2018年06月06日

ハロー、ワールド。何も分からないね。

自転車でアフリカと南米を走るってのは、やってる人は少ない。世界一周の人でも厄介なルートなのでどちらかは外すという人もいる。
それでも、やってみた感想としては、さほど難しくはなかったと思う。

ただ、実際問題としてやるのは難しい。
死んだらどうするか。
僕は残念ながらそういうのはあまり考えずにやったからこそ出来ただけのことで、そういうのはある意味ではルール違反なのだ。
死ぬと迷惑がかかるとかそういう理由じゃなく、死んじゃったらどうしようってのを考えないってのは生き物としてダメだと言えるだろう。

そうは言っても、実際に行った時には死ぬ気で行ったわけでもない。
95%生還できるだろうと思えばこそ出発出来た。80%だったらさすがに行けなかっただろう。

僕の95%の根拠とは単純だ。
自転車で走る道=車が走る道=バスか何か走っている=いざとなれば金さえ出せば空港か日本大使館まで辿り着ける。

逆に5%の死ぬ理由は何か。
交通事故は不可避だ。それでも現地人は事故に遭わずに生きている人が大半だ。
病気もまた不可避だ。それでも、病気にかかる人ってのもそんなに高い確率ではない。マラリアなんかも怖いといえば怖いけれど、現地人たちはその環境でも生きている。
人が住んでいる場所=人間が生きられる環境=僕もまた人間であるから生きられる。
それでも、やはり死ぬかもしれない。
それが5%なのだ。

そうは言っても、現地人もパタゴニアの荒野やボツワナの象の出るエリアを自転車で走ったりしない。
あの辺りに関しては危険だ。
僕の感覚としてはボツワナの象の出るエリアは本当に危なかったと今でも思う。もう一回走れって言われたら断るだろう。野生の象は恐ろしい。

ーーー

最近、少々、仕事に関して考えることが多い。

自転車屋という仕事は好きなことを仕事にしているので満足感もあるが、恐ろしく待遇が悪い。僕の働いている会社が特に悪いってのもあるのかもしれないが、収益の構造として、どうしても待遇が悪くなる。

なぜ自転車屋はそんなに収益構造が悪いのかといえば、組み立てに時間がかかり、しかも専門の技術が必要で、なおかつ専門学校も国家試験もないので人材がいない。
車体を組み立てられて修理もきちんと出来るという人材は稀少なのだ。
単純に形になれば良いってわけでもない。
レース機材ってのはユーザーの要望が必ず出て来る。それに応えるチューンが出来ないといけない。

なおかつ販売のためにも知識と接客技術が必要だ。

なおかつ宣伝や仕入れなどの一般的小売店のスキルも必要になる。

そういった人材はなかなかいない。
僕自身、全て兼ね揃えているかと言えばそうでもない。というか、多分、そういう人はいないと思う。
一人で全て出来るなんてのは、自転車に限らずどんな仕事でも無理がある。

なので、普通の仕事は部署に分かれている。
服屋の店員でデザインから縫製、仕入れ、販売、修理までするなんて人間はいない。
システムエンジニアだって営業からコーティング、プロジェクトのプランニング、保守まで一人で全部するなんて、個人でやってない限りありえない。

会社ってのは歯車だ。
歯車ってのは、悪いフレーズでよく使われるけれど、全てを一人でできなくても仕事が出来るってのはものすごく素晴らしいシステムだ。

そういうシステムが機能しない会社、歯車じゃない会社ってのは無理がある。
それが自転車屋だ。
全て出来ないといけない。

そうなると人件費がかさむ。
結果、売っても売っても給料は増えない。
休みも増えない。

ーーー

はたまた構造としてどこかが大量に取ってしまっているかという問題もある。

業界とは怖いもので、その世界の中だけで常識が作られる。
自転車屋は給料が安くて当たり前。
自転車に限らず小売の店員は給料が安くて当たり前。
この常識はいかんとも崩し難い。

何せ崩す必要がないからだ。

自転車は完全に供給過多になってしまっている。
需要が少ない。
十万円以上の自転車が欲しいという人は多くはない。
もちろん誘導すればいくらかはそういう層は増える。
誰しも最初は初心者なのだ。
欲しいという潜在的な層があるのは間違いないが、結局、10万円なのだ。
値段的に考えて、やはり趣味のアイテムであり、一般企業のように何人も従業員がいて、きちんと休日と給料を出すことが成立するほどの需要はないのだ。
せいぜい二人くらいで、プラスでアルバイトを雇って経営するくらいまでが自転車屋の需給の現実だ。
僕の知り合いで人並みの給料と休みをもらっている自転車屋従業員はメーカー直営店くらいしかない。
メーカー直営は収入構造が違う。その店舗で売っても売らなくても良い。どこの店でも良いから、そのメーカーの車体さえ売れれば良い。あくまでショールームだ。

ーーー

働き手の現実っていうのは、雇い主には関係ない。
なぜって、自分が死ぬまでの食い扶持に関係ないからだ。
雇い主、つまりオーナーってのはそれなりの資金がある。親から継いでいる場合もあるし、自分で作ったとしたらそれなりの歳になっている。
親から継いでいる場合、そもそも金はある。経営に困ればタイミングを見て規模縮小すれば良い。食い扶持には困らない。
歳を食っている場合、あと何年か維持出来れば良いので、人材は使い捨てでも良い。

そんなわけで、自転車業界からはたいていの人が去っていく。だいたい結婚と前後して去っていく。
残るのは僕のような他に仕事がない人間くらいだ。元選手という人もそうだ。
僕は選手ほど命をかけて自転車のトレー二ングはしなかったけれど、大人になってから自転車で食ってきたし、自転車のことしかしてこなかったっていう点では選手あがりの人と同じだ。

山小屋なんかも結婚と前後して人が去っていく。

それにしても、僕のような去るにも去る先のない人間は歳を取ってどうすれば良いのやら。
アリとキリギリスじゃないが、キリギリスだってキリギリスなりにせっせと頑張ってきたのだから、何とかならないかとは思う。

ーーー

かと言って自転車屋を去りたいわけでもないのも事実だ。
やはり好きなことを仕事にするってのは良い。

逆を言えば好きなことを仕事にしていけるだけの能力がないのが問題だとも言える。

ーーー

問題なのは給料でも休みでもないのだろう。
働き甲斐なんじゃないだろうか。
不思議と今の会社は働いていて、とても気分が落ち込む。
自転車屋と一口に言ってもいろいろ違う。
服屋だってユニクロもあればセレクトショップもある。レディースだけの店もあるし、値段帯も違う。

どうすれば自分の働く場所を自分が働き甲斐を感じられる環境に変えられるかってのが問題だろう。

ーーー

今日、人を送りに成田空港まで行った。
群馬から車で行くと随分遠かった。
自転車で行っても遠いには違いないが、多分自転車の方が楽だったろうと思うほど疲れた。
何よりも成田はかつて初めて異国に出発した空港だ。
その後、ドイツの友人を見送りに行ったこともある。
自分が出発するわけでもない空港ってのは随分と考えさせられる。

僕は南米やアフリカを走りに行って何を得たんだろう。
そして、これから先の人生で、どこか異国をまた走りに行くことがあるんだろうか。
故郷の友はみんな大人になった。奥さんがいたり、子どもがいる。別にそういうことを比較したりはしない。
年金のことなんか話したりする。
北海道から歩き続ける若いカップルと知り合うことがあった。
ニュースで20代、30代の旅人が季節労働で人材不足の農家の助けになってるなんて記事を読んだ。

時々、帰りたくなる。
どこに帰るんだろう。
帰る場所。
故郷。
故郷は帰れないのだ。少し帰るくらいは良いにせよ。
なぜ。
多分、ちっぽけなプライドと下らない事情のせいだろう。
そんな理由も、もうしばらく経てば。いつになるかは分からないにせよ、親も死んで、帰ろうにも頼る人もいない、頼れないという理由でなくて、もはや存在しなくなる。
自分に子どもが出来れば、その子どもにはその生まれた土地が故郷になるのか。
そういう故郷になるような土地はあるのか。
子どもが育てられるだけの仕事のある土地はあるのか。

ハロー、ワールド。
世界の反対側まで見てきたけど、僕にはまだ何も分からない。

ーーー

最近は飲んだ夜に変に陽気になることが多い。
そんな時には、絶望を書くのは辞めて希望を書こうと思える。
でも、希望ってなんなのか。
酔った夜に書けば良いのだけれど、起きたら昨夜の感情だけ思い出して、しかし、希望の中身は何も覚えていないのだ。

ーーー

昔から思っているんだが。
みんな何を希望に生きているんだろう。
希望なんか無くても生きていくものだろうか。

僕には希望のない人生を歩いて行くのはしんどいことのように思えるんだけど。
希望は作るものなのか。
どこかに存在するものなのか。
そもそも無いものなのか。
忘却こそ人生なのか。

ーーー

そんなこんな。


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2018年05月31日

生きるとは忍耐だ。

生きる不安が募る。
まあ、時々、そういうことがある。

群馬に移って自転車屋で勤務して半年ほど。
どんどんと憂鬱が深まる。
追い風が吹かない。

残念なんだか、良いことなんだか、人生は三十歳では終わらない。
非常に当たり前と言えば当たり前だが。
とにかく今を生きるために生きてきた。三十歳より先のためじゃなく、今を生きてきた。

昔は困った時には誰かに相談したり、話したりしたけれど、今は誰にも話せない。
話してもどうにもならない。
助からない。

ーーー

無人島に流れ着いてしまったら、どうするか?
まず、問題になるのは自殺するかどうかじゃないだろうかと僕は思うのだ。
映画みたいに無人島でサバイバルして生き延びてって、現実にはかなり無理がある。
現実、魚なんか捕まえられない。ヤシの実も落ちてない。
飢えて苦しんで死ぬってのが現実だろう。
餓死って苦しい。
死にたくなったらいつでも死ねば良いともならない。飢えると自殺するだけのエネルギーもない。

そうなると手頃な気に縄をかける方が現実的とも言える。

ーーー

普通の仕事を普通にしたい。
自転車屋するにも、普通の自転車屋で普通に働きたい。
今の職場はちょっと異常だと思う。
まあ、どこに行っても僕はそう感じるのかもしれない。

薄々分かってはいたが、多分、どこにも適応出来ない。
大学さえ適応出来ていないんだから、当たり前と言えば当たり前だが。
診断されれば適応障害とか躁鬱とかアルコール依存症だとか、まあ、いくらでも病名が付くんだろう。

それでも、僕は普通の仕事を普通にしたい。
一生懸命働いて、仕事にやりがいを感じて、誇りを持って、人並みとまで言わずとも、年に100日は休みが欲しい。年に数回は三連休も欲しい。

まあ、嘘だ。
最近の僕は人と話さず、暗い穴の中にいたい。そのまま眠っていたい。
ただ、現実には働かねばならない。
頼れる知り合いも親族もいない土地だ。働かねばならない。
人生は金だ。
金が全てではないけれど、金が尽きると動けないのは事実だ。
何とか耐えるしかない。
死にたいとか一日に三回くらい考えるけれど、死ぬわけにもいかないし、死ぬかどうか考える暇があるなら死んだ方が良い。死なないなら生きるしかない。
生きるなら耐えるしかない。

無人島じゃないけれど、耐え続けるしかない。助けが来るまで耐え続けるしかない。
忍耐だ。
助けなんて来ないかもしれない。
無人島みたいなものだ。
でも、死なないなら生きているしかない。
生きるのは忍耐だ。耐え忍ぶことだ。
何を耐え忍ぶのか。
さあ、分からない。
何のために耐え忍ぶのか。
さあ、分からない。
だけど、生きるとは忍耐だ。


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2018年05月30日

コーエン兄弟のノーカントリーを見た。

コーエン兄弟のノーカントリーを見た。
クオリティの高い映画だった。
ただ、ノーカントリーは面白いのかというと難しい。

昔からある風潮ではあるが、難解な作品っていうのがふともてはやされることがある。
ノーベル賞作家ガブリエル・ガルシア・マルケスなんかが正に好例だ。
ガルシアマルケスの作品は面白いのか。
これは非常に難しい問題だ。

解けないパズルってのは面白いってのがある。
ただ、本当にずっと解けないと面白くないというのも事実だ。
非常に矛盾してはいるが、自分の力で解けてしまうパズルはつまらないし、かと言って解けないとこれはこれでつまらない。
ガルシア・マルケスが面白いか問題は正にこれで、コーエン兄弟のノーカントリーもこれに入ってくるだろう。

文学になると、シュルレアリスム文学っていうのがある。アンドレブルトンの溶ける魚が代表的だろう。
アンドレブルトンの溶ける魚は全く意味が分からない。
ただ、このシュルレアリスムというのは文学のみならず広い範囲の芸術ではびこった。
ダリの溶ける時計なんかが分かりやすいだろう。

シュルレアリスムの真髄は要はわけが分からないのに、なぜか鑑賞していて心が動くってことだ。
単純にわけが分からないだけだと、ダメなのだ。
ただ、理解可能で心が動くと、これはシュルレアリスムとしては少し違うことになってしまう。
そういう意味ではフランツ・カフカはやはりシュルレアリスムとは少々違う。カフカの場合は理不尽の積み重ねによる世界のねじれ、そこから出て来る面白さだ。意外にも意味自体は全くこじれずストーリーになっている。

ガルシア・マルケスの場合は、シュルレアリスムではなくマジックリアリズムというジャンルになるのだが、カフカよりはシュルレアリスムよりになっている。
ガルシア・マルケスは実際には起こらないことを積み重ねるのだが、ルールはこの世界のルールで語る。これがねじれになるので気持ち良いのだ。
わけが分からないといえばわけが分からない。
そういう意味ではシュルレアリスムに近いところがある。

ーーー

はてさて、マジックリアリズムやシュルレアリスムなんかは今回のメインの話ではない。

ノーカントリーだ。

単刀直入に言えば、コーエン兄弟ならビッグリボウスキーの方が面白かった。
ビッグリボウスキーは間違いなく名作だし、最高に面白いと言える。
対してノーカントリーは面白いかと言えば何とも難しい。映像としての緊張感なんかは素晴らしい。空気がすごい。結局、映画って空気が全てだ。ストーリーにワクワクするハリウッドも、まあ、それはそれで良いけれど、空気が良ければ映画は良い。

ただ、やっぱり面白いは面白いで重要なのだ。
その点、ノーカントリーは何とも言えないところが残る。
ポーイっと全てが放り投げられてしまう。
それもまたそれで良いのだが。
引っ掛かりがあるようでない。

良い映画、上手い映画ではあるけれど、最高って言うべきなのか。
もう一つ引っ掛かりがあっても良かった気はする。

引っ掛かりがないと、単純に難解で、難解なことを面白いと言えばオシャレという安易な罠に落ちてしまいかねない。

ーーー

オチが付かないから良いというのも事実ではあるものの、やはり何かしらのオチは付く方が良い。
別にオチがラストに来なくても良い。
作品の中にはオチが欲しい。

ビックリボウスキーなんかにはオチがある。
何か納得するところがある。

カフカの変身はきっちりオチがある。城は未完なのでオチまで辿り着いていないのやら、はたまたそれがオチなのやら。

ノーカントリーは、どうもこのオチが分かりにくい。

未来世紀ブラジルなんかはオチが無理やり過ぎて、実に胸糞悪い最高な終わり方をする。
ノーカントリーにはそのくらいのオチがあっても良かった気はする。

まあ、何もないから良い作品っていうのも事実なんだけど。

どこかどっち付かずな気がする。
着々とストーリーを運んで来ておいて、ノーオチで終わるってのはどうだかな、という。

まあ、単純に撮りたいように撮ったという意味では間違いないのだが。

ーーー

ただ、もっとマニアックに突き進むか、スリリングに面白くしていくか。
どっちかになれば最高だったような気もする。
まあ、面白かったのは間違いないんだが。

ふむ、なかなか難しいものだ。

そんなこんな。


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2018年05月25日

助からないアリ。

どうも四面楚歌している。
多分、仕事も上手く行かないだろう。
家のことも上手く行かないだろう。

去年、婚約破棄をした。
事の発端はその辺りから始まる。
アフリカ帰りの僕は全てが明るかった。実に様々なことが明るかった。
ただ、それは日本では思慮が足りないと言うものでもあったらしい。

正しいか間違っているかは別として、男女が好き同士になれば、結婚をして生きていけば良い。
そこに経済的な問題などはさほどない。
民族や部族の問題などはあるにしたって、経済的にどうこう、少なくとも日本で言う貧乏はアフリカでは貧乏どころかお金持ちの部類に入るってのもあるにしたって、貧乏は悲しむべきことでもない。二人の愛があれば良い。
通りすがりの旅人のわたしにはそう思えた。

旅人をしていると、その日の寝る場所、食べるものだけで頭の中がいっぱいで、あまり細かいことが気にならない。
助けてもらうのが当たり前とは思わないにせよ、助けてもらわないことには旅は進まない。
宿一つ、水一本買うにしたって、その土地の人が、コイツは気に入らないから何もやらないと思えばオシマイである。
お金を払ったって水を売っていない場所は売っていない。でも、なぜかコーラは売っている。コーラは美味しい。とは言ってもコーラなどいらない、水をくれ、って時はある。そうは言っても売っていない場所では売っていない。

飛行機やエンジンのついた乗り物の場合、そういうことはあまりない。
国丸ごと一つ水を売っていないって国は今は基本的にはない。
どの国にも国である限り、国を運営する人々、支配者階級がいて、それと交渉するヨーロッパ人たちがいくらかは住んでいる。
これも考えるとすごいことだ。世界には国じゃない土地はほとんどないのだから。

今日、公園でタバコを吸いながらアリを眺めていたのだが。
そう、その公園にはやたらとアリがたくさんいる。
幼い頃にはアリって、たくさんいるほど楽しいものだったが、大人になると、アリに噛まれると嫌だな、などと思う。
アフリカで野宿しようが何だろうが日本のアリに嫌だなと感じるのは感じる。
それで、近付くアリは足で払う。
そうなると、潰れてしまうアリが出てくる。

さすがにアリに可哀想と思うほどの優しさは今は持っていないが、アリというのは死ぬ時には突然死ぬという話を思い出す。
機械の燃料が切れるように突然死ぬそうだ。
痛いとかってのはないらしい。
虫には痛覚がないとは言うが、死ぬ1秒前まで動き続けて突然死ぬ、なんとも不思議な生き物だなとは思う。
それにしたって、苦しくないかってのは分からない。

公園の地面を見ると実にたくさんのアリが歩いている。
計画があるんだか、ないんだか、しんどいんだかどうだか、そういうのは分からない。アリと話せると面白い気もするが、もしかすると、結構、いつでも苦しみながら生きているのかもしれないから、そうだとすると、あまり話したくない。悲しい気持ちになってしまうだろう。
ーーなんでそんなに一生懸命歩いているんですか?
ーーそんなこと聞かれましても。
ーーどこか今日の目的地はあるんですか?
ーーそんなこと聞かれましても。
ーー暑いのに疲れないんですか?
ーーそんなこと聞かれましても。

足で払おうとして潰れてしまったアリは即死せず、動かせる部分だけで歩こうとする。
痛覚がないってのが本当だか知らないけれど、動く限りは動かせる場所は動かすのかもしれない。

それにしても、たくさんアリがいると言っても、地面を埋め尽くすほどではないから、仲間はなかなか行き当たらない。
アリは怪我をした仲間を助ける生き物でもある、そんなことを何かで読んだことがある。
仲間が助けてやれば良いのにと眺めるが、なかなか行き当たらない。
たまに行き当たっても石に当たったように相手にしない。
タバコが手に当たって熱くなるほど短くなったところで、やっと相手にするアリが現れた。
これで助かるのかと思いきや、別のアリが来てぶつかると、びっくりしてしまったんだか別の場所へ行ってしまった。
新しく来たアリも死にかけたアリに構うことなくどこか歩いて行ってしまった。

婚約破棄をした理由は結局のところ、経済的な理由だった。
女性から言われたのではない。
私の方が、連れて行って人生の面倒を見られるだけの自信が起きなかった。
結婚しようと行った時にはそういうことは考えなかった。好きな人といればよかろうと。
しかし、半年日本で暮らすと、もう、どうにもならなくなった。
正しく言えば経済的な現実というよりは、経済的なことに対しての自分の感じ方だったのかもしれない。

金があれば良かったのにと思うことは少なからずある。決して多くはないが。
ただ、金があれば解決したかと言えばそうでもない気はする。
金があっても解決しないし、金がなかったからといって破綻したわけでもない。

公園のアリみたいなもので、広い土地の中を歩いていて、行き当たらないから助けられないというわけでもなく、行き当たったって助からないこともある。

単純に言えば助からないときには助からないのだろう。
全てにおいてそうなんだろう。

ーーどうすりゃ良いって言うんだ?
どうにもしようはないだろうけれど、一生懸命やっておいた方が後からガッカリはしにくいだろうね。

そんなこんな。


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2018年05月23日

行儀良く正座で生きること。

ぼんやりと何かを書こうと考えて生きてみているが、何を書くんだか。
その点、昔は立派だった。よく書いていた。形にしていた。
ギターも弾いていたし、大道芸もしていたし、自転車もよく走ったし、小説もよく書いていた。

昔は良かったなんて言ってしまうとオシマイな気もするけれど、多分僕自身の営みとしては昔の方が良かったような気がする。

昔と何が変わったのか考える。
何が変わったのだろうか。
友達は減った。
最近、少し飲み屋で友達を作り始めてはいるが、昔のようにはいかない。
友達が減ると自慢する相手がいなくなる。
自慢って大事だと思うのだ。
要はたいていのことは学芸会だと思うのだ。
見てもらう人がいない劇なんか練習しない。
練習して、最後、誰も観客もいない状態で壁に向かって演技しろって言われたって、多分小学生はだれも真面目に練習しないだろう。誰かに見てもらうからこそ練習するのだ。

どうでも良いが、学芸会で木の役っていうフレーズが昔からあるけど、そんなもの本当にあるのだろうか。
まあ、確かにセリフ一つだけの役ぐらいは存在はするけど、セリフのない立ってるだけの木ってない。そんな役を子供にやらせるとPTAから叱られる。
それでも、本当は木の役の方が助かる子もいるのは事実だ。人前でセリフを大きな声で言うって、まあ、それなりに大変だ。トラウマになってしまう子もいるだろう。
木の役は意外と必要ではある。基本的に存在しないけど。
そして、仮に木の役があったら、木の役の子は練習はしないだろう。いてもいなくても良い役なわけだから。大して見られないわけだから。

ただ、木の役だって、スポットライトを浴びるような木なら話は違うだろう。
結構大事な木で舞台で一人だけスポットライトを浴びるとなれば、セリフや大きな動作はなくとも、きちんと立つってだけでも、やっぱり練習するんだろう。

要は人に見られる、見せるってすごく重要なわけだ。

ーーー

それにしても、最近、書けないことが増えた。
安易に書くわけにもいかない問題。
別段、安易に書いたって問題になりはしないだろう。

良い歳こいているんだから、自分の言葉には責任を持ちなさい。
そうは言うけれど、言葉を自由に言えない世界って何とも言えない。

でも、多分、そんなもんなんだ。
言葉って外に出せない。

そうやって文を書かなくなっていくんだろう。
そうなると、僕はどうやって生きていくんだろう。

コンビニのパスタでも食べて、クソして眠って生きていくんだろうか。

ーーー

最近、ベルリンの友人からベルリンに来て一緒に店をしないかなんて言ってもらったりもした。
本当はそんな生き方が良い気がする。

行儀よく日本で人並みの振りして生きてるなんて無理がある気がする。
それでも、当面、行儀良く日本で生きてみようと思っている。

なんで?
自分にも分からない。

何も面白いことのない生活のことをどうして正しいと思うのか。
ベルリンは破滅的だろうか。
一体何が破滅的なのか。

今の暮らしはひどく息苦しい。
旅をしていないからとかじゃなく、誰のために何のために自分は行儀良く正座で我慢してるんだろうか。
まあ、月々の支払いにビクビクせず飯が食えてるんだから、それで良いじゃないのと言われりゃそれまでだけど。

そんなこんな。


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2018年05月18日

旅せずに生きる方法も、旅しながら生きる方法も、自分にはどうも分からない。

旅せずに生きる方法も、旅しながら生きる方法も、自分にはどうも分からない。

旅せずひとところに留まる暮らし、それに付随する難しさ、それがどうすれば良いのか。
旅しながら生きるには、お金の問題がある。

これが不思議なもので。
旅してるか、旅してないか、生きている限りはどちらかのはずなわけで、現実、旅しながら生きても来たし、旅せずに生きても来ている。
どちらも分からないのに、かれこれどちらもしながら生きて来ている。

苦手なことってのは実に不思議なことだと思う。
やってみたことがあればこそ、苦手と感じる。
さらに言えば、それなりにやり続けるからこそ苦手だと思う。

ただ、人間って普通は嫌いなことって避ける。
だから、苦手っていうのは矛盾の上にある。

使い古されたフレーズになるけど、
無知の知、
ってやつになるのかもしれない。

分からないってのを知るのが一番楽しい。

旅しながら生きるも分からないし、旅せずに生きるも分からない。
三十にして自分はどっちも分からないんだなって気付く。

生きづらいとも言えるけど、悪くない人生なのかもしれない。

ま、そんなこんな。


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2018年05月16日

アフリカ篇を書きたい。

アフリカ篇を書きたい。
ただ、何を書けば良いんだか分からない。
アフリカのことを話したい。
何を誰に話せば良いのか分からない。

高崎の町はひどく孤独だ。
高崎の町が孤独なのではなく、三十歳という年齢が孤独なのかもしれない。
旅の日々は随分と遠くなった。
今ではもうほとんど思い出せない。
そんなに年月は経っていないはずだ。一年と少し。その間に僕は随分といろんなことを失った気がする。
今の暮らしは良い暮らしだろう。
大学を辞めて以来、初めてのそれなりの給料。店長職としては多くないにせよ、暮らして行くに困らない程度の給料。
自転車で旅をして自転車屋の店長をする。
外から見れば良い人生なのかもしれない。
だけれど、箱の中身は随分と寂しく悲しい。
逆にどうしてそんなに箱の中身は寒々しい色をしているんだろうと思う。
外に出てごらん、すっかり春が来て暖かくなっているよ。
しかし、箱の中は鼠色でどこか寒々しい。

学生時代を思い出すことが多い。
Yとギターを弾いていた。麻雀もよくやった。たいていいつもウイスキーを飲んでいて、部屋の中は煙草の煙で満ちていた。
3DKもあるのに随分と安い家賃のアパートで隣には中国人のファミリーが住んでいて、よく喧嘩をしているような声が聞こえた。
二階の部屋だったけれど、窓を開けてもすぐに隣の家の壁だった。
いつも金はなくて、もやしと米と卵ばかり食べていた。そのくせコーヒーは美味しい豆を探し歩いて、貧乏の中にコーヒーだけ良いものが浮かんでいるようだった。
千円のジャズのレコードを探して、古本屋の百円の小説コーナーを探していた。
土日には大道芸をしに出掛けた。
数ヶ月に一回鬱病の女の子から死にたいという相談を受けて、半月ばかり大学に行かない期間が出来て、単位を落としていった。
じゃあ、その女の子がいなかったら大学を卒業していたのか。
多分、無理だったろう。
ーーその女の子とはもう関わらない方が良いよ。
何人かの友人はそう言った。
実際、僕がいなくなったって、その女の子は困ることはなかっただろう。別に付き合ってもいなかったし、女の子が僕のことを好きなわけでもなかったし、僕も好きかと言えばそうではなかったと思う。
ただ、そのくらいの年齢の頃ってある程度近しい関係の異性なら誰でも好きと言えば好きだし、好きじゃないと言えば好きってわけでもない、若い男女ってそんなもんだろう。セックスはしたかったのは間違いない。
女の子が僕に死にたいという相談をする理由は単純に僕はそういうことを話しやすい人間だったらしい。死にたいと言われても、死んじゃ駄目だよとも思わなかったし、死んだ方が楽とも思わなかった。本人が死にたいならそれもまた選択肢だと思った。ただ、死ぬと悲しいから死んで欲しくはなかった。
そういう自殺に対する曖昧なスタンスが心を病んだ女の子にとって話しやすかったんだろう。
確かに僕も時々、死にたいなんて誰かに相談したくなることがある。
特に最近は仕事で疲れていて絶望的な気持ちになることが多い。
ただ、昔と違って生きるか死ぬか迷ってみたって、生きている限りは生きているわけだし、死ぬとなれば死ぬ、考えてみても仕方がないと思うのであまり考えないし、ましてや誰かに相談するでもない。死んだ方が楽かどうかと言えば、死んだら楽も苦しいもない。
先日、新潟で日本海を眺めたのだが、そこの波の作る泡を見て、こんな泡から生き物は始まったのか、なんてふと思ったりもした。春の新潟の海は暗い。基本的に日本海ってのは一年中暗くて、波がどこか乱暴でささくれている。どこか海が固い。四月の日本海にはシャベルカーが雪をすくっていた。陸地の除雪した雪を海岸に捨てるらしい。
その海岸はゴミも多くて、そこをショベルカーが動いていて、少し離れたところに原子力発電所があった。
海の泡から生き物が生まれるなんて百年や千年どころじゃない時間がかかるのだろう。
生き物が陸地に上がって、人間が生まれて、あれやこれやして今に至って僕がいる。
長い時間かけた進化の中で、自殺を考える人間が出て来たって自然と言えば自然だろう。
女の子には死んでもらいたくなかったし、元気になればどこか遊びに出掛けたかったけれど、女の子は病院で貰う薬のおかげで終始頭がぼんやりとしてしまうようになり、家の二階からジャンプして両足骨折して入院した頃、僕と女の子は縁を切った。僕にも女の子にもそれが良かった。多分、女の子は僕に限らずほとんどの知り合いとの関係を切ったんだと思う。僕が医者でもそういう治療をすると思う。
その子は長く心を病んでしまっていて、誰か、特に昔から知っている人と会ったり話したりすると、社会から落っこちてしまった劣等感みたいなものを感じざるを得なかっただろう。
祖父が村の長老まで長生きしたけれど死んで、僕は大学を辞めて旅に出掛けた。

その頃の僕はきっと何かを探していたんじゃないかと思う。
何かを求めていたんじゃなくて、何かを探しているのが好きだったんだろう。
南米を自転車で旅して、山小屋に住み込んで働いて、自転車屋で働いて、アフリカに自転車持って行って。
それらは探すっていう行為の一環だったのだろう。

何を探し当てたんだか今でも分からないけれど、多分見付けてはいた。南米にせよアフリカにせよ。
ただ、それは帰国すると砂になって、風に吹き飛ばされてしまう。
それが何だったのか、今はもちろん、手に入れていた時でさえ分かっていなかっただろう。
ただ、何かを見付けて、手の中に握っていた期間はあったように思う。

アフリカの話か。
何を書けば良いのだろう。


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2018年05月11日

嘘が正義なのか。

怒られるのが仕事っていう仕事は嫌だ。
自分のミスじゃないミスで怒られたりクレームを受けたり。
上から叱られ、下は反発し続ける。
不思議とお客さんと売り上げは減らない。
売り上げが落ちないのだから社内でどうしてそんなに上からも下からも文句を付けられないといけないのか不思議でしょうがない。

でも、まあ、それが中間管理職ってものなのだろう。
売り上げを立てても、もっと売るために上手くやれ、売り上げが立たなければ当然叱られる。
部下は部下で売り上げが立たなければ暇で何もしない。売り上げが立てば疲れた、休みが欲しい、給料を上げて欲しい。

そういう負のスパイラルが日本の会社の構造ではある。
それなりに売れてて、みんな幸せなら良いじゃんってのはない。
お金をもっと欲しい、もっと働いて、もっと売って。

そういうのは嫌だけれど、やっぱりオレも金が欲しい。
人並みの家に住んで、人並みに服や好きなものを買って、人並みに外出して、車くらい所有して。

それなりの幸福も欲しいけれど、せめて人並み。
人並みをしようと思うと、負のスパイラルの中に生きるしかない。

ーーー

いくつかの悩みがあるのだが、文を書く悩みってのがここ一年ばかりある。
馬鹿正直に何でも書くな。
大人になる程言われる。

たしかに歳を取るごとに分かったが、多くを語ってロクなことはない。
足元をすくわれることになる。
或いは人に嫌われたり、マイナスの評価になることがある。
言葉を外に出すっていうのは、マイナスのことがたくさん起きることでもあり、それが形として残るというのは厄介なことでもある。

ーーー

それでも、文を書いて、誰かに読める形にするってのはとても大事なことだ。
言葉を人と闘わせることは大事なことだ。

昔、小説を熱心に書いていた頃、それを思った。
作家でごはんというアマチュア小説書きたちが作品を投稿するサイトがあるのだが、そういうところに定期的に投稿していた。
基本的に作品を投稿するってのは、誉められることもあれど、否定されることもある。否定されずとも、一生懸命書いたものが自分の思っていたほど評価されないってことはとても悲しいことだ。

そういう意味では今みたいに何か書いても、誰に読ませるでもなく、そうしているうちに段々と書かなくなり、書かなくなれば上手く書けなかったという悲しみもなく。

悲しみのない世界は平和だろうか。
少なくとも悲しみはない。
悲しいことになるかもしれないリスクがない。

ただ、そういう日々には何もない。

ーーー

嘘つきのことを考える。
馬鹿正直に言葉を出さないで、嘘をつく人間のことを考える。

自転車業界には嘘つきが多い。
メーカーを始め、ショップ、自転車愛好家なんかも何故か嘘つきが多い。
巡航速度40kmとか明らかに分かる嘘をつく自転車愛好家から、高いものを使えば速くなるだとか、実際には自分も使ってないものを良いと言ったり、良いと思っていないものを売ったり、そういう人間が多い。
仕事としてやっているからどうしたって売らないといけないという都合がある。

真っ赤な嘘ならまだ良い。
嘘だと言える。

悪質なのは嘘でもないけれど、真実でもないことを言うということだ。
この手のことがものすごく多い。

そうやって指摘すると、
ーーじゃあ、何が嘘なんだい? 具体的に言ってくれ。
などという話になる。

そういう時に、こいつらには良心とか正直な心、道徳心みたいなものがないんだろうか、と思う。

たいていどの業界でもそういうことはありふれていて、具体的に指摘できなくてブツブツ言っていると負け犬ということになる。

ただ、負け犬だから勝ち犬だか知らないが、人を騙したり、嘘や嘘みたいなことを言って自分の利益を取る人間なんてのは長い目で見て絶対いいことにならないと思うのだが、今のところ僕よりは良い生活をしている。
長い目で見てどうなるんだか知らない。
もしかすると、僕は自分で分かっていないだけで彼らよりもずっとひどい嘘つきで、怠け者なのかもしれないから、もっとひどい生活が待っているのかもしれない。

ーーー

良い仕事って何なのか。
単純に人の持っていないものを提供できるかどうかってことになるんじゃないだろうか。
自転車屋なんて仕事なら、お客さんは自転車に関しての詳しい知識、経験を持っていなくて、それを求めてくる。それを提供できるかどうかだろう。

嘘でも人を満足させることは出来なくもない。
だけど、嘘ってのはやっぱり嘘なのだ。
嘘を本当にしてしまうってのも一つの方法かもしれないけれど。
それでも、嘘は嘘だろう。

嘘が正義で得する世界は僕は遠慮願いたい。
あるいは僕こそが嘘なのかもしれないが。

そんなこんな。


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posted by ちょろり at 23:16| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月22日

ジャズを聴いていると不思議と悲しくなる。

ジャズを聴いていると不思議と悲しくなる。
失われた時代を思う。

そんなこと言ったって、ジャズの時代なんか実際には僕にはなかった。
ジャズを聴くのは好きだけど、演奏出来る機会なんかもなかった。代わりにクラシックギターを弾いた。

だから、ジャズを聴いて失われた時代を思うなんてのはすごく不思議なことなんだけど。

それでも、昔はとにかくジャズを聴きながら文を読み書きし続けたから、その時代のことを思っているのかもしれない。

ーーー

最近、ジャズギターを始めたのだけど、辞めることにした。
今日、ジャズギターの先生のライブがあったので聴きに行ったところ、辞めることに決めた。
先生は上手かったし、ジャズって素敵だと思った。
でも、自分がジャズギターをやることはない、誰かとセッションをすることはないと感じてしまったのだ。
何故って分からない。

一つに歳を取ったせいもあるのかもしれない。
ジャズよりもクラシックの方が心震えるようなことが増えた。

ただ、単純に自分は一人で何かを作るタイプだったのかもしれないなんて思わされてしまったのだ。
何人もで一つのことをするじゃなくて、あくまで一人で自分が思うように自分のしたいことをし続ける。
音楽以外のことは分からないけれど、音楽に関しては誰かとやるって向いてない気がしてしまった。

ーーー

何だかその体験はとても悲しいことのように感じた。
理屈じゃなくて、そんな気がしてしまうって何とも言えない。
理屈で説明できることは何となく納得したり、あるいは改善したりも狙える。
ただ、フィーリングで感じてしまったことって、もうどうにも出来ない。
だれかと一緒に音楽をするって俺には無理だ。
それはとても悲しいことだった。

ーーー

それでも、仕方のないことだ。
違うと思ったことってやっぱり違うのだ。
人生、我慢も大事とは言うけれど、我慢なんてのはしない方が良いと思うのだ。

そりゃ、したいことのために必要な我慢は大事だ。
でも、したいことと違う我慢は駄目だ。
僕は今でもそう思う。

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ちょっとばかし、仕事の休みが少なくて疲れてるせいもあるのかもしれない。

ただ、ゆったりとギターでも弾きたい。
だれか一緒に弾いてくれるって言うんなら、僕が唯一二人で重奏をした男が良い。
それでも、彼も忙しいし随分遠くに住んでいる。

だから、春の暖かな夜に願うことは一人でゆっくりとギターが弾きたい。それだけ。

そんなこんな。


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posted by ちょろり at 00:50| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月17日