2013年02月18日

SUDDEN FICTON2はおもしろい

不意に胃を痛めて、三日ばかりぐったり寝込んでいた。
今日はかなり元気になって、てくてくジョギングに出掛けたら。
雨。
来週にはマラソン大会なのに。

先日、ビレッジバンガードで買ってみた「SUDDEN FICTION2」っていう本がなかなか楽しい。
いや、すこぶる楽しい。
要は世界の名作短編集。


ちなみに一巻はアメリカ編で、まあ、これは、まあまあ。
アメリカ文学って独特で、あんまり延々と読み続けたくない。

はて、この二巻はすこぶる素晴らしい。
本当に。

理由は二つあって。

まあ、単純な話なんだけど。
アメリカの中のトップ10を引っ張ってくるのと、世界のトップ10を引っ張ってくるんじゃ。
そりゃ、世界の方がクオリティは高い。

そして、もう一つが、マニアックなところを引っ張って来なくても良いということ。
仮に。
日本文学アンソロジーなんかを作ろうと思うと、あんまりメジャーなものばっかり引っ張ってきても、いまいち芸がない。
でも、ラテンアメリカ文学アンソロジーを作るとする。これは、メジャーなものを十本引っ張ってきても芸がある。

もちろん、マニアックなところ、マイナーメジャーみたいな辺りの作品が悪いとは思わない。
それでも、やっぱり王道ありきのマイナーメジャーっていうものだ。
各国の小説の代表選手が集っているわけだから、面白くないわけがない。

と言いつつ、日本代表は川端康成で作家の方はメジャーなんだけど、作品の方が「バッタと鈴虫」。

なかなか渋いセレクトなのだ。
他の国の作品については、詳しいことも分からないんだけど。

つまり。
音楽のCDなんかでもそうだけど、名盤1500円シリーズみたいなのは間違いないわけで。
ぶっちゃけ、消費者なんてのは、よほどの専門家でもない限り、名盤1500円シリーズを求めているってことだ。

日本語ってのは、非常に弱い言語なので、普通、こういう世界各国のアンソロジーっていうのは、出版しにくい。
このアンソロジーは、元々、アメリカで出版されたものだ。
英語に翻訳されたものを、さらに日本語に翻訳している。
重訳なんていうんだけれど。

川端の作品は、このアンソロジーの中では、妙な光を持っている。
川端だからというより。
日本の小説って変わっているなあ、と思う。

いや、唯一、原文だからだろうか。

プロの小説家の文と、翻訳家の文じゃ、そりゃパワーも違う。

でも、どうしたって母国語以外の文章を鑑賞する、単に意味を理解するわけじゃなくて芸術として堪能するってのは、かなり難しい。

そうやって考えてみると、やっぱりまずは日本の小説を楽しんだ方が良いんだろうな、とも思いつつ。

それでも、明らかに見たこともないような世界の文章っていうのがいくつもあって。

これはなかなか本当に楽しい一冊。

インドとマオリが面白い。
あとラテンアメリカ。

ま、そんなこんな。
posted by ちょろり at 00:08| Comment(0) | 良い小説について話してみよう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月28日

良い本、九回目、伊坂幸太郎、いしいしんじ、宮沢賢治。

良い本について。九回目。
伊坂幸太郎、いしいしんじ、宮沢賢治(童話)。

先日、最終回になったはずなのに。
「家にいて何もすることないと気が滅入るから、何か読みやすくて良い本ない?」
なんて友人に聞かれたもので。

ま、別に最終回なんか何回あっても良いのだ。

伊坂幸太郎は別に大して好きでもないんだが。
読みやすいし、おもしろいな、ってことは確かに納得できる。
すごいのは、どれもほぼ外れなしで読みやすく、おもしろい。
まあ、だからこそ好きじゃないんだけど。

おもしろい=好き、ではない。
けど、おもしろい→良い本、という矢印は場合によっては成立する。
なぜって、おもしろい、っていうのを求めて読む人はたくさんいるし、おもしろいおかげでその人の人生が助かることはあるのだ。
まさに、家にいてすることがなくて気が滅入ってしまう人とか。

誰かの心を支えることのできる文っていうのは、良い本だと思う。
おもしろいってのは、誰かの心を支えうる。

読みやすいってのは。
谷崎や村上春樹なんかみたいに文にリズムがあるとか。
厳密に言うと、まあ、いろいろあるけど。
簡単に言えば、余白の多い→読みやすい、で良いように思う。
(まあ、ほんとは違うんだけど。言葉が少なくて逆に難しいのが詩だったりするわけだから。詩なんかは本当、心に合わなければ読むのが大変だ。好きな詩集を一冊持ってるって人は大したもんだなあと思う)

単純に、人間、文字をたくさん読むのは疲れるのだ。

会話文が多い。
会話文は「」で改行になるから余白が増える。
人物がよく動く。
心理描写ってのはいくらでもだらだら続けられるけど、人物の行動ってのは、まあ、そんなにだらだら書けるものじゃない。動いた以上のことは書けない。動きごとに改行になりやすいから、余白が増える。

そういうのって分かりやすい。
絵を連想しやすい。

そんなわけで、余白=読みやすさっていうことで良いと思う。

さらに言えば。
やわらかな文体で読みやすい。固い文はくたびれちゃう。
展開が早くて分かりやすくて読みやすい。殺人事件を解決する話とか、もうとっても分かりやすいでしょ。犯人は誰だろうっていうわくわくがある。
この二つが満たされるととっても読みやすい。

その点、童話みたいなものは読みやすい文だ。
でも、大人が読んで楽しもうと思うと、童話の中でも限られて来る。

いしいしんじは、別に童話作家というわけでもないんだけれど。
ふんわりした不思議な世界観で、文体が柔らかくて、そう、ひらがながよく似合う、読みやすい。
展開はぼんやりしていて、分かりにくいようなものも多いけど。
それでいて、子供だましみたいな世界観じゃなくて。深い。不思議な気持ちになる水を張ったプールみたいな文。
ただ、単におもしろい、娯楽っていう感じじゃなくってね。
大人が楽しめる。
「ぶらんこのり」
だったっけ? タイトル忘れたけど。楽しかったおぼえがある。

宮沢賢治こそ、不思議な気持ちになる水の泉で。
童話だから読みやすいし。
旧字旧仮名じゃ、当然読みにくいけど。
「セロ弾きのゴーシュ」が好きだな。

まあ、ミステリー読んでも良いんだろう。
ミステリーは展開が早くて分かりやすくて面白いってのは、ほぼ間違いない。
何せ解決するもの、例えば殺人事件の犯人とかね、それに向かってストーリーが進むわけだから。

でも、まあ、最近は漫画がすごいと思う。
読みやすくて、おもしろいっていうのを求めるなら、漫画でも良いと思う。
何せ、文字は台詞とほんの少しのナレーションだけだから。
あとの部分は絵が引っ張るわけだ。

漫画は小説に比べてチープ、そんな時代はとっくの昔に終わっていると思う。

まあ、そんなわけで、僕はあまり小説には読みやすくておもしろいってのは求めないわけだ。

その手の文って映画化されやすい。
映画向きなのだ。
映画って作るのにお金もかかるから、芸術なんかの要素より、おもしろさ、客足、そうなってしまいやすい。
あと、映画は心理描写より絵や行動を取る方に強いから。
まあ、そんならさ、小説で読まずに、映画で見た方が楽だし、音楽や絵も楽しめるじゃん、と。

要は僕は文字を読むってのは実はあまり好きじゃないわけで。
読むとしたら、文字でしか表現できないもの。
だから、あまり娯楽小説、大衆文学なんかは読まない。
そういうのは、漫画や映画で。

案外、文字を読むのが得意って人は、ミステリーなんかの読みやすいものが好き。
そんな気もする。
ほんと、文字を読むのが好きな人って、延々読めるからなあ。
僕は本当に苦手。

まあ、こんな感じで、このシリーズは気が向いたらちょくちょくやるかもしれない。

そんなこんなですね。
posted by ちょろり at 02:14| Comment(0) | 良い小説について話してみよう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月24日

八回目。意外とネタ切れだ。一つの塔を。とりあえず連載最終回。

ネタが思い付かないので、本棚を眺めてみると。
案外、いろいろ読んでるようで、そんなに読んでもいないもんだなあ。
何だかいっぱい読んでいたような気もするんだけれど。

代わりに箱の空いた半端のコンドームがある。
そんなにセックスをした覚えはないんだけど。
そうだな、本当にしてないな。
なぜか、旅に行く時にはコンドームを二枚ほど持って行くんだ。
別に使いもしないけど、何となく。
あわよくば、なんて期待を持って。

意外と少ない本に、なぜか多い半端のコンドーム。

大人になるってこういうことなんだな、って思う。


ネタがないので、良い本の話じゃなくって。
本を良く読むための環境なんかについて。

別にたくさん読まなくても良いと思う。
月に二十冊読む人とか、凄い人は一日に二、三冊、毎日読んでいく人もいる。
でも、別に、そんなにたくさん読まなくても良いと思う。

でも、毎月、何冊か買うってのは大事だと思う。
読まなくても良いから買う。

机の上には、五冊ほど読みたい本、読みかけの本を積んでおくのが良いと思う。
もちろん、書き物ができるスペースは確保して。
好きな音楽のCDなんかも置いとけば良い。
何でも置けば良い。
ただ、いらないものは置かないようにする。
好きなものは何でも置けば良い。
古本屋に行って、また本の塔を高くする。

そうしてると、まあ、読まない本も溜まる。
大して読んで無いつもりでも意外と読んでいたりもする。
時々、片付ける。
読まないだろう本、自分の気持ちに合わない本は、読まないまま本棚に行ったりもする。

そうしていると本棚が溢れてくる。
棚一段分ぐらいがダンボールに移動される。
そんなときに、あ、昔買って読んでなかったけど、これ読みたい、っていう本がある。

そういうサイクルの中で、自分に合う本ってのは、勝手にやってくる。

下手に、読書記録みたいなものをマメにノートに付けたり。
名作ガイドみたいな本を読んだり。
まあ、そういうのも良いけど。

とにかく本は積むことだ。

読むよりも、頭良さそうな本を買って積むことに喜びを見出すくらいで良い気もする。
そういう喜びを感じる人は、なんだかんだでせっかくだからと、読む。

とにかく、本棚に綺麗に並べない本を作るってのが大事だと思う。

ほら、トイレに漫画本置いてる人いるじゃない。

そうなんですよ。
好きな本って、トイレでも読みたいものだし、ぱっと手に届くところにあって欲しいものなんですよ。

携帯電話を開くと、いろんなものが見れる。
携帯電話っていっつも持っているから、お手軽だ。
なんだったらすぐに何でも注文できる。
便利だ。

本ってのは不便だ。
重いし、目疲れるし。

だからこそ、せめてぱっと手に取れるところに置いといてやる。
いや、タイトルが目に入るようにしておく。

いや、部屋の同居人として、本に場所を作ってやることだ。
邪魔者みたいにせっせと棚に並べちゃいけない。

昔は、ジーンズの尻ポケットにいつも文庫本を一冊入れていた。
ジーンズも本も傷むから今はしないけど。
でも、不思議となんだか僕を守ってくれてるような気がした。

多分、今はそういう本を読む人間じゃなくて。
書く人間になりたいな、って強く思うからこそ、読書から離れてしまっているのかもしれない。
単に、あまり物語を読むということを求めていないのかもしれない。
物語の型っていうのに、うんざりしてしまっているところもあるんだろう。
歳を食ったからかもしれない。
熱意を失ったから。
向上心をなくしたから。
分からない。

でも、まあ、読んできた結果としてそうなったわけで。
多分、ポジティブな意味だろうと思う。

いや、単に、部屋が汚すぎて、酒ばっかり飲んでるからか。

部屋を綺麗に。
これが長々した連載の究極のところかもしれない。

部屋に限らず、心でも。
すっきりして、その中に自分が美しいと思うものを一つ塔にして積み上げて。
そういう風に心がけていりゃ、良いものってのに触れられる。

いろんな便利なものやら、欲しいものがあるけど。
そういうものをいくらか捨てて、一つ、塔を。

そう思う。

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えー。
最終回でした。

終わってみて思うと、何故か駆け足だったなあ、と。
そもそも、一人の作家を、ブログ程度の短い文の一回分だけで書くってのは無理があるんですよ。
一回につき作品一本。
そのくらいでも良かったかもしれない。

最初はそういう予定だったんです。
細く長く、春が終わるくらいまでのんびり書いても良いな。
アマゾンのリンク張ったら小遣いくらい稼げるかもしれない、って。

それでも、本っていうのは相互作用で。
一冊の本だけで、どうこうとは言えないんです。
読書っていうのは木の枝分かれみたいなものだから。

太宰治のことを書いたとき、「人間失格」「斜陽」だけ読んでもいけない。
そんなことを書いたんですけど。
別に太宰に限らず誰でもそうで。
さらに言えば、別の作家にも飛び火する。
作家だって人間だから、他のだれかに影響を受けたり与えたりしながら書いている。

本と本のつながりって大事なんです。

だから、一冊ずつ書くってわけにもいかない。

これは、小説に限らず、なんにでも言えることで。
漫画でも映画でも音楽でも。

つながりを意識しないと。
まあ、何でも良いんですよ。
時間がそれなりに潰せて、暇さえしなければ。

つながりを意識すると。
いくらか、こういうものを読みたい、見たい、聴きたい。
時間を潰すというより。
時間を裂いて、楽しむっていう形になって来る。

そうなると、良い本っていうのに出会うようになるわけです。

良い本に出会って、何がどうなる?
さあ、どうなるんでしょうね?

よく心が豊かになるとか良いますけど。

まあ、それでも、自転車でアルゼンチンを走るのと同じ程度に何か満足はあると思います。

いや、本当に。
アルゼンチンを走ったことを人はよく誉めてくれるんですけど。
もちろん、楽しかったし素晴らしかった。

でも、僕はそれと同じくらいに。
大学時代に、本を読んで、何かを探して、日々を生きていた。
そして、今も何かを探って、本を読むし、書く。
とても素晴らしいことをしているな、って満足感があるんですよ。
アルゼンチンを走ったってことと同じくらい。

冷静に考えれば当然で。
単にベクトルの向きこそ違えど。
何かを楽しみたい、美しいものに触れて感動したい。
結局、同じわけで。

で、そういうことをしたからってどうなるの?

さあ、その辺は分かりません。

とりあえず、今のところ、お金になるわけでも、仕事になるわけでもないってのは分かります。

お金と仕事以外の何かになるのかもしれないし。
はたまた何になるわけでもないのかもしれない。

昔はその辺のこと真面目に考えてた。
今は、まあ、あんまり考えないな。

別に考えなくても、言葉にする必要もなく、確かに僕は何かを得ているような気がする。
得てない気もするけど。

ま、それでも、これからも読んでいこうと思える程度には価値みたいなものはあるんだろう。
書くこととは別にしても。
純粋な読書家として、良い本を楽しみたいなあ、と。

とりあえず、千冊くらい読むまでは、名作を中心に回していこうかな、と。
しばらくは阿部公房。
あとは、新潮文庫のかっこいい表紙シリーズと、ちくまの全集のまとめのやつでも読んでいこうかな、と。

別に、良い本を読んだ方が良いよ、なんてすすめはしない。
本を読んでいなくても立派な人を何人も知っている。

でも、僕は。

おーけー。良い本とともに生きていこう。

いろんな生き方ができるだろうけど。
多分、良い本とともに生きていったら楽しいと思う。

まあ、そんなこんな。
連載楽しみにして、読んでくださった人。
本当にありがとうございました。
posted by ちょろり at 20:54| Comment(0) | 良い小説について話してみよう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月16日

ノーベル賞四人

チャリ屋がなぜか受からないで凹んでるけど、まあ、続きを書いていってみる。
ほんと、腹立つねー。
何だ、日本にはそんなにすごい自転車乗りがゴロゴロいるのか?

三回目はノーベル文学賞作家。
大江健三郎、川端康成、そして谷崎潤一郎。
谷崎はノーベル賞取れてないじゃん。

でも、谷崎と川端っていうと案外同列の作家だと思う。
どちらも官能と高い描写力が持ち味の作家だ。
個人的な考えだけど、単に川端は日本的なものが多かったから国際的な評価も高かったんじゃないかな、という気もする。
小説家としてのうまい下手で言うと、まあ、さほど変わらない、どちらも卓越して上手。

個人的には、谷崎の「春琴抄」より優れた作品は川端は書けてないような気もする。
「春琴抄」はずば抜けて美しい。
文体美も世界観も登場人物の交わる心も。すべてにおいてずば抜けている。

官能を通して、人間の心の奥だとか、透き通った美しさを描写するっていう点で、この二人はずば抜けている。

はて、大江健三郎。
前回の安部公房が急死して大江にノーベル賞が流れたなんて言われることもある。

実際のところで言うと。
安部公房の方が全体的な力量は上じゃないかなと思う。
大江も面白いけど、安部公房ほどの天才さはない。

でも、大江は、「個人的な体験」というとてつもなく優れた作品を書いている。
あと、「万延元年のフットボール」も名作だ。

個人的な体験は、男が父親になる瞬間、命の生まれる瞬間なるものを克明に描いた作品だ。
大江は全体的に迫力のある力強い文体を持っている。難解で、脳を直接打つような描写。気持ち悪さ。
朱色に顔を塗って、ケツにキュウリをさして首吊りした友人。これは万延元年の方だけど。そういう強いキャラクターも良い。
好き嫌いはあろうけど、まあ、しびれる良い文だ。

ただ、大江には天才さはない。
大江の文はすごく正確な印象を受ける。
全てが計算され、上手く配置され過ぎている。
迫力ある文も人物も事件もすべて綿密な計算の上で配置された感じがしてしまう。
面白いんだけど、呼吸している感じがない。躍動感がないとかじゃない。あまりに正確すぎる。

でも、個人的な体験の素晴らしさは、正にその正確さにある。
すべてがピンポイントで素晴らしく配置され、ど真ん中ストライクの極みなのだ。どーん、と胸に刺さってくる。ずぼんずぼん刺さる。

個人的な体験は名作の中の名作だと思う。

安部公房はそういう正確さってのは薄い。
むしろ、ばらばら。

でも、この二人はどこか似ている。
難解で力強い、えぐさのある文体。

まあ、この四人はノーベル文学賞クラスってやつですな。
おすすめは。
川端康成「古都」(紹介しなかったけど、結構好きなの)
谷崎潤一郎「春琴抄」
大江健三郎「個人的な体験」
安部公房「砂の女」「箱男」

一気に四人やっちゃうと次回の分もったいなかったかな。
まあ、良いや。

しかし、まあ、チャリ屋駄目だねー。
岡山県内はもう駄目じゃない?
本当にチャリ屋はしたかったし、チャリには世話になったし。
ショックだよ。

まあ、良いんだよ。
駄目なら駄目で。

次がある。
別にチャリ屋じゃなかろうが。

百本落ちたら百一本目を書けば良い。

僕が小説を書いてきて覚えたことだ。

百一本目が書けないやつには、面白いものは作れない。

頭をひねれ。
百一本目、百二。
千一。
新しいもの、深いもの、別の角度から。

駄目なら駄目だ。
次がある。

別に面白くなくたって、人生、悪くはない。
でも、面白くありたいなら百一本目を書け。
折れても折れても前に出る。
それしかない。

できうる限り不公平で、圧倒的な力で僕をうちのめしておくれ。
僕は地面にめり込みながら、土中の鉱石を握りしめて、歯軋りして、また新しいものを作ってやる。

世の中には僕なんかよりもっと地面にめり込んで、努力してるやつがいくらでもいる。
僕もやらねば。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 23:37| Comment(2) | 良い小説について話してみよう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月15日

二回目。安部公房「笑う月」

本の紹介なんて言う連載を始めたは良いけれど、二日酔いやら何やらでいきなり停滞している。
普通の日記を書く方が呑気だし、楽だ。
でも、始めたものは一応何となくでもしばらく続ける。

今回は安部公房。
作品は最近読んだっていう理由だけで、
「笑う月」

あ、ケータイじゃ画像はれない。

まあ、いいか。

安部公房ってのはすごい作家で。
真似されない作家だ。
というか、真似できない。
発想が少しやばい。とんでいる。

笑う月は小説なのかっていうとすごく微妙なところだ。
何本かの短編が入っているんだけど。
いずれも、夢日記、着想メモに近いようなものだとも言える。
でも、小説だとも言える。

というのも、夢日記、着想メモとしてはレベルが高すぎる。面白いのだ。発想がぶっとんでいる。
ただ、小説としては、どこか形が整っていない。

安部公房の小説ってのは、そういうのが多い。

一番有名な「砂の女」に関してはきちんと小説として成り立っているけれど。

代表作「箱男」「壁」の二本は間違いなく名作というべき面白いものなんだが。
途中からすべてが吹き飛んでいる。
そんな飛び方をしてしまって小説と言っても良いもんだろうか、とさえ思わされる。

とにかくブッ飛ぶ。

「砂の女」がすごいのは、飛んでいるのに壊れていないことだ。ブッ飛んでいるけど、上手くブッ飛ばずに骨組みがしっかりしてる。
「砂の女」はちょっと別格。

はて、本題の笑う月。

ブッ飛んではいても、壁も箱男も小説なのだ。
なぜって、長いからだ。

ある程度の長さがある文を全て小説とは言えないけれど。

それでも、長さってのは、小説にとって大事だ。

たとえば。
カッパ男はキューりをかじりながら、飛行機雲を眺めては、暗い森の中の池で日々を過ごしている。
この一文だけを小説とか物語とは呼ばない。
ただ、カッパ男がどうやってキューりをかじっているか、池にやってくる仲間はどんなやつなのか、まあ、なんでも良いけど、原稿用紙20枚くらい続けると、これは何となく小説って感じもする。
別に起承転結がなくたって、カッパ男の生活が何となく目に浮かぶ、それだけでも構わない。

暇に任せて妄想を数十枚に渡って書きまくれば、一応は小説と呼べる。
極論だけど、まあ、それはだれも否定できないだろう。

短いと小説というより落書きとかメモっていう感じにはなってしまう。

そういうのを、ものすごい高いレベルでやっている。
安部公房のイメージはそんな感じで良いと思う。実際にはすごく頭のいい人だから、適当に書いてるわけもないんだけど。

そう。
もしかすると、単に僕ら凡人の脳みそじゃ追い付けない遥かな高みを浮く文章ってのが安部公房なのかもしれない。

笑う月は、そういう小説離れした小説っていう安部公房の良さがぐっと詰まった一冊かもしれない。クセたっぷり。
好き嫌いがはっきり分かれる。

それでも、「砂の女」がダントツで名作ってのは動かしがたい。名作というか、なんというか。
好みに左右されない、普遍的なすごさがあるんですよ。
他の安部公房の作品が苦手でも、砂の女だけは好きって人は少なくないんじゃないかな。
だれにでも評価されるべき作品。

んー。でも。
やっぱり笑う月が良い本じゃないかな。
短編集って素晴らしいと思う。三十分ほどで一本読めちゃうようなやつ。
たったの三十分ほどでひとつのお話、世界を堪能できちゃう。
それって、すごく素晴らしいことだ。
一冊あれば、本来、暇なだけの時間に、一つのストーリーがぽつりと落ちる。

まあ、長い小説の良さもあるけど。
でも、面白い短編集ってのは、持ち歩いてるだけで生活を豊かにしてくれる良い本。

はて、僕の方は。
執筆がまた行き詰まって、お酒を飲んで、煙草吸って、二日酔いしつつ。
自転車屋の面接うけつつ。
ちょっと条件がよくないものの、まあ、チャリの技術さえ盗むのがメインの目的だし、ま、良いか、みたいな具合で。
友達と昼からビール飲みつつ。
久々に走ったら、すっかり駄目で。
お酒もタバコもちょっと反省。

ま、そんなこんなで。
posted by ちょろり at 23:03| Comment(0) | 良い小説について話してみよう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月13日

おーけー。良い小説について話してみよう。1回目

別段理由もないけど。

僕はふと、自分の好きな文学について話してみても良い気がする。
それで、良い小説について話し始めてみようと思う。

一回目に、送るのは。
「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(ライ麦畑で捕まえて)J・D・サリンジャー
で行こう。


主人公は、とっても落とし穴にはまっている。
彼は大学生だ。
彼には悩みがある。
でも、それは言葉にもできないし、むしろ、それを悩みと言うべきなのか。それすら分からない。

実際に、生きていると、そういうのってある。
原因不明のもやもや。

多分、芥川が死んだ理由。「ぼんやりとした不安」ってやつだろう。
でも、それは芥川に限らず、実のところ誰しにもある。
生きていると必ずある。

そこから、ライ麦畑に落とすのだ。

ライ麦畑って何なのか。
ライ麦が植えてある畑。
単なるライ麦畑をサリンジャーは、とても不思議な特別な解釈で展開する。

別にライ麦畑で展開されるラブストーリーとかじゃない。

主人公はライ麦畑のキャッチャーになりたいのだ。

キャッチャーを捕獲者と表現した野崎さんはすごい。
捕獲者。

ライ麦畑。
そして、その中のキャッチャー。

はっきり言えば、意味が分からない。
でも、すごく納得するのだ。

小説ってのは、ひとつの問題を提起する。
そして、それを作品を通して解決する。

最近の小説は、解決、答えをあまりに明確にしすぎる。

ライ麦畑のキャッチャーはあまりに曖昧だ。

でも、納得するのだ。
これ以外に、この話を完全に収束させれない。

芥川が死んだ理由と、ライ麦畑のキャッチャーというのは、すごく密接だと僕は思う。
別に、文学的にどうこうじゃない。

だから、はっきり言って、芥川にしなくっても良いのだ。

いくらだって、そういう悩みはあるし、きっとそういう理由で死に行く人は少なからずいる。
死なないでも、そんなもやもやを抱えて生きる人々はたくさんいる。
多分、この文を読んでいる人がみんな心の底に抱えている。

人間が生きていれば、自然と抱える。
そういうもやもやで芥川は死んだんだと思う。
あの人は、きっとすごく素直だったから、みんなが抱えて、平然と生きるもやもやを正直に受けて死んでしまったのだ。

もしも、あの人がライ麦畑を読んでいたら、別な死に方、いや、生き方をしていたようにさえ思う。

良ければ、呼んでもらいたい。

そんなこんな。

<補足>

今回はあえて村上春樹の方の訳を選んでみている。
野崎さんの訳

読書家にはこちらの方が好きという人が圧倒的に多いけれど、僕は村上春樹を押してみる。
すごく単純な理由だ。
単に僕にはこっちの方が心にしみる。
翻訳は時代とともに変化していく。
僕は若い物書きで、若い読書家だ。
野崎さんの訳も好きだ。

思うに、歳食った人に本を読めとは思わない。
若い人に読んでもらいたい。
だから、村上春樹だ。

翻訳の良し悪しは厳密には分からない。
どの基準で判断すべきかというのも難しい。
文法的な正しさや、原文の味をそのまま保存しているという点では野崎さんの方が良いようにも思う。

でも、小説にせよ、映画にせよ、音楽にせよ、絵画にせよ。

技法だとか、正確さじゃなくて、ストレートに心を揺らせるかどうかだと思う。

その点、翻訳ってのは難しい。

オリジナルっていうのは、オリジナルだ。
オリジナル以上のオリジナルっていうのは存在しない。

だから、本当はサリンジャーの書いた、英語のものを読むべきだ。
英語を英語としてじゃなく、母国語として心に入れられる人間ならば。
それは、僕には無理だし、きっとほとんどの日本人に無理だ。

そういう点で、今の日本人の心の中に透き通りやすいのは、村上春樹の方だと思った。
それで、村上春樹の方を選んでみている。

<次回予告>

次回は阿部公房をやろうと思う。
箱男、壁、砂の女。その三大作も良いし、カンガルーノートみたいな晩年を取り上げても楽しそうだし、燃え尽きた地図や笑う月なんかのマイナーメジャーなところを取り上げても良い。

リクエストがあれば、リクエストを優先してやっていこうと思う。

読書案内でもあり、僕にとっての文学とは何ぞやという問いを突き詰めるための連載にしようと思う。
読んでもらって、紹介した作品をぜひみなさまに読んでもらえたらなあ。

そして、僕自身の作品もそういう列の中に入って、恥ずかしくないものができたらなあ。
最終的には、俗物だ。
自分の小説のために書く連載だ。

それでも、読んでもらえたら嬉しい。

まあ、そんなこんなで。
posted by ちょろり at 01:13| Comment(0) | 良い小説について話してみよう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする