2018年02月23日

正しいことが正しい状態であるように。

仕事に関して運が良いのやら悪いのやら。
今回の職場も自転車屋さんのはずなのだが、同じ店で自転車を一緒に走りに行ける仲間がいない。
仕事に関しても何とも厄介なことが多い。
もちろん、給料は良くない。

給料の良い自転車屋さんってのは、独立して自営業でやってるかメーカー勤務以外にこの世には存在しないのだ。
独立して自営業でやっていても、在庫リスクなんかの割には大して儲からない。普通のちょっと良いサラリーマンよりも儲からないくらいか。サラリーマンしている方がリスクもない。
まあ、よほど上手くやるとさすがにサラリーマンよりは儲かるのだが、将来の保障なんかはない。

まあ、それでも、好きなことを仕事にするって素晴らしいことなのだ。

ーーー

正しいことが正しい状態にあるって大事だなって最近思う。

どうしても生きてりゃあれこれ都合や事情があって、正しいことが正しくなくなることってある。はたまた、正しくないことが正しいってこと。

例えば、信号は守らないといけないってこと。現実問題、信号無視って田舎に行くほどする。信号が少なくなるし、車も少なくなる。信号のない場所を横断したりしやすくなる。
それでも、やっぱり正しいのは信号を守らないといけないってのが正しいってのがあるからこそ、道路の平和は保たれている。

これがアフリカなんかに行くと、信号なんてのは目安なのだ。
そもそも信号自体滅多にないのだが、信号の色なんかは目安であって、どんどんみんな自由に走っている。
こうなってしまうと、道路の平和なんてない。

どんな場合にも事情や都合ってある。
現実には正しくないことをやってしまわざるを得ないこともある。ある程度、仕方ないってのもある。
それでも、やはり正しいことが正しいってのがなくなっちゃうとカオスになってしまう。

右が右で、左は左。北は北で、南は南。
当たり前と言えば当たり前なんだけど。
それがなくなっちゃうと、地図一つ書けないし、行ったことのない場所には誰かに説明してもらってもたどり着けなくなる。右が本当に右か分からないって世界じゃ、どこにもたどり着けない。

なにかを五分後にすると決めれば五分後にしないといけない。1分遅れるのもいけない。
仮に出来なかったとしたら、出来なかったことを良いやとしてしまうと危ない。
すると決めたことについては、してもしなくても良いし、出来ても出来なくても良いじゃいけない。
出来なかったのはなぜか、不可能なことだったとしたら、なぜそんなことをしようと決めてしまったのか。
次からそういうことが起きないように気をつけねばならない。どうすれば防げるだろうか。

小さいことでも、やはり正しいことが正しいとしておかないと、いろんなことがおかしくなってしまう。

誰かと共有することはもちろん、自分一人でのことだってそうだ。
右は右で左は左にしていないと、なにも出来なくなってしまう。

人に対して嘘やごまかしをしていると、一時的には有利なようでも、自分に対して周りも嘘やごまかしをするようになるかもしれない。
嘘やごまかしに気付いていないのは自分だけってなってしまったらおしまいだ。

人に嘘やごまかしをしなくても、自分に対して嘘やごまかしをしてくる悪い人も世の中にはいるかもしれない。
それでも、少なくとも自分自身は嘘やごまかしをしていないっていうのがあれば、いろんなことが疑わしくなって信じられなくなった時にでも、自分のしたことは信じられる。
周りが信じられなくなった時に、自分自身も信じられないと、いよいよ救いがなくなってしまう。

ーーー

あまり潔癖にすると疲れるかもしれない。

それでも、きちんと潔癖にしていれば、自分に厳しくしていれば、右は右で左は左でいてくれる。そうすれば、自分のしたいこと、行きたい場所にも行ける。

ま、そんなことを最近は考える。


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posted by ちょろり at 00:26| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月18日

運が悪いことは運が良いことなんだろうか。


運が悪いことは運が良いことなんだろうか。

仕事がさっぱり上手く行かない。
まあ、冷静に考えて、いきなり店長なんてポストで入ったりすると、そこのスタッフから反感を買うに決まっているのだ。
それは何年かすれば何とかなるのだが、どうにもならないスタッフがいる。

まあ、どんな職場にもどうにもならない人っている。
そりゃ、世の中どこにでもね。

ただ、問題はそういうどうにもならない人間を会社が許容してしまっている時には、これはもうどうにもならない。
会社の利益を害する人間を会社が良しとしてしまっている場合だ。

そんなことありえるのか、っていう話になるけれど、ありうるのだ。
人材不足で困っている職場なんかにはある。
要は困り果てた従業員だが、クビにするわけにもいかないという場合だ。クビにすると会社が運営出来なくなってしまうという場合だ。

本来は会社は従業員を教育する必要がある。
その会社にとって有用な人間になってもらわないと、いてもらってもどうしようもない。
だから、良くないところは良くないと査定して、良いところは良いと査定する。
そうしないと、会社にとって有用な従業員は出来ない。

ただ、辞められたら困るとなると良くないと査定出来なくなってしまうのだ。

言い方はきついが、良い社員を増やそうと思えば、不要な人材はクビに出来るようにしておかないといけない。
もちろん、安易にクビにしてはいけないにせよ、会社にとって何かしらの利益を出せない人間は、改善してもらうか、辞めてもらうかの二択にしないと、給料を払っているだけで、利益が増えない、言うなればただでお金をあげている状態になってしまう。

ただ、日本はクビってしにくい構造になっている。労働者って法的にかなりしっかり守られている。
だから、会社は自主退社に追い込むようにする。
だけれど、本来、その従業員が必要かどうかって会社に選択する権利があるはずなのだ。

まあ、そうは言っても仕方がない。
全く使えない、働かない人間が時間内、社内にいるだけで給料がもらえるような仕組みになってしまっている。
これは変えようがない。

ましてや、そんなところで中間管理職となると。
こうなると辞めるしかない。

だまってペコペコしていれば給料はもらえる。
別に売れなくても叱られることはあっても、クビになることはない。
何も気にせず、ぼんやりと。給料をもらっていれば良い。
人生、そんなもんだ。

でも、多分、そういうのって向いてないと思う。
早めに辞めるべきだろう。

それにしたって、辞めてどうするのか。

真面目に考えるとアホらしくなってくる。
潔く自殺でもする方がよほど賢いんじゃないだろうかと思えてくる。

特に多くは求めていない。
仕事を真面目にして、それなりの暮らしをしたいだけのことだ。

辞めてどうするのか。

生まれ変わったら人間以外の生き物に生まれたい。
まあ、死なないけど。

多分、死ぬ方が賢いんだろうけど。
賢くなりすぎては人間いけないんだろう。

それでも、運の悪いことは良いことなのだ。
生半可、良くも悪くもないところでいると、良いことをしなくなる。
悪いところにいると、これは辞めないといけないと思うようになる。
悪いことの逆が必ずしも良いことではない。
別の悪いことのことだってある。
ただ、良いことをしないでいるってのは、良いことではない。
悪いことをやめて、良いことをしたいと思って行動するのは、これは結果としては別の悪いことにたどり着く可能性もあれど、良いことを目指す行動自体は良いことなのだ。

ある意味では運が悪いってのは良いことでもある。

必要なものにはお金を出すべきだ。
必要じゃないものは、仮に安くても買わない方が良い。
なぜって、必要じゃないものは必要じゃないからだ。

良くないことは良いことではない。
良いことをしたいなら、良くないところにとどまり続けるべきではない。
仮にそこが楽だとしても、良くないところにいたって、そこは良いことをしたい人にはいる必要のない場所だ。そこには良いことはない。

ものすごく当たり前のことだけれど、これがなかなか出来ない。

大抵の企業が不必要なものなのに、まとめて買うと安いからということで買ってしまって不良在庫を抱える。
大抵の個人は良いことをしていたいと考えていても、楽な良くない場所にいてしまう。

セール品にはセール品の意味があり。
楽なところには楽なだけのツケがある。

運が悪いのは良いことなのだ。
中途半端でなく悪いことが明確に悪いっていうのは良いことなのだ。
posted by ちょろり at 03:47| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月27日

一日十分を積み立てるのは危ないんじゃないか。

呑気に日記を書く。
多分、そんな風に生きるべき人間なんだろうか。

一日十分サボると、一ヶ月に24日出勤したら240分、つまり四時間、つまりは半日分ロスしている。
そんな話があった。

そんな話ってすごくナンセンスだと僕は思う。
そりゃ、掛け算すればそうなんだろうけど、逆を言えば、その理屈の上で出来たのがベルトコンベア、分業、流れ作業っていうスタイルだけど、そのスタイルってもう随分昔から、人間としてどうなの?って言われている。

そりゃ、ベルトコンベアスタイルは大きな恩恵をもたらした。専門の知識や技術を持たない人でも仕事が手に入るようになったっていうのが一番だろう。
商売に向く人は商売をすれば良い。
職人に向く人は職人をすれば良い。
サービスに向く人はサービスをすれば良い。
何かしら生きるために必要なお金を得るために自分の向く仕事を探して、それを努力すれば良い。
そうは言っても、現実問題として、お金を稼ぐということに向かない人もいる。
そういう人が存在して、そういう人も食って行かねばならないという現実がある以上、ベルトコンベアシステムというのは本当に必要不可欠で大事なシステムではある。

ただ、やはり批判はあるのだ。
お金をベースに動く世界のために、人が人間らしさを失ってまで働かないといけないってのはどうなんだろう、って。
有名どころだとチャップリンのモダンタイムっていう映画なんかがそういう風刺をしている。
多くの人々がこれまで声を上げてきた。

でも、背に腹はかえられぬ。
じゃあ、人間性の尊重という意味で、ベルトコンベアを廃止して、職人、商人などみんな何かしら特殊技能、長所を持たないと生きていけない時代に戻すのか。そうなると、今、ベルトコンベアで働いている人々は明日からどうやって食っていけば良いんだ。
背に腹は変えられないだろう。
そう言って時代が進んで来て、誰かが深夜も働いているのが当たり前の世界がやってきている。

そうして、一日十分のサボりは月に半日、一年にすれば6日の休暇に相当するっていう論法に辿り着いてしまっている。
「どうやってあいつが一日十分サボるのを防ごうか」
そんなことを何十分もかけて相談する。

サボりって大事なんじゃないかなって僕は思っている。
人によってサボる時間って違うし、サボり方も違う。
あまりにもサボっていると、サボらないでねと言わないといけないにせよ、やっぱり誰しもいくらかはサボって生きている。
人間に限らず動物だってそうだろう。
絶えず何かを食べるため、食料を確保するためだけに動き続けている生物っていない。
人間以外の生き物の声なんか聞くのは無理にしたって、どんな生物、植物も観察していれば、「これって何のためにしてるの?」っていう謎の行動って出てくる。
言うなればサボりだ。
同時に、論理付ければ、それも実はその生命にとってものすごく重要な活動とも言えたりする。
なぜサボる働きアリが存在するのかだとか、どうして鳩は首を振って無駄に歩き続けるのかとか。マグロはどうして泳ぎ続けないといけないのとか。
その生き物にとって必要な動きだけれど、一見サボりのようにも見えることってたくさんある。

人間だってそうだろうと思う。
ベルトコンベアシステムがあまりに普通になり過ぎて、無駄を省くことこそ正しいっていう常識が構築されてしまいつつあるし、それを利用して労働者を馬車馬の如く定額時間内働かせ放題みたいな、どこかの企業の商品のキャッチコピーみたいなことがまかり通る。

料理なんかって割とそういうのに関してまともだと思う。
レシピはある。ただ、そのレシピを数字通りにしているだけじゃプロの料理人とは言えない。もちろん、レシピって基本ではある。ただ、食材の鮮度や使う調理器具なんかの相性、提供するお客さんの嗜好の傾向などから、時間や味付けっていくらかは感覚的に変えないといけない。数字通りじゃ上手く行かない。
最近は数字通りにするのが一番間違いないってところもある。湿度温度、食材の鮮度なんかがコントロールしやすい機械、環境が増えたってのもある。
寿司職人になるのに、無駄な修行期間など必要ないっていう時代でもある。

ただ、どんなに環境をコントロール出来るようになっても食材は生き物だし、それを調理する人も生きた人間である以上バラツキは必ずある。
数字でコントロールされたマニュアルの限界ってのはある。

料理に限らず何事もそうだろう。

数字が偉くなりすぎた。
たぶん、今って人間より数字が偉い時代になりつつある。
だれかの感想よりも、統計で出されたグラフと数字の方が信頼できるっていう。

別にどっちが正しいとも思わないけど、やっぱり違和感ってのは忘れちゃまずいと思う。
違和感のあるものってやっぱり違和感があるものなのだ。理由が不明だろうと、人間が違和感を覚えるものって、やはり人間が違和感を覚えるものなのだ。
A=Aなんてシンプルな話だけど。
違和感が鈍くなるってすごく機嫌だと思う。

八時間働いてりゃ十分くらいサボると時間はあるし、それに文句を言うのなら八時間以上働かせるってどうなの?って売り言葉に買い言葉になってしまう。

お互いを思いやって、お互いに感謝出来て、お互いに許しあえる。
そういうのって数字じゃないだろう。人間の感覚とか感情だろう。
働かせてもらえてありがたい、働いてもらってありがたい。

ま、そんなこんな。


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posted by ちょろり at 00:05| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月22日

全てが決まっている。

三十にして立つ。
孔子の論語だ。

さて、僕は三十にして立つのだろうか。
そもそも論語だと十五にして学に志さねばならないのだが、それすらした覚えはない。

文章を書くのは悲しい。
文章を書くのは読む人の心を読むことで、それを繰り返すたびに心が痛む。

どうしてだか、ここ最近、ひどく心が痛む。
三十にして立つのか分からない。十五にして何かを志したのか分からない。
ただ、ひどい罪悪感に心が痛む。
文章は書いていないけれど、ひどく心痛む。

悲しいわけではない。
怒っているわけでもない。
ただ、ひどく心が痛む。
罪悪感だとか恐怖だとか、何か怒られそうな、ひどく何かに怯えている。
一歩踏み間違えれば何かとんでもない地雷を踏んでしまうような。
その原因は分からない。

アフリカと違って、今夜の寝床に困ることはない。得体の知れない病に掛かるかもしれないということはない。119番を押せばすぐに救急車が来る。暴力の危機にさらされれば警察を呼べば無料で助けてくれる。
お金で何か大きな失敗をおかしたとしたって、食べるものに困ることはない。生活保護なり何かしらの保護のある平和な国。
何も危険などない。

それでも、ひどく心が痛む。何かを恐れている。

きっと人間なんだろう。
旅の暮らしの良いところは同じ人間とずっと付き合わなくて良いことってのも一つある。
景色の美しさはもちろん素敵だけど、日々呑気に暮らす。誰かの都合など気にせず、起きて走りたいだけ一人きりで走って、飯を食って走る。

ネパール人の友人がいる。かれこれ五年以上の付き合いで親友だ。
彼が近年時々言うようになったことの一つに、「日本語を覚えすぎなければ良かったよ」というのがある。
言葉が分からなければ、難しい話はしない。人の悪口も分からない。誰かの愚痴を聞くこともなければ、誰かに愚痴をこぼすこともない。
厄介な問題に巻き込まれることない。
人間関係ほど面倒なことはない。
最低限のコミュニケーションを取れる程度に言葉は通じる方が気楽なのだ。
言葉が通じなければ、とりあえず酒を飲んで笑ってりゃ良い。

まあ、日本人ってのは心が平和じゃないなと思う。
全部決めたがる。
決めたことをきちんと守ろうってなる。
何かを決めるには争いが起きる。
決めたことを全て守ろうってのも、やっぱり争いが起きる。
会社の出社時刻ひとつとってもそうだ。
例えばだけど、自転車屋が1時間早く開けようが、閉めようが一体誰にとって損なんだろう。来てみて開いてなけりゃ、開いてないで良いんじゃないだろうか。1時間のずれって何か問題になるんだろうか。

あくまで僕の考えだけれど、受験生はテストで点が取れれば良いし、チャリ屋はチャリが売れてりゃ良いし、医者は患者が治れば良い。そういうシンプルなことを複雑にする必要ってない気がする。

いろんなことを決めて、シンプルで良いものを複雑にして、みんな息ができなくなっちまってる。

まあ、合わないんだろうな。

生きるのがバカバカしく感じることが少なくない。
だが、こちらが生きやすい環境は自分で作るしかない。

ま、そんなこんな。
posted by ちょろり at 20:49| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月06日

リテラシー。

人間ってのはリテラシーなんだ。

そんな会話をする。

リテラシー。
辞書的なきちんとした意味は忘れた。
識字力とか読解力くらいだった気がする。

人間と人間が会話をする。
その時に、当然ながらどちらかが話して、どちらかは聞く。もちろん、一方的に話し続けるとか、聞き続けるってのはない。明確に話す側聞く側が分かれているわけでもない。話している側も話しながらにして相手の話を聞いている。
ただ、ある瞬間だけを取れば、情報は発信する側と受信する側になっている。
時々、双方発信になって、お互い聞いていないということもあるにせよ、ある程度の長さ会話をしていれば、基本的にはどちらかが発信でどちらかが受信、これがランダムに入れ替わっている状態になる。

人間、話す時に面白い人と面白くない人ってのがいる。
ただ、それは話題の内容ではない。
「あの人、いつも面白いことしてる」
そんな人も時々いるにせよ、基本的には普通に生きてりゃ、そんなに面白いことって起きない。だからこそ、人間、テレビを眺めたり、映画や小説を楽しむ。普通じゃない世界を時々触れる。その世界では必ず面白いことが起きている。
ただ、現実には生きていてそんなに面白いことって起きない。

面白くない内容の会話、パッと聞くと面白くなさそうな会話だ。
それでも、究極だが、話が面白いってのは内容の面白さってのはあまり関係ない気がする。

最終的にはリテラシー。
聞く側の上手さと、話す側が相手にどう聞こえて、どんな気持ちになるかを想像できるか。
会話の上手さなのだ。

声を使っての会話は人間のベースにある。
文字入力で事足りそうなことでも、昨今の流行りというのもあるにせよ、音声入力ってのをやりたがる。
音声で言葉を出すってのは早い。
ワンフレーズ話すのも早いが、切り返すのも早い。
同じ時間量で言えば、音声に出しての言葉ってのが一番情報をつめこめる。

ねむい。

そんなこんな。

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posted by ちょろり at 01:43| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月30日

管理職と楽しいこと。

気付けば管理職になっていた。まあ、かっちりしたサラリーマンの管理職というイメージとは少々遠い自転車屋の店長。部下というほど上下もはっきりしていないし、指示を出すのはたったの三人。それでも、まあ、管理職には違いない。下も少ない代わり社長の指示を聞くことになるけれど、上は社長一人とマネージャーが一人だけだから、中間管理職としてはさほど厄介でもない。

最初は僕なんかが管理職かと思ったが、冷静に考えると、少し離れた時期はあれど三年働いているスタッフというのは確かにあまりいない。いてもメカニックなので、メカニックは職人気質に自転車を整備する、作業に集中するという性質上店全体の管理は難しい。他はみんな辞めてしまった。
そう考えると僕が管理職というのも順当なのかもしれない。

管理職とは管理する人間だが、一体何を管理するのやら。
一番はモチベーションの管理だろう。
メンバーにやる気さえあれば、その場は明るくなる。
結局のところ、人間、出来ることしか出来ない。
スタローンが言うところの、どうにも出来ないことはどうにもしない、ってやつだ。
どうにも出来ないことをどうにかしようったって、どうにもならない。
各人が出来ることを最大限やっていけるという環境ってのが、そのメンバーでのベストパフォーマンスになる。

教育というのは、出来ないことを出来るように導くということっていう考えもある。
ただ、よくよく考えれば小学校中学校なんかの教育はたしかに満遍なく教えるが、次第に高校から理系、文系、工業、商業、芸術などと枝分かれしていく。大学になると、さらに絞り込まれる。
どちらかと言えば出来ること、出来ないことを理解するために、最初は一通りの全てを経験させるという方が正確だろう。
人間、生きている時間は有限だし、考えられることも有限だ。全てをやろうってのは、正にどうにも出来ないことなんだろう。

出来ることだけやってたら現状維持にしかならないじゃないかと言うとそうでもない。
出来ることをどんどんやっていると、練度が上がる。
一つの物事の練度が上がるというのは、周辺の技術が向上することにつながる。
逆に一つの物事の練度を上げるには、周辺技術を上げないといけない場合もある。

分かりやすい例えとしては、小学校高学年の算数の文章問題だ。
「アキラ君はリンゴを三つ買いました。その後、コウタ君に二つリンゴをあげました。その後、みゆきちゃんにリンゴを一つもらいました。アキラ君はいくつリンゴを持っていますか?」
なんていう問題だ。
これの答えは本当は解なしになる。もしかするとアキラ君の家はリンゴ農家で最初からたくさんリンゴを持っているかもしれない。また、問題の核心になっているリンゴをいくつ持っているかだが、いつのアキラ君なのかが明確に示されていない。言うなればこの問題は問題自体として成立していない。
ただ、小学校の問題として考えると、前提として、アキラ君は最初はリンゴを持っていない、この問題の話の中での時系列の最後の時点でいくつ持ってるか、というのは暗黙の了解として考えて差し支えない。
よって、
3-2+1=2 答え 2つ
となる。

簡潔に言えば、日本語能力がないと、式が立てられないのだ。

この手の文章問題は段々と難しくなってくる。
数式自体も難しくなるが、日本語としても難しくなる。
3センチ、4センチ、5センチという辺の三角形がある。この三角形に内接する円の面積を求めよ。
こんな具合で数学用語が混じって来たりする。
ちなみに、この問題は今の僕には解けない。忘れた。1時間くらいカリカリ落書きすれば内接円の性質なんかをいくつか思い出して解ける気もするけれど。

ただ、どんなに問題が高度になっても、基本的には、その文章の中で、何を聞かれているかということを理解出来ないと答えの出しようがない。また、問題の中で確定していることを理解していないといけないし、解くために使う条件を選び出せないと解けない。
文章の中から必要なものを拾い上げる。
つまり、文章読解能力が必須なわけだ。

自転車を売る時に必要な能力はいくつもある。
自転車の知識も必要だ。
自転車屋の店員として好感が持てる風貌もある方が良い。
喋り方、髪型、立ち方、話の内容、語尾の選び方。そういうのが調和していると自転車は売れやすい。
もちろん、そういうのが何もなくても売れる時は売れる。
人間、欲しいものは買う。
相手の欲しいものを素早く見抜く力もある方が良い。
喋り方、目線、服装、年齢、体格など、材料はいくらでもある。

ある程度はマニュアルにも出来るものの、最終的な答えとしては、方法はどうあれ自転車が売れれば良いわけだ。
下手にマニュアル化すると遠回りになることもある。
ものすごくフォーマルに売る方法も、フランクに売る方法もある。
向き不向きがある。
向き不向きを全て網羅した場合分けの入ったマニュアルを作れば良いかというと、それはやはり無理だろう。
せいぜい、囲碁や将棋みたいに動けるマス目が決まっている世界ならまだしも。
現実世界は複雑だ。
仮に全てを網羅したマニュアルがあったとしても、人間はそれを実行できないだろう。
それこそ、コンピュータが指すような将棋は人間は出来ない。人間は人間の考え方でしか将棋を指せない。
単純に人間には時間と思考は有限なのだ。
コンピュータは時間さえあれば集中力を切らすことなく無限に計算し続けられるし、計算に要する時間も技術の発展的でどんどんと進化している。
人間は第六感、計算じゃないところで出す判断を使うことで有限性を解決する。時間と思考は有限なので、第六感ですっ飛ばすのだ。計算ではなく経験則、カンで。

ロボットが人間を越える時代は来るか。
意味を限定すれば来るだろう。
例えば囲碁は人間は随分前に勝てなくなっている。
自転車を売るということにしたって、非常に自然な動きをするロボットが出来て、音声認識、表情認識などが発展すれば、相手の求めるもの、話したいことなんかを解析出来るようになるだろう。
あるいはそこまで進化しなくとも、自動販売機みたいな形で、ユーザーがいくつかの質問に答えるだけで、ユーザーの求めるものを素早く割り出して提案するコンピュータが出来れば、それだけでも生身の販売員より成績は良いかもしれない。
自動接客マシーンはあり得る。
話し相手セラピーマシーンだってあり得る。

ただ、逆を言えば人間ってのは実に優れた生き物でもある。
生きている百年足らずどころか、三十歳くらいまでにある程度はそういう技能を一つは習得する。
コンピュータが三十年後、どこまで出来るようになっているかは分からないが、映画バックトゥーザ・フューチャーから三十年以上経った現在もコンピュータは意外なまでに人間特有の技能みたいなものを越えられてはいない。
計算を早く処理する、小型化するというのは進んだが、人間と雑談するってのはいまだに出来ていない。iPhoneのsiriなど頑張ってはみるが、ちんぷんかんぷんな答えが大半だ。
ーーこんにちは、良い天気だね。
と言ってみたところで、ひとしきりの受け答えくらいで、向こうから話題を振って来たりはない。
ーーそうね、良い天気ね、今日、何かするの?
ーーいや、別に何も考えてないけど。
ーー野球でも見に行く?チケットあるんだけど。
この程度の会話が意外と出来ない。出来そうな気はするんだけど、意外と出来ない。
三十年後にそんな会話を出来るようなロボットが存在するかは分からないけれど、とりあえずは人間は5歳になればいくらかは会話も出来る。

意外と人間ってのは優秀だ。

まあ、ロボットの話なんかはどうでも良い。
管理職の話。

そう、ある人間の出来る事、得意なことって実に優秀で、真似するのって難しい。
そんならそういう能力がフルに発揮される環境を作れば、これはなかなか素晴らしい仕事が達成されるわけだ。

そして、誰しも何かしらそういう能力って持っている。
そりゃ、その能力が仕事に直接的に役立つかって言うと分からない。
あまり役に立たない能力もあるかもしれない。
ただ、ある程度以上、練度の高い能力は何かしら役に立つものだ。

結局だけど、学生の文化祭だの体育祭だの学級委員長だのと変わらない。
楽しい場所では人間せっせと何かやる。
つまらない場所では、いかに恐怖で縛っても、機械が出来る範囲のことしかやらない。
楽しい場所を作ればエネルギーは高まる。
あとはその集団の目的みたいなものを明確にさえしていれば、エネルギーの方向もずれない。
集団の目的に賛同できない人間も時々はいる。
それでも、目的を明確にしておくのが重要だ。
賛同出来ないと自覚してもらうのも重要だ。自覚していないと、真逆の方向を一生懸命やってしまったりする。自覚さえあれば、仮に真逆のことをするにしても引け目がある。

ベストは賛同してもらうようにすることだ。
そのたまにはドラッカーのマネジメントで言うなら、真摯さだ。真摯さで人の心を動かして、目的に賛同してもらい、エネルギーを一つの方向にまとめる。
真摯さって何なのかって言えば、筋が通ってるかどうかだ。
筋が通っている目的ってのは、納得出来る。

まあ、楽しいことしていて、しかも仕事を評価してもらえるってのは、やはりほとんどの人は嬉しいと感じるところだ。
仕事は高く評価されるけど、楽しくないってのは長続きしないか、我慢して続けてもパフォーマンスが落ちる。

まあ、そうは言っても楽しいって何なのやら。
まあ、アフリカ走るとかは楽しいね。
山登ったりね。
達成感あることは楽しい。
怠惰な快楽も楽しいには違いないけどね。
何かしら活動して得られる楽しさってのは、やはり達成感とかだろう。

ま、そんなこんな。
posted by ちょろり at 02:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月04日

細々とでも長く続ける。

気付くと長いこと日記も書いていなかった。
アフリカの旅から戻ってからの山小屋の勤務が終わり、もうじき自転車屋に戻る。
自転車屋の勤務が始まる前にアフリカの話を執筆していた。とりあえず第一稿が上がった。珍しく十万字近いので削るのか、もしくは伸ばすのか。まあ、のんびりやっていこうかな、と。

以前は小説という形式にこだわっていた。
今回のアフリカの話は小説っていう感じでもないし、旅行記ってわけでもなく。ルポルタージュだとかドキュメンタリーとかになるのかというとそうでもない気もする。
とにかく形式ってのは、一切無視して心のままに書いてみた。
ここから推敲を重ねて行く内に小説風になるのかもしれないし、ドキュメンタリー風になるのかもしれないけれど。

形式って重要だ。
小説に限らず、最近のアートってわけの分からないようなものって多いけれど、あれってすごく難しい。風景画とかは人から理解される。理解されるされない以上に作り手自身が作るものをイメージしやすい。こんな感じのものを作ろうって。抽象的なアートは作る前のイメージ、こんな感じで作れば良いかなってライン取りがすごく難しいと思う。
多分、文を書くでも、テンプレート、型のある文よりも、型のない文って厄介だと思う。宮沢賢治だとか。もちろん、詩だとか童話って型はある。それでも、宮沢賢治は型破りで、実際、長い歳月が過ぎても宮沢賢治みたいな作家ってなかなか出てこない。
それでも、やはりまずは型通りにやる時期があってこそだろう。何となくの感覚だけで作って、それが何かの形になるってのは、基本の型はやったことがあればこそだろう。

あとは、いくらか投げやりということ。
いや、投げやりってのは違うけど。
まあ、何でも良いや、自分は自分の好きなようにやる、みたいな。他人なんか知ったこっちゃない。そんないくらか傲慢なところを自信を持って出せるようになるまでには時間がかかるんだろう。

だからって、今回書いたものが上手く行ってるかは分からないんだけど。

自転車屋では店長をする予定になっている。他に適切な人材が見付かれば変更はあるかもしれないと思っていたが、気付くと三十歳(厳密には次の三月で三十歳)と適切な人材として扱ってもらえる年齢になっていた。恐らく変更はないだろう。
実際には年齢など大した意味はないと思うんだけど、ある程度最低限の経験の積み重ねって重要だ。
歳食ってるからって経験を重ねられているわけじゃないにせよ、やっぱり経験って時間が必要だから、三十歳くらいってのはちょうどそんな時期なんだろう。順当に行っていれば、ある程度の経験を積んで来ていて、それなりの戦力になるっていうライン。そして、三十くらいまでに全く何もしていなかったり、いろんなことを諦めている人間は、そこから先、待っても期待出来ないっていうライン。
もちろん、人間、早い遅いはあるし、遅いのが悪いわけではない。遅くてもこれから進む兆しがあって、長く成長する見込みがあれば全く悪いことじゃない。

若気の至りじゃ片付かない年齢、そこでやってることは人間の本質に近いのかもしれない。

まあ、そうは言ったって四十歳からでも六十歳からでも何事かをする人はするから、別段、三十歳ってのは大した歳でもなく、言ってしまえばやはり歳など大して関係ないのだけど。

まあ、好きなことを細々とでも長く続けるって大事だと思う。当たり前か。

まあ、そんなこんな。
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2017年09月07日

放浪の是非。

放浪の是非を問う。
そんな日々が続く。

まあ、一口に言えば、貧乏性なのだ。

これから始まる新しい生活、本当に僕は人生で女の人と生活を共にしたことがない、女の人に嫌われてるんだかどうだかは知らないけれど、最近、少し歳を喰って考えてみれば、まあ、そりゃそうだわな、女の人、特に若い女の人って自分を一番大事に想ってくれる男を求めているし、あれこれ言ってたくさん一番好きなものがある男ってのは、やっぱりそういうのが分かってしまった時、どうにもならない気持ちになるのかな、などとやっと最近になって思うんだけど。

女の人っていうのに関して僕の考えでは人生で一番大事にすべきものの一つだと思っている。
これに関しては昔から一貫して変わらない。
ただ、今考えれば全く大事に出来ていなかったなと思うことが本当にたくさんある。当時の僕の全力で大事にしているつもりだったけど、どうしてもう少し相手の気持ちを汲み取れなかったのかな、と。

かと言って今も大して上手く出来ている自信はない。
奥さんを大事に出来ているんだか、自信がない。
頑張るは頑張っている。
でも、自信はない。
表面的な愛しているよ、とか、綺麗な景色の場所に連れて行く、とか、それは本当に奥さんを大事に出来ているのかな、などと。

そうは言っても、奥さんは本当にとても良い人で、僕が失敗しても心から笑って僕を応援してくれるのだ。

だから、本当は放浪の是非など問いたくはないのだ。
僕は大好きな奥さんと楽しく暮らして、奥さんが毎日安らぎながら猫を撫でているのを眺めていたいのだ。その隣にはサボテンとレコードプレーヤーが欲しい。キザっぽいけれど、愛すべき女の人と猫とサボテンとレコードプレーヤー、それが今の僕が一番求めている絵だ。

でも、放浪の是非を問うてしまうのだ。
奥さんが隣にいてくれる時には放浪の是非など忘れられる。
ただ、奥さんは遠くにいる。

奥さんと暮らせば僕はもう放浪の是非を問うことはないだろう。
あの人といれば、放浪は遠い昔の話、今の幸せが本当に幸せになる。
でも、本当に僕は放浪の是非を問わなくなって良いんだろうか。

昔は誰にでもそんな相談が出来た。
今はめっきり減った。
良い歳こいたら放浪の是非など過去のものにしてしまうのが人間なんだよ、と。
そんな荒い言い方は誰もしない。
現実にはふくさんにもやっと幸せな時代が来てくれて、日々の心配が一つ減るよ。
そういう言い方だ。
もちろん、それは本心だろう。
僕の友人はみんな良いやつしかいないから。あ、嘘だ、悪い奴もいる。でも、なんだかんだすごく良い奴なんだ。
だから、本心として喜んでくれる。

ただ、それはやっぱり喜ばないといけなくなってしまったんじゃないかな、なんて思ったりもしちゃうのだ。
僕のためにも、日々の生活のためにも。
それを喜べないと、いろんなことが崩壊してしまう。

変に疑心暗鬼だな。
書いていると改めて思う。
なぜそんなに疑心暗鬼なんだろう。

書くために不安定など求めてはいけない。
でも、そういう書き方をして、素晴らしい文を残した人々も少なからずいる。

ーーー

まあ、馬鹿な話なんだけど。
久々に考える話なんだけど。

神様がある日やって来るのだ。
お前が本気なのは分かった、今日、お前に文をやろう、カフカにもやった文だ。その代わり明日以降、遠からぬ日にお前の命をもらうよ。それとも、単に書いているのが好きでもっと書きたいなら、お前には文はやらない、長生きさせてやるなどの約束もしないが、意図的にお前の命を奪うなんてこともしない。
神様はそう言うのだ。

そこで主人公は考える。
どっちが良いんだか。
本当に一生懸命ね。

でも、不思議なまでに主人公は神様のことを疑わないのだ。
普通、疑う。
明日殺される代わりに今日お前が書く文は歴史に残る素晴らしい文になるよ。
そんなの本当かどうかも確かめようがない。

でも、どうなんだろう。
僕はあまり小説のセンスがないせいだろうか。
一縷の望み、藁にもすがる気持ちで書くのだ。
もしかすると、素晴らしい文が僕にも書けるかもしれないと言って。
勇気付けるのだ。
僕は死ぬまでに必ず書けるのだと言って。

そんな主人公が神様を疑わないのは当たり前と言えば当たり前なのだ。

でも、やっぱりそこで、オレはオレでやる、オレの書くものを勝手に変えたらぶっ殺してやる、殺せなくたってオレの文を勝手に変えたら許さない、神が死ななくとも絶対にオレは許さない、そう言えないとダメなんじゃないかな、なんて考えたりする。

ーーー

アフリカの話。
どうさばくかな。

サボテンと猫の切り口までは見えたけれど。

なんだかんだ今年中には降って来ないかもしれないな。
神を許さないなどと言いながら、天から降ってくる文を書きたい、降りて来たものを一切汚さず書きたい、そういうタイプだからな。

放浪の是非ってのに集約されるのやら、疲れているからそんなことを思うのやら。
まあ、今の自分ができることをやるだけだな。
今の自分ができることをほんの少しでも増やすだけだな。

ま、そんなこんな。

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posted by ちょろり at 06:42| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月13日

走り続ける方法。

走りたい。
自転車で延々と。
テントも持たず、疲れたところで横になって、起きたら、また延々と走って。
ただ、ただ、走りたい。

奥さんの言うことにも一理あるのかもしれないなと思う。
深層心理として、僕は一人で走り続けたいんだろうなって。

奥さんのことを心から愛している。
死ぬまで愛し続けられると思う。

ーーー

ひどくモヤモヤした。
でも、底まで付いた。
山小屋の友人に感謝する。

もう一度きちんと小説を書いてみようと思う。
趣味で書くんじゃなく、血を持って書いてみようと。

結局のところ、走り続けるかどうかって当人次第なのだ。

ーーー

走るという営みはすごく簡単で、すごく難しい。
レースで勝つための走り、部活で優勝するための走りってのは、まあ、それにも難しさはあろうが、延々と走り続けるっていう営みはすごく簡単ですごく難しいことなんだなとしみじみ思う。
延々と走り続けるためには、明日も走り続けないといけないのだ。いや、正確には明日は休んだって構わない。明後日もね。でも、いずれまた走り始めないと、走り続けられない。
走り続けるために休みは重要だ。人間は機械じゃないから走り続けられない。
でも、休むほどに走ることから離れていく。
離れるほどに再び走り始めるのが難しくなる。

ーーー

ナミビアのウィントフックで出会ったフランク・レナガード氏の言葉に感動したのはそういうことなんだなと思う。
サムデイ、ネクストタイム。
砂漠を走らなくて気落ちしていた僕に彼は言ってくれた。

フランクは妻を亡くしている。
妻がいた10年ほどの間、自転車で走るのを辞めている。
フランクは本当にすごい。
サムデイ、ネクストタイムは本当にすごい言葉だ。

ーーー

山の仕事がしんどくて、疲れがうまくコントロール出来なくて、久々にうつ病に入っているみたいだ。

でも、これから先の人生、仕事で疲れ果てて、出口が見えないような鬱は何度でもやってくる。

芥川氏のぼんやりとした不安。
まあ、僕はまだ本当に死んじまわなけりゃいけないような不安にはぶつかっていないからこそ生きているから、本当のところは分からない。

不安は語れなくなってくる。
理解してくれる人がいないと感じるようになるのはもちろん。
不安は本当に不安なのか。
自分で自分に語りかけることさえ出来なくなってくる。
文にさえ書けなくなってくる。

どうなんだろう。
飽和なのかな。
不安の飽和。
でも、本当に不安なんだか分からない。

不安ってそもそもに何なのだか。

ーーー

努力しかない。
走り続けるにはタナボタ的な解決や期待はありえない。
ただ、努力するほかない。
努力は報われないかもしれない。
やはりタイミング、巡り合わせってのはある。どんなに努力したって、それが上手くいかないってことはある。
それでも、努力し続けるしか走り続ける方法はない。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 07:52| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月12日

失敗しないことはやらない。

先日、奥さんに叱られた。
結婚することで自由が減るとか、旅に出たいとか考えてるでしょ?
みたいな具合だ。
まあ、叱られるってほどでもなかったんだけど。

自由の話は、まあ、どうなんだろうか。
結婚しなくたって、一つ自由を失う時期だと思う。
年齢とかじゃない。
何事かをやっていると一つ自由を失う段階ってあると思う。

こういう話を考えるときに大道芸って分かりやすい。
最初はすこぶる楽しい。
スリーボールの簡単な技からフォーボール、するすると進む。
ファイブボールで少しこけて、その先にまだ難しいところがあるが、ここらも、まあ、何とか楽しめる。
セブンボールから鬼門になる。
セブンボールは一周、専門用語で言えばワンフラッシュくらいまでは何とか頑張れば出来たりする。
ただ、セブンボールをある程度投げるとなると、人間としての限界が出始める。
そこが一つ大きく自由を失う段階だろうと思う。
セブンボールを投げるには常識はずれの努力の継続が必要になる。

まあ、自転車でもそうだ。
最初は楽しい。
100キロ走れる、あの峠を登れるようになる、草レースで上位一割に入れるようになる。
旅なら隣の県まで、東京まで、鹿児島、北海道、海外のどこそこ。

まあ、やってない人から見れば十分にすごいってところくらいまでは、やれば出来るようになる。やるかやらないかの世界だ。
でも、ドカンとぶつかるところってのが出てくる。

そうやって何事もぶつかる。
自由はぶつかる。
自由は楽しい。
でも、ドカンとぶつかる。

自由がぶつかった時に、乗り越えれるかってのも大きいけど、一歩引いて、別の道を探すってのも僕は大事な気がする。
天才なら良いけど、たいていは天才じゃないし、天才だってどうにもならなくなることがある。
物事は必ずいずれ失敗する。

まあ、そうは言っても、失敗しない人生もある。
ドカンとぶつからない人生もある。
失敗しないようにやるって方法はあるにはある。

失敗はすると何かとマイナスになる。
あれこれ困る。
だから、失敗はしたくない。

人間の脳みそは何事かを想像する時に、必ず悪いイメージの方が先行するように出来ている。
明るい未来より暗い未来。
それは根暗だからじゃなく、本当に人間の脳みそってのはそう出来ている。
なぜって、失敗は危ないのだ。失敗を予期するという能力は非常に生きて行く上で大事だ。
そして、この能力は極めて重要でありながら、出来ることの幅を減らしてしまうものでもある。
子供は平気で危険なことをするが、まだ、予期する能力が成熟していない段階だからだ。しかし、子供の段階で備わっていない能力という事実は非常に面白い。

成功と失敗の二元論なんてすこぶる危険な考えかもしれないけど、やはり物事、成功か失敗かどちらでもないか。はたまた、良いことだか悪いことだかどちらでもないか、って僕らは考えることにしている。
実のところは、どんなことも成功でも失敗でも良いことでも悪いことでもあるし、そのどれでもなかったりする。
二元論ってのは、説明や理解をするには便利かもしれないが現実としては二つに割れるものでもない。
ある側面から見れば良いこととは言えるかもしれないが、その側面から見ること自体が良いことか、またその側面をどのように見るか、いくらでもつながってしまう。二元論はあくまで仮定ありきで成り立つ理屈だ。

成功と失敗ってのは人それぞれの中に成立してくるが、決して普遍的ではない。
だから、その気になれば失敗しない人生も作れる。失敗の定義をうまく作り込んで、それを避けるように生きれば良いだけだ。まあ、それはそれで、難しいに違いないが。
壁にぶつからない人生だって作れる。
バカな夢は見ないように、成功することだけやれば良い。

間違いなく失敗しないことは僕はダメだと思う。
魅力がないのだ。
もしかすると失敗するかもしれない。
でも、成功するかもしれない。
そういうのが生きてる実感になると思うのだ。
失敗オーケーってのも違う。
失敗しないように全力を尽くす。それでも、失敗する可能性は低くない。そいつを何とかかんとかやり切ってやろう、と。
そういうことが生きていて一番燃えると思うのだ。
命が燃えるってやつだと思うのだ。

偉くなっちゃいけない。
バカなので30が来るのにまだそう考えている。
偉くなっちまうも失敗が出来なくなる。
偉く振舞わなくちゃいけなくなる。
出来るか出来ないか分からないけれど、やってみたいことをやっていく。
くだらないことでも何でも良い。

自由がなくなるかもしれないし、それどころかもっと大変なことになるかもしれない。
失敗するかもしれない。
それでもやってみないと分からない。
みんながやってるから出来るなんてのはナンセンスだ。
自分がやれるかやれないか、やっぱり自分しか分からないし、自分にも分からない。
でも、やってみるのだ。
やってみればたいていのことは出来るのだ。
壁にドカンとぶつかって遠回りすることはあれど、諦めないでいればいずれたどり着くのだ。
そんなの出来っこない、やめておけ、そんなこともやってしまえば出来てしまったり、目的地に着くと案外なんてことはなかったな、最高にキツかったけどね、ってなるんだ。

失敗しないことだけやるようになったら、そりゃ煙草も全然美味くない日々だろうな。そういうのはやらないよ。

ま、そんなこんな。
posted by ちょろり at 05:03| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする