉いんだ。
一匹もキリギリスは冬を越えない。

ーーー

生きてるだけで丸儲け。
何が丸儲けだか知らないけれど。
きっと人間、生きてるだけで丸儲けなんだ。

ま、そんなこんな。


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2018年03月03日

何で真逆に物事が進むってことがあるんだろうって最近考える。

何で真逆に物事が進むってことがあるんだろうって最近考える。

一生懸命やるほど真逆に進む。

社会をよくしようと思って。
全員の幸福を考えて今の日本のシステムって進んで来たし、世界各国やって来たはずなのだ。
それが、真逆に進んでしまう。

お金のことを考えるとそう思ってしまう。
社会がより良くなっていくためにお金のシステムが生まれたのに、お金のせいで悪くなることがいっぱいある。

京セラの稲盛和夫先生の本を読んでいると思う。
正しいことをすることがお金にもなるし、社会貢献にもなるし、人類の発展にもなるって書いているけど、今の現実世界でそのやり方はやっぱり厳しいんじゃないかって。
稲盛和夫先生のように貫ける力がある人ばかりなら良いけど、現実そうはいかないでしょう。
そうなると、お金を稼ぐ方法って、やっぱり正しさや社会貢献と違うところになっちまう。
悪が罰せられることもある。どんな巨大な悪も撃ち落とされることもある。
でも、正義が上手くいかないことって、巨大な悪が撃ち落とされる確率よりも低いんじゃないかなって。

ーーー

文を読む。
昔より遥かに多くの文に触れられる時代になった。
圧倒的に情報に到達できる速度が速くなった。

それなのに何故だか本を読まない人が増えている。

本ってフェアだ。
アンフェアなところもある。
内容の正しさよりも有名な人の書いた文の方が評価される。

それでも、ジャッジは読者がして良い。
内容を基準にしたって良いし、読みやすいからとか、商売の役に立つからとか、どんな基準でしたって良い。
読み手こそ神様だ。
書き手も神様だけど。
どちらもある意味でものすごくフェアに神様だ。

なかなかそういうことってない。

文ってフェアだと僕は思う。

ま、そんなこんな。


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2018年02月26日

上司の退職。

自転車屋でお世話になっていた上司が退職した。
自転車屋で働き初めて最初に一から販売のやり方を教えてもらった人だ。
改めて趣味用品の業種で働くって難しいと感じざるを得なかった。

たしかに、この人は自転車屋向きじゃなかった。
販売のスキルは高かった。
自転車も好きだった。
ただ、ロードバイクを売るプロショップの店員として正統派ではない乗り方だった。
プロショップの商品ラインナップって物凄く難しい。正統派の乗り方をしていないとどうしても分からないところがある。
ストリート系、もっとライフスタイルに寄り添ったタイプの自転車ショップならその人はもっと上手くいったのかもしれない。

自転車業界はつらい。
低賃金で休みが少ない。
好きな自転車のイベントに参加したくても、土日は販売って忙しくてなかなか泊まりがけでイベントに行けない。

そういう業種、条件の悪い仕事だからなかなか人材も集まらない。
せっかく来てもガッカリして辞めてしまったり、どんどん働くモチベーションを失ってしまう。

人材を大事にしない会社の多い業種だと思う。
上司は会社ともめて去ることになった。

ーーー

当然、私より年上の人なので、次の職探しには相当難儀するだろう。
何とも心痛んだ。

しかし、当人は辞めると決まると明かるかった。

「いや、君も以前退職する前はそうだったよ。えらくお客さんに対して丁寧になったなと思ったもん」
今夜飲みながら話していると上司は言った。
「たしかに言われるとそうだったかもしれませんね。そりゃ、良くしてもらったお客さんに自分が離れて迷惑かけることになりますからね。申し訳ないですからね。お客さんへの最後の恩返しっていう気持ちはわきますよね。それで丁寧になるんですかね」
そうは言っても私の場合、アフリカに行こうという明確な理由があって辞めていたのもあって暗くならなかったし、お客さんに明るく丁寧に接客出来たのかもしれない。

世話になった上司が良くない形で会社を去る。
理由の一端に私が戻ったのもある。私が店長になったことで、枠が一つ押し出されてしまった。
言うなれば私を雇用する費用のために、その上司は職を失ったという側面もある。
会社が私の方を店長に選んだ理由はいくつかあるのだろう。自転車の経験値だったり、文章での広報ができる能力を買ってもらったというのもあるだろう。
ただ、若い私の方が無理を言いやすい。扱いやすいという理由もあるだろう。

会社にも都合があるので、解雇ってある程度は仕方ないとも思う。
それにしたって、もっと平和的な形での解雇の方法もあったように思う。

まあ、自分は経営者じゃないので本当のところは分からない。ビジネスとしての事情は分からない。
それでも、人間として、今回のことはどんな事情があれど正しくないことだと感じた。
辞める人間にも残る人間にも悲しいやり方だと感じた。
本音を言えば、こういうことをする会社で働き続けるって物凄く不安だと感じた。

ーーー

不安であれ、嫌であれ、悲しいことであれ。
残るからには良い仕事をするしかない。
会社の良い面を信じるしかない。

その人の未来なんか考えてる余裕はないかもしれないけれど、次の職場が良い職場に巡り合ってくれたらなと思う。

好きなことを仕事にする。
そういうのって、ここまで難しいことなんだろうか。

まあ、そんなこんな。


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2018年02月23日

正しいことが正しい状態であるように。

仕事に関して運が良いのやら悪いのやら。
今回の職場も自転車屋さんのはずなのだが、同じ店で自転車を一緒に走りに行ける仲間がいない。
仕事に関しても何とも厄介なことが多い。
もちろん、給料は良くない。

給料の良い自転車屋さんってのは、独立して自営業でやってるかメーカー勤務以外にこの世には存在しないのだ。
独立して自営業でやっていても、在庫リスクなんかの割には大して儲からない。普通のちょっと良いサラリーマンよりも儲からないくらいか。サラリーマンしている方がリスクもない。
まあ、よほど上手くやるとさすがにサラリーマンよりは儲かるのだが、将来の保障なんかはない。

まあ、それでも、好きなことを仕事にするって素晴らしいことなのだ。

ーーー

正しいことが正しい状態にあるって大事だなって最近思う。

どうしても生きてりゃあれこれ都合や事情があって、正しいことが正しくなくなることってある。はたまた、正しくないことが正しいってこと。

例えば、信号は守らないといけないってこと。現実問題、信号無視って田舎に行くほどする。信号が少なくなるし、車も少なくなる。信号のない場所を横断したりしやすくなる。
それでも、やっぱり正しいのは信号を守らないといけないってのが正しいってのがあるからこそ、道路の平和は保たれている。

これがアフリカなんかに行くと、信号なんてのは目安なのだ。
そもそも信号自体滅多にないのだが、信号の色なんかは目安であって、どんどんみんな自由に走っている。
こうなってしまうと、道路の平和なんてない。

どんな場合にも事情や都合ってある。
現実には正しくないことをやってしまわざるを得ないこともある。ある程度、仕方ないってのもある。
それでも、やはり正しいことが正しいってのがなくなっちゃうとカオスになってしまう。

右が右で、左は左。北は北で、南は南。
当たり前と言えば当たり前なんだけど。
それがなくなっちゃうと、地図一つ書けないし、行ったことのない場所には誰かに説明してもらってもたどり着けなくなる。右が本当に右か分からないって世界じゃ、どこにもたどり着けない。

なにかを五分後にすると決めれば五分後にしないといけない。1分遅れるのもいけない。
仮に出来なかったとしたら、出来なかったことを良いやとしてしまうと危ない。
すると決めたことについては、してもしなくても良いし、出来ても出来なくても良いじゃいけない。
出来なかったのはなぜか、不可能なことだったとしたら、なぜそんなことをしようと決めてしまったのか。
次からそういうことが起きないように気をつけねばならない。どうすれば防げるだろうか。

小さいことでも、やはり正しいことが正しいとしておかないと、いろんなことがおかしくなってしまう。

誰かと共有することはもちろん、自分一人でのことだってそうだ。
右は右で左は左にしていないと、なにも出来なくなってしまう。

人に対して嘘やごまかしをしていると、一時的には有利なようでも、自分に対して周りも嘘やごまかしをするようになるかもしれない。
嘘やごまかしに気付いていないのは自分だけってなってしまったらおしまいだ。

人に嘘やごまかしをしなくても、自分に対して嘘やごまかしをしてくる悪い人も世の中にはいるかもしれない。
それでも、少なくとも自分自身は嘘やごまかしをしていないっていうのがあれば、いろんなことが疑わしくなって信じられなくなった時にでも、自分のしたことは信じられる。
周りが信じられなくなった時に、自分自身も信じられないと、いよいよ救いがなくなってしまう。

ーーー

あまり潔癖にすると疲れるかもしれない。

それでも、きちんと潔癖にしていれば、自分に厳しくしていれば、右は右で左は左でいてくれる。そうすれば、自分のしたいこと、行きたい場所にも行ける。

ま、そんなことを最近は考える。


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2018年02月18日

運が悪いことは運が良いことなんだろうか。


運が悪いことは運が良いことなんだろうか。

仕事がさっぱり上手く行かない。
まあ、冷静に考えて、いきなり店長なんてポストで入ったりすると、そこのスタッフから反感を買うに決まっているのだ。
それは何年かすれば何とかなるのだが、どうにもならないスタッフがいる。

まあ、どんな職場にもどうにもならない人っている。
そりゃ、世の中どこにでもね。

ただ、問題はそういうどうにもならない人間を会社が許容してしまっている時には、これはもうどうにもならない。
会社の利益を害する人間を会社が良しとしてしまっている場合だ。

そんなことありえるのか、っていう話になるけれど、ありうるのだ。
人材不足で困っている職場なんかにはある。
要は困り果てた従業員だが、クビにするわけにもいかないという場合だ。クビにすると会社が運営出来なくなってしまうという場合だ。

本来は会社は従業員を教育する必要がある。
その会社にとって有用な人間になってもらわないと、いてもらってもどうしようもない。
だから、良くないところは良くないと査定して、良いところは良いと査定する。
そうしないと、会社にとって有用な従業員は出来ない。

ただ、辞められたら困るとなると良くないと査定出来なくなってしまうのだ。

言い方はきついが、良い社員を増やそうと思えば、不要な人材はクビに出来るようにしておかないといけない。
もちろん、安易にクビにしてはいけないにせよ、会社にとって何かしらの利益を出せない人間は、改善してもらうか、辞めてもらうかの二択にしないと、給料を払っているだけで、利益が増えない、言うなればただでお金をあげている状態になってしまう。

ただ、日本はクビってしにくい構造になっている。労働者って法的にかなりしっかり守られている。
だから、会社は自主退社に追い込むようにする。
だけれど、本来、その従業員が必要かどうかって会社に選択する権利があるはずなのだ。

まあ、そうは言っても仕方がない。
全く使えない、働かない人間が時間内、社内にいるだけで給料がもらえるような仕組みになってしまっている。
これは変えようがない。

ましてや、そんなところで中間管理職となると。
こうなると辞めるしかない。

だまってペコペコしていれば給料はもらえる。
別に売れなくても叱られることはあっても、クビになることはない。
何も気にせず、ぼんやりと。給料をもらっていれば良い。
人生、そんなもんだ。

でも、多分、そういうのって向いてないと思う。
早めに辞めるべきだろう。

それにしたって、辞めてどうするのか。

真面目に考えるとアホらしくなってくる。
潔く自殺でもする方がよほど賢いんじゃないだろうかと思えてくる。

特に多くは求めていない。
仕事を真面目にして、それなりの暮らしをしたいだけのことだ。

辞めてどうするのか。

生まれ変わったら人間以外の生き物に生まれたい。
まあ、死なないけど。

多分、死ぬ方が賢いんだろうけど。
賢くなりすぎては人間いけないんだろう。

それでも、運の悪いことは良いことなのだ。
生半可、良くも悪くもないところでいると、良いことをしなくなる。
悪いところにいると、これは辞めないといけないと思うようになる。
悪いことの逆が必ずしも良いことではない。
別の悪いことのことだってある。
ただ、良いことをしないでいるってのは、良いことではない。
悪いことをやめて、良いことをしたいと思って行動するのは、これは結果としては別の悪いことにたどり着く可能性もあれど、良いことを目指す行動自体は良いことなのだ。

ある意味では運が悪いってのは良いことでもある。

必要なものにはお金を出すべきだ。
必要じゃないものは、仮に安くても買わない方が良い。
なぜって、必要じゃないものは必要じゃないからだ。

良くないことは良いことではない。
良いことをしたいなら、良くないところにとどまり続けるべきではない。
仮にそこが楽だとしても、良くないところにいたって、そこは良いことをしたい人にはいる必要のない場所だ。そこには良いことはない。

ものすごく当たり前のことだけれど、これがなかなか出来ない。

大抵の企業が不必要なものなのに、まとめて買うと安いからということで買ってしまって不良在庫を抱える。
大抵の個人は良いことをしていたいと考えていても、楽な良くない場所にいてしまう。

セール品にはセール品の意味があり。
楽なところには楽なだけのツケがある。

運が悪いのは良いことなのだ。
中途半端でなく悪いことが明確に悪いっていうのは良いことなのだ。
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2018年01月27日

一日十分を積み立てるのは危ないんじゃないか。

呑気に日記を書く。
多分、そんな風に生きるべき人間なんだろうか。

一日十分サボると、一ヶ月に24日出勤したら240分、つまり四時間、つまりは半日分ロスしている。
そんな話があった。

そんな話ってすごくナンセンスだと僕は思う。
そりゃ、掛け算すればそうなんだろうけど、逆を言えば、その理屈の上で出来たのがベルトコンベア、分業、流れ作業っていうスタイルだけど、そのスタイルってもう随分昔から、人間としてどうなの?って言われている。

そりゃ、ベルトコンベアスタイルは大きな恩恵をもたらした。専門の知識や技術を持たない人でも仕事が手に入るようになったっていうのが一番だろう。
商売に向く人は商売をすれば良い。
職人に向く人は職人をすれば良い。
サービスに向く人はサービスをすれば良い。
何かしら生きるために必要なお金を得るために自分の向く仕事を探して、それを努力すれば良い。
そうは言っても、現実問題として、お金を稼ぐということに向かない人もいる。
そういう人が存在して、そういう人も食って行かねばならないという現実がある以上、ベルトコンベアシステムというのは本当に必要不可欠で大事なシステムではある。

ただ、やはり批判はあるのだ。
お金をベースに動く世界のために、人が人間らしさを失ってまで働かないといけないってのはどうなんだろう、って。
有名どころだとチャップリンのモダンタイムっていう映画なんかがそういう風刺をしている。
多くの人々がこれまで声を上げてきた。

でも、背に腹はかえられぬ。
じゃあ、人間性の尊重という意味で、ベルトコンベアを廃止して、職人、商人などみんな何かしら特殊技能、長所を持たないと生きていけない時代に戻すのか。そうなると、今、ベルトコンベアで働いている人々は明日からどうやって食っていけば良いんだ。
背に腹は変えられないだろう。
そう言って時代が進んで来て、誰かが深夜も働いているのが当たり前の世界がやってきている。

そうして、一日十分のサボりは月に半日、一年にすれば6日の休暇に相当するっていう論法に辿り着いてしまっている。
「どうやってあいつが一日十分サボるのを防ごうか」
そんなことを何十分もかけて相談する。

サボりって大事なんじゃないかなって僕は思っている。
人によってサボる時間って違うし、サボり方も違う。
あまりにもサボっていると、サボらないでねと言わないといけないにせよ、やっぱり誰しもいくらかはサボって生きている。
人間に限らず動物だってそうだろう。
絶えず何かを食べるため、食料を確保するためだけに動き続けている生物っていない。
人間以外の生き物の声なんか聞くのは無理にしたって、どんな生物、植物も観察していれば、「これって何のためにしてるの?」っていう謎の行動って出てくる。
言うなればサボりだ。
同時に、論理付ければ、それも実はその生命にとってものすごく重要な活動とも言えたりする。
なぜサボる働きアリが存在するのかだとか、どうして鳩は首を振って無駄に歩き続けるのかとか。マグロはどうして泳ぎ続けないといけないのとか。
その生き物にとって必要な動きだけれど、一見サボりのようにも見えることってたくさんある。

人間だってそうだろうと思う。
ベルトコンベアシステムがあまりに普通になり過ぎて、無駄を省くことこそ正しいっていう常識が構築されてしまいつつあるし、それを利用して労働者を馬車馬の如く定額時間内働かせ放題みたいな、どこかの企業の商品のキャッチコピーみたいなことがまかり通る。

料理なんかって割とそういうのに関してまともだと思う。
レシピはある。ただ、そのレシピを数字通りにしているだけじゃプロの料理人とは言えない。もちろん、レシピって基本ではある。ただ、食材の鮮度や使う調理器具なんかの相性、提供するお客さんの嗜好の傾向などから、時間や味付けっていくらかは感覚的に変えないといけない。数字通りじゃ上手く行かない。
最近は数字通りにするのが一番間違いないってところもある。湿度温度、食材の鮮度なんかがコントロールしやすい機械、環境が増えたってのもある。
寿司職人になるのに、無駄な修行期間など必要ないっていう時代でもある。

ただ、どんなに環境をコントロール出来るようになっても食材は生き物だし、それを調理する人も生きた人間である以上バラツキは必ずある。
数字でコントロールされたマニュアルの限界ってのはある。

料理に限らず何事もそうだろう。

数字が偉くなりすぎた。
たぶん、今って人間より数字が偉い時代になりつつある。
だれかの感想よりも、統計で出されたグラフと数字の方が信頼できるっていう。

別にどっちが正しいとも思わないけど、やっぱり違和感ってのは忘れちゃまずいと思う。
違和感のあるものってやっぱり違和感があるものなのだ。理由が不明だろうと、人間が違和感を覚えるものって、やはり人間が違和感を覚えるものなのだ。
A=Aなんてシンプルな話だけど。
違和感が鈍くなるってすごく機嫌だと思う。

八時間働いてりゃ十分くらいサボると時間はあるし、それに文句を言うのなら八時間以上働かせるってどうなの?って売り言葉に買い言葉になってしまう。

お互いを思いやって、お互いに感謝出来て、お互いに許しあえる。
そういうのって数字じゃないだろう。人間の感覚とか感情だろう。
働かせてもらえてありがたい、働いてもらってありがたい。

ま、そんなこんな。


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2018年01月22日

全てが決まっている。

三十にして立つ。
孔子の論語だ。

さて、僕は三十にして立つのだろうか。
そもそも論語だと十五にして学に志さねばならないのだが、それすらした覚えはない。

文章を書くのは悲しい。
文章を書くのは読む人の心を読むことで、それを繰り返すたびに心が痛む。

どうしてだか、ここ最近、ひどく心が痛む。
三十にして立つのか分からない。十五にして何かを志したのか分からない。
ただ、ひどい罪悪感に心が痛む。
文章は書いていないけれど、ひどく心痛む。

悲しいわけではない。
怒っているわけでもない。
ただ、ひどく心が痛む。
罪悪感だとか恐怖だとか、何か怒られそうな、ひどく何かに怯えている。
一歩踏み間違えれば何かとんでもない地雷を踏んでしまうような。
その原因は分からない。

アフリカと違って、今夜の寝床に困ることはない。得体の知れない病に掛かるかもしれないということはない。119番を押せばすぐに救急車が来る。暴力の危機にさらされれば警察を呼べば無料で助けてくれる。
お金で何か大きな失敗をおかしたとしたって、食べるものに困ることはない。生活保護なり何かしらの保護のある平和な国。
何も危険などない。

それでも、ひどく心が痛む。何かを恐れている。

きっと人間なんだろう。
旅の暮らしの良いところは同じ人間とずっと付き合わなくて良いことってのも一つある。
景色の美しさはもちろん素敵だけど、日々呑気に暮らす。誰かの都合など気にせず、起きて走りたいだけ一人きりで走って、飯を食って走る。

ネパール人の友人がいる。かれこれ五年以上の付き合いで親友だ。
彼が近年時々言うようになったことの一つに、「日本語を覚えすぎなければ良かったよ」というのがある。
言葉が分からなければ、難しい話はしない。人の悪口も分からない。誰かの愚痴を聞くこともなければ、誰かに愚痴をこぼすこともない。
厄介な問題に巻き込まれることない。
人間関係ほど面倒なことはない。
最低限のコミュニケーションを取れる程度に言葉は通じる方が気楽なのだ。
言葉が通じなければ、とりあえず酒を飲んで笑ってりゃ良い。

まあ、日本人ってのは心が平和じゃないなと思う。
全部決めたがる。
決めたことをきちんと守ろうってなる。
何かを決めるには争いが起きる。
決めたことを全て守ろうってのも、やっぱり争いが起きる。
会社の出社時刻ひとつとってもそうだ。
例えばだけど、自転車屋が1時間早く開けようが、閉めようが一体誰にとって損なんだろう。来てみて開いてなけりゃ、開いてないで良いんじゃないだろうか。1時間のずれって何か問題になるんだろうか。

あくまで僕の考えだけれど、受験生はテストで点が取れれば良いし、チャリ屋はチャリが売れてりゃ良いし、医者は患者が治れば良い。そういうシンプルなことを複雑にする必要ってない気がする。

いろんなことを決めて、シンプルで良いものを複雑にして、みんな息ができなくなっちまってる。

まあ、合わないんだろうな。

生きるのがバカバカしく感じることが少なくない。
だが、こちらが生きやすい環境は自分で作るしかない。

ま、そんなこんな。
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2018年01月06日

リテラシー。

人間ってのはリテラシーなんだ。

そんな会話をする。

リテラシー。
辞書的なきちんとした意味は忘れた。
識字力とか読解力くらいだった気がする。

人間と人間が会話をする。
その時に、当然ながらどちらかが話して、どちらかは聞く。もちろん、一方的に話し続けるとか、聞き続けるってのはない。明確に話す側聞く側が分かれているわけでもない。話している側も話しながらにして相手の話を聞いている。
ただ、ある瞬間だけを取れば、情報は発信する側と受信する側になっている。
時々、双方発信になって、お互い聞いていないということもあるにせよ、ある程度の長さ会話をしていれば、基本的にはどちらかが発信でどちらかが受信、これがランダムに入れ替わっている状態になる。

人間、話す時に面白い人と面白くない人ってのがいる。
ただ、それは話題の内容ではない。
「あの人、いつも面白いことしてる」
そんな人も時々いるにせよ、基本的には普通に生きてりゃ、そんなに面白いことって起きない。だからこそ、人間、テレビを眺めたり、映画や小説を楽しむ。普通じゃない世界を時々触れる。その世界では必ず面白いことが起きている。
ただ、現実には生きていてそんなに面白いことって起きない。

面白くない内容の会話、パッと聞くと面白くなさそうな会話だ。
それでも、究極だが、話が面白いってのは内容の面白さってのはあまり関係ない気がする。

最終的にはリテラシー。
聞く側の上手さと、話す側が相手にどう聞こえて、どんな気持ちになるかを想像できるか。
会話の上手さなのだ。

声を使っての会話は人間のベースにある。
文字入力で事足りそうなことでも、昨今の流行りというのもあるにせよ、音声入力ってのをやりたがる。
音声で言葉を出すってのは早い。
ワンフレーズ話すのも早いが、切り返すのも早い。
同じ時間量で言えば、音声に出しての言葉ってのが一番情報をつめこめる。

ねむい。

そんなこんな。

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posted by ちょろり at 01:43| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月30日

管理職と楽しいこと。

気付けば管理職になっていた。まあ、かっちりしたサラリーマンの管理職というイメージとは少々遠い自転車屋の店長。部下というほど上下もはっきりしていないし、指示を出すのはたったの三人。それでも、まあ、管理職には違いない。下も少ない代わり社長の指示を聞くことになるけれど、上は社長一人とマネージャーが一人だけだから、中間管理職としてはさほど厄介でもない。

最初は僕なんかが管理職かと思ったが、冷静に考えると、少し離れた時期はあれど三年働いているスタッフというのは確かにあまりいない。いてもメカニックなので、メカニックは職人気質に自転車を整備する、作業に集中するという性質上店全体の管理は難しい。他はみんな辞めてしまった。
そう考えると僕が管理職というのも順当なのかもしれない。

管理職とは管理する人間だが、一体何を管理するのやら。
一番はモチベーションの管理だろう。
メンバーにやる気さえあれば、その場は明るくなる。
結局のところ、人間、出来ることしか出来ない。
スタローンが言うところの、どうにも出来ないことはどうにもしない、ってやつだ。
どうにも出来ないことをどうにかしようったって、どうにもならない。
各人が出来ることを最大限やっていけるという環境ってのが、そのメンバーでのベストパフォーマンスになる。

教育というのは、出来ないことを出来るように導くということっていう考えもある。
ただ、よくよく考えれば小学校中学校なんかの教育はたしかに満遍なく教えるが、次第に高校から理系、文系、工業、商業、芸術などと枝分かれしていく。大学になると、さらに絞り込まれる。
どちらかと言えば出来ること、出来ないことを理解するために、最初は一通りの全てを経験させるという方が正確だろう。
人間、生きている時間は有限だし、考えられることも有限だ。全てをやろうってのは、正にどうにも出来ないことなんだろう。

出来ることだけやってたら現状維持にしかならないじゃないかと言うとそうでもない。
出来ることをどんどんやっていると、練度が上がる。
一つの物事の練度が上がるというのは、周辺の技術が向上することにつながる。
逆に一つの物事の練度を上げるには、周辺技術を上げないといけない場合もある。

分かりやすい例えとしては、小学校高学年の算数の文章問題だ。
「アキラ君はリンゴを三つ買いました。その後、コウタ君に二つリンゴをあげました。その後、みゆきちゃんにリンゴを一つもらいました。アキラ君はいくつリンゴを持っていますか?」
なんていう問題だ。
これの答えは本当は解なしになる。もしかするとアキラ君の家はリンゴ農家で最初からたくさんリンゴを持っているかもしれない。また、問題の核心になっているリンゴをいくつ持っているかだが、いつのアキラ君なのかが明確に示されていない。言うなればこの問題は問題自体として成立していない。
ただ、小学校の問題として考えると、前提として、アキラ君は最初はリンゴを持っていない、この問題の話の中での時系列の最後の時点でいくつ持ってるか、というのは暗黙の了解として考えて差し支えない。
よって、
3-2+1=2 答え 2つ
となる。

簡潔に言えば、日本語能力がないと、式が立てられないのだ。

この手の文章問題は段々と難しくなってくる。
数式自体も難しくなるが、日本語としても難しくなる。
3センチ、4センチ、5センチという辺の三角形がある。この三角形に内接する円の面積を求めよ。
こんな具合で数学用語が混じって来たりする。
ちなみに、この問題は今の僕には解けない。忘れた。1時間くらいカリカリ落書きすれば内接円の性質なんかをいくつか思い出して解ける気もするけれど。

ただ、どんなに問題が高度になっても、基本的には、その文章の中で、何を聞かれているかということを理解出来ないと答えの出しようがない。また、問題の中で確定していることを理解していないといけないし、解くために使う条件を選び出せないと解けない。
文章の中から必要なものを拾い上げる。
つまり、文章読解能力が必須なわけだ。

自転車を売る時に必要な能力はいくつもある。
自転車の知識も必要だ。
自転車屋の店員として好感が持てる風貌もある方が良い。
喋り方、髪型、立ち方、話の内容、語尾の選び方。そういうのが調和していると自転車は売れやすい。
もちろん、そういうのが何もなくても売れる時は売れる。
人間、欲しいものは買う。
相手の欲しいものを素早く見抜く力もある方が良い。
喋り方、目線、服装、年齢、体格など、材料はいくらでもある。

ある程度はマニュアルにも出来るものの、最終的な答えとしては、方法はどうあれ自転車が売れれば良いわけだ。
下手にマニュアル化すると遠回りになることもある。
ものすごくフォーマルに売る方法も、フランクに売る方法もある。
向き不向きがある。
向き不向きを全て網羅した場合分けの入ったマニュアルを作れば良いかというと、それはやはり無理だろう。
せいぜい、囲碁や将棋みたいに動けるマス目が決まっている世界ならまだしも。
現実世界は複雑だ。
仮に全てを網羅したマニュアルがあったとしても、人間はそれを実行できないだろう。
それこそ、コンピュータが指すような将棋は人間は出来ない。人間は人間の考え方でしか将棋を指せない。
単純に人間には時間と思考は有限なのだ。
コンピュータは時間さえあれば集中力を切らすことなく無限に計算し続けられるし、計算に要する時間も技術の発展的でどんどんと進化している。
人間は第六感、計算じゃないところで出す判断を使うことで有限性を解決する。時間と思考は有限なので、第六感ですっ飛ばすのだ。計算ではなく経験則、カンで。

ロボットが人間を越える時代は来るか。
意味を限定すれば来るだろう。
例えば囲碁は人間は随分前に勝てなくなっている。
自転車を売るということにしたって、非常に自然な動きをするロボットが出来て、音声認識、表情認識などが発展すれば、相手の求めるもの、話したいことなんかを解析出来るようになるだろう。
あるいはそこまで進化しなくとも、自動販売機みたいな形で、ユーザーがいくつかの質問に答えるだけで、ユーザーの求めるものを素早く割り出して提案するコンピュータが出来れば、それだけでも生身の販売員より成績は良いかもしれない。
自動接客マシーンはあり得る。
話し相手セラピーマシーンだってあり得る。

ただ、逆を言えば人間ってのは実に優れた生き物でもある。
生きている百年足らずどころか、三十歳くらいまでにある程度はそういう技能を一つは習得する。
コンピュータが三十年後、どこまで出来るようになっているかは分からないが、映画バックトゥーザ・フューチャーから三十年以上経った現在もコンピュータは意外なまでに人間特有の技能みたいなものを越えられてはいない。
計算を早く処理する、小型化するというのは進んだが、人間と雑談するってのはいまだに出来ていない。iPhoneのsiriなど頑張ってはみるが、ちんぷんかんぷんな答えが大半だ。
ーーこんにちは、良い天気だね。
と言ってみたところで、ひとしきりの受け答えくらいで、向こうから話題を振って来たりはない。
ーーそうね、良い天気ね、今日、何かするの?
ーーいや、別に何も考えてないけど。
ーー野球でも見に行く?チケットあるんだけど。
この程度の会話が意外と出来ない。出来そうな気はするんだけど、意外と出来ない。
三十年後にそんな会話を出来るようなロボットが存在するかは分からないけれど、とりあえずは人間は5歳になればいくらかは会話も出来る。

意外と人間ってのは優秀だ。

まあ、ロボットの話なんかはどうでも良い。
管理職の話。

そう、ある人間の出来る事、得意なことって実に優秀で、真似するのって難しい。
そんならそういう能力がフルに発揮される環境を作れば、これはなかなか素晴らしい仕事が達成されるわけだ。

そして、誰しも何かしらそういう能力って持っている。
そりゃ、その能力が仕事に直接的に役立つかって言うと分からない。
あまり役に立たない能力もあるかもしれない。
ただ、ある程度以上、練度の高い能力は何かしら役に立つものだ。

結局だけど、学生の文化祭だの体育祭だの学級委員長だのと変わらない。
楽しい場所では人間せっせと何かやる。
つまらない場所では、いかに恐怖で縛っても、機械が出来る範囲のことしかやらない。
楽しい場所を作ればエネルギーは高まる。
あとはその集団の目的みたいなものを明確にさえしていれば、エネルギーの方向もずれない。
集団の目的に賛同できない人間も時々はいる。
それでも、目的を明確にしておくのが重要だ。
賛同出来ないと自覚してもらうのも重要だ。自覚していないと、真逆の方向を一生懸命やってしまったりする。自覚さえあれば、仮に真逆のことをするにしても引け目がある。

ベストは賛同してもらうようにすることだ。
そのたまにはドラッカーのマネジメントで言うなら、真摯さだ。真摯さで人の心を動かして、目的に賛同してもらい、エネルギーを一つの方向にまとめる。
真摯さって何なのかって言えば、筋が通ってるかどうかだ。
筋が通っている目的ってのは、納得出来る。

まあ、楽しいことしていて、しかも仕事を評価してもらえるってのは、やはりほとんどの人は嬉しいと感じるところだ。
仕事は高く評価されるけど、楽しくないってのは長続きしないか、我慢して続けてもパフォーマンスが落ちる。

まあ、そうは言っても楽しいって何なのやら。
まあ、アフリカ走るとかは楽しいね。
山登ったりね。
達成感あることは楽しい。
怠惰な快楽も楽しいには違いないけどね。
何かしら活動して得られる楽しさってのは、やはり達成感とかだろう。

ま、そんなこんな。
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2017年12月04日

細々とでも長く続ける。

気付くと長いこと日記も書いていなかった。
アフリカの旅から戻ってからの山小屋の勤務が終わり、もうじき自転車屋に戻る。
自転車屋の勤務が始まる前にアフリカの話を執筆していた。とりあえず第一稿が上がった。珍しく十万字近いので削るのか、もしくは伸ばすのか。まあ、のんびりやっていこうかな、と。

以前は小説という形式にこだわっていた。
今回のアフリカの話は小説っていう感じでもないし、旅行記ってわけでもなく。ルポルタージュだとかドキュメンタリーとかになるのかというとそうでもない気もする。
とにかく形式ってのは、一切無視して心のままに書いてみた。
ここから推敲を重ねて行く内に小説風になるのかもしれないし、ドキュメンタリー風になるのかもしれないけれど。

形式って重要だ。
小説に限らず、最近のアートってわけの分からないようなものって多いけれど、あれってすごく難しい。風景画とかは人から理解される。理解されるされない以上に作り手自身が作るものをイメージしやすい。こんな感じのものを作ろうって。抽象的なアートは作る前のイメージ、こんな感じで作れば良いかなってライン取りがすごく難しいと思う。
多分、文を書くでも、テンプレート、型のある文よりも、型のない文って厄介だと思う。宮沢賢治だとか。もちろん、詩だとか童話って型はある。それでも、宮沢賢治は型破りで、実際、長い歳月が過ぎても宮沢賢治みたいな作家ってなかなか出てこない。
それでも、やはりまずは型通りにやる時期があってこそだろう。何となくの感覚だけで作って、それが何かの形になるってのは、基本の型はやったことがあればこそだろう。

あとは、いくらか投げやりということ。
いや、投げやりってのは違うけど。
まあ、何でも良いや、自分は自分の好きなようにやる、みたいな。他人なんか知ったこっちゃない。そんないくらか傲慢なところを自信を持って出せるようになるまでには時間がかかるんだろう。

だからって、今回書いたものが上手く行ってるかは分からないんだけど。

自転車屋では店長をする予定になっている。他に適切な人材が見付かれば変更はあるかもしれないと思っていたが、気付くと三十歳(厳密には次の三月で三十歳)と適切な人材として扱ってもらえる年齢になっていた。恐らく変更はないだろう。
実際には年齢など大した意味はないと思うんだけど、ある程度最低限の経験の積み重ねって重要だ。
歳食ってるからって経験を重ねられているわけじゃないにせよ、やっぱり経験って時間が必要だから、三十歳くらいってのはちょうどそんな時期なんだろう。順当に行っていれば、ある程度の経験を積んで来ていて、それなりの戦力になるっていうライン。そして、三十くらいまでに全く何もしていなかったり、いろんなことを諦めている人間は、そこから先、待っても期待出来ないっていうライン。
もちろん、人間、早い遅いはあるし、遅いのが悪いわけではない。遅くてもこれから進む兆しがあって、長く成長する見込みがあれば全く悪いことじゃない。

若気の至りじゃ片付かない年齢、そこでやってることは人間の本質に近いのかもしれない。

まあ、そうは言ったって四十歳からでも六十歳からでも何事かをする人はするから、別段、三十歳ってのは大した歳でもなく、言ってしまえばやはり歳など大して関係ないのだけど。

まあ、好きなことを細々とでも長く続けるって大事だと思う。当たり前か。

まあ、そんなこんな。
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2017年09月07日

放浪の是非。

放浪の是非を問う。
そんな日々が続く。

まあ、一口に言えば、貧乏性なのだ。

これから始まる新しい生活、本当に僕は人生で女の人と生活を共にしたことがない、女の人に嫌われてるんだかどうだかは知らないけれど、最近、少し歳を喰って考えてみれば、まあ、そりゃそうだわな、女の人、特に若い女の人って自分を一番大事に想ってくれる男を求めているし、あれこれ言ってたくさん一番好きなものがある男ってのは、やっぱりそういうのが分かってしまった時、どうにもならない気持ちになるのかな、などとやっと最近になって思うんだけど。

女の人っていうのに関して僕の考えでは人生で一番大事にすべきものの一つだと思っている。
これに関しては昔から一貫して変わらない。
ただ、今考えれば全く大事に出来ていなかったなと思うことが本当にたくさんある。当時の僕の全力で大事にしているつもりだったけど、どうしてもう少し相手の気持ちを汲み取れなかったのかな、と。

かと言って今も大して上手く出来ている自信はない。
奥さんを大事に出来ているんだか、自信がない。
頑張るは頑張っている。
でも、自信はない。
表面的な愛しているよ、とか、綺麗な景色の場所に連れて行く、とか、それは本当に奥さんを大事に出来ているのかな、などと。

そうは言っても、奥さんは本当にとても良い人で、僕が失敗しても心から笑って僕を応援してくれるのだ。

だから、本当は放浪の是非など問いたくはないのだ。
僕は大好きな奥さんと楽しく暮らして、奥さんが毎日安らぎながら猫を撫でているのを眺めていたいのだ。その隣にはサボテンとレコードプレーヤーが欲しい。キザっぽいけれど、愛すべき女の人と猫とサボテンとレコードプレーヤー、それが今の僕が一番求めている絵だ。

でも、放浪の是非を問うてしまうのだ。
奥さんが隣にいてくれる時には放浪の是非など忘れられる。
ただ、奥さんは遠くにいる。

奥さんと暮らせば僕はもう放浪の是非を問うことはないだろう。
あの人といれば、放浪は遠い昔の話、今の幸せが本当に幸せになる。
でも、本当に僕は放浪の是非を問わなくなって良いんだろうか。

昔は誰にでもそんな相談が出来た。
今はめっきり減った。
良い歳こいたら放浪の是非など過去のものにしてしまうのが人間なんだよ、と。
そんな荒い言い方は誰もしない。
現実にはふくさんにもやっと幸せな時代が来てくれて、日々の心配が一つ減るよ。
そういう言い方だ。
もちろん、それは本心だろう。
僕の友人はみんな良いやつしかいないから。あ、嘘だ、悪い奴もいる。でも、なんだかんだすごく良い奴なんだ。
だから、本心として喜んでくれる。

ただ、それはやっぱり喜ばないといけなくなってしまったんじゃないかな、なんて思ったりもしちゃうのだ。
僕のためにも、日々の生活のためにも。
それを喜べないと、いろんなことが崩壊してしまう。

変に疑心暗鬼だな。
書いていると改めて思う。
なぜそんなに疑心暗鬼なんだろう。

書くために不安定など求めてはいけない。
でも、そういう書き方をして、素晴らしい文を残した人々も少なからずいる。

ーーー

まあ、馬鹿な話なんだけど。
久々に考える話なんだけど。

神様がある日やって来るのだ。
お前が本気なのは分かった、今日、お前に文をやろう、カフカにもやった文だ。その代わり明日以降、遠からぬ日にお前の命をもらうよ。それとも、単に書いているのが好きでもっと書きたいなら、お前には文はやらない、長生きさせてやるなどの約束もしないが、意図的にお前の命を奪うなんてこともしない。
神様はそう言うのだ。

そこで主人公は考える。
どっちが良いんだか。
本当に一生懸命ね。

でも、不思議なまでに主人公は神様のことを疑わないのだ。
普通、疑う。
明日殺される代わりに今日お前が書く文は歴史に残る素晴らしい文になるよ。
そんなの本当かどうかも確かめようがない。

でも、どうなんだろう。
僕はあまり小説のセンスがないせいだろうか。
一縷の望み、藁にもすがる気持ちで書くのだ。
もしかすると、素晴らしい文が僕にも書けるかもしれないと言って。
勇気付けるのだ。
僕は死ぬまでに必ず書けるのだと言って。

そんな主人公が神様を疑わないのは当たり前と言えば当たり前なのだ。

でも、やっぱりそこで、オレはオレでやる、オレの書くものを勝手に変えたらぶっ殺してやる、殺せなくたってオレの文を勝手に変えたら許さない、神が死ななくとも絶対にオレは許さない、そう言えないとダメなんじゃないかな、なんて考えたりする。

ーーー

アフリカの話。
どうさばくかな。

サボテンと猫の切り口までは見えたけれど。

なんだかんだ今年中には降って来ないかもしれないな。
神を許さないなどと言いながら、天から降ってくる文を書きたい、降りて来たものを一切汚さず書きたい、そういうタイプだからな。

放浪の是非ってのに集約されるのやら、疲れているからそんなことを思うのやら。
まあ、今の自分ができることをやるだけだな。
今の自分ができることをほんの少しでも増やすだけだな。

ま、そんなこんな。

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posted by ちょろり at 06:42| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする