2015年09月20日

その世界において1

結婚がうまく行かなくなった。

理由だとか内容については一切語るつもりはない。
ただ、しばらく僕はもう読者のことなど一切考えない文を書くことにした。

その町の潜水艦は実におんぼろで、僕はその老人がひどく嫌いだったのだ。なぜって老人は汚かった。まあ、確かにね、潜水艦にはお似合いだと思う。ただ、ひどく汚かった。それだけの理由で僕は老人のことが嫌いだった。

赤痢の町において、僕はある時には医者をしていた。
テント、布きれを壁代わりに張っただけの、屋根ばかりはトタンを日本から持って来ていて雨露ばかりはしのげていたものの、床は地面で、赤痢の患者の人糞だか泥なんだか分からない。
きっとその町には洪水があったのかもしれない。或いは戦争があったのかもしれない。
僕が医師として来た時にはもうそんな状態になっていた。

同じ町において、僕はある時には住民をしていた。
少しばかり大学を出ていた。その国では大学に行くのは金銭的な意味合いにおいて難しい。
だから、大学さえ出ていれば良い暮らしが出来た。少々の良い暮らしなどではなく過分なまでに良い暮らしだった。戦争だの洪水だのがあった後に僕は病院に行くことになる。ちょっとした風邪に違いなかったが、一応、病院で診てもらっておこうと考えたのだ。
病院に付くとひどい悪臭がした。
僕の住む国では、洪水は頻繁に起こる。その後にはいつも悪臭がしていた。当然ながら、僕らハイソサエティの住む町にはそういう悪臭はない。しかし、馬鹿な政府はどうしてだか僕らの町に病院を建てなかった。いや、正確に言えば、我らの政府に金銭的援助をし続ける馬鹿な先進国の連中がそうしていた。理由は簡易なもので、彼らが我々の国に金銭を援助するのは「かわいそうな人間を助けるため」であり、僕らのような裕福な人間に金を渡すためではなかった。
馬鹿な政府は貧乏で、僕らの町に自腹を切って病院を作るほどのことはしなかった。
だから、僕らは涙が流れるような親切な外国さんが作ってくれた貧民たちの住む、僕らの国で圧倒的多数の人々の町に無料に近い受診料の病院にいくことになった。
だから、僕らにとって健康を害することは悪臭の町に行くということで、悪臭というのは貧乏であること、人間として価値のないこととされていた。そうは言っても風邪くらいはひく。
でも、今回の悪臭は異常だった。

金を集める仕事をしていた。
一種の広告業だった。
金を集めて貧乏な国に送り込む、そのための集金をするわけだが、金をもらうためには金を払う人間が気持ちよくなる必要がある。
「この人たちに金を渡す自分はとても人間として道徳的であり価値ある人間である」
一口に言えば僕の仕事は、できるだけ多くの人々にそういう風に思い込ませるような広告を作る仕事だった。
この仕事を続けていく中で、僕はこの国に暮らしていることが悲しくて仕方なくなった。
驚くまでに僕の作った広告は人々に届かなかった。
僕の国に対する国際的な評価はいくつかあった。何も資源も持たないのに何かを生み出せる国。金ばかり持っていて、心は貧しいが、やはり金を作るという能力に関していえば圧倒的に優れた民族の住む国。仮に政府が死ねと言えば、嫌だと思って文句、愚痴をこぼしても、結局逆らうことなく死ぬ人々の住む国。
僕には何人かの部下がいた。いくつかの部署に分けていた。
その一つに金持ちの男、或いは女に体を提供するという部署があった。
「あなたは我々に金を払うことでとても道徳な人間になれる。そして、多額の金を我々に払えば、その上にオプションとして私I(あるいは僕)を抱くことができるのです」
もちろん、そんなダーティな部署というのは秘密裡で存在しないことになっていた。
僕の仕事の一つに、そういう美男子、美女子を町で拾ってくること、それからそれらの背景を理解してメリットだけを利己的に享受し、秘密を守れるパトロンを選定するというものがあった。

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2011年11月15日

ぶえのすより

 太った女が割とシビアに走るってことについて

福田 鼠


 肉と酒が安く美味い町から。

 僕にとって、コーラを買って、煙草を買って、あいつらは言うのだ、「ちょうど無いかい? 小さいの?」僕はスペイン語がしゃべれないもんだから。首をかしげてると、あいつらと来たら、舌打ちして、釣りを数える。釣りが少ないんじゃないかって時もあるけど、僕は「グラっシャス」いらっとするだろう、旅に来て買い物もまともに出来ない客は。
 そうして、公園で煙草を吸う。
「ええい、知ったこっちゃねぇや。商売なんだから、黙って釣りを正しく出せよ」
 芝生に寝る。老人はポロシャツ、若者はタンクトップに短パン、もしくは上半身裸に、アイウェア、サングラス。おいおい、目守る前に、乳首でも守れよ、服着ろよ、と。

 犬の散歩屋がいる。十匹以上つないで歩く。
 どうも、この地域、首都圏では、犬を飼うのがステータス。

「ああ、そいつは犬の散歩屋だよ」
「は? 散歩屋?」
 日本人宿のおっさんが言う。
「そうだよ。みんな犬飼うのに、散歩がめんどっちぃらしいからさ。まあ、そういうやつって、本当のところは犬なんか嫌いだとさ、オレは思うんだけどね」
 僕は、このおっさんが好き。
 少しく、時代遅れ。正直ね。それもまた好きだ。この人は嘘をつく。でも、悪どい嘘は付きたがらない人。

 こっちの若い女の子は、すべからく美人。
 かわいいとは違う。単にセクシーってわけでもなく。美しい。
 でも、どこか、日本の女子高生の恥じらいに通じるものを感じたりもする。何でだろう。
 美しい。

 国立美術館は無料に違いない。でも、閉じた扉の前のおっさんに、日本語で話しかけたら、大きく×って印を作ってくれる。
 月曜は休みか。日本みたいだな。
 でも、にこにこしながら、
「御生憎サンマさん」
 みたいな顔してるから好きだ。

「本気のバックぱっかーなんてのは、クソ人間さ。まともに社会に入れない」
「そんなこと言わないでくださいよ。まあ、納得しちゃうとこもありますけど。だから、嫌いだし、同時に僕は彼らのこと好きですよ。マイノリティーだからかな。いや、あいつたは偉そうにしないし、会話を楽しむってことができるからな」
 おっさんは笑ってくれる。

 僕はどうだろう。
 ほんの少しだけ、明かりが差して来た気もするし。


 わかんない。

 ただ、この町は本当に良い町だと思う。

ブエノスより
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2011年04月06日

自分だけは

  時々だけど、大学を辞めた今の状態をやばいのかな、なんて思う。
  でも、不思議と後悔はしない。
  まあ、五年も行くと、このままじゃ自分は大学を卒業できないだろうなんてのは分かってしまう。

  友人にも一人、似たようなやつがいた。そいつも大学に行けない子だった。そして、卒業できるかというと微妙なところだった。
  でも、そいつは今期も大学に行くらしい。

  大学を辞めるってのは、なかなか思い切りのいることだ。
  僕も、カッとなったからこそ辞めたものの、カッとならなけりゃ、今も大学生していたかもしれない。

  何でカッとなったかって?
  そりゃ、じいさんが二年続けて死んじまって、悲しいというより、何ていうか、やり切れなかったんだ。
  で、忌引の手続きをしに大学の学務係りってやつに行ったら、何ぞよく分からんことを言う。葬式証明じゃないけど、葬式の招待状みたいなものを持って来い、と。家でやった上に、こっちが招待する側なんだから、そんなものどこかに行った。じいさんちにあるんだろうが、そんな紙切れ一枚探しに行くのもめんどくさい。
  何よりも、オレはじいさんの死を疑われた、いや、オレがそういう嘘をつく人間だと疑われたことに、いや、そういう制度に、いや、そういう社会に、腹が立った。別にあの事務員がオレを疑ったわけじゃない。そういう決まりなのだ。決まりは守りなさい、と。なんだ?その決まり? ああ、ここはそういうコミュニティか。そういう社会か。
  これが、かなりカッとさせた。

  我ながら心狭い。

  でも、心狭い僕は、そんな大学に行き続けるのも、卒業して、そんな大学の延長の集団に入るのもゴメンだな、なんてカッとなった。
 
  もう一つカッとなったことといえば、弟だ。
  葬式の準備の時に、弟は、
「こんなクソみたいなど田舎、寒いし、不便だし、大嫌いだ」
  などと言い続けた。
  オレはじいさんのことを好きだったし、尊敬していた。
  じいさんが、生まれて死ぬまで生きた地をそんな風に言う弟に腹が立って、
「そんなら、てめぇ、大都会岡山にでも先に帰っとけ」
  と、駅で降ろした。
  そうすると、父と母に叱られる。挙句にばあさんまで、兄弟の不仲を嘆いて泣き出した。
  これは、カッとなるというより参った。
  そんなにオレは悪人か、いや、悪人というわけじゃないにせよ、家族とさえまともに生きていけないような人間か。
  それでも、弟に対して申し訳ないなど思わなかったし、やはり、あいつが悪いと思った。それどころか、じいさんの葬式なのに、そんな弟をかばう連中というのもおかしいと思った。
  しかし、そんな風に考えていては死んだじいさんはさぞかし悲しいだろう。
  実に参った。

  まあ、その辺が何やかんや絡まって、オレをカッとさせて、大学を去ることに決めさせたわけ。

  カッとなって辞めた。
  でも、後悔はしていない。

  でも、オレはこのままで大丈夫なんだろうか、なんて思ってしまうところがある。

  サルトルの嘔吐を思い出す。
  昔、少し読んだが、結局、最後まで読み切れなかったし、ハイデガーの存在論なんかをある程度分かってないと、本当のところが分からない話なのだが、不思議と今の僕はサルトルの嘔吐を思い出している。

  サルトルの嘔吐をこの日記を読む人間が何人知っているだろうか。仮に知っていたとして、僕の感じるサルトルの嘔吐を誰が分かるだろうか。

  とりあえず、オナニーでもしとけ。
  そんなコメントを先日頂いたが、存外その通りなのかもしれない。

  オナニーでもして、彼女欲しいな、なんて思って、はて、小説でも書こう、そんなのを繰り返して行けば良いのかもしれない。

  とりあえず、自分以外の誰かに自分を肯定してもらうのを期待する前に、自分が自分を肯定しなくちゃいけない。
  そんなのは、ガキでも無意識にやってることなのだ。

  如何なる事情があれど、自分だけは自分の味方でいないといけない。

  そんなこんな。
posted by ちょろり at 23:55| Comment(0) | 思索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

野暮ったい幸福論

  人間の幸福とは何ぞや。

  歌をうたう。
  これは大事。

  人と話す。
  これも大事。

  嘘を付かずに話をしていて幸福だと思える人間と友達でいられるように日々を生きる。
  これが一番大事。

  小説を書くだの、本を読むだの、そんなことは実は大して大事じゃない。
  結局、本を読み書きするなんてのは、幸福のためにすることで、逆を言えば幸福のためにならなくなれば、辞めたって一向に構わない。
  ただ、やはり言葉が人間を結ぶし、歌にも言葉が含まれている。
  それでも、文を読むだの書くだの、そういうのが幸福のために必要なくなれば、辞めたって構わないんだ。
  今の僕には、そういう状況ってのは考えられないにせよ、いずれそういうことがやってこないとは限らない。
  やったって構わないけど。

  文が云々以外のことだって同じで、幸福のためじゃないことなんてのは、辞めたって構わない。
  お金を稼ぐとか、名誉を頂くとか、学問を積むとか、飯を食うでも、女とセックスをするでも、嫌いなやつを撃ち殺すでも、世の中の不公平を平らにするでも。
  それが、幸福のためじゃなけりゃ、やらなくたって構わない。
  幸福のためにすることってのは人によって違う。ただ、多くの人に共通することもある。
  それで、妙な勘違いが生まれる。

  違うのが当たり前というのを本当の意味で受け入れられないといけない。

  誰かに何ぞ気に入らないことをされる。
  周りは自分とはまったく違う方向に向けて進み、挙句、自分を非難してくる。
  そういうことは、仕方がないのだ。
  そんなものなのだ。

  嘘を付かないと、一緒にいられない人間だっている。
  だけど、そういうやつを本当の友人としちゃいけない。仮にそいつがいろんなものをくれようと、自分がそいつといる時に嘘を付かないといけないなんてやつは、知人であっても、友人としてしまってはいけない。

  排他主義とは違う。
  嘘を付かずに接すれば良い。それで上手く行かないのなら。
  それはそんなもんなのだ。
  別にそいつと縁を切る必要はない。ただ、そいつはそんなもんなのだ。

  人間に限らず、何かしらの生活をするとき、自分が嘘を付かないとやっていけないような生活を、本当の生活と呼んではいけない。

  じゃあ、嘘の生活は悪なのかっていうと、そういうわけでもなく。
  嘘の生活をしなくちゃいけないこともある。
  でも、その先に本当の生活を目指さねばいけない。
  本当の生活のためには嘘の生活も必要。

  神を信じる必要がある。
  胡散臭いか。
  でも、どうしたって、僕らの認識の範囲を越えた何かがいて、そいつが僕らに嘘と本当を与えるのだ。
  そいつが何かっていうのは、別に決まっていない。人によって違う。

  自分の神を信じねばならない。
  しかし、自分の神を突き止めるなどは誰にもできないことで。

  人によって違う、ってのは卑怯かもしれない。
  でも、それを認めないと幸福ってのは成立しない。

  万人に共通な規則もある。
  リンゴは落下する。
  そういうのは、幸福とはまた違う問題のための規則。

  これが難しいのは、そういう規則は幸福とは別問題であっても、何かしらとつながれば幸福のためにもなるってこと。
  リンゴがどうなったら幸福になるのか、そこからがやはり、人によって違う、なのだ。

  ただ、歌をうたうってのは、どんな場合にも幸福のためなのだ。
  歌をうたう時、人間ってのはなぜだか嘘を付きにくい。一生懸命うたうほどに。

  歌をうたえりゃ、人生は幸福。

  歌手でも不幸な人はいたじゃないか。
  いや、それは第三者から見ての話で、実のところ正直に歌をうたえれば、だいたい幸福なのだ。
  それでも、本当に不幸な歌手もいた。
  きっと彼らは正直に歌をうたうのが上手すぎたのだ。正直に歌をうたうことで、自分の孤独が際立ってしまった。正直にうたうほどに、正直に話せる人がいなくなってしまった。

  なぜか、スピリチュアルなにおいのする文を書いてみた。

  でも、きっと、チャリで南米に行くとか、就職をするとか、そういうことを真面目に考えるには、こういうスピリチュアルなにおいってのは結構大事だと思う。

  各人間によって具体的に何をすれば良いかってのは違うけど、生きている理由の基底なんてのは幸福のためであり、幸福のためのことの基底ってのもある程度は同じようなもので、正直に話せる友人を持てるように生きられるかどうか。

  別に友人以外にどう思われようと構わないけど、友人と正直に話せなくなるような生き方をすれば駄目だ。正直に話せる友人が一人もいなくなれば、人間はいよいよ終わり。もしくは、友人がいたって、話せなくなればおわり。
  ニーチェなんてのは正にそんな理由で発狂して死んでしまったんじゃないだろうか。

  オレは南米に行って、その後どうなるだろう。
  オレは発狂して死にはしないだろうか。

  生活がいかに苦しくなっても、それが直接の不幸になり、人間を殺すことはない。不慮の事故や物理的な衝撃による死は不幸ゆえの死ではない。

  不幸のために死ぬというのは人間が最も恥じるべきこと、恐れるべきことである。

  僕は不幸が怖くて、こんな惨めなフリーターの日々に迷い込んでいるのかもしれない。ただ、不幸を恐れてなっているならば、全く悪いことではない。不幸から逃れ、幸福のために生きようとしているなら、それは人間として素晴らしいことだ。

  まあ、固い。
  上手くない。
  野暮ったい。
  小説でこの辺りを上手く語れりゃ、オレも立派なものだ。

  ま、そんなこんな。
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2010年07月13日

さよならビットン調査団

 1931年、日本軍は対外政策うんたらかんたら軍部の暴走何やらかんやら、とにかく大日本帝国を更なるつおい国へと為さしめんがため、満州事変だの一連の事件を起こした。
 はて、この事件の真相を調査するために国際連盟からやってきたのがリットン調査団である。
 結果、リットン調査団は見事、日本が悪いということを言い上げてやることに成功したわけである。

 はて、リットン調査団はどちらでも良い。
 問題は我々の心を訪れるビットン調査団である。
「おめえ、ビットン?」
 これは岡山県内の不良たちが使う言葉である。「あなた、びびっているのですか?」という意味である。
 『びびる』の活用形『びびっている』が方言化して『びっている』となり、さらに疑問の形で活用すると『ビットン?』となるわけだ。
 このビットンとリットンの響きが似ているという理由だけでビットン調査団なる言葉が生まれるわけだ。

 要はビットン調査団とは、分かりやすく言ってしまえば、心の中にいる「弱気」のようなものなんだが、ヤンキーがケンカ前に発する「おめえ、ビットン?」というニュアンスが含まれている。「おめえ、ビットン?」という質問に対しては「は? ビッテねえよ」と答えねばならない。これは、ヤンキーの世界での決まりである。

 ビットン調査団は言うなれば、素直に言うことを聞くことによって我々の心を上手く導いてくれる大事な存在でもある反面、自分の進みたい方向を歩くには、跳ね除けてねばならない敵でもある。
 この辺のバランスは非常に難しい。毎回、跳ね除けていると、日本とリットン調査団の関係みたいに、国際連盟(つまりは社会)から離脱して、戦争に突入し、アメリカさんから原爆を落とされることになる。
 社会対個人の構図である。
 ビットン調査団は自分の心の中で作り上げた『社会のスタンダード』であり、言うことを聞かねばならない反面、戦わねばならないところもある。全部が全部、『社会のスタンダード』に合わせていると、大日本帝国みたいに個人に対して大きな国家、社会なるものが暴走した際、一緒に暴走せねばならない。
 社会の重要性というのと、一人の人間としての正しさ、この辺がビットン調査団のバランスだ。

 ヤンキーみたいに、「おめえ、ビットン?」「は? ビッテねえよ」の受け答えではいけない。

 ここのところ、私の心にはビットン調査団が来訪していた。
 実際、四月から私はにっちもさっちも行かない状況にいる。大学留年から来るマズさである。このまずさが小説を書くということに対しても、「あんた、そんなことしてないで、大学に行きなさいよ」というプレッシャーを与えるわけだ。
 ここで、ビットン調査団がやってくる。
「この人間は、小説なぞを書くという名目において、義務である学業をおろそかにしている」
 という報告書を出す。
 ビットン調査団、団長、ビットン伯爵と私は何度か目が合っているのだが、私は気付いていないふりをして、ビットン伯爵の調査、報告を黙認する。
 私自身、現状のまずさに対して、どうにもできない焦燥感を覚えているわけであり、ビットン調査団に助けを乞うところがあった。

 ビットン調査団の報告書は、私の過去と現在を隅々まで調査した上で、以下のようにまとめられている。
『文を書くという作業は自分自身の考えを過剰なまでに強調し、結果、自分自身に相容れない社会に敵対することになる。また、小説家などという夢、理想、目標を持つことによって、生活を自堕落なものとしている。問題となっている人間は即刻、文を書くことを放棄し、大学に行き、マットー(真っ当)なる生活を営むべきである。しかしながら、問題となっている人間の意思も尊重せねばならないところを考えれば、本を読むという行為に関しては一切制限をしない。
 ビットン調査団の報告書は見事なもので、グウの音も出ない。

 しかしだ。
 ビットン調査団にせよ、リットン調査団にせよ、論理的にはグウの音も出ないというのは結構だが、実際、彼らの報告書に従って、ことを進めるわけにも行かないというところがある。
 リットン調査団の場合。帝国主義が並ぶ世界の中で、列強、つまり植民地にされない国家であり続けるには、平和の名の下でおとなしく、言うことを聞いているわけにはいかなかった。世界の流れというものがあるのだ。その中では、論理的に正しいということが必ずしも、より良い結果を生むとは限らない。
 ビットン調査団の場合でも、やはり、おとなしく言うことを聞くわけにはいかない。
 そういう流れの中に私はいるのだ。

 自分は、もうマットーな流れの中にはいない。
 これは一つの諦めでもある。
 別に今からでもマットーになれないことはない。ビットン調査団の指示に従って動けば、不可能ではない。
 でも、マットーであることが、ベターであるかどうか。この判断に迫られるわけだ。ずっとマットーな流れの中で大人になってきてしまった人間が無理にマットーな世界に戻る、これはかなり無理のある話だ。

 ハードボイルドの話に転じても良い。
 ヘミングウェイの名作「老人と海」において、じいさんは決してマットーな世界にはいない。オンボロの家に住む漁師、それも、年のせいか最近じゃ全く釣れない。慕ってくれていた少年も、離れてしまった。しかし、じいさんは一人きりで海に出る。頭を下げて別の漁師に助けを請うことも不可能ではないだろう。じいさんはその漁村の中では古株で、みんな知っている。じいさんが頭さえ下げれば、誰かしら助けてくれる可能性というのは皆無ではない。しかし、じいさんは一人で海に出る。
 そんなじいさんの話に人間は感動するのだ。
 こういうじいさんをハードボイルドというのだ。
 勿論、じいさんの心にもビットン調査団はやってきているはずだ。ただし、じいさんはもはや年寄りだ、若い私の心にやってくるビットン調査団よりも、かなり厳しい報告書ができる。その上、その報告書を無視するためには強大な力が必要である。じいさんの体はもう年のせいでボロボロである。
 それでも、じいさんはビットン調査団を跳ね除けて、一人で海に出る。

 小説と現実は違う。
 小説の中では人物は、よりドラマティックに、よりシリアスにと動く。大抵の場合、ビットン調査団と戦わねばならない。
 現実の中では人間はどう動くべきだろうか。いつもビットン調査団と敵対するわけにはいかない。

 それでも、今回のビットン調査団に対しては、私は戦わざるを得ない。
 勿論、またビットン調査団が現れたら、ゆっくり話しあわねばならないだろう。
 でも、今回は、いったん、さらばビットン調査団、というわけなのだ。

 社会を敵に回せば良いというわけじゃない。
 自分が良くなるように、自分は生きねばならない。そのためには何度もビットン調査団がやってきては会議して、時にはさらば、時には頭を下げる、この繰り返しなのだろう。
 実際、社会に対して牙を剥くとも違う。単にどういうスタンスで構えるかの違いだ。
 だから、大学には行く。ただ、胸を張って小説を書く。大学を卒業すれば、公務員になるかもしれない。三年の留年となると、一般企業はほとんど雇ってはくれないのだ。この辺を巡って、きっとまたビットン調査団が何度もやってくるに違いない。

 面白い小説を書ける人間は素晴らしい。
 これは一つの真理。どこからどう見ても間違いのないことである。
 僕は素晴らしい人間になりたいのだ。

 電子書籍が流通し、ものを書きたいという人間に溢れた今の時代では、小説を書くことで社会的に良い暮らしをするというのは難しいだろう。
 でも、素晴らしい人間というのは、どんな時代でもどんな環境でも変わらないことだ。

 結局、素直な俗人でありたいか、聖者面して生きていたいかの二択なんだろう。
 本当の聖者なんて誰もなれない。

 さらばビットン調査団。
posted by ちょろり at 05:29| Comment(0) | 思索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする