2016年12月19日

こわい。

自転車を梱包して空港に先に送った。
あとは、もう水曜日になれば手荷物だけで関空に向かって飛行機に乗るくらいになった。

今回はいよいよ出発間際までモチベーションが作れなかった。
10月頃から急にモチベーションが下がり始めて、正直、倉敷に帰ってくると、アフリカはつらいと感じていた。
自信がない。
自分の自転車や旅行の技術では何とかなるとは思えないようなところがある。
素直に言えば死んじゃうかもしれないな、まずいよな、って真剣に思う。

自分の中でのルールとして、死ぬリスクがあまりに高いことはしてはいけないってのがある。
でも、問題はどの程度のリスクが基準なのかっていうことだ。

アルゼンチンもそれなりにリスクのあることだった。
でも、当時はやさぐれていた。
大学を辞めて、工場なんかで働くにしても厳しいし、もちろん大卒の仕事なんかもあるわけでもなし、生きていける希望みたいなものが本当になかった。
その中で唯一の希望って言うのがアルゼンチン、パタゴニアを走るということだった。
死んだら死んだで、何だったら気楽なもんだ、みたいなヤケッパチなところがあった。

ヤケッパチなところってのは僕の場合、ある程度必要なのかもしれない。
今回のアフリカにしても、何となく生きていく希望を失ってしまっていた頃に、半ばヤケッパチにスタートさせたプロジェクトではある。東京での暮らしがどうしても上手くさばけなかった。
それでも、山小屋での暮らしで自然に触れていると、かなり精神的にも肉体的にも元気になって、コンディションが良くなると、ヤケッパチがなくなってしまってくる。
何ならアフリカには行かずに、ツルリと元の自転車屋さんに戻る方が良いような気さえすることもある。
冷静な頭になれば、さらに目の前にリスクが立ちはだかると、安定した暮らしが羨ましくなってくる。
怖いと感じるようになってくる。
そうなると、熱い想いで何とかやっていくしかないんだけれど、予定以上に山小屋で疲れてしまったのか、熱い想いは薄い。
それでも、何やかんやで行く程度には熱い想いはある。
ただ、熱量が大きくない。モチベーションが来ない。

まあ、怖い。
なにせ、よく分からない。
誰とも連絡も取れない。助けてくれと思っても伝えることさえ難しいし、助けに来るのも難しい。
まあ、厳しい。
何かとつらい。
怖い。

こんな怖いことをやっても、別に人生で何の役に立と言うこともない。
あくまで単なる趣味であって、ロードバイクで大きいアマチュアの大会のチャンピオンになっても別に何かの役に立つというわけじゃないのと同じだ。
キツい練習をしていようが何だろうが、あくまで個人の趣味であって、第三者にはまったく関係はないのだ。

それでも、本当に死ぬ可能性もあって、しかも、死んだ場合、結構な金額までかかる。遺体の搬送ってかなりのお金がかかるのだ。
そこまでのリスクなのに、何が手に入ると言って。まあ、個人的な感動とか喜びくらいで。
まあ、感動と喜びを感じられるっていうのは人間として一番幸福なことかもしれないけれど。

ああ、ねむい。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 02:20| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月15日

書いていない。

塗装屋さんの人々は不思議なまでに懐が広い。優しい。
怖いのは怖いのだけど、人間的にものすごく優しさがある。素直なのだ。

バツ4の人だとか、元パチプロだとか。
変わった人が多いからだろうか、人に対して常識を押し付けないのかもしれない。
常識とされる世界からはみ出している人は、世界の常識も好きじゃないし、自分の常識を誰かに押し付けるのも好きじゃない。
冷静に考えれば当たり前だけれど、とある思想を無理矢理勝手に、「世の中の人はみんなこう考えるのが当たり前なんだよ」なんて押し付けられるのは、子どものうちは良いにせよ、大人になれば嫌なのが普通なのだ。

ここ半年ばかり、実に文を書いていない。
時間ならある。
執筆環境も完璧じゃないにせよいくらかはある。

書くべきコトがないからなのか、書くべきコトを書けないとどこかで感じているからなのか、単に面倒なだけなのか。

アフリカでは書くのか。

まあらそんなこんな。
posted by ちょろり at 23:21| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月06日

後ろから押してくれる仲間。

久し振りに会う人があった。
その人がすごく元気になっていて本当に嬉しかった。
もう、どうにもならないだろうな、という時期があった人だ。

その人が元気になったこと自体も嬉しいし、人間、一度どうにもならなくなったって何とか上手く元気になれる、そういうことを実証してくれたなぁ、と嬉しかった。

もうすぐアフリカ。
心すさんだ時期もあったにせよ、コツコツと良い形に持ち直して行けている。
周りの友情や優しさが本当に助かる。
自分一人で出来ることは頑張った、それでも届かない、それを後ろから押してくれる仲間に本当に感謝している。
当人は別に背中を押したつもりでもなく、単に会って気兼ねなく話しただけでも、それで背中を押されるってことはあるし、そういうのは決して当たり前のことじゃない。
感謝の気持ちをちょくちょく思い出させてくれる仲間。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 23:28| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

大人になるアフリカ。

食中毒から何とか回復する。
それにしても、今年は本当によく病気する。こんなのでアフリカなんか本当に行けるのだろうか、と心配になることも少なくない。
まあ、それでも行く。

熱の中の夢で、ひどく薄暗い地下で閉じ込められていた。
どうもそこはアフリカらしい。
天井が低くて、匍匐前進のような格好で居続けないといけない。そして、人に見付かってはいけない。何者だかわからないのだが。
まあ、アフリカなのでしょうがない、と考えるのだが、起きてみれば、あそこはどこだったのだろう、アフリカがいかに未知の土地と言えどあんな狭い暗いところに閉じ込められることはなかろう。
ゲリラか何かのトーチカの中のようだった。

後から考えると、あれはどこかの世界での自分なのかもしれないと思ったりした。
どこかの世界の自分は何かの敵とあんな風なトーチカで何者かと戦闘をしているのかもしれないなどと考えたりした。

いくつも夢を見たが、どれもこぼれてしまった。ほとんど思い出せない。時々、起きてトイレに嘔吐、下痢に行くたびにネタ帳に書き留めたいと思うのだが、熱もひどいし、嘔吐下痢で立つのさえつらく、文字を書くことは難しい状態だった。それでも、すごくシュルレアリスムな幻想が多く、どうしても書き留めたいと思ったのだが、気付くとまた夢の中にいた。

人に対して激怒する夢もあった。
何かを言われる。
普段の僕は相手の言い分を聞いて、論理的に釈明する。建設的に会話を進めようとする。
しかし、その夢の中では立ち上がってひどく相手を蹴りつけるのだ。相手は女性だった。若くない。老婆ということもないが、50歳は過ぎているようなおばさんだったと思う。
会話をしても理解出来るわけもないのだと散々に蹴りつける。
普段は諦める。理解できない相手には会話もしない。ただ、諦める。面倒なのだ。カロリーの無駄。
しかし、夢の僕はひどく激怒していた。
そして、激怒しながら、正しいような気がした。
人間、怒るべきなのだ。
対立するものに対しては自分の意見を聞く仲間、手下にするか、ボスとしてついていくか、徹底的に叩きのめすか。
事なかれの自分の生き方は間違っている。感情を爆発させて、自分と対立するものには立ち向かわねばならないのだ。
そんなことを思っていた。

その夢は変な説得力があった。
もちろん、力の弱い弱者を殴ったり蹴ったりしてはいけない。
ただ、生きていく上で事なかれ主義の泣き寝入りでいては良くない。
物理的でない力を持って相手を服従させるか、恐れさせないといけない。或いは服従させられるかだ。
正面から当たっていかないといけない。
そろそろそんな歳なのだ。
考えさせられるものがあった。

ほぼ二日間まるまる寝たきりで過ごす。
それでも、今日の昼過ぎからは食事も問題なく食べられるようになり、ギターなどを弾く。
ローランディアンスやバリオスなんかの楽譜を出してみて弾いてみたりする。ギター曲は難しい。全ての音に意味があるので、全ての音を意味を考えて弾かないといけない。まあ、そこまで考えることは出来ていないにせよ。ポップスのアレンジなんかはコードがあっていて、メロディーがあっていればそれなりに曲になるし気分も良い。
それでも、弾いていて楽しいのはやはりギターのために作られた楽曲だ。ギターで奏でるために作られた曲はやはり良い。

きっと今はアフリカのことだけ考えて生きれば良いのに、将来への不安なのか、アフリカの後のことを考えてしまう。
馬鹿な話だ。
そんなことはアフリカから帰って、山で働いて、それが終わった自由の初日にでも考えたって良い。
何も準備などしなくたって構わないのだ。
そこで働くのか働かず海外に行くのか考えてみれば良い。

ただ、やっぱり山小屋は半年しか仕事がなく、それ以外の期間をアルバイトをしないといけないのがイヤなのだ。
仕事は嫌いじゃない。ああ、嘘だ。嫌いだ。出来るなら働かずに生きていたい。のんびりチャリこいで、小説書いて。まあ、さすがにそりゃ無理だ。働くのは嫌いでも働かざるを得ない。
でも、プロフェッショナルを感じられる仕事なら良い。
雑用みたいな仕事は嫌なのだ。アルバイトは嫌なのだ。
全く働かずに半年を過ごす方法もないことはないのだが。

そんなことを考えていると、来年をどうしようかなどと、今考えてもどうにもならないような下らないことばかり考えてしまうのだ。
下らない。

そんなのならコツコツ働いて10年ばかりのんびりと世界一周の旅にでも出るのが良い。
山小屋とスキー場を五年もすれば十分だろう。
でも、それはそれで嫌なのだろう。
若い期間をあまりに長く浮き世離れしてしまうのは惜しい気がしてしまうのだろう。

わざわざ山小屋に戻ったのに、改めて山小屋、放浪の日々には向かない人間なのかと痛感させられたりする。
結局、どこにも自分の住める水はない。

そんなことを考えるのは来年の今頃で良いのだ。
もう2週間もすればアフリカなのだ。
どうしてそんな下らないことばかり考えているんだ。

濁ってしまったんだろうか。
自分は随分と濁ってしまったのかもしれない。
いつ、どうして。
どうやったら濁りが取れるんだろうか。

自分の求めていた故郷とは何だったのだろう。
ぼんやりそんなことを考える。
自分の求めていた故郷なるもの、具体的には自分にも分からないにせよ、もしかするとそれは今はもちろん昔もなかったんじゃなかろうか。
美化されていく中で頭の中に浮かんだ蜃気楼みたいなものだったんだろうか。
いや、昔は実在した気もする。しなかった気もするが、あったと思うのだ。そして、今も。

苦しいことや悲しいことはあれど、ふーん、はあ、ああ、そう、あははは、なんて生きていけるような土地なんだろうか。
桃源郷は思わない。
桃源郷を思えるほど若くはなくなった。
現実の世界にある故郷。

一口に言えば帰りたいと思える実家なのかもしれない。
言うなれば大人になれていないのかもしれない。
頭の中だけ子どもなのだ。
でも、現実には子どもではないので、子どものように遊んで帰って宿題をして、また学校に行って遊んで帰ってくるとは出来ないのだ。
大人にならねばならないのかもしれない。
アフリカは子どもの僕の最後の遊びにしないといけないのかもしれない。
もちろん、その後も海外に行きたければ行けば良い。でも、大人としていろんなことを自活して。お金がどうとかの問題ではなく。
自分の人生に自分で責任を持って遊んでないといけない。
大人になるアフリカっていうのは一つのテーマなのかもしれない。

まあ、そんなこんな。
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2016年12月04日

食中毒と死を待つ人の家?

下痢と嘔吐でトイレが友達になってまっている。どうも昨夜の七輪の会で豚が生焼けだったらしい。ノロだかどうだかは分からないが完全に食中毒だ。サルモネラとか何とかなのかもしれない。

「病院行けよ」
弟がやたらと言ってくる。
食中毒なんかのウイルス性の胃腸炎はとにかくウイルスと毒素を水などで出しきるしか治療法がない。
ただ、あまりに嘔吐下痢が激しく脱水症状が激しい場合にのみ点滴で水と養分を摂取する。ちなみに点滴も薬ではなく、ただのブドウ糖だ。ご飯1杯かそこらのカロリーだ。
むしろ、体調の悪い状態で病院に行くと、インフルエンザなんかの別の病気の感染のリスクがある。
とにかく眠って、水分を摂取し続けるしかない。出来るだけ動かず無駄なカロリーを消費せずに。

ただ、病院、医者を神様のように信じ込んでいる田舎の人々には、その辺の話はさっぱり通じない。いくら説明しても、病院こそ神様なのだ。
病院に行かずに眠っていると、実に厄介者、病原菌扱いされるにいたる。
まあ、実際に病原菌を振りまく厄介者なので仕方がない。

それにしても、マザーテレサの死を待つ人の家っていうのは実に偉大だなぁなどと思う。
ただの食中毒なので、死などは考えるわけもないのだけれどわ
病気の時くらい、死ぬ間際くらい、屋根と壁のあるところで疎まれずに人間として人間らしく扱ってもらいたい。
誰しも望むところだろう。

ましてや、ただ死を看取ってくれるだけなのだ。
多分、そういう施設は世界にないだろう。
死を待つ人の家では本当に医療行為は無いそうだ。
ほとんどがインドの乞食の人たちで、医療を受けるお金もない。
ただ、死に行く。
それを看取るだけの場所。

金銭的に医療行為を施すことが出来るボランティア施設もいくらかは作ることも出来るのかもしれない。
ただ、そうなれば治る見込みのある患者から優先して入ることになる。
さらにお金を回すからには、様々な現実的な問題も発生する。
治る努力をせねばならない。
死を待つ人の家でも治る人も中にはいるそうだ。そして、また乞食に戻るそうだ。しかし、中には治りたくない、ただ静かに死にたいと考える人もいるだろう。
死の許容とは金銭的な問題以上に道徳的に物凄く偉大なことなんだろう。

死にかけの乞食っていうのは、本当に病原菌の巣窟だ。危険だ。
さらにただ死ぬだけなのだ。
ただ死ぬだけなら、どこであろうが、どう死のうが関係ないのではないか。
理屈で考えればその通りかもしれない。
ただ、死ぬときに誰か一人だけでも自分に人間として接してくれたら、それは本当に言葉に尽くせない喜びだろう。

全ての人間を平等に死を待つ権利をくれる施設。
これはすごい。

一口に言うと、今の世界が出来ていない問題をクリアしている施設と言えるかもしれない。
安楽死の許可の問題なども世間で議題になることもある。
安楽死に限らず、我々の世界では死とは否むべき敵だ。生の最後の到達点でありながら、絶対的に敵なのだ。死んではならない。
死の問題のみならず、絶対的な敵とされていることがいくつかある。環境問題や経済の問題でも、単純に言ってしまえば、進歩発展の限界みたいなところがある。
お金も石油も際限なく掘れるわけもない。
しかし、それらを認めるのは絶対に駄目なのだ。断固として敵なのだ。

もちろん、発展の限界や死を全て許容してしまうと問題は多い。
でも、現実問題として許容は必要なのだ。死を待つ人の家の愛は、インドの乞食たちのための愛ではなく、人間に対する愛なのだろう、多分。

まあ、食中毒なんかしばらく吐いて下痢していれば勝手に治るし、屋根も壁もあるし、こうして文も呑気に書けるぐらいだから、実にほど遠い問題なんだけれど。
体調が悪くて、高熱が出るといろんな夢を見る。
そういう時になぜかマザーテレサの死を待つ人の家のことって考える。
絶対に死ぬこともないような病気なんだけど。

人間にとって何が大事なのか。
ここのところ、鬱病の問題を考えることも多かった。恋人と仕事とお金と時間があれば大抵の鬱病は治るという。恋人がいるだけでも駄目だし、仕事ばかりで時間がなくても自殺するし、お金が無くても駄目だし、お金も時間もあっても仕事がないと駄目だ。

でも、現実問題として、恋人、仕事、お金、時間、その全てが揃う生活なんてなかなか難しいのだ。
普通に仕事があって、奥さんと夫婦円満で、休みもそれなりにあって、お金も困らなくって。
現実にはそんなの難しいのだ。

何だか気付くと、そんな難しいことが出来て当たり前のような世界になってしまいつつある。
仕事があるのは当たり前。収入もある程度あるのは当たり前。年間休日もある程度あって当たり前。ある程度の歳になれば結婚もしてて当たり前。
いろいろと当たり前。

現実にはそんなことなかなか出来ない。

死の許容じゃないが、ニートの許容、定収入の許容、独身者の許容、そういうのは社会は持ってないといけないのだ。

まあ、国保やら年金なんかでもヒドいシステムだ。
徹底的に貧困なんかを否定している。
失業したりすると、絶対に支払えなくなってしまう税を国民に強制している。労働の義務と言えど、失業の可能性はどんな場合にもある。
収入から税金を引かれて、消費税でも引かれて、さらにお金を出しなさいと言うわけだ。ちょっと無理がある。所得税で一括で引いて下さいとみんなが思っているだろう。払い忘れたり、払えなくて困っている人は少なからずいるだろう。延滞金の利息もかなりの金額を取ってくる。なぜあんなシステムが一方的に押し付けられているのかは謎だ。国民が全員強制加入なのだから、税金で賄われるべきシステムだ。窓口業務なども考えると実に無駄の多いシステムだ。
まあ、今回はそこはおいておくけど。

弱者の存在の許容。
死の許容。
どうしたって死は来る。
死は汚くて恐ろしいものだ。誰も受け容れたくないもの。
マザーテレサの死を待つ人の家はすごい。まず普通の人間じゃ思い付けない。

とりあえず、食中毒、早く治らないかな。
熱は下がったものの、ほとんど食べられないのでしんどい。歩くのさえしんどい。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 23:07| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月03日

火の踊り。

久し振りに火を振る。
ズアッと音がする。

火を振るっていうのは大道芸人やジャグラーの間で、ファイヤーダンス系の道具で遊ぶという意味だ。
鎖の先に火の玉を付けて振るのがファイヤーポイ。
身長くらいの棒の両端に火を付けて振るのがファイヤースタッフ。
あとはトーチやデビルスティックやら実に色々なファイヤー系のアイテムがある。

とにかく灯油を染みこませて火を付けて振り回す。
一見すると危なそうだけれど、服に引火したりしないかぎりはさほど危なくない。
見た目ほどにスリルはなかったりする。
もちろん、危ない技もあるし、たまに火傷もするんだけれど。
まあ、実に火遊びだ。

火を体の周りで振り回すと不思議なまでに楽しい。
どうしてこうも楽しいのかと思うほどに楽しい。
人間の本能に訴えかけてくるような興奮がある。アフリカな気分の昂揚感。

そういえば日本人で世界的に有名なファイヤー系のパフォーマーも、昔、ファイヤーを始めた頃、アフリカへと修行に行ったそうだ。
その人は30くらいまで普通に飲食関係の仕事をしていたのが、ある日ファイヤーポイを偶然知って、ふとハマって、ひょいとアフリカに修行に行ってしまったのだそうだ。
まあ、すごい。

ちなみに僕は何の修行というわけでもなく、何となくアフリカだ。とりあえずアフリカ。
それはそれである意味すごいのかもしれないけれど。

それにしても、ケニー君は実にいいやつだ。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 00:36| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月01日

話すこと。

高塚と久し振りに話したら、驚くほどに面白かった。というか、驚いた。こいつ、すげーな、と久々に思った。

人間の話の面白さは、いろいろな要素があれどやはり膨大な知識量ってのはあるだろう。
勉強が出来るとか物知りとかじゃなく、知識量だ。
高塚の面白さは背景の知識量が本当に膨大なのだ。
物知り云々じゃない。
知識とは知識だ。

知識量はなくとも話が面白いという人も時々はいる。
ただ、ごくまれだ。
現実には話が面白い人っていうのは人とよく喋るので、いろんな知識を持っている。
講演会のような一方通行の会話ってのは基本的には世の中には存在しないからだ。
会話とは必ず相互的に言葉が行き交うものだ。知識が入って来るものなのだ。
同時にアウトプットの際には構築と淘汰が必ずある。
会話を多くするのが話の面白さを手に入れる一番の方法だろう。

言葉は情報という側面と音とリズムの側面がある。
知識は主に情報に属する能力だ。
リズムが一番重要だ。
どのタイミングで言葉が入るか、それが全てと言っても良いかもしれない。
ただ、リズムをよくするには、情報量もやはり重要なのだ。情報量がないとリズムに乗って話を続けられない、弾切れになる。
さらに弾が豊富にあれば、余裕が出来る。相手に撃たせてやるだけの余裕。
こちらが話すことはいくらでもあるとなれば、急いで話さずとも余裕がある。

情報量はあるのに、話が面白くない人間もいる。たとえば講義が下手な大学教授なんかだろう。
ひとえにリズムの悪さゆえだ。

音の高低は感情が帯びる。

んー、ねむい。
そんなこんな。
posted by ちょろり at 23:17| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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「まじめなんですねー」
そんな言葉に感動したりする。
そうだな、こんな生き方してりゃ、もっと軽く遊ぶことだけ考えて生きてるんだろうな、って思うのが普通なのかもしれない。
「好きなことやってなんとか生き続けるとか良いと思うっすけどねー」

倉敷に帰るのは多分これが最後なのかもしれないなと思う。
倉敷はやはり良い街だけれど、倉敷には多分僕は縁が無いのかなぁと感じる。
すごく好きなんだけれど。
多分、縁はないと思う。
単なる直感なのだけれども。

直感の信憑性ってのは案外高い。
直感ってのは、理由もなく何となく感じる感覚のことなんだけれど。そんなのってやっぱり潜在意識なんかと関わってくる。

直感は先に立つのだ。
何かがあって何となく思ってこうなるではない。
何となく思ったことは記憶の底に居続けてこうなって、何かが起きるのだ。

直感の悲しさはコントロール出来ないことだ。
ふと落ちてくる。
それは自分の意志に関係ない。
そのくせ、勝手にこちらの人生に信憑性なんかもってくる。

職人さんにいろんな話を聞く。

ああ。ねむい。
金のことやら なんか抜きにすれば、やっぱり楽しいんだろう。
そんなところで、金のことなんて。

センスの悪いうごきはいけないな。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 01:40| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月30日

出来ないってのも意外と。

ペンキ屋さんに心洗われている。
服や体は汚れるけれど。

ペンキ屋さんでもらえるお金もきちんと旅行資金にするのが正しいあるべき姿なのだけれど、飲みに出掛けるから半分ほどしか残らない。

倉敷の飲み屋に行けるのは、僕の人生の中で限られている。
多分、松本にせよ福生にせよ。
もしかすると、そのいずれかに定住するかもしれないにせよ、定住しないだろう町の方が多い。
何せ体はひとつしか無いので定住できる町はひとつなのだ。

気に入った町ではいる間に行けるだけ飲みに行きたい。

お酒をカッコイイなどと夢見る歳でもなくなったけれども。
お酒を飲むっていうのは、面白い遊び方のひとつだろうなというのは間違いないと思う。

町が見える。
バーのある町、ない町。
安くて上手い居酒屋があるかどうか。

お酒を飲むっていうのは、お金も使うし、翌日の仕事も疲れる。
割と力を使う遊びだ。
代価が大きい。
スマホのゲームなんかはほぼ代価ゼロだ。正確に言えば代価ゼロのように感じやすい。お金を使わず暇をつぶせる、経済的なように見える。

でも、スマホのゲームは暇を失ってしまう。
暇を潰すってのは難しい。
どんなに忙しい人間にも暇って言うのは存在する。
そりゃ、自分のためだけに世界の全てがスケジュールを組んでくれているわけじゃないから。

ぽかんと浮いた暇を潰すのにスマホのゲームは便利だ。

でも、暇をそう安易に潰してしまっても良いのか。

フェスやキャンプなんかが若者の間でいくらか流行っている。
フェスについてはよく知らないけれど、キャンプなんてのはのんびりと肉でも焼きながら暇を過ごして嗜む遊びだろう。
スマホのゲームで暇を潰しておきながら、休暇とお金を使ってキャンプという暇を嗜む遊びをする。

そう、暇は暇で人間にとって大事なのだ。
ニートが悪く言われる世の中、いや、大昔から人間の共同体ではニート的な人はうとまれるものだったにせよ。
ニートの存在って言うのはものすごく社会を円滑にすると思うのだ。

ペンキ屋に行っていて同じようなことを思う。僕の主な仕事は掃除、物を運ぶことだ。職人さんの助手なわけだ。
僕はペンキなど塗れない。
でも、だからこそ便利なのだそうだ。
職人さんは掃除とか誰でも出来るようなことはしたがらない。
もちろん、それはもらっている給料に見合う専門的技術を使うことを優先するということもあるのだが、単に掃除だの何だのっていうのは、結構疲れる。
窓に散ったペンキを落とすには、カッターナイフとシンナーが必要だ。シンナーを布につけてふやかしてこするのだが、シンナーってのは冷たい。手も荒れる。

誰でも出来る仕事っていうのは意外と、人を宛てるのが難しい。塗ったり出来ない手伝いの人間っていうのは、出来ることなんて本当に掃除とちょっとした助手だけだ。
だから、面倒な掃除をたのまれても一生懸命やる。
一見、ロクにローラーもペンキもできない人間なんて役立たずに見えて、意外なまでに便利で重宝してもらっている。

出来ないってのは意外と役に立つんじゃないかなと思う。

ニート問題も案外同じで。
出来ない人間って言うのも必要なんじゃないかな。

まあ、そんなこんな。
posted by ちょろり at 01:20| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月29日

ペンキシュルシュルレアリスム。

ペンキ屋さんというのは不思議なもので行くと元気になる。
ペンキ屋さんの人たちは基本的に言葉が荒い。ガラが悪い。
普通の人が何も知らずに聞くと、ケンカしてるのかと思うほどに言葉が悪い。

職人さんにもいろいろあるし、その中でもやりたいかどうかの人気ってのがある。
ペンキ屋さんっていうのはとにかく汚れるので人気がないのだ。配管工なんかも人気がない。
左官屋さん、大工さんは人気がある。何せ職人っていう感じがする。ただ、どちらも技術的にとても難しいので根性がいるし、厳しい。
足場屋さんは給料が良いし、技術というより力があれば何とかなる。ただ腰を痛めやすいとかがある。
ペンキ屋さんはイメージに反して技術がいる。ただ塗るだけじゃいけない。綺麗にムラなく的確に塗りたいところだけを早く塗るというのは物凄く難しい。塗料の性質なども様々だ。それでも、イメージとしてはただ塗るだけみたいに思われるところがある。

まあ、ペンキ屋さんは、とにかく汚れる、さらに意外に難しいというわけでいまいち人気がないらしい。

職人さん仕事に限らず、人気のある仕事には最初から良い人材が集まりやすい。たくさん人が来れば、その中から良い人材を選り好みすれば良い。
人気の無い仕事は選り好みが出来ない。

人気のない仕事はみんなしたくない。そんなわけで、若い頃ヤンチャで手が付けられなかったような人が多いわけだ。

でも、そういう元ヤンチャな人たちは、実に仕事をきちんとする。
「早く帰りてぇのぉ、わし、実は仕事って嫌いなんよ」
と毎日言っているが、仕事は実にキッチリやる。
大卒のエリートなどと違って、後ろ盾がないのだ。腕がなければ食えない。仕事が出来なけりゃ、ただのカス。本来、大卒のエリートだろうが誰でも仕事が出来なけりゃカスなのだが、そのことを骨身に滲みて分かっている。
仕事が出来ない、稼げない、これは彼らの中でカッコ悪いことなのだ。
だから、仕事は実にきちんとする。
ただ、仕事は嫌いで早く家に帰りたいのだ。

そして、パチンコとスマホのゲームをよくする。
話を聞いていると、別にどちらも好きというわけじゃないらしい。
時間を潰すためと、仲間内で盛り上がるためにやるのだ。
ブルジョアのおばさんが美術館に行くのと同じだ。別に絵など大して好きなわけでもないけれど、時間も潰れるし、おばさん仲間で話のタネになるわけだ。
「あらまあ、わたしもこの前ダリ展行きましたよ」
っていう具合で。
ブルジョアおばさんにダリのシュルレアリスムなんて全く縁も無い気がするのだが、誰でも名前を知っている有名な画家の展覧会にはおばさんたちは行くのだ。
もちろん、絵が好きなおばさんも中にはいるのだろうが、好きでもないおばさんの方が多いだろう。絵の好きなブルジョアおばさんが多ければ、もう少し画家なんかが育つ土壌も日本にあっておかしくないだろう。
スマホのゲームとパチンコとは実に全く同じ物だ。

まあ、そんなわけでペンキ屋のおじさんたちはスマホのゲームとパチンコをよくしているわけだ。
基本的にスマホのゲームってのは、パチンコが好きな人にウケるように作れば当たる。
パチンコとは実に偉大な時間つぶしだ。
僕にはまだパチンコの面白さはいまいち分からないけれど、
・一人でいつでも行けて、
・あわよくばお金が増えて、
・暇だったりしんどいとかなく、時間が程良く潰れる。
そういう遊びは人間の心を掴む。

ビジネス書にはそういう仕事を綺麗な言葉で勧めるものが多い。
「ユーザーの人生が豊かになるものを提供せよ」
と。
確かにその言葉は真実だ。
結果論としては、全ての生産物はそうなるとベストだ。
ただ、それを技巧的に工夫を凝らして狙ってしまうと、不思議なことに上手く行かないのだ。
むしろ、ユーザーの人生などどうでもよく、自分の人生が豊かになるよう、自分を愛してくれている人たちだけが理解してくれ喜んでくれるようなもの。
そんなのが不意に当たったりする。

ただ、本当にそんな傲慢なスタンスでやるものっていうのは当たっても期間が短い。一部のファンでさえずっとは継続できない。すべからくそうなのだ。例外はない。
ダリにしたってそうだが、ダリは人間の感覚の向こうのものであるシュルレアリスムをやりながら、実にいろいろな媒体に作品を出している。
伝えたい物自体は変わらないのだ。シュルレアリスムの考え方が好きなのだ。しかし、やり方はシュルレアリスムの逆でより多くの人に伝えようとした。しかも、出来うる限り分かりやすい形で。

ダリの映画「アンダルシアの犬」こそダリを語っている。
「アンダルシアの犬」は全ての芸術の中でも現在最も真理に近い完成された作品だろう。
まず心を叩く。
そのやり方はひどく乱暴でもある。
目玉をカミソリで切る。ただ切るだけだと、何でもアリのグロテスク作品なのだが、月が雲を横切るのに合わせて目玉を切る。
ひどく乱暴なやり方だ。
誰しも思う、考える前にショックを受ける。
グロテスクだ。
しかし、単なるグロテスクじゃなく、月にかかる雲の動きと合わせると、不思議なまでに美しさがある。
葛藤が起きる。ひどく残酷な描写だと思うのに、心の底では妙な美しさを感じてしまっている。
これがシュルレアリスムの極地のひとつだろう。
普通では、その二つの感情は組み合わさらない。普通の思考回路ではそういう二つの感情が交差するものというのは考えつかない。
世界を崩壊させることで初めて出現する。

シュルレアリスムのやり方というのは、徹底的に向こう側だ。
こちらの世界にももちろん素晴らしいものはたくさんある。ただ、こちらの世界ではどうしても存在できない物、それでいて人間が本能的に求めるもの。
そういうものを掘り出すだめには、徹底的に向こうの世界じゃないといけない。
それも、安い向こう側ではいけない。

「アンダルシアの犬」という作品は実にそういうった成功例だろう。
絵、メイク、音楽、構成。
全てが完璧な形だろう。

ダリの絵自体はさほど好きでもない。
ハッキリ言えばしつこい。
もちろん、いろんなことをしているにせよ、あまりに一貫性がありすぎる。
溶けた時計とアリ、これは素晴らしい発明だ。
砂漠と海と人工物、これもスゴい発明だろう。
しかし、しつこい。
好きには好きだけれど、変にしつこさのイメージが僕の中では勝手に持っている。

脱線しているけれど。
ダリとスマホのゲームを一緒にしたら叱られるのだろうか。
もちろん、ダリ自身はスマホのゲームの真逆のことをしようとした。手軽な暇つぶしの真逆。
しかし、その結果は、シュルレアリスムを越えたレアリスムだろう。

普通に考えれば、スマホのゲームなんて人間がハマるはずなどない。
それが不思議とハマるものになる。
しかし、誰もそれを愛していない。
しかしながら、それをし続ける。

本来、ありえないのだ。
あり得ない向こうにギクリとするような本当の世界があったりする。

眠い。

そんなこんな。
posted by ちょろり at 00:42| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする