2018年12月23日

時々、なぜこんなところにいるのだろう、という気持ちになることがある。

時々、なぜこんなところにいるのだろう、という気持ちになることがある。
群馬県だとかの土地の話ではない。人生の場所という意味でだ。
じゃあ、どこにいれば良いのか、いたい場所なんかがあるのか。

ひどくつまらないような気持ちになる。
昔はもっと楽しいことがあったような気がする。
実際には多分昔もそんなに楽しいことなんてなかった。
或いは今もそんなにつまらないわけでもないのかもしれない。
そう、別に何も悪くはない。

ベルリンの友人のことを考える。
別に立派なことをしてるわけでもない。ヒッピーみたいな具合で転々と生きているだけ。今は偶然ベルリンにいる。もしかすると、ずっとベルリンにいるのかもしれない。
異邦人として生きる。
多分、大変なことだろう。彼は大学も出ていない、本当のフーテンだ。アメリカに住む友人もいるが、そちらは大学を出て日本企業の現地駐在員としてアメリカに暮らしている。賢いのはきっとアメリカの方の友人だろう。
少なくとも僕よりは賢いし立派だ。

それでも、不思議とベルリンの男ってのは心捉えるものがある。
何をして生きてるんだか。異国には焼き鳥族ってのがいるのだが、要は留学なんかで行ったは良いが勉強についていけなかったり、夜遊びばかりに走って、結局日本料理店で焼き鳥を焼くアルバイトをして、言うなれば海外でフリーターしてるような人だ。ベルリンの彼は言うなればそういう焼き鳥族の一種なのかもしれないが、かと言って単純に学生時代の焼き鳥族でも、ワーホリ焼き鳥族でもない。クリーンさがないのだ。
もしかすると、お酒やマリファナだとかのやり過ぎで頭がラリってしまっているだけなのかもしれないが、なぜかベルリンの男は心に掛かる。
ミュージシャンでもアーティストでもない。
フーテンとは言っても別段放浪し続けてるわけでもない。

なんていうか彼は本当に一人きりで異国で遊び続けているのだ。
ただ、楽しいことを求めて。

いや、実際には近年、彼が何をしてるんだか分からない。
案外、言わないだけで大きなビジネスなんかしてるのかもしれない。実はすこぶるカタギな生き方をしているのかもしれない。
可能性はゼロではない。
僕も歳を取ったみたいに、彼も歳を取っているかもしれない。
僕がどうしてこんなところにいるんだろうと感じるようになったように彼もそんな状況にいるのかもしれない。

昔は友人で誰かすこぶる売れる映画でも発表して有名人にならないかな、なんて思ったり、スーパーミュージシャンやすごい画家になるやつが現れないかななんて思ったりした。
でも、最近はあまり思わない。
映画監督を目指していた男がいて、彼の場合、今もプロで映像屋をしているので、ふとヒット映画を出したりする可能性もゼロではないが。
もちろんそうなれば嬉しいは嬉しいのだが。

何というか。昔と違って、社長になるやつがいても不思議じゃない年齢になった。年収一千万円オーバーのやつがいても別に不思議じゃない歳になった。
何千万円だかの住宅ローンを組んで家を建てるやつがいるのも普通の年齢。
誰かが不意に大ヒット映画を作ったって、まあ、すこぶるすごいことだし、とても嬉しいことだけれど、なんというか有り得ることのように思えてしまうのだ。

なんて言うか出来ることが増えてしまって逆に夢がない年齢になってしまったのかもしれない。
自転車世界一周だって、やってやれないことはない。別に僕に限った話じゃなくて、自転車なんて全くの素人でも出来ないことはない。資金を集めて、年月を費やす覚悟とヤル気があれば誰にでも出来る。それこそ、先日、世界一周した人は今は再び南米を走っているが、元々は自転車なんて全くの未経験の人だったという。
南極点だって、本当の本当にヤル気になれば誰でもチャレンジは出来る。
大人ってそういうものだ。時間もお金もある。何よりも自分のことを自分で責任を取る。子どもと大人の違いはそこだろう。だれかに責任を取ってもらうとかってない。だからこそ、出来ることは増える。

でも、出来ることは増えたのに、やれることは随分と減った。
例えば明け方まで納得が行くまで文を書き続けるということ。昔はいくらでもやったけれど、今はやれない。もちろん、出来なくはないはずなのだ。
しなくなったとも言えなくもないが、やれなくなったっていう方が正しい気がする。

さらに歳をとれば家族が出来たりとかってのも出て、またやれなくなることは増えるだろう。
家族が出来るのは素敵なことだけどね。

どうしてこんなところに来ちまったのか。
じゃあ、どこに行けば良かったのか。
そんなにそこは良くないところか。
別に悪いところじゃないさ。
でも、どうしてこんなところに自分はいるのだろう。
そもそもここは一体どこなのだろう。
別にそんなことを知らなくても明日は生きていけるし、きっと知らない方が良いのかもしれないし、知ろうともしないのかもしれないけど。
どこだか、どんな場所だか知らないけど、どうして僕はここにいるんだろう。

昔は自転車で旅に出れば全てが解決したけど、多分、しばらくはそういうことでは何も解決しないんだろうな。

まあ、そんなこんな。


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2018年12月11日

野球の夢。

悪い夢に目を覚ます。
野球の夢など見るのはいつ以来だろう。
なぜか甲子園出場していて、僕は控えの捕手なのだが、突然、代打で出ることになり、そのまま捕手として守備に出ることになった。捕手として出る公式戦としては初試合らしかった。
しかし、プロテクターが見付からない。
「オーケー、オレが少し行って時間を稼ぐよ」
と言って友人が肩慣らしの間だけ代わりに出てくれた。しかし、僕のプロテクターは見つからなかった。

高校生の頃に野球を辞めた。小学校一年生からしていたのだが、高校一年の頃、勉強を理由に辞めた。実際、その頃の僕は医者になりたくて熱心に勉強していた。医者を目指すとなると、野球部の朝練、毎日の午後練をして七時半に帰宅してから3時間程度の勉強は必要だった。そして、また六時過ぎに起きて朝練に行く。12時に寝るとしたら、本当に休む暇なく野球をしているか勉強しているかになる。
これだけ強靭なメンタルで練習しないといけないのに野球部は弱かった。進学校の野球部とはそんなものだ。
一年の夏に辞めた。

一口に言えば、その野球部は練習時間が長過ぎか、或いは学校の出す課題が多過ぎだった。
僕のクラスは三年になると、いつも何人かが勉強のし過ぎか、勉強のプレッシャーでメンタル的な理由で休んでいた。ちょっと病的に勉強を詰め込み過ぎだった。

そう考えると合理的な理由で辞めたと今でも思うし、納得もする。
ただ、現実問題としては、僕は医学部には入れなかったし、大学も卒業しなかった。

夢から覚めた時に、ひどく心が痛んだ。
野球をしていると、ひどく緊張することがあった。チームスポーツに共通のことかもしれないが、プレーが回ってくると緊張する。失敗すると負けてしまう。
でも、試合で活躍したい、良いプレイをしたいからこそ練習もするので、試合でプレーが回ってくるっていうのは本来的にはゴール、目指すべきポイントの一つのはずなのだ。
多分、性格が出るのだろう。先頭打者ってのは気楽だ。みんなの期待がある。ノーアウトからランナーが出ると有利だ。でも、ノーアウトからランナーが出る確率ってそこまで高くはない。打率三割のバッターなら、フォアボールを入れても出塁率五割となればかなりの良いバッターになる。そもそも打率三割ってのはかなり良い。
良くて五割。期待はされるが、出れなくたって、ああ、残念で終わる。
リスクのない活躍のチャンスだ。
対して三番、四番は厄介だ。ランナーがいればホームに返す仕事になる。ツーアウトランナーなしでもホームランが狙えるバッターなら期待は掛かる。特に四番は後がない。三番は後ろに四番がいる。
バッティングはまだ良い。成功率の方が低いという前提だ。
守備はそうはいかない。ヒットの当たりは仕方ないにせよ、普通の打球はアウトにして当たり前なのだ。
そして、バッティングは自分が失敗しても誰かが入れてくれる。即負けにつながるわけじゃない。
しかし、守備は自分が失敗すると点になる。これは負けにつながる。特に外野手はミスが許されない。一発で点につながる。

野球では投手と捕手っていうのはとても特殊で、圧倒的に長時間ボールを持つことになる。
基本的に痛い。
投手は肩が痛くなるし、捕手はキャッチングを失敗すると指が痛い。
どちらかでも悪いと試合は負ける。

まあ、どこの守備位置も緊張感がある。
チームスポーツってそうだ。自分のミスでチームが負ける。
逆はない。自分の活躍だけでチームが勝つってことはないのだ。チームがつながって初めて勝ちがある。

起きた時の不快感はそういう緊張感のせいもあったろう。久々に味わう緊張。
そして辞めてしまったということ。
そのことにいまだに罪悪感を持っている、まさか10年以上たって夢に見るとは。

たらればを話したって仕方はないが、野球を続けていれば僕の人生は違ったんじゃないかと思うことはある。
医者にはなれなかったにせよ、大学は出れたと思うのだ。野球という集団に属して、人からはみ出ることなく生きていけたんじゃないかと。
多分、こうして文は書かなかったろう。
書く時間などなかったろう。
書く時間を取ろうとも思わなかったろう。
でも、多分、それなりの大学に行って、それなりの企業に勤めて、それなりの生活をしていたんじゃないかと思う。

逆に野球をしていたら、あの頃辞めていれば良かったと思っただろうか。辞めていれば医者になれたかもしれないのに、と。
結果論ではあるが、野球を続けていた方が勉強はしたような気がするし、医者にもなれたかもしれないとは思う。

たらればを言っても仕方ないが、結果は今の通りだ。
少なくとも野球を続けていたら今みたいな暮らしは無かったろう、良くも悪くも。

ただ、夢の中でもう少し良いプレーは出来たかもしれない。
あまり意味はないかもしれないが。それでも、僕は夢の中だけでも良いプレーをしたかった。

ふと一度だけ出た高校の公式戦を考えた。一年生大会というやつだ。
一回戦から強い高校とぶつかって負けた。
その時、相手のランナーにやたらと盗塁された。足も速かったし、投手が牽制、クイックモーションがロクに出来なかったせいもある。ただ、その事を考えると、タイムを一度取って、投手や野手に牽制の練習をさせれば良かった気がする。高校野球の弱小チームと強豪チームの差は残酷なまでに厳しい。だからこそ、勝ち負けは仕方ないと思い切って、今後の試合のために思い切って牽制の練習を投手と野手全員に実践の中でさせるべきだったんじゃなかろうか。
そうやって開き直ってしまえば、どこかに勝ちを掴むための糸口が出来たんじゃなかろうか。勝てなくたって投手を実践の中で成長させる何かがあったんじゃなかろうか。
勝ちを諦めるのは良くないとは言えど、試合の中で何かを掴むっていうのは大きい。
捕手っていうのはタイムをかけてそういう指示を出せる。
本来は監督が出すべきなのだろうが、監督が生徒に勝ちを諦めさせるわけにもいかない。

少なくともチームの次の試合のための何かを出来れば、僕は野球を辞めずに最後まで続けられたんじゃなかろうか。

続けたところで何があったというのか。
そもそも、今の暮らしだって気に入っている。
楽しい。
嫌なことも少なくないし、給料も休みも少ないけど、好きな事を仕事にするのは生き甲斐みたいなものを感じる瞬間がある。

それでも、夢の中でもう少し良いプレーが出来たんじゃないだろうか。
少なくともプロテクターを付けて、グラウンドに立って試合に入れたんじゃなかろうか。

ひどく寂しい、悲しい夢だった。
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2018年12月02日

ダメな人間ってのがいるものか考えたりする。

ダメな人間ってのがいるものか考えたりする。
どうも自分にはリーダーシップがないらしく、部下がどんどんと仕事をサボるようになっていく。当人たちはサボっている自覚はないのだろう。
基本的には、「それは私の仕事じゃないですから」「○○さんはしてないのに私だけしないといけないんですか」みたいなフレーズになってしまう。こうなると僕はもう諦めてしまう。
すぐ諦めるのは悪い癖なのだろうが、昔、勉強していた時に分かったことがあるのだが、出来ない人間はどうあっても出来ないのだということだ。別に勉強が出来ないからって駄目ってことはない。
ただ、出来ないものは出来ないのだ。なぜ出来ないってマインドセットが出来ないからだ。

僕は芸能人の顔と名前が全く分からない。目の前に明石家さんまがいても分からない。特に今はテレビ自体見ないので、誰が有名なんだから名前すら分からない。一口に言えば興味がないのと、必要性を感じないからだ。
芸能人の顔と名前は分からなくても今のところ困ってはいない。
興味と必要性を感じるのに出来ないことと言えばジャズギターの演奏だ。これに関しては僕は興味もあるし、必要性も感じている。ジャズが出来ればやはり人生楽しかろう。
なので勉強してみたし練習もしてみたのだが、ジャズギターはさっぱり分からない。
要は出来ないものは出来ないのだ。

恐らくジャズギターを出来るようになるためには、まずバンドを組む必要がある。ジャズじゃなくて普通のバンドでも良い。そして、楽曲をいくつかこなさないといけない。そうして誰かと合わせる、一曲を誰かと演奏しきるっていうやり方を知らないといけないのだろう。恐らくそのためにはコードをつまずかず弾けたり、ちょっとしたソロを取れたりしないといけないのだろう。そこからジャズバンドとかに入って自分に必要なスキルみたいなものを感じて練習していくのだろう。
要は環境が作れないから出来るようにならないのだ。

重要なのは環境を作れる能力があるかどうかだ。

最近は珍しくロードバイクのレースのトレーニングなんかをしている。
これは環境があるのだ。
以前いた店よりもお客さんがレースに興味があり、高額な車体にも興味があるし、早く走れるようになる方法を知りたいと思っている。
こうなると自分もいくらか速く走れた方が良い。最速まで言わずとも、ある程度、少なくとも一般人には程遠いレベル、実業団レーサーにヤバイと思わせられるレベル、自転車屋の店長ってのも大変なのだ。
何にせよ、そういう環境にいると、日々トレーニングをする必要性、興味、そして速くなるための環境みたいなものがある。
次の春くらいまでにワンランク速くなるだろうと思う。
別に速くて偉いわけでも何でもないが、やはり職業上、遅いよりは速い方がいくらか良いことはあるだろう。

小説に関してはどうだろう。
出来ない人間なのだろうか。
小説が書けるか書けないかって、読みたいものを理解する力だと思う。自分はこういうものを読んでみたい。こんな小説があれば良いのに。
自分自身の読みたいものに限らず、多分こういうのを読みたいって感じる人々が世界にいるんじゃないだろうか、っていうところまで拡張出来れば良いのだろう。はたまた、世界にこんな小説があれば良いのにと思う力だろう。
最近の僕にはそういうのがめっきりない。
偶然、当たる面白い読み物、作品というのはあるにしたって、どうも声が聞こえない。人の心が見えない。

昔はもっと人の心が見えた気がする。こういうことをすればどう思われかみたいなことを考えていた気がする。
歳を取ると、特に男の人って横柄な態度を取るようになる。接客業をしているとよく思う。仕事なんかでは謙虚なのかもしれないがプライベートに関しては男の人は歳を取ると横柄になる。特にサラリーマンの人はそうだろう。経営者の人とかって意外とそうでもない。まあ、いついかなる時も会社の看板を背負って生きているわけだ。どこそこの会社の社長が非人道的な振る舞いをした、などとなれば会社の評判が下がるし、それはイコール自分の財産が危うくなることだ。それに経営者とは人を動かしてナンボだから、やはり人に対する接し方みたいなものは洗練されたものがあるのだろう。

はて、ダメな人間。
別に成功者と呼ばれる人が良い人間というわけでもなかろう。それにしたってダメな人間とは何ぞや。
生きてればいろんな人からいろんな評価をもらう。
良い評価ばかりじゃないし、悪い評価ばかりでもなかろう。
悪い評価が多いからダメな人間かと言えばそうでもなかろう。

最近、僕にはエリキムエンダというアフリカ人からお金かしてとよくメールが来る。エリキは非常に良い人だった。なんと親切で素晴らしい人間だろうと思った。アフリカの小さな村のオートバイのメカニックなのだが、当然と言っては失礼だがお金はないだろう。彼はその村で非常に僕に親切にしてくれた。僕は感謝の気持ちに彼に何か礼がしたかったし、その頃、毎日ギブミーマネーと人々に言われていたこともあって、彼に少しチップをあげたいと思ったのだ。しかし、彼は断った。それどころか朝ごはんやジュースなんかをご馳走してくれた。村のジュース屋さんには冷蔵庫によく冷えたマンゴージュースがあった。その辺で拾ったマンゴーをしぼっただけのものだろうが、これがすこぶる美味しかった。アフリカの村ではコーラを買うにしても冷蔵庫がないことも珍しくない。エリキは村を案内してあげようと言い、一周することになった。普通の民家のようなところに入る。土を固めたような壁の立方体の空間の中にプラスチックの椅子が三脚ほど、そして冷蔵庫があった。エリキは女の人を呼び、そして冷蔵庫からマンゴージュースを出してくれたというわけだ。エリキの知人の家なんだか、それとも村のジュース屋さんだったのか。恐らくジュース屋さんなのだろう。エリキの知人、普通の人が家に自前のプライベートな冷蔵庫を持っているとは考えにくい。
エリキに何があったんだか分からないが、僕が日本に帰ってしばらくして、エリキはダルエスサラーム、タンザニア最大の都市に住むようになったらしい。ダルエスサラームはアフリカの中では巨大な都市だ。中心部にはなんのビルだから詳しいことはよく分からないが、ドカンと明らかにアフリカらしくないビルが建っている。先進国のビルと変わりない。そのエリア以外にもビルはあるが、ビルというよりは日本だとボロい団地みたいな建物だ。アフリカらしくない綺麗なビルには国連の何だかが入っているとか何とか言ってた気がする。
それでも、道路の真ん中に謎の穴、僕は初日からその穴に片足落ちて大怪我しかけたりしたのだが、そんなのがあったり、少し離れれば、ああ、アフリカではある。そうは言ってもダルエスサラームは飛び抜けて大都市である。アフリカとは僕ら日本人の想像を越えてアフリカである。

さて、エリキ君は冷蔵庫がないのも当たり前な感じの村、実際、その村に泊まった夜は停電で電気がつかなかったのだが、それがなぜだかダルエスサラームに行った。
かつてはチップどころか朝飯代すら受け取るのを拒否した男がなぜかギブミーマネーになった。プリーズヘルプミー、アイスタートスモールビジネス、アイニードヘルプ。みたいな具合である。ちなみにこれはエリキに限らずアフリカで知り合って連絡先を交換した人からはぽろぽろ来る。基本的にみんなスモールビジネスを始めたいから少しお金支援してと言ってくる。1000ドルからスタートして500ドル、ほんの少しで良いからとお願いしてくる。じゃあ30ドルくらいなら良いよ、で、どうやってお金を送れば良いの?となったところで基本は終わる。ウェスタンユニオンの海外送金を使ってくれと言ってくるがやり方もよく分からないので、分からないと言って終わる。
実際50ドル程度なら支援したって良いと思っている。世話になった。50ドルというと僕ら日本人には、まあ、少ない金額だ。世話になった人が困ってるならあげたって構わないと思う金額だ。
ただ、タンザニアの地方の人にとっては半月から一月の稼ぎに近かったりする。少なくとも50日毎日ビールを一本ずつ飲める。僕ら日本人にはビール一本じゃ物足りないが、彼らの収入だと1日に何本もビールを飲むって簡単じゃないように思う。まあ、人によるのだろう。実際、村でビールをご馳走してもらったこともある。
そう、お金があるときには人にご馳走するのも、お金がないときに人にご馳走してもらうのも彼らには自然なことなのかもしれない。
僕はタンザニアのことを深くは知らない。せいぜい一月くらいだ。それもたいていは自転車こいで、飯食って、ビール飲んで寝てただけだ。ちなみにタンザニアのビールは結構美味しい。アフリカの走った国の中ではタンザニアがビールは一位だった。あとはナミビアか。でも、ナミビアと違ってタンザニアのビールは大きかった。バリディ、サーナと言わないとぬるい常温のビールが出て来る。意外と慣れてくるとそれも結構美味いのだが。
その程度しかタンザニアのことは知らない。でも、ダルエスサラームは好きじゃなかった。
何だかスラムって感じがした。もちろん、タンザニアの中では最も大きくて洗練された都市なのかもしれないが。アフリカの首都はどこもそうだったが、貧富の差みたいなものが明確に見えた。村なんかは貧しいのだが明るい。貧乏は身近なものであり、忌み嫌うものでも不幸なものでもなく、普通のことみたいな。貧しさに親しみみたいなものが感じられた。もちろん、大変なのだろうが、悲壮感みたいなのがなかった。
エリキはなぜダルエスサラームに行ったのだろう。

エリキはお金持ちになろうとしたのかもしれない。
裕福な暮らしを夢見たのかもしれない。
それは責められることではない。

お金が欲しい。
でも、働きたくない。

人間ってそんなもんなんだろうか。

ダメな人間とは何だろうか。

ま、そんなこんな。


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2018年11月14日

致命的に腑抜けたような日々。

あまり日記を書かない日々。
日記とは日記であり、雑記であるべきだ。
自転車に関するコラムなんかはあれはコラムであり、やはりぶつぶつと日々のことを綴るのが日記なのだ。

リトルミスサンシャインなんて映画を観た。
特に山場もなく、ドンデン返しもない平和な映画だ。サザエさんみたいな映画だ。
エルトポなんかも観た。こちらは何ともアートな映画。基本的に絵が美しいし、面白い。フランツカフカの城を読んでいるような感覚のする不思議な映画だ。
エルトポと比べるとリトルミスサンシャインは実に平和でサザエさんで面白みみたいなものってないのだが、ここまでサザエさん、平凡を重ねられると、これはこれで一周して良い映画というか。こういう良い映画、サザエさん的良さの作品があればこそ、エルトポみたいなアート映画みたいなのは引き立つのだ。
偶然ながら良い組み合わせになった。

ーーー

虫歯の親知らずは近所の歯医者がヤブと言っては何だが、散々苦戦されて抜き損ねたのを別の歯医者に行くと1分くらいで簡単に抜いてくれたのだが、抜いた次の日から風邪をひいた。
ヤブとは何ぞ。腕が悪いことなのだろうか。いや、腕が悪いのに無理をするってのがヤブじゃなかろうか。抜けないから別の医者に行ってくれっていうなら、コレはまあヤブとは違うような気がする。
それでも、ヤブなどと言ってはよろしくないのだろう。失敗したにせよ、僕のために一生懸命抜こうとしてくれたわけだから。

少なくとも近所の人々で利用する人もいるからこそ、その歯医者は成り立っている。
利用している人々はヤブとは知らないのか。
はたまた偶然抜けなかっただけで、決してヤブではないのか。
もしくはヤブだろうがそうじゃなかろうが、案外それで成立するものだろうか。
何にせよ老人の歯科医が今日までやってきているわけだから、成立してきたわけだ。

僕の働いてる店も、もしかするとヤブと呼ばれているのかもしれない。
ヤブ。

店の裏に公園があり、僕はよくそこでタバコを吸う。
店の中は何となく空気が吹き溜まっているような感じがして好きじゃない。今の店がどうとかじゃなく、学校にせよ、職場にせよ、長時間いる場所ってなんか空気が淀むような感じがして好きじゃないのだ。
あとは風通しの問題か。
夕方くらいにタバコを吸いにいくと老人が掃き掃除をしている。
ーーどうも、ご苦労さんです。
そんな会話をする。老人は元板前で息子はもう40を過ぎていて、孫もいるそうな。
別段、話題などない。
ただ、私の唯一の気楽な話し相手かもしれない。
毎回話題は変わらない。
お仕事お疲れ様です、寒くなってきましたね、若くていいね、いつも働いててご苦労だねといったところだ。
老人のおかげでその公園はいつも綺麗だ。自転車屋と町工場とラブホテルにアパートに囲まれた狭くも広くもない、遊具はブランコと滑り台があって藤棚がある、ゲートボールをしていることもある、少年にサッカーを教える父親がいることもある、不良がたまっているとかはない。昼には公園沿いの道に車を止めてどこかの営業らしいおじさんがぼんやりと黄昏ていたりする。何のためにあるんだかよく分からない、世界から取り残されたような公園だ。

最近の僕も同じような具合で、特に何か意味があるのかと問われると、まあ、ないでしょうね、と答えるような存在になりつつある。
お酒を飲まなくなったので、少し金銭的にゆとりが出来て株なんかを買い足したりすることもある。
何か致命的に腑抜けたような日々。

何かをするってのが偉いわけでもないのだが。

ま、そんなこんな。
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2018年11月04日

親知らずが悪化する。

親知らず事件が悪化している。
抜歯に失敗したところが明らかに腫れてきている。
ーー大丈夫、虫歯じゃ死なない。
それは分かっているし、大して痛みもないのだが。
果たしてオレの体はどうなってしまうんだ、というのがある。

そもそもに病気をしないので、病院などあまり行かない。
それが今年は春に目の横に粉瘤、デキモノが出来て、それを切除しなくちゃいけなくなったりもした。
どちらも命に全く関わらない、言うなれば軽い病気ではあるが、やはり病気は病気で、病気慣れしていないとそんな小さな病気でもショックを受ける。
当たり前だが、自分も生き物でいずれは全ての歯がボロボロになるだろうし、大きな病もいずれかかるかもしれない。

生きるか死ぬかなど考えていた人間が虫歯ごときで遠い未来の病気にしょんぼりするというのも実に変な話ではあるが。
親知らず同様、我慢すればすぐ抜けるというわけには行かず、ぐりぐりねじねじされながら死ぬってこともあるわけだ。

虫歯の治療を受けていると自転車のパンク修理を連想した。
自転車のパンク修理なんてのは、自転車屋さんとしては簡単なものなので、ほいほいさくさくとやってしまうのだが、医者もそうなのだろうか。
人の命を預かっているとは言えど、自転車も遅いと言えど一応は乗り物で事故になれば人の命に関わる。
極論になるが、歯医者の方は命には関わらない分、自転車のパンク修理の方がよほど慎重にやらねばならない仕事ともいえる。

何にせよやはり仕事とは何事もほいほいさくさくしてはいけないものだなと思う。

ーーー

抜歯の失敗から別の歯医者に変えようかとアレコレ調べたりすると。
まあ、歯医者ってのもいろいろある。
出来る限り無痛治療を努力していますだとか、CTを撮れますだとか。
たしかに命に関わるわけじゃないにせよ、歯医者ってのはやっぱり痛いものらしく、あれこれ工夫している。

ただ、虫歯なんぞ結果としては治るのだから痛いのくらいは子供じゃないんだから我慢しろと言われれば、まあ、それが正論ではある。
それでも、あの手この手で宣伝する。
確かに料金が少々高くとも痛みなく抜いてくれるなら迷わずその歯医者にするのだろう。
以前の僕では考えられないが、今の僕はとにかく痛くなくて早く抜いてくれるところならいくらか高くても構わないと感じる。

歯の痛みってのは実にすごいものだ。
絶対死ぬことはないのに。

ーーー

今度こそ医療保険に入ろうかななどと考えたりする。
でも、何だかそういうのってズレてる気がする。
保身に走ることをズレているとかは思わない。
人生って長い。
そりゃ、若い時の方が濃密ではある。年取ってからの百万円と若い頃の十万円なら若い頃の十万円の方が価値がある。年取ってからお金をかけて良い経験をするのも大事だが、やはり若いうちに経験するっていうのは蓄積になる。蓄積されれば一生を通して使える。老後の世界一周も悪くはないが、やはり若い時に多少無理してでもした方が世界は広がると思う。
そうは言っても人生長い。
ぽっくり明日死んでやると言ったって、現実なかなかそうはならない。

ーーー

虫歯ごときで何を考え込んでるのやら。

ま、そんなこんな。


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2018年11月03日

歯を抜く話。

虫歯の治療をしに行ったところが、親知らずで抜くことになったのだが、ペンチみたいなのでつかんで引っこ抜こうとしたところ歯が砕けてしまって難航することになった。
そこからウンウン唸って戦ったが、どうにも麻酔がうまく効かない。そこまで激痛というほどじゃないが、歯医者特有の刺すような鋭い痛みがちょくちょく走る。
結局、虫歯が奥まで進んでいて、神経が炎症を起こしていて麻酔がかからないということで、炎症を止める抗生物質と痛み止めを出されて、また来週続きをすることになった。

歯医者の痛みとは大したもので、全く命に別状はない。本当に放置し続けると虫歯菌が血液に乗って他の病気になることもありえるらしいが。
基本的には死なない。
そのくせ痛い。
粘膜だから痛覚は少ないというのが理屈の上だが、尖った痛みが頭にキンと抜ける。
昔、ヘソをいじり過ぎて化膿した馬鹿な友人がいたが、最後は腹が痛くなって救急で行ったところ太い管をズドンとヘソに刺されて人生で一番痛かった、形容のしようがない痛みだったという。その痛みに比べると歯の治療の痛みなど大したこともないはずだが、キンと頭に抜ける。
痛みが出た後痛いというより、あの痛みが来ると思うと嫌な痛みだ。

死ぬと痛いんだかどうだかということを考えたりもしたが、歯が砕ける程度で痛いんだから、命が砕けるとなるとさぞ痛いのだろう。

歯が砕けて痛がっていると、女の人が優しくなった。鬱病手前の時期もあるが、波があるので落ち着けば何ということはない。
何ということはないのだから、たまに来る波もさほど悩むこと、生きるだの死ぬだの悩むほどのことはなかろうと思うこともあるが、死ぬまでその波乗りを支えると考えるとやはり気のせいではない気もするが、気のせいと感じる時は気のせいだという気で生きてるのが気楽で良い。

そういうことを考えると自転車の旅は生きる力をくれたと感じる。
自転車の旅なんかもしんどい時はしんどい。まともに向き合うとゲンナリすることもある。
結局進むだけ進んで後はなるようになる、そんな感覚ってのは必要だし、やってる内にそういう感覚は身に付いてくる。

死にたいだの何だのの問題は極論すればそこに辿り着く。
考え詰めてずっと先のことまで心配すると、生きているのが絶望に満ちてくる。年金なんかもらえりゃしないだのなんだの。

はっきり言って、今の若い世代はどう足し算しても年金がもらえるわけがない。逆に年金がもらえるとしたら、どこからその金が湧いてくるんだという話になる。
答えは金融商品の運用で湧いてくる。
株価は不思議なもので、膨らむ。
どこから湧いてくるかと言えば人間の期待から湧いてくる。この企業が伸びるだろうという期待が膨らめばそこに投資する人が増えて株価は伸びる。
これは実にヘンテコなことだ。株なんてのは概念だ。それを買う人がいて、売る人がいて、それを買う人がいての繰り返しで勝手に膨らんでいく。
実際にはモノは何もない。
その企業の業績の良し悪しなんて言ったって、結局それもどこかから資源なりを取ってきたものを加工して売るなりで出て来る。
株の成立は大航海時代にある。
一回の航海に出るのに、お金持ちがスポンサーになってお金を出すと、失敗した時に残念なことになる。
それで複数でスポンサーになる。
成功すると配当がもらえる。失敗すると配当はもらえないどころか、追加の資金提供を迫られることもある。
成功を繰り返すと、そこのスポンサーになりたい人が増えて、スポンサー権を売り買いするようになる。
要は手付かずの財宝を探検に出掛けるという前提があって成立していた。
現代はそういう手付かずの財宝はないので、本来的には株価ってのは成立しないはずだが、手付かずの未知のアイディアなんてのも財宝の一種なので成立してはいる。
ただ、そんな風に株価が膨らんでも、実際はただの概念なのでやはり無理があるのが本来だ。
株価の幻想が膨らみ続ける限りは年金も成立するのだが、やはり株ってのはヘンテコなもののような気がする。
実際に年金は破綻しつつある。
株はまだ破綻していないが。

株価の幻想から連想するのはベーシックインカムだ。
衣食住に必要な最低限のお金はみんなに支給しましょ、ってやつだ。
これもまた実に幻想だ。
要は資本主義社会が進んで、格差問題が広がるので、最低限はみんなに保証しますよってわけだ。一生懸命働いた分は贅沢、嗜好品なんかに使って下さいね、と。
ローマで言うところのパンとサーカスだ。貴族は何もしなくてもパン、食料とサーカス、娯楽だけはあげますよ、と。そうしておくと民衆はほくほくして政治の細かいところを見なくなる。愚民政策だ。
年金なんかも月々いくらか納めてくれれば老後バッチシですから、なんて話だが。どう考えてもおかしい。株にしても、膨らむ一方なので大丈夫だよってのはやっぱりおかしい。
現役世代がリタイア世代を支えるための年金制度なんて言ったりもするが、老人が増え続ければ、支えようがない。
支えられている方の老人は仕事がないからといって公園の掃除や駐輪場の整理なんかして暇を潰している。

弱者をサポートするためのシステムは必要にしたって、明らかな破綻は良くない。

年金制度の問題は老人が偉いっていうことだ。
結局、選挙で力を持つのは老人だ。人脈があり、影響力がある。
仮に選挙権は現役世代のみって変われば、年金制度なんかすぐに変更になるかもしれない。

ある程度の弱肉強食、現実の上での優劣は必要なのだ。
そうしないと、馬鹿馬鹿しくなる。
全員馬鹿になれば万事解決。
全員お金持ちになれば万事解決。
そういうのはやっぱり無理があるのだ。

腕のある大工は食えて、腕の悪い大工は食うに困る。
それじゃ、腕の悪い大工がかわいそう。
そんなことを言ってるとどうにもならないのだ。

なんか話がどんどんそれた。

歯の痛い話だった。
いや、別にそんな話どうでも良いのか。

まあ、そんなこんな。


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2018年10月31日

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鬱病の女の人と仲が良くて二十代は大学を辞めた。
三十代は一緒に暮らす女の人が鬱になって人生辞めることになるんだろうか。

ただ、そもそも二十代に大学を辞めたのは本当に鬱病の女の人のせいだったのだろうか。単に大学を辞めたことを鬱病の女の人のせいにしてるんじゃなかろうか。
数年ばかり一ヶ月おきに死にたいという話をされるなど、案外、世界では普通のことだったのかもしれないし、普通じゃないとしても、問題なく大学を卒業する人もいるだろう。
単に自分が怠惰だっただけ、あるいは自分にも精神疾患があったのかもしれないし、そのことに答えを求めても仕方がない。過ぎてしまったことだ。
しかし、考えると大学を辞めて南米に行き、自転車旅をしてその問題にフタをしたようなところがある。過ぎたことは仕方がないのだと言って。

人生、各自で自分のことは世話を見ないといけない。
それでも、目の前を通り過ぎて精神を崩壊させる人間を見送る、当人で何とかするより他ないとは言えど、濁流の中で本気かどうかは分からないにせよ助けてくれと手を差し出した人間が渦に飲まれて行く、その手を握れば助かったのかもしれないし、やはり助けられなかったのかもしれない、自分は手を握ってダメだったのだろうか、あるいは握ろうとして握らなかったのか、それともそもそもにその人は手など差し出しもしなかったか、濁流になど流されてもいなかったのだろうか。
その後にその人が死んだという噂も聞かなかったが、目付きがおかしくなるほど薬を飲まされて人間は回復するものだろうか。
最後に聞いた話だと、スポーツカーで男の助手席に乗っていたということだが、女の人は濁流の真っ只中にいた頃も一ヶ月死にたいと言って、一ヶ月ばかり連絡がなくなり、そして知らない男に抱かれていた話をして死にたいと言っていた。僕も知っている男もいたし、出会い系サイトで知り合ったという男もいた。女の人は寂しかったのだ。だれかに抱かれている時だけは寂しくないと感じるのだと言った。だが、肌を重ねた男たちは通り過ぎていった。だれも女の人を助けなかった。
そして、僕も通り過ぎていった。良いことだったのか、悪いことだったのか、肌を重ねることはないまま。

肌を重ねることに関して、セックスに狂った女、いや、狂ってはいないのか、一般的には不特定多数の人間とするのは普通なのかもしれない。彼女は医者をしていた。
この女の人は病んでいたんだかどうだかと言えば分からないにせよ、仕事をバリバリしていた。小学校の頃の同級生で、当時は絵に描いたような優等生、机の中のお道具箱の中は見たことはないが、少なくとも我々男子のお道具箱とは真逆の整然としたものだっだに違いないと断言出来るような、まさに学級委員、実際に学級委員だったか記憶に定かでないが、そういう女の子だった。
それが、まあ、やりまくっていると言うのだ。そういうのをオープンにする。
それが言ってるだけで本当かどうか分からなかったが、確かに容姿に関しては大人になって美しくなっていた。色気があった。やりまくろうと思えばいくらでも相手には困らないような綺麗な女になっていた。
大人になって東京で暮らしている時、ふとした事からその女の家の引越しを手伝うことになった。帰る頃には雪が積もって帰れなくなり泊まらせてもらうことになった。
「いや、君とは友達でいたいから」
「うん、やった相手はもうただのヤリ友としか見えない。クズにしか見えない。別にクズが悪いわけじゃないけど。それで良かったら」
結局しなかった。
その後、多少のやり取りはあったものの、引っ越して遠くなり、それきりになった。

肌を重ねないのが良かったのか悪かったのかは分からない。
僕の勝手な都合の良い思い込みとしては、鬱病だった女の人は僕に対していくらか思うところあったのだろう。
女医の言葉の真偽は分からないが、友達でいたい異性、友人として価値ある人間とはセックスはしないものなのかもしれない。
都合の悪い事実は、単に僕に抱かれるだけの男としての魅力がなかったのかもしれない。

アフリカに行ったことの意味を考えることがある。いや、何度も考えた。意味がなかったとは思わない。アフリカは明確に僕の何かを変えたと思う。根本的に僕の中での世界の存在というのを変えてしまった。貧しさとは栄養失調でお腹のふくらんだ子どもたちや、病気というわけじゃないことを知った。よく写真に出てくるそういった貧困もまた貧困の一つだろう。しかし、明確に貧乏なのだが飢餓に苦しんでいるわけじゃない人がいた。彼らは貧乏で大変そうだったが、明るかった。病気もいっぱいある。安全な水もない。仕事もない。それでも、彼らはみんな明るかった。少なくとも未来に絶望しているようには見えなかった。彼ら自身分かっているだろうが、彼らが裕福になって、お金持ちとは言わずとも安全な水、電気、ガスなどのインフラが手に入る未来は遥かに遠い。子供のうちにかなりの確率で病気にかかって死んでしまうリスクのない暮らし。遥かに遠い。子どもはまだしも、大人にとっては残りの自分の人生と、そういった暮らし、貧しさのなくなる日々までの遠さ、どちらが長いかなど明確に分かってしまう。
それでも、未来に絶望しない。あるいは絶望していながら明るいのか。
確かに貧しさのなくなる未来は来ないかもしれない。ただ、そういうのとは関係なく生きる喜びがある。マンゴーの木を揺らせばマンゴーの実が降ってくる、それを食べれば生きていける、それが美味しい、それは幸福なこと。そういうことなのだろうか。好きな女と結婚し、子どもを産むことが幸福で、その子どもが病気で死んでしまえば悲しいことで、かと言って、その前の幸福は消えるわけではない。そういうことなのだろうか。

何にせよ、アフリカは僕には最初は未知のもので、終わった後も理解は出来ないものだった。
知らない世界が存在していたということだけ分かった。

日本に帰ってくると実に様々なことが馬鹿馬鹿しく見えた。
いろんなことがお利口で、みんなお金をたくさん持っていて、何かにくたびれていて、何かに悩んでいた。少なくとも明るくなかった。
とても奇妙なことのように感じた。
しかし、その違和感も時間が経つと薄れていき、気付けば自分もお利口にお金を持って、くたびれて、暗くなっていた。

一緒に暮らしている女の人は暮らし始めは良かったが、仕事の夜勤で体を壊して仕事をやめ、土地に馴染めず、知り合いも出来ず、一人で家で留守番する日々が続き、また働こうとしたがやはりまた倒れ、一人で家で留守番することでまた心をいためた。そうやって体も心もいためていった。一人で外出するのが恐ろしいと言うようになった。
僕もまたいためていた。
仕事は上手くいかなかった。将来に見通しは立たない。それでも、食うには特には困らない。一緒に暮らす女の人と仲良く、元気に生きていられれば幸せだと思ったが、女の人はどんどんと精神を悪化させていた。

女の人はじきに出て行くだろう。
僕にはもう支えられないだろう。虚しいだけだ。僕が何をしても良くならない。
それでも、出ていけば、多分、女の人は元気になるだろう。きっと土地やタイミングが合わなかったのだ。一人で生きて行くとなれば自由にまた元気で素敵な女の人に戻るだろう。
病気で元気のない姿は悲しい。元気になるなら出掛けるべきだろう。

かつての鬱病の女の人と違うのはそこだろう。昔の人は濁流に飲まれていった。今の人はきっと濁流から解き放たれる。
無責任かもしれないが、そういうのってあると思う。無責任男とでも世間では言うのかもしれない。
だけど、一人で生きている方が向いている人だっている。少なくとも昔と違って今回はきっと僕がいなくなれば上手く行く。女の人は今回も通り過ぎていくけど、濁流からはちゃんと出られる。
女の人にはいろいろ良くしてもらった。楽しかった。素敵な日々だった。でも、自分は何もしてあげられなかった。自分は女の人の人生の時間を無駄に使わせてしまったのかもしれない。申し訳ないと思う。

さて、僕はどうしようか。
何だか僕はとてつもなく疲れてしまった。
女の人を支えるというやるべき事もなくなる。
何かやりたいことがあるわけでもない。
昔、南米に行った時とは違う。あの頃も絶望してはいたが、何かすれば何か素晴らしいところに辿り着けるかもしれないという期待があった。
今は違う。
何かをしたところで、何かにたどり着いたところで、別に僕はもうそこまでたどり着きたいと感じない。期待がない。
今でも自転車に乗ることはある。ただ、それはどこかにたどり着きたいというより、生きていくための心の支えとして乗っているだけだ。自転車に乗っていれば楽しい。世界が美しい。それに励まされる。それで何とか生きてきた。でも、どこか素晴らしい場所にたどり着ける予感はない。

大学を辞めて南米に出発して、今やっと戻ってきたのかもしれない。
世界にはとっても素晴らしいものがたくさんあったよ、美しかった。でも、やっぱり君の生きる居場所はなかったよ。ちゃんと世界のいたるところ、本当に全力で探してきたんだけどね。未来の僕が言ってるんだから間違いない。でも、せっかくだから一度は君も見てきてから死んだ方が良い。別に大学を辞めたって世界の美しさはいくらでも見られる感じられる。一度は経験しといた方が良いさ。

さて、今の僕の方はどうするのか。
もう頑張りたくない。疲れた。
死ぬってのもすごく痛いらしいから嫌だ。痛いのは嫌だ。痛くないなら良いのかって言うと、やはり寂しい気もする。
だれか助けてくれと手を差し出すか。
でも、僕は昔も今も手を差し出す人の手を取らなかった。取れなかったのか取ったけど上手くいかなかったかは分からないにせよ、結果としては目の前を通り過ぎて行くのを見過ごした。最終的に自分のことは自分でするしかないと言った。
寂しい気はするけれど、やはり去るべきだろう。僕は僕を去るべきだろう。痛いのも悲しいのも嫌だけど。

そうは言っても痛いのは嫌だから虫歯の治療をしに行く。
ふと、明日の朝に女の人が元気になって、病気も治っているかもしれない。そうなれば、万事解決する。
そのことを願って虫歯を治す。
生きるか死ぬかどうするか考えてる人間が虫歯を治すなんてヘンテコな気もするけれど。
やっぱり生きていたいのだ。
別にお金がなくても元気で明るければ人間生きていけるけど、元気もなくなり暗くなれば人間生きていけない。
虫歯が治った頃に女の人が出て行くことになれば、何だか勿体無い気もするが。
まあ、その時は自分も世界の虫歯みたいなものだったんだろう、なんて納得するのかもしれない。抜いて捨てるか、削って金ピカの被せ物付けるか。何か僕にも良い金ピカの被せ物はないんだろうか。そんなもの被ってまで生きてどうするんだという気もするが。
生きてさえいれば何とかなるかもしれない。もちろん何ともならないかもしれないが。
生きてさえいれば、ふと次の生きる目標が浮かんでくるかもしれない。それはとても下らないものかもしれない。自転車で旅するなんてのも別に意味があるかどうかと言えば微妙だが、少なくとも僕はその目標でここまで生きてきた。どんなに下らないことだろうが、生きていける。生きてさえいれば何とかなる。先延ばしかもしれないが、それでも何とかなるかもしれない。何ともならないかもしれない。

問題は疲れ果ててしまっていることだろう。
もしかすると、すぐに何かが現れるかもしれないけれど、そのすぐさえ渡りきれるだけの力が残っているんだろうか。
疲れたらごはんを食べて、眠れば良いはずなのだが、どうにも疲れ果ててしまっている。ゆっくりで良いからペダルを踏めば少しずつでもどこかに向かって前に進めるはずなのに、疲れ果てているのだ。
どうしてこんなに疲れてしまっているのだろう。

でも、多分、今回もきっと何とかなるんじゃないだろうか。これまでもそうだったから。死ぬなんて大変だし、何とか生きていくんだろう。


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2018年09月21日

音楽なんかしたいのかもしれない。

最近は何について書こうか、なんて思う。
日記を書いていないようで実は書いてはいる。ただ、最後まで書き切れない。
ーー何だか違うな、そういうことを書きたいわけじゃないんだ。
いつも途中でそう感じてしまう。

日記ってのは難しい。
仕事で店のブログなんかは書いている。これは簡単だ。ブログを書く以外にも自転車を組み立てたり、掃除したり、商品のディスプレイをいじったり、セールの企画を考えたり、ポップを書いたり、接客していたり、イベントを考えてみたり、まあ、あれこれやっているので、なかなか毎日は書けないが、自転車屋のブログっていうのは比較的簡単だ。
商品の話をすれば良い。或いは自転車のコラムを少し書けば良い。
書くべきことが決まっている。
商品の話は嘘は書かずに、誇張せずに、その商品の良いところと、こんな感じで使うと楽しいかもしれないなんてこと、こんな人には良いかもしれないってこと、値段を払うだけの価値があるかどうか、まあ、正直、これはちょっと高いですね、でも良いアイテムだよ、とかね。
お店にはいくらでもアイテムはあるし、それぞれのアイテムごとに語るべきことはいくらでもある。

ーーー

昔、TSUTAYAでジャズのCDを借りて、それをコピーして、ルーズリーフにCDを入れる布を貼り付けて、ジャケットをコピーして貼って、自分で勝手にライナーズノートを書くって遊びをしていたことがある。
まあ、あまり長続きはしなかった。何だかんだ10枚くらいしかやらなかったと思う。
理由は、ひとつに単純に飽き性だということ。
もうひとつにCDをレンタル出来る金があるようでなかったようで、実際にはあるんだけど、何だかいつも貧乏していたこと。
そして、ブログでやれば良いんじゃなかろうかと思ってみたりして、結局、デジタルではしなかったこと。

ノリでCDケースとジャケットを貼る。その前にジャケットのコピーを取りにコンビニに行く。
今になって考えると、面倒臭がりのくせに、多分こういう面倒な手数が楽しかったのだろう。

ーーー

小説については僕はレビューを書くのが下手だ。
その作品について話すってのが下手くそで、例えば安部公房の壁について話そうと思うと、安部公房の他の作品との対比や、シュルレアリスムなのかどうかや、カフカのシュルレアリスムと比較するとどうなのか、そんなわけの分からない方に話が広がる。
まあ、安部公房については砂の女、壁、箱男の三つ読んでおけば良い。他の作品もたいていどれを読んでも安部公房だなという感じで良いのだが。砂の女は完成度が高い。人間の心に突き刺さる。箱男はこれぞ安部公房だ。最高だ。壁は安部公房をバラせばこういうことなんだな、安部公房の作品の根底みたいな感じがする。

ジャズのCDについてもいまいち上手くない。
マイルスデイビスの枯葉の入ったCDに関してはそれを書いた夜のこと、とある秋の夜長の日記みたいな内容だった気がする。ちなみにアルバム名はサムシンエルス。このアルバムは実に豪華なメンバーだ。マイルスデイビスとコルトレーンとビルエバンスと誰だっけ忘れた。まあ、良いや。
はっきり言って、僕は一曲まるっと口でパクパク歌える曲って、このサムシンエルスの中の枯葉と、ビルエバンスのポートレイトインジャズというアルバムの中の枯葉くらいだ。あとはビルエバンスのサムデイマイプリンスウィルカムがほんのり覚えている。昔はもう少し歌えて、夜に一人で親の車を運転しながら歌っていた。
最近はじっくりジャズを聴かないので、歌える曲もほとんどない。
それにしてもサムシンエルスの枯葉とポートレイトインジャズの枯葉については今もちゃんと頭の中で再生出来るんだから、本当によく聴いた。

ーーー

それにしても、改めてジャズという音楽はよく出来ていると思う。
今でもたまにクラシックギターを弾くのだが、昔から弾いている曲数は増えていない。
弾こうと思うと、僕の場合、楽譜がきちんと読めないので、まずとにかく何回も聴く。南米の曲が好きなのだが、リズムが変則的なので、とにかく何度も曲を聴く。
ビラロボスのショーロスという曲が一番好きなのだが、これは本当に独特なリズム感で、多分楽譜のまま弾いても上手く響かない。

クラシックギターという楽器はソロで和音とメロディーが弾ける。
ソロで和音が鳴らせる楽器自体少ないし、和音と同時にメロディーが弾けるとなるといよいよ少ない。ベースとメロディーくらいまでならまだしも三和音以上とメロディーを鳴らせる楽器っていうのは、本当にピアノとギター、あとは鉄琴木琴くらいだろうか。ピアノ、鉄琴、木琴は似ている。ギターは非常にヘンテコだ。右手と左手を使わないと音が鳴らせない。サックスなんかは右手一本でもある程度の音は鳴る。ギターはそうはいかない。左手と右手を同時に動かさないといけない。それなのに、和音が鳴らせる。とてもヘンテコな楽器だ。

クラシックギター、独奏楽器では適当にリズムを揺らすとただの下手くそなのだが、芯を持ってリズムを揺らすのは、これは味があるといえる。
ジャズっていうのはリズムが変則的なようだが、ドラムがいてリズム、テンポ自体はキープされている。
独奏というのはその辺、割と自由だ。

まあ、そんなわけで一曲弾こうと思うと結構聴く。いろんな人のいろんな弾き方をYouTubeで探す。プロからアマチュア、いろんな弾き方を探す。

一人でクラシックギターを弾く時の目的は曲を完成させることではない。人前でノーミスで弾けるようになるための練習ではない。
いかに心に響かせるか、だ。
他人に聴いてもらって、上手だねと誉められたいってのもゼロとは言わないにせよ、多分、僕が誰かの前で弾くことって死ぬまでなかろうと思う。

どちらかといえば、ワンフレーズで良いから気持ち良く響いてくれるように弾きたいだけなのだ。

ーーー

それで譜面を覚えた状態で何度も聴くのだが。
それでも、マイルスやビルエバンスの枯葉みたいに今でも頭の中で再生出来る曲って意外とないのだ。
福田進一氏のシャコンヌに関してはいくらか再生出来る。
本当に音楽が好きな人からはシャコンヌはクラシックギターで弾く必要もないし、バイオリンで弾いているCDの方がよほど聴く価値があると言われたりもするが、なぜか福田進一氏のシャコンヌはよく聴いたのか、よく耳に残っている。

ーーー

ジャズってのは不思議なことに歌える音楽だ。
歌の入っていない曲の方が多いが、しかし、それを鼻歌で歌うと気持ち良い。
クラシックギター曲ってのは口では歌えない。やはりギターで響かせる以外に方法がない。

その点、ジャズってのは実によく出来ている。

あとは、良いオーディオで何回も聞いたからってのもあるかもしれない。
ジャズ喫茶によく行った。
ライブじゃなく、レコードをかけてくれる店だ。CDでかけることも多かったけど。
ジャズ喫茶のおっさんってのは、まあ、マニアだ。ジャズマニア、あるいはオーディオオタク。
オーディオなんてそんなに大して変わらないと思う人もいるかもしれないが、全く違うのだ。
心の底を震わせるような音を出すオーディオってのは存在する。

改めて思えば、昔行っていた店のマスターたちは実に素晴らしい音を作り上げていたなと思う。

ーーー

音楽を聴かなくなったのは、そういうオーディオを聴けなくなったからってのは大きいだろう。

音楽を聴くのが好きな人は分かれる。
演奏する人に多いのは、曲を聴く人だ。
それに対して、僕のような音楽に詳しくない人間は音自体を聴く。気持ち良く体の中に響く音かどうか。
もちろん、最終的にはオーディオ機器の良し悪しよりも、演奏の良し悪し、曲の良し悪しにはなってくる。
ただ、第一関門として、音の良し悪しってのがあるのだ。体の中に響いてくれるかどうか。

ーーー

ただ、音の良し悪しという意味では、昔ギターを大学で弾いていた頃の先輩の音が今でも頭に残っている。
あれはひどく感動した。
今でもどうしてあんな音が出せるのか不思議で仕方ない。そこらのプロよりも遥かに綺麗な音を出していたように思うが、それは思い出を美化し過ぎなのかもしれない。

ーーー

弾くんだか聴くんだか、なんでも良いのだが、音楽なんかしたいのかもしれない。ひさびさに音楽に身を委ねてみたいのかもしれない。

ま、そんなこんな。
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2018年09月16日

ーー書き続ければ良かったのに。僕の知り合いで、細々書いてて、この前当たってドラマになるとかで何千万だか入るって言ってたやつもいるよ…

ーー書き続ければ良かったのに。僕の知り合いで、細々書いてて、この前当たってドラマになるとかで何千万だか入るって言ってたやつもいるよ。
東京から来た陶芸家のオヤジが語る。
ーー何ででしょうね、まあ、書かなくなったんですよ。書けなくなったのかもしれないし。
一発当てるために書く、そんなことを随分前から思わなくなっている自分に気付く。書きたくなれば書く。書くべきものがあれば書く。良いものが書けたと思えば文学賞なんかにも送ってみたって良いが、文学賞云々より前に書ける原稿がない。

昔は文学賞を取って、城崎温泉に別荘を持って愛人を囲うのが夢だった。現実には文学賞を取ったとしてもそんなことが出来るわけでもないのだが。
それでも、昔は小説家はかっこいいと信じていた。今も小説家はかっこいいと思う。やはり文化人、それで飯を食えるほどの文化人というものには憧れはある。ただ、かつてのように盲目に良い小説が書ければ、いくらか金が入って、女にモテるとも思わなくなった。

二十代を酒に金を溶かすような日々を過ごしたせいだか、酒を飲みに行かなくなった最近は金が欲しいともさほど思わなくなった。
大した貯蓄はなくとも、月末に給料日を指折り数えるようなことはなくなった。

時々、飲みに出掛けてばかりいた日々を懐かしむ。
三年と経たずに職を変え、住居を変え、旧知の友に会うのは数年に一度となり。そういったライフスタイルの中では酒こそが唯一の友だった。そうは言ってもあまり飲めない体質なので、大した量を飲まずとも泥酔する。そのおかげか健康も崩さずやっていた。泥酔しては文を書こうとした。
そんな暮らしなので金もなければ異性と付き合うようなこともなく。デートする金がなかった。

気楽で楽しい日々、それを続けていればもしかすると小説家になったのかもしれない。
ほぼ全ての金を酒に溶かして、小説と音楽にふけり、なぜか自転車に乗り続けた。

アフリカを走って、何かが途切れた。
そんな気がしている。
僕は何かに追われていたんじゃなかろうか。

何千万だかの印税収入。
昔なら憧れただろうか。

福生の小説家の先生は今も変わらず飲んでるだろう。
前会った時にはFXで勝つ方法を見つけたと言っていた。
実際、小説家で小説だけで飯が食える人は少ない。あれこれ文の仕事や副収入がないと難しい。
何せ日本はサラリーがないってことにひどく厳しい。収入が低くても結構な金額の税金やら保険やらを徴収される。異国を旅していて困るのがこれだ。異国を旅していて収入ゼロの状態でも毎月保険料や年金なんかが積み重なる。無い袖振れないと言っても、実際には息をしてる限りは明日の食費、家賃くらいは持っているので、そこから出すことになるが、そうなると飯が食えない。これが不思議とどこかから出てくる。親から借りることもあれば、本当に飯を食わなかったり、住み込みで働いて家賃をなくしたり。
毎月サラリーがもらえて、保険や年金の心配をしなくて良いのは随分と気分が楽だ。
その代わりに時間と自由を切り売りしているというだけなのだが。

時間と自由を切り売りして、酒を飲みにいくのをほとんど辞めてしまって、小説を書かなくなった僕と、六十を過ぎて独り身で日々酒を飲んで24時間の区切りなく生きる小説家の先生。
やはり小説家は偉いのだ。
デカダン、頽廃主義とかではなく。
海外ではどうかは分からないが、日本でまともなサラリーマンやるってのは時間と自由を切り売りして税金、年金の心配をしなくて良くなることである。
やっぱりそうなってしまうと、小説家なんてのは難しいと思うのだ。
時間と自由を切り売りして、安心を手に入れるなんて、そりゃ、動物で言うところのサバンナを捨てて動物園に飼われるような話だ。餌も天敵も心配なく、獣医もいる。いかに動物園のオリの中で一番強くなったって、野生に投げ出されたらひとたまりもない。
自分の命を自分でつなぐってのは、やはり生き物としてのベースだろう。
動物園で長生きをしたって、そりゃ、やはり違うんだろう。
それこそ、今、久々に福生に飲みに出てみろ、一晩飲むだけでいっぱいいっぱいさ。
9時過ぎから飲み始めて12時くらいには小説家の先生に捕まって、朝の5時まで転々とチビチビと焼酎の茶割やビールなんかを飲んで、一眠りして10時には仕事に行く。毎日とは言わずとも5回に一回くらいはそうなる。週に2,3日飲んでりゃ、月に2回はそんなことがある。そんなのをスタンダードとして暮らしてるやつと一晩だけにしたって飲めば、そりゃ追い付けない。
酒を飲むのが偉いわけじゃないが、自分の意志で飲みたい時に飲みたいだけ飲んで、話したいだけ話して。
少なくとも自分の時間と自由を、自分の手に握っている人間ってのはやはり偉い。
世間がどうこうじゃなく、飲みたいから飲む。それでいて何とかして今日も生きている。
そういうのって、やっぱり偉いのだ。
偉いなんて言うと上から目線だが、それでもやっぱり人間として偉いっていうのは何なのかと問われれば、何千万円だか原稿料でもらうとか、安定したサラリーがあるとかじゃなく、自分で自分の時間と自由を手にして生きてるってことなのだ。

金になるから何たらをする。
利益になるからアレコレをする。
そりゃ、そういうのはいくらかは必要だろう。税金も年金も保険も払わなけりゃいけない。

ただ、税金も年金も保険ってのは日本の欠点だろうとは思う。
もちろん、税金っていくらかは必要だろうが、毎年、来年の予算確保のために大して荒れていない道路の工事に使ったりするような具合だから、やはり多過ぎるだろう。
年金と保険は任意で良かろう。税金からいくらか医療費を賄うのは良いだろうが。

息をするだけで消える金が高過ぎるのだ。
家賃も食料品の値段も軒並み高い。
給料も高いが。

異国で物価の違いを感じる時にふと思うのが、給料が良くなっても支出も多くなるんだから、意味がないのではなかろうかと思う。
これは国に限らず個人の生活についてもそうで、収入が増えれば支出も増える。

ケビンはニヒリストといえばニヒリストなのかもしれない。
賢ければ賢いほど生きにくくなる人間というのが世の中にはいる。
ケビンの言うことには真理がある。
時間が無限の人間。
現実には全てのものが有限なのだが、無限だと思っている、あるいはそう思っていなくてもそういう行動をする人間が世の中にはいる。
ケビンの定義によれば馬鹿かどうかというのは有限性の問題なのだ。
何事も限られていると言うことを理解して行動している人間か、そうではないか。

サラリーマンが良いか悪いかは分からない。
ただ、そんな具合でオレは良いのだろうか、と思う。
そりゃ、一口に言えば歳食ってしまったんだよ、とも言えるのかもしれない。歳食って保身に走った。

昔いろいろなことを教えてもらったフリーペーパーの編集長さんがいるのだが、彼は人生は有限だということをよく理解していたのだろうなと思う。
今でこそフリーペーパーって普通になったけど、当時はすごかった。ウィンドウズじゃレイアウトを組むにもいまいちで、マックであれこれいじって校正して、自分が書くのもあるが、取材から連載執筆の依頼、配布まで一人でやっていた。
ブログでも金がもらえる今の時代では何ということはないが、当時、ゼロ円で雑誌を配布して広告収入で飯を食うってのを地でやるって相当なことだったと思う。
その人にはそれなりの尊敬が集まり、しかし人々は離れ、変人扱いされ、病気になって離婚して死にかけて、最近、死ぬ間際の最期の頑張りということなのか再びフリーペーパーに取り掛かっている。

成功者、失敗者という区別は変だと思うけれど、小説家の先生やフリーペーパーの編集長氏はちょうど僕の親と同じくらいの年齢で、うちの親は、まあ、平和に老後を迎えて、最近登山やロードバイクなどの趣味を始めたりしている一方で、彼らはまだ苦悩している、なにかと闘っている。
きっと、世界の大半は新しい小説もフリーペーパーの新刊も待ってはいない。
刊行されたからと言って誰か喜ぶだろうか。
何人かは喜ぶだろう。
残酷な話だけれど、その小説家の先生のファンと言えば僕を含めたごく少ない人しかいないのかもしれないし、フリーペーパーが再び復活する話を聞いて嬉しく思った人は本当に少ないのかもしれない。
そう考えると何とも悲しくなってくる。
別に僕には関係ないといえば関係ないのかもしれない。でも、あの人たちの書くものがそうやって世界の片隅で無意味なもののように埋もれて行くのを想像するとひどく悲しいような気持ちがするのだ。人生の大半を文に捧げた人の最後は悲しい。
ある意味では文を仕事にできず、文を書くのをいつしかやめるっていうのは幸せなことのようにも思う。
文を書くってのはシビアだ。簡単なことじゃないし、経済的にも困る。その上、評価はシビアだ。映画や写真のように気楽に何となく眺めてくれて、縁あってファンになってくれるっていうのはない。文を読むのは疲れる。

最近の僕は子どものようなことを考える。
つまり、かっこいい大人が現れて欲しいのだ。
子どもだった僕の前に現れて、ぷかぷかタバコを吸って、フリーペーパーの編集長をしている。
そのフリーペーパーの編集長と来たら、僕らにジョイフルをおごらせるのだ。
「すみません、財布持ってくるの忘れました!」
なんて言って。
これは相当に面白い。
本当にお金がなかったのかもしれない。それでも、普通に考えて大人が人と会う約束をしていて財布を忘れるわけがない。確信犯だろう。しかし、確信犯と言っても、本当に財布を持ってこないってのは相当に勇気がいる。自分の子どもと同じくらいの人間にジョイフル、ファミレスの中でも一番安い方の飯をおごってもらうのだから。実はカバンの中に入ってるのを嘘を付いているというわけもなかろう。いくらなんでも五百円の食事くらいその気になれば出せないことはなかろう。
多分、編集長氏はこれは面白いと思ったからこそやったのだろう。
実際、僕らは編集長氏と別れた後に、
「ごめん、財布忘れました!」
というフレーズを繰り返し真似して、笑った。
このギャグは本当にハイセンスだったと思う。本当にお金がなかったのかもしれないが、本当にお金がなかったら多分五百円の飯じゃなくてもう少し何かするんじゃないかなと思うし、あるいは本当にお金がなくなると人間ジョイフルで財布忘れたと言うのだろうか。
今になっても考えるほどに深みのあるユーモアだったと思うのだ。

子どものようなことを考える僕は、そんな素敵な大人が現れてくれないかなと思うのだ。
素直に将来について相談したくなるような。
そして、子どもの僕にかっこつけて振舞ってくれるような。

僕にとっての大人は次第にもう定年退職くらいの年齢になって、深みこそあれど、なかなかカッコも付けてくれないし、僕を子ども扱いして何かを教えるってのも難しくなってしまった。
僕も、大人たちも歳を取ってしまった。

大人も友人も去った僕は、僕一人で何かを考えて決めて生きねばならない。
歳をとってしまった。時間は有限なのだ。

そんなこんな。


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2018年08月27日

意識を高く持つ問題など考える。

意識を高く持つ問題など考える。

基本的には人間、意識を高く持つ方が生きやすいとかなんとかだが、危険といえば危険なのだ。

まず、そもそもに意識が高いだの低いだのって何なのか。
インターネットによると、
「意識高い系(いしきたかいけい)とは、自分を過剰に演出する(言い換えれば、大言壮語を吐く)が中身が伴っていない若者、前向きすぎて空回りしている若者、インターネットにおいて自分の経歴・人脈を演出し自己アピールを絶やさない人などを意味する俗称である。 」
とのことである。

また難しいのが系と付いているところだ。
系っていうのは、実際にはそうではないから系なのだ。
意識が高いというのは、目標があったり、向上や成長を目指しているといったところでたる。
意識高い系は、それみたいなものというところである。

ーーー

ただ、言葉とは俗世に引っ張られるものだ。
ら抜き言葉も俗世に引っ張られて、間違った日本語ではないということになりつつある。
意識が高いというのも、意識高い系に引っ張られる傾向はある。

今の時代の意識が高いってのは、一口に言えば「お金をたくさん稼ぐのに適した精神」とでも言うのが良かろう。
独立起業、一流企業、株などの資金運用、こういったところが意識が高いとかそんなものだろう。
それを地でやっている人間は意識が高い。
それに憧れて、実際はそうでもないのに、そんな気分にひたっているのを意識高い系。

ーーー

はて、生きていると仕事とはしんどいものだ。
実にしんどい。
最近は肺に穴が空いたみたいに胸に痛みのある時期も続いたりもした。
まあ、今は治ったが。

そういう仕事がしんどい時に意識を高く持つと楽なのだ。

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実際のところ、僕は仮に月に1,000時間働いたとしても、給料は一円も変わらない。
実際、僕一人で何百万稼ごうが給料は全く変わらない。

こういう時に意識が低いと、「どうせ給料変わらないから」となる。
意識が高いと、「会社の利益が増えて安定したり、店の評判が上がれば、目先の給料は別として、自分の人生の質が上がる」となる。

この両者で楽なのは意識を高く持つ方だ。

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じゃあ、楽になるから意識は高く持つべきなのか、って話になると、これは定額働かせ放題になる。
Amazonでも何でも定額なんたら放題だが、日本は基本的には定額働かせ放題に企業も国もしたい。
文句を言わずに、高いモチベーションで働き続けてくれて、国の財政を支えてくれる人材を求めている。

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意識を高く持つと、働いていて、気持ちは楽ではある。
オレの頑張り、頑張ってるオレ、人生は努力と忍耐である、貯蓄、尊敬、地位、名誉、金。

でも、現実には違うと思う。
意識が高くなくてものんびりと日々を生きていて、約束などせずともふらりと茶を飲みに遊べてリラックスして話をできる友人がいる方がよほど気持ちは楽だし、豊かだと思う。
意識を高く持って、
「頑張ってるオレは人間として正しい、素晴らしい!」
っていうのは、やはりかなり無理がある。
正しい人間とは自分のことを正しいなどと感じない。普通であると感じると思うのだ。

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まあ、それでも働かないといけない。
僕らは今の日本で働かないといけない。
金も稼がないといけない。
そうなると、意識は高く持つ方が気分は楽なのだ。

上手く生きないといけない。
ただ、本当のところはどうなのか。

ごまかして生きることも必要だ。
馬鹿正直は馬鹿を見る。
意識を高く持たせる。

何だかヘンテコな世の中だ。
無理をした方が楽。無理をするのを前提に社会での正しさがある。
意識などは自然と高く持つか、そういうのには興味がないと生きるかなんて自由のはずなのだが。

ま、そんなこんな。


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posted by ちょろり at 22:44| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする