2017年04月13日

お金って良いよねー?

金を使うっていうのが好きだ。
金もないクセにね。

でも、金が無い中で使う金ってのが一番面白いんじゃないかなって僕は考えるんです。

どうしてお金を使うのが好きって、僕の作れないものが手に入って、僕の知らなかった遊びを知れるからね。
それがいちばんの理由です。

でも、それ以外の理由でもお金って使う。
例えば、僕の一番好きな食べ物はもやしです。
もやしって最高の食べ物だと僕は思うんですよね。
まず美味いじゃないですか。モヤシにペッパー、ソルト、チーズやると、あれより美味いものって世の中にあるのかなって思うほど美味しくなるじゃないですか。
しかも、安いクセにしゃきしゃきしてて、量もいっぱいあるから、目の前にすると、ウヒョーって思うじゃないですか。
てんこ盛りのモヤシってキラキラしますよ。
しかも、腹一杯食べても気持ち悪くならない。油物とかご飯って食べた後気持ち悪くなったり、眠くなったりするけど、もやしってそういうのがない。
で、栄養なんかなさそうなクセに実はある。

そんなわけで、モヤシを買う時って新しい出会いなんかの要素ってゼロなんですよね。
自分じゃ作れないにせよ、豆を買ったら育てれちゃう。
でも、モヤシってたまらない。
繰り返し繰り返し食べちゃうわけですよ。

余談だけど、山とか海外でのストレスの一つに多分モヤシってあると思ってる。モヤシなんか食べなくても何ともないとは理性では思うけど、体はモヤシ大好きで。ストレスになってるんじゃないかなって。
山小屋でモヤシ育てたら国立公園だから絶対ダメだけど、割とみんな食べた瞬間感動するんじゃないかな。

モヤシって良いんですよ。
新しい出会いとかの感動はないですけどね。

まあ、ね。
モヤシはどうでも良いんですけどね。

お金があるって良いですよ。
お金が使えますからね。

でも、お金を持つためにお金を持つと本末転倒なんですよ。
言葉にすると当たり前ですけどね。
使わないとお金って貯まるでしょ。
でも、使わないと本末転倒。

でも、貯金ってのもスキルでしょ。
まあ、それはそれで良いし、すごい。

でも、あんまり生きてる中で本末転倒ってしない方が良いなって。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 04:10| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月09日

幸福な日々がどこか悲しい。

日本に帰って幸福な日々が過ぎている。
出国前から仲良くしていた女の子とお付き合いをさせてもらい、のんびりと桜などを眺める。
自転車に関する文章の仕事をもらえたので、それをしながら、だいたい女の子と過ごす。

僕の人生で女の子と一緒に過ごすってのは珍しい。モテない。顔が悪いとか、性格にクセがあるとか、単に女の子が苦手とか。まあ、いろいろあるけれど。とにかく珍しい。

でも、倉敷には長くいないので女の子に申し訳ない気がしている。
来週にはまた山に入る。
その後の予定は立っていない。
以前の自転車屋さんからお誘いはもらっている。自転車の文の仕事と合わせて働けば結構良い条件の職場になるだろう。
女の子も付いて行って良いようなことを言ってくれている。
でも、それで良いんだろうか。

幸福な日々なのにどこか悲しさがある。

アフリカを走っていたのが遥か昔のように感じる。つい先月まで地平線を走っていたなど嘘のようだ。

帰国してから自転車屋さんで働いていた頃お世話になった人たちから連絡があった。

正直、僕は日本の生活に馴染めないでいる。
たった三ヶ月のアフリカが僕の心の根元みたいなところに何かを打ち込んだらしい。
何かが引っかかる。

向こうで世話になったやつらに電話しようと思ったが、クレジットカードも限度額いっぱいの借金漬け状態で、国際電話をかける余裕がない。

ボツワナでは、先日、地震があったらしい。
フェイスブックでつながっている人たちは元気らしい。あとは分からない。

アフリカの人々ってのは安心だ。
多分、何があっても変わらず元気に日々を過ごしてるだろう。
彼らにも心配や不安も時にはあるのかもしれないけれど、根の明るさというか、生きる力が桁違いに強い。
もしかすると、村で話をした人のうち何人かは何かの病気や事故で死んでしまっている人もいるかもしれない。
アフリカはフェアだ。
生きてりゃ死ぬかもしれない。
もちろん、みんな元気で生きていて欲しい。

日本はとにかく不自然で気持ちが悪い。
まあ、深く気にしないに限る。

ま、そんなこんな。

iPhoneから送信
posted by ちょろり at 23:06| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月01日

生きてるだけで楽しい日々。

日本に生きていると遠い未来の不安にくたびれてしまいやすいのかもしれない。
最近の僕はまだまだアフリカの名残で生きているから、呑気なものだ。金はなくとも、これからの予定もやりたいことも特になくても、呑気なものだ。
今日が良ければ、まあ、良いじゃん。って。

それでも、日本でカルチャーショックを受けている。

日本人は、まあ、死なない。
青信号で横断歩道を渡っているとトラックが突っ込んできて死んだなどの事故があると、トラックが全面的に悪いとなる。
日本ではそれば当たり前と言えば当たり前なのだが。
信号が青だろうと何だろうと車が突っ込んで来る可能性なんてのはあるのだ。
そして、突っ込んで来られてぶつかって死ぬのは歩行者だ。
死にたくなければ歩行者の方が注意すべきなのだ。

でも、死なないのが当たり前になっている日本では、突っ込んで来たトラックの方が悪くなる。
そりゃ、悪いのはトラックではある。
でも、トラックの方は死んでいない。
人間、死んだらそれまでなので、死なないように生きるってのはとても大事だ。
自分が生きるには、時には人を押しのける必要もある。
自分が生きている限り、自分が生きているということは最も重要だ。自分が死ぬと、自分という目や耳で感じている世界はまるごと全て終了だ。

まあ、不運というのはどんな場合にもあるから、注意していても死ぬことはあるにせよ、普通に生きていれば死ぬことはない世界。
これはやっぱり生物として異常だ。
生きてる限りは死ぬのもいつだってあり得る。

死なないのが当たり前になると、明日や明後日が心配になるのかもしれない。
今日死ぬことはない、きっと明日も明後日も。
いつかは死ぬのは知っているけれど、ずっと遥か先、日本人にとって死ぬって遠い。

100パーセントやってくる明日の心配に、100パーセントやってくる明後日の心配、そのまた翌日の心配。
いくつもドミノのように積もった心配は結構な量になるんだろう。

ーーー

その点、アフリカはあっさり死ぬ。
病気も貧困もあるから死ぬ確率が高い。
大人になるまでに死ぬ子供が圧倒的に多い。
実際、走っていて、
「ああ、ここで病気に掛かったら死ぬかもなー」
と思うことはある。
大使館の医療案内によれば、首都でさえロクにレントゲンのような高価な医療機器がなかったり、あっても途中で停電したりすることもあったり、メンテナンス不良でロクに動かないということがあり、手術などは国外搬送とのことだから、村なんかで病気になると、まあ、死ぬかもなー、ってのは思う。
黄熱病の予防接種をするにしても、エイズ蔓延国で注射を打つのが恐ろしい。

それでも、病院に行って払うお金があるだけ、遥かに僕は死の確率は低いし、大人という点で子供よりは体力だってある。

子供たちは裸足で走り回り、ガラスを踏み、土には寄生虫なども住んでいる。

僕はの感覚では死かすこぶる近い環境だ。

さらに大人になっても仕事がない。
明日のことを考えることは出来ない。とにかく今日を生きねばならない。

だからこそ、今生きていて、とりあえず安酒を何とか一杯買える金があれば、とりあえず飲んで、アルコールが喉を通り胃に落ちた瞬間の快楽が全てなのだ。
もちろん、全員がアル中ではないにせよ、来るか分からない明日より、今、正に喉を通る快感こそ命なのだろう。月に一万円の給料でも百円のビールは買える限りは買うのだ。一日働いても千円にもならないのに、酒は飲む。

その世界では驚くほどに暗さがない。
驚くほど明るい。
ヤケッパチとは違う。
ヤケッパチってのは絶望の反動で起きるものだ。
彼らは絶望していない。
来るか分からない明日の不安はない。
今、金がなければ、「チクショー、金がないぜ」で終わる。

さすがに、ほとんどの人に明日は来るにせよ、来月までに知り合いが誰も死なないというのは何とも言えない。
友人が死ぬかもしれないし、友人の親だったり、子供、隣の家の誰か、或いは自分。

我々の感覚では恐ろしさに対して何か備えるだろう。死なないように何とかする工夫だ。
しかし、今日の酒すら分からないのだ。
何かを備える余裕などないのだ。
それも、突然にデング熱だとかエボラ出血熱みたいな先進国でさえ治療の難解な病が流行したりするのだから、備える方法もない。

そして、エイズもある。
一夫多妻制が多いのもあり、娯楽も少ない環境では愛を交わす悦びは強い。歯止めが効かない。

でも、そういう側面があるんだけど、意外と死なないのも事実だ。
変な話だけど生きてりゃ生きてるのだ。
死んだら死んでるけど、死んだ時には死ぬかもしれないということはもはや思わないからだろうか。

僕自身、アフリカを走っている間は不思議と死のリスクをさほど感じなかった。
日本に帰ってから、死のリスクは常に存在していたのかもしれないとボンヤリと思った。

ーーー

麻雀に負けたら金がすっかりなくなった。
電車代もなくなったので、負け分を千円引いてもらった。
クレジットカードの支払いもあるので、マイナスだ。次の支払いの金がない。金が入るあてはない。

別に明るいビジョンはない。
明日死ぬことはないから明日の不安もあるはずなのだが、今吸うタバコを迷わず買う。
次のタバコが買えない。
30手前にして、実家に転がり込み、冷蔵庫の中を漁って食う。

「アフリカはどうだった?」
「ああ、とても楽しかった」
それ以上の話もない。
楽しかったのは間違いない。
ただ、それより先が何を話せば良いか分からない。
何か話したい気がするのだけれど、分からない。
それで小説はネタを書き上げたものの筆を止めて、正に売文稼業と呼ぶべき記事の執筆を続ける。
昼前に起きて6時間ほどで一万字ともう少し書く。
誰かに呼ばれていることが多くて出掛けて、帰って2時間ほどで三千字ほど書いて眠る。

働いてはいるが、その金がいつ入るんだかアテはない。
それでも、一日、隙間の時間に文を書けば、アフリカの友の一ヶ月分の給料になる。

でも、その文章は多分、あまり意味がない。
誰かが読むのかもしれない。
けれど、その文には秩序がない。
いくらか読み応えもあり、情報もある。
だけれど、バラバラなのだ。
インターネットの海を流れるだけなのだ。
なぜって、その文を書いていて僕の胸に流れるのはある種の虚しさみたいなものだからだ。
別に手抜きはしていない。いくらか有用性もあるはずだ。
だけれど、不思議と空虚なのだ。

きっと草むしりだ。
なかなか僕の草むしりは上手だ。
綺麗な芝が出来上がる。
それもなかなかのハイペースだ。
サッカーの試合なんかしたりするかもしれない。有用ではあるのかもしれない。
でも、やはり草むしりなのだ。

草むしりのことを僕は嫌いではない。
毎日、草をむしってきた。
今の仕事の草むしりよりも、遥かに人目に付かない。
ちょろり草という草をむしる。
ぐるぐるむしる。
一周するとまた少し違う草が生えていて、それをせっせとむしる。
でも、それが僕は好きだった。

今の仕事の草むしりも嫌いじゃない。
でも、少し微妙なのだ。
あまり好きではない。
本音は他の文を書きたいと思う。
ただ、金がないのだ。
やはり金の心配をしている。
間違いなくやってくる明日、明後日、月末のクレジットカードの支払い日の心配が積もっていて、僕の心には暗さがある。
何かを避けるために備えようとしている。

きっとちょろり草は本当に一円にもならないから好きなんだろう。
その芝では誰もサッカーもしない。
ただ、生えてきて、またぐるりとしたら草を抜く。

ーーー

そんな考えは暗いし、せっかくの良い体験の直後の時期にもったいないと思う。
でも、どうしても抜けられないのだ。

きっとカルチャーショックというのもあるのだろう。
アフリカで一番大変だったのは、最初の一ヶ月、適応するまでだった。
全てが違い過ぎた。
こんなので人間生きていけるのかと思った。
レストランという看板はない。掘っ建て小屋のような場所でハエだらけの中、メニューなどなく、その日にあるものを出してもらって食べる。
すぐにギブミーマネー、チップくれ。
言葉も分からない。
水道なんてない。
大都市に着いてもチェーンの一本も買えない。
眼鏡の予備も買えない。
全てが分からなかった。
分かる度に、「え、マジで、ここでこれ食うの?」みたいな具合だが、それを一つずつ納得していく。
納得せざるを得ないのだ。帰りの飛行機は三ヶ月後だったし、クレジットカードの限度額の問題でネットで別の帰りの航空券を買うことも出来ないし、航空券を買える航空会社のオフィスなどない。
適応して三ヶ月暮らして、帰りの飛行機が出発する空港まで辿り着くしかなかった。

それが気付けば帰りの飛行機に乗る頃には、その世界が名残惜しいほどに楽しくなっていた。

そして、帰国したら、またとんでもなく違う世界だ。
しかし、そこはほんの少し前まで自分が生きていた世界ですぐに適応できるはずの世界だ。
それが不思議と適応出来ない。

いや、もうじき適応出来るはずだ。
ただ、適応出来なくても生きていける世界ではある。適応しなくても、そう滅多に人が死なない世界だ。

価値観の崩壊だろう。
出発前の価値観を思い出せない。

この国で僕は何が出来るだろう。
何をすれば良いだろう。
何がしたいだろう。
或いはこの国以外のどこかで何か出来るだろうか、したいだろうか。

アフリカを自転車で走った日々の中では、僕はただ生きていたかった。死にたくなかった。
多分、パタゴニアの時もそうだった。
人と話すのも楽しかったし、景色を眺めるのも楽しかった。
ただ、何より生きているのが楽しかった。
その日も生きて夜眠るのが嬉しかった。

日本ではただ生きているだけでは楽しさが感じられない。
何か楽しいことが起きないと楽しさが感じられない。
テントではない、安全な壁に屋根に囲まれ、得体の知れない虫も入らない、象もライオンも心配いらない。窓を閉めれば寒さも防げる。水道をひねれば安全な水が飲める。
柔らかな清潔な布団。
でも、そこに眠る時に喜びはない。

でも、アフリカに行く前も、多分同じだった。

一口に言えば自転車旅の日々みたいに、ただ、生きているだけが楽しい日々なんてのは存在しないのだ。
ただ生きているのがありがたい日々。

でも、アフリカの連中は自転車旅なんかしてなくても生きてるだけで楽しそうに生きていた。そう見えたんじゃない。多分、本当にそうだと思う。お金が欲しいのは間違いないし、自分たちの暮らしの貧しさは嫌なのかもしれない。でも、妙に楽しそうなのだ。
すれ違うだけで見知らぬ僕に親指立ててグッドみたいなポーズをしてくる。
多分、ただ生きていて、生きている人間に会って一緒にいるだけで何かが楽しいのだ。出来れば音楽かサッカーの試合が流れていて、お酒が飲めたらより良いんだろう。
多分、人間って本当はそれが普通のはずなんだ。
多分ね。
日本での日々を考えると、何をしたとしても、ちょっとそんな日々は想像できない。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 06:27| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月29日

早速日本にへこたれる。

日本に帰国して一週間と経たずして、日本は嫌だなぁと少しへこたれている。

倉敷に戻って、お金もないのでライティングの仕事を始めた。
以前、激安で書かされたところがあったのだが、その時の文章を高く評価してくれて、これまでの人生で最高の給料、まあ、僕の人生最高の給料は低いんだけど、文だけで飯が食えるほどの金額で契約してくれた。
でも、山小屋に行くので、そんな美味しい話も山小屋に行くまでのほんの半月の話なのだが。
ちなみに山小屋に行くより遥かに楽で儲かる。

その仕事は海外でも出来るので、実は延々と海外を走ることも可能だ。

でも、そんなに美味しい話でずっと飯を食えるってことはないのだ。
人生、美味しい話にはウラがある。
別に今回の話自体にはウラなどなく、単に自転車に関しての知識をプロショップでの職務経験があり、なおかつ一万字の原稿を数時間で書けるという能力を評価してもらってのことだ。

そう、日々、ちょろり草をぶつぶつと眠る前に書いていた僕はいつの間にか一万字程度の文章はさほど苦もなく書けるようになっていた。
内容の縛りなんかがキツイと大変だし、縛りが無くとも当然疲れるし楽ってわけでもないんだけど。
案外、ペンキ屋さんに行く方が爽やかな良い汗もかけて気持ち良かったりもするんだけどね。

文で飯を食えるってのは、文を書いている限りは一つの夢だ。
金のために文を書くのは、ちょっとダーティーかもしれないが、金を出すだけの価値があると認められているわけだから、やはり嬉しいのだ。

それでも、やはり美味しい話にはウラがあると思う。
一つに自転車の知識など、ほんの5年ほど現場を離れていればついていけなくなってしまう。
まあ、そこは勉強すれば良いだけだが。
ウェブマガジンの原稿のライティングなど、数年後には仕事として成立しなくなる可能性も高い。
少し古い考え方かもしれないが、広告収入なんて形のないものを売っているかどうかさえよく分からない商売は水物だと思うのだ。

それに何よりも金のために文字を書くっていうのは分が濁る。
文は大事にして生きてきたのが、いくらかのお金のために失われてしまう可能性がありうる。

そうは言っても、金がないと生きて行くのも大変だ。
ふむ、ねむい。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 03:51| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月27日

故郷に帰る。

帰宅した。
故郷。
長かった。

アフリカも長かったけれど。
それよりも遥かにいろんなことが長かった。

旅の前にも故郷には帰っていたが、何となく地に足が付かなかった。
思えば怖かったのだ。

前回、南米を旅して帰った時には、
「海外にはもうよほどのことがない限り行くまい」
と思った。
アルゼンチンは素直に言えば怖かったのだ。

アフリカは怖くなかったのかと言えば、やはり怖かった。
でも、南米よりは怖くなかった。
アフリカの方が安全だからというわけではない。

多分、世界中、安全な場所などないと思うのだ。
日本だって危険だ。
そりゃ、夜に歩いたって不安はない。
でも、お金の不安だとかはある。
具体的にいえば、年金と保険と税金。
日本にいなくて無収入でも、そういうのはかかる。
それも毎月、旅行先の現地での生活費の半分近くの金額だ、

お金がなくても生きていけるってのは、あれは嘘だ。
お金がなくても生きていける国もあるけれど、お金がないと生きていけない国もある。
地域に限らず、やはり何かしら互換性のある資産を持たねば生きていけないというのは事実だろう。
やはり人間は人間と支え合って生きている。

アフリカを特別とは感じない。
確かにお金はない。
でも、恵まれていないとは思わない。
お金のある国、日本で生まれたから恵まれているのではない。
両親が愛を持って育ててくれバックアップしてくれているからこそ恵まれているのだ。
アフリカにだってそういう人はいる。
日本にだって、親の不和や不運で恵まれない人はいる。
もちろん、経済が発展している国の方が金銭的な余裕のある家庭に生まれる確率は高い。

でも、豊かさに関していえば、金銭だけではやはり測れないと思う。
ある意味では日本は遥かに貧しい。

帰国して友人に会った。
未来に希望はない、別に不満もないけど。
仕事から変えれば眠るだけでプライベートの時間はほぼ全くない。
新しい地に移って知人も飲む仲間もいない。
不満とまではいかないが、そういうものをそれぞれ持っていた。

アフリカには一切存在しない悩みだ。
いや、未来に希望はない、ってのはアフリカにもあるか。
それでも、毎日帰って眠るだけしか時間がないなんてのはアフリカにはほとんどない悩みだし、新しい地に知人がいなくても飲む相手話す相手は誰かしらいるのがアフリカだろう。

もちろん、アフリカの全てを見てきたわけではない。
だから、間違っているかもしれない。

でも、日本人は金銭的豊かさがあるから、自分たちの抱える貧しさの側面について知らないんじゃないか。

アフリカも貧しさはあるが、日本にも致命的な貧しさがある。
どちらの貧しさも改善するのが難しい。
アフリカは経済発展を遂げるのが難しい。
日本は経済を下向かせずに、労働量を落として人々の生活を上向かせるのが難しい。

でも、僕が思うには、世界をフラットにするのは難しいし、それは不自然なことで、いくらか凸凹している方が自然だ。
お金を独占している国を肯定するわけではない。
ただ、仮に全てをフラットにしようと思うと、資源の差などどうしようもできない問題がある。
世界が全て平等ってのは無理があるし、仮に世界が努力して実現したとしたら、様々なところで無理が起きると思うのだ。

だからって一部の地域だけ飢餓や病気でどんどん人が死ぬってのは、やはり問題だ。

いくらかの貧富の差はいいと思うのだ。
ただ、どこまでを許容するかって問題だと思う。

極端にお金のない国ってのもまずいし、極端にお金がありすぎる国ってのもまずいと思う。
マラウィもまずいし、日本もまずいと思う。

まあ、話が長くなるので、またのんびり。

ーーー

故郷に帰る。
長かった。
そういう話だ。

まあ、帰ったばかりなので今は安らいでいるということもあるのかもしれない。
でも、旅の前にはなかった。

ずっと昔のような、いや、昔にもなかったかもしれない。
この土地に住もうか。
そんな気持ちがあるからだろうか。

しかし、反面、行きたい地域は増えている。
西アフリカ、インド、中央アジア、南米、北欧、東欧、イスラム諸国。
かつては異国に恐怖を覚えたが、今回は変な自信がついた。
相変わらず怖いけれど、多分、頑張れば行きたいところに割とどこでも行けるんじゃないか、って。

行きたいけれど。
別段、焦ることはない。

故郷に帰った。
強くそう感じる。

旅をする僕を応援してくれている人には申し訳ないが。
旅を焦る気持ちがなくなった。

一つにしたかったことをやりきったからかもしれない。

でも、本当のところはわからない。
ただ、満足したからってわけでもない。

ねむい。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 02:33| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月25日

お金と幸福の天秤。

久々の iPhoneを買った。ナミビアではスマートフォンが異常に高かったので連絡用の間に合わせの8000円のものを買っていたのだが、SIMカードのサイズが違って使えなかった。
それに八千円のものはさすがに使いにくすぎた。

やはりスマートフォンなんかの電子機器は日本がダントツで安い。
6プラスという少し古い、しかもdocomoのSIMロックモデルだが、四万円。
SIMフリーは日本にいる限りは使わないし、海外では100ドルスマホでも良い。
四万円でiPhoneの128GBが買えるのは嬉しい。
というか、128GBのiPodより安いんじゃないだろうか。日本、すごい。

プラスにしたのは電子書籍を読んだり、文字を打ったり、写真いじるのに良さそうだったので。iPhoneの写真加工なんかのソフトは本当に良いのが揃っている。
WindowsでせっせといじるよりiPhoneでさくさくと加工してしまう方が綺麗に仕上がるくらいだ。
ちょっと大きいので邪魔な気もするが。
やはり使い勝手は良い。

まあ、それにしてもやはりiPhoneはやっぱりすごい。
圧倒的に使いやすい。
指紋認証なんかも意外なまでに便利だ。

おかげで完全にお金がなくなってしまった。
ピンチだ。

でも、アフリカで何か変わった。
良い意味で何だかいろんなことがどうでも良くなった。
以前はお金がないってかなり焦ることだった。
「お金くらい何とでもなるでしょ」
そんな風に思うようになっている。

ある意味では少し危険でもあるけれど。

ただお金のことを気にするって良くないと僕は思うのだ。
もちろん、金銭感覚って大事だけど、ただお金に関してビクビクして生きているのはもったいないことが多いのだ。

たとえば、今回の旅ではキリマンジャロに十万円使って、砂漠でスカイダイビングに三万円と、ツアー関係で結構なお金を使っている。
自転車乗りってあまりお金を使わない人が多いし、僕もそうなんだけど。

お金って使える時が限られているのだ。
キリマンジャロなんかは正に分かりやすい。
もっと些細で身近な具体例としてはマクドナルドだ。
たまにマクドナルドが食べたくなる時があるって人は多いと思う。マクドナルドって全く美味しくないんだけど。不思議と年に一回か二回食べたくなる。

少し話はそれちゃうけど、マクドナルドの美味しくなさって凄いと思う。普通に食パン焼いて、レタスとトマトと肉挟んで、オリーブオイルと塩だけでもマクドナルドよりは美味しいと思う。フランスパンなんかでやれば間違いない。
マクドナルドのパンって甘ったるいし、肉や野菜の味なんかもソースべちゃべちゃでよく分からない。

それでも、不思議と時々食べたくなるんだからマクドナルドって凄い。
本当に。

そう、お金は使える時が限られてる話だ。
マクドナルドって猛烈に食べたくなった時に食べないと、あの嬉しさはないのだ。
少し過ぎ去ってしまうと、別に食べたくなかったり、それでも食べると、やっぱり美味しくない。
食べたい時に食べると嬉しい。

「食べずに済むなら、それは倹約出来て良いことじゃないか」
そういう人もいるかもしれない、
でも、それは間違っていると思う。

個人の幸福っていうのは、かなり優先事項の高いことだと思う。
幸福を我慢する必要があるのは、誰かを傷付けたり犠牲にしないといけない時か、その目先の幸福で将来的な大きな幸福が離れてしまう時だと思う。
人のお金を盗めば、お金は増えて嬉しいけれど、盗まれた人は当然悲しい。
目の前のマクドナルドが五千円だったら、その金額ならもう少し幸福になれることはあろう。我慢して少し離れた美味いものを食いに行くべきだ。

ただ、基本的には幸福は優先すべきだ。
目先の幸福も、金額なんかによりけりってのはあるにせよ、出来る限りは手に入れておいた方が良い。

幸福は多く経験すべきだ。
幸福という言葉よりも感動っていう言葉でも良いかもしれない。
感動、喜びをいくつ知っているか。どれだけの深さのものを体験しているか。
これは財産だと思う。

幸福を知っている人は人に幸福を提供出来る可能性が高くなる。
面白いことを知っている人は、何かをする時、作る時、計画する時、企画する時、提案する時、出来る限り面白いことを出す。面白いの引き出しも多い。

そして、面白い体験ってのはタイミングの要素って大きい。
人間、誰しもいくらかは気分屋という要素はある。
やりたい時にやるってのは、とても大事だ。
満足感も違うし、モチベーションが高い方が面白いことになる。

まあ、実際、マクドナルドくらいの幸福は倹約して逃したってさほど問題ないけれど、それでも、マクドナルド程度の金額で幸福を感じられるなら、やはりマクドナルドはすべきなのだ。
マクドナルドが大好きで週に三日行くとかはどうかなとは思うけれど。ちょっと他のものも食べてじっくり考え直してみるべきではある。

お金はあれば便利には違いない。
ただ、お金って食べられない、飲めない。雨風だってお金じゃ防げない。
お金って交換して初めて、食べられるものが手に入ったり、屋根のある家を手に入れられる。
お金のままじゃ、ただの紙切れなのだ。

日本なんかは、金さえ出せば何でも手に入るのが当たり前だ。
モノもそうだし、サービスにしたって様々なものがお金で買える。
だから、お金は出来る限り節約する方が正しいなんてのが当たり前になってしまっているけれど。

本当は、お金って使える時に使うってのはかなり大事なことだと思う。使いたい時に使う。

ただ、いつでもパカパカ使っていれば貯まらない。
お金を貯めて良いことってのは、したいこと、欲しいものが出来た時にすぐにお金があって、手に入れられるっていうことだ。
ただあくまで、やはり使うのが前提なのだ。

お金を貯める良い方法は働き続けることだ。
働いていると使う時間がない。
山小屋なんか分かりやすい。山にいる間は煙草の一本も買えない。
ただ、やっぱりそれっていまいちだ。
欲求があるって良いことだ。

でも、欲求がありすぎて、欲求に引きずられて生きるのは良くない。
分かりやすく言えば、性風俗店で働く女性がブランド物を買ってしまうとかだ。
ブランド物を買って幸福になるのはとても良いことだ。
でも、その欲望にひきずられて性風俗店に身を落として心すさむなら、それは悲しいことだ。
それはトータルで見ると不幸の度合いが強過ぎる。

でも、どうなんだろ。
ブランド物を買うことが人生最高の幸福という人なら性風俗店で働いても決して悪くないんだろうか。
性風俗店で働くのは悪いことってのは明らかに人道的にまずい。

その仕事で生きている人も少なからずいるし、苦労もしている。病気のリスクもあるだろうし、疲れもするだろう。精神的にも肉体的にも。
そして、それは押し売りではなく、ある一定の需要があればこそ成立しているし、社会の秩序を守るためにも必要なのだ。
性犯罪の抑制もそうだし、浮気、不倫の防止にも一役買っていると思う。
だから、歴史的にも古くからそういう店ってあるんだろう。
ヨーロッパなんかは公娼、国の認めている娼婦がいたり、国営の風俗店があるという。

女性向けの性風俗店がないというのは、むしろ不思議な話ではある。
冗談ではなく、本当に不思議だ。
女性にも性欲はあろう。
どうしてもしたい時くらいあろう。
本番行為は男の方の1日にできる回数の問題、立つ立たないの問題があるにしても、キスなり抱擁なり何とでも提供可能な性的サービスってのは存在するはずだが。

女性はお金を積んでも性的欲求を手軽に満たすっていうことは難しいのだ。

話はそれ続けているが。
要は風俗店で働く女の子たちだって苦労はあるし、必要ともされている。
一口に良いだの悪いだの言えない。
苦労してお金を手に入れるということなのだ。
そうなると、ブランド物のカバンのために、その仕事を選んだって、そりゃ悪いことじゃないとも言える。

ただ、やっぱり好きな人とする方が良いし、お金のためだけに体を売ってしまうのは良くない、理屈はよく分からないが、世間的にはそうなっているし、直感的に僕らもそう思う。
冷静に考えれば不思議なことだけど。

でも、まあ、やっぱり確率と天秤なんだろう。
体を売るっていうのは、やっぱり良くない方向に進んでしまう可能性が高いんだろう。

そう考えると、やっぱり何でもかしこでも幸福を得るためにお金を使うってのは、問題なのかもしれない。

まあ、やはり天秤なんだろう。
ただ、やっぱり基本的にはお金よりは幸福の方が遥かに重いように思う。
そして、バランスは大事だけど、やはり幸福優先だろうと思う。

お金はよほどのラインを越えるのはまずいにせよ、ある程度までなら気にしないくらいの方がチャンスは多いと思う。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 04:31| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月19日

限りはあれど急がなくて良い時代。

てんぷらを揚げながら、ウィントフックで帰国を待ちつつ、写真と文の整理、執筆をする日々。

小説は書き始めたもののなんとも微妙だ。
写真をまとめての旅行記の方は悪くない。
今回は完全に分けて、旅行記は旅行記で書いて、自転車としてのレポートはじてぼんにまとめて、小説は小説で書こうと決めた。

今回の旅はすこぶる珍しく、明確に得たものが一つある。
ポレポレ、ハクナマタータだ。
スワヒリ語で、のんびり行こう、ノープロブレム。
そして、サムデイ、ネクストタイム。
いつか、また次回。

とにかく焦り過ぎ、急ぎ過ぎなのだ。
今回を最後の旅にするかどうかとか、帰国したら結婚しようかとか、山小屋はずっとは続けられないだろうとか。
要は急いでいるから、そうなってしまうのだ。

確かに、現実問題として、どれかをやることにはなる。
来年以降も旅をするなら、やはり結婚は難しい。
結婚するなら山小屋を続けるのは難しい。

でも、だからと言って決めつける必要はないのだ。

結婚したって、まだ人生は長い。子供が大きくなったところで、ふと夫婦二人で世界一周に出掛けるかもしれない。

山小屋と旅の日々を続けていたって、ふと結婚することだってあるかもしれない。

「これが最後だから、いつまでにやらないといけないから、だから何かだけを選ばないといけない。何かを捨てなければいけない」
っていうのは間違いなのだ。

確かに人生に限りはある。
今、出来ることは一つだ。
今することはどれか選ばないといけない。
ただ、他のやりたいことを捨てる必要などない。
人生はまだ長い。
サムデイ、ネクスト。
いつか、また今度。
胸の中にやりたいことはやりたいことで置いておけば良い。そういうのをたくさん貯めながら生きていたって良いのだ。

そりゃ、タイミングはある。
タイミングを逃すと美味しくないこともある。
若い頃の経験は歳を取ってからの経験より貴重かもしれない。
順番は大事かもしれない。若い頃にしたほうが良いことも多いかもしれない。
のんびりしていれば、ベストなタイミングを逃すかもしれない。
ただ、そりゃ、もう縁だろう。
現実には今出来ることは一つなのだ。

一度に全てをやるってのは無理かなと思う。
やりたいことを全部くっつけてやるってのは無理があるんじゃないかなと思う。
例えば、結婚して新婚旅行は五年かけて自転車世界一周しながら文を書いて生きていく。
やっぱりそういうのは虫が良いと思う。
もちろん、不可能ではない。
ただ、やっぱりくっつけてしまうと、別のことになってしまうんじゃないだろうか。
それにくっつけてしまうには労力がいるし、やっぱりそういうことをしている人が少ないのは難しいからだったり、リスクが大きすぎたり、やっぱりあれこれ上手く行かないからなんだろう。

平たく言えば、自転車は一人きりで乗っていたいってのもあるんだろう。
奥さんと二人じゃ意味が違う。
もちろん、楽しいだろう。
でも、結婚するなら日本で暮らして子供を育てたいし。
やはり自転車で走るなら、勝手気ままに一人が良いってのがあるんだろう。

やっぱり無理くりくっつけて一度にやってしまうってのは出来ないんだろう。
やっぱり別物になってしまうのだろう。

ただ、別に焦らなくたって、人生は長いのだ。無限ではないけれど、決して短くない。
順にやっていけばいい。
どれが出来て出来ないかは分からない。縁次第だろう。
ポレポレ、ハクナマタータなのだ。

フランク氏と話していてそう思った。
「自転車でナミブ砂漠もいいよ。またいつか、次のときにやってみたら良いよ。君はまだまだ若くて時間もあるんだからね。人生いろんなことが起きるからね」

人生って割と何でもありなんだ。
もちろん、何でも出来るわけではないけれど。
一度に出来ることってのは限られてはいるけれど。
こうじゃないといけないなんてことはないし、いつまでに、何歳だからとか、そういうのはないのだ。

多分、年齢もあるんだろう。
三十を手前にして。
二十代って忙しいと思う。
急に大人にならないといけないし、若い感性が残っている間にやっておいた方が良いことも多い。
二十代に関しては急ぐ必要ってあるのかもしれない。
ただ、少し落ちつく30くらいからはせかせか焦らず、どっしりと順に自分の好きなことを進めていけば良い。
焦ったり急いで、自分を追い込むようなことはせず、好きなように生きていけば良い。

まあ、多分だけどね。

ま、そんなこんな。
posted by ちょろり at 08:34| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月18日

フランク氏に何を感じているのか?

すっかりサッパリ自転車乗りじゃなくなった日々をウィントフックで過ごしている。
朝からビールを飲みながら、小説を書いてみる。
あまり良い作品にならない。分からない。良い作品になるのかもしれないが。
でも、最後の滞在をのんびり小説を書きながら過ごすのは良い。

じてぼんの方にも書いたのだが。
フランク・レナガード氏というフランス人サイクリストのおじいさんがやって来た。
彼は砂漠も走っていた。すごすぎる。

全く。
自転車旅ってのはキリがない。
フランク氏はとても雰囲気の良い人、僕の好みの雰囲気の人で一緒にいて心落ち着く。

フランク氏は若い頃から年に一度海外を走りに出掛け、帰国したら仕事を探して、またお金がたまれば出掛けるという暮らしなのだそうだ。
今回は南アフリカのヨハネスブルグから始めてナミビア、ボツワナと回ってヨハネスブルグから帰国予定とのこと。
ヨハネスブルグは危なくないか聞くと、日中は問題なかったよとのこと。
そんなわけで世界のいたるところを走っていて、完全に自転車仙人みたいな人だ。

ヨーロッパの人にはフランク氏のような生き方っていうのも広く受け入れられているやり方なのだろうか。

それにしても、ヨハネスブルグが危なくないってのは信じがたい。ただ、フランク氏が言うには、フランスも危ないところが多いからね、と。
確かに僕ら日本人は少し危ない感じだとすぐに怖い怖いになる。
ダルエスサラームにしても、僕は半々、もちろん都市は苦手なので怖いけれど、特別飛び抜けて危ないとは思わなかったのだが、案外日本人バックパッカーたちはあの雰囲気は危ないと思う、とよく言う。
昔、ブエノスアイレスの市街から出る道がすこぶる怖かった思い出があるからか。ダルエスサラームはそこまで感じなかった。

ただ、案外、その感覚はさほど間違ってないのかなと思う。
自分が感じてみて危ないと思うかどうか。
どうしたって日本と比較すると海外はどこの国も危ない。
夜道を女の子が独り歩きできるのが普通の国なんてないと思う。

ヨハネスも案外、行ってみれば、メインの通りはそんなに危ないわけでもないのかもしれない。
サッカーワールドカップがあって、かなり治安は改善したとも聞く。
ただ、ヨハネスはリアル北斗の拳なんて話も聞く。
行ってみないと分からないけど。
なぜだか南アフリカって全く興味が出ないのだ。
海沿いなんかすごくきれいらしいし、ワインの産地でもあるらしいんだけど。

フランク氏と話していると、何か思うところがある。
何なのか分からない。
フランク氏も奥さんがいた頃は自転車旅行はやめていたらしいが、今はもう亡くなってしまったのだそうだ。

「自転車旅行は楽しいけど、一人きりだから時々寂しいと僕は感じるよ」
と言うと、
「そう?僕は寂しさは感じないな。走っている時にはいろんな景色や人があるし、夜は疲れてすぐ寝ちゃうからね。寂しさを感じる暇がない」
確かにそう言われると、走ってる時はそうかもしれない。

ねむい。
フランク氏から僕は何を感じてるんだろう。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 06:03| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月14日

感覚とは曖昧か。

最終目的地、ナミビアウィントフックに到着して、自転車ブログはしばらくやめにすることにした。帰国まで書かない方が良いかな、と。
やはり自転車ブログに自転車以外のことは蛇足だし、いらないことを書けば文が濁る。
やはりちょろり草とは純然で良いと感じる。蛇足ってのがない。ちょろり草は僕が書いている限りはすべての文が蛇足にならない。

ーーー

そう、文が濁るっていうのを最近よく感じる。
書けないものは書かないのが良いんだな、と。
だから、じてぼん、自転車の方はしばらくは書かない、多分。
異国にいるのに走ってない日々には自転車のことは書けない。テーマがズレる。
日本なら良い気もする。
変な話だけれど。
一口に言えば、僕は不器用なんだろう。

何となく、アフリカの話も数年は小説にしない気がする。
いや、書き始めてはいるけれど、何回もボツになり、完成はずっと先なんだろうと思う。

何も得られなかったのではなく、得られたと確信しているからなんだろう。
このネタは熟成させたい。
間違いない引き出しだ。

なんとも変な感覚。
ちょろり草的な感覚。

ーーー

今日はへんてこな日本人の旅人に会った。
旅人とは総じてへんてこな人間だけれど、旅人としてはへんてこ、へんてこな人間が旅人でそれのへんてこだから普通人間の気もするけれど、へんてこな人だった。

仲良くしてる人とへんてこな人だねぇと話した。
アメリカ人も顔をしかめて、へんてこで苦手だと言った。アメリカ人が目の前でそういうことを言わず、裏で言うのは珍しいように思ったが、グローバルで通じるへんてこさがその旅人にはあるんだろう。

その旅人のへんてこさというのは、一口に言ってしまえば、自己顕示が強いのだ。自分はこれこれをして、すごいんだということを偉く押してくる。
「彼は陣取りゲームのように人と話す、相手を服従させるかのように」
アメリカ人はそう表現していた。

まあ、それでも、バックパッカーにせよ、僕にせよ、旅の武勇伝などは多かれ少なかれ誰かに語る。
その度合いが少し変わっているというだけなのだが、やはりへんてこな感じがする。

そうは言えど、広く知られていない事実を語るとき、人はへんてこというレッテルを貼られることが多い。
僕の小説の先生も、近年、UFOに関して話し過ぎて、元々変人、小説書きだの絵かきだの音楽家だのはやはり変人、普通の人が普通にできることをしていたって芸術家とは呼ばれないから当然なのだが、それが輪にかけて変人扱いされた。
ただ、一足踏み込んで勉強してみると、先生の語るUFOの話というのは、たしかに広くは知られていないし、事実かは分からないにせよ、ある程度の数の人々が信じている、認めている事象であり、そういうことを知るとそんなにへんてこな話でもなかったりする。

だから、一見、へんてこな人と思っても、案外、僕らが知らないだけで、きちんと確立している考え方、理屈を持っているかもしれない。
少なくとも一人の人間が信じるに値する程度の何かというのは存在するのだ。

だからって、ほいほい何でもついて行ったり関わったりすると危ない。

やはりラインってのは重要だ。
へんてこな人だと感じれば、やはりへんてこな人、自分のフィーリング、勘ってのは曖昧なようで案外アテになる。

ーーー

別の宿に泊まっている友人が遊びに来ていて、夜タクシーで戻るからとタクシーを拾いに道に出かけた。
歩いても十分そこらの宿なのだが、やはり海外の都市は日没後は基本的には出歩けない。歩ける街もあるそうだが、やはり基本は歩けない。背負う必要のないリスクであり、犯してしまったときの代償が大きすぎる。
特にウィントフックはリスクのある街だ。ヨーロッパのツーリストもいくらかは夜に飲み歩いているので、すこぶる危ないとまではいかないにせよ、貧富の格差の大きい国はリスクがある。
特にその宿までには鉄道をまたぐ橋がある。
橋というのは危ない。
貧しい路上生活者にとって、雨を防げる橋というものはありがたいものなのだ。

ちなみにすべての路上生活者が危険なわけではない。
屋根や塀の中で眠る我々が路上生活者を怖がる以上に、屋根も塀も持っていない彼らははるかに日々にリスクを背負っている。
我々以上に夜を恐れているのは彼らなのだ。

ただ、夜と親しいのも彼らの方だ。僕も野宿をいくらかはしているから分かるが、夜の恐怖に近いほどに夜に親しくなる。
夜に誰かと会えば、夜に親しい人間のほうが有利なのだ。

話はそれたが、タクシーを拾いに三人で出たところ、長い棒を持った黒人が歩いていた。
それがどうもおかしい気がした。
別段、こちらに向かって来ているわけでもなく、棒を振り回しているわけでもないのだが、杖をついているわけでもなく、しかし、棒をゆらゆらと揺らしている。
理由は分からないが、強烈に違和感があった。
「あれ、変じゃないですか?」
おーちゃんが言ったので、
「僕もそう思います、変ですよね、逃げましょう」
三人とも走って宿まで逃げた。

何事もなく宿まで戻り、宿の人の知人が車で僕らの友人を送ってくれた。

何事もなかったので、実際は変な人間だったのかは分からない。
逃げながら振り返ってもこちらを追いかけて来てもいなかったので、危ない人間でもなかったのかもしれない。

ただ、事実は、あんな棒をあんな風に揺らしながら持って夜歩く人間というのを僕もおーちゃんもアフリカで見たことがなかったし、変な感じがした。
「日本なら気にしないと思うんですけどね、改めて考えてもやっばり変だったと思いますよ」
と二人で話した。

ーーー

旅をするときのリスク管理っていうのは難しい。
日本の外務省なんかのハザードマップなんかは割とあてにならなかったりすることもあるそうだ。日本の体質として、安全重視すぎる面もあるし、それよりも他国の判断が揃うのを待つということもあるらしく、危ない地域に日本人だけ知らずに観光でいるということが過去に数回起きたこともある。
旅人の話もアテになるのは半分ほどだ。
危ないにも質があるから、危ないかどうかは人によったりすることもある。
ボツワナの自然保護区は通常の観光客には特に危険ではなくとも、自転車乗りには相当なリスクのある道だし、タンザニアの大都市ダルエスサラームは危険都市とは呼ばれるが、被害は主にタクシー強盗なのでタクシーを使わない自転車乗りにはさほど危ない街でもない。ただ、交通戦争と呼ぶにふさわしいほどに車が多く、信号がなく、交通ルールみたいなものが存在しないので交通事故のリスクは高いので、やはり危ないが。

とにかく生で見て感じないと危険の度合いは分からないのだ。
事前情報は重要だし、最低限知らねばならないことも多いが、あくまで予備知識であり、必要があれば通過しないといけないこともあるし、中止する判断が必要な場合もある。
スリルを楽しんではいけないが、いくらかのリスクを取らねば自分の行きたい場所、見たいものには辿り着けない。

だから、リスク管理、生で見たときのフィーリングは大事なのだ。
奇妙に感じれば、理由はなくとも何かがおかしいのだ。

リスクの存在とは忘れてはいけない。

ーーー

ただ、アフリカというのはよく人が死ぬようだ。
病気だけじゃなく、お祭りみたいなのがあるとはしゃぎ過ぎて死んでしまう人なんかは珍しくない、祝日明けに誰かが死んでしまっていて出社して来ないなんていうことが時々起きるのだ、それも自分の職場だけじゃなく知人の職場でも時々起きるらしいのだ、と現地で働く日本人が言っていた。
実際、棺桶屋さんというのをタンザニア、マラウィではよく見掛けた。
通りの家具屋さんに家具と同列で何種類かの棺桶、きれいな装飾のものや地味なものやらが並んでいたりする。

日本なんかでも葬儀屋なんかはよく見掛けるが、どちらかといえば大多数は老人向けで、変死や事故死というのはやはり数は少ないと思う。
実際、会社の同僚が祝日明けに不意に死んでしまったなど滅多にない。
何でもかしこでも発展しすぎてて、人が死ぬということから距離が遠くなってしまったからなのかもしれない。
何にせよ、我々には身近な人の死っていうのはあまり多くない。

もちろん、アフリカで人の命が軽いなどということはないのだろう。
ただ、彼らには死というのはさほど遠いものではないものなのかもしれない。

生きていれば、人間いつかは死ぬ。人間が死ぬということは決して不自然なことではない。
そりゃ、日本人にだって分かることだが、彼らはもしかするとそういうことをより身近に感じて生きているのかもしれない。

夜の近さだの、死の近さだの、リスクの勘だの、えらく曖昧な話になったが。

ま、そんなこんな。
posted by ちょろり at 06:58| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月06日

旅の終わりに途方に暮れる。

20170305

本日は自転車は走らず。休養日。
スーパーに行き、キャンプサイトにて昼前からワインを一本飲んだら存外酔っ払って、一人で吐いて、ベンチで眠っていた。

なぜだか全くやる気が起きない。
やはりアフリカは終わったという感じがする。
残り200キロでウィントフックに着く。宿泊できるキャンプサイトなどがある町の位置を考えると三日に分けることに。道路脇キャンプも可能なようだが、残り少ない最後で失敗するのは嫌だ。

油断ではないが、やはり安心してしまっている。
残りの200キロは難所がない。
ウィントフックからしばらくナミブ砂漠散策に出る予定だが、そちらはスーパーハードルート。ただ、とりあえずはウィントフックまでなのだ。ナミブ砂漠編は言うなればサイクリング、別段、明確な目的地はない。一応、観光で行ける砂漠の最深部デッドフレイというところを目指す予定だが、走ってみて砂漠がどの程度厳しいか次第と、帰りをヒッチハイクできそうか次第で、どの程度奥まで行けるか決めるだろう。別に最深部に行かなくとも砂漠を走れたら満足なので、気が済んだ辺りで引き返す予定。

22日のフライトなので、輪行の準備、ダンボールを探しに出たりタクシーの手配なんかに三日余裕が欲しい。18日にはウィントフックに戻りたい。
8日にウィントフック到着予定で、一日休んでから砂漠なので、3月10日から18日が砂漠の予定。
3月10日は誕生日なのだが、何が悲しくて誕生日に砂漠に向かって自転車を出発させるんだか。
それでも、そこを逃すと、もう人生で砂漠を走る機会はないかもしれない。

可能ならやはり最深部まで行きたい。

ーーー

帰国のフライトまでに最終目的地の町まで到着しないといけない。
そういう緊迫感は非常に大事なのだが、もはやそういうのがない。砂漠はいつでも引き返せるように走る。
もちろん、まだ終わってはいないが、あとは安全策で帰国までのんびり過ごせば良いだけだ。
砂漠を走らずウィントフックでちんたら過ごしたって良い。
ただ、やはり砂漠は走りたいので、走りに行くのだろう。
まあ、そんな具合なので完全にやる気がない。やる気がないのは危ない。危ないのは分かってはいても、やる気を出そうにも、もうくたびれていてなかなかやる気は出ない。

やはり砂漠となると難しい。引き返すのも予定通り出来ない可能性もある。
そこらへんを考えると、やはりウィントフックで10日間ダラダラ過ごして、車のツアーで砂漠に行くのが良かろう。
ただ、わざわざ金を払って、未舗装の道を揺れる車で乗り物酔いしてまで砂漠が見たいかと言えば、そうでもなかったりする。

ーーー

そう、ウィントフックに着けばすでに目的は達成してしまうのだ。
砂漠の先に目的地があれば良かったのだが。あくまでプラスアルファ、やる気も出ないわけだ。

砂漠自体は楽しみにはしていたのだが、もはやボロボロなのだ。
タンザニア、マラウィと途上国で疲れ果て、下痢して、ザンビアからは無人地帯が長くなり、ボツワナでは象の恐怖にさらされ。
ナミビアは本当に精神的に助かった。
国境の時点で完全にこれまでとは別格のまともな先進国に近い感じがあった。
そして、やる気を失っている。

やる気がないのは本当に危ないのだ。
危険地帯とか以上にやる気をなくした状態での普通の地帯の方が危ない。
やる気がなくぼんやりしていて、車にはねられたらそれで全ておしまいなのだ。

ーーー

どうしてやる気がこうも起きないのか。
旅の終わりを感じ始めているからだろう。
旅の終わりを感じ、疲れが一気に出てきたのかもしれない。
旅の終わりっていうのは、いかんともしがたい。
帰国できる嬉しさもあるが、心から切望し、全てをかけたプロジェクトが終わる。
これは何とも言えない気持ちなのだ。

「次はどこ走りに行くの?」
「いつ旅に出るの?」
旅に出るのは簡単なことではないのだ。出てしまうまでが大変なのだ。出てしまってからももちろん大変だが、出てしまえばあとはやり切るだけ。
出ようと決意し、資金などの工面をし、仕事を辞めて出る。
人生で何度も出来ることではない。

多分、これが最後になる。
もしかすると、またいずれ行くかもしれないが、今のところ予定は立たない。

自転車で異国を走るのがすごいのではない。
自分の好きなこと、やりたいことのために多くを犠牲にする決意をして実行する、それこそが凄いのだと僕は思う。

どっしり疲れの中に沈んでしまっている今は、とてもじゃないが次の明確なプランなど考えられない。

じゃあ、どうするのか。
これから先。
どうしようか。

全く、人生というのは果てしなく長い旅だ。目的地もよく見えない。
どう進めば良いのか、足下を照らす灯りも暗いし、僕の目もどうにも霞んでいるのか、途方に暮れる。
久しぶりに誰かに手を取ってもらいたい、足下を照らしてもらいたいなどと思う。だが、それは誰かに頼むことじゃなく、自分でせねばならないことなのだ。

ーーー

ウィントフックまで無理をせず、200キロをのんびり三日に分けて走り、心身ともに回復させてからナミブ砂漠に挑みたい。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 06:18| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする